瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:若胡屋

旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

  御手洗が発展期を迎えたのは、18世紀半ばすぎの寛延から19世紀初頭の享和期にかけてのようです。
寛延元年(1748) 戸数 83
明和五年(1768) 戸数106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
   御手洗の戸数は、この半世紀で四倍近くに激増しています。
  シルクロード沿線のオアシス都市では、やってくるキャラバン隊商隊の数と、その都市の経済力は比例関係にあるといわれます。そのためオアシス都市は宿泊場所やサライ(市場)などの設備投資を怠りませんでした。一方、キャラバン隊へのサービスも充実させていきます。その中にお風呂や娼婦を提供する宿も含まれました。キャラバン隊に嫌われた中継都市は滅びるのです。
 この時代の瀬戸内海の港町にも同じような圧力がかかっていたように私には思えます。港町は廻船を引きつけるためにあの手この手の戦略を練ります。廻船への「客引きサービス合戦」が激化していたのです。その中で、御手洗は新しい港町でネームバリューもありません。沖往く船を引きつけ、船員たちをこの港に上陸させるための秘策が練られます。その対策のひとつが「茶屋・遊女屋」設置だったようです。この申請に対して、広島藩は許可します。
日本の町並み遺産
 そして若胡屋、堺屋、藤屋、海老屋の4軒に許可が下り、遊女屋が開かれることになります。
文政二年(1819)の「国郡志御編集下弾書出し帳」によると、
①若胡屋              40人
②堺屋(酒井屋)、藤屋(富土屋)  20人
③海老屋(のち千歳屋)       15人
の遊女を抱えていたと記されています。4軒あわせると百名ちかいの遊女がいたようです。
どんな人たちが遊女屋を開いたのでしょうか?
文化12年(1815)ころの町の記録「町用覚」に次のように記されています。
 若胡屋の元祖は権左衛門といへるものにて広嶋中の棚にありて魚の店を業とするものなりしに、いかなるゆへにや知か上ノ関二住居し、上ノ関にてはめんるい屋の株なりしよし、享保の頃より茶屋子供をつれ船後家の商売をいとなミ此湊にかよひ得意をもとめなしミをかさねしに、かねて船宿をたのミし肥前屋善六といへるものの世話となり小家をかり見せ(仮店)なと出し、いつしか此所の帳に入り住人とハなりぬ(後略)
  ここからは、次のようなことが分かります。
①若胡屋はもともとは広島城下で魚屋を営業していた海に関係ある一族のようです
②いつの頃からか上関(周防)に住み、めんるい屋の株を持って営業するようになった
③それが享保の頃に、御手洗にやって来て「船後家(?)」を営むようになった
④その後、土地の船宿の世話で陸に上がり、小家を仮店舗としてこの土地の者として登録されてるようになった。
分からないのは「茶屋子供をつれ船後家の商売」です。今は触れず後に廻します。「此の所の帳に入る」とは、正式にこの町の住人になったということのようです。
御手洗町並み保存地区 呉市豊町御手洗 | ツーリング神社巡り 狛犬 ...
もうひとつの桜屋を見てみましょう
 堺屋が御手洗に来たのは、若胡屋に少し遅れたころのようです。
 堺屋は安芸郡蒲刈の茶屋なりしか、延享寛延の頃より若胡屋に等しく此湊へ船にて後家商ひしか、陸にあかり蒲刈へかへりて正月年礼なとして此所へ来りたる事旧式たりしか、亭主増蔵栄介ふたりとも打つりきて不仕合して難渋にせまり一跡かまかり、引取しかいよく極難に降して公借なと多くなり蒲刈の手を放しきり寛政の頃至り此所へ入帳して本住居となりぬ
 意訳整理すると
① 堺屋は蒲刈(三の瀬?)の茶屋であったが延享寛延の頃に若胡屋と同じように、この港で船の「後家商い」を行うようになった。
②御手洗に出店しても40年ほどの間は、御手洗へ「住人登録」せず、正月と盆には郷里の蒲刈に帰って行事を済ませ、再び御手洗に稼ぎに来るといった形をとっていた。
③その後、御手洗に移住したが、不都合な事件に出会い難渋し、ついには蒲刈の商売を手放し、正式に御手洗の住人となった。
お知らせ: HPA・Photo・ワークス
御手洗の沖に停泊する廻船 
 若胡屋、堺屋が商売としていた「船後家」とは?
 沖に碇泊する船に小舟を漕ぎ寄せ、船乗りの身のまわりの世話や、衣服のつくろいから洗濯など一切を行ない、夜は「一夜妻」として伽をつとめるものです。どうも藩の公認以前から「後家商い」船を使ってやっていたことになります。桜屋の場合は、蒲刈から出張してきていたものが御手洗を拠点にするようになります。そしていつの間にか「陸上がり」して、人別帳に登録される正規の住人になっていたようです。面白いのは、船に女たちを載せて、よその港町に出かけ、そこに出店をもうけて、やがては住みつくという方法は、どこか「家船(えしま)漁民」に似ている感じがします。この「漂泊」は「海の民の」の子孫の姿かもしれません。彼らは、御手洗を拠点としてからも、鞆、尾道、宮島、大三島などさかんに出向いている記録が残っています。
花街ぞめき Kagaizomeki
  何のために女たちを船に積んで、港に移動していたのでしょうか
鞆、尾道、宮島、大三島に共通するのは、どこも大きな社寺があります。その祭礼の賑わいをあてこんで船で出稼ぎに行ったようです。船さえあればどこにでも行くことができ、商売もできたのです。

 四国伊予の大洲藩の船宿の建物が今も住吉町に残っています。
子孫の木村氏は、今から半世紀前に船宿のことについて、次のように語っています。
船宿の暮らしは、海を眺めているのが商売でした。沖になじみの船が見えると、まずは風呂を沸かします。風呂といっても、浴槽に狭い五衛門風呂です。船宿の主人が伝馬船に乗り、沖の船を出迎えに行きます。その時の挨拶は「風呂が沸いたけえ、おいでてつかあさい」というのが決まり文句でした。
 沖に碇泊する船の乗組員には、豆腐を手土産にするならわしでした。豆腐は、味噌汁の具とするものでしたが、船乗りは、豆腐が時化よけにきくと信じていました。
 船乗りが宿に着くと、茶湯の接待が行なわれます。宿の主人は、まずは船乗りに航海の労をねぎらいます。一休みすると、船乗りたちが風呂に入り、潮風にさらされた身体を流します。このとき置屋から遊女がかけつけてきます。遊女は、湯女として船乗りの背中を流します。
 港が夕闇につつまれると、酒宴がはじまります。船乗りのもとには、なじみの遊女がはべり、三味や太鼓もにぎやかに夜がふけるまで、宴がつづきました。戦前までの住吉町は、今日の姿からは想像のできないほどの賑わいがあり、夜ふけでも灯の消えた家は一軒もなく、船宿では大戸をおろすこともありませんでした。
 宴が終わると、船乗りたちはそれぞれ船に帰っていきます。
船頭のみが船宿で寝泊りします。次の朝、船頭は船宿に祝儀をおいて船に戻っていきます。祝儀の額については、定まった額はありません。船頭の心付けといった程度でした。船宿の収入のほとんどは、夜の飲食の代金でまかなわれていました。
「好きなオナゴがおれば、わざわざその港に寄ったものです」船宿を営んだ木村さんはそう話しています。
おちょろ船 御手洗 大崎上島

 先ほど話したように、港が繁栄するためには、あの手、この手で沖往く船を引きつける必要があったことを改めて知ります。
この話から分かることは
①船宿は、お風呂と宴会の場を提供するだけで、船員は泊まらない。泊まるのは船頭だけ
②船宿の収入の夜の飲食の代金でまかなわれていた。
③置屋から遊女が呼ばれいろいろな世話をした
④遊女たちが船を引きつける大きな役割を果たしていた
  おちょろ船 御手洗 大崎上島
 同じ頃の讃岐を見ると、次のようなことがおこなわれていた頃です。
①上方からの金比羅詣で客を迎えるためのに丸亀新港建設
②九州方面からの金比羅詣客の受入のための多度津新港建設
③金毘羅大権現の金丸座の建設と富くじ、歌舞伎上演
備讃瀬戸と芸予諸島の間には共通する「事件」が起きていたことが分かります。そして、瀬戸内海の物流は明治に向けて、さらに発展していくのです。

7 御手洗 ti北

 御手洗は、江戸時代になって新たに開かれた港町です。
近くには下蒲刈島に三の瀬という中世以来の有力な港町があります。それなのにどうして一軒の家もなかった所に、新しい港が短期間に姿を現したのでしょうか。
   それは、航海技術の進歩と船の大型化、そして御手洗の置かれたロケーションにあるようです。瀬戸内海航路は、中世まではほとんどが陸地に沿って航行する「地乗り」でした。現在のように出発港から目的港まで、どこにも寄港せずに一気に航海するようなことはありません。潮待ち、風待ちをしながらいくつもの港町に立ち寄りながらの航海でした。
   例えばそれまでの地乗り航路は
7 御手洗 航路ti北
①伊予津和地島から安芸の海域に入り、
②倉橋島南端の鹿老渡(かろうど)を経て
③下蒲刈島三之瀬に寄港し、
④豊田灘にはいって山陽沿岸を、竹原、三原、尾道と通って鞆へ
と進むルートが一般的でした。
 ところが、以前お話ししたように朝鮮出兵の際に軍船として用いられてた「関船」の「水押」などの造船技術が民間の廻船にも使われるようになります。今風にいうと「軍事先端技術の民間への導入」ということになるのでしょうか。また、船頭の航海技術も一気に上がります。それが北前船の登場につながるのです。腕の良い船頭の中には、それまでの潮待ち、風待ちの「ちまちま」した航海から、大崎下島の沖の斎灘を一気に走り抜けていく航路を選ぶようになったのです。これを「沖乗り」というようになります。
風待ちの港、御手洗
赤が地乗り、黄色が沖乗り航路
 沖乗りルートは
①倉橋島から斎灘を一気に渡り
②伊予大三島と伯方島にはさまれた鼻栗瀬戸をぬけ
③岩城島、弓削島を経て鞆へ
向かいます。倉橋島から大三島にかけての斎灘には、多くの島が浮かんでいます。西から下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島(以上広島県)、岡村島、小大下島、大下島(愛媛県)ですが、これらの島じまの南岸をみると、直接南風をうけるため天然の良港はなく、集落もほとんどありませんでした。それまでの多くの集落は、小島にはさまれた瀬戸にのぞんで風当たりの少ないところを選んでつくられていました。しかし、小島にはさまれた瀬戸の多くは、潮の流れが速く、上げ潮や引き潮のときは、繋船ができないほどの沿岸流が流れます。斎灘から豊田灘にかけては、北東方向に潮の流れがあり、ほとんどの瀬戸は、斎灘から北東方向を向いてぬけています。そのため大型船が湊に入ったり、係留するには不向きでした。

御手洗 (呉市) - Wikiwand
 ところが、大崎下島と岡村島にはさまれた御手洗水道は、斎灘から北西方向にぬけているのです。それに加えて御手洗水道の北には、現在は橋で結ばれている中島、平羅島、初島が並んで浮かび、潮流や風をふせぐ防波堤の役割を果たしてくれます。そのため、この瀬戸は潮の流れがゆるやかでした。大崎下島の東岸の岬の内側にある御手洗が船着場として注目されるようになったのは、そうした自然条件があったからのようです。
 沖乗りの大型船が、この海峡に入り込むようになったのは、江戸時代になってからです。
 大崎下島では、寛永一五年(1638)、安芸藩による「地詰」が行なわれています。地詰とは非公式な検地のことで、地詰帳によると御手洗地区には、
田が二町二反五畝一八歩
畠が六町四反二畝九歩、
あわせて八町六反七畝二七歩の耕地
が記録されています。しかし、屋敷は一軒も記録されていません。近くの大長や沖友の農民が、出作りの耕地として所有していたようです。 
 御手洗に屋敷割り記録が残るのは寛文六年(1666)からです。
 幕命をうけた河村瑞賢が西回り航路を開く少し前になります。しだいに北前舟の沖往く船の数が増え、なかには潮待ち、風待ちのために寄港する船も出てくるようになります。それを目あてに、大長や沖友など周辺の人びとが移り住み、にわかにまちが形づくられたようです。御手洗の屋敷割りは、制度的には寛文六年(1666)ということになっていますが、それよりも早く人々が集まり住むようになっていたようです。それは、港町といっても小さなものだったでしょう。
広島藩の藩の保護育成政策を受けた御手洗
当時は、農地をつぶして屋敷地にすることは禁止されていましたが、御手洗は特別に許されていたようです。また、海を埋め立てて屋敷をつくることも行なわれています。しかも、地子免除であったようです。ここからは広島藩が、新興港町・御手洗に人びとが移り住むことを奨励していたことがうかがえます。
御手洗の戸数が記録にあらわれるのは、それから80年後で
寛延元年(1748) 戸数83
明和五年(1768) 人家106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
   と18世紀後半の半世紀で御手洗の戸数、人口は四倍近くに増加します。そこで藩は、文化五(1808)年に、御手洗の大長村からの分離独立を行い、新たに町庄屋が任命します。
 斎灘に浮かぶ芸予賭島でそれまで広島藩の重視してきた港は、下蒲刈島にある三之瀬でした。

三之瀬は、広島城下の南東30㎞に位置し、ここに番所を設け用船を常備し、船頭、水夫をおいて公用に備えていました。御手洗は、城下から約45キロ離れ、伊予境に近くにあるために不便と考えられたのか、最後まで番所が設けられることはありませんでした。それが御手洗に「自由」な発展をもたらしたのかも知れません。
 御手洗のまちを歩いてみましょう。
 御手洗は、斎灘につきだした小さな岬の周囲をぐるりととりまく形で町並みがひろがっています。船が桟橋に近づくと、岬の先端に、海に向かって建てられた石鳥居が目に入ってきます。
  蛭子神社の鳥居です。
港町 | ShimaPro BLOG
明治22年の再建で、沖からのランドマークの役割を果たしていました。まずは、やってきた報告と新しい出会いを祈念して蛭子神社に向かいます。境内は、樹木もなく瀬戸の潮風が吹きぬける海辺の社といった印象です。入母屋造り瓦葺きの社殿が迎えてくれます。
境内には、一対の常夜燈を除いて古い奉納物はありません。この常夜燈は、寛政元年(1789)、御手洗で遊女屋を営む若胡屋権左衛門と、商人新屋定蔵・吉左衛門が尾道の石工につくらせて寄進したことが銘文に刻まれています。
御手洗(蛭子神社)「チョロは出て行く」の案内板 | 古今東西散歩
 蛭子神社は、御手洗の商人が篤い信仰を寄せた社であったようです。この神社がいつ創建されたかは分かりませんが「九州の小倉から勧請されたもの」と伝えられるようです。創建当初は、梁行二尺五寸、桁行三尺五寸の柿葺きの小さな祠であったと云います。
 まちの発展に歩調を合わすように社殿は改修がくりかえされ、境内が整えられていきます。記録にあらわれる最初は、宝永四年(1707)で、御手洗に町年寄がおかれたのを祝うかのように姿を現します。以後、次のように定期的な改修が行われます。
元文四年(1739)本殿の前に拝殿がつくられた。
明和四年(1764)その拝殿が新たに建て替えられる。
安永八年(1779)社殿屋根が瓦葺きに葺き替えられる。
このように改修が行なわれたのは、御手洗の港が発展し、商人たちの「資本蓄積」が行われたことが背景にあるのでしょう。
 蛭子神社の西には弁天様を祀った尾根筋が海に向かってのびています。この二つの山の鼻にはさまれたところに、天満宮が鎮座しています。ここは背後の山が谷をつくるところで地下水脈に恵まれたところです。境内には、古い井戸が掘られています。瀬戸内海を行く交易船が昔から港に求めたものは、まずはきれいな水です。絶えることのない泉があることが必須条件です。ここから南にある荒神様も窪地となり、いくつかの井戸があります。このふたつのエリアが、御手洗が港として開発される際のチェックポイントだったのでしょう。
御手洗の10の町筋について  
7 御手洗地図1
御手洗には、複雑に入りくんだ細い路地がいく本もめぐらされ、まちが形づくられています。町名を挙げると大浦、弁天町、上町、天神町、常盤町、相生町、蛭子町、榎町、住吉町、富永町の10町になるようです。
 それらのまちの表情は、それぞれ少しずつ違っています。
西方の大浦から見て行きましょう
大浦は明治中期までは、町外れで人家が三軒しかないさびし所い所だったようです。後に海岸を埋め立て家々が建ち、今日では隣の弁天町と町並みつづきになっています。かつてはここには「貯木場」があったようで、造船材をたくさん浮かべてあったと云いますが、今はその面影もありません。
  大浦の隣の弁天町は、弁財天が祀られている山の鼻付近にひろがるまちです
弁天社本殿は、間口四尺、奥行三尺程のトタン屋根の小さなな祠です。境内には材木問屋大島良造奉納の鳥居が建ち、須賀造船所奉納の手水鉢がおかれています。寄進者から海にゆかりの人びとに信仰された社なんだなと勝手に想像します。この弁天社がいつ創建されたかは分かりません。しかし、現在地に移されたのは、文化年間(1804~18年の約2百年前のことで、庄屋柴屋種次が境内地と材料を寄進して建てたものと伝えられています。
漁師が住んでいた弁天町の長屋
 今の状態からは想像しにくいのですが弁天社の地先は、もともとは海に突き出した埋め立て地でした。そして海際から奥に続く道幅二間程の細い街路には、軒が低くたれこめた長屋が並んでいたようです。長屋一戸分の間口は三間半で、なかにはそれをさらに半分に仕切った家もありました。屋敷の奥行は、六間半余りです。長屋の建物は、四間半の奥行で、いずれも裏に一間ほどの庭があり、さらにその後に奥行一間余りの納屋があります。ここには、どんな人が住んでいたのでしょうか?
 この弁天様の先の突き出した埋立地には、漁民が住んでいたと云います。御手洗は、港でありながら漁民の数は少なかったようです。それは、この港の成立背景を思い出せば分かります。何もないところに、入港する大型船へのサービス提供のために開かれた港です。漁師はもともとはいないのです。港の人口が増えるにつれて、魚を供給するために漁民が後からやって来たのです。まちのはずれの土地を埋め立て、そこに漁民が住みついたのです。漁師が活動していた港が発展した町ではないのです。ここでは後からやって来た漁師は長屋暮らしです。
7 御手洗 北川家2
   弁天様から天満宮へつながる道筋沿いの町が上町です。
 ここには、平入り本瓦葺き塗寵造りの昔ながらの町家が何軒か残っています。しかし、壁はくずれおちています。大半は「仕舞屋(しもたや)」です。辞書で引くと「1 商店でない、普通の家。2 もと商店をしていたが、今はやめた裕福な家」と出てきます。この町筋に商家はありませんが町並みや街路の様子から早い時期につくられたまちだと研究者は考えているようです。御手洗はこのあたりから次第に開けていったようです。いわば御手洗の「元町」でしょうか。

 天満宮がこの地に移されたのは、神仏分離後の明治四年のことのようです。

それまでは、満舟寺境内に三社堂があり、そこに菅原道真像が祀られていたようです。神仏分離で
明治初年に、この地に天満宮の小祠が建てられ菅原道真像が移され
大正六年に、今の社殿が建てられたようです。

 先述したようにここが「御手洗(みたらい)の地名発祥の地といわれるのは、きれいな湧き水があったからでしょう。そのため、ここに港町がつくられる際に、まず人家が建てられたのもこの周辺だったと研究者は考えているようです。
天神町には、瓦葺きの白壁のあざやかな御手洗会館が建っています。
日本の町並み遺産

今は公民館としてつかわれているようですが、この建物は「若胡屋」という御手洗で最も大きな遊女屋の建物を改造したものです。御手洗会館の前には、やはり白壁造りの長屋門を構えた邸宅があります。
豊町御手洗の旧金子家住宅の公開 - 呉市ホームページ
これが、御手洗の庄屋を勤めた金子家の屋敷です。このようなモニュメント的な建物が並んでいることからも、天神町が、かつての御手洗の中心であったと研究者は考えているようです。
 天神町から御手洗郵便局の角を左に折れると常盤町です。
ここは、古い町並みが一番残っている町です。妻入り本瓦葺き塗寵造りの家が軒を連ねています
①もと酒・米穀問屋を営んだ北川哲夫家
②金物屋の菊本クマヨ家
③醤油醸造を行なう北川馨家
などは御手洗商人の家構えをよく残しています。
御手洗街並みレポート

 上町と天神町が、自然の地形を利用して山麓に街並みが作られているのに対して、常盤町はどちらかというと人工的なまち並みのイメージがします。ある時代、海を埋め立てて作られた街並みではないかと研究者は考えているようです。そのため、屋敷は街路に沿って整然と区画されています。町家も、同じ時期に一斉につくられたようで、よく似た規模とデザインです。御手洗が港町として繁栄の頂点にあった時に、今までの街並みでは手狭になって埋め立てが行われ、そこに競い合うように大きな屋敷が建てられたというストーリーが描けます。そして、それまでの古い町筋の上町や、天神町に代わって、常盤町が御手洗のセンターストリートになっていったようです。
   常盤町から海に向かって三本の小路がのびています。
①旧大島薬局横の小路はやや道幅が広く、小路に沿って人家が並んでいます。ここには古い木造洋館を利用した旅館などもあり、昭和初期の港町の雰囲気が残ります。
②北川哲夫家の左右にある小路は、杉の焼板を腰壁とした土壁の建物がつづいています。港とともに繁栄をきわめた商家の屋敷構えが、小路の景観にあらわれています。
 御手洗郵便局から蛭子神社に向かう道筋が相生町です。
ここは本通りと呼ばれ、明治、大正、昭和初期にかけて、御手洗の商業の中心として賑わいをみせた通りです。この町の町家の多くは、繁盛した大正から昭和初期にかけて建て替えられたようで、、総二階建て、棟の高い家屋が多いようです。
 目印になる昌文堂は、もとは、酒・醤油の小売りをしていた家でした。それが明治42年に、本屋と新聞店として開業し、この港町に新しい時代の息吹きを伝えました。この店は、大崎下島唯一の書店で、戦前までは下島から大崎上島まで、教科書の販売独占権を持っていました。そのため店先には「国定教科書取次販売所」とケヤキ板に墨書きした古めかしい看板が、掲げられていました。
 昌文堂の三軒隣の新光堂は、時計を形どった看版が目印です。

明治
17年に神戸で時計修理の技術を修得した松浦氏が、船員が数多く立ち寄るこのまちで店をひらき、珍しかった時計を売りはじめます。時代の最先端の時計を売ることが出来る豊かさがこの港はあったのです。このように相生町は、常盤町と同時代に新しく御手洗の商業の中心地となった街並みのようです。
 ところで相生町には、伝統的な町家は二軒しか残っていません。どうしてでしょうか? 
それは、このまちが御手洗の商業地として賑わい、資本蓄積が行われ、それにともない建替えがくりかえされてきたためだと研究者は考えているようです。都会でも資本力のある店は、早め早めに店を建て替えて、お客を引きつけようとします。そのため有力な商店街に、古い建物は残りません。逆説的に云うと
「建て替えるお金がないところに古い建物が残る」
といいうことになるのかもしれません。神様はこういうプレゼントの仕方をするのかもしれません。
 蛭子神社付近が、蛭子町です。
岬を中心にコ字型の町並みがあります。御手洗商人の篤い信仰を得た蛭子神社のおひざもとのまちです。ここは相生町の町並みとつづきとなっていて、明治から昭和初期まで賑わいが残りました。
 蛭子町には、江戸時代からつづく旧家が何軒か残っています。神社裏側の七卿館は、幕末に三条実美をはじめとする七卿が宿とした家で、江戸時代に庄屋を勤めた竹原屋多田氏の屋敷跡です。
ひろしま文化大百科 - 御手洗七卿落遺跡
竹原屋多田氏の屋敷跡
 竹原屋が御手洗に移住したのは、貞享二年(1685)ですので、御手洗のパイオニア的な存在になります。また、脇屋友三家は、九州薩摩藩の船宿を勤めた家です。さらに蛭子町の町はずれにある鞆田稔家は、海鼠壁の意匠が目を引く構えで、明治期に力を蓄えた商家です。この家については前回に紹介しました。
瀬戸内海の道・大崎下島|街道歩きの旅
鞆田家
蛭子町には、昭和初期に建てられた洋館が多く残っています。鞆田家の前には、別荘として建てた洋館が海に向かって今も建っています。この洋館は、もともとは芸妓の検番としてつくられたもののようです。芸子たちがお呼びがかかるまでここで、海を見ながら過ごしていたのかもしれません。
 蛭子神社の近くで医院を開業する越智家も昭和初期の洋風建築です。
とびしま海道・山と龍馬と戦跡とロケ地:5日目(5)』大崎下島・豊島 ...
昭和になるとハイカラな建物が好まれ、競い合うように洋風建築物が現れたことが分かります。蛭子町は昭和初期には御手洗で一番モダンな雰囲気の町だったようです。
 蛭子町の南が榎町です。
Solitary Journey [1792] 江戸時代から昭和の初期までに建てられた ...

大東寺の大楠が高くそびえ、ここには仕舞屋が並んでいます。満舟寺の石垣もみごとで、苔むした石が、野面積みで高く積みあげられています。
満舟寺石垣/豊地区 - 呉市ホームページ
 大東寺から海岸に沿って南にのびる町並みが住吉町です
まちの南端には住吉神社が祀られています。ここは斎灘に面したところて南風をまともにうける所で、台風などの時には被害が出ました。そのため御手洗がひらかれた時には、人家もないところでした。
 ところが文政11年(1828)に、ここに波止が築造されると、ここは御手洗の新しい玄関口なり人家が建ちこむようになります。船もこの波止場に着いたり、沖に停泊してここから渡船で行き来するようになります。波止のたもとに大坂から勧進された住吉神社が祀られたのは、その時期のことのようです。
 住吉町の山側が、富永町です。
このまちの裏手は小さな谷となっていて地下水脈に恵まれた土地のようです。この町の由来は、よく分からないようです。あまり商業が盛んでもなく、仕舞屋が並んでいます。
    隣の住吉町は船宿や置屋が建ち並びぶようになり、歓楽街として発展するようになります。この港には、オチョロ船という小舟が夜になると現れました。
おちょろ船 御手洗 大崎上島
船に遊女を乗せて沖に碇泊する船に漕ぎ寄せるのです。遊女は、船乗りの一夜妻をつとめました。彼女たちを船乗りは「オチョロ」と呼んだようです。この富永町は、このオチョロを乗せた伝馬船を漕ぐことを生業とした「チョロ押し」が多く住むまちだったと云われます。

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