前回は京都の上賀茂神社の御厨(みくり、みくりや)と、その神人・供祭人の活動について見ました。そこからは上賀茂神社が御厨を拠点湊として、自前の瀬戸内海交易ルートを確保しようとする戦略が見えてきました。
石清水八幡宮は、豊前の宇佐八幡宮(宇佐市)が9世紀半ばに勧請された神社です。そのため、瀬戸内海を通じて宇佐八幡のある北部九州と深く結びついていました。宇佐八幡と石清水八幡の影響力は、瀬戸内海諸国から山陰、九州にまで分布する荘園と別宮によってたどることができます。それでは、八幡宮神人が拠点とした浦(荘園)を見ていくことにします。
石清水八幡神社(一遍聖絵)
今回は、上賀茂神社のライバルであった石清水八幡宮を見ていくことにします。石清水八幡宮は、豊前の宇佐八幡宮(宇佐市)が9世紀半ばに勧請された神社です。そのため、瀬戸内海を通じて宇佐八幡のある北部九州と深く結びついていました。宇佐八幡と石清水八幡の影響力は、瀬戸内海諸国から山陰、九州にまで分布する荘園と別宮によってたどることができます。それでは、八幡宮神人が拠点とした浦(荘園)を見ていくことにします。
まず山陽道沿いの荘園・別宮の分布を一覧表で確認します
①鳥飼荘には「船所」があって、瀬戸内海の西からの船が目指す海上交通の中心的な位置にあります。石清水八幡宮が創建された貞観元年(859年)の数年後には、淡州鳥飼別宮として鳥飼八幡宮は建立されたと社殿は伝えます。
②播磨国の継荘、松原荘、船曳荘、赤穂荘、魚次(うおすき)別宮のうち、赤穂は製塩地としても有名で、ここも海民的な神人の根拠地だったようです。
③備前国には牛窓別宮、雄島別宮、片岡別宮、肥土荘(小豆島)などの別宮・荘園が分布しています。
牛窓は、兵庫北関には年間121艘が入関していて、室町期には廻船の最重要拠点でした。 小豆島の肥土荘は、延喜四年(904)、大菩薩の託宣によって「八幡宮御白塩地」として寄進された荘と伝えられ、大製塩地だったことは以前にお話ししました。
肥土山八幡神社と農村歌舞伎小屋
小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡宮は、石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。肥土八幡宮の縁起によれば、「依以肥上庄可為八幡宮御白塩地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。肥土荘の別宮の神人たちは、地頭や百姓による神人の殺害、刃傷などに抗議して、しばしば「蜂起」し、神宝を動かすなど神威に訴えていたことが『小豆島八幡宮縁起』には記されています。その肥土山の神人が廻船人であった直接の史料はありません。しかし、次のような状況証拠から廻船活動を行っていたことが推測できます。
①肥土荘の下司・公文であった紀氏一族が海民の流れをくんでいること②1455(文安二)年の兵庫北関へ、塩を積んだ小豆島からの入船が23艘もあること。
ここからは「製塩 + 廻船」活動が小豆島の神人達によって活発に展開されていたことがうかがえます。さらに、片岡別宮も、江戸時代には、漁携・製塩が盛んであり、肥土荘と同じようなことを考えられます。
④備中国には水内北荘、吉河保、⑤備後国には御調別宮、椙原別宮、藁江荘などがありました。
松永湾の東岸の藁江荘(紫の枠が荘園エリア)
松永湾の東岸の藁江荘も塩浜が多く、大量の塩を社家に貢納していたことが知られます。
松永湾の東岸は、柳津や藤江の港があり、備後の表玄関に当たる場所でした。「兵庫北関入船納帳」には藁江船籍の船が何隻か見られ、当時この地が鞆・尾道と並ぶ瀬戸内の要港として栄えていたことが分かります。藁江庄の範囲は上図の通りで、北は柳津町、南は尾道市の浦崎町一帯にまで及んでいて、柳津町の西瑞には庄園の境界を意味する遍坊地(傍示(ぼうじ))という地名が残っています。庄内のほぼ中央に建つ金江の八幡神社は藁江庄の鎮守八幡と推定されます。庄園を見下ろす小高い丘の上に立てられ、かつてこの神社が京都の石清水八幡社の末社として荘園支配の一翼を担っていたことをよく示しています
⑥安芸には呉別符(呉保)、三入(みいり)保、松崎別宮がありました。
呉保は現在の呉海上自衛隊周辺
その内の呉保は、現在の呉市の海上自衛隊の基地が並ぶ宮原周辺になり、岩清水八幡の分社が亀山神社とされます。呉保の形成については、次回に詳しく見たいと思いますので、今回は素通りします。⑦周防国には石田保、遠石別宮、末武保、得善保、室積荘がありました。
遠石(といし)八幡宮
周防の末武・得善両保に関係する遠石八幡宮(といし)は、周南市遠石にあり笠戸泊も含んでいました。 徳山は海上交通の要地でもあり、江戸時代の徳山藩の歴代藩主は、ここを氏神としています。
室積荘は山口県光市の陸繋島の室積半島がつくる良湾に沿って発達した港町。平安末期の『本朝無題詩』に「室積泊」として登場し、石清水八幡宮の室積庄となります。近世の室積浦は毛利藩室積会所が置かれ、防長米の積出し港として栄えました。
⑧長門国には位佐別宮、大美爾荘、埴生荘等がありました。
埴生荘は、山陽小野田市西部の海岸平野(埴生低地)に位置し、周辺を石山山地、津布田丘陵などの丘陵地に囲まれている良港でした。今川了俊の「道ゆきぶり」、宗祗の「筑紫道記」にも姿をみせます。
瀬戸内海の山陽沿岸の岩清水八幡神社の荘園分布を見て気がつくことは、等間隔的にまんべんなく下関まで続いていることです。海の神饌や塩の奉納だけを目的とするなら、近畿周辺で事足りるように思えます。それが等間隔に並ぶのは、沿岸沿い荘園を配置し、そこに廻船人を置き、自前の瀬戸内海交易ルートを形成しようとしていたことがうかがえます。
次に、四国側に置かれた荘園を阿波から西へ見ていくことにします。
このうちで兵庫北関に出てくる「阿波の別宮」は、萱嶋荘と研究者は推測します。『板野郡誌』には、岩清水八幡宮領となった萱島荘の別宮浦には、万寿2年(1025)別宮(べっく)八幡宮(現徳島市応神町吉成別宮八幡神社)が勧請されたとあります。
別宮(べっく)八幡宮の鳥居
「離宮八幡宮文書」には、鎌倉時代末期の吉野川に「新関」が設置されて、水運の妨げになっていたことを、岩清水神社に属する大山崎油座神人が訴えた訴状があります。ここからは、京都大山崎の油座神人が原料の荏胡麻を運ぶために、吉野川を水運路として利用して、活発な活動を行っていたこと。それに対して通行税を徴収しようとする勢力がいたことが分かります。萱嶋荘は、吉野川河口に作られた荘園ですから、その流域の物資の集約と、廻船への積み替え拠点の役割を果たしていたことが考えられます。②讃岐国には草木荘(仁尾)、牟礼荘、鴨部荘、山本荘、新宮、
仁尾浦の南側にあった草木荘
草木荘は、前回お話しした京都賀茂神社の神人達の拠点となった仁尾浦にの南側に隣接します。
1158(保元三)年12月3日の宣旨に石清水八幡の荘園として「山城国祖穀庄・讃岐国草木庄・同牟礼」とあるので、この時点では石清水八幡の荘園として立荘されていたことが分かります。賀茂神社の御倉と接して、石清水八幡の庄屋があったことになります。
草木荘の位置は、今ではカメラスポットとして有名になった父母が浜の奥の江尻川河口付近が考えられています。江尻川の下流は、現在でも満潮時なら小舟なら草木八幡宮の近くまで遡れます。かつてはもう少し西側を流れていた形跡があり、西からの風波を防げる河口は船溜まりとして利用されていた可能性があります。しかし、いまでは干潟が広がり港の機能は果たせません。この堆積作用は早くから進んでいたようで、中世には港湾としての機能を果たせなくなったようです。そのため港湾機能を低下させた石清水の神人たちの草木荘は、上賀茂社供祭大(神人)らが作り上げた仁尾浦の中に組み込まれていったと研究者は考えています。
仁尾の南側の江尻川周辺に立荘された草木荘
③伊予国には、玉生(たもう)荘、神崎出作、得丸保、石城島、生名島、佐島、味酒(みさけ)郷などが分布しています。
このうち玉生荘、神崎出作、得丸保は、玉生八幡社の鎮座する松前の地にあります。
松前浜は江戸時代、千人もの「猟師」が集住する古くからの漁業第一の浦で、領分内ではいずれの浦で網を引いてもよいという漁撈特権を保証されていました。そのため松前浜は、1688(元禄元)年には、家数192軒、人数1230人におよび、漁船82艘、16端帆1艘を保有する港に成長します。松前浜の漁師は、こうした特権を背景に、1558(万治元)年、他領となった小湊村と網代(漁場)の出入りから殺害事件を起こし、元禄一三年から享保三年(1718)には、二神村と網場をめぐって相論を起こすなど、活発な活動を展開します。幕末の、天保九年(1838)には、家数507軒、住民2042人、舟数129艘という大きな港町に成長しています。
この浜村の女性たち自分たちの先祖を、漂着した公卿の娘滝姫とその侍女を祖とすると言い伝えるようになります。
そして頭の上に魚をいれた盥をかついで「松前のおたた」といわれた魚売女として活動するようになります。この他にも松前には、十六端帆の大船が何艘もあって、「からつ船」「五十集」と呼ばれる遠隔地の交易にも従事していました。 このような廻船交易、漁撈特権、その女性の魚売りなど、この地区の港町の活動のルーツは、玉生荘に根拠をおいた海民的な八幡宮神人の特権にあったと研究者は考えています。
石清水八幡宮の荘園や別宮のすべてに、海民的な神人が活動していたわけではないでしょう。しかし、今見てきたように、石清水八幡神の権威を背景とした八幡宮神人の廻船、漁携、製塩等の活動が、加茂・鴨両社供祭人とともに、活発に展開されていたことはうかがえます。
さらに注目すべきは、八幡宮の荘園・別宮が石見、出雲、伯畜、因幡、但馬、丹後等の山陰道諸国にも、濃密に分布していることです。石清水八幡宮の神人たちは、日本海西部の海上交通に深く関わっていたことがうかがえます。
以上見てきたことに加えて、石清水八幡宮は淀川の交通路も押さえることで瀬戸内海、九州・山陰にいたる海上交通に大きな力を行使していたのです。このルートを逆に通り、宋人を神人としていた宮崎八幡宮をはじめ、中国大陸、朝鮮半島からの影響が、八幡宮を通じて日本列島の内部に流入した研究者は考えています。そして、これらの荘園(浦)は、人とモノとお金と文化を運び伝えていく湊でもあったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「網野善彦 瀬戸内海交通の担い手 網野善彦全集NO10 105P」