瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:肥土荘

  前回は京都の上賀茂神社の御厨(みくり、みくりや)と、その神人・供祭人の活動について見ました。そこからは上賀茂神社が御厨を拠点湊として、自前の瀬戸内海交易ルートを確保しようとする戦略が見えてきました。

忘れへんうちに Avant d'oublier: 一遍聖絵と時宗の名宝展 一遍聖絵巻9-12
石清水八幡神社(一遍聖絵)
今回は、上賀茂神社のライバルであった石清水八幡宮を見ていくことにします。
石清水八幡宮は、豊前の宇佐八幡宮(宇佐市)が9世紀半ばに勧請された神社です。そのため、瀬戸内海を通じて宇佐八幡のある北部九州と深く結びついていました。宇佐八幡と石清水八幡の影響力は、瀬戸内海諸国から山陰、九州にまで分布する荘園と別宮によってたどることができます。それでは、八幡宮神人が拠点とした浦(荘園)を見ていくことにします。

まず山陽道沿いの荘園・別宮の分布を一覧表で確認します
石清水八幡の荘園一覧

淡路国には鳥飼別宮(鳥養荘)、矩口荘、枚石荘がありました。
①鳥飼荘には「船所」があって、瀬戸内海の西からの船が目指す海上交通の中心的な位置にあります。石清水八幡宮が創建された貞観元年(859年)の数年後には、淡州鳥飼別宮として鳥飼八幡宮は建立されたと社殿は伝えます。

②播磨国の継荘、松原荘、船曳荘、赤穂荘、魚次(うおすき)別宮のうち、赤穂は製塩地としても有名で、ここも海民的な神人の根拠地だったようです。
③備前国には牛窓別宮、雄島別宮、片岡別宮、肥土荘(小豆島)などの別宮・荘園が分布しています。
牛窓は、兵庫北関には年間121艘が入関していて、室町期には廻船の最重要拠点でした。 小豆島の肥土荘は、延喜四年(904)、大菩薩の託宣によって「八幡宮御白塩地」として寄進された荘と伝えられ、大製塩地だったことは以前にお話ししました。

舞台】山と田に囲まれた神社 - 小豆島、肥土山離宮八幡神社の写真 - トリップアドバイザー
肥土山八幡神社と農村歌舞伎小屋
  小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡宮は、石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。
 肥土八幡宮の縁起によれば、「依以肥上庄可為八幡宮御白塩地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。肥土荘の別宮の神人たちは、地頭や百姓による神人の殺害、刃傷などに抗議して、しばしば「蜂起」し、神宝を動かすなど神威に訴えていたことが『小豆島八幡宮縁起』には記されています。その肥土山の神人が廻船人であった直接の史料はありません。しかし、次のような状況証拠から廻船活動を行っていたことが推測できます。
①肥土荘の下司・公文であった紀氏一族が海民の流れをくんでいること
②1455(文安二)年の兵庫北関へ、塩を積んだ小豆島からの入船が23艘もあること。
ここからは「製塩 + 廻船」活動が小豆島の神人達によって活発に展開されていたことがうかがえます。さらに、片岡別宮も、江戸時代には、漁携・製塩が盛んであり、肥土荘と同じようなことを考えられます。
④備中国には水内北荘、吉河保、⑤備後国には御調別宮、椙原別宮、藁江荘などがありました。
備後の椙原別宮は、尾道の対岸の向島の西八幡社とされます。位置的にも、その神人が海上交通と関係していたことは十分に考えられます。

松永湾の荘園
松永湾の東岸の藁江荘(紫の枠が荘園エリア)

松永湾の東岸の藁江荘も塩浜が多く、大量の塩を社家に貢納していたことが知られます。
松永湾の東岸は、柳津や藤江の港があり、備後の表玄関に当たる場所でした。「兵庫北関入船納帳」には藁江船籍の船が何隻か見られ、当時この地が鞆・尾道と並ぶ瀬戸内の要港として栄えていたことが分かります。藁江庄の範囲は上図の通りで、北は柳津町、南は尾道市の浦崎町一帯にまで及んでいて、柳津町の西瑞には庄園の境界を意味する遍坊地(傍示(ぼうじ))という地名が残っています。庄内のほぼ中央に建つ金江の八幡神社は藁江庄の鎮守八幡と推定されます。庄園を見下ろす小高い丘の上に立てられ、かつてこの神社が京都の石清水八幡社の末社として荘園支配の一翼を担っていたことをよく示しています
⑥安芸には呉別符(呉保)、三入(みいり)保、松崎別宮がありました。
呉保 岩清水八幡荘園
呉保は現在の呉海上自衛隊周辺
その内の呉保は、現在の呉市の海上自衛隊の基地が並ぶ宮原周辺になり、岩清水八幡の分社が亀山神社とされます。呉保の形成については、次回に詳しく見たいと思いますので、今回は素通りします。
⑦周防国には石田保、遠石別宮、末武保、得善保、室積荘がありました。
遠石八幡宮・見どころまとめ・御由緒や交通アクセス、駐車場を解説 | 山口いいとこ発見!
           遠石(といし)八幡宮
周防の末武・得善両保に関係する遠石八幡宮(といし)は、周南市遠石にあり笠戸泊も含んでいました。 徳山は海上交通の要地でもあり、江戸時代の徳山藩の歴代藩主は、ここを氏神としています。
室積荘は山口県光市の陸繋島の室積半島がつくる良湾に沿って発達した港町。平安末期の『本朝無題詩』に「室積泊」として登場し、石清水八幡宮の室積庄となります。近世の室積浦は毛利藩室積会所が置かれ、防長米の積出し港として栄えました。

⑧長門国には位佐別宮、大美爾荘、埴生荘等がありました。
埴生荘は、山陽小野田市西部の海岸平野(埴生低地)に位置し、周辺を石山山地、津布田丘陵などの丘陵地に囲まれている良港でした。今川了俊の「道ゆきぶり」、宗祗の「筑紫道記」にも姿をみせます。
 
 瀬戸内海の山陽沿岸の岩清水八幡神社の荘園分布を見て気がつくことは、等間隔的にまんべんなく下関まで続いていることです。海の神饌や塩の奉納だけを目的とするなら、近畿周辺で事足りるように思えます。それが等間隔に並ぶのは、沿岸沿い荘園を配置し、そこに廻船人を置き、自前の瀬戸内海交易ルートを形成しようとしていたことがうかがえます。

次に、四国側に置かれた荘園を阿波から西へ見ていくことにします。
岩清水八幡一覧荘園一覧・四国

①阿波国の萱嶋(かやしま)荘、生夷(いくな)荘、櫛淵(くしぶち)別宮(櫛淵荘)、
このうちで兵庫北関に出てくる「阿波の別宮」は、萱嶋荘と研究者は推測します。『板野郡誌』には、岩清水八幡宮領となった萱島荘の別宮浦には、万寿2年(1025)別宮(べっく)八幡宮(現徳島市応神町吉成別宮八幡神社)が勧請されたとあります。

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別宮(べっく)八幡宮の鳥居
 「離宮八幡宮文書」には、鎌倉時代末期の吉野川に「新関」が設置されて、水運の妨げになっていたことを、岩清水神社に属する大山崎油座神人が訴えた訴状があります。ここからは、京都大山崎の油座神人が原料の荏胡麻を運ぶために、吉野川を水運路として利用して、活発な活動を行っていたこと。それに対して通行税を徴収しようとする勢力がいたことが分かります。萱嶋荘は、吉野川河口に作られた荘園ですから、その流域の物資の集約と、廻船への積み替え拠点の役割を果たしていたことが考えられます。
    
②讃岐国には草木荘(仁尾)、牟礼荘、鴨部荘、山本荘、新宮、
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仁尾浦の南側にあった草木荘
 
 草木荘は、前回お話しした京都賀茂神社の神人達の拠点となった仁尾浦にの南側に隣接します。 
1158(保元三)年12月3日の宣旨に石清水八幡の荘園として「山城国祖穀庄・讃岐国草木庄・同牟礼」とあるので、この時点では石清水八幡の荘園として立荘されていたことが分かります。賀茂神社の御倉と接して、石清水八幡の庄屋があったことになります。
 草木荘の位置は、今ではカメラスポットとして有名になった父母が浜の奥の江尻川河口付近が考えられています。江尻川の下流は、現在でも満潮時なら小舟なら草木八幡宮の近くまで遡れます。かつてはもう少し西側を流れていた形跡があり、西からの風波を防げる河口は船溜まりとして利用されていた可能性があります。しかし、いまでは干潟が広がり港の機能は果たせません。この堆積作用は早くから進んでいたようで、中世には港湾としての機能を果たせなくなったようです。そのため港湾機能を低下させた石清水の神人たちの草木荘は、上賀茂社供祭大(神人)らが作り上げた仁尾浦の中に組み込まれていったと研究者は考えています。

7仁尾
仁尾の南側の江尻川周辺に立荘された草木荘
③伊予国には、玉生(たもう)荘、神崎出作、得丸保、石城島、生名島、佐島、味酒(みさけ)郷などが分布しています。

このうち玉生荘、神崎出作、得丸保は、玉生八幡社の鎮座する松前の地にあります。
松前浜は江戸時代、千人もの「猟師」が集住する古くからの漁業第一の浦で、領分内ではいずれの浦で網を引いてもよいという漁撈特権を保証されていました。そのため松前浜は、1688(元禄元)年には、家数192軒、人数1230人におよび、漁船82艘、16端帆1艘を保有する港に成長します。松前浜の漁師は、こうした特権を背景に、1558(万治元)年、他領となった小湊村と網代(漁場)の出入りから殺害事件を起こし、元禄一三年から享保三年(1718)には、二神村と網場をめぐって相論を起こすなど、活発な活動を展開します。幕末の、天保九年(1838)には、家数507軒、住民2042人、舟数129艘という大きな港町に成長しています。
 この浜村の女性たち自分たちの先祖を、漂着した公卿の娘滝姫とその侍女を祖とすると言い伝えるようになります。
そして頭の上に魚をいれた盥をかついで「松前のおたた」といわれた魚売女として活動するようになります。この他にも松前には、十六端帆の大船が何艘もあって、「からつ船」「五十集」と呼ばれる遠隔地の交易にも従事していました。 このような廻船交易、漁撈特権、その女性の魚売りなど、この地区の港町の活動のルーツは、玉生荘に根拠をおいた海民的な八幡宮神人の特権にあったと研究者は考えています。

石清水八幡宮の荘園や別宮のすべてに、海民的な神人が活動していたわけではないでしょう。しかし、今見てきたように、石清水八幡神の権威を背景とした八幡宮神人の廻船、漁携、製塩等の活動が、加茂・鴨両社供祭人とともに、活発に展開されていたことはうかがえます。
 さらに注目すべきは、八幡宮の荘園・別宮が石見、出雲、伯畜、因幡、但馬、丹後等の山陰道諸国にも、濃密に分布していることです。石清水八幡宮の神人たちは、日本海西部の海上交通に深く関わっていたことがうかがえます。

以上見てきたことに加えて、石清水八幡宮は淀川の交通路も押さえることで瀬戸内海、九州・山陰にいたる海上交通に大きな力を行使していたのです。このルートを逆に通り、宋人を神人としていた宮崎八幡宮をはじめ、中国大陸、朝鮮半島からの影響が、八幡宮を通じて日本列島の内部に流入した研究者は考えています。そして、これらの荘園(浦)は、人とモノとお金と文化を運び伝えていく湊でもあったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」


前回に15世紀末の小豆島では、塩浜での製塩が活発に行われていたことを見ました。小豆島で生産された塩が、畿内に向かって大量に輸送されていたことが兵庫北関入船納帳(1445年)からは分かります。しかし、生産されていた塩の量と、運び出されていた塩の量に大きな差があるようです。今回は、その点を見ていきたいと思います。テキストは、 「橋詰茂  瀬戸内水軍と内海産業  瀬戸内海地域社会と織田権力」

製塩 小豆島1内海湾拡大
中世の内海湾の塩浜

前回に見た旧草壁村の塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産量は次の通りでした。
利貞名(大新開) 浜数六十五  生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、  生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
3つの塩浜の合計生産高は94石7斗2升です。15世紀末の草壁エリアの塩の生産高は年間百石足らずだったことを最初に押さえておきます。
それから約半世紀後には、どれだけの塩が小豆島から運び出されていたのでしょうか?
兵庫北関入船納帳 塩の通関表
兵庫北関入船納帳に「塩」と記されてた船荷の通関量を示したものが表7になります。ここからは、塩飽・嶋(小豆島)・引田・平山・方本・手嶋船籍の船が塩輸送をおこなっていたことが分かります。嶋が小豆島のことで、1年間の入管回数は25回、通関量は5367石です。これが嶋(小豆島)船籍の船が1445年に、小豆島産の塩5357石を積んで兵庫北関を通過したことが分かります。小豆島は、塩飽と並ぶ塩の大生産地だったようです。しかし、小豆島で生産されていた塩はこれだけではないのです。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
上表に「積荷欄記載地名」とあります。兵庫北関入船納帳には、船の積荷に「嶋330石」などと出てきます。これが「嶋産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。産地によって塩の価格が違うので、掛けられる関税も違っていました。そのためこのような表記になったようです。つまり「嶋○○石」と表記されていれば、小豆島産の塩を他の港の船が運んでいたことになります。
上表8からは、嶋(小豆島)塩について、次のようなことが分かります。
①「嶋(塩)」を積んだ他国船が54回入港したこと
②その合計積載量は7980石になること
③嶋(塩)を、積みに来島したのは牛窓39、連島12、地下1、尼崎1、那波1であること
ここからは、小豆島船で運ばれた量よりも、さらに多くの塩が牛窓船などで運び出されていたことが分かります。


兵庫北関入船納帳 船籍地毎の塩通関
上表9からは次のようなことが分かります。
④小豆島船以外の牛窓船が嶋(小豆島)塩の5910石を運んでいること
⑤牛窓船の塩の全輸送件数は43件の内の39件が嶋(小豆島)塩を運んでいいること。
⑥牛窓船の嶋(小豆島)塩占有率9割を越えて、牛窓船は「嶋塩専用船」ともいえること
小豆島船は、小豆島で生産された塩を運んでいるけれども、それだけで輸送できなくて対岸の備前牛島の船が小豆島に塩輸送のためにやって来ていたようです。以上から小豆島から運び出されていた塩の総量は次のようになります。

牛窓船他での塩輸送・7980石 + 小豆島船での塩輸送・5367石=13347石

ここからは約1、3トンの塩が小豆島から運び出されていたことになります。
本当に一万石以上の塩が、小豆島で生産されていたのでしょうか?
15世紀末の明応年間の地検帳から「大新聞・方城・午き(馬木)」で、生産されていたのは塩は年間約95石しかありませんでした。内海湾以外の池田・土庄地区でも生産されていたとしても、当時の小豆島での生産量を千石程度と研究者は推測します。50年後の兵庫北関入船納帳が書かれた時代には、それが1,3万石に増えていたことになります。
  慶長12(1607)の草壁部村宛人野治長大坂城人塩請取状には、草壁村全体で910石の塩の生産があったことが記されています。草壁一村で千石足らずなので、小豆島全体では1万石近い数値になるかもしれません。しかし、それは150年後のことです。明応年間から50年足らずで100石が900石に、生産量が拡大できたのでしょうか。
 これに対して研究者は、次のように考えているようです。
①明応年間の塩の生産高は地「大新聞・方城・午き(馬木)」など内海湾の一部のエリアの集計にしか過ぎない。
②内海湾周辺意外にも土庄・池田や北岸地域でも生産されていたことが考えられる
③小豆島では近世に入って多くの塩田が開かれており、中世にもある程度の塩田が各地区に存在した。
④江戸時代最盛期の小豆島の塩生産高は4万石近くあったので、中世の生産高も1万石を越えることもあったと推定できる。
小豆島 周辺地図 牛窓
牛窓と小豆島の関係
そして、島の北部海岸でも製塩が行われていたのではないかという仮設を出します。
それをうかがわせるのは、牛窓船の存在です。内海湾や池田・土庄などの南部の海岸には、嶋(小豆島)船籍の船が担当し、屋形崎や小江や福田集落など北部から西部の塩輸送には牛窓船や連島船が担当したというのです。確かに地図を見れば分かるように、小豆島北部は牛窓とは海を通じてつながっていました。牛窓船が伊喜末や小梅・福田などの港を、自己の活動エリアにしていたというのは説得力はあります。あとはこれらのエリアで中世に製塩が活発に展開されていたことをしめす証拠です。残念ながら、それはないようです。

小豆島 地図

 内海や池田など小豆島の南側の港が、髙松や志度・引田とつながっていたことは、小豆島巡礼の札所にもでてきます。小豆島の南側にある札所には、東讃の人たちからの寄進物が数多く残されています。また嶋の寺社の年中行事にも東讃の人々が自分たちの船に大勢乗り合わせてやって来ていたようです。ここからは、小豆島の南側は海に面して、東讃と一体化した経済圏を形成し、北側は備前との経済圏を形成していたことがうかがえます。
 中世も嶋(小豆島)塩の輸送には、次のようなテリトリーがあったことはうかがえます。
①北部海岸で作られる塩は牛窓の船
②南部海岸で作られる塩は、小豆島の地元船
小豆島の南と北では、別の経済圏に属していたということになります。そして、中世から製塩が北部や西部の集落でも行われ、そこに牛窓や連島の船がやって来て活発な交易活動が行われていたという話になります。

南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に、讃岐で初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」
というあまり目出度くない記事ですが、これが讃岐では獅子の登場としては一番が古いようです。
この縁起の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面を塗り直した」と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。その財力の背景に、島一帯に広がっていた製塩があり、廻船業があったとしておきます。製塩は嶋の一部だけでなく、全域に拡がり1万石を越える塩を生産していたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献

小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。鎌倉時代に入ると「宮寺縁事抄」神事用途雑例の中に「御白塩肥土」と記されています。
舞台】山と田に囲まれた神社 - 小豆島、肥土山離宮八幡神社の写真 - トリップアドバイザー
小豆島肥土荘 肥土八幡神社と歌舞伎小屋
肥土とは、石清水八幡宮の荘園であった肥土荘のことです。
この「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡官は、京都石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。肥土八幡宮の縁起によれば「依以肥上庄可為八幡宮御白地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。
肥土荘の荘域は、土庄町の伝法川に沿ったエリアで、 一部に小豆島町西部が含まれます。この海岸部では、製塩土器が発見されているので、古くから製塩が行われていたことがうかがえます。以後の製塩を裏付ける史料はありませんが、江戸時代にいち早く土庄・淵崎付近で塩田が開かれたことから考えても、中世以来の製塩が行われていたことが推測できます。

製塩 小豆島1内海湾
中世塩浜があった地区
室町期になると内海湾の安田周辺で製塩が行われていたことが史料から分かるようになりました。今回は、16世紀初頭の明応年間の三点の文書を見ていくことにします。テキストは「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」です。 

川野正勝氏が小豆島町安田の旧家赤松家文書から発見したのが次の3つの文書です。
Ⅰ 明応六年(1497)正月日    利貞名等年貢公事算用日記
Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記
Ⅲ 年末詳(Ⅱと同時期)     利貞名等田畠塩浜日記(冊子)
史料Ⅰは、前半が荘園内の諸行事に関する各名の負担を示したものです。後半は各名の荘園領主に対する負担分を記した算用の性格を持ちます。
史料Ⅱは利貞名をはじめとする六名の公田・田畑・塩浜・山の所在地・作人名を記したものです。利貞名は岩吉名を売買によって自分のものとするだけでなく、他名に大きな権益を持っていました。各名でも自分の権益について明確にする必要があり、その実体把握のために作られた文書のようです。
史料ⅢはⅠ・Ⅱと同じ内容のものを何年かにわたって覚書的に綴ったもので、文書中に種々の書き込みがあります。
小豆島 製塩 塩浜史料

Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

ここには塩浜として「大新開、方城、午き」の地名が出てきます。現在の何処にあたるのでしょうか
①大新開は、早新開
②方城は片城
③「午き」は早馬木
で、現在の小豆島町の草壁や安田で、近世にも塩田があった場所になるようです。

製塩 小豆島1内海湾拡大
史料Ⅱに出てくる①早新開②片城③早馬木

①の大新開は、その地名からして明応以前に開発された塩浜のようです。新開という地名から類推すると②方城、③午き(馬木)などの塩浜は、大新開以前からあったと推察できます。小豆島の塩浜の起原は、15世紀以前に遡れるようです。
製塩 小豆島 塩浜の地積表
        利貞名外五名田の地積表 塩浜があるのは3つ

塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産額を集計します。
利貞名(大新開) 浜数六十五、生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
久未分浜数十七、 十四石四升
   合計  浜数一一六
   生産高  九十四石七斗二升
六名のうち利貞・岩古・久末三名が塩浜を所有しています。.利貞名六五・岩吉名一六・久末名三五 計116の塩浜と3の荒浜があります。また「国友の屋くろ」「末次と久末との屋とこ」と記されています。ここには塩水を煮詰める「釜屋」があったことがうかがえ、塩浜であったことが裏付けられます。

製塩 小豆島 塩浜の地積表2
   明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

久末名畠坪在所之事の中に、次の記事があります。
①「午き(馬木) 十代 国友ノかまやくろニ在 久末下人太夫二郎作」、
②「午き(馬木) 末次ノかまやくろニ久末ノかまやとこかたとこ在、つほニ在、此つほ一 末次百姓三郎五郎あつかり」

これも塩浜が午き(馬木)付近にあったことを裏付けます。
さらに①の太夫二郎は、久末名塩浜作人にもその名が出てきます。釜屋と製塩の結びつきを示すものです。また、「つほ二在」は製塩用の壺のこと、利貞名出坪在所之事の中に「釜屋敷 十代 入新開在 但下人共作」とあつのは、釜屋敷の名から見て大新開にも塩釜があったことが裏付けられます。

製塩 自然浜
中世の塩浜

「大新開、方城、午き」の塩生産額を集計すると
九十四石七斗二升
になります。これは旧草壁村エリアの利貞名主の勢力範囲だけでの生産高です。これに池田、淵崎、土庄などの塩浜を併せると約700石程度の塩生産が行われていたと研究者は推測します。

15世紀末の明応期の塩浜生産方式については、次のようなことが分かります。
①矢張利貞、岩吉、久未などの有力名主の所有する下地を、下作人として後山の八郎次郎、かわやの衛門太郎などが小作していたこと
②有力名主は「三方の公方」に、生産高の1/3を年貢として収めている
③「三方の公方」は領家である三分二殿、三分一殿、田所殿の三者のことだが、これが誰なのかは分からないこと
④ここからは塩浜の地下中分されていたことが分かる
⑤名主の小作に対する年貢率は、まちまちで名主の勢力関係に依る
⑥68%の年貢を収めさせている岩吉名の利貞名主の圧力が強かったことがうかがえる。

網野善彦氏は、塩の生産者を次の3つに類型化します
①平民百姓による製塩
②職人による製塩
③下人・所従による製塩
この類型を小豆島の場合に適応するとどうなるのでしょうか。
 塩浜作人で田畠を持っているのはわずか4人です。利貞名では兵衛二郎、岩古名では四郎衛門、久末名では助太郎・大夫二郎です。そのうち利貞名に見られる大西兵衛二郎は、大西垣内として屋敷を所有する上層農民です。兵衛二郎以外は少数の田畑を所有するにすぎません。つまり名主が塩浜の権益を有し、作人の多くは名主の支配のもとで、請負による製塩を行っていたと研究者は考えています。小豆島の場合は、3類型の全てが混在した形態だったようですが、おおくは小作であったようです

 塩浜作人は塩山を所有していました。
弓削島荘では、塩浜が御交易島とともに均等に住民に分割保有されるようになります。その時に塩山も分割されました。この結果、塩山・塩浜・塩釜・畠がセット結合した製塩地独特のレイアウトが出来上がり、独自の名主経営が成立します。
 それを見てみると、各名には屋敷の垣内の周辺には畠、前面の海岸地帯に塩浜、後背地には塩山というレイアウトが姿を現すようになります。これは小豆島も同じようです。
 例えば、岩吉名には山が四か所あります。そのうちの一つである西山について「ま尾をさかいにて南ハ武古山也」と記されています。明応七年の岩吉名浜作人に「西山武吉百姓四郎衛門」とあり、西山に四郎衛門所有の塩山があったことが分かります。同じ様に、利貞名山のうちで、
天王山に成末
かいの山に米重・武古
岩古名山竹生に重松と
浜作人として成末百姓大夫郎・武古百姓新衛円・重松八郎二郎
利貞名に、米重百姓孫衛門・助太郎が久末名にあります。
これらは塩山として浜作人が所有していたと研究者は指摘します。
 山のすべてが塩山ではなかったかもしれませんが、製塩に使う燃料として使う木材がここから切り出されていたことは間違いありません。讃岐でも早くから塩山があたことが知られています。小豆島の史料に見られる山も塩山だったと研究者は考えています。
利貞名においても、屋敷の周辺に余田があり、屋敷地とされる場所の前に塩浜が広がります。その後背地に塩山という配置です。これは、弓削島荘と同じです。
研究者が注目するのは史料の中に何度も出てくる「一斗七升ニ延而」という数字です。
「延而」は平均してで、「定」はきめて(規定)の意味です。では「 十七升」とは何なのでしょうか。「一斗七升」は「年貢一反きた中」とあるので、一反当たりの年貢基準を示す数値と研究者は考えます。これは弓削島荘の御交易畠における塩の麦代納と、おなじ性格で、本来畠にかかる年貢を塩で代納していたことが分かります。弓削島荘では、畠一反当たり麦斗代は一斗~一斗五升でした。小豆島では麦斗代が弓削島よりも少し高い一斗七升だったようです。

またⅡの史料には「三方ノ公方」とあります。
名主が「三方ノ公方」へ年貢を上納しています。「三方ノ公方」とは、三分二殿・三分一殿・田所殿の三名です。建治九年(1275)以前に、領家方(東方)と地頭方(西方)とに下地中分されて、領家方は三分二方、三分一方に分かれ、田所も自立した状況であったようです。この三者を「三方ノ公方」と称していと研究者は指摘します。

中世の瀬戸内海の島々では、田畠・塩浜・山が百姓名に編成され、百姓たちにより年貢塩の貢納が請負われるようになります。
東寺領である弓削島荘の場合は、百姓が田畠・塩浜を配分された名を請負って製塩を行い、生産された塩を東寺へと送っています。小豆島では明応九年(1500)の「利貞名外五名円畠塩浜等日記」に、六つの名の円畠・塩浜・山の所在地・作人名が記されていました。塩浜は測量されずに、浜数を単位としています。また作人は百姓・下人・かわやといったいろいろな階層が見られます。これは弓削島も岩城島・生名島、備後国因烏、備後国歌島も同じです。塩を年貢として収めてる場合は、これらの島々と同じようなスタイルがとられていたのです。ここから塩飽も同じ様に百姓による塩浜の経営で、田畠・塩浜・山を百姓が共同で持ち、製塩を行っていたと研究者は推測します。

以上のように15世紀末の小豆島では塩浜での製塩が活発に行われていたことを押さえておきます。
こうして生産された塩が船で大量に畿内に運び込まれていたのです。それが兵庫北関入船納帳(1445年)に登場する小豆島(嶋)船籍の船だったのでしょう。こうして、小豆島には「海の民」から成長した製塩名主と塩廻船の船主や問丸が登場してきます。彼らの中には前回お話ししたように「関立(海賊衆=水軍)」に成長するものも現れていたのでしょう。

瀬戸内海の海浜集落に中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることは、以前にお話ししました。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない
④○○浜の地名が残る
 最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田の動きについて、もう一度確認しておきます。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、大きな経営に発展していくことは姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑤製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。
⑥畑作農家への転進を助けたのは近世中期以後の甘藷の流入である。食料確保ができるようになると、段畑をひらいて人口が増加する。
⑦そして、時間の経過と共に海から離れて「岡上がり」していく。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところの可能性が高い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」
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