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前回は、『菅家文草』に収められた作品から讃岐時代の菅原道真のことを見てみました。今回は他人が書いた讃岐時代の菅原道真を見ていこうと思います。テキストは「竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察 古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」です。
『菅家文草』は、道真自身の作品ですから信頼性もあります。しかし、後世になって書かれた史料は成立時期も降り、怨霊・天満天神としての道真のことにポイントが置かれ、史料的価値は低いようです。
まず取り上げる史料が『菅家伝』です。
『菅家伝』は、正式には『北野天神御伝』という題名で、10世紀前半頃に、道真の孫である在射によって著されたとされる史料です。道真の伝記としては、最も早い成立になり、後世の天神信仰の影響を受ける前に書かれている点が貴重とされるようです。
この『菅家伝』には、次のような記事が見えます。
「仁和二年出為讃岐守、在任有述、吏人愛之。三年進正五位下。寛平二年罷秩帰洛。」
讃岐赴任について書かれている分量は、ほんのわずかですが「吏人愛之」とあり、「良吏」としての評価がなされています。
次に、『北野天神縁起絵巻』をはじめとする各種天神縁起について見ておきましょう。


これらの原本の成立は平安時代後期とされます。この時期になると天神信仰の強い影響が見られ、史実と虚構の境が分からなくなります。共通するのは、讃岐守時代についての菅原道真は何も書かれていないことです。完全に無視省略しています。その一方で、道真の太宰府左遷を讃岐守赴任の際と比較する叙述がみられます。それを天神縁起のなかで根本縁起とされる「承久本」巻四第一段には、次のように記します。
仁和の頃をひ、讃州の任に趣きじ折には、甘寧の錦の績を解きてぞ、南海の浪の上に遊びしに、此の度の迎えには、十百重も化ぶれたる海人の釣舟出で来たり。
意訳変換しておくと
仁和の時に、讃州守として任地に趣いた際には、甘寧の錦の績を解いて、南海の浪の迎えの船が並んだ。それに対して、この度の太宰府の迎えには、海人の釣舟が出迎えただけであった。
「甘寧錦績」とは豪奢の例えですから、讃岐への赴任が厚遇であったことを記します。少なくとも天神縁起絵巻では、讃岐守赴任は立派な出迎えで、太宰府左遷とは違っていたと語られています。
文人国司の登場と道真の立場の独自性について
九世紀において「文人」とは「貴族社会内部では比較的問地の低い人で、学問や能力のわりにめぐまれない地位に甘んじなければならなかった人々」とされます。「文人」が地方官に赴任することは、珍しいことではなかったようです。のちには、文章生から諸国橡に任じられる昇進コースが通例化するのは、こうした傾向の延長線上にあったとも考えられます。道真自身が「天下詩人少在京」(263)と詠んでいるのも、以上のような状況をふまえてのことのようです。
九世紀前半に「文章経国」思想が広がると、紀伝道を修得した者=文人が、現実への対応能力のある「良吏」として期待されるようになります。実際に効果が上がったかどうかを別にして、能力のある者によって体制を立て直すという合理性を持っていたのかもしれません。 もっとも現実は、全国各地に「良吏」が赴任していたわけではありません。一人の意欲的な「良吏」のみで律令制の原則的な秩序を回復するのは不可能でした。それに道真も気づいていたはずです。
このような情勢の中で、文人派=菅原氏も決して例外ではありませんでした。
例えば道真の祖父清公も、美濃少嫁(『公卿補任』承和六年条)や尾張介(『続日本後紀』承和九年十月丁丑条)に赴任しています。したがって、道真が讃岐へ赴任命令を、次のように読むのは無理があると研究者は指摘します。
例えば道真の祖父清公も、美濃少嫁(『公卿補任』承和六年条)や尾張介(『続日本後紀』承和九年十月丁丑条)に赴任しています。したがって、道真が讃岐へ赴任命令を、次のように読むのは無理があると研究者は指摘します。
「倩憶分憂非祖業 倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず」 (つらつら考えると、わが菅家の家業は地方官ではない。)
祖父清公は地方官として赴任しているのですから・・。地方に赴任しなかった父是善のみを念頭に置いた表現なのかもしれません。

讃岐国司として赴任してきた菅原道真(滝宮天満宮の絵馬)
文人国司=讃岐守菅原道真を、どう評価すべきなのでしょうか。
道真の讃岐での政治的評価を判断する時に挙げられるのが次の二点です。
①道真在任中の仁和三年六月に、貢絹の生産について朝廷から譴責を受けた19か国に讃岐が入っていること(『三代実録』同年六月二日甲申条)②『菅家文草』の中で自らを卑下している詩的表現が多いこと
これらを背景に、道真は京に未練があり、「詩人」に徹しようとしたために、あまり有能・熱心な国司=「良吏」ではなく、そのため業績も上がらなかったとする見解が多いようです。

しかし、前回に触れたように『菅家文草』の中には、注意して読めば国司としての自らに対して否定的な自己評価だけではなく、肯定的な表現もあります。さらに『菅家後集』においては、「叙意一百韻」(484)の中で、自らの人生を振り返る部分がありますが、そこで自らの讃岐守時代を評して「州功吏部鐙」と記します。つまり、業績を上げたと自己評価しているのです。
また、「路遇二白頭翁」(四)の詩の中で、「良吏」として名高い安倍興行や藤原保則と比較して自らを卑下しながらも、「就中何事難併旧、明月春風不遇時」「自余政理難無変」などと記します。ここからは、国司として一定の責任感・自負も持ち合わせていたことが分かります。

しかし、前回に触れたように『菅家文草』の中には、注意して読めば国司としての自らに対して否定的な自己評価だけではなく、肯定的な表現もあります。さらに『菅家後集』においては、「叙意一百韻」(484)の中で、自らの人生を振り返る部分がありますが、そこで自らの讃岐守時代を評して「州功吏部鐙」と記します。つまり、業績を上げたと自己評価しているのです。
また、「路遇二白頭翁」(四)の詩の中で、「良吏」として名高い安倍興行や藤原保則と比較して自らを卑下しながらも、「就中何事難併旧、明月春風不遇時」「自余政理難無変」などと記します。ここからは、国司として一定の責任感・自負も持ち合わせていたことが分かります。
道真は「国司」という官職につくことを嫌悪していたわけでもないようです。
このことを直接的に示すのが、『菅家文草』巻第二の「喜被三遥兼賀員外刺史」(‐00)です。これは元慶七年(883)正月11日の除目で、道真が加賀権守を兼ねることになったときの詩です。これは題名の通り、この任命を喜ぶものです。その内容は、次のようなものです。
このことを直接的に示すのが、『菅家文草』巻第二の「喜被三遥兼賀員外刺史」(‐00)です。これは元慶七年(883)正月11日の除目で、道真が加賀権守を兼ねることになったときの詩です。これは題名の通り、この任命を喜ぶものです。その内容は、次のようなものです。
「家門・家学である紀伝文章の道は、経済的には恵まれることはないが、父・是善も任ぜられた加賀権守の月俸によって、北陸の残雪をおかして赴任する苦労もなく、ただ秋の豊作を期待するだけである」
地方に赴任することのない遙任であれば、このように心からの喜びが表現されています。
以上の点をふまえて、道真が讃岐守に任命された仁和二年正月の補任記事について見ておきましょう。
「讃岐左遷説」の状況証拠とされてきたのは、この時の人事が「門地の低い実力者=文人派」が締め出される学閥間の争いの中で行われたとされるからのようです。そのため敗れた道真閥側が地方に「左遷」されたというのです。さらに、この学閥間の争いとは、貴族上層部から支持を受けた「詩人無用論」を唱える実務家的儒者派と、文学創作を第一義とする道真らの詩人派との対立であったという見方もあります。確かに9世紀後半には、次のような政治の流れがあったようです。
①大学制度の衰退とそれに伴う家学の発展が、学閥の抗争の中で「文章経国」の思想を後退させた②そのため「文人派」の政治的局面からの後退が見られた
これを事実として受け止めても、菅家廊下門人三千人の主催者である道真が、4年後に再び京に復帰している点をどう理解すればいいのでしょうか。
以前は、道真が中央政府に復帰し異例の昇進を遂げたのは、障害となっていた藤原基経や橘広相の死があったためとされました。
しかし、これらは道真の讃岐帰京より後のことです、寛平3年2月29日の蔵人頭補任以後の昇進の理由にはなりますが、讃岐から帰京したことの直接的な原因とすることはできないようです。また、阿衡問題解決の功績についても、基経への著名な書状「奉昭宣公書」は時期を逸し、実質的に有効ではなかったという見解もあって、これも決定的な理由にはならないようです。交替の手続きを待たずに行なわれた道真の帰京は、宇多天皇による優遇に関係するようです。
以上から、仁和二年の道真の讃岐守赴任は、文人派(詩人派)の決定的な敗北を示すものではなかった。帰京後の異例の昇進を念頭に置くならば、「左遷」と映るかも知れないが、単なる「転勤」とも考えられるようです。
しかし、これらは道真の讃岐帰京より後のことです、寛平3年2月29日の蔵人頭補任以後の昇進の理由にはなりますが、讃岐から帰京したことの直接的な原因とすることはできないようです。また、阿衡問題解決の功績についても、基経への著名な書状「奉昭宣公書」は時期を逸し、実質的に有効ではなかったという見解もあって、これも決定的な理由にはならないようです。交替の手続きを待たずに行なわれた道真の帰京は、宇多天皇による優遇に関係するようです。
以上から、仁和二年の道真の讃岐守赴任は、文人派(詩人派)の決定的な敗北を示すものではなかった。帰京後の異例の昇進を念頭に置くならば、「左遷」と映るかも知れないが、単なる「転勤」とも考えられるようです。
道真は他の文人国司とは、大きくちがった面を持っていたいた人物と考えられると研究者は指摘します。
讃岐守赴任を左遷と見なされることへのおそれ(‐87)、何度も繰り返される「客意」表現、外官赴任拒否の意志表示(324)など、極端に地方への赴任を嫌悪しているのは異常です。文人の地方官赴任は、漢王朝の宣帝の「典我共此者、其唯良二千石乎」(『漢書』循吏伝序)にも見られるよう伝統的な地方官重視の帝国統治理念を実践できる絶好の機会とされてきました。また、白居易と同じように諷喩詩をもって諫言するという、「詩臣」の立場をとることもできました。さらに、地方官を歴任したことは、地方官在任中のみならず、中央政府に復帰した際に発言の重みとして作用します。例えば、道真の「請令二議者反覆検税使可否状」(602)は、自分の国司赴任の経験に立って、各国に検税使を派遣することなく、国司の統治に任せることを述べたものです。また三善清行の「意見十二箇条」も国司経験者としての提言で、いずれも自らの政治的立場を有利にするには有効であったことがうかがえます。
讃岐守赴任を左遷と見なされることへのおそれ(‐87)、何度も繰り返される「客意」表現、外官赴任拒否の意志表示(324)など、極端に地方への赴任を嫌悪しているのは異常です。文人の地方官赴任は、漢王朝の宣帝の「典我共此者、其唯良二千石乎」(『漢書』循吏伝序)にも見られるよう伝統的な地方官重視の帝国統治理念を実践できる絶好の機会とされてきました。また、白居易と同じように諷喩詩をもって諫言するという、「詩臣」の立場をとることもできました。さらに、地方官を歴任したことは、地方官在任中のみならず、中央政府に復帰した際に発言の重みとして作用します。例えば、道真の「請令二議者反覆検税使可否状」(602)は、自分の国司赴任の経験に立って、各国に検税使を派遣することなく、国司の統治に任せることを述べたものです。また三善清行の「意見十二箇条」も国司経験者としての提言で、いずれも自らの政治的立場を有利にするには有効であったことがうかがえます。
しかし、讃岐赴任前の道長は都の廷臣であることを強く意識しています。
そして、積極的に廷臣・儒者として、直接諫言することで政治参加したいという願望を持っていたようです。道真にとって、都から離れ讃岐に出向かねばならないことは「左遷」以外には、受け止められなかったのかもしれません。確かに都人の地方官赴任は、本当に左遷の場合もありました。白居易のように唐王朝では、その傾向が強かったことを、道真は知っていたはずです。このあたりが一般の文人とは違った認識と感性を持っていたと云えるのかも知れません。このような強い「思い込み」は、敵対する勢力からは、「政治的野心」としてみなされる危険性があったでしょう。道真に対する三善清行の警告「奉菅右相府書」は、反道真派の論客として提出されたものですが、道真の本質的な問題点を衝いていたものだったと研究者は考えているようです。
そして、積極的に廷臣・儒者として、直接諫言することで政治参加したいという願望を持っていたようです。道真にとって、都から離れ讃岐に出向かねばならないことは「左遷」以外には、受け止められなかったのかもしれません。確かに都人の地方官赴任は、本当に左遷の場合もありました。白居易のように唐王朝では、その傾向が強かったことを、道真は知っていたはずです。このあたりが一般の文人とは違った認識と感性を持っていたと云えるのかも知れません。このような強い「思い込み」は、敵対する勢力からは、「政治的野心」としてみなされる危険性があったでしょう。道真に対する三善清行の警告「奉菅右相府書」は、反道真派の論客として提出されたものですが、道真の本質的な問題点を衝いていたものだったと研究者は考えているようです。
藤原氏の世代交代の空白期に、菅原道真は偶然にも宇多天皇の優遇を得ます。その反動として昌泰四年(901)1月の太宰府への左遷という結果につながります。そして、道真が危惧した「詩人」と「儒者」の分裂は、この時点で決定的になったといえそうです。
以上をまとめておくと
①『菅家文草』には、菅原道真の複雑な心情が含まれているが、「文学作品」であり。詩的表現を額面通りに読み取ることはできない。
②「文人相軽」の時代風潮の中での讃岐守赴任を、道真が当初は「左遷」と思い込んでいたフシはある。
③あるいは尊敬する白居易へ左遷と自分の地方転出を同一視したような所も見られる。
④道真の讃岐での作品全体を見ると、政治の現実に押しつぶされそうになりながらも前向きに対処していこうとする作品の方がはるかに多い
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察 古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」