
種田山頭火(1882~1940)は、少年期に母が自殺します。それがその後の人生に大きく影を落としました。そこから生れた「原罪」意識は、根が深ければ深いほど、悲しみは深く、そこから抜け出すことは難しかったようです。彼は二度にわたり四国遍路に旅だっていますが、母の位牌を背にしての遍路でした。その軌跡をたどってみましょう。
その前に、山頭火について「復習」しておきましょう。
種田山頭火は山口県生まれで、旧制山口中学校を卒業し、早稲田大学文学科に入学します。しかし、母親の自殺以来、次第に家が乱れ家運が傾くとともに、山頭火自身も心身に変調をきたすようになります。そのため卒業4か月前に退学・帰省し、父とともに酒造業を始めます。明治の地方の有力者にとって「酒の蔵本」というのは「憧れ」であったようです。
その後の経過を年表的に辿ってみましょう。
その後の経過を年表的に辿ってみましょう。
大正3年(1914)から小豆島出身の荻原井泉水(図表3-2-6)に師事して、自由律俳句誌『層雲』に投稿を繰り返えすようになります。当時、この雑誌のスター的な存在が尾崎放哉でした。
大正13年(1924)、感ずるところあって熊本の曹洞宗報恩寺望月義畷諏尚につき禅を修行、
大正14年 出家得度し、耕畝と名づけられます。
大正14年 熊本県鹿本郡植木町の観音堂守を命ぜられ赴任します。しかし、1年2か月で、行乞流転の旅に出ます。この年は大正から昭和へと年号が替わった時で、
尾崎放哉は東大出のエリート行員でしたが酒で失敗し、職を転々と替わるようになり、最後は死に場所を求めて荻原井泉水をたよって小豆島にやってきます。そんな放哉を、井泉水は檀那寺の西光寺の庵のひとつ「南郷庵」に住まわせ面倒をみます。
放哉は、ここで死に際の命が最後に輝くかのように「入れ物がない 手で受ける」など多くの優れた歌を残します。最後のものが「海も暮れきる」です。井泉水は「弟子」に当たる放哉と山頭火を次のような言葉で評しています。
放哉は、ここで死に際の命が最後に輝くかのように「入れ物がない 手で受ける」など多くの優れた歌を残します。最後のものが「海も暮れきる」です。井泉水は「弟子」に当たる放哉と山頭火を次のような言葉で評しています。
放哉は、晩年をひたすら坐りつづけて一歩も門外に出ず、山頭は歩きつづけて老を迎えた。

私は元来旅がすきです、あてのない旅、気兼ねのいらない自由な旅に自分の後半生をゆだねてしまった。人に迷惑をかけず隅の方で小さく呼吸してゐる。これが現在の私です。まあいわば『イボ』のやうな存在です、癌になれば大いに迷惑をかけるが小さな『イボ』なれば迷惑にならないと思ふ分け入っても分け入っても青い山笠にとんぼをとまらせてあるくだまって今日の草靫をはくほとほととして木の葉なるこれがいまの生活です、一種の性格破産者とも思ってゐる、しかし自然を心ゆくまで見て歩くうち芭蕉、一茶に通じるものを感じるが二人の境地に達するまでには至らない
私には山田洋次が生み出した「男はつらいよ」の寅さんに通じるものがあるように思えてきたりします。ここには先ほど見た「兄弟子」の尾崎放哉の「生き方、死にざま」が深く影響しているように思えます。小豆島を訪ね放哉の「死にざま」と残した作品を確認して、自分のこれからの生き方を見据えたのではないでしょうか。
山頭火が松山にやって来たのは?
昭和14(1939)10月1日、弟子に当たる野村朱鱗洞(図表3-2-6)の墓参と、四国遍路のために山頭火は松山にやって来ます。松山への旅立ちの朝に、次のように知人に語ったと伝えられます。
昭和14(1939)10月1日、弟子に当たる野村朱鱗洞(図表3-2-6)の墓参と、四国遍路のために山頭火は松山にやって来ます。松山への旅立ちの朝に、次のように知人に語ったと伝えられます。
山頭火が旅立ちの荷物の整理をしていた。そのとき、風呂敷の中から真白い布に包んだ小さいものが畳の上に落ちた。彼はそれを両手で拾い上げ、拝むようにした。それは山頭火の自殺した母の位牌であった。彼は「わしは長い旅に出る時は、いつもこの位牌を負うて母と共に旅をしていた」と言い、彼が11歳の3月6日のことを「その日、わしらは近所の子供たちと、裏の方の納屋で芝居ごっこをして遊んでいた。ところが母屋の方がさわがしいので走って行ってみると、お母さんが、井戸からひきあげられて、筵をかけられていた。僕は母に抱きついて、どんなに叫んでも母は歯をくいしばってて冷たい体となり、返事がなかった。その時の恨めしそうな顔が、澄太君まだ時々幻のように浮かんでくるのだよ。母は33歳だった。」
この母の死に対して、金子兜太氏は、
「少年期に、母を理不尽に失った(奪われたというべきだろう)ものの喪失感の激しさを思うわけだが、その死の理由が痛ましく、そのうえ死体を目撃していれば、それはどうしようもない酷さの記憶と重なる。からだの芯が裂かれているような、それこそ痛覚を超えた真昼のような状態-それだけに激痛と虚脱がたえず意識されているような状態にちがいない。」
と述べています。
山頭火の母への想いを、彼の日記に見てみましょう。
昭和13年の母の命日には
「亡母四十七回忌、かなしい。さびしい供養、彼女は定めて(月並の文句で云えば)草葉の蔭で私のために泣いているだらう。うどん供えて、母よ、わたくしもいただきます」
翌年の四国遍路に旅立つ昭和14年には、
「転一歩 母の四十八回忌、読経しつつ香の立ちのぼるけむりを見ていると、四十八年の悪夢が渦巻くようで、限りなき悔恨にうたれる。」
と書き残されています。母の死に対する想いの強さが伝わってきます。
母の位牌を背に、山頭火の行き着く先は四国でした。
母の位牌を背に、山頭火の行き着く先は四国でした。
昭和十四年の秋、山頭火は生涯最後の旅に出発します。それが二回目の四国遍路でした。最初の四国遍路は昭和2年~3年のことで、中国、四国、九州地方一円の前後7年間にわたる壮絶な行乞大旅行のひとこまでした。この時には四国八十八ヶ所をすべて順拝したようです。しかし、残念なことに彼自身の手で、その記録が焼かれています。そのため詳しい足跡は分かりません。ちなみに先述した俳友尾崎放哉の墓参のために小豆島を訪れているのもこの時のことのようです。
ヨーロッパではヒットラーのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まっていた昭和14年(1939)10月に、種田山頭火が松山にやって来ます。地元紙『海南新聞』は「俳僧種田山頭火 飄然俳都を訪問 故野村朱鱗洞氏墓に参詣」の見出しで次のように報じています。
中央俳壇層雲派の験将として、最近その名を謳われている漂泊の老僧種田山頭火氏が去る一日へいぜんと俳都松山をおとづれ、弟子の昭和町松山高商教授高橋光洵斎氏宅にわらぢを脱いでいる。氏はかつて明治末葉のホトトギス派爛熟期に自由律俳句を高唱し、また本社俳壇の選者と十六吟社を主宰していた故野村朱鱗洞氏と同志で、日本俳壇の新運動に従事してゐた。(中略)佛門に帰依して諸国巡禧と俳諧に安住の地を求めて居る、来松の動機も同志朱鱗洞氏の霊を慰めるためで二日石手寺の墓所を訪ひ今は亡き親友の前に心からの回向を捧げた。8日頃まで滞在のうえ高橋教授と四国巡禧の旅に出護する予定である。
新聞では「故野村朱鱗洞氏墓に参詣」と書かれていますが、実際には石手寺の過去帳には朱鱗洞の記録はなく墓も分からなかったようです。そこで、山頭火はささやかな自然石の墓の前に立ち、「ここで拝んでおきましょう」と言って礼拝したようです。
その後、朱鱗洞の墓探しが始まり、新立の阿扶持墓地にあることがわかり、小雨降る中を山頭火、は墓参りを改めて行ったようです。その時の様子が書き残っています。
山頭火が置き忘れていた遍路笠と杖を持って家を出たのが夜の十時半頃だった。雨気を孕んだ険悪な空模様である。高橋の門前までくると、暗闇の中から「ぬっ」と酩酊して体を扱いかねるような格好で山頭火が現れた。近寄って墓が見付かったことを告げると、右手を高く挙げ「よかった、ありがとう」と云った。座敷へ上り経過を話すと、山頭火は感動のためかむしろ険しい顔付きをしていた。明朝、墓詣りをしてから出立するとばかり思っていたところ、「いや、僕はこれから詣ります。そしてその足で遍路に出ます」と云って、帯をしめ直しはじめた。もう十一時を過ぎているし雨模様でもあるのにと皆んなで止めたが、山頭火はこうと決めたら変改する人ではないと思って、遍路荷を背負い笠をかぶって外へ出た。山頭火はその恰好がおかしいと笑った。高橋さんも袋を一つ肩にして私に続いた。山頭火は奥さんに別れを告げて、杖をついて出てきた。(中略)山頭火から線香を受けとり墓に手向け、山頭火がチンチンと鉦をたたき、三人で般若心経を誦えた。何分にも真暗なので目には見えなかったけれども、山頭火は朱鱗洞のお墓のあたまをゴシゴシと何度も何度も撫ぜさすり、涙をこぼしている気配が私に伝わってきたのでした。
その後、三人は、雨の降りしきる中を松山駅へと向かいます。着いたのが10月6日の夜中の午前1時10分だったようです。
その墓参の日(6月5日)発行の『海南新聞』の記事の一節には
「また氏は酒も好物だといふ木賃を払ってあまれば酒に換へて陶然となる、世の中にも慾望を断ったものが飲む酒の味はまた格別だと云っている」
と酒好きの山頭火の一面も報じています。
山頭火の四国へんろ道中記
この時の四国遍路は10月6日に松山を出発し、1ヶ月後の11月16日に高知で挫折することになります。その記録である『四国へんろ日記』は、11月1日に撫養を出発して、徳島に入ろうとする日から始まっています。つまり、出発から1ヶ月間のことが書かれていません。松山を出てからの遍路模様を『ひともよう』で追ってみると次のようになるようです。
10月8日、山頭火は六十一番香園寺で、俳句誌『層雲』(昭和14年11月号)に次のような近況を報告しています。
「伊予小松よりーお元気でせうか、私は今幾十年ぶりで四国の土をふみました。松山でやっと朱鱗洞君の墓を見出しました、層雲原稿としてお目にかけます。」
松山から今治を経て伊予西条に向かっていたようです。
10月14日に香園寺を出た山頭火は、後から追ってきた高橋一洵らとともに伊予西条を訪ね、また各地の札所を巡っています。
19日には讃岐の本山寺から知人に次のような便りを出します。
「おかげで巡拝の旅を続けてをります、三角寺で高橋さんとも別れてからは遍路らしくなって毎日歩いてをります、雨中の雲辺寺拝登は苦しかっただけ、また感銘ふかいものがありました、その日の一句、「雲がちぎれると 山門ほのかに」上り下り五里の間、誰にも逢ひませんでした。、句はたくさん出来ますけれど自信のあるものはなかなか生れてくれまん。おはがき二通ありがたく拝見いたしました。奥様へもお子さま方へもよろしく、そのうちまた、
(本山寺にて 種田生)」
10月21日 小豆島に渡っています。
前回訪問から10年余を経ています。尾崎放哉への報告を兼ねた墓参だったのでしょう。翌朝、山頭火は放哉が死を迎えた南郷庵の背後の広い墓地を「大空放哉居士」の墓を求めて歩きます。やっと見つけた墓の裏には、次のように刻まれていました。
「居士は鳥取市の人尾崎秀雄、某会社の要職に在ること多年、後其の妻と財とを捨てて托鉢を以って行願とす。流浪して此島に来り南郷庵を守る、常に句作を好み俳三昧に入れり、放哉は其俳号也 哉は其俳号也 享年四十二歳」
師の荻原井泉水が5行書きで彫らせたものです。
山頭火の最後の旅行となる四国遍路では、僧形で托鉢し喜捨を受けたり、友情の宿に恵まれ、路銀を与えられたりしてきた自分を責めて、僧形を捨て、無帽で、あわせ一枚にヘコ帯という乞食姿で遍路の旅を行います。命を捨てる覚悟で「柳ちるもとの乞食になてて歩く」覚悟を固めたようです。南郷庵では次の句を残しています。
風ふけばどこからともなく生きてゐててふてふ死をひしひしと水のうまさかな
そして、阿波に入ってから「四国へんろ日記」を記し始めます。それを一覧にすると次のようになります。
月日 天候 遍路中の山頭火の心情などを示すことば 距離 宿泊地
月日 天候 遍路中の山頭火の心情などを示すことば 距離 宿泊地
11/1 晴 (宿)旅のわびしさせつなさを感ぜしめるに十分 7里 小松島
11.2 快晴 風呂なし。(昨夜も)水で体を拭いたが肌寒を感ず8里 星越山麓
11.3 晴(宿)夜具も賄もよかった。(風呂)うれしかった。8里 牟岐
11.4 雨 どしや降り、吹きまくる烈風。お鮨一皿接待。6里 甲の浦
11.5 快晴 行乞のむつかしさ。行乞に自信をなくしてしまった。5里 佐喜浜
11. 6 曇・時雨 室戸岬は真に大観。(亀を見に)婆さん、ありがとう。6里室戸
11.7 快晴 (宿)待遇も悪くない。求むるものは与へられる 4里 羽根
11.8 晴一曇 (今日こそアルコールなし)よく食べ、よく寝た。 6里 伊尾木
11.9 曇一雨 (よい宿)きれいで、しんせつでしづかでまじめで。13里 和食
11.10 晴 母子から十銭玉頂戴。この十銭が私を野宿から助けてくれた
(郵便局)期待したものはなかった。がっかりしたい 8里 高知
11.11 晴 人さまざま、世さまざま。身心のむなしさを感じる。 高知
11.12 晴 歩いても歩いても、何を見ても何を見てもなぐさまない。 高知
11.13 晴 食べて泊るほどいただくまで、3時まで行乞。 高知
11.14 澄太君からも緑平老からも…どうしてだよりがないの 高知
11.15 快晴 明日からは野に臥し山で寝なければならないだらう。 高知
11.16 晴一曇 思ひあきらめて松山へいそぐ、製材所の倉庫で寝る。8里 越智
11.17 曇一時雨 行けるところまで行く心がまへでー。 4里 川口(善根)
11.18 快晴 山のよろしさ、水のよろしさ、人のよろしさ。行乞。4里 川口(善根)
11.19 快晴 宿屋といふ宿屋ではみな断られた。 7里 落出(大師堂)
11.20 晴 五日ぶりの宿、五日ぶりの風呂、よい宿のよい風呂。6里 久万
11.21 人のなさけにほだされて旅のつかれが一時に出た。 松山(友宅)
この工程表を見ながら気付いたことを挙げていきましょう
この工程表を見ながら気付いたことを挙げていきましょう
①10月21日に小豆島を出た10日後には、大窪寺から阿波に入り小松島までやってきたことが分かります。その後は順調に進み室戸岬を越えて、高知に入っています。ところが高知で6連泊して動かなくなります。どうしてでしょうか。
②彼が酒を飲まなかったのは11月8日だけのようです。「今日こそアルコールなし よく食べ、よく寝た」とありますから。死に向かって歩き続けるという覚悟でも酒だけは手放せなかったのです。これも放哉と同じです。
③無一文で遍路に出ていますので「行乞」で喜捨を頂かないと宿賃も酒代も出ません。「行乞」(托鉢?)を行いながらの遍路旅です。しかし、11月5には「行乞に自信をなくしてしまった。」と記します。
「遍路宿の宿銭はどこも木賃30銭に米5合、米を持っていないと50銭払はなければならない」
と記されています。つまり「宿賃80銭+酒代」を「行乞」(托鉢?)で得なければ遍路は続けられなかったもです。野宿はほとんどしてないので「収入」は毎日あったのでしょう。しかし、「行乞」はやりたくないというのがホンネです。11月10日の
「(郵便局)期待したものはなかった。がっかりした」
というのは、郵便局留めで送られてくるはずの期待したもの(金銭)が届いていなかったことの反応のようです。高知で「行乞」をしながら待ちますが「待金来たらず」でした。そこで遍路を中断し、土佐街道を松山に向かう道を選ぶのです。このあたりが山頭火らしい弱さで、私が好きなところです。
このあたりのことを大山澄太氏は次のように記しています
この旅は世間からは、ほいとう(乞食)扱いにされ、宿にも泊りにくい五十八歳の老廃人の旅と見るべきである。筆致は淡々としているが、よく味読すると、涙の出るような修行日記である。彼はこの旅で心を練り、ずい分と、体を鍛えさせられている。果たせるかな土佐路に入ってからいよいよ貰いが少くなり、行乞の自信を失った、頼むというハガキを、柳川の緑平と、広島の澄太に出した。高知郵便局留置と言うので、二人は彼の言うて来た日に着くように為替を切って送金したのであるが、彼の足が予定よりも早すぎて、高知に四日滞在してそれを待ったがなかなか着かない。そこでへんろを中止して仁淀渓谷を逆って久万から松山へと道を急いだのであった。
こうして山頭火は、遍路道をショートカットし久万経由で松山を目指します。
その途中の川口では、それまでの「行乞」の倍近い1升5合の米が短期間で集まるのです。彼は上機嫌で
その途中の川口では、それまでの「行乞」の倍近い1升5合の米が短期間で集まるのです。彼は上機嫌で
「山のよろしさ、水のよろしさ、人のよろしさ。」
と詠います。これは、今は川口の仁淀川の支流に句碑となって建っています。遍路ルートを離れた所の方が遍路には優しかったようです。こうして山頭火の2回目の四国遍路は終わります。
この旅が彼に作らせた句をいくつか抜き出してみましょう
香園寺 朝焼けのうつくしさおわかれする秋空ただよふ雲の一人となる太平洋に面して石ころそのまま墓にしてある松のよろしさひなたまぶしく飯ばかりの飯を野宿 寝ても覚めても夜が長い瀬の音
松山に帰ってきた山頭火は、関係者によって整えられた「一草庵」に住むことになります。
遍路行の翌年(昭和15年)母の命日の3月6日の日記には
遍路行の翌年(昭和15年)母の命日の3月6日の日記には
「亡母第四十九回忌、……仏前にかしこまって、焼香謳経、母よ、不孝者を赦して下さい」
と記しています。ある研究者は
「この克明に記録された日記の底流として貫かれているものは、母の自殺の痛恨である。(中略)十一歳の山頭火に仮借容赦もなく焙印されたこの痛ましい原風景は、捨てても捨てても捨て切れない。焼いた日記は灰となって一陣の風に消散烏有、痕をとどめないが、この惨絶の原風景はいよいよ鮮明である」
と評します。
山|頭火の書き残した『短豊』には、
「私はどんなに見下げられても平気だ、私は人間とて無能無力であることを自覚してゐるから、何のねうちもない自分であることを悟っているから。」「山頭火よ、愚にかへれ、愚を守れ、愚におちつけ!「愚を守る一貧乏におちつく 無能無力に安んずる おのれにかへるー」
などの言葉があります。この中には「愚」という言葉がよく使われています。この言葉は山頭火が自分自身に呼びかけたものかもしれません。だとすれば、2回目の四国遍路は、禅僧の僧形をかなぐり捨て、その恩恵をも拒み、真に「愚」に生きようとして、「愚」に徹しきれなかった遍路行脚ではなかったのかとも思えてきます。
山頭火の日記は、四国遍路の終わった翌年の昭和15年10月6日で終わっています。そして5日後の11日、「伊予の国で死にたい」と言った願い通りに、念願の松山の地で死を迎えます。

自由律俳句運動をひっぱって行った尾崎放哉と種田山頭火
二人に共通するのは、酒のために家族に捨られ、身の置き場がなくなり流浪の道をたどらざる得なくなったことです。そして死に場所を放哉は、小豆島に、山頭火は四国・松山に求めたのです。それを黙って受けいれる懐の深さが、小豆島や松山にはあったのだと私は思っています。それが最後の輝きを発するチャンスを二人にあたえたのです。それは、四国遍路の「おせったい」の心に通じるものかもしれないと思うようになったこの頃です。
参考文献 平成12年度 遍路文化の学術整理報告書「四国遍路のあゆみ」