瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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いただき屋さん
いただきやさんの海鮮食堂(高松市)
高松には「いただきやさん」という海鮮食堂があります。取れたての活きのいい魚を、安価に食べさせてくれる食堂です。この「いただきやさん」のネーミングを、私は「いただきます・ごちそうさまでした」からとったものと思っていました。しばらくして気づいたのは「いただく」とは「頭の上に掲げる=頭上運搬」だということです。
瀬戸内地方では、頭上運搬を「カベル」「イタダク」「ササグ」という動詞であらわします。それが転じて「販女(ひさぎめ)」をさすようになったようです。その分布は次のようになります
カベリ  能地・竹原市忠海・二窓、尾道市内や生口島、今治市大島
カネリ  島根県・山口県の西沿岸
ササグ  徳島県三野町阿部、運ぶ籠がイタダキ寵
イタダク 高松市瀬戸内町西浜は、販女をイタダキさん、
     魚を入れた籠がサカナハンボウ
イタダキさんについては、こんな話が伝わっています。

イタダキさんの先祖は糸より姫といい、後醍醐天皇の皇女で南北朝の戦乱をさけて西浜に落ちのび、糸を紡いでくらしていた。やがて漁師と結婚して行商をはじめたとき、えらい役人が使う言葉で「魚御用、魚御用」といったため、人々は恐れて家の戸を閉ざしてしまった。そこで、糸より姫が言葉や服装などを庶民に合わせると、魚が売れるようになった

   こうして高松周辺では頭上に物を載せて運搬することを"いただき"と言い、その人を"いただきさん"と呼んでいたというのです。今では、その姿も次第に消え自転車などで鮮魚を行商する人を、糸より姫の伝説にちなんで"いただきさん" と呼んでいます。
 いただきさんの先祖 イトヨリ姫
いただきやさんの先祖 糸より姫
伝説の"糸より姫"は1970年に、西浜漁港に銅像として建立されています。今では働き者の良妻賢母の範として親しまれているようです。その流れを汲む海鮮食堂なので「いただきやさん」の食堂と名付けられたのです。

高松の頭上運搬については、 以前に高松城下図屏風で紹介しました。そこには48名の「頭上運搬」の女性が描かれていました。
高松の頭上運搬
高松城下図屏風に描かれた頭上運搬の女達
この部分は現在の三越辺りにあった大きな屋敷の前を三人の女が頭に荷物を載せて北に向かって歩いて行く様子が描かれています。しかし、これはどうも魚ではないようです。彼女らが頭に載せているのは「水桶」だそうです。井戸で汲んだ水を桶に入れて、こぼさないようにそろりそろりとお得意さんの家まで運んでいるのです。城下町の井戸は南にありました。そのため彼女らの移動方向は南から、海に近い侍町や町屋へと北に動いているようです。男が担ぎ棒で背負っているのも水のようです。ここでは、以下のことを押さえておきます。
①木管による水道が整備される前の高松では、水が桶で武家屋敷などに運ばれていたこと、
②水運搬は、女は「頭上運搬」、男は担ぎ棒という違いがあったこと。
③頭上販売が魚行商の「専売特許」ではなかったこと

瀬戸内海沿岸で魚を販売していた販女を見ておきましょう。
『金毘羅山名所図絵』には、塩飽の家船漁民のことが次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる 

意訳すると
塩飽の漁師は、丸亀沖で船を住み家として、夫は魚を捕り、妻は魚を入れた籠を頭にいただき、丸亀城下町で行商を行う。その売り上げで、米酒薪から絹布に至るまで市で買い求めて船に帰る

 塩飽は人名の島で漁業権はありますが、近世最初頃には漁民はいませんでした。ここで「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師でなく、能地(三原市幸崎町)を親村とする家船の人びとのことです。彼らは「船をすみかとし」て塩飽沖で漁を行い、獲れた魚を「妻は魚を入れた籠を頭にいただき」とあるので、頭上運搬で丸亀城下で行商をしていたことが分かります。
『金毘羅参詣名所図会』には海の向こうの下津井(現倉敷市)の頭上運搬者の行商を次の挿絵入りでオタタと紹介しています。

下津井の販女
下津井の販女(金毘羅参詣名所図会)
夫婦一緒に漁にでて、魚はオタタが籠にいれて頭の上にのせて売りました。挿絵には、一人が蓋をあけて豊かそうな町人客に魚をみせ、もう一人は子供を背負って、頭上には竹網の盥をのせているオタタの姿が描かれています。
  以上からは高松・丸亀・岡山の城下町には、頭上運搬で魚を行商する販女がいたことを押さえておきます。

家船の本村である能地(広島県三原市幸崎町)も販女がいました。
男たちが手繰網でとった海産物を、妻が朝から農家をまわって穀物類と物々交換しました。ただし、テリトリーやお得意さんの農家は決まっていたので、得意先をあらそうことはなかったようです。販女が担ったカエコトによる交換も、後には現金販売へと変わります。販路も遠隔までひろがり、商うものも主人がとった海産物から仕入れた海産物へと「成長」していきます。さらには海産物以外の小間物や薬なども扱うようになり、さらなる販路拡大へと向かう場合もあったようです。
松山市の道後平野の東部には、三津浜や松前から海産物の行商がきました。
普段はオタタが「魚おいりんか」といって得意先をまわり、支払いはカケで盆や節季にまとめて米や麦と交換します。ただし、法事や結婚式などの慶事のときは種類と量が揃う三津浜から直接買い入れたと云います。高松の西浜の販女が町場で売るときは、家ごとに事情にあわせて魚の種類と量を選んでいたと云います。このように瀬戸内沿岸部の村では、日常の海産物は販女によって供給されていたようです。

太閤検地 タイムスリップ
検地や刀狩りの進む中で、姿を現す近世の城下町

江戸時代になると瀬戸内沿岸にはお城が築かれ、城下町が発達します。
それが日本海の海路と結ばれ廻船による海運が盛んとなると港町も発達します。こうして城下町や港町などの町場では、正月や盆、祭りの年中行事、人生儀礼はもちろん、もてなし料理など多くの機会に生魚を食べるようになります。生魚などの海産物の需要が高まると、町場近くに漁村ができ市場を中心に流通するようになります。これが海産物の表(おもて)の流通市場です。
 一方、漁村はもうひとつ販売ルートを持っていました。
それは後背地の農村部です。そこでは百姓の穀物類と漁民の海産物をカエコト(物々交換)する中世以来の交換経済が続いていました。現在、日本の三大朝市で知られている佐賀県唐津市の「呼子朝市」なども、起源は漁民と農民の物々交換にあると言われます。
 農民に比べて漁民のほうが物々交換に切実でした。漁民は生活を維持するためには、どうしても穀物が必要だったからです。そのため夫が獲った魚を女(販女:ひさぎめ)が農村に出向いて物々交換したのです。西浜の販女は行商相手によって、次のように売る魚を替えていたと云われます。
農村には、小網漁でとった雑魚やエビを農家と交換
城下町の家々には、一本釣りでとった魚を販売
これも城下町と周辺農村では、求められる海産物に違いがあり、それをいただき屋さんはよく知っていたというこでしょう。同時に海産物の流通ルートには、いろいろな種類があったことがうかがえます。

販女については、民俗学者たちがはやくから注目してきました。
理由のひとつが、「頭上運搬」です。このルーツが海洋民族に関わるものと考えられたからです。

頭上運搬の輪 男1人を楽々乗せて: 日本経済新聞

販女は海産物を入れた浅い丸盤や籠を、頭上にのせて、安定するように頭と盥の間に輪を置いていました。この運搬方法は、女性特有の古い運搬法といわれ、次のような史料に登場します。
①絵画では選択場面が描かれた平安時代の『扇面古写経』
②文学では『源氏物語』に京で頭上運搬しながら商いをする販女
①の絵図を見てみましょう。
扇面古写経」に描かれた洗濯場面
平安時代の扇面古写経
この絵は当時の洗濯風景を描いたものですが、器物や衣裳、習俗などに関する情報がぎっしり詰まっていて研究者にとっては「宝の山」のようです。幼児や成人女性の髪型スタイル、洗濯の仕方など、ながめているだけでも興味が尽きません。⑱に描かれているのが頭上運搬の桶(籠?)のようです。これに洗濯物を入れて運んでいたのでしょうか? それとも高松と同じように、水を運んでいたのでしょうか?   
 これと同じようなものが一遍上人絵図にも出てきます。
一遍上人絵図 頭上運搬
一遍上人絵図
  何を運んでいるのかまでは分かりません。しかし、中世の絵巻物に描かれた女性の運搬方法は、みな頭上運搬だという研究報告もあります。どうやらこの国では近世までは、女性は頭上運搬が当たり前だったようです。特別な運搬法ではなかったのです。

伊勢物語 奈良絵本の頭上運搬
        伊勢物語に登場する頭上運搬者

1960年代前半に、文化庁が全国約1500か所で緊急民俗資料調査をおこなっています。それを交易・運搬の項目について、図と表で再整理されたものが次の地図です。

販女が行商する物品

 女性が行商していた品からは次のようなことが分かります。
①全国的に沿岸では海産物(魚・海藻)を行商していること
②山の産物(薪・炭)とその他(小間物・薬.・花)は全国的にみてもわずかであること
 瀬戸内海では、ほとんどが海産物であったことが分かります。薪や炭・花などの山の産物については、京都周辺の大原女の行商がよく知られていますが、全体から見ると少数派になるようです。1960年代には、海辺の女達による周辺農村への海産物の行商が、その中心だったことを押さえておきます。

大原女の頭上運搬
大原女(観光写真)
それでは、彼女たちはどんな方法で行商する品を運んでいたのでしょうか。
販女の運搬方法

上の表からは次のようなことが分かります。
①背負運搬と肩担運搬は東日本に多い
②頭上運搬は西日本に多く、瀬戸内海・琵琶湖などの沿岸地帯に集中する傾向が強い
③日常生活でも頭上運搬を行うエリアは、沿岸地帯に集中する。

調査が行われたのは1960年代前半は、高度経済成長の入口で自動車が普及していく時代です。輸送手段が自動車にかわり、販売の担い手が女性から男性へと変化していきます。そうしたなかで女性の行商が続いて行われているのは、市場からはみ出た品で、流通機構のからこばれた不便なわずかな場所に限られていたことが推測できます。

式根島の頭上運搬
式根島の頭上運搬
近世になって、女性の頭上運搬が姿を消して行くようになるのはどうしてでしょうか?
ある民俗学者は次のように考えています。
頭上運搬がおこなわれたのは、産物を神祭りに捧げいただく敬虔な心意を表わした運搬法だったからだ。そこには宗教的な理由があった。それが信仰心がうすれて、より有効な運搬法が一般に普及してくると、頭上運搬は一部の地域だけに遺風をとどめながら衰退していった。それは、実際に、頭上運搬から肩おい運搬、背おい運搬に変化していく地域が多いことからも推測できる。

 確かに、販女が神祭りのときに特別な存在であったという伝承は各地に残っています。
愛媛県伊予郡松前町の販女、オタタさんは、松山地方の農村が早害になると、みな潔斎して海水を汲んで頭上にいただき、川上の雨滝に参って海水を注ぎいれて、雨を祈念したといいます。しかし、これでは「合点だ!」とは私は云えません。よく分からないとしておきます。

DSC02389カベル 高見島除虫菊
除虫菊を「カベル」 高見島 1960年代

以上をまとめておくと
①日本列島には近世までは、女性がものを運ぶ場合には「頭上運搬」が行われていた。
②それが近世になると瀬戸内海沿岸部や島嶼部だけに見られる遺風となっていった。
③瀬戸内海では漁村の女性達が行商の際に、「頭上運搬」を続けたので目立つ存在となった。
④それに注目した民俗学者が「頭上運搬のルーツ=海洋民族説」と結びつけたこともあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

瀬戸内海

参考文献
印南敏秀    海産物の流通と行商の  瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会
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家船漁民の金比羅信仰       家船と一本釣り漁民の参拝

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金毘羅山の秋の大祭は毎年10月10日に開かれるので「おとうかさん」と、呼ばれて親しまれてきました。今から200年ほど前に表された『金毘羅山名所図絵』には春と秋(大祭)への漁民の参拝が次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる 
意訳すると
塩飽の漁師は、丸亀沖で船を住み家として、夫は魚を捕り、妻は魚を入れた籠を頭にいただき、丸亀城下町で行商を行う。その売り上げで、米酒薪から絹布に至るまで市で買い求めて船に帰る

塩飽は金毘羅沖合いの塩飽諸島をさし、近世には西廻り航路、東廻り航路などで船主や船乗りとして活躍し、金比羅信仰を広める原動力となりました。しかし、塩飽は人名の島で漁業権はありますが、漁民は家船の人びとが定住する江戸時代末までいませんでした。ここで作者が「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師ではありません。これは当時、塩飽沿岸で小網漁をしていた広島県三原市幸崎町能地を親村とする家船の人びとをさします。
 彼らが「船をすみかとし」て漁を行い、丸亀城下で行商を行っていたのです。

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江戸時代の瀬戸内漁民にとって、商品価値の高い魚はタイ

扨毎年三月、金山の桜鯛を初漁すれは、船ことにこれを金毘羅山へ初穂とて献す。其日は漁師も大勢打つとひて御山にのぼり、神前に參りて後、いつこにもあれ卸神領の内の上を掘りつつみて帰る。これを御贅の鯛といふ。
意訳すると
毎年3月になりあ、初物の桜鯛があがると船毎に金毘羅さんへの初穂として献上した。その日は漁師達が大勢揃ってお山に参拝し、神前にお参りした後に、神域の山で掘った土を包んで持ち帰った。これを御贅の鯛と呼んだ
備後の沼名前神社の祇園祭りが、鞆沖での鯛網漁の終了直後にあたっていたのも偶然ではありません。塩飽諸島周辺にも桜が咲くころ、タイが紀伊水道を通って産卵に集まりました。第二次世界大戦前までタイの一本釣り漁師は、ウオジマイキといって瀬戸内各地から塩飽諸島周辺に集まってきました。彼らが金毘羅さんに奉納したの桜鯛は「御贅の鯛」と呼ばれました。
 芸予からやってきた漁民は船住まいしながらタイを釣り、海上で仲買船にタイを売ります。そして次第に、近くの民家を船宿にして風呂や水や薪の世話を頼んだりする者も現れます。

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10月10日の大祭は、男女の出会いの場

又十月十日には、此多くの漁船の男女ことぐく陸にのほり、金毘羅大権現へ参詣をし、さて夜に入ってかえるとて、つねに相おもふ男女たかひに相ひきて、丸亀の城下福嶋と云る所の小路軒の下なとに新枕し、夫婦と成て後おのれおのれか船につれてかえる。
意訳すると
 10月10日の大祭の日には、多くの漁船の男女が金毘羅大権現にお参りした。夜になって帰る時には、それぞれ惹かれあった男女が一緒になって、丸亀城下の福島町の旅籠で一夜を過ごし、夫婦となって、自分たちの船に帰っていく。

金毘羅大権現の秋の大祭は「漁船の男女がことごとく陸に上がり」金毘羅山へおまいりしたとあります。金毘羅さんは、彼らの「婚活パーティー」の場でもあったようです。夜になって帰るときには、それぞれパートナーを見つけて丸亀城下の福島の小宿屋で「新枕し、夫婦」となり、翌朝にはそれぞれの船に帰りました。そして鯛の漁期が終わると、故郷に連れて帰り新婦として紹介したのです。

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 金毘羅山は基盤をもたない家船に乗る若い男女の出会いの場でもありました。
瀬戸内地域では農民と漁民の婚姻は難しく、家船漁民は社会的基盤が弱かったのです。その中で金毘羅さんの大祭は家船漁民の社会生活を支え、交流をはかる機会だったのです。金比羅信仰にはこんな側面もあったようです。
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