瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:船タデ

 坂出市史上完成!3月16日販売開始 - YouTube
 今年の3月に販売開始になった「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島」を読んでいると『金毘羅参詣名所図会』の多度津港を描いた絵図に、船たで場が描かれていると書かれていました。この絵図は何度も見ているのですが、気づきませんでした。疑いの気持ちを持ちながら再度見てみることにします。
香川県立図書館のデジタルアーカイブスで『金毘羅参詣名所図会』4巻を検索し、33Pを開くと出てきます。
200017999_00159多度津港
多度津湛甫(港)(金毘羅参詣名所図会4巻)

①の桜川河口の西側に長い堤防を築いて、1838年頃に完成したのが多度津湛甫でした。これより先に本家の丸亀藩は、福島湛甫を文化三年(1806)に築いています。その後の天保四年(1833)には、金毘羅参拝客の増大に対応して新堀湛甫を築いています。これは東西80間、南北40間、人口15間、満潮時の深さは1文6尺です。
 これに対し、その5年後に完成した多度津の新湛甫は、東側の突堤119間、西側の突堤74間、中央に120間の防波堤(一文字突堤)を設け、港内方106間です。これは、本家の港をしのぐ大工事で、総費用としても銀570貫(約1万両)になります。当時の多度藩の1年分の財政収入にあたる額です。陣屋建設を行ったばかりの小藩にとっては無謀とも云える大工事です。このため家老河口久右衛門はじめ藩役人、領内庄屋の外問屋商人など総動員体制を作り上げていきます。この時の官民一体の共同体制が幕末の多度津に、大きなエネルギーをもたらすことになります。幕末の動乱期に大砲や新式銃を装備した農民兵編成などの軍事近代化を果たし、これが土佐藩と結んで独自の動きをする原動力となります。多度津藩はなくなりますが、藩とともに近代化策をになった商人たち富裕層は、明治になると「多度津七福人」と呼ばれる商業資本家に脱皮して、景山甚右衛門をリーダーにして多度津に鉄道会社、銀行、発電所などを設立していきます。幕末から明治の多度津は、丸亀よりも高松よりも文明開化の進展度が早かったようです。その原点は、この港建設にあると私は考えています。
多度津港が完成した頃の動きを年表で見ておきます
1829年 多度津藩の陣屋完成
1831年 丸亀藩が江戸の民間資金の導入(第3セクター方式)で新堀湛甫を完成させる。
1834年 多度津藩が多度津湛甫の工事着工
1838年 多度津湛甫(新港)完成
1847年 金毘羅参詣名所図会発行

絵図は、多度津湛甫の完成から9年後に書かれたもののようです。多くの船が湾内に係留されている様子が描かれています。
船タデ場は、どこにあるのでしょうか?拡大して見ましょう。

多度津港の船タデ場
多度津港拡大図
桜川河口の船だまりの堤防の上には、船番所の建物が見えます。ここからの入港料収入などが、多度津藩の軍事近代化の資金になっていきます。そして、その奧の浜を見ると現在の桃陵公園の岡の下の浜辺に・・・

多度津港 船タデ場拡大図

確かに大型船を潮の干満を利用して浜に引き上げ、輪本をかませ固定して船底を焼いている様子が描かれています。勢いよく立ち上る煙りも見えます。陸上では、船が作られているようです。周囲には用材が数多く並べられています。これは造船所のようです。ここからは、多くの船大工や船職人たちが働いていたことが見てとれます。これは拡大して見ないと分かりません。

タデ場 鞆の浦3
造船所復元模型

船たで場については、以前にお話ししましたが、簡単におさらいしておきます。
廻船は、杉(弁甲材)・松・欅・樫・楠などで造られていたので、早ければ3ヶ月もすると、船喰虫によって穴をあけられることが多かったようです。これは世界共通で、どの地域でもフナクイムシ対策が取られてきました。船喰虫、海藻、貝殻など除去する方法は、船を浜・陸にあげて、船底を茅や柴など(「たで草」という)で燻蒸することでした。これを「たでる」といい、その場所を「たで場」「船たで場」と呼んだようです。
タデ場 フナクイムシ1

船タデの作業工程を、時間順に並べておきます。
①満潮時にタデ場に廻船を入渠させる。
②船台用の丸太(輪木)を船底に差し入れ組み立てる。
③干潮とともに廻船は船台に載り、船底が現れる。
④フジツボや海藻などを削ぎ取りる
⑤タデ草などの燃材を使って船底表層を焦がす。
⑥船食虫が巣喰っていたり、船材が含水している場合もあるので、防虫・防除作業や槙肌(皮)を使って船材の継ぎ目や合わせ日に埋め込む漏水(アカの道)対策や補修なども同時に行う。
 確かに、幕末に描かれた多度津湛甫(金毘羅参詣名所図会)には、船タデ場と造船所が描かれていました。これを文献史料で裏付けておきましょう。
 摂州神戸の網屋吉兵衛の船タデ場の建設願書には、次のように記されています。
「播磨の最寄りの港には船たで場がなく、廻船が船タデを行う場合は、讃州多度津か備後辺まで行かねばなりません。その利便のためと、村内の小船持、浜稼のもの、または百姓は暇々のたで柴・茅等で収入が得られ、村方としても利益になります。また、建設が決まれば冥加銀を上納いたします。」

 ここからは次のようなことが分かります。
①播州周辺には、適当な船タデ場がなく、多度津や備後の港にある船タデ場を利用していたこと
②船タデ場が地元経済にとっても利益をもたらす施設であったこと
播州の廻船だけでなく瀬戸内海を行き来する弁才天や、日本海を越えて蝦夷と行き来する船も多度津港を利用する理由の一つが有力なタデ場を保有港であったことがうかがえます。

 以前にお話ししましたが、タクマラカン砂漠のオアシスはキャラバン隊を惹きつけるために、娯楽施設やサービス施設などの集客施設を競い合うように整備します。瀬戸の港町もただの風待ち・潮待ち湊から、船乗り相手の花街や、芝居小屋などを設置し廻船入港を誘います。
船乗りたちにとって入港するかどうかの決め手のひとつがタデ場の有無でした。船タデは定期的にやらないと、船に損害を与え船頭は賠償責任を問われることもあったことは廻船式目で見たとおりです。また、船底に着いたフジツボやカキなどの貝殻や海藻なども落とさないと船足が遅くなり、船の能力を充分に発揮できなくなります。日本海へ出て行く北前船の船頭にとって、船を万全な状態にして荒海に漕ぎ出したかったはずです。

  タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。
しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。御手洗が「おじょろぶね」として栄えたのも、タデ場と色街がセットだったからだったようです。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町の繁栄のためには「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。
新しく完成した多度津港の繁盛は、タデ場の有無だけではなかったはずです。
それはひとつの要因にしか過ぎません。その要因のひとつが金毘羅信仰が「海の神様」と、ようやく結びつくようになったからではないかと私は考えています。つまり、船タデのために入港する廻船の船乗りたちも金刀比羅詣でを始めるようになったのではないでしょうか。
 金毘羅神は、もともとは天狗信仰で修験者や山伏たちが信仰し、布教活動を行っていました。そのため金毘羅信仰と「海の神様」とは、近世後半まで関係がなかったようです。よく塩飽廻船の船乗りたちが金毘羅信仰を全国の港に広げ、その港を拠点に周囲に広がっていったというのは俗説です。それを史料的に裏付けるモノはありません。史料が語ることは、塩飽船乗りは摂津の住吉神社を海の神様として信仰していて、住吉神社には多くの塩飽船乗りの寄進燈籠が並ぶが、金刀比羅宮には塩飽からの寄進物は少ない。古くから海で活躍していた海民の塩飽衆は、金毘羅神が登場する前から住吉神社の信者であった。
 流し樽の風習も、近世に遡る起源は見つからない。流し樽が行われるようになったのは、近代の日本海軍の軍艦などが先例を作って行われるようになったものである。そのため漁師達が流し樽を行う事はほとんどない。
 いろいろな所で触れてきたように、金毘羅神は近世になって産み出された流行神で、当初は天狗信仰の一部でした。それが海の神様と結びつくのは19世紀になってからのようです。そして、北前船などの船乗りたちの間にも急速に信者を増やして行くようになります。そこで、船タデのために寄港した多度津港で、一日休業を金比羅参りに宛てる船乗りが増えた。船頭は、金比羅詣でのために多度津港で船タデを行うようになったと私は想像しています。これを裏付ける史料は、今のところありません。
「好きなおなごのいる港に入りたい」と思うように、「船を守ってくれる海の神様にお参りしたい」という船頭もいたと思うのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

関連記事

廻船式目の研究(住田正一) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

坂出市史に「廻船式目」のことが紹介されています。
廻船式目とは、「海の憲法」ともいえる海事法規で、海上運送における慣習法をまとめたものです。全国には60冊ほどが伝わっているようですが、奥書の年紀は貞応二(1123)で共通しているので、鎌倉時代前期には成立していたとされます。
  廻船式目には、海難・盗難・積荷損害などの事故への対応法が書かれています。
それが時の権力者から承認を得ながら、何度かの改変・追加などを経て室町時代後半期には、全国的に一定の共通理解と法的拘束力がもたれるようになっていきます。つまり中世以来「廻船式目」に定められた条項が遵守され、海事紛争の根拠法とされていたのです。「海の憲法」とも云われる由縁です。

 塩飽には、2つの廻船式目が伝来していたようです。そして、それらを書き写したものが各浦々の人名の家には残っています。その背景を坂出市史は、次のように指摘します。
①海路を遠国まで航海する大型廻船を所有していたこと
②諸国の廻船が海上交易のために寄港したこと
③その際に塩飽海域で海難事故・事件に巻き込まれた場合の対応法を知っておく必要があったこと。
そして、与島に伝わる船法度(廻船式目)を紹介しています。
これは塩飽寛政改革で新年寄に選任された与島岡崎家の当主次郎左衛門が、塩飽に伝わる「廻船式目」を種本にして、新たに書き写したものと研究者は考えているようです。これを見ていくことにしましょう。

タデ場 廻船式目 
 廻船式目
第1条は、難破船に関する事項です。
① 「一  寄船・流舟(難破船)は、その在所の神社・仏寺修理をなすべきこと、もしその船に乗る者おいては、舟主進退なすべきこと」

沖で難破した船が流れ着いたときの処置方が記されています。難破船は、誰の物か分からないので、近隣集落で船を解体して、寺社修理に充てることができたようです。乗組員がいれば、船主の進退を仰ぐとあります。通例では、当該乗組員の判断によると記すものが多いようです。
 第二条は「港に係留中の船が破損したり、積荷が濡れた時」のことです。
②湊(港)において繋ぎ船損ないしたる時は。その所より濡れたる物を干し、船頭に渡すべきなり。そのため帆別・碇役し湊を買たる(人港に際し支払う諸税)は、国主たりとも違乱あるべからざる事」

船を湊に係留中に、船が損傷したり、荷を濡らした場合は、現場で乾して船頭に渡せとあります。そのため、全ての権限は、船頭にあり、帆別・碇役などの津料(関税等)を支払った場合、荷物の取引に関して、その所の国主といえども勝手はできないとあります。港に係留された船の保全は、港管理者に責任があったことが分かります。
  第三条は、「(係留中の)大風時の係船の事」についてです。
③ 「一  繋ぎ船あまたこれありて大風ならば、その村よりも加勢をつかまつるは、まず風上なる船に加勢する事もつともなり。いかに風上の舟、綱碇ありといえども、風上の船流れかからば諸々の船繋ぎ止むるべからず、もし風上の舟おのれと綱を切り、風下の船に流れかかり二艘ともに損いならば、風下の船より最も風上の舟に存分これあるべき事」

 多くの船が係留されているときに強風が吹いたときには、まず風上の船に加勢せよとあります。どんなに風下の船が綱碇をしているといっても風上の船が流れてくれば全ての船をつなぎ止める事はできません。もし、風上の船の綱が切れて風下の船に流れかかり、両方とも破損したなら風下の船から風上の船に賠償させる権利(存分)があるというのです。
 「その村よりも加勢」とあるので、湊のある村では海難救助や災害防止のための出動が相互扶助として確立していたことがうかがえます。それを指揮する庄屋たちは、この慣習法を知っていないと、対応を誤ることになります。勤番所に置かれていた廻船式目を、真剣に書き写すリーダーたちの姿が浮かんできます。
   第6条は、船の盗難に関する事です。
⑥舟を盗まれ、本は賊船に取られ、北国の舟は西国にこれあり、西国の舟は北国にこれありといえども、この船を買取り廻船をすべからざる事、もし、荷物を積廻す船はこれあるにおいては、船主見合いにこの舟を取返し、船頭も迷惑たるべき事、かわりに付たる沙汰はたとい親子の間にて深々たるべき事

船が盗まれることもあったようです。盗まれた船と分かった時には、日本中のどこにあっても持ち主に返却すること、その船が何回も転売されていて所有権は無効となる。また、盗船の雇われ船頭も盗船であることを知らなくても免責にならない。

このように海難事故や船をめぐる事件についての対応のために、中世にはこんな慣習法ができていたこと自体が驚きです。しかも、瀬戸内海というエリアだけでなく日本列島全体で遵守されていたというのですから。逆に考えると、海上交易(廻船)活動が広範囲に鎌倉時代には行われていたことにもなります。

千石船

さて、今回私が一番気になったのが、次の第7・8条です。 第7条は、「借船」に関する規定です。
⑦ 「借舟をし、もし、その舟損したるといえども、借りて弁えざるべき事、但し、舟床をすめす舟主の分別無き所を押さえて出船し、その舟損したる時は借り手の弁えにたるベき事」
船のレンタルとその運用について、荷主などが契約して借船を運航する場合、船の損害は、船主が責任を負います。また、荷主が、船主に対して契約料を未払いや無断出港した場合などは、借り手の責任となったようです。
 塩飽廻船は、古来より前払いの運賃積みで運行されてきました。その根拠となったのがこの項目だと研究者は考えているようです。
第8条は、船虫喰についてです。
 私は「船虫喰」とは、海岸でゴキブリのように這い回るフナムシと思っていました。フナムシとフナムシクイはまったく別種のようです。
タデ場 フナクイムシ3
フナムシクイの着床
フナクイムシは水中の船木に穴を開けてそこに住みつき、船材を穴だらけにしてしまいます。世界中の木造船が苦しめられてきた船の天敵です。ウキで検索すると、次のように記されています。
「フナクイムシ(船喰虫)は、フナクイムシ科 (Teredinidae) に属する二枚貝類の総称。ムシとついているが、実際は貝の仲間である。英語ではshipworm、ドイツ語ではSchiffsbohrmuschelnあるいはPfahlwurmer、フランス語ではtaret commun、台湾では船蛆蛤と呼ばれる」

  これを放置しておくと船底は穴だらけになって浸水してきます。船の耐久年数も縮めます。
タデ場 フナクイムシ1

この対応策としてとられたのが船タデです。ウキは、次のように記します。
 
船をタデ場に揚げ、藁・苫などを燃やして船底を熱し、船板中の船食虫を殺すとともにしみ込んだ水分を取り去ること。船の保ちをよくし、船足を軽くするために行なう。「牛島諸事覚」

火を燃やす作業所を「焚場」(たで場)と呼んだと云います
タデ場 フナクイムシ2
木材に巣くったフナクイムシの一種
それでは廻船式目に船虫食いが登場する第8条を見てみましょう

⑧ 「一  借船をし、その船虫喰いたる時は、借り手損たるべき事、但し、舟付きこれあるにおいては借り手気遣及ばざる事、借り手油断においては弁えあるべき事」

意訳変換しておくと

船をレンタルして運航していた際に、メンテナンス不備で虫食いの被害で損害を与えたときには、借手の責任となる。ただし、専門のメンテナンス水夫が同乗の場合は、この限りではない。レンタル側のお雇い船頭が油断して虫食いが発生した場合も、同様に責任がある。

 先ほど見たように廻船の虫食いは、深刻な場合は廃船になることもあります。そのためには普段からの注意と、定期的な整備が必要でした。「舟付きこれあるにおいては」とあるのので、メンテナンス専用の水夫が同乗する場合もあったようです。

条文に明記されているのですから、船タデを定期的に行い廻船を良好な状態で維持管理し、長持ちさせることは、廻船関係者にとっては常識であったことが分かります。また、船底に付着する海藻や貝類も船足を遅くする元凶なので、これを取り除く作業も同時に行われました。
 それでは船タデ作業は、どこで行われたのでしょうか?
   備讃瀬戸を挟んだ備後の鞆の浦からはタデ場遺構が確認されています。調査報告書は次のように述べています。
タデ場 鞆の浦2
石畳を敷いたようにみえるタデ場跡(鞆の浦)

①石敷され,一辺が50~100cm程度の上面が平坦な板状の石材で作られている。
②その範囲は約23×13m。石材の一部には,石を割ったときの跡(矢穴痕)が残る。
③岩盤は,自然の岩盤とは異なり,全体的にほぼ平坦であり人工的に削平したもの
④平坦に削平された岩盤と,石敷や石列の設置で,全体として平坦な「場」ができあがっている。
タデ場 鞆の浦1

また文書にも、タデ場を裏付ける次のような文書があるようです。
・文政10年(1827年)の河内屋文書には,時代と共に船の規模が大きくなり,焚場が狭くなってきたため,敷石したり岩・石を削平して浜全体で大船10艘の焚船ができるようにしたこと

この記述は、先ほど見た遺構の「石敷・石列・加工の可能性のある岩盤」と一致します。
・近世の鞆の町並みを記録した2枚の絵図面〔元禄~宝永年間(1688~1710年)沼名前神社蔵及び文化年間(1804~1817年)と推定されるもの・〕には両方とも,同じ場所に“焚場”あるいは“タデ場”の記載があること。

このタデ場(焚場)は大正時代の始めまでは、多くの船に利用されていたようです。当時は、千石船が50杯/月、300~500石の船が130杯/月も利用する瀬戸内では、最大級の焚場のひとつだったようです。江戸時代の港町に、タデ場が残っている所は今ではほとんどありません。潮が引くと石畳造りのタデ場が現れます。

kaisenn廻船5

 以前にお話ししましたが、タクマラカン砂漠のオアシスはキャラバン隊を惹きつけるために、娯楽施設やサービス施設などの集客施設を競い合うように整備します。瀬戸の港町もただの風待ち・潮待ち湊から、船乗り相手の花街や、芝居小屋などを設置し廻船入港を誘います。船乗りたちにとって入港するかどうかの決め手のひとつがタデ場の有無でした。船タデは定期的にやらないと、船に損害を与え船頭は賠償責任を問われることもあったことは廻船式目で見たとおりです。また、船底に着いたフジツボやカキなどの貝殻や海藻なども落とさないと船足が遅くなり、船の能力を充分に発揮できなくなります。日本海へ出て行く北前船の船頭にとって、船を万全な状態にしておきたかったはずです。
 船頭に人気があった船タデ場のひとつが、鞆にあったことはみてきました。ところが、鞆の船タデ場の管理者たちがライバルししていたのが塩飽与島のタデ場です。わざわざ与島のタデ場を取り上げて、自分たちのタデ場の方が古くからあり、処理能力や腕もよく、経費も安いと記します(鞆浦河内屋文書)。ここからは、鞆と与島は、どちらもタデ場発祥の地として競い合っていたことがうかがえます。同時に、近世瀬戸内の同業者の間では、船タデの由来・由緒が共有されていたことも分かります。ちなみに与島の小地名に「たてば」というところがあるようです。これは、もともとは「タデ場」のあったところなのでしょう。

1 塩飽諸島

瀬戸内海の干満差は、船タデ場に適していたようです。
瀬戸内海の平均干満差は約3~4mで、一日に2回干満があります。ちなみに東北から日本海方面では、千満差は、30㎝しかないそうです。また九州の有明海などは、干満差が6mを超えます。このため日本海岸では、船の下に入ることも出来ません。一方有明浜などでは磯や浜に船台を設けても、高すぎて船底に届きません。干満差3mというのは、作業にはちょうどいいようです。

坂出市史を参考に、船タデの作業開始を時間順に並べて見ましょう。
①満潮時にタデ場に廻船を入渠させる。
②船台用の丸太(輪木)を船底に差し入れ組み立てる。
③干潮とともに廻船は船台に載り、船底が現れる。
④船底のフジツボや海藻などを削ぎ取りる
⑤タデ草などの燃材を燃やして船底表層を焦がす。
⑥船食虫が巣喰っていたり、船材が含水している場合もあるので、防虫・防除作業や槙肌(皮)を使って船材の継ぎ目や合わせ日に埋め込む。
⑦同時に、漏水(アカの道)対策や補修なども行う。

タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町は「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。
タデ場 鞆の浦3
近世の造船所
  「塩飽水軍」は存在しなかった、あったのは「塩飽廻船」と前回に記しました。
塩飽衆は、武力装置としての水軍力よりも、航海術を駆使し、人やモノを各地に海上輸送することを得意にしていたのです。加えて塩飽の廻船の強みは、船舶を維持管理する能力の高さではないかと坂出市史は指摘します。そのひとつが塩飽のタデ場であったのではないでしょうか。塩飽のタデ場は鞆の浦と同じように諸国の廻船関係者から高い評価を得て、大型廻船の出入りが絶えなかったのです。それは、塩飽に安定した収入源と、船大工たちの雇用の場を作り出していました。塩飽繁栄のささえのひとつでした。

最後に現役のタデ場を見ておきましょう。
タデ場 鞆の浦4

鞆の浦の港の中の光景です。漁船には今も木造船が残っています。雁木を利用して、船を揚げて「タデ場」として利用しています。
タデ場 鞆の浦5

木造船時代は、どの漁村でも船タデが行われていました。
丸太のコロで木造船を浜に引き上げ、船底に付着している海藻や貝類をかき落とし、松葉や杉葉やススキをタデ草(船タデの燃料)として燃やし船底を焼きます。その際、船の船霊さまは船タデをすると熱いのでしばらく船から離れていただく儀式をします。タデ草を動かす棒の事をタデ棒と呼びます。船タデが終わるとタデ棒で船底を3回叩きます。それは離れてもらっていた船霊さまに船タデが終了したことを知らせ、船にお帰りいただく合図だったと伝わります。ちなみに鞆の浦では、タデ草の代わりにバーナーで燻っていました。現代版の「タデ草」です。形を変えて、漁村ではタデ場が残っているようです。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献   坂出市史 中世編  塩飽廻船と廻船式目 123P



このページのトップヘ