瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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  経筒 白峰寺 (2)
白峯寺の六十六部経筒の蓋           
白峯寺の「西寺」から出土したと云われる経筒について、以前に紹介しましたが別の視点から見ておきたいと思います。それは、この経筒を納めたのが六十六部の良識と記されているからです。
まずは、経筒についてもう少し詳しく見ておきます。
①経筒は、全面に鍍金した銅製で、筒身と筒蓋に分かれます。
②筒身は円筒形でし、高さ9,9㎝、身底径4,8㎝ 身口径4,5㎝。
筒身には、縦書き五行で次のような文字が刻まれています。
白峰寺経筒2
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」で主文
③が「十羅刹女 」で、奉納経典の守護神
④が三十番神も経典守護神
⑤が「四国讃岐住侶良識」で、奉納代理人(六十六部)
⑥が「檀那下野国 道清」で、奉納者
⑦「享禄五季」、奉納年
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
この経筒から研究者は、どんな情報を読み取り、考察していくのでしょうか?
銅経筒の全国的な出土傾向をは、11世紀後半~12世紀後半と16世紀前半~中葉に2つのピークがあります。11世紀後半~12世紀後半に銅経筒の出土例が多いのは、末法思想が影響しているものとされます。末法元年と考えられていた永承7年(1052)以後になると、法華経を中心とした仏教典を金属製の経筒に納め、霊地や聖地とされる山頂や社寺境内に経塚が造られるようになります。

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経塚の埋葬例
この時期の経筒は。高さ20~45㎝程度の大型のもので、和鏡、銭貨、刀身、小仏、などの副納品とともに、陶製などの外容器にいれて埋納されています。これが県内では善通寺の香色山山頂の経塚やまんのう町金剛院背後の経塚群から出土しています。

2公式山3
    善通寺市香色山1号経塚(佐伯直一族のもの?)

12世紀をすぎると、経筒埋納は一時衰退していきます。こらが再び活発化するのは16世紀になってからです。その背景には、廻国聖の納経活動の活発化があります。庶民が現世利益や追善供養も含め諸国を廻国し、その先々で経筒埋納を祈願するというスタイルが流行するようになります。経筒は、永正11年(1514)~天正13年(1585)に多く、円筒形の経筒は、16世紀中頃~後半に多いようです。
以上をまとめておきます。
①11世紀末になると末法思想の流行と供にお経を書写し、経筒に埋めて霊地に奉納するようになった。
②この時は、大型の経筒が使われ、鏡や銭・小刀・などが副葬品として経塚に埋められた。
③16世紀に活発化する廻国聖六十六部は、全国をめぐり経筒を埋納するようになったが、使われた経筒は小型化した。
この程度の予備知識を持って、再び白峯寺の経筒を見てみましょう。
 白峯寺所蔵の経筒は、筒身外面の紀年銘から享禄5年(1532)であることが分かります。これは先ほど見た銅経筒の全国的な出上時期の傾向と一致します。また、大きさについては、この時期の経筒は10~12㎝と小型のものが中心ですが、白峯寺経筒も総高10、5㎝で、この範囲です。今度は銘文をひとうひとつ見ておきましょう。
  まず、中央の「奉納一乗真文六十六施内一部」です。
これは諸国六十六ケ国に納める内「施内」のひとつである経典(法華経)「一乗真文」を「奉納」したと研究者は考えています。この時期の経筒の主銘文には、「大乗経王」「大乗法花」「大乗真文」「法華妙典」「法華真文」「妙法典」「一条妙典」「如法経」と、経典の表現がさまざまです。「一条真文」の例はないようですが、埋納された経典の種類は、法華経と研究者は考えています。
 この文の上位には「釈迦如来」を示す種字である「バク」が描かれています。
真言文字バク 釈迦如来
バク 釈迦如来
ここからは奉納者(檀那下野国道清)が釈迦如来を信仰していたことが分かります。この時期の主銘文の種字には「阿弥陀三尊(キリーク、サ、サク)」「釈迦三尊(バク、アン、マン)「釈迦如来(バク)」「観青菩薩(サウ」などありますが、その中でも多いのは「釈迦如来(バク)」のようです。これも全国的な傾向と一致します。

守護神(十羅刹女)
十羅刹女
「十羅刹女」は、仏教の天部における10人の女性の鬼神で、鬼子母神とともに法華経の守護神です。

三十番神
三十番神

「三十番神」は神仏習合の信仰で、毎日交代で国家や国民等を守護する30柱の神々のことです。最澄が比叡山に祀ったのが最初で、鎌倉時代に盛んに信仰され、中世以降は特に日蓮宗・法華宗で重視され、法華経守護の神とされることは以前にお話ししました。このように「十羅刹女」や「三十番神」も法華経の守護神で、この時期の小型経筒の主銘文に、よく登場するようです。

「四国讃岐住侶良識」からは、四国讃岐の僧侶・良識によって経筒が奉納されたことが分かります。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」ことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

高野山 金剛三昧院
高野山金剛三昧院
金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老良識(讃州之人)
第32長老良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。また、「良識」は、讃岐の国分寺本堂の板壁に落書きを残しています。その落書きを書いていた板壁が屋根の野地板に転用されてて残っていました。そこには次のように記されています。
  当国並びに井之原庄天福寺客僧教□良識
  四国中辺路同行二人納中候□□らん
 永正十年七月十三日」
「当国井之原庄」は、讃岐国の井原庄(いのはらのしょう)で、旧香川郡南部(現高松市香南町・香川町)から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒(近世成立)には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
「天福寺」は、高松市香南町岡にある美応山宝勝院天福寺と考えられます。
岡舘跡・由佐城
高松市香南町岡天福寺

この寺は、神仏分離以前には香南町由佐にある冠櫻神社の別当寺でした。天福寺は本尊薬師如来、真言宗御室派です。天福寺由来記には次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。
「客僧」とは、修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことです。
31歳の「良識」は修行のため廻国し、天福寺に滞在した僧侶と研究者は考えています。つまり、四国霊場第80番札所国分寺の「落書」からは、高松市香南町岡にある天福寺の客僧だった良識が四国遍路を行い、永正10年(1513)7月14日、札所である国分寺に札等を納めた時に「落書」を書いたことが分かります。
経筒の銘文にもどって「旦那下野国道清」を見てみます。
ここからは、この法華経を納めた小型経筒の施主は下野国の道清であることが分かります。良識は、下野国(栃木県)の道清から依頼を受けて、法華経を経筒に納め、諸国の社寺に奉納していたことになります。社寺への奉納には、直接社寺へ法華経を奉納する場合と、自ら塚などを築き法華経を納めた経筒を奉納する場合があったようですあります。白峯寺の経筒の場合は後者で、宝医印塔も同時に造立したと研究者は考えています。ただ、経筒を奉納しただけでなく、埋納施設や印塔も建立しているというのです。これを全国でやっていたとしたら多額の資金と労力が必要になります。下野国の檀那道清は、それだけの資力を持っていた人物だったようです。このように当寺の六十六部は、かつての熊野行者のように有力者の依頼を受けて、全国を代参していたものもいたようです。
 経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。
廻国聖の場合は、諸国を廻国するので社寺に奉納する時期がいつになるか分かりません。そのために「今月今日」としていたようです。ここからは、良識は、白峯寺にやてきて長期滞在して経典を書写したのではなく、出発前に書写されたものを持参していたことがうかがえます。確かに経筒は10㎝程度の小さいものなので、それも可能かも知れません。

以上のから「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれが、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に没した良恩に次いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、またが「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。
経筒外面に刻まれた文字から、この経筒は廻國行者である「良識」によって奉納されたことを見てきました。
私が気になるのは、この経筒を納めた良識につながる法脈です。
先ほど見たように金剛三昧院の住持は、戦国時代には「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌と続きます。
良識の跡を継いだ良昌を見ておきましょう。
高野山大学図書館蔵の『折負輯』には、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生、法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺を兼帯していたことが分かります。そして、天正8(1580)年に亡くなっています。
 ちなみに、法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。法勲寺を継承する島田寺も『讃留王神霊記』(島田寺蔵)には綾氏の氏寺と記されています。そして、「大魚退治伝説」は、島田寺僧侶による「創作神話」と考えられています。このふたつの寺は、神櫛王の「大魚退治伝説」の「発信地」なのです。背後には、綾氏一族の勢力があります。
  財田で生まれた良昌が、綾氏の氏寺とされる丸亀市飯山町の法勲寺や島田寺の住持になる。そして、さらに高野山三間維持の住持へと転進する。そこには、どんな「選考基準」や「ネットワーク」があったのかと不思議になります。考えられる事は、次のようなステップです。
①有力者(武将)の一族の子弟が、近くの学問寺に入り出家する。(例 萩原寺・大興寺・金倉寺・金倉寺)
②能力と資力のある若い僧侶は、師匠から推薦されて、讃岐出身者が住持を務める高野山金剛三昧院に留学する。
③そこで教学を学ぶと供に、真言系修験道も身につける。(例 良識の四国辺路や廻国六十六部)
④教学と修法の両道を納め地元讃岐の島田寺などの住持に収まる。
⑤金剛三昧院の「次期長老候補リスト」があり、師弟関係にある弟子として後継者指名を待つ。
こうして、「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌」という讃岐出身者による住持継承が行われたと私は考えています。
そうだとすると、高野山金剛三昧院の住持になるための必要要件としては、次のような要件が求められることになります。
①有力武将の一族であること 一族の支援が受けられること ある程度の経済力があること 
②地元の学問寺で初期的な手ほどきを受けて、師匠から師匠の推薦を受けて高野山留学を行う事
③高野山留学中に、修業先の住持と師弟関係を結び法脈の中に名前が入ること
④経典研究など山内での修養だけでなく、真言修験者としての山林修行も積むこと
⑤以上を満たして、現住持との信頼を得て、「次期長老候補リスト」に入ること
 こんなところでしょうか。これを史料で裏付けておきます。

下の史料は「良恩授慶祐印信」と呼ばれる真言密教の相伝系譜です。
萩原寺文書 真言法脈
「良恩授慶祐印信」(萩原寺文書)
これは、萩原寺(観音寺市大野原町)の聖教の中にあったもので、「町誌ことひら 史料編282P」に掲載されています。ここで登場する「良恩」とは、「第30長老良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水」のことです。良識や良昌の前の金剛三昧院の住持になります。彼の法脈がどのように伝えられてきたかを示すものです。

これを見ると、そのスタートは大日如来や金剛菩薩から始まります。そして①長安の惠果 ②弘法大師 ③真雅(弘法大師弟)と法脈が記されています。この法脈の実際の創始者は④の三品親王になるようです。それを引き継いでいくのが「⑥勝義 ⑦忠義」です。彼らについては、後述しますが讃岐岸上(まんのう町岸上)出身の師弟コンビです。さらに、この法脈は島田寺の⑧良識 ⑨良昌に受け継がれていきます。

「⑥勝義 ⑦忠義」は、高野山の明王院の「歴代先師録」に登場します。
⑥勝義は次のように記されています。
「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」

と記されます。忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房」と呼ばれたようで、勝義の弟子になるようです。彼も光明院と兼務したことが分かります。泉聖房・泉行房からは、彼らが修験者であったことが分かります。
また「析負輯」の「谷上多聞院代々先師過去帳写」の項には、次のように記されています。
「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」

 ここからは多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったことが分かります。
  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らは出身地のまんのう町岸上の光明寺を兼住していたこと
③彼らが修験者でもあったこと
これは、先ほど見た金剛三昧院の住持「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌」と同じパターンです。先ほどの仮説を裏付ける史料となりそうです。また、別の法脈として次のようなものもあります。

①明王院の勝義・忠義→②金剛三昧院良恩→③萩原寺五代慶祐

ここからは、この時期の高野山で修行・勉学した讃岐人は、幾重もの人的ネットワークで結ばれていたことが分かります。例えば、①の兼帯する光明寺と、②の兼帯する島田寺と③の萩原寺は、この法脈につながる僧侶が多数存在し、人脈的なつながりがあったことが推測できます。さらに、このような高野山ネットワークの中に、善通寺の歴代院主や後の金毘羅大権現金光院の宥雅や宥盛もいたことになります。彼らは「高野山」という釜の飯を一緒に食べた「同胞意識」を強く持ち、師弟関係や受け継いだ法脈で結ばれると同時に、時には反発し合うライバル関係でもあったことが考えられます。そこに多数の高野聖たちが入り込んでくるのです。
 それでは、高野山の今号三昧院や明王院など有力寺院の住持を、讃岐から輩出する背景は、何だったのでしょうか?
その答えも、萩原寺の聖教の中にあります。残された経典に記された奥書は、当時の光明寺ことを、さらに詳しく教えてくれます。
                                 
一、志求佛生三味耶戒云々
奥書貞和二、高野宝憧院細谷博士、勢義廿四、永徳元年六月二日、於讃州岸上光明寺椀市書篤畢、
穴賢々々、可秘々々、                   祐賢之
意訳変換しておくと
一、「志求佛生三味耶戒云々」について
この経典の奥書には次のように記されている。貞和二(1346)年に、高野宝憧院の細谷博士・勢義(24歳)がこれを書写した。永徳元年(1381)6月2日、讃岐岸上の光明寺椀市で、祐賢が書き写し終えた。
 ここからは、高野山宝憧院勢義が写した「志求仏生三昧耶戒云々」が、約40年後に讃岐にもたらされて、祐賢が光明寺で書写したことが記されます。また「光明寺椀市」を「光明寺には修行僧が集まって学校のような雰囲気であった」と研究者は解釈します。以前にお話ししたように、三豊の萩原寺・大興寺や 丸亀平野の善通寺・道隆寺や金蔵寺、そしてまんのう町の尾背寺なども「学問寺」でした。修行の一環として、若い層が書写にとりくんでいたようです。それは、一人だけの孤立した作業でなく、何人もが机を並べて書写する姿が「光明寺椀市」という言葉から見えてきます。
 同時に彼らは学僧という面だけではありませんでした。行者としても山林修行に励むのがあるべき姿とされたのです。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。
 彼らが地元の修行ゲレンデとしたのが、次のような中辺路ルートだと私は考えています。
①三豊の七宝山から善通寺我拝師山まで(観音寺から曼荼羅寺まで)
②弥谷寺と白方海岸寺の行道
③善通寺から大麻山・象頭山の行場を経てまんのう町の尾野瀬寺まで
このような行場ルートに、他国からも多くの山林修行者がやてきて写経と行道を長期に渡って繰り返します。これがプロの宗教者による「中辺路ルート」の形成につながります。それが近世になると、行場での修行を伴わないアマチュアによる札所めぐりに変化していきます。そうなると行場のそばにあったお堂や庵は、里に下りてきて本寺へと変身していきます。これが四国遍路へと成長していくというのが、現在の研究者の見解のようです。

 良識は若い頃には、四国辺路を行い、長老となっていても廻国六十六部として諸国をめぐっていたとするなら、プロの修験者でもあったことになります。そして、良識と師弟関係を結ぶ者、法脈を同じくする者は、同じく山林修行者であった可能性が強いと私は考えています。彼らは「不動明王・愛染明王」など怒れる明王たちを守護神とする修験者でもあり、各地の行場を求めて「辺路」修行を行っていたのです。その代表例が、東さぬき市の与田寺を拠点とした増吽だったのでしょう。まんのう町の光明寺も、丸亀市飯山の島田寺も与田寺のような書写センターや学問寺として機能していたとしましょう。こうした学問寺が数多くあったことが、優秀な真言僧侶を輩出し続けた背景にあったようです。
 それは「古代に大師を何人も輩出したのが讃岐」の伝統を受け継ぐシステムとして機能していたように思えます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

      十返舎一九_00006 六十六部
十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

   「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。

 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らの姿は、次のように史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、四国遍路のようには、私には六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地がよく分かりませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。讃岐の場合は、どこが奉納経所であったのかもよく分かりません。
六十六部 十返舎一九 大窪寺
甘酒屋に集まる四国遍路 その中に描かれた六十六部(十返舎一九)

白峯寺縁起 巻末
『白峯寺縁起』巻末(応永13年-1406)
研究者は白峯寺所蔵の『白峯寺縁起』の次の記述に注目します。
ここに衆徒中に信澄阿閣梨といふもの、霊夢の事あり。俗来て告げて云。我六十六ケ国に、六十六部の本尊を安置すへき大願あり。白峯寺本尊をは早造立し申たり。渡奉へしと示して夢党ぬ.・…
意訳変換しておくと
白峯寺の衆徒の中の信澄阿閣梨という僧侶が次のような霊夢を見た。ある人がやって来て「我は六十六ケ国に、六十六体の本尊を安置する大願も持つ。白峯寺本尊は早々に造立したので、これを渡す」と告げて夢は終わった。
ここからは15世紀初頭には、白峯寺が六十六の本尊を祀り、奉納経先であったことがうかがえます。
古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
埋められた経筒の例

さらに、白峯寺には、西寺の宝医印塔から出土した伝えられる経筒があります。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺の経筒(伝西寺跡の宝医印塔から出土)

そこには次のような銘文があります。
    享禄五季
十羅刹女 四国讃州住侶良識
奉納一乗真文六十六施内一部
三十番神 旦那下野国 道清
今月今日
意訳変換しておくと
 享禄五(1532)年
法華経受持の人を護持する十人の女性である十羅刹(じゅうらせつにょ)に真文六十六施内一部を奉納する。 納経者は四国讃州の僧侶良識 檀那は 旦那下野国(栃木県)の道清
今月今日
ここからは、下野の道清から「代参」を依頼された「四国讃州の良識」が讃岐の六十六部の奉納先として白峰寺を選んでいたことが分かります。室町時代後期には、白峯寺が六十六部の本納経所であったことがうかがえます。ここで研究者が注目するのが「四国讃州住侶良識」です。良識について、研究者は次のように指摘します。
①「金剛峯寺諸院家析負輯」から良識という僧は、高野山金剛三味院の住職であること
②戦国期の金剛三昧院の住職をみると良恩―良識―良昌と三代続て讃岐出身の僧侶が務めたていること
③良識は金剛三昧院・第31世で、弘治2年(1556)11月に74歳で没していること
展示・イベントのお知らせ|高松市
讃岐国分寺 復元模型

良識については、讃岐国分寺の本尊の落書の中にも、次のように名前が名前が出てきます。
当国井之原庄天福寺客僧教□良識
四国中辺路同行二人 納中候□□らん
永正十年七月十四日
意訳変換しておくと
讃岐の井之原庄天福寺の客僧良識が、四国中辺路を同行二人で巡礼中に記す。永正十(1513)年七月十四日

ここに登場する良識は、天福寺の客僧で、「四国中辺路」巡礼で讃岐国分寺を参拝しています。良識は次の3つの史料に登場します。
①白峰寺の経筒に出てくる良識
②高野山の金剛三味院の住職・良識
③国分寺に四国中辺路巡礼中に落書きを残した良識
この三者は、同一人物なのでしょうか? 時代的には、問題なく同時代人のようです。しかし、金剛三味院の住職という役職につく人物が、はたして六十六部として、全国を廻国していたのでしょうか。
室町時代後期の讃岐と高野山の関係をみておきましょう。
金毘羅大権現の成立を考える際の根本史料とされるのが金比羅堂の棟札です。ここには、次のように記されています。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都
宥雅が造営した」

「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者は、「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建された。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたものである」と考えるようになっています。
 ここには建立者が「金光院権少僧都宥雅」とあり、その時の導師が金剛三味院の良昌であることが分かります。建立者の宥雅は、西長尾城城主長尾氏の弟とも従兄弟ともされます。彼は、長尾一族の支援を受けて、新たに金毘羅神を創り出し、その宗教施設である金比羅堂を建立します。その際に、導師として高野山三昧院の良昌が招かれているのです。このことから宥雅と良昌の間には、何らかの深い結びつきがあったことがうかがえます。そして、先ほど見たように、戦国期の高野山金剛三昧院の住職は、「良恩―良識―良昌」と受け継がれています。良昌は良識の後任になることを押さえておきます。

戦国期の金昆羅金光院の住職を見ると、山伏(修験者)らしき人物が数多く勤めています。
流行神としての金毘羅神が登場する天正の頃の住職は、「宥雅一宥厳一宥盛」と続きます。初代院主とされる宥雅は長尾大隅守の弟か従兄弟とされます。彼は長尾氏が長宗我部元親に減ぼされると摂津の堺に亡命します。金毘羅に無血入城した元親が建立されたばかりの松尾寺を任せるのが、土佐から呼び寄せた宥厳です。宥厳は土佐幡多郡の当山派修験のリーダーで大物修験者でした。その後を継いだのが宥厳を補佐していた金剛坊宥盛です。宥盛は山伏として名高く、金比羅を四国の天狗信仰の拠点に育て上げていきます。その宥盛は、もともとは宥雅の弟子であったというのです。
 こうしてみると、金岡三昧院良昌と深い関係にあった宥雅も実は山伏であったことがうかがえます。
宥盛は、山伏として多くの優れた弟子たちを育てて権勢を誇り、一方では高野山浄菩提院の住職ともなって、金光院と兼帯していたことも分かってきました。このように高野山の寺院の住職を、山伏が勤めていたことになります。
 近世には「山伏寺」というのは、一団格が低い寺と見なされるようになり、山伏と関係していたことを、どこの真言寺院も隠すようになりますが、近世はじめには山伏(修験者)の地位と名誉は、遙かに高かったことを押さえておきます。
 例えば、17世紀前半に善通寺の住職が、金毘羅大権現の金光院院主は善通寺の「末寺」であると山崎藩に申し立てて、末寺化しようとしています。それほど、真言僧侶の中では、金毘羅大権現の僧侶と、善通寺は関係が深いと認識していたことがうかがえます。
 さて、もういちど白峯寺経筒の良識にもどります。
先ほど見た良識が同一人物であったとすれば、次のような彼の軌跡が描けます。
①永正10年(1513)、31歳で四国辺路
②享禄 5年(1532)、50歳で六十六部となり日本廻国
六十六部の中に、高野山を本拠とする者が多くいたことは、先ほど見たとおりです。当時の高野山は学侶方、行人方、聖方などに大きく分かれていましたが、近時の研究では高野山の客僧の存在が注目されるようになっているようです。客僧は学侶・行人・聖のいずれにも属さない身分で、中世末以降は山伏をさすことが多いようです。六十六部として廻国したのは行人方あるいは客僧と研究者は考えています。
 室町時代後期ころの金剛三味院がどのような様子だったのかは分かりません。しかし、戦国時代には山伏と深い関係があったことは、「良識ー良昌ー宥雅ー宥盛」とのつながりでうかがえます。良識が客僧的存在の山伏であり、六十六部や四国辺路の先達をした後、金剛三味院の住職となったというストーリーは無理なく描けます。

 白峯寺に版本の『法華経』(写真34)が残されています。
白峯寺 法華経第8巻
法華経(白峯寺)
その奥書には、次のように記されています。
寛文四年甲辰十二月十日正当
顕考岡田大和元次公五十回忌於是予写法華経六十六部以頌蔵 本邦
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守藤原元勝入道宗休
  意訳変換しておくと
寛文四(1664)年甲辰十二月十日に、「従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休」が父の岡田大和元次公の五十回忌のために、法華経を書写し、全国の六十六ヶ国に奉納した。
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休

ここには、藤原元勝が父岡田元次公の50回忌に、66ヶ国に『法華経』を奉納したこと、讃岐では、白峯寺に奉納されたことが分かります。
奉納者の藤原元勝は岡田元勝といい、家康に仕えた旗本で、次のような経歴の持ち主のようです。
天正17年(1589)に岡田元次の子として生まれその後に神尾姓となり
慶長11年(1606)に、徳川家康に登用され、書院番士になり
寛永元年(1624)に陸奥に赴き
寛永11年(1634)に長崎奉行へ栄転
寛永15年(1638)に江戸幕府の町奉行となり
寛文元年(1661)3月8日に退職。
その後は、宗体と名乗り、寛文7年(1667)に没
奥書からは、彼が退職後の寛文3年(1663)に父の岡田元次公の50回忌に『法華経』を66ヶ国に奉納したことになります。しかし「写法華経六十六部」とありますが、70歳を過ぎた高齢者が10年以上もかかる日本廻国を行ったとは思えません。「柳寓追遠之果懐而巳」をどう読むのかが私にはよく分かりませんが、遠方なので代参者に依頼したと私は解釈します。
 
 宝永~正徳(1704~16)年間に日本廻国した空性法師は、四国88ヶ所のほぼ全てに奉納しています。
この時になると、白峯寺だけでなく四国霊場全てが奉納対象になっていたことが分かります。そして以後の六十六部廻国行者も同じ様に全てに奉納するようになります。その結果、讃岐の霊場の周辺には数多くの六十六部の痕跡が残ることになります。この痕跡が最も濃いのが三豊の雲辺寺→大興寺→観音寺の周辺であることは、以前にお話ししました。

以上、享禄5年の経筒、神尾元勝の『法華経』奉納などから白峯寺か中世末から六十六部奉納経所であったと研究者は判断します。これは六十六部が四国辺路の成立に関わっていたことを裏付けることになります。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年141P
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金刀比羅宮宝物館の十一面観音について
明治の神仏分離で、金毘羅大権現の仏像たちは全て追い出されて、金毘羅大権現は金刀比羅宮に変身しました。入札で引き取り手のある仏は、他の寺に移っていきました、引き取り手のないものは、燃やされたことが当時の禰宜であった松岡調の日記には書かれています。そして、金刀比羅宮には仏様はいなくなった・・・・はずなのですが二体だけ残されて、宝物館に展示されています。当時の金刀比羅宮の禰宜松岡調が、このふたつの仏だけは残すと決めた仏像です。金毘羅さんにとって、それだけ意味のある仏であったようです。
宝物館に行くと、松尾寺観音堂にあった十一面観音像が迎えてくれます。
11金毘羅大権現の観音
十一面観音(金刀比羅宮)
 もともとこの観音様は聖観音として伝来してきました。しかし、正面に立って見ると頭上の化仏が指し込められていた穴跡が見えます。聖観音ではなく、十一面観音だったことが分かります。

1 金毘羅大権現 十一面観音2
十一面観音(金刀比羅宮)
 左手に持っていた蓮の花を挿した花瓶も失われています。観音を乗せていた蓮華座もありません。よく見ると裳には華文を描いた彩色が残っています。
DSC01221
         十一面観音(金刀比羅宮)
藤原時代前期の作とされて、今は重文指定を受けています。
DSC01222

この十一面観音が神仏分離以前には、松尾寺の観音堂に安置されていたようです。

2.象頭山山上3 ピンク
本堂左側にあるのが松尾寺の観音堂

私はてっきり、この観音さんが本尊だとおもていたのですが、そうではないようです。江戸末期の『金毘羅参詣名勝図会』には、観音堂の本尊は「聖観音菩薩」で、この「十一面観音」は本尊の「前立て」として安置されていて、「古作」であると記されています。江戸末期には、化仏も失われ、花瓶も失われていたので、前立てとして脇役の位置に甘んじていたようです。

DSC01029観音堂

 さて、本題に入っていきます。観音堂が松尾寺の本堂として最初に創建されたのは戦国時代末でした。十一面観音の方は、それよりずっと古い藤原時代前期の作です。本堂と十一面観音の時代が一致しません。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会)

ここからは、創建された本堂に、どこからか十一面観音を持ち込んできて、いつの時代からは聖観音とされていたことが分かります。

金毘羅観音堂略図
十一面観応が安置されていた観音堂平面図
 それでは、この十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか
まず考えられるのは、大麻山中にあった古刹の滝寺・小滝寺からやってきたという説です。

金毘羅宮の学芸員を長く勤めた松原秀明氏は「金毘羅信仰と修験道」の中で
①観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる大麻山の滝寺の本尊を移したもの
②前立の十一面観音は、その麓にあった小滝寺の本尊であったもの
 滝寺とは、どこにあったお寺でしょうか。

DSC01220
滝寺は現在の葵の瀧辺りにあったいわれる

奥社からさらに、大麻山方面へ工兵道が伸びていきます。この道は戦前の善通寺11師団の工兵たちが演習で作ったので、工兵道と呼ばれています。ほぼ水平のの歩きやすい山道で、野田院古墳辺りに抜けていきます。その途中に、切り立った屏風岩という崖があり、高さはありますが水量は乏しい瀧が現れます。今は地元では、葵の瀧と呼ばれているようですが大雨の降った後は見応えがあります。金毘羅さんの中で、私のお勧めポイントです。ここは修験者の行場としてふさわしいところで、象頭山に全国から集まった「天狗」たちの聖地だったところと私は考えています。

 滝寺と呼ばれた寺院の本尊は?
仁治四年(1243)事に讃岐に流された高野山のエリート僧侶、道範は讃岐での生活を『南海流浪記』に残しています。

史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記 洲崎寺版
 放免になる前年の宝治二年(1248)年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねた帰路に、琴平山の称名院に立ち寄ったことが次のように記されています。

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきたようです。
 道範は念々房がいなかったので、その足で滝寺に参詣し、次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (『南海流浪記』)

ここから分かることは
①道範が秋も深まる11月末に滝寺を訪れたこと
②坂を1,6㎞ほど登ると東向きに瀧があり
③古い寺の痕跡を示す礎石も所々に残り  → 古代山岳寺院?
④本堂は五間四方で、千手観音を本尊(?)とする山岳寺院
  大きさが五間というと山中にあるにしては、立派な本堂です。注目したいのは本尊です。「本仏御作千手云々」で「御作」とあるので弘法大師手作りなのでしょう。「千手」とあるので千手観音菩薩と考えられます。しかし、研究者が注目するのは最後の「云々」です。これは伝聞で、断定の「也」ではありません。ここからは宥範は、実際には瀧寺の本尊の観音さまを見ていなかったとも考えられます。そうだとすれば

「金刀比羅宮所蔵の十一面観音像は、滝寺の本尊であった」

という説とも矛盾しないというのです。「本仏御作千手云々」をどう解釈するかの問題になります。

「滝寺の千手観音 → 松尾寺観音堂の十一面観音」説

は、紙一重で生き残っていることになります。実は、これは金比羅神の本地物問題とも関わってくることのようです。そして、研究者が頭を抱えている問題でもあるようです。ここでは十一面観音が滝寺からやって来たということは、認められない立場の研究者の説を見ていくことにします。

称名寺 「琴平町の山城」より
金刀比羅宮神田の上にあった称名寺

十一面観音は、麓の称名寺からやってきたという説もあります。
称名寺の本尊については、道範は何も記していません。江戸時代の多聞院に伝わる『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。

「当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 地元では、阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。ここには十一面観音が称名院にあった痕跡はありません。高野聖に近い念仏聖がいた気配がします。

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称名寺跡の祠
 近世以前の象頭山には、金毘羅神の出現以前に滝寺・称名寺や大麻山などの宗教施設があり、地元の人々の信仰の対象となっていたことが分かります。同時に、霊山として修験者の行場としても機能していたようです。しかし、十一面観音を本尊とする寺院は周辺には見当たりません。
 金比羅神を創出し、金比羅堂を建立した宥雅にとって、十一面観音はどうしても手に入れ、安置したい仏でした。なぜなら金比羅神の本地物は、十一面観音とされていたからです。十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか?  その前に、金比羅堂建立について、触れておきます。
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称名寺跡付近から眺めた小松荘

 松尾寺及び金毘羅堂は、いつだれによって建立されたのか
 松尾寺の創建は、古代や中世に遡るものではなく戦国時代末のことであったと現在の研究者の多くは考えるようになっています。その根本史料としてあげられるのが松岡調の『新撰讃岐風土記』に紹介されている次の金比羅堂の創建棟札です。
 (表)「上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四(1573)年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のような事が分かります。
①元亀四年(1573)に宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建てた
②その新築された堂と堂内で祀られた本尊の開眼法要の導師を高野山金剛三昧院の良昌が勤めた
 この棟札は、以前は「本社再営棟札」とされていました。しかし、この内容からは、金毘羅神が鎮座するための金毘羅堂を新しく建立したと読めるのです。「再営」ではなく「創建」なのです。
大麻山と象頭山 A
象頭山
松尾寺のある象頭山は霊山で、修験者の行場も数多くあります。
最初に、ここに行場を開いたのは熊野行者であったようで、熊野行者が祀る薬師如来を本尊として松尾寺が開かれたようです。そのため金毘羅堂では「金毘羅王赤如神」を祀っていても、松尾寺の本尊は薬師如来で、それを春族の宮毘羅大将をはじめとする十二神将が守るという形がとられていた研究者は考えているようです。

 しかし、金毘羅神の本地仏は十一面観音なのです。
十一面観音を本尊とする本地堂(観音堂)が新たに必要になります。そのため寛永元(1624)年までには観音堂が、現在の金刀比羅宮本社前脇に建ってられたようです。そして、ここに十一面観音を安置することで、金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立されることになります。
次に導師を勤めた良昌とは、何者なのでしょうか?
高野山大学図書館蔵の『折負輯』は、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

とあって、ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の管理も任されていたようです。天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。
 法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、同寺旧蔵の『讃留王神霊記』には綾氏の氏寺記され、神櫛王の「大魚退治伝説」の発信地のひとつです。以前に、「金比羅神=クンピラーラ + 神櫛王伝説の悪魚(神魚に変身)」説を紹介しました。金毘羅堂落慶供養導師良昌と島田浄土寺・法勲寺と「大魚退治伝説」とを結ぶ因縁が、金毘羅信仰成立にも絡んでいると研究者は考えているようです。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表) 
悪魚伝説については何度も触れましたが、できるだけコンパクトに紹介しておきます
  法勲寺には、寺院縁起として次のような悪魚退治伝説が、伝えられてきました。
 景行天皇の時代、瀬戸内海には呑舟の大魚が棲んでおり、舟を襲ってば旅客に莫大な被害を与えた。そこで朝廷では、日本武尊の子で勇猛な神櫛王(武卵王)に悪魚を退治させるように命じた。神櫛王はみごと悪魚を退治したので、讃岐国を与えられ国造としてこの地を守ったので、人々は彼を、讃留霊王と呼ぶようになった。讃留霊王が亡くなると、法勲寺の西に墓がっくられて讃留霊王塚と呼んで法勲寺が供養してきた。

というのが、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説の粗筋です。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治伝説
悪魚は退治されてもその怨念は鎮まらず、たたりとなって悪疫や争乱を引き起こします。そこで、悪魚の怨念を鎮めるために、退治された悪魚の屍が流れ着いたという坂出市の福江浜には、悪魚を祀る魚の御堂が建てられます。
 宥雅は56歳の時、無量寿院縁起を筆録しています。
その中には悪魚退治伝説が含まれていました。宥雅は、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説のことをよく知っていたのです。宥雅は、西長尾城城主の弟とも甥とも云われます。彼は長尾氏一族の支援を受けて、1573年に松尾寺境内に金毘羅堂を創建します。その数年前の1570年頃には、十一面観音を本尊として祀る松尾寺を、長尾城主の長尾大隅守高家を始めとする一族の支援を得て建てます。
 新しく建立した松尾寺を守る守護神として、今までの三十番神では役不足と考えた宥雅は、強力な力を持った蕃神の勧進を考えます。その結果生み出されたのが流行神の金毘羅神だという説です。その際に、金比羅神の「実態」イメージとして借用したのが「悪魚退治伝説」に登場する「悪魚」でした。これを「神魚」としてイメージアップして、金比羅神へと変身させていったのです。

   その辺りのことを研究者は次のように、述べます
 大魚を、仏典のワニ神クンビーラや大魚マカラと融合させていかめしく神として飾り立てたのが、金毘羅王赤如神だ。写本した無量寿院縁起の中で宥雅は、悪魚のことを「神魚」だと記している。金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、仏典のクンビーラやマカラで飾り立てられた神魚であったといえる。古くよりワニのいない日本で、ワニとされたのは海に棲む凶暴な鮫であった。鮫=悪魚で、悪魚の姿は仏典に見える巨魚マカラと習合する事で巨大化し、呑舟の大魚となったといえよう。『大集念仏三昧経』には、「金毘羅摩端魚夜叉大将」とあって、ワニ神クンピーラと大魚の摩端魚(マカラ)を結び付けて、夜叉を支配する大将としていた。退治された悪魚は死して鬼神となり、夜叉=鬼神であったから、悪魚は夜叉の大将として祀られる事となった。

 以上をまとめると次のようになります。
①金毘羅堂の創建と悪魚退治伝説には密接な関連がある
②悪魚退治伝説は法勲寺の縁起であって、
③廃絶した法勲寺の寺宝類を預っていたのが良昌で、彼は島田寺も管理していた
④良昌は松尾寺内の金毘羅堂の開眼法要を行っている。
  この上に立って、研究者は次のステップに飛躍します。
松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺にあったのではないかというのです。そして、次のような仮説を立ち上げていきます。
①法勲寺の管理を委ねられた良昌は、その再建の機会をうかがっていた
②宥雅が松尾寺を建立することを聞いて、宥雅に十一面観首を譲ってその管理を頼んだ
③金毘羅堂の創建には、廃絶した法勲寺の悪魚退治伝説を受け継ぎ、後世に伝える期待が込められていた
つまり、現在の宝物館にある十一面観音は、もともとは法勲寺の本尊で、島田寺で保管されていた仏が、松尾寺本堂(観音堂)に持ち込まれたという説になります。
良昌が管理責任者だった頃の法勲寺は、どんな状態だったのでしょうか
法勲寺は室町後期に失火が原因で焼失して廃絶し、焼け残った仏像や聖典・仏具などを島田寺に預けていたと云います。しかし、島田寺も長宗我部元親の讃岐侵攻で焼けてしまいます。その後、生駒親正が讃岐の領主となって入国して高松に城をつくった時に、法勲寺は菩提寺として高松城下に移されてで再建されます。その法勲寺の属寺として、飯山の島田寺も再建されたようです。後に、法勲寺は親正の法名弘憲にちなんで、弘憲寺と呼ばれるようになります。
 再度確認しておくと良昌が法勲寺と島田寺の管理を任されていた頃、法勲寺は伽藍もお堂もない、状態で、焼け残った仏像や寺宝類を島田寺に預けていたと、研究者は考えているようです。
そのような中で良昌は、当時は島田寺に保管されていた十一面観音を宥雅に譲り、松尾寺で金比羅神の本地仏として祀ることを提案したのではないでしょうか。この時の良昌の頭の中には

松尾寺の本尊 薬師如来
=守護神 金比羅神 
=その本地仏・十一面観音

という図式があったのかもしれません。逆に考えると、十一面観音を本地物とする蕃神を新たな松尾寺の守護神とすることを、提案したのは良昌だったとも小説なら書けそうです。もちろん、悪魚伝説もセットになります。
 良昌にしてみれば、高野山にいて故郷の法勲寺や島田寺の荒廃には、心を痛めていたはずです。
そのような中で、悪魚伝説が金比羅神に姿を変えて伝えられることは、神櫛王=讃留霊王伝説を後世に伝え、ひいては綾氏創生伝説を引き継いでいくことにもなります。宥雅が松尾寺・金比羅堂を建立するのを聞いて、良昌は全面的な支援を行うことを決意したのでしょう。新たな地方寺院の建立に、故郷の讃岐の事とは云え、高野山のトップに近い高僧がやってくるというのは普通ではありません。そのくらいの背景があったと考えても不思議ではないでしょう。
もう一度、十一面観音を見てみましょう。
1 金毘羅大権現 十一面観音1

 蓮華座は失われていますが、その形態から十一面観音であることはとは明らかです。松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺のものという仮説はどうでしょうか。史料的な裏付けはありませんが、近世直前の金毘羅さんの動向を考える上では、私にとっては刺激剤となりました。
年表で宥雅と金比羅堂を取り巻く状況を最後に確認しておきましょう
元亀4年1573 宥雅が金毘羅宝殿を建立。良昌が導師として出席
天正元年1573 本宮改造。
天正7年1579 長宗我部元親の侵入を避けて宥雅が泉州へ亡命。
                土佐の修験者である宥厳が院主に
                元親側近の土佐修験者ブレーンによる松尾寺の経営開始 
天正9年1580 長宗我部元親が讃岐平定を祈って、天額仕立ての矢
       を松尾寺に奉納。
天正11年1583 三十番神社葺替。棟札には、「大檀那元親」・
「大願主宥秀」      
天正12年1584  讃岐は元親によって平定。
天正12年1584 長曽我部元親が仁王堂を寄進(賢木門改造)
                棟札の檀那は「大梵天王長曽我部元親公」願主は 「帝釈天王権大法印宗信」
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。

以上の仮説をまとめておくと次のようになります
① 松尾寺の観音堂の十一面観音は、松尾寺建立よりもずっ
  と古い藤原時代前期の仏像
② 松尾寺と金毘羅堂の創建は、宥雅と高野山金剛三昧院の
良昌の二人の僧侶の協力によって行われた
③ 良昌は法勲寺の寺宝類を管理する立場にあり、十一面観 音は焼け残った法勲寺の寺宝の一つであった

最後に高松に移され生駒親正の菩提寺となった弘憲寺について見ておきましょう
1 弘憲寺 讃留霊王G

 この寺には、江戸時代に描かれた讃留霊王(神櫛王)の肖像画があります。ここからは、弘憲寺が法勲寺を継承する寺であることがうかがえます。同時に、生駒藩時代には讃留霊王信仰が藩主によって広まっていた形跡もあります。

 弘憲寺の本尊は、平安時代の木像不動明王立像です。

木造不動明王立像|高松市
高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、この不動明王について、次のように記します。
 不動明王は、身の丈109センチの檜(ひのき)の一木造りで岩坐の上に立っておられる。頭の髪は、頂で蓮華(れんげ)の花型に結(ゆ)い、前髪を左右に分けて束ね、左肩から垂らす。腰には短い裳(も)をまとい、腰紐で結ぶ。このお姿から、印度の古代の田舎の童子の髪の結い方や服装がうかがわれる。額にしわをよせ眉をさかだて、左の目は半眼に右目はカッと見開く。いわゆる天地眼(てんちがん)で、左の上牙で下唇を右の下牙で上唇をかみしめ、忿怒相(ふんぬそう)をしている。不動信仰の厳しさを感じさせられる。
 全身の動きは少なく、重厚さの中に穏やかさを感じさせ、貞観彫刻から藤原彫刻への移行がみえる。旧法勲寺(ほうくんじ)(飯山町)から移されたと伝えられている。
この不動明王も、もともとは法勲寺にあったもののようです。不動明王は修験者の守護神ですから中世には、法勲寺や島田寺も修験者の寺であったことがうかがえます。しかし、修験者が守護神として身につけた不動明王は、空海によってもたらされた「新しい仏」で、白鳳・奈良時代にはいなかった仏です。奈良時代に開かれた法勲寺の本尊としては、ふさわしくありません。創建当時から本尊とされていたのは、不動明王以外の仏が本尊であったと考えるのが自然です。
それでは、法勲寺の本来の本尊は何だったのでしょうか
 第1候補として挙げられるのが観音菩薩です。そうだとすれば、金毘羅大権現の松尾寺の十一面観音は法勲寺のものであった可能性がでてきます。しかし、それを裏付ける史料はありません。あくまで仮説です。
松尾寺は別当寺として金毘羅大権現を祀り、この松尾寺の中心が観音堂でした
そういう意味では、十一面観音は金毘羅信仰の中でも重要な位置を占めていたわけです。そして、松尾寺は観音霊場でもあった痕跡があります。十一面観音は平安時代からの微笑を浮かべるだけで、その由来に関しては何も語りません。
参考文献
○松原秀明「金毘羅信仰と修験道」(守屋毅編『民衆宗教史叢書 金毘羅信仰』、雄山間発行、一九九六年)
○『琴平町史』巻一 (琴平町発行、一九九六年)
○「金毘羅参詣名勝図会」「讃岐国名勝図会」(『日本名所風俗図会 四国の巻』、角川書店発行)


   前回は「金毘羅神」創作の中心となった宥雅と法勲寺や櫛梨神社とのつながりを見てきました。今回は、宥雅の一族である長尾氏について、探って見ようと思います。宥雅は、西長尾城主(まんのう町長尾)の長尾大隅守の甥とも弟とも云われています。長尾氏周辺を見ることで、金毘羅神が登場してくる当時の背景を探ろうという思惑なのですがさてどうなりますか。
 最初に、長尾氏の由来を押さえておきます
  長尾氏については、多度津の香川氏などに比べると残された史料が極端に少ないようです。また、南海治乱記などにも余り取り上げられていません。ある意味「謎の武士団」で、実態がよくわからないようです。そのため満濃町史などにも、一つのストーリーとしては書かれていません。
 県史の年表から長尾氏に関する項目を抜き出すと以下の4つが出てきました。
①応安元年(1368) 
西長尾城に移って長尾と改め、代々大隅守と称するようになった
②宝徳元年(1449) 
長尾次郎左衛門尉景高が上金倉荘(錯齢)惣追捕使職を金蔵寺に寄進
③永正9年(1512)4月 
長尾大隅守衆が多度津の加茂神社に乱入して、社内を破却し神物
④天文9年(1540)
7月詫間町の浪打八幡宮に「御遷宮奉加帳」寄進
荘内半島

まず①の長尾にやって来る前のことから見ていくことにします。
『西讃府志』によると、長尾氏は、もともとは庄内半島の御崎(みさき)に拠点を持つ「海の武士=海賊」で「海崎(みさき)」を名乗っていたようです。その前は「橘」姓であったといいます。讃岐の橘氏には、二つの系譜があるようです。
一つは、神櫛王の子孫として東讃に勢力を持っていた讃岐氏の一族が、橘氏を称するようになります。讃岐藤家の系譜を誇る香西氏に対して讃岐橘姓を称し、以後橘党として活躍する系譜です。しかし、これは、東讃中心の勢力です。
もう一つは、藤原純友を討ち取った伊予の警固使橘遠保の系譜です。
 この一族は、純友の残党を配下に入れて「元海賊集団を組織化」して「海の武士」として各地に土着する者がいたようです。例えば源平合戦の際に、屋島の戦いで頼朝の命を受けて源氏方の兵を集めに讃岐にやって来た橘次公業は、橘遠保の子孫といわれます。橘姓の同族が瀬戸内海沿岸で勢力を持っていたことがうかがえます。海崎氏は、こちらの系譜のように思います。

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荘内半島から望む瀬戸内海(粟島方面)
 想像を膨らませると、平安時代の末ごろから橘氏の一族が讃岐の西の端に突きだした庄内半島に土着します。あるときには海賊として、あるときには武士団として瀬戸内海を舞台に活躍していた海民集団だったのではないでしょうか。それが、源平の合戦で源氏側につき、海上輸送や操船などで活躍し、軍功として地頭職を与えられ正式な支配権を得るようになったとしておきます。

船越八幡神社 (香川県三豊市詫間町大浜 神社 / 神社・寺) - グルコミ
            船越八幡神社
この地は、陸から見れば辺境ですが、海から見れば「戦略拠点」です。なぜなら燧灘沿岸の港の船は、紫雲出山の麓にある「船越運河」を通過していたからです。興味のある方は、船越八幡神社を訪れると、ここに運河があったことが分かります。仁尾や観音寺、川之江の船は、この運河を通って備讃瀬戸へ出ていたようです。その運河の通行税を、取っていたはずです。それは「村上水軍」が通行税を、沖ゆく船から「集金」していたのと同じです。つまり、三豊南部の海上輸送ルートの、のど元を押さえていた勢力だったと私は考えています。
海崎(新田の)城 お薦め度 低 | 脱サラ放浪記(全国城郭便覧)
庄内半島の海崎(みさき)城跡
 山城の海崎(みさき)城跡は、紫雲出山に連なる稜線上にあります。ここからは360度のパノラマ展望で、かつては沖ゆく船の監視センターの役割も果たしていたのでしょう。
「海の武士」だった海崎氏が、どうして丘上がりしたのでしょうか?
  南北朝の動乱期に、細川頼之が南朝の細川清氏と戦った白峰合戦で、海崎氏は軍功をあげて西長尾(現まんのう町)を恩賞として預けられます。頼之の中国筋から宇多津進出に船団を提供し、海上からの後方支援を行ったのかもしれません。
庄内半島からやってきた海崎氏は、長尾の地名から以後は長尾氏と名乗り、秀吉の四国平定まで約200年間、この地で勢力を伸ばしていきます。

長尾氏 居館
長尾氏居館跡の超勝寺(まんのう町長尾)

 居館があったのは城山の西側の長尾無頭(むとう)地区で、現在の超勝(ちょうしょう)寺や慈泉(じせん)寺付近とされています。この当たりには「断頭」という地名や、中世の五輪塔も多く、近くの三島神社の西には高さ2㍍近くの五輪塔も残っています。           

 どこいっきょん? 西長尾城跡(丸亀市・まんのう町)
西長尾城のあった城山の麓にある超勝寺

 拠点を構えた長尾を取り巻く情勢を見ておきましょう
 この居館の背後の城山に作られたのが西長尾城になります。ここに登ると360度の大パノラマで周囲が良く見渡せます。北は讃岐富士の向こうに瀬戸内海が広がり、備讃瀬戸にかかる瀬戸内海まで見えます。西は土器川を挟んで大麻山(象頭山)がゆったりと横たわります。そして、南には阿讃山脈に続く丘陵が続きます。この西長尾城から歴代の長尾氏の当主たちは領土的な野望を膨らませたことでしょう。しかし、庄内半島からやってきたばかりの14世紀の丸亀平野の情勢は、長尾氏のつけいる隙がなかったようです。

長尾城2
 西長尾城本丸跡からのぞむ丸亀平野
承久の乱から元寇にかけて西遷御家人が丸亀平野にもやってきます。例えば、西長尾城から土器川を挟んだ眼下に見える如意山(公文山)の北側の櫛梨保の地頭は、島津氏でした。薩摩国の守護である島津氏です。その公文所が置かれたので公文の地名が残っているようです。宗教的文化センターが櫛梨神社で、有力地侍として岩野氏がいたこと、その一族から「善通寺中興の祖・宥範」が出たことを前回はお話ししました。どちらにしても「天下の島津」に手出しはできません。
西長尾城概念図
西長尾城概念図 現在残された遺構は長宗我部元親時代のもの

 それでは北はどうでしょうか
西長尾城は那珂郡(現まんのう町)と綾郡(現丸亀市綾歌町)の境界線である稜線上に建っています。その北側は現在のレオマワールドから岡田台地に丘陵地帯が広がります。領地であるこのあたりがに水が引かれ水田化されるのは、近世以後の新田開発によってです。その北の大束川流域の穀倉地帯は、守護・細川家の所領(職)が多く、聖通寺山城の奈良氏がこれを管理支配していました。この方面に勢力を伸ばすことも無理です。

西長尾城縄張り図
西長尾城縄張り図 曲輪は北に向かって張り出している
それでは東はと見れば、
綾川流域の羽床・滝宮は、結束を誇る讃岐藤原氏(綾氏)一族の羽床氏が、羽床城を拠点にしっかりと押さえています。さらに羽床氏は綾川上流の西分・東方面から造田にも進出し在地の造田氏を支配下に組み入れていました。つまり、長尾氏が「進出」していけるのは「南」しかなかったようです。
 この時期の神野や炭所では、丘陵地帯の開発が有力者によってを地道に行われていたようです。中世城郭調査報告書(香川県)には、炭所を開いた大谷氏について次のように記します。
 谷地の開墾 大谷氏
 中世の開墾は、国家権力の保護や援助に依頼することができなかったので、大規模な開墾は行われなかった。平地部の条里制地域の再開墾田は年貢が高く、検田も厳重であった。そこで、開墾は小規模で隠田などが容易な、湧水に恵まれた谷地などで盛んに行れた。
 鎌倉時代になってからまんのう町域でも、平地部周辺の谷地が盛んに開墾されたものと思われる。小亀氏と共に南朝方として活躍した大谷氏(大谷川氏)は、炭所東の大谷川・種子・平山などの谷地を開墾して開発領主となり、惣領が大谷川から大井手(現在の亀越池地)にかけての本領を伝領し、庶子がそれぞれの谷地の所領を伝領して、惣領制によって所領の確保が図られた。
  このように台頭してきた開発領主と姻戚関係を幾重にも結び「疑似血縁関係」を形成し、一族意識を深めていったのでしょう。
  『全讃史』には、長尾元高は長尾を拠点に、自分の息子たちを炭所・岡田・栗熊に分家し、その娘を近隣の豪族に嫁がせて勢力を伸ばしたと記します。長尾氏は、周辺の大谷氏や小亀氏と婚姻関係を結びつつ、岡田・栗熊方面の所領(職)には、一族を配置して惣領制をとったようです。
城山 (香川県丸亀市綾歌町岡田上 ハイキング コース) - グルコミ

西長尾城の西には象頭山があり、その麓には早くから九条家の荘園である小松荘(現琴平町)がありました。しかし、15世紀になると悪党による侵入や押領が頻発化し、荘園としては姿を消していきます。その小松荘の地侍に宛てた「感状」があります。金刀比羅宮所蔵の「石井家由緒書」の「感状」には、次のように記されています。
  去廿二日同廿四日、松尾寺城に於て数度合戦に及び、父隼人佐討死候、其働比類無く候、猶以って忠節感悦に候、何様扶持を加う可く候、委細は石井七郎次良申す可く候、恐々謹言
     十月州日            久光(花押)
    石井軽法師殿
 ここには松尾寺城(小松庄周辺)で、数度の合戦があり、石井軽法師の父隼人佐が戦死を遂げた。その忠節を賞し、後日の恩賞を約束した久光の石井軽法師にあてた感状のようです。久光という人物は、誰か分かりませんが、彼自身によって感状を発し、所領の宛行いも行っているようです。
   この花押の主・久光は、かつて細川氏の被官であった石井氏などの小松荘の地侍たちを自らの家臣とし、この地域を領国的に支配していることがうかがえます。これは誰でしょう。
長尾城全体詳細測量図H16
西長尾城 精密測量図

周辺を見回して、第1候補に挙げられるのが長尾大隅守だと研究者は考えています。九条家の小松荘を押領し、自らの領国化にしていく姿は戦国大名の萌芽がうかがえます。

③については、多度津町葛原の加茂神社所蔵の大般若経奥書に、永正9年(1512)4月の日付で次のように書かれています。

「当社壬申、長尾大隅守衆、卯月二十九日乱入して社内破却神物取矣云々」

 この時期、京都では管領細川氏の内部分裂が進行中でした。山伏大好きの讃岐守護の細川政元が選んだ養子・澄之が殺害され、後継者をめぐる対立で讃岐国内も混迷の仲にたたき込まれました。残された養子である澄元派と高国派に分かれて、讃岐は他国よりも早く戦国の状況になります。多度津の加茂社は、天霧城主の香川氏が実効支配する領域です。そこへ中央の混乱に乗じて長尾氏は侵入し、略奪を働いたということです。これは、香川氏に対しての敵対行為で、喧嘩を売ったのです。
 つまり、丸亀平野南部の支配権を固めた長尾氏が、北部の多度津を拠点とする香川氏のテリトリーに侵入し軍事行動を行ったことが分かる史料です。以後、香川氏と長尾氏は、対立関係が続きます。
 香川氏は西遷御家人で、多度津を拠点とする讃岐守護代で西讃地域のリーダーです。それに対して、長尾氏は、どこの出かも分からない海賊上がりです。そして、香川氏が阿波の三好氏から自立する方向に動き「反三好」的な外交を展開するのに対して、長尾氏は三好氏に帰属する道を選びます。丸亀平野の北と南で対峙する両者は、何かと対立することが多くなります。

浪打八幡宮 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
浪打八幡宮
④は、詫間町の浪打八幡宮に、天文9(1540)年7月11日に調製された「御遷宮奉加帳」が伝えられています
そこには 長尾左馬尉・長尾新九郎など、長尾一族と思われる氏名が記録されています。長尾氏は、もともとは庄内半島を地盤とする「海賊」であったという話を最初にしました。その関係で長尾に移って160年近く経っても、託間の浪打八幡宮との関係は切れていないようです。氏子としての勤めは律儀に果たしていることがうかがえます。あるいは、託間の港関係の利権が残っていたのかもしれません。そうだとすれば、長尾氏の海の出口は三野郡の詫間であったと考えられます。敵対する香川氏に多度津港は押さえられています。
長尾城10
西長尾城 本丸北側の曲輪郡
 『西讃府志』によると、戦国末期の当主高晴の時には、三野・豊田・多度・那珂・鵜足・阿野などの諸郡において六万五〇〇〇石余の地を領したと云います。『西讃府志』には生駒藩時代の慶長二年(1597)に神余義長がその家の覚書によって記したという「高晴分限録」があり、小松荘の地侍らしい名前と石高が次のように載っています。
五〇〇石 石井掃部、
五〇〇石 守屋久太郎、
四〇〇石 三井五郎兵衛、
四〇〇石 岡部重内、
二〇〇石 石川吉十郎
彼らは金毘羅大権現出現の松尾寺の守護神・三〇番社の祭礼の宮座を勤めた姓と一致します。小松庄の地侍たちを長尾氏が支配下においていたと考えることはできるようです。
 65000石と云えば、後の京極丸亀藩の石高に匹敵しますので、そのまま信じることはできませんが丸亀平野で香川氏と肩を並べるまでに成長してきた姿が見えるようです。

長尾氏の宗教政策
 当時の有力者は、周辺の付近の神社や寺院に一族のものを送りこんで神主職や別当職を掌握するという「勢力拡大策」が取られていました。 前回、お話しした善通寺中興の祖・宥範も櫛梨の名主層・岩野氏出身です。師弟を僧門に入れて、高野山で学ばさせるのは、帰国後有力寺院の住職となり権益を得ようとする実利的な側面もありました。寺院自体が土地や財産を持つ資産なのです。それが、「教育投資」で手に入るのです。これは、日本ばかりでなく、西欧キリスト教世界でも行われていた名家の「処世術」のひとつです。

 「周辺の寺院に一族のものを送りこんで神主職や別当職を掌握」するという「勢力拡大策」の一貫として16世紀前後から長尾氏が取ったのが、浄土真宗の寺院を建立することです。丸亀平野南部の真宗寺院は阿波の郡里(現美馬市)の安楽寺を布教センターとして、広められたことは以前お話ししました。阿波の安楽寺から阿讃山脈の三頭峠を越えて讃岐に広がり、土器川上流の村々から信者を増やしていきました。その際に、これを支援したのが長尾氏のようです。15世紀末から16世紀初頭にかけて、真宗寺院が姿を現します。
1492(明応元年)炭所東に尊光寺
1517(永生14)長尾に超勝寺
1523(大永3年)長尾に慈泉寺
 この早い時期に建立された寺院は、民衆が坊から成長させたものではなく長尾氏の一族が建立したもののようです。ここには、一族の僧侶がこれらの寺に入ることによって門徒衆を支配しようとする長尾氏の宗教政策がうかがえます。
浄土真宗が民衆の中に広がる中で登場するのが宥雅(俗名不明)です。
彼は長尾大隅守高勝の弟とも甥とも云われます。彼は真言密教の扉を叩きます。なぜ、浄土真宗を選ばなかったのでしょうか?
彼が選んだのは空海に連なる真言宗で、一族の支援を受けて地元の善通寺で真言密教を学びます。それ以上のことはよく分かりません。基本的史料は、金毘羅大権現の一番古い史料とされる金比羅堂の棟札です。そこに彼の名前があります。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」と記されています。
  宥雅は、象頭山に金毘羅神という「流行神」を招来し、金比羅堂を建立しています。その際に、導師として招かれているのが高野山金剛三昧院の住職です。この寺は数多くある高野山の寺の中でも別格です。多宝塔のある寺と云った方が通りがいいのかも知れません。
世界遺産高野山 金剛三昧院

北条政子が夫源頼朝の菩提のために創建されお寺で、将軍家の菩提寺となります。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などを建立されます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多く、落慶法要にやってきた良昌も讃岐出身の僧侶です。そして、彼は飯山の島田寺(旧法勲寺)住職を兼務していました。
 ここからは私の想像です
宥雅と良昌は旧知の間柄であったのではないかとおもいます。宥雅が長尾一族の支援を受けながら小松荘に松尾寺を開く際には、次のような相談を受けたのかも知れません。

「南無駄弥陀ばかりを称える人たちが増えて、一向のお寺は信者が増えています。それに比べて、真言のお寺は、勢いがありません。私が院主を勤める金光院を盛んにするためにはどうしたらよいでしょうか」

「ははは・・それは新しい流行神を生み出すことじゃ。そうじゃ、近頃世間で知られるようになってきた島田寺に伝わる悪魚伝説の悪魚を新しい神に仕立てて売り出したらどうじゃ」

「なるほど、新しい神を登場させるのですか、大変参考になりました。もし、その案が成就したときには是非、お堂の落慶法要においでください」

「よしよし、分かった。信心が人々を救うのじゃ。人々が信じられる神・仏を生み出すのも仏に仕える者の仕事ぞ」

という会話がなされた可能性もないとは云えません。
 もちろん宥雅の金比羅堂建立については、長尾一族の支援があってできることです。その参考例は、前回お話しした宥範が実家の岩野氏の支援を受けて、善通寺を復興したことです。その結果、当時の善通寺には岩野氏に連なる僧侶が増え、岩野氏の影響力が増していたのではないでしょうか。それは、高野山と空海、その実家の佐伯家の高野山での影響力保持とも同じ構図が見えます。長尾家も、第二の佐伯家、岩野家をもくろんでいたのかもしれません。
 以上、今回は宥雅登場前後の長尾家とその周辺の様子をみてきました。まとめておきます。
①長尾家は庄内半島の箱を拠点とする「海賊=海の武士」であった。
②南北朝の混乱の中、白峰合戦で細川頼之側につき長尾(まんのう町)に拠点を移した。
③移住当初は、周辺部はガードの堅い集団が多く周囲に勢力を伸ばすことは出来なかった。
④その中で周辺の丘陵部を開発する領主と婚姻関係を結び着実に、基盤を固めた。
⑤細川氏の分裂以後の混乱に乗じて、周辺荘園の押領や略奪を重ね領域を拡大した。
⑥戦国末には、西讃岐守護代の香川氏と肩を並べるまでに成長した。
⑦当時の武士団は、近親者に教育をつけ寺社に送り込み影響下に置くという宗教政策がとられていた⑧その一貫として、小松の荘松尾寺に送り込まれたのが宥雅である
⑨宥雅は金光院主として、金毘羅神を創り出し、金比羅堂を建立する
⑩これは、当時西讃地方で拡大しつつあった浄土真宗への対抗策という意味合いもあった。
⑪しかし、宥雅の試みは土佐長宗我部の讃岐侵攻で頓挫する。宥雅は堺への亡命を余儀なくされる。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 
追加
 室町時代の康正三年(1456)に書かれた金倉寺の縁起を箇条書きにした端裏書に、次のように長尾氏が登場します。
長尾殿従り御寄進状案文」 上金倉荘惣追捕使職事
右彼職に於いては、惣郷相綺う可しと雖も、金蔵寺の事は、寺家自り御詫言有るに依って、彼領金蔵寺に於ては永代其沙汰指し置き申候。子々孫々に致り違乱妨有る可からざる者也。乃状件の如し。
宝徳元年(1449)
徳元年十月 日
長尾次郎左衛円尉 景高御在判
意訳変換しておくと
長尾殿よりの御寄進状の案文 上金倉荘の「惣追捕使職」の事について
この職については、惣郷全体で関わるものであるが、金蔵寺に関しては、寺家なので御詫言によって永代免除と沙汰した。これ以後、子々孫々に致るまで違乱妨のないようにすること。乃状件の如し。
「惣追捕使」というのは、荘役人の一種で、「惣郷で相いろう」というのは、郷全体でかかわり合うということのようです。この文はそのまま読むと「惣追捕使の役は、郷中廻りもちであったのを、金倉寺はお寺だからというのではずしてもらった」ととれます。しかし、それは、当時の実状にあわないと研究者は指摘します。惣追捕使の所領を郷中の農民が耕作していて、その役を金倉寺が免除してもらったと解釈すべきと云います。
 さらに推測すれば、惣追捕使領の耕作は農場のようにように農民が入り合って行うのではなく、荘内の名主にいくらかづつ割当てて耕作させて年貢を徴収していた。そして、金倉寺も貞安名参段の名主として年貢の負担を負っていたと研究者は考えています。その負担を「金倉上荘惣追捕使の長尾景高」が免除したことになります。これで田地の収穫は、すべての金倉寺のものとなります。これを「長尾殿よりの寄進」と呼んだようです。こうして金倉寺は惣追捕使領内に所有地を持つことになりますが、その面積は分かりません。
 注目したいのは寄進者が「金倉上荘惣追捕使長尾景高」であることです。
  長尾景高は、長尾氏という姓から鵜足郡長尾郷を本拠とする豪族長尾氏の一族であることが考えられます。ここからは、応仁の乱の20年前の宝徳元年(1449)頃、長尾氏が金倉上荘の惣追捕使職を有し、その所領を惣郷の農民に耕作させるなど、金倉上荘の在地の支配者であったことがうかがえます。また彼は金倉寺の保謹者であったようです。そうすると、長尾氏の勢力は丸亀平野北部の金倉庄まで及んでいたことになります。
 これと天霧城を拠点とする香川氏との関係はどうなのでしょうか? 
16世紀になって戦国大名化を進める香川氏と丸亀平野南部から北部へと勢力を伸ばす長尾氏の対立は激化したことが想像できます。そして、16世紀になると阿波の三好氏が讃岐に侵攻してきて長尾氏の背後に着くことになります。そのような視点で元吉合戦なども捉え直すことが求められているようです。
参考文献 長尾大隅守の系譜 満濃町史 第4編 満濃町の民俗1169P~

 
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金毘羅神とは何かと問われると、このように答えなさいと云う問答集が江戸時代初期に金光院院主の手で作られています。そこには、金毘羅とはインドの悪神であったクンピーラ(鰐神)が改心して、天部の武将姿に「変身」して仏教を護るようになったと説明されています。 日本にやってきたクンピーラは、薬師如来を護る十二神将の一人とされ、また般若守護十六善神の一人ともな武将姿で現れるようになります。彼は時には、夜叉神王と呼ばれ、夜叉を従え、また時には自らも大夜叉身と変化自由に変身します。仏様たちを護る頼れるスーパーヒーローなのです。 このような内容が、真言密教の難解な教義と共に延々と述べられています。
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「神が人を作ったのではない、人が神を創ったのだ」という有名な言葉からすると、この金毘羅神を創り出した人物の頭の中には、原型があったはずです。「インドの鰐神=クンピーラ」では、あまりに遠い存在です。身近に「あの神様の化身が金毘羅か」と思わせ納得させる「しかけ」があったはずです。
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 この謎に迫った研究者たちは、次のような「仮説」を出します

 「仏教では人間に危害を加える悪神を仏教擁護の善神に仕立てあげて、これを祀った。その讃岐版が金毘羅神である」

 松尾寺の僧侶は中讃を中心に、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンピーラ信仰を始めた。

「実質的には初代金光院院主である宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」

「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
 羽床氏「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号)
つまり、「讃留霊王伝説に登場する悪魚」が、金毘羅神(クンピーラ)に「変身」したというのです
Древнерусское солнцепоклонство. Прерванная история русов ...
 クンピーラはガンジス河にすむワニの化身とも、南海にすむ巨魚の化身ともいわれ、魚身で蛇形、尾に宝石を蔵していたとされます。金毘羅信仰は中讃の悪退治伝説をベースに作り出されたというのです。30年ほど前に、この文章を読んだときには、何を言っているのか分かりませんでした。今までの金毘羅大権現に関する由緒とは、まったくちがうので受けいれることが出来なかったというのが正直な所かもしれません。しかし、いろいろな資料を読む内に、次第にその内容が私にも理解できるようになってきました。整理の意味も含めてまとめておくことにします。
  讃岐国の始祖とされる讃留霊王(神櫛王)の由緒を語る伝説があります。

この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝」などと呼ばれ、中世から近世にかけての讃岐の系図や地誌などにもたびたび登場します。「大魚退治伝説」は、神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族が伝えてきた伝説です。これについては、以前に全文を紹介しましたので省略します。
この伝説については、研究者は次のような点を指摘しています
①紀記に、神櫛王は登場するが「悪魚退治伝説」はない。
②「讃留霊王の悪魚退治伝説」は、中世に讃岐で作られたローカルストーリーである。
③ この伝説が最初に登場するのは『綾氏系図』である。
④ 作成目的は讃岐最初の国主・讃留霊王の子孫が綾氏であることを顕彰する役割がある
⑤「伝説」であると当時に、綾氏が坂出の福江から川津を経て大束川沿いに綾郡へ進出した「痕跡」も含まれているのではないかと考える研究者もいる。
⑦「綾氏の氏寺」と云われる法勲寺が、綾氏の祖先法要の中核寺院であった
⑧法勲寺の修験道者が綾氏団結のために、作り出したのが「悪魚退治伝説」ではないか。
 悪魚伝説が作られた法勲寺跡を見てみましょう。
 現在の法勲寺は昭和になって再建させたものですが、その金堂周辺には大きな礎石がいくつか残っています。また、奈良時代から室町時代までのいろいろの古瓦が出でいますので、奈良時代から室町時代まで寺院がここにあったことが分かります。
 中世になると綾氏の一族は、香西・羽床・大野・福家・西隆寺・豊田・作田・柴野・新居・植松・阿野などの、各地の在郷武士に分かれて活躍します。綾氏から分立した武士をまとめていくためにも、かつてはおなじ綾氏の流れをくむ一族であるという同族意識を持つことは、武士集団にとっては大切なことでした。
 阿波の高越山周辺の忌部氏の「一族結束法」を、以前に次のように紹介しました。
高越山周辺を支配した中世武士集団は、忌部氏を名乗る豪族達でした。彼らは、天日鷲命を祖先とした古代忌部氏の後裔とする誇りをもち、大嘗祭に荒妙を奉献して、自らを「御衣御殿大」と称していました。これらの忌部一族の精神的連帯の中心となったのが山川町の忌部神社です。
忌部一族を名乗る20程の小集団は、この忌部神社を中心とした小豪族集団、婚姻などによって同族的結合をつよめ、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもっていました。擬制的血縁の上に地域性を加えた結びつきがあったようです。
 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いています。そのうちの一回は、必ず忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。彼らは正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。それが今日に伝わっています。 このようなことから、忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
 高越寺の明神は古来より忌部の神(天日鷲命)だったと考えられます。修験道が高越山・高越寺に浸透するということは、とりもなおさず忌部神社と、それをとり巻く忌部氏に浸透したということでしょう。
ここからは忌部氏の団結のありようが次のように見えてきます
①一族の精神的連帯の場として山川町の忌部神社があった
②年に2回は忌部族が集まり定期会合・食事会を開いた
③その仕掛け人は高越山の修験者であった
阿波忌部氏のような一族団結のしくみを法勲寺(後には島田寺)の社僧(修験者)も作り上げていたはずです。
1 讃留霊王1
それの儀式やしくみを推測して、ストーリー化してみましょう。
 讃留霊王(武卵王)を共通の祖先とする綾氏一族は、毎年法勲寺へ集まってきて会合を開き、食事を共にすることで疑似血縁意識を養います。それに先立つ前に、儀式的な讃留霊王への祭礼儀式が行われます。そのためには聖なる場所やモニュメントが必要です。そこで、法勲寺の僧侶たちは近くの円墳を讃留霊王の墓とします。ここで集まった一族に悪魚退治伝説が語られ、儀式が執り行われます。そして、法勲寺に帰り食事を共にします。こうして自分たちは讃留霊王から始まる綾氏を共通の先祖に持つ一族の一員なのだという思いを武士団の棟梁たちは強くしたのではないでしょうか。こうして、法勲寺を出発点にした悪魚退治伝説は次第に広まります。
①下法勲寺山王の讃留霊王塚と讃留霊王神社
②東坂元本谷の讃留霊王神社
③陶猿尾の讃留霊王塚
②の東坂元本谷には現在、讃留霊王神社が建っています。
③の陶猿尾では、小さな小石を積み上げてつくった讃留霊王塚とよばれる壇状遺構が残ります。そして「讃留霊王(さるれおう)塚」から「猿尾(さるお)」の地名となって残っています。この他にも「讃王(さんおう)様」と呼ばれる祠が各地に残っています。このように悪魚退治伝説は、丸亀平野を中心に各地に広がった形跡があります。
1讃留霊王2

 このような装置を考え、演出したのは法勲寺の修験者たちです
彼らをただの「山伏」と考えるのは、大きな間違いです。彼らの中には、高野山で何年も修行と学問を積んだ高僧たちがいたのです。彼らは全国から集まってくる僧侶と情報交換にある当時最高の知識人でもありました。
「悪魚退治伝説」と「金毘羅神」を結びつけたのは誰でしょうか?
 小松の荘松尾寺(現琴平町)には、法勲寺の真言密教僧侶修験者と親交のある者がいました。法勲寺を中心に広がる悪魚退治の伝説を見て、このが悪魚を善神に仕立てて祀るということを実行に移した修験者です。悪魚退治伝説の舞台は坂出市の福江の海浜ですが、それが法勲寺の僧侶によって内陸の地にもちこまれ、さらに形を変えて象頭山に入っていったのです。それが金毘羅神だというのです。
  推論とだけでお話をしてきましたが、史料的な裏付けをしておきましょう。  金毘羅さんで一番古い史料は元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札です。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」と記されています。
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ
金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった
と云われてきました。しかし、近年の調査の中で、金毘羅さんにこれより古い史料はないことが明らかとなってきました。これは「再建」ではなく「創建」の棟札と読むべきであると研究者は考えるようになっています。つまり、元亀四年(1573)に金比羅堂が初めて建てられ、そこの新たな本尊として金比羅神が祀られたということです。これが金毘羅神のデビューとなるようです。
それでは棟札の造営主・宥雅とは何者なのでしょうか?
  この宥雅は謎の人物でした。金毘羅堂建立主で、松尾寺別当金光院の初代院主なのに金毘羅大権現の正史からは抹殺されてきた人物なのです。彼を排除する何らかの理由があるのだろうと研究者は考えてきましたが、よく分かりませんでした。
 宥雅については、文政十二年(1829)の『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)によれば、
宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、
 御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去
 故二御一代之 烈に不入云」
意訳
宥雅上人は、西長尾城主長尾大隅守高家の甥で、僧門に入ったのがいつだかは分からない。伯父の高家が長宗我部元親と争った際に、高家を加勢したが、戦い不利になり、当山の旧記や宝物を持ち出して泉州の堺へ落ち延びた。このため宥雅は金光院院主の列には入れない

 とあって、
①長宗我部元親の讃岐侵攻時の西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥
②長宗我部侵入時に堺に亡命
③そのために金光院院主の列伝からは排除された
と記されています。金毘羅創設記の歴史を語る場合に
「宥雅が史料を持ち出したので何も残っていない」
と今まで云われてきた所以です。
 ここからは長尾家の支援を受けながら金毘羅神を創りだし、金比羅堂を創建した宥雅は、その直後に「亡命」に追い込まれたことが分かります。
その後、高松の無量寿院から宥雅に関する「控訴史料」が見つかります 
堺に「亡命」した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の院主に復帰しようとして、訴訟を起こすのです。彼にしてみれば、長宗我部がいなくなったのだから自分が建てた金比羅堂に帰って院主に復帰できるはずだという主張です。その際に、控訴史料として自分の正当性を主張するために、いろいろな文書を書写させています。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのです。その結果、宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。このことについては、以前お話ししましたので要約します。

金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
①「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅堂」の開祖にするための文書加筆(偽造)
②松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏として、その垂迹を金毘羅神とする。その際に金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記す。
③「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」など寄進状五通(偽文書)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと泊付けねつ造

この創設工作の中で、宥雅が出会ったのが「神魚」だったのではないかと研究者は考えているようです。
 法勲寺系伝説が「悪魚」としているのに高松の無量寿院の縁起は「神魚」と記しているようです。宥雅は「宥範=金比羅堂開祖」工作を行っている中で、宥範が書き残した「神魚」に出会い、これを金毘羅神を結びつけのではないかというのです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものとします。
 つまり宥雅が参考にしたのは法勲寺の「悪魚退治伝説でなく、それに先行する『宥範縁起』中の無量寿院系の伝説」だとします。そして、宥範の晩年を送った生地の櫛梨神社に伝わる「大魚退治伝説」は、この『宥範縁起』から流伝したものと考えるのです。整理しておきましょう。
①「悪魚退治伝説」は 法勲寺 →  宥雅の金比羅堂
②「神魚伝説」  は 高松の無量寿院の建立縁起 → 宥範 → 宥雅の金比羅堂
ルートは異なりますが、宥雅が金毘羅(クンピーラ)の「発明者」であることには変わりありません。
 金毘羅神とは何かと問われて「神魚(悪魚)が金毘羅神のルーツだ」と答えれば、当時の中讃の人々は納得したのではないでしょうか。何も知らない神を持ち出してきても、民衆は振り向きもしません。信仰の核には「ナルホドナ」と思わせるものが必要なのです。高野山で修行積んだ修験者でもあった宥雅は、そのあたりもよく分かった「山伏」でもあったのです。そして、彼に続く山伏たちは、江戸時代になると数多くの「流行神」を江戸の町で「創作」するようになります。その先駆け的な存在が宥雅であったとしておきましょう。

 宥雅のその後は、どうなったのでしょうか。
これも以前にお話ししましたので結論だけ。生駒家に訴え出て、金毘羅への復帰運動を展開しますが、結局帰国はかなわなかったようです。しかし、彼が控訴のために書写させた文書は残りました。これなければ、金毘羅神がどのように創り出されてきたのかも分からずじまいに終わったのでしょう。
最後にまとめておきます
①讃留霊王の悪魚退治伝説は「綾氏系図」とともに中世に法勲寺の修験者が作成した。
②讃留霊王顕彰のためのイヴェントや儀式も法勲寺の手により行われるようになった
③綾氏を出自とする武家棟梁は、「悪魚退治伝説」で疑似血縁関係を意識し組織化された。
④綾氏系の武士団によって「悪魚退治伝説」は中讃に広がった
⑤新しい宗教施設を象頭山に創設しようとしていた長尾家出身の宥雅は、地元では有名であった「善通寺の中興の祖」とされるる宥範を、「金比羅堂」の開祖にするための工作を行っていた。
⑥その工作過程で高松の無量寿院の建立縁起に登場する「神魚」に出会う
⑦宥雅は「神魚(悪魚)」を金毘羅神として新しい金比羅堂に祀ることにした。
⑧こうして、松尾寺の守護神として「金毘羅神」が招来され、後には本家の松尾寺を凌駕するようになる。
⑨宥雅は、土佐の長宗我部侵攻の際に、堺に亡命した。後に帰国運動を起こすが認められなかった。
⑩自分の創りだした金毘羅神は、長宗我部元親の下で「讃岐の鎮守府」と金光院が管理していくことになる。
⑪時の権力者の宗教政策を担うことを植え付けられた金光院は、生駒・松平と時の支配者との関係をうまくとり、保護を受けて発展していく

以上です おつきあいいただき、ありがとうございました。

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