空海の入唐までの経歴については、『三教指帰』の序文から次のように語られてきました。
「十五歳で上京し、外舅阿刀宿禰大足について漢学を学び、十八歳で大学明経科に入学した。あるとき「一沙門」と出会い大学を辞し、「虚空蔵求聞持法」を修することで仏教に傾倒し、そして延暦16年(797)に『聾瞽指帰』を著して出家宣言を行い、さらに仏道修業に専念していった
「卒伝」の記述は、「一沙門」との出会いが記されています。そして山林修行を経て「聾瞽指帰(改訂されて三教指帰)」執筆に至たという経過です。しかし、ここには「大学を辞した」ということについては何も触れられてはいません。大学を二・三年で退学したというのは、あくまで想像です。
これに対して、空海は大学を中退していないのではないのか、きちんと卒業した後に『聾瞽指帰』を描いたのではないかという説が出されています。今回は、これを見ていくことにします。テキストは 牧伸行 入唐前の空海 です。
空海については分からないことが多いのですが、どうして得度したばかりの無名の僧侶が遣唐使の留学僧に選ばれたもその疑問の一つです。大学を卒業後していれば、充分な資格を有していたことになります。
この参考例になるのが吉備真備のようです。
彼は下級武官下道朝臣国勝の子ですが入唐前に從八位下を授位されています。そこに至る経過を見てみると、15歳前後で大学に入学し、六・七年を経て貢試、その結果「進士甲第」という成績を納めて、養老選叙令秀才出身条によって従八位下を授位されます。その上で、入唐留学生に選ばれます。
つまり、大学寮出身コースから入唐留学生へという道を歩んでいるのです。ここからは、六・七年という年数が、当時の大学を卒業するのに要した年数と考えることができます。この年数は空海が大学に入学し、その後延暦16年(797)までの消息の分からない空白の期間とほぼ一致すると研究者は指摘します。
つまり、大学寮出身コースから入唐留学生へという道を歩んでいるのです。ここからは、六・七年という年数が、当時の大学を卒業するのに要した年数と考えることができます。この年数は空海が大学に入学し、その後延暦16年(797)までの消息の分からない空白の期間とほぼ一致すると研究者は指摘します。
空海は大学において、どの課程に属していたのでしょうか?
このことについて空海自身は何も述べてはいませんし、卒伝にも何ら記述はありません。ただ『空海僧都伝』には、次のように記されています。
入京時遊大學。就直講味酒淨成。讀毛詩尚書。問左氏春秋於岡田博士。
ここに「岡田博士」から左氏春秋を学んだとあります。これは『続日本紀』延暦十年(791)12月丙申(十日)条に、「外從五位下岡田臣牛養爲大學博士」とある大学博士岡田牛養と研究者は考えます。そうすると、この年は空海が中央の大学へ入学した年でなので、岡田博士が岡田牛養で実在の人物と推測できます。
職員令大学寮条には、博士・助教・音博士・書博士・算博士のコースがあって、このうち博士は「教授經業」を担当しています。さらに、学令博士助教条に「凡博士助教。皆取明經堪師者」とあるので、明経博士であったことが分かります。以上から、空海は当時の大学において本科であり、かつ主流であった明経道に在籍して経道を学んでいたとするのが定説のようです。
明経道を学ぶ学生が、同時に儒教・道教・仏教の知識を得ることはできたのでしょうか?
聾瞽指帰 登場人物が最初に記されている
『聾瞽指帰(空海が50代になって改稿したのが三教指帰)』は、儒教を「亀毛先生」、道教を「虚亡隠士」、仏教を「仮名乞児」の3人の登場人物がそれぞれの長所を主張し、議論を戦わせるという「対話討論形式」の芝居仕立ての展開が取られます。まるで戯曲を読むような印象を受けます。亀毛先生の儒教は、虚亡隠士の支持する道教によって批判されます。最後に、その道教の教えも、仮名乞児が支持する仏教によって論破され、仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で最善であることが示されます。これは論理的に云うと「弁証法的な手法」で、「日本における最初の比較思想論」で、「思想の主体的実存的な選択を展開した著作」と「ウキ」には評価されていました。そんな風に私は見たことがなかったので「ナルホドナ」と感心しました。
聾瞽指帰
当然、「聾瞽指帰」の中には、多くの文献が引用されることになります。
研究者が数えると、引用件数は漢籍類69種・仏典関係59種になるようです。引用されている69種の漢籍類のうち、『周易』『尚書』『周礼』『儀礼』『礼記』『毛詩』『春秋左氏伝』『孝経』『論語』は、明経道で教科書として使われています。紀伝道(文章道)の教科書である三史(『史記』『漢書』『後漢書』)『文選』『爾雅』も引用されています。これは、空海が在籍していた明経道だけでなく、他の課程についても造形が深かったことがうかがえます。
また空海は15歳の時から叔父の阿刀大足から学問の指導を受けていたと自ら述べています。これらの知識的蓄積があって書くことができたものです。。
「聾瞽指帰」は、延暦16年(797年12月23日)に書き上がってきます。空海24歳の著作になります。大学入学は18歳の時でしたから、それから6年後のことです。この時点で空海は、大学を卒業していたと研究者は云うのです。
「聾瞽指帰」の中で道教の部分については、論旨が最も弱く不明確であると研究者からは指摘されています。
つまり空海の道教理解は、不十分であったようです。その理由として、我が国では教団道教が根付かなかったことが挙げられます。道教という宗教組織としてではなく老荘思想・老子的心境といったものの理解の方が中心に行なわれていたためのようです。そのため『淮南子』『神異経』『神仙経』『荘子』『抱朴子』『列仙伝』『老子』『老子経』『老子内伝』等の一通りの道教経典に目を通すだけの、専ら書物からの理解のみを行ったとします。
それに対して、仏教については、「聾瞽指帰」を書いた24歳の時点で、かなり深い理解があったと研究者は考えているようです。このことは、「仮名乞児論」の内容及び引用文献から見えてきます。
そして24歳になって大学を卒業する段階になって、さてどうするかということになります。 三教指帰は、大学卒業と虚空蔵求聞持法修行をひとまず終えた空海が、どの方角へ向うか考えた末の産物だったのではないでしょうか。
しかし、これを書き上げたときの空海は、まだ仏門には入っていなかったと研究者は考えいます。
虚空蔵求聞持法を始めたときの空海は、これが仏教の修行とは思っていなかった形跡があります。求聞持法を「一切の教法の文義暗記」のために行ったと空海は称しています。何のための文義暗記か。大学を辞めていなかったとすれば、「大学での勉学」のためと考えるのが自然ではないでしょうか。この時点では、仏典暗記とは云えないことは先述したとおりです
大学での儒学修得にあき足りなさを感じた空海は、肉体的な修行に飛びこんだことが考えられます。それはあくまで大学の勉学のためのサイドワークで、仏教修行とも考えずに始めたということになります。
聾瞽指帰の仏教に関する内容も山林修行の実践を終えて身を以て体験した内容ではなく、むしろ、道教と同じく書物からの理解だったとします。つまり、「聾瞽指帰」を書いた24歳の時点では、山林修行者として経験に基づく記述内容は、今だ見えないと云うのです。そして24歳になって大学を卒業する段階になって、さてどうするかということになります。 三教指帰は、大学卒業と虚空蔵求聞持法修行をひとまず終えた空海が、どの方角へ向うか考えた末の産物だったのではないでしょうか。
空海が大学在籍中には、南都六宗は諸寺は姿を見せていました。
奈良盆地のそれらの寺院は、文明開化のモニュメントであり、文化センターの役割を果たし始めています。その中で空海が仏教を学び、仏典類の閲覧を行なうためには、大学生という確かな身分を持っていた方が都合が良かったのではないでしょうか。逆に、大学生という身分を捨ててしまえば、これらの寺院への出入りも出来なくなります。
奈良盆地のそれらの寺院は、文明開化のモニュメントであり、文化センターの役割を果たし始めています。その中で空海が仏教を学び、仏典類の閲覧を行なうためには、大学生という確かな身分を持っていた方が都合が良かったのではないでしょうか。逆に、大学生という身分を捨ててしまえば、これらの寺院への出入りも出来なくなります。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
①の20歳の得度を、そのまま受けいれる研究者は少数派です。ここには空海が「山林修行」をおこなったことは、どこにもでてきません。あるのは『大日経』を捜し求めたことだけです。大日経を捜し求め、久米寺の東塔で見ることができたと記されます。正式の得度を受けていない沙門が国家管理下の国営寺院に出入りが許されたのでしょうか。ここからも大学生の身分であった方が仏教を学ぶとしても活動はやりやすかったように思えてきます。
大学に在籍し、サイドワークとして道教・仏教についての知識を学ぶ時間的な余裕はあったのかを研究者は見ていきます。
学令先読経文条には、次のように記されています。
「凡學生。先讀經文。通熟。然後講レ義。毎旬放一日休假」
ここからは毎旬(十日毎)に一日の割合で休暇が認められていたことが分かります。
同令請假条には、次のような規定があります。
凡學生請假者。大學生經頭。國學生經所部國司。各陳牒量給
臨時の休暇願の手続きの規定があり、同令放田假条では、
凡大學國學生。毎年五月放田假。九月放授衣假。其路遠者。仍斟量給徃還程。
田假・授位假に関する規定が定められていて、ある程度のまとまった期間の休暇があったことが分かります。そして、同令不得作楽条には、極端な例ですが、次のように記されています。
凡學生在學。不得作樂。及雜戲。唯彈琴習射不禁。其不率師教。及一年之内。違假満百日者。並解退。
学生の日常生活の心得に関する規定の中に、「違假満百日者。並解退」とあるので、百日未満であれば「不正休暇」も大目に見られていたようです。
以上から、大学在学中であっても、道教・仏教の知識を深めて行く時間的な余裕は作り出す事ができる環境であったことがうかがえます。
それでは大学に在学しながらも「仮名乞児論」のように「或登金巖。而遇雪坎。或跨石峯。以絶粮軻。」というような修行を行なうことができたのでしょうか。
役小角に代表されるような山岳修行者、私度僧たちは古くからいたことが分かっています。それは空海が開いたとされる霊場が、空海以前にすでに信仰対象とされていたことからもうかがえます。独古や三鈷・錫杖をもった修験者が讃岐の大川山の周辺で修行を重ねていたことは、中寺廃寺跡から出土した古式様式の三鈷の破片からも分かります。空海に実体験は無くとも見聞による著述は決して不可能ではなかったと研究者は考えているようです。
また、大学在学中であっても、一定期間の休暇は認められていました。
さらに『聾瞽指帰』の日付である延暦16年(797)は、大学卒業に必要な六年、国学・大学を通じて就学可能な期限である9年を経た翌年に当たります。つまり、15歳で国学に入学してから数えて9年目、空海24歳の年に当たると云うことです。10年間の在籍が認められていたので、空海は大学を辞すること無く、一年間は仏道修行を行なうことができたことになります。
その1年を利用して「卒業研修」として「阿波國大瀧之嶽」「土左
さらに『聾瞽指帰』の日付である延暦16年(797)は、大学卒業に必要な六年、国学・大学を通じて就学可能な期限である9年を経た翌年に当たります。つまり、15歳で国学に入学してから数えて9年目、空海24歳の年に当たると云うことです。10年間の在籍が認められていたので、空海は大学を辞すること無く、一年間は仏道修行を行なうことができたことになります。
その1年を利用して「卒業研修」として「阿波國大瀧之嶽」「土左
國室戸之崎」で山林修行を行ったということも云えそうです。四国の辺路修行場であり、大学卒業後に故郷四国の修行地を回ったと考えることも可能になります。そう考えると、空海が修行のために大学をドロップアウトしたと考える必要はなくなります。延暦15年(796)に大学を卒業し、その実践のために山林修行に四国に向かったという話もできそうです。
その場合に、空海が「一沙門」と出会ったのは延暦16年(797)以降と考える必要はなく、空海の仏教に対する造詣の深さを考えると、短期間に独学で学んだと考えるよりも、信頼のおける学僧について学んだと考えた方が現実的だとします。
以上をまとめておくと
①定説では「空海は都の大学に入ったが儒教に嫌気がさして、虚空蔵求聞持法に興味を抱き大学を中退した」とされていきた。
②しかし、根本史料には空海が大学を中退したとはどこにも書かれていない。
③空海は18歳で大学に入学後、24歳まで大学で、儒教だけでなく仏教や道教を学び卒業した。
④卒業後に、その成果として著したのが「聾瞽指帰」で、仏教の道を選択し、山林修行に入って行った。
⑤空海はドロップアウトすることなくエリートとしての道を歩み続け、それが留学僧として選抜されることになった。
三教指帰序文や御遺告に後世の作為があるとされるようになり、根本史料としての信頼性が揺らぎ始めています。その中にあって、研究者たちは信頼できる史料に基づいて空海の歩みをもう一度見直そうとしているようです。これは何十年もかかる作業になることが予想できます。「空海は大学を卒業していた」説や「空海=摂津誕生説」もそのような動きの一環なのでしょう。
その向こうに新たな空海像が描かれるのを楽しみにしています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 牧伸行 入唐前の空海