瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:菅原道真

          Amazon.com: 菅家文草 [1] (国立図書館コレクション) (Japanese Edition) eBook : 菅原道真: Kindle  Store

 前回は、『菅家文草』に収められた作品から讃岐時代の菅原道真のことを見てみました。今回は他人が書いた讃岐時代の菅原道真を見ていこうと思います。テキストは「竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」です。

『菅家文草』は、道真自身の作品ですから信頼性もあります。しかし、後世になって書かれた史料は成立時期も降り、怨霊・天満天神としての道真のことにポイントが置かれ、史料的価値は低いようです。
 まず取り上げる史料が『菅家伝』です。
『菅家伝』は、正式には『北野天神御伝』という題名で、10世紀前半頃に、道真の孫である在射によって著されたとされる史料です。道真の伝記としては、最も早い成立になり、後世の天神信仰の影響を受ける前に書かれている点が貴重とされるようです。
この『菅家伝』には、次のような記事が見えます。

「仁和二年出為讃岐守、在任有述、吏人愛之。三年進正五位下。寛平二年罷秩帰洛。」

讃岐赴任について書かれている分量は、ほんのわずかですが「吏人愛之」とあり、「良吏」としての評価がなされています。
次に、『北野天神縁起絵巻』をはじめとする各種天神縁起について見ておきましょう。

忘れへんうちに Avant d'oublier: 北野天満宮展 北野天神縁起絵巻の雷は截金

これらの原本の成立は平安時代後期とされます。この時期になると天神信仰の強い影響が見られ、史実と虚構の境が分からなくなります。共通するのは、讃岐守時代についての菅原道真は何も書かれていないことです。完全に無視省略しています。その一方で、道真の太宰府左遷を讃岐守赴任の際と比較する叙述がみられます。それを天神縁起のなかで根本縁起とされる「承久本」巻四第一段には、次のように記します。

仁和の頃をひ、讃州の任に趣きじ折には、甘寧の錦の績を解きてぞ、南海の浪の上に遊びしに、此の度の迎えには、十百重も化ぶれたる海人の釣舟出で来たり。

意訳変換しておくと
仁和の時に、讃州守として任地に趣いた際には、甘寧の錦の績を解いて、南海の浪の迎えの船が並んだ。それに対して、この度の太宰府の迎えには、海人の釣舟が出迎えただけであった。

「甘寧錦績」とは豪奢の例えですから、讃岐への赴任が厚遇であったことを記します。少なくとも天神縁起絵巻では、讃岐守赴任は立派な出迎えで、太宰府左遷とは違っていたと語られています。

 文人国司の登場と道真の立場の独自性について
九世紀において「文人」とは「貴族社会内部では比較的問地の低い人で、学問や能力のわりにめぐまれない地位に甘んじなければならなかった人々」とされます。「文人」が地方官に赴任することは、珍しいことではなかったようです。のちには、文章生から諸国橡に任じられる昇進コースが通例化するのは、こうした傾向の延長線上にあったとも考えられます。道真自身が「天下詩人少在京」(263)と詠んでいるのも、以上のような状況をふまえてのことのようです。

 九世紀前半に「文章経国」思想が広がると、紀伝道を修得した者=文人が、現実への対応能力のある「良吏」として期待されるようになります。実際に効果が上がったかどうかを別にして、能力のある者によって体制を立て直すという合理性を持っていたのかもしれません。 もっとも現実は、全国各地に「良吏」が赴任していたわけではありません。一人の意欲的な「良吏」のみで律令制の原則的な秩序を回復するのは不可能でした。それに道真も気づいていたはずです。
 このような情勢の中で、文人派=菅原氏も決して例外ではありませんでした。
 例えば道真の祖父清公も、美濃少嫁(『公卿補任』承和六年条)や尾張介(『続日本後紀』承和九年十月丁丑条)に赴任しています。したがって、道真が讃岐へ赴任命令を、次のように読むのは無理があると研究者は指摘します。

「倩憶分憂非祖業   倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず」 (つらつら考えると、わが菅家の家業は地方官ではない。)

祖父清公は地方官として赴任しているのですから・・。地方に赴任しなかった父是善のみを念頭に置いた表現なのかもしれません。
菅原道真
 讃岐国司として赴任してきた菅原道真(滝宮天満宮の絵馬)

文人国司=讃岐守菅原道真を、どう評価すべきなのでしょうか。
 道真の讃岐での政治的評価を判断する時に挙げられるのが次の二点です。
①道真在任中の仁和三年六月に、貢絹の生産について朝廷から譴責を受けた19か国に讃岐が入っていること(『三代実録』同年六月二日甲申条)
②『菅家文草』の中で自らを卑下している詩的表現が多いこと
これらを背景に、道真は京に未練があり、「詩人」に徹しようとしたために、あまり有能・熱心な国司=「良吏」ではなく、そのため業績も上がらなかったとする見解が多いようです。

菅家文草 菅家後集 日本古典文学大系72(川口久雄 校註) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 しかし、前回に触れたように『菅家文草』の中には、注意して読めば国司としての自らに対して否定的な自己評価だけではなく、肯定的な表現もあります。さらに『菅家後集』においては、「叙意一百韻」(484)の中で、自らの人生を振り返る部分がありますが、そこで自らの讃岐守時代を評して「州功吏部鐙」と記します。つまり、業績を上げたと自己評価しているのです。
 また、「路遇二白頭翁」(四)の詩の中で、「良吏」として名高い安倍興行や藤原保則と比較して自らを卑下しながらも、「就中何事難併旧、明月春風不遇時」「自余政理難無変」などと記します。ここからは、国司として一定の責任感・自負も持ち合わせていたことが分かります。
 道真は「国司」という官職につくことを嫌悪していたわけでもないようです。
このことを直接的に示すのが、『菅家文草』巻第二の「喜被三遥兼賀員外刺史」(‐00)です。これは元慶七年(883)正月11日の除目で、道真が加賀権守を兼ねることになったときの詩です。これは題名の通り、この任命を喜ぶものです。その内容は、次のようなものです。

「家門・家学である紀伝文章の道は、経済的には恵まれることはないが、父・是善も任ぜられた加賀権守の月俸によって、北陸の残雪をおかして赴任する苦労もなく、ただ秋の豊作を期待するだけである」

 地方に赴任することのない遙任であれば、このように心からの喜びが表現されています。
以上の点をふまえて、道真が讃岐守に任命された仁和二年正月の補任記事について見ておきましょう。
「讃岐左遷説」の状況証拠とされてきたのは、この時の人事が「門地の低い実力者=文人派」が締め出される学閥間の争いの中で行われたとされるからのようです。そのため敗れた道真閥側が地方に「左遷」されたというのです。さらに、この学閥間の争いとは、貴族上層部から支持を受けた「詩人無用論」を唱える実務家的儒者派と、文学創作を第一義とする道真らの詩人派との対立であったという見方もあります。確かに9世紀後半には、次のような政治の流れがあったようです。
①大学制度の衰退とそれに伴う家学の発展が、学閥の抗争の中で「文章経国」の思想を後退させた
②そのため「文人派」の政治的局面からの後退が見られた
これを事実として受け止めても、菅家廊下門人三千人の主催者である道真が、4年後に再び京に復帰している点をどう理解すればいいのでしょうか。
 以前は、道真が中央政府に復帰し異例の昇進を遂げたのは、障害となっていた藤原基経や橘広相の死があったためとされました。
しかし、これらは道真の讃岐帰京より後のことです、寛平3年2月29日の蔵人頭補任以後の昇進の理由にはなりますが、讃岐から帰京したことの直接的な原因とすることはできないようです。また、阿衡問題解決の功績についても、基経への著名な書状「奉昭宣公書」は時期を逸し、実質的に有効ではなかったという見解もあって、これも決定的な理由にはならないようです。交替の手続きを待たずに行なわれた道真の帰京は、宇多天皇による優遇に関係するようです。
 以上から、仁和二年の道真の讃岐守赴任は、文人派(詩人派)の決定的な敗北を示すものではなかった。帰京後の異例の昇進を念頭に置くならば、「左遷」と映るかも知れないが、単なる「転勤」とも考えられるようです。
 道真は他の文人国司とは、大きくちがった面を持っていたいた人物と考えられると研究者は指摘します。
讃岐守赴任を左遷と見なされることへのおそれ(‐87)、何度も繰り返される「客意」表現、外官赴任拒否の意志表示(324)など、極端に地方への赴任を嫌悪しているのは異常です。文人の地方官赴任は、漢王朝の宣帝の「典我共此者、其唯良二千石乎」(『漢書』循吏伝序)にも見られるよう伝統的な地方官重視の帝国統治理念を実践できる絶好の機会とされてきました。また、白居易と同じように諷喩詩をもって諫言するという、「詩臣」の立場をとることもできました。さらに、地方官を歴任したことは、地方官在任中のみならず、中央政府に復帰した際に発言の重みとして作用します。例えば、道真の「請令二議者反覆検税使可否状」(602)は、自分の国司赴任の経験に立って、各国に検税使を派遣することなく、国司の統治に任せることを述べたものです。また三善清行の「意見十二箇条」も国司経験者としての提言で、いずれも自らの政治的立場を有利にするには有効であったことがうかがえます。
 しかし、讃岐赴任前の道長は都の廷臣であることを強く意識しています。
そして、積極的に廷臣・儒者として、直接諫言することで政治参加したいという願望を持っていたようです。道真にとって、都から離れ讃岐に出向かねばならないことは「左遷」以外には、受け止められなかったのかもしれません。確かに都人の地方官赴任は、本当に左遷の場合もありました。白居易のように唐王朝では、その傾向が強かったことを、道真は知っていたはずです。このあたりが一般の文人とは違った認識と感性を持っていたと云えるのかも知れません。このような強い「思い込み」は、敵対する勢力からは、「政治的野心」としてみなされる危険性があったでしょう。道真に対する三善清行の警告「奉菅右相府書」は、反道真派の論客として提出されたものですが、道真の本質的な問題点を衝いていたものだったと研究者は考えているようです。
 藤原氏の世代交代の空白期に、菅原道真は偶然にも宇多天皇の優遇を得ます。その反動として昌泰四年(901)1月の太宰府への左遷という結果につながります。そして、道真が危惧した「詩人」と「儒者」の分裂は、この時点で決定的になったといえそうです。

以上をまとめておくと
①『菅家文草』には、菅原道真の複雑な心情が含まれているが、「文学作品」であり。詩的表現を額面通りに読み取ることはできない。
②「文人相軽」の時代風潮の中での讃岐守赴任を、道真が当初は「左遷」と思い込んでいたフシはある。
③あるいは尊敬する白居易へ左遷と自分の地方転出を同一視したような所も見られる。
④道真の讃岐での作品全体を見ると、政治の現実に押しつぶされそうになりながらも前向きに対処していこうとする作品の方がはるかに多い

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」

      菅原道真

菅原道真(845~903年)は、仁和三(886)年から寛平二(890)年にかけての四年間、讃岐守として讃岐にやってきます。これに対しては、かつては左遷説が強かったようです。確かに、以前見たように赴任当初に書かれた作品には、左遷を憂うようなものがいくつも見られます。これに対して、左遷ではなかったと考える研究者が近年には増えているようです。何を根拠に、左遷説を否定するのでしょうか。今回は、その辺りを見ていきたいと思います。テキストは「竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」です。

菅家文草とは - コトバンク
菅家文草

『菅家文草』十二巻は、昌泰三年(900)に、道真が醍醐天皇に奏進した『菅家三代集』二十八巻の一部です。その中の巻第三と巻第四は讃岐守時代の詩を集めたもので、もとは「讃州客中詩」二巻と呼ばれ、醍醐天皇が皇太子であった時に、求めに応じて献上した詩集です。その内の巻第三には仁和二年(886)正月16日に讃岐守に任じられてから、仁和三年の年末に一時帰京し、翌四年正月の初めまでに詠まれた詩が収められています。このうち、讃岐着任の直前の作が五首、二月の赴任の途次の作が三首あります。着任直後の詩は非常に少ないようです。年の後半の秋の訪れとともに作品の数は増加します。
 道真が讃岐で作った詩作は、旅愁・悲嘆が詠まれているものに目がいきがちです。
北堂餞宴
我将南海飽風煙      我将に南海の風煙に飽かむ
更妬他人道左遷       更に妬む 他人の左遷と道ふを    
倩憶分憂非祖業       倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず 
徘徊孔聖廟門前       徘徊す 孔聖廟の門前                
意訳変換しておくと
私はこれから南海(四国讃岐)の風煙(景色や風物)を嫌というほど味わうことになるだろう。
加えて忌々しいのは、他人がこれを左遷と呼ぶことだ。
じっくり考えると、わが菅家の家業は地方官ではない
孔子廟の門の前をぶらぶら歩きながら、そう思うのだ。
「国司として赴任するのは家業ではない」「他人の左遷なりといはむ」とあります。ここからは、文章博士の解任と讃岐赴任に、道真がひどく傷ついている様子が伝わってきます。

しかし、一方で国司の職務に伴う印象や国情に対する感想が詠まれた詩もあります。例えば、
①輸租のやり方を論じたり
②訴訟の判決を書いたりすることを詩の中に詠み込んだり「重陽日府衛小飲」、
③国内巡行によって把握したと思われる貧しい庶民の実情を題材にした「寒早十首」(200)
これらは任期後半になって、新しい職務・環境に慣れて、詩作されるようになるのは以前に紹介したとおりです。ここからは、都から離れたことに悲観するだけではなく、国司としての職務にかなり意欲を持っていたことがうかがえます。
「従初到任心情冷 被勧春風適破顔」の句のように(「春日尋山」)、赴任の動揺からようやく落ち着いたことを告白した詩もでてきます。
 また、過去に讃岐に赴任した「良吏」である安倍興行や藤原保則と比較して、自らの国司としての非力を卑下する(「路遇二白頭翁」)一方で、「外聞幸免喚・蒼鷹(酷吏という噂はない)」・「到州半秋清兼慎」(赴任後、清廉と謹慎をもって務めた)という表現で自己評価もするようになります。(「行春」)。
 また、年末に一時帰京する際には、再び讃岐へ帰ってこないのではないかと州民が案じたというような詩も書くようになります。
巻第三は、京の自邸で越年し、翌仁和四年(888)の初めに讃岐に帰任する直前までの詩が収めれています。この中の京で詠んだ詩には、早く讃岐に帰任したいという意向までうかがわれます。(「残菊下自詠」(238)「三年歳暮、欲二更帰州、柳述所懐、寄二尚書平右丞こ(240))。
 ここからは、左遷に対して「失意・挫折感」の視点のみで、道真の心の動きをみることはできないようです。
巻第四は、仁和四年(888)春、再び讃岐に帰任する途中の作品から始まります。
この年の前半には、讃岐守として特徴的な作品はありません。ところが四月以降、早魃に見舞われたため、降雨を城山の神に祈願(「祭城山神文」)したことが記されています。この災害への対処に疲労したためか、国司として自信を喪失したような詩も出てきます。この秋には阿衡問題に関わって一時帰京し、「奉二昭宣公書」(『政事要略』巻丹、阿衡事)を奏上しています。
 翌年の仁和五年(889)になると、交替・帰京を意識した作品が目立つようになります。
例えば夏には、「官満未成功」(「納涼小宴」)などと、謙遜しながら四年間を決算するような表現が出てきます。その一方で、自分の功績に対する評価への不安も隠すことなく表しています。帰京途中の際には作品はなく、巻末の一三首は帰京後の詩になります。以上、菅原道真が讃岐で詠んだ詩のテーマ・題材を、研究者は次の4つに分類します。
①讃岐守・外官として赴任したことに対する悲嘆
②国司の職務・治政に対する自己評価。讃岐国の社会情勢の観察。
③国司としての処遇・国府の環境や前任国司について。
④讃岐国内外での遊興・門人や詩友との交流。
 これらの作品を見る場合に、巻第三・巻第四は、東宮敦仁親王(のちの醍醐天皇)の求めに応じて献上された詩集であることを忘れてはならないと研究者は指摘します。
帰京後の「二月二日、侍二於雅院。賜侍臣曲水之飲、応製」(324)の詩には、「長断詩臣作外臣」とあります。ここからは、2度と「外官赴任」が行なわれないことを願うことが詩集成立の主たる目的であったことが分かると研究者は指摘します。そのためにも、赴任初期には、讃岐守赴任によって、どれほど難渋したかということが強調するテーマ①に関する作品が並べられていると研究者は考えます。
 テーマ③④については、道真の孤絶性を特に強調するのは偏った見方だと研究者は指摘します。
道真は属僚と遊興を楽しむだけではなく、「菅家廊下」の門人の訪間を受けたり、詩友との詩を介した交際も楽しんでもいます。「左遷による失意と望郷」の面からだけで捉えるのは、一面的な見方だと云うのです。
白氏文集とは - コトバンク
白氏文集

『菅家文草』は『白氏文集』の強い影響を受けていることを、研究者は指摘します。
『白氏文集』は、唐代の詩人白居易(772~846)の詩集で、完結したのは、会昌五年(845)のことです。日本には、その直後の承和14(847)に、入唐僧恵薯によってもたらされたようです。その前後から、自居易の詩は急速に日本の詩人に広まります。
 菅原道真も、『自氏文集』の影響を強く受けていることが、次のように指摘されます。
①詩の中に割注を設けている点
②詩の題材として諷喩詩・詠竹詩が見られる点
③仏教的な内容を持つ点
④叙意一百韻という長大な形式
 道真は讃岐の居館にも白居易の詩文を持ってきていて、これらを手許に置いて参考にしながら、詩を作った可能性があるようです。 
 さらに注目すべき点として、白居易と菅原道真の官歴が似ていることを研究者は指摘します。
 白居易は、学越権行為をとがめられ左遷されて江州司馬に赴任し、続けて忠州刺史を任じられます。その後も、中央の党争に巻き込まれることを避けて、希望して杭州刺史になっています。このような白居易の左遷体験から作られた作品と、自分との境遇をダブらせ共感していた。それを自分の作品作りの材料にしていた、という仮説も文学者からは出されています。

菅原道真 菅家文草 寒早十首 国司の見た讃岐

菅原道真 菅家文草 寒早十首2 国司の見た讃岐

菅家文草 寒早十首 国司菅原道真の見た讃岐  坂出市史資料編24P

道真が赴任した讃岐国とはどんな国だったのでしょうか?
当時の讃岐国の位置付けを見ておきましょう。
「延喜民部上式」によると、讃岐国は上国で、大内・寒川・三木・山田・香川・阿野・鵜足・那珂・多度・三野・刈田の11郡からなり、国司の定員は、職員令上国条によれば、守・介・嫁・目各一人と史生二人です。「延喜式部上式」諸国史生条には、史生の定員については上国四人のところ美濃・讃岐のみ大国並みに五人と規定されています。ちなみに、「延喜民部上式」戸損条によれば、下野と讃岐のみ大国に準じて四九戸を例損とすることが規定されています。このように、九世紀後半における讃岐国は、上国ですが大国並みに扱われていたことがうかがえます。
讃岐守一覧表(9世紀)
九世紀代に讃岐守に任命された国司一覧表を見ておきましょう。
彼らの官位欄を見ると、赴任寺には四位の者が多いことが分かります。讃岐守は上国守なので官位令従五位条の規定では従五位下の位階が相当になります。とくに九世紀半ばころから讃岐守は、参議・京官と兼官している場合が多かったようです。そのため、讃岐守は遥任が多かったことがうかがえます。
 讃岐赴任経験者の、その後の昇進具合はどうでしょうか。一番右の欄の最高到達ポストを見てみると、讃岐守を歴任した者は、最終的に二位・三位まで昇進している者が多いようです。ここからは次のようなことがうかがえます。
①九世紀の讃岐守は、給付目的のための官職の性格が強く、国衛では守不在でも統治ができた。
②讃岐は安定した統治しやすい所とされていた
道真は従五位上行式部少輔兼文章博士加賀権守から讃岐守に転じます。そして、前任官と相当官位で任じられています。先ほど見たように従五位上は、官位令では大国守の官位です。讃岐が大国に準じた扱いをされていることを、裏付けます。同時に、位階的には左遷とは云えないようです。
道真が守であった時期に、同僚であった国司官人を見ておきましょう。

讃岐守菅原道真の同僚一覧表(9世紀)

 下級国司については分かりませんが、上級官については京官と兼官しているものが多いようです。『菅家文草』の作品の中にも、次のような同僚が登場します。
①「倉主簿」(227・23Y
②「藤(十六)司馬」(277・28・30・31)
③ 書生「宇尚貞」(219)
④「物章医師」(3o6)です。
彼らは、姓名は分かりませんが、それぞれ目・嫁・書生・国医師です。特に①②は道真と同じく中央派遣官で、詩簡をやりとりするなど友誼を通じていたようです。ちなみに①「倉主簿」は仁和三年末に交替し(234)、②「藤司馬」は道真の交替後も、讃岐に在任していたようです。
しかし、「苦日長」(292)の詩の中で、京の菅家廊下にいた多くの門弟に比べると「衝掩吏無集」と官人の少なさを嘆いています。ここからは、気心の知れた同僚は皆無ではなかったものの、少なかったことは確かなようです。『菅家文草』に表現される孤独感の一端は、遥任国司が多く、京から実際に赴任している官人の少なさにもあったのかもしれません。
 最後に、九世紀後半の讃岐国の実情を同時代の史料から見ておきましょう。『菅家文草』の詩文の中には、讃岐の国情を詠み込んだものがあります。例えば
「八九郷晶。十一郡四万戸・人口二八万人(279)」

 讃岐には「89の郷があり、11郡で4万戸、人口は28万人」というような数字は、現場にいる国司でなければすぐには出てきません。菅原道真が、これらを頭に入れた上で、執務していたことがうかがえます。延喜式の28社なども頭に入っていたかもしれません。
この他にも
①国司が多くの訴訟に対処しなければならなかったこと(97)、
②「青々汚染蝿」、すなわち様々な不正を行なう者がいたこと(219)
③社会の底辺を主題にした「寒早十首」(200~209)
などからは、ある程度当時の讃岐の国情を推察するための材料になりそうです。

菅原道真 菅家文草 寒早十首9 国司の見た讃岐  坂出市史資料編24P
菅家文草 寒早十首 国司の見た讃岐  坂出市史資料編24P

  以上をまとめておくと
①菅原道真の讃岐国守任命は、自らの作品の中にも「左遷」と書かれているために、それが定説とされてきた。
②しかし、道真の作品を見る限り、「左遷悲嘆」的なものは初期のものだけに限られる。
③多くの作品は、現実の政治に押しつぶされそうになりながらも、国司として前向きに取り組む姿勢が見られるものの方が多い。
③当時の讃岐の国のランクも準「大国」であり、位階的には左遷とは云えない。
④菅原道真のその後の「出世」ぶりからも、左遷であったとは云えない
以上から、菅原道真の讃岐守への任官は、決して異常なものではなく、通例の「転勤」であった、道真は「左遷され降された」のではなく、「転じて」讃岐守になったと研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」

   菅家文草とは - コトバンク
菅原道真の漢詩集『菅家文章』

 菅原道真は国司として讃岐在任中に140編の漢詩と8編の文章を作っています。その中に当時の讃岐の庶民や道真の政治意識が、どう記されているのかを見てみることにします。テキストは  菅原道真が見た「坂出」  坂出市史 古代編  120P  です。 
 菅原道真は仁和三(886)年正月に讃岐守に任命され、二月に赴任しています。漢詩集『菅家文章』には、初めての地方赴任への悲嘆が、次のように記されています。
北堂餞宴
我将南海飽風煙      我将に南海の風煙に飽かむ
更妬他人道左遷       更に妬む 他人の左遷と道ふを        
倩憶分憂非祖業       倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず 
徘徊孔聖廟門前       徘徊す 孔聖廟の門前                         
意訳変換しておくと
私はこれから南海(四国讃岐)の風煙(景色や風物)を嫌というほど味わうことになるだろう。
加えて忌々しいのは、他人がこれを左遷と呼ぶことだ。
じっくり考えると、わが菅家の家業は地方官ではない
孔子廟の門の前をぶらぶら歩きながら、そう思うのだ。
「国司として赴任するのは家業ではない」「他人の左遷なりといはむ」とあります。ここからは、文章博士の解任と讃岐赴任に、道真がひどく傷ついている様子が伝わってきます。
その他にも、(『菅家文草』84番詞書には
「心神迷乱し、わずかに、声発するのみにして、晨流れて嗚咽す」「おのずからに悲し」
とも記します。
ここからは、はじめて国司として「讃岐に赴任して、ばりばり働こう!」という前向きのやる気は伝わってきません。讃岐赴任が自分が望んだものではなく悲嘆に暮れるか細い文人官僚の姿が、最初詠んだときには浮かんできました。

菅原道真
菅原道真42歳(滝宮天満宮に奉納された絵馬)

ちなみに、この漢詩には「他人の左遷なりといはむ」と記されています。このため菅原道真の讃岐守任命については、文章博士をめぐる派閥争いの末の左遷という見方がされてきました。
 しかし、菅原道真は讃岐から帰任した後に実務官僚を経て、参議、民部卿、そして大納言、右大臣と政策上立案・遂行する立場に昇っていきます。この姿を見ると単なる左遷ではなく、むしろ「良吏国司」派遣策のもとで、文人政治家としての実務を「現場」で経験させるための「現地研修的な赴任」であったと今では考えられるようになっているようです。 それを裏付けるように、道真の讃岐守在任中には、郡司定員の増加など政府を挙げて、国司をバックアップする改革も実施されています。

坂出 中世の海岸線

菅原道真は、どのようなルートで讃岐国府にやってきたのでしょうか
平安時代後期の10世紀に因幡国司となった平時範の赴任事例では、官道を進み国境で在庁官人が出迎える儀式があったと記されます。しかし、道真は赴任時の様子を『菅家文草』に何も記していません
 「中上り」として任期途中でいったん都に一旦戻る慣例があったようですが、その道程は都から播磨国明石駅家までは陸路でやってきて、そこから船に乗り込み瀬戸内海を海路進み、「客館」のある松山湊に上陸というルートをとったようです。
讃岐にやって来てはじめての秋を向かえた頃に造られた漢詩です
涯分浮沈更問誰  涯分がいぶんの浮沈 更さらに誰にか問はん
秋来暗倍客居悲  秋よりこのかた暗ほのかに倍ます 客居の悲しみ
老松窓下風涼処  老松の窓の下もとに風の涼しき処ところ
疎竹籬頭月落時  疎竹の籬まがきの頭ほとりに月の落つる時
不解弾琴兼飲酒  琴きんを弾ひき兼ねて酒を飲むを解さとらず
唯堪讃仏且吟詩  唯ただ仏を讃たたへ且かつ詩を吟ずるに堪たふるのみ
夜深山路樵歌罷  夜深くして 山路さんろに樵歌せうか罷やむ
殊恨隣鶏報暁遅  殊ことに恨むらくは 隣鶏りんけいの暁あかつきを報ずることの遅きことを
 秋の涼風が吹きはじめ、群竹に月が沈む情景に、胸を締め付けられた道真は、何とか気を紛らわせようとします。ところが琴も酒もたしなまないために、読経と詩吟で長い秋の夜を過ごすしか術がないようです。ここで出てくる「琴・酒・詩・仏教」という組み合わせは、琴詩酒を「北窓の三友(書斎の三つの友)」と呼び、自ら「香山居士こうざんこじ(香山の在家仏教信者)」と号した白居易の存在が念頭にあるようです。琴も酒も詩人には欠かせませんが、白居易は「琴を弾き、琴に飽きれば酒を飲み、酒を飲んでは詩を作る」といった調子で、これらを愛好していました。
 それでは道真はどうだったのでしょうか?
彼は「琴」はものにできず稽古を止めてしまっていたようです。「琴を弾くを習ふを停む」と述べている下りがあります。それでは酒はどうでしょうか? どうやらあまり好まなかったようです。
友人知人と酒席を囲んでいるので全くの下戸だった訳ではないようですが、白居易のように浴びるほど飲んで、興が乗れば漢詩が流れるように生み出されるという感じではありません。
 讃岐赴任後の重陽の節のときに、国府の庁舎では宴が開かれます。それまでは宮中で華やかな宴を催していましたが、讃岐では「独りい対ふなり、海の辺なる雲」と単身赴任の淋しさをぐちっています。単身赴任でやってきで、在庁官人たちと毎晩のようにどんちゃん騒ぎというイメージにはほど遠い感じです。それどころか「讃州」は「惨愁」と音の響きが通うことを気にするようになります。どうも神経が細く滅入っている様子です。

「私は琴も酒もさほど嗜まないから彼等とはお別れして、後に残る詩を死ぬまで友としよう、詩こそが私にとっては死ぬまでの友であり、先祖代々詠み続けてきたのだ」

といった独白的な漢詩が残されています。讃岐の生活になじめないまま冬を迎える姿が浮かびます。

客舎冬夜
 道真が讃岐国司として赴任した仁和二(886)年の季節が秋から冬に移り変わる季節のことです。国府の官舎で床に就いた時のことを「客舎冬夜」と題して、次のように詠っています
「客舎の冬の夜」
客舎秋祖到此冬
空床夜々損顔容
押衛門下寒吹角
開法寺中暁驚鐘
行楽去留遵月湖
詠詩緩急播風松
客舎(かくしゃ)秋(あき)徂(ゆ)きて此の冬に到る
空床(くうしょう)夜夜(よなよな)顔容(かおばせ)を損(そ)したり
押衙(おうが)門の下(もと)寒くして角(つのぶえ)を吹く
開法寺の中(うち)暁にして鐘に驚く(開法寺は府衙(ふが)の西に在り
行楽の去留(きょりゅう)は月砌(げっせい)に遵(したが)ふ
詠詩(えいし)の緩急は風松(ふうしょう)に播(うごか)さる
世事(せいじ)を思量(おもいはか)りて長(つね)に眼(まなこ)を開けば
知音(ちいん)に夢の裏にだにも逢ふことを得ず
意訳変換しておくと
秋が過ぎてとうとう冬になり、官舎暮らしも長くなった。
床に就いても妻はおらず、夜ごとに顔がやつれていくようだ。
寒いなか、衛兵が牛の角笛を吹いて門の守りを固めている。
明けがたに開法寺の鐘が鳴って、目が覚めてしまう。※(自注)開法寺は国府の西にある。
月を愛でる場所は、月が石だたみを照らす加減で決まる。
詩を詠じる調子は、松を通り抜ける風音の加減で決まる。
世の中のことをあれこれ考え、ずっと眠れないままでいるから夢の中でさえ、私の思いを語ることができない。
 ここからは元気に、仕事をてきぱきと熟しているような感じには見えません。どちらかというと哀愁を通り越して、ホームシックになっているようにも思えます。
この漢詩がよく取り上げられるのは「開法寺中暁驚鐘」(開法寺の中、暁にして鐘に驚く)に、「開法寺は府ガ(国衙)の西に在り」という註がついているからです。これはいろいろな書物に引用され、讃岐国府跡の発掘調査場所選定の際にも手がかりとされてきました。発掘前の予備知識は、次の通りでした。
①国衙は平城京などのように1ヶ所に権力機関は集中している。
②開法寺の東に「隣接」して国衙はあった。
ところが、この先入観で発掘調査が進むと混乱が起きました。どこを掘っても遺跡がでてくるのです。どこが中心施設か分からないほどに、いろいろな建物跡が毎年のように出てきたのです。つまり国衙には、いろいろな機能があり、それが分かれて「分庁舎」として散在してことがだんだんと分かってきます。
讃岐国府跡機能一覧表
坂出市史古代編より

整理すると「開法寺は府ガ(国衙)の西に在り」なのですが、「逆は必ずしも真ならず」の原則が働きます。たしかに府衛(国衛)の西に開法寺はあったのですが、国衙全体は広くて、必ずしも開法寺の東の方角に位置したとはいえないとします。 つまり、府衛は開法寺の東方ではなく東側一帯にあったと考えておくべきだということです。建物によると北東や北にあるものもあります。ここでは、国衙のエリアは広く、建物は分散して建っていたことを押さえておきます。
讃岐国府跡エリア

讃岐国府跡地形復元図

話を「客舎冬夜」にもどしましょう。
「押衛門下寒吹角」「押衙(おうが)門の下(もと)寒くして角(つのぶえ)を吹く」を見てみましょう。ここに押衛門が登場します。押衛門とは押牙とも書いて府衛の入口を指します。そこの門番が日没閉門の際に吹く角笛が聞こえてくるというもので、次句の「開法寺中に暁の鐘に驚く」と対句表現になっています。月明かりの中を不眠で府衛縁辺を逍遥した道真は、たまたま開法寺に入ったときに暁を迎えるとともに鐘が鳴って驚かされたという場面です。この詩からは、府衛の入口には守衛門番のいる門(押衛門)があり、西隣は開法寺が建っていたことが分かります。誤解してはならないのは客舎(宿舎)の布団の中で、角笛や鐘の音を聞いているのではないことです。

讃岐国府跡1

 それでは客舎は、どこにあったのでしょうか。
客舎とは、赴任してくる国司用の官舎(国司館)のことを指すようです。客舎の位置は、まだよく分からないようですが、手がかりとしては、「客舎陰蒙四面山」の表現から四方の山陰に囲まれた立地だったようです。そうだとすれば国衙の外にあった可能性もあります。また発掘調査から中国製の高級陶器が密集して出てくるエリアが、北の方にあります。この辺りに客舎があり、菅原道真は単身赴任で暮らしていたことが想像できます。
 道真は讃岐国司の三回目の冬を過ごした頃、帰京の思いが募り松山津の客館に移り住むようになったとも伝えられます。そうなると、道真の讃岐での常住居(客舎)は、少なくとも府衛及び松山津近辺の二ヵ所以上にあったことになります。

讃岐国府跡復元図2
讃岐国衙の政庁復元図
菅原道真の国司時代の讃岐国衙の姿を見ておきましょう。
開法寺塔跡の北東に隣接するエリアには、奈良時代8世紀の終わり頃から区画で仕切られた中に大型建築物が整然と立ち並ぶようになります。一辺80mほどの敷地を、本柱の塀で取り囲み、次のような大形建物3棟が建てられています。
①西側には、五間×二間の母屋に南面廂で床面積約100㎡の超大形建物
②北には、東西主軸の建物二棟が東西にならび
③東には南北主軸の建物(床面積約76㎡)
この三つの建物は、何度かの建て替えを経ながら連綿と継続されていきます。コの字空間は、北京市の紫禁城に見られるように中国王朝の伝統的な儀式空間です。これが平城京に取り込まれ、地方の国衙にもミニコピー版が造られていたことが分かります。国府のなかでも儀式などに使われた最も重要な空間だったのでしょう。
讃岐国府跡 政庁?
 この空間を構成する建物は、同じ場所に何度も建て替えられていきます。西の超大形建物は南北画面廂付で、床面積も140㎡へと「成長」します。北には大形建物が南北にならび、東部の建物では廂がなくなります。これらの大型建物の建替え時期が、菅原道真が讃岐国司としてやってくる前後と重なるようです。つまり、一番全盛期の国府の姿が見られた時期になるようです


この政庁の姿をみながら菅原道真は、政治に向き合う姿勢をどのように考えていたのでしょうか
そのヒントになる漢詩「路遇白頭翁」(路に白頭翁に遇ふ)を見てみましょう。これも『菅家文草』に収録されています。讃岐国司となった道真と道で出会った白髪の老人との問答を漢詩にしたものです。
【「路遇白頭翁」 「道で白髪頭の老人に出会う」の口語訳
 道で白髪頭の老人に出会う。頭髪は雪のように白いのに、顔は(若者のように)赤味を帯びている。
 自ら語る。
 「歳は九十八歳。妻も子もなく、貧しい一人暮らし。茅で葺いた柱三間の貧居が南の山のふもとにあり、(土地を)耕しもせず商いもせず、雲と霧の中で暮らしております。財産としては家の中に柏の木で作った箱が一つ。箱の中にあるのは竹籠一つでございます。」
 老人が話を終えたので、私は問うた。
 「その年で若々しい顔なのはどのような仙術ゆえか。すでに妻子もなく、また財産もない。姿形や精神について詳しく述べよ。」
 老人は杖を投げ出して(私が乗っている)馬の前で一礼し、丁寧に(私の言葉を)受けて語る。
 「(それでは私が元気な)理由をお話し致します。
(今から十年ほど前の)貞観の末、元慶の始め(の頃は)、政治に慈悲(の心)はなく、法律も不公平に運用されていました。旱魃が起きても(国司は減税措置を取るよう朝廷に)申請することもせず、疫病で死ぬ者がいても(役人は食料を援助して)哀れむことはありませんでした。(かくして国内全域が荒廃し)四万余りの民家にいばらが生え、十一県に炊事の煙が立たなくなりました。
 (しかし)偶然(ある)太守に出会いました。
(それは)「安」を姓とする方〈現在の上野介(安倍興行)のことである〉(安様は)昼夜奔走して村々を巡視されました。(すると)はるばる名声に感じ入って、(課税を逃れて他国へ)逃亡した者も帰還し、広く物品を援助し、疲弊した者も立ち上がりました。役人と民衆が向かい合い、下の者は上の者をたっとび、老人と若者が手をつなぎ合い、母は子(の孝行心)を知りました。
 さらに太守を得ました。(それは)「保」を名に持つ方〈現在の伊予守(藤原保則)のことである〉
(彼は)横になったまま滞ることなく政務を執り、国内は平和になりました。春は国内を巡視しなくとも生気が隅々まで届き、秋は実り具合を視察しなくても豊作となりました。天が二つに袴が五本と通りには称讃の言葉。黍はたわわに麦はふた股と、道には(喜びの)声。
 翁めは幸運にも保様と安様の徳に出会い、妻がおらずとも耕さずとも心はおのずと満ち足りております。隣組の人が衣服を提供してくれますので、体はとても温かく、近所の人と一緒に食事をしますので食べ物にも事欠きません。楽しみはその(貧しいながら悠々自適の生活の)中にあって、憂いや憤懣を断ち、心中には余計な思いもなく、体力を増します。(それゆえ)鬢(耳周辺の髪)のあたりが白くなることにも気付かず、自然と顔が(若々しく)桃色になるのです。」と。
 私は 老人の語った言葉を聞き、礼を述べて老人を帰らせ(話の内容を)振り返って思う。
「安」を姓とする人には私の兄の(ような)恩義がある。「保」を名に持つ人には私の父の(ような)慈愛がある。(この国には)すでに父兄の恩愛が残っている。どうか(私も彼等の)積み重ねた善行(の遺産)によって上手く治めたいものだ。(だが)とりわけ昔どおりには行かないのはどの事柄だろう。
 (詩の題材となる)明るい月や春の風は時世にそぐわない。(興行殿の)奔走をまねようとしても身体が皆ままならず、(保則殿の)臥聴に倣おうとしても(そこまで)年齢を重ねていない。その他の政治の手法にも変更がないことはないだろう。奔走する合間に私は(政務の一端として)詩を詠もう。
ここには道真に先だって2人の「良吏」が国司としてやってきて、それぞれ善政を行っために人々の生活は安定するようになったことが老人の口から語られています。これを聞いて道真は「どうか(私も彼等の)積み重ねた善行(の遺産)によって上手く治めたいものだ」と述懐しています。
その一人が安倍興行(おきゆき)です。
「たまたま明府に逢ひにたり、を氏となせり」と記されるのが安倍興行です。彼は、元慶二(878)年に讃岐介として国府ヘやってきます。白頭翁によれば、国内の現状を調べるため、国の隅々まで馬を飛ばして、困っている民を救済したと云います。安部興行は民政を担当していた民部少輔から、初めて地方官である国司(讃岐介)となり、以後、諸国の国司を歴任しています。
二人目が「更に使君、保の名あるひと」で、藤原保則(825~895)です。
彼は天慶六(883)年に讃岐権守として赴任してきます。部下への指示が的確で、政治が停滞することがなかったと、白頭翁は語っています。 「良二千石」との別名を持つ藤原保則は、地方官を多く歴任し、東北地方の戦乱(元慶の乱)元慶2(878~9)年を、苛政を改めることで収束させたた後に、讃岐国にやってきます。彼については以前にお話ししましたが、彼の伝記『藤原保則伝』では、「讃岐国は、良い紙と素晴らしい書跡がある国と伝え聞いているので、赴任して寺院に納められている経典を書写したい」と、讃岐国への赴任を希望していたと書かれています。藤原保則も、晩年には参議となり、菅原道真とともに地方官での経験を国政に反映させています。この藤原保則の後に讃岐守に任命されたのが菅原道真になります。
  九世紀後半の讃岐国は、「良吏国司」により律令国家の「特別なてこ入れ」が行われたようです。そのような一連の人事で派遣されてきたのが菅原道真だと研究者は考えているようです。この「良吏国司」時代が、讃岐国府の充実期にもあたるようです。先輩国司の善政の成果が、国衙の建築物群の姿となって目の前にあるのです。道真には「良吏」国司としてお手本とするべき先輩がいたようです。
菅原道真は国司として、具体的な統治に心がけていたのでしょうか
 「 旅亭歳日、客を招きて同(とも)に飲む」を見てみましょう。
讃岐に赴任して初めて迎えた元日に道真は近在の村老たちを官舎に招いて酒をふるまっています。

  江村の老人たちを招いて新年を祝う酒をふるまったが、初めて異国で新年を迎えた主人の私は、また新たに郷愁が湧いてくるのを禁じえなかった。子どもらが(私があまり飲めないのを知っているので)浅く酌んだ酒をしきりに勧めてくれたが、私は酔えなかった。しかしそんな私にかまわず、郷老たちは盛んに盃を巡らし、後れて来た者には罰酒を強いていた。
 去年、家族や知友や門人たちと袂を分かって以来ずっと私は悲しみに心をふさがれていたのだ。しかし今日は、楽しげに談笑する老人たちに、つい私も笑いを誘われて心がなごみ、両眉の開く思いを味わったことであった。彼らは正体もなく酔っぱらって帰っていったけれど、あの酔い方はやっぱり陽(うそ)じゃなかった。その証拠にほらあの連中ときたら、大事な楫(かじ)や釣竿を置き忘れて行っているよ。

  「国の隅々まで馬を飛ばして、困っている民を救済」した先輩国司に習って、近在の年寄り要人を招いて新年を祝っています。住民たちとのコミュニケーションを計ろうと心がけている姿が見えます。庶民たちの生活と現実をしっかりと見つめる中で、政治の問題と課題が見えてくるという姿勢を持っていたようにも思えてきます。
 
そういう目で見で 「寒早十首(かんそうじゅしゅ)」を見てみましょう
「寒さは誰に早く来るのだろうか」の問いかけに、十の連句で具体的な人々を詠った詩文です。そこには次の10人の庶民の姿が詠われています。

菅原道真 寒早十首

これは、国司として国内巡視する菅原道真が目の当たりにした人々の生活なのでしょう。これらの詩文を読み込んでみると、詠う対象の背景に、海上輸送労働者を雇う船主や、零細な製塩業者を押しのけて大規模製塩をする豪族の姿が透けて見えてきます。彼らは、それぞれの地域を経営し開発等を進め、讃岐国の国力を高めていった存在で、郡司に連なる一族もいたはずです。その筆頭が綾氏ということになります。
 こうした豪族らによる開発で田数や人口を増加させる一方、税を負担すべき零細民の生活を圧迫します。道真は現実を見つめる中から、どう豪族層を取り込むのか、そして、どのようにして税収を上げていくのか、その案配システムを考えていたのかもしれません。そして、最後に弱い者にはしわ寄せがくることを見抜く視力も持っていたことがうかがえます。その1番目だけを見ておきましょう

菅原道真 菅家文草 寒早十首 国司の見た讃岐
菅家文草 寒早十首 国司の見た讃岐  坂出市史資料編24P
何人寒気早  誰に寒さは早く来る
寒早走還人  寒さは走還人に早く来る
案戸無新口  戸籍を調べても新しい戸籍がなく
尋名占旧身  名前を聞いて出身地を推量する
地毛郷土痩  故郷の土はやせているので  
天骨去来貧   あちこちで苦労して骨までやせてしまった
不似慈悲繋   国司が慈悲でつなぎ止めなければ
浮浪定可頻   逃げ出す人はきっとしきりに出てくるだろう
 走還人とはあまりの貧しさに他国に逃げた人が、逃走を見つけられて, 強制的に本国に還された人のことです。桓武朝以来の中央政府にとって浮浪民の増大は頭の痛い問題でした。逃げ出した百姓の中には大貴族・大寺社に身をよせて、その庇護下に入って土地を耕す者もありました。しかし、この詩のように、どうにもならなくなって、また戻ってくる者もあったのです。道真は、その本質を見抜いているようです。彼らの暮らしに、道真が深い同情を寄せ、政府のあり方に疑問を感じていることが、この詩から読み取れます。

しかし道真は讃岐の民の貧しさを詩には詠みますが、具体的に民の手助けをするとか、税を減らすとか、特に行政官として成果を上げた様子はありません。それをどう考えていたかがうかがえるのが次の作品です。意訳だけにします。
  冥感終無馴白鹿 冥感(めいかん)終に白鹿の馴るること無かりき
  讃州太守としての私の政治が天の思し召しにあずかって、今日の行春に白鹿が現れるというようなことはついに起こらなかった。それはまあいたしかたないこととしても、ただせめて「苛酷なること青鷹のごとし」などといわれることだけは免れたいものだ。
 私の政治は拙く、私の声価は地に落ちることだろう。四年間の国守の任期が満了して政績功過が評定される時、善最野評価を受けることなど、まず望み難いことだ。
今朝、馬の轡を廻らして行春に出で発ったのは、ようやく朝日が射しそめる頃だった。そして雨にひしげた頭巾さながら身も心も疲れ果てて感謝に戻ってきた時には、とっぷり日も暮れて夕立を降らせた雲が暗く空を覆っていた。
 駅亭の高楼で日没を告げる鼓が三たび連打され、官舎の窓にぽつんと一つ燈が灯っているのが見えた。人気が無くなった官舎で静かに思いめぐらしているとさまざまな悲しみが胸に迫り、夜深けて一人横になっていると涙がこみ上げてくる。
この讃州に赴任して来てからほぼ一年。私はもっぱら清廉と謹慎とを心がけてきたつもりだが、残念なのは、不正腐敗に汚染された青蝿のような官吏たちを一掃できないことだ。

ここからは「清廉と謹慎」に心がけながら、国司としての任務に打ち込んでいる姿が見えます。
菅原道真公⑧ 「仁和2年の除目・讃岐国司へ」。 - 神戸の空の下で。~街角の歴史発見~
          長岡天満宮の碑。道真の人柄を表す

朝早く馬に飛び乗り、夕立の雨にも負けずに巡視を行い、日が暮れて官舎に帰っています。国司の最も重要な仕事は、国内を巡視し国情を把握することです。その業務を精力的に行っています。
ホームシックに押しつぶされ、閉じこもりがちな生活を送っているように漢詩からは読み取れましたが、それだけではないのです。それは、詩作上のことだけかもしれません。
「駅亭の高楼」は、南海道の駅舎のことでしょう。
駅には見張り用の高楼があったようです。そこから官舎の窓の明かりが見えたというのですから、国衙近くに駅舎はあったことになります。そこで今日見聞きしたことを思い出してくると怒りがわいてくるのです。それは「不整腐敗に汚染された青蝿のような官吏」に対する怒りです。ここにも現実を直視しながら、その改善のためににじり寄っていこうとする情熱を感じます。それでも勤務評定で「善最野評価を受けることなど、まず望み難いこと」という現実も知った上でのことです。「現実は厳しい やったって無駄」ではなく「現実は厳しい、しかし清廉と謹慎に勤め最善を尽くす」という姿勢でしょうか。これを知性というのでしょう。

最後に、道真が讃岐を離れる際に詠んだ漢詩を見ておきましょう
忽忝専城任       忽ち 忝くす 専城の任                                    
空為中路泣       空しく為に中路に泣く                                     
吾党別三千       吾が党、別るること三千                                   
吾齢近五十       吾が齢(よわい) 五十に近し                        
政厳人不到       政 厳にして人到らず                                     
衙掩吏無集       衙(つかさ)掩(おお)ひて 吏集まることなし               
茅屋独眠居       茅屋(ぼうおく)に独り眠りて居り                         
蕪庭閑嘯立       蕪庭(ぶてい)に閑(しずか)に嘯(うそぶ)ひて立つ       
眠疲也嘯倦       眠りに疲れ、また嘯くことも倦む                     
歎息而鳴慨       嘆息して鳴き悒(うれ)ふ                                   
為客四年来       客となって四年来                                         
在官一秩及       官にあって一秩及ぶ                                       
此時最攸患       此の時最も患ふる所                                       
烏兎駐如繋       烏兎(うと)駐(とどま)つて繋れしが如し  
日長或日短       日長く 或は日短し                                       
身騰或身繋       身騰(のぼ)り或は身繋がる                            
自然一生事       自然なり 一生の事                                       
用意不相襲       意を用(も)って相ひ襲(おそ)はず                       
意訳変換しておくと                 

あっという間に国司としての任期は終わりに近づいた。
私はこの任務のために道半ばにして泣いたのだ。
わが門弟は三千人が離れていった。
わが齢は五十に近い。
政治が厳しいので誰も寄り付かない。
役所はみすぼらしく、役人は集まらない。
私は茅葺き屋根の小屋で独り眠り、
蕪の生い茂る庭で静かに詩を口ずさんで立つ。
眠りに疲れ、また詩を口ずさむことにも飽きる。
ため息をついて嘆き憂う。
この地に客人となって四年。
役人となってからは十年経つ。
この時もっとも心配するのは、
時間の進行が止まって、縛り付けられたように思うことだ。
日は長く、あるいは日は短く、
わが身は舞い上がるかと思うと、あるいは地に縛り付けられる。
人の一生は天然自然のことだ。
賢い心で、逆らわないようにしよう。

道真の4年間の讃岐国司時代を、どうとらえればいいのでしょうか。
有意義な人生経験。下積み修行。そう言えば聞こえはいいのですが・・・。
当の道真にとって、讃岐守という職務は、あまり楽しくはなく、充実感の得られない毎日だったと私は考えています。任期四年目に詠んだ「苦日長(日の長きに苦しむ)」という詩からは、ほとほとくたびれはてた道真の声が聞こえてくるようです。しかし、それでも、現実を直視しながら、最善を尽くす姿勢は変わらなかったのではないでしょうか。それが、後の栄達へとつながったとしておきます。

菅原道真 菅家文草 寒早十首9 国司の見た讃岐  坂出市史資料編24P

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  菅原道真が見た「坂出」  坂出市史 古代編  120P
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 藤原 保則(やすのり)という平安時代前期の公卿がいます。地方官として善政により治績をあげ良吏として知られた人物のようです。後に、三善清行がその功績を称えて『藤原保則伝』を著しています。
  その中に、藤原保則が讃岐国司としてやってきて残した言葉が記されます。9世紀の讃岐のことを知る手がかりにもなるようです。
今回は、『藤原保則伝』を史料に国司から見た地方の情勢を見ていきたいと思います。
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三善清行

『藤原保則伝』を書いた三善清行は学者で政治家で、菅原道長のライバルとされる人物です。
三善清行がどちらかというと理想主義者で、道真がやることがあまり面白くなかったようです。道真を冷ややか見ていて、律令こそが本来のあり方だという考え方を持った人です。9世紀後半は、そういった理想と現実の間で政治家は揺れ動くような時代だと研究者は考えているようです。
三善清行 人物叢書 : 所功 | HMV&BOOKS online - 9784642751698
 
 三善清行は「意見封事十二ヵ条」という意見書を、当時の醍醐天皇に対して提出しています。その中に備中国下道郡邁磨(にま)郷という地域を取り上げて、こういうことを言っています。
もともと渥磨郷の地名の由来は、そこに2万人の人たちがいた。ところが7世紀後半に倭国は百済を救援するために朝鮮半島に軍隊を送り込み大敗北します。いわゆる白村江の戦いです。その時に西日本の成人男子が兵士として大量動員されます。その結果、西日本の成人男子の人口が減ってしまうのです。この遜磨郷は時代が下るに従ってどんどん成人男子の数が減ってきている、と三善清行は言っています。天平年中(765~767年)には、成人男子が、1900人いたと云いますからかつての2万人から比べると激減です。2万人が本当かどうかは別として。それからおよそ百年年後の貞観年間(866年頃)には70人余りになったと云うのです。これが藤原保則が備中の役人だった時のことです。かなり大げさに書いているようですが、人口が減ってきている、とくに税金を納めるべき成人男性が減ってきているということはたしかです。一つの郷でさえこのような状況だから、他もそうなんじゃないかと、だから今は大変な時代だと、三善清行は国家に向かって警告しています。一見、唐風文化とか中国風の文化を取り入れて、都の方では「先進文明化」が進んだように思っているかも知れないが、備前を始め地方社会はかなり疲弊しているじゃないか、と三善清行は警告していたわけです。三善清行とはそういう政治家であり、現実主義の菅原道真とはそりが合わなかったようです。彼が理想の地方政治家としたのが 藤原保則であり、そのために後に伝記を残したようです。

前置きが長くなりましたが本題の藤原保則について、見ていきましょう。
藤原保則(やすのり)が飢饉で大打撃を受けた直後の備中に赴任することになるのは貞観8年(866年)のことです。これがはじめての地方官への転出で、40歳台のことです。
 『藤原保則伝』には、備中・備前国司時代の業績が次のように記されます。  
 藤原保則は、貞観8年42歳にして、備中権守となり赴任した。当時の備中国は大飢饉の後を受けて、とくに今の阿哲郡の辺りは、疲弊最も甚だしく白昼にも強盗が横行し、道にさえ餓死したものを見るありさまで、全くの生き地獄であった。そこで、保則は、まず貧困者を救い、大いに農耕を励まし倹約を勧めたので、漸く窮民も豊かになり盗賊も後を絶った。
貞観16年(874年)備前権守となったが政策方針は殆どかわらない。部下に悪者あらば、ひそかに説き、或は、自分の財産を分け与えた。もし、国内に大事あれば、必ず自ら吉備津神社に詣でて、これを祈った。すると常に感応があった。為に教化が大いに行われて、父母のごとく慕われた。
 あるとき、安芸の賊が備後に入り込み、調の絹を盗んで備前磐梨郡にきて、宿の主人に備前国司のことを聞くと、藤原保則の善政がいき渡っており、「仁義を持って教え、国人みな廉潔を守り、信義を重んじること神明に通じている。ゆえに、もし悪事あらば吉備津の神のお叱りを直ちに受ける。」このことを聞き、盗人大いに驚いて、夜も寝られず、夜明けとともに、国府にいたり自首していった。
「わたしは、備後の官絹40匹を盗みました。どうかお仕置きください。」
と保則その状を喜び、召して食事をとらせ、その絹を封じ、添え書きして備後に持ち帰らせた。備後の国司小野喬査、怪しみ且つ喜び直ちに盗人を赦し、自ら備前に至り、保則に深謝した。

貞観17年役目を終えて、京に帰るとき、両備の人が道を遮り、泣いて別れを惜しむ。老人が酒を持ってきて酒、肴を勧めて止めない。保則老人の言に反することをおそれ、滞留すること数日、その間訪れる人絶え間なく、保則困り果てて、ある夜、ひそかに小船にのって去った。従者を待つため、和気郡方上津に停泊した。郡司その糧食の少なきを聞きて、白米二百石を贈る。保則その志を喜んで是を受け、国の講読師に書を送り、「船中に怪事が多い。僧に頼んで祷らしめよ」と。そこで、国分寺の僧を遣わす。保則乞うて般若心経一本をよませた、贈られた白米は全て布施して去った。これぞ、官界に職を奉ずるものの鑑である。

他国から入った盗賊が保則の善政を聞いて恥じ入り自首した話や、保則が任を終えて帰京する際に、人々が道を遮り泣いて別れを惜しんだというエピソードを三善清行は、挿入してその善政ぶりを記しています。
 これ以外にも当時の備中の情勢を次のように記しています。
藤原保則が備中の役人になった時に、ここでは略奪をして殺し合いをしたり、税金を払うのを嫌って逃げたりして、税金を納めるべき成人男子が一人も残っていなかった。これを書いた三善清行は、最初に述べた通り、後に備中国に国司として赴任した経験があるので、当時の備中国が大変な状況だったことを知っていました。それを藤原保則は、見事に統治したと云うのです。
 その後に保則は、お隣の備前国の国主になります。
吉備津彦神社/岡山県岡山市(Kibitsuhiko Jinja,Okayama-shi,Okayama,Japan) - 神社と狛犬見て歩き

ここには吉備津彦神社が登場してきます。この神社が、備前国の命運を左右するような大事な神様であると記されます。当時の国守達も吉備津彦神社が精神的な支柱となっているとを肌身で分かっていたようです。これも一つの地域観でしょう。どんな神様を信仰しているかは、地域によって違います。その神様がどういうことをしてくれるかということも、地域によって違うわけです。この神様に対してよい行いをすれば豊作になり、そうでなければ罰を受けるということがここには書かれています。祭事と政事は、まさに一体であったことが改めてうかがえる史料です。

清和朝末の貞観18年(876)に、保則は平安京に戻り、検非違使佐となり都の治安に手腕を発揮します。元慶2年(878年)出羽国で蝦夷に反乱が発生し、官軍が大敗します。すると保則は地方官としての経験を期待され反乱の鎮圧を命じられてます。この戦争は、蝦夷が圧倒的に有利でした。
菅原道真と空海の蝦夷(えみし)観。 – 太古につながる生活者の目

そのような状況下に保則は、出羽でどう対応したのでしょうか。
一言で言うと、力でねじ伏せたのではなく、懐柔政策を取ります。それが功を奏して平定されます。その後、秋田城の建直しまで行います。具体的には、保則は早速現地へ向かい、防備のため兵の配置整備を行います。また反乱の原因を調べると、当時は全国的な飢饉が起きていたにもかかわらず、役所の人間が厳しい取り立てを続けていたことが分かります。そのために起きた反乱だったようです。そこで保則は、まず役所にしまいこまれていた米を民衆に配ります。このような対応ぶりに懐柔策も軌道に乗り、蝦夷の指導者が投降してきます。保則はこれを受け入れ、中央への報告書には「反乱は鎮まりましたので、穏便な措置をお願いしたい」と記します。それを政府も受けいれます。この蝦夷の反乱を【元慶の乱】と呼びます。ここには、藤原保則の国守としての能力がいかんなく発揮されたシーンが描かれています。
 「藤原保則伝」には、前任者の国司のことが次のように記されています。
秋田国守の良岑近(よしみねのちかし)は
「聚(あつ)め斂(おさ)むるに厭(いと)うことなく、徴(はた)り求むるに万端なり(税を徴収することはいっさい厭わない)」
「貪欲暴獷(ぼうこう)にして、谿壑(けいがく)も填(うづ)みがたし(広い谷も填めきれないほど貪欲である)」
「もし毫毛(ごうもう)も(少しでも)その求めに協(かな)わざるときは、楚毒(そどく)(苦しみ)をたちどころに施す」

といった人物であったと記します。
  ここからは乱の原因が、前年の不作にもかかわらず、国司たちが農民から収奪を繰り返したことにあったことがうかがえます。また『藤原保則伝』には、中央の権門子弟らも、東北の善馬・良鷹を求めて相当悪どいことを行っていたことが記されます。馬や鷹は、東北の名産品として都でも需要が高く、安価に脅し取ることができれば、都でかなりの利益を上げることができたようです。ここからは現地官僚の悪政だけでは片付けられない一面が見えてきます。見方を変えると、中央集権的な律令国家が変容して、地方の現地官僚がその政治の実権を握って、自分の利益を追い求める政治が行われるようになっていたことを示します。こうした国司らの圧政に抵抗して、生きるために多数の蝦夷が反乱に立ち上がったと云えそうです。

それが「藤原保則伝」には、
「出羽国は公民と蝦夷が雑居していて、田地が豊かで珍しい特産物もたくさんある。力の強い官吏が居座って租税を増やし、勝手に賦課を加えている」

と記されています。
これに対して藤原保則は何をしたのでしょうか。
『藤原保則伝』には「法律を百姓に教え示す」とあります。法律に暗い人たちに対して法律を教えたと云うのです。これを最初に読んだときには、脈略がつながらずに「支離滅裂」という印象を受けました。

 その後、藤原保則が讃岐国守としてやってきて残した言葉を読んで、その意図が何となく見えてきました。そこには、出羽とは対照的なことが讃岐については書かれています。
「讃岐国は倫紙と能書の者が多い」

文章が上手い人が多いというのです。そして、次のように讃岐のことが記されます。
「この国の庶民はみな法律を学んで、それぞれがみな論理的である。村の畔をきっちりと定めて、ともすれば訴訟を起こす」

 讃岐については、比較的法律に詳しい人が多いとして、かえってやりづらい、やり込められるといった地域性が「保則伝」から見えてきます。これは出羽国とは対照的です。讃岐国では法律に明るい人が多く、法律を武器に争うことが多く、そういう争いを止めるように、保則が取り成すことを讃岐では行ったようです。
 ちなみに藤原保則は、菅原道真の前任者になります。
保則が讃岐を去るに当たって次のような言葉を残したと三善清行いうのです。
「今度の新任の国司はたしかに大学者であり、私の能力の及ぶところではないけれども、内面の志を見ると危険な人物なんじゃないか」

ということを語ったと三善清行は記します。確かに菅原道真は中央政界に戻ったあと左遷されます。これはたぶん、保則の口を借りて三善清行の本音が語られていると研究者は考えているようです。

 「藤原保則伝」では、かなりの分量を割いて出羽国を治めることがいかに大変だったかということが書かれています。しかし讃岐国はあっさりと書かれていて、統治の上ではあまり手がかからなかったような印象を受けます。

 最後に藤原保則は九州の筑前・筑後・肥前に行きます。
そしてこの地域を「群盗が多く、治安が悪く、まるで法律がないがごとく略奪される」であると言っています。いろいろな人たちが集まってくる地域なので、なかなか秩序が守られないというのです。それに対して保則が、それを守らせるようにしたという美談が語られています。確かにこの地域は朝鮮半島や大陸と近い関係にあるところで、ある意味で「防衛前線」にあたるエリアです。讃岐とは置かれている地域の状況が違ったようです。出羽国は蝦夷がいるし、大宰府は新羅が攻めてくるかもしれないという緊迫感があります。そのなかで、讃岐の地域はみんなが法律を学んでいるというのです。このような任地の状況を、藤原保則はどう考えて地方長官として対応したのでしょうか。地域によってさまざまだなという感じがします。これを「多様性」と云うのかも知れません。9世紀の日本は、地域によって多様性のあふれる国家だったとしておきましょう。
 
 保則はその後は都に帰り、その業績が認められ官位をどんどん上げていきます。最終的には公卿の一員にまで登ります。公卿というのは、公家の中でも一定以上の地位にある人たちのことです。今のお役所に例えるとすれば、国家公務員の中でも「○○長」という役職についている人くらいの感じになるようです。政治中枢で活躍した人が多いとはいえない藤原南家の中では、かなりの出世です。それにおごり高ぶることはなく、亡くなる直前には比叡山に入り、念仏を唱えながら往生したと記されます。
882 2・- 藤原保則,讃岐守に任命され,赴任する
886 1・16 菅原道真を讃岐守に任命する(三代実録)   
888 5・6 守菅原道真,降雨を阿野郡城山神に祈る
890  春 菅原道真.任を去る(菅家御伝記)
 年表を見ると9世紀後半の讃岐には、藤原保則や菅原道真など、有能な実務型国司が実際に赴任してきます。讃岐の国司のトップの守は、中央政府の主要メンバーである「参議」という役職を兼任している人が多かったようです。そのため実際には讃岐の国にやってこない人が多かったようです。ところが、藤原保則や菅原道真は実際に赴任し、讃岐にやってきます。そういった特徴が讃岐国の国司にはあるようです。
 例えば、藤原保則の後にやって来た菅原道真は、その後右大臣までとんとん拍子に上がっていきます。
菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)-人文研究見聞録

その中で彼はいろいろな政策を出しています。例えば、税収が上からないことに対して、国司を責めるのではなく、ある程度国司が国内のことを自由に運営できるようにしたらどうかというような制度改革をやります。ある意味「寛平の改革」と云えるかも知れません。これはひょっとすると、讃岐国での実務経験を踏まえた上で、そのような政策が行われたのではないかとも思えてきます。それは「保則伝」にあるように、讃岐国は他の国に比べて非常に治めやすい国だ、という評価とも関わってきます。藤原保則の赴任地を見ると、他の国はかなり苦労している様子がうかがえます。ところが讃岐はそうではないようです。讃岐の国司になることが、国司としてある種のステータスのようなものがあったとも思えます。
 「寛平の改革」は、9世紀の終わりに行われた地方改革で、きちんと税収を取るにはどうすればよいかということに焦点を合わせて、毎年にわたって改革を進めています。そこには道真の讃岐における実績・業績が反映されていて、それは都の論理では分からない、都の論理だけでは思い付かない改革ができたのではないかと研究者は考えているようです。だとすれば、讃岐における経験が大きなものだったとも云えます。そういう意味では、讃岐国の統治というものは、大げさに言えば中央の国政を左右するようなものであったという認識が、役人の間でもあったのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献    シンポジウム記録「地域から見る古代史の可能性」 香川県歴史ミュージアム

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