瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:萩原寺


まんのう町 光明寺

中世のまんのう町岸上(きしのうえ)には、中世に光明寺というお寺があったようです。しかし、このお寺については、金毘羅大権現の多門院に伝わる『古老伝旧記』に次のように出てくるだけでした。
                          
一、岸上光明寺之事
右高松御領往古焼失堂寺も無之、龍雲院様御代当山へ御預け被成、当地より下川師と申山伏番に被遣、其跡二男清兵衛代々外今相勤居申也、本尊不動明王焼失損し有之也、年号不知、右取替り之御状共院内有之由
(貼紙)(朱)
「光明寺高
一、下畑九畝拾五歩、畑方免三つ六歩、高五斗七升
一、下畑三畝三歩、高壱斗八升六合
一、下畑壱畝九歩、高七升八合
畝〆壱反三畝弐拾七歩、高〆八斗三升四合、取米三斗
一、米九合 日米  一、米三升三合 四部米〆三斗四升弐合
一、米四合 運賃米  同八升三合 公事代米同 費用米
一、大麦弐斗九合 夏成年貢   一、小麦壱斗四合 同断麦〆三斗壱升三合也」
意訳変換しておくと
岸上の光明寺について、この寺院は高松御領の岸上にあったが、往古に焼失して本堂などは残っていない。所有権を持つ龍雲院様が、当山金光院に預けていた。そこで当院(多門院)は、下川師(そち)という山伏を番人に派遣していた。今は、その二男清兵衛がつとめているという。本尊の不動明王は焼失し、破損している。いつのことかは分からないが、この不動明王と預条が多門院の院内にある。

 さらに貼紙が付けられ、朱書で光明寺の石高が書かれていますが、水田ではなく「下畑」とあります。「岸上」は、その名の通り金倉川の左岸の「岸の上」の丘陵地帯に立地するエリアです。金倉川からの取水ができないために、灌漑水路の設備が遅れていたようです。
まんのう町 満濃池のない中世地図
金倉川の南側に「岸ノ上」と見える

 多門院が光明寺跡に番人として派遣していたという「下川師(そち)という山伏」を見ていきます。
 初代金光院院主宥盛が高野山での修行・修学が終わり、帰讃する際に,麓の下川村の山伏師坊を召連れて帰った。それが下川師(そち)だというのです。宥盛は、修験者としても名前が知られる存在だったようです。そして、後進の育成にも努めました。その修行を支えるスタッフの役割を果たしていた人物なのではないかと私は考えています。そうだとすると、宥盛と下川師は、精神的にも深いつながりで結ばれていたことになります。宥盛は、金毘羅山を修験道の山、天狗の山にしようとしていた形跡がうかがえます。そのために、土佐の有力修験者を呼び寄せて多門院を開かせています。その多門院の下で、手足となり活動していたのが下川師ではないでしょうか。
 下川家の二代杢左衛門も,はじめは大雲坊という修験者で,金毘羅に近い岸上村の不動堂の番をしていましたが、後に還俗して下川を姓とし,金光院に出仕する役人になります。杢左衛門の長男は我儘者であったので,二男喜右衛門が後を嗣ぎますが病弱で若死します。そこで、妹に婿養子をしたのが四代常右衛門になります。彼は、薪奉行,台所奉行など勤めています。五代杢左衛門は台所奉行から作事奉行にも出世します。六代常右衛門は山奉行,玄関詰,御側加役などを勤めます。そして、七代伴吾の時に、下川の姓から枝茂川と改め、御側加役から買込加役になっています。覚助は書院番などを勤めたが若死にした。養子保太郎が九代となった。十代直一,十一代文一まで金刀比羅宮に奉仕しますが,その後は名古屋へ移住したようです。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納にやってきた金毘羅行者
 ここからは、金毘羅大権現の草創期には各地から修験者たちが集まってきて、この地に定住していったことが分かります。下川家の場合は、金光院に使える高級役人として明治まで仕えています。また、金比羅行者と云われた修験者たちが先達となって、各地の信者達を金毘羅大権現参拝に誘引してきます。その際に、泊まらせたのが彼らの家で、それが旅籠に発展していった店も多いようです。旅籠の主人も、先祖を辿れば修験者だったという例です。
 天狗面を背負う行者 浮世絵2
話が脇道に逸れたようです。本道にもどしましょう。この史料からは光明寺が、かつて岸上にあったこと分かりますが、それ以上のことは分かりませんでした。
別格本山、地蔵院萩原寺(香川県観音寺市)

新しい発見は、観音寺市大野原町の萩原寺に保管されている文書類でした。
ここには、光明寺に関することが書かれていました。

[金剛峯寺諸院家析負輯] 三 本中院谷          
明王院本尊並歴代先師録草稿
(中略)        
  阿遮梨勝義
泉聖房取樹無量壽院長覺阿闇梨灌頂之資。
後花園院御宇永亨十一年戊午九月廿日婦寂○西院付法下云。
讚岐國岸上光明寺櫂大僧都高野山明王院文○秀義考云勝師婦寂之年月恐謬博乎。中院流亨徳記曰。亨徳二年四月十六日於紀伊國高野山金剛峯寺明王院道場。授中院流。心南院博法灌頂入寺重義大法師勝環雨受者。日記大阿閣梨法印櫂大僧都勝義泉聖房(年七十三、明王院)。讃岐國真野郷岸上大多輪息文 既後干永亨十戊午経十有六年。典師所記知謬博也○又大疏讀様高野所博血泳云。明算・良禅・兼賢・定賢・明任。道範・賢定・仁然・玄海・快成。信弘・頼園・長覺・勝義(泉聖房 高野山明王院。讃岐国岸上人也。享徳三年二月二十日入寂。)
重義文同伊豆方所侍血詠云。賞意・賞厳・賞園・全考・宥祥・宥範・宥重・宥恵・勢舜・勝義(泉聖房 讃岐岸上光明院。兼住高野山。享徳三年二月二十日入寂。七十四。)
  後略
  忠義法印
讚岐國岸上之人。字泉行房。勝義遮梨入室附法資也。人王百四代 後士御門御宇頃乎。自勝義賜忠義印信。文明七年文寂日七月十三日 ○覺證院主隆雄。五大尊田地寄附之書物文明十四年文
○法印入滅之歳、雖末分明。恐明應文亀之頃乎。何以知然。自筆玉印砂奥書云。文明十五年秋比。依聞此名。物名字以使者於高雄寺苦努八旬老眼開了忠義財計又三―山―三種秘法印信奥云。明應二年正月十一日博授大阿遮梨忠義上人授興朝盛文西院印信奥云。右明應三年職畝卯月廿八日。於高野山明王院灌頂道場雨部博法職位畢。博法大阿閣梨権大僧都忠義授興朝盛。文血詠年月同印信也。又開眼文一紙。其文日。泉州久米多寺開山行基大士之尊像一證奉開眼所也。高野山金剛峯寺明王院住権大僧都泉行房忠義判。明應七年端歓拾月八日。申剋右勘之自文明十五
(「続真言宗全書」第二十四 所収 町誌ことひら 史料編282P)

ここには、高野山の明王院の住持を勤めた2人の岸上出身の僧侶が「歴代先師録」として紹介されています。
勝義は「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」と記されます。
忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房と呼ばれたようで、勝義の弟子になるようです。彼も光明院と兼務したことが分かります。
また「析負輯」の「谷上多聞院代々先師過去帳写」の項には、次のように記されています。
「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」

 多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったようです。
  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らは出身地の岸上光明寺をも兼住していたこと
③彼らを輩出した岸上の光明寺が繁栄していたこと
④讃岐出身者が高野山で活躍していたことが

それでは、高野山明王院とは、どんな寺院なのでしょうか
 
高野山 明王院の赤不動
明王院 赤不動
明王院は日本三不動のひとつ「赤不動」として知られるお寺で、高野山のなかほど本中院谷にあるようです。寺伝では弘仁7年(816年)、空海が高野山を開いた際に、自ら刻んだ五大明王を安置し開創したと伝えます。
  不動明王を本尊としていることからも修験者の寺であったことが分かります。中世の真野郷の岸上からは、高野山の修験道の明王院の院主を輩出していたことになります。当然、岸上の光明寺も明王院に連なる法脈を持っていたはずです。ここから光明寺は、丸亀平野南部の修験者の活動拠点で、全国を遍歴する修験者たちがやってきていたのではないかと、私は考えています。

 高野山の明王院住持を岸上から輩出する背景は、何だったのでしょうか?
その答えも、萩原寺の聖教の中にあります。残された経典に記された奥書は、当時の光明寺ことを、さらに詳しく教えてくれます。
                                 
一、志求佛生三味耶戒云々
奥書貞和二、高野宝憧院細谷博士、勢義廿四、
永徳元年六月二日、於讃州岸上光明寺椀市書篤畢、
穴賢々々、可秘々々、                                                       
                    祐賢之
意訳変換しておくと
一、「志求佛生三味耶戒云々」について
奥書には次のように記されている。貞和二(1346)年に、高野宝憧院の細谷博士・勢義(24歳)がこれを書写した。永徳元年(1381)6月2日、讃岐岸上の光明寺椀市で、祐賢が書き写し終えた。
 ここからは、高野山宝憧院勢義が写した「志求仏生三昧耶戒云々」が、約40年後に讃岐にもたらされて、祐賢が光明寺で書写したことが記されます。また「光明寺椀市」を「光明寺には修行僧が集まって学校のような雰囲気であった」と研究者は指摘します。以前にお話ししたように、中世の、道隆寺や金蔵寺、そして前回見た尾背寺などは「学問寺」でした。修行の一環として、若い層が書写にとりくんでいたようです。それは、一人だけの孤立した作業でなく、何人もが机を並べて書写する姿が「光明寺椀市」という言葉から見えてきます。
 そして彼らは「不動明王」を守護神とする修験者でもあり、各地の行場を求めて「辺路」修行を行っていたようです。その讃岐のひとつの拠点が東さぬき市の与田寺を拠点とした増吽の活動だったことを以前にお話ししました。光明寺も、与田寺のような書写センターや学問寺として機能していたとしましょう。そのために優秀な人材を輩出し続けることが出来たのではないでしょうか。
光明寺 法統

上の史料は「良恩授慶祐印信」と呼ばれる真言密教の相伝系譜です。そのスタートは大日如来や金剛菩薩から始まります。そして①長安の惠果 ②弘法大師 ③真雅(弘法大師弟)と法脈が記されています。この法脈の実際の創始者は④の三品親王になるようです。それを引き継いでいくのが⑥勝義 ⑦忠義の讃岐岸上出身の師弟コンビです。さらに、この法脈は⑧良識 ⑨良昌に受け継がれていきます。⑨の良昌は、飯山にある島田寺の住職を兼ねながら高野山金剛三昧院住持を勤めた人物です。
   また、明王院勝義・忠義を経て金剛三昧院良恩から萩原寺五代慶祐に伝えられた法脈もあります。この時期の高野山で修行・勉学した讃岐人は、幾重もの人的ネットワークで結ばれていたことが分かります。この中に、善通寺の歴代院主や後の金毘羅大権現金光院の宥盛もいたのです。彼らは「高野山」という釜の飯を一緒に食べた「同胞意識」を強く持っていたようです。

金毘羅周辺絵地図

 同時に彼らは学僧という面だけではありませんでした。行者としても山岳修行に励むのがあるべき姿とされたのです。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。
 岸上の光明院の行場ゲレンデのひとつは、金毘羅山(大麻山)から、善通寺背後の五岳から七宝山を越えて観音寺までの「中辺路」ルートだったことは以前にお話ししました。また、まんのう町の金剛院には、多くの経塚が埋められています。
大川山 中寺廃寺割拝殿
中廃寺の割拝殿

そこから見上げる大川山の中腹には、中世山岳寺院の中廃寺の伽藍がありました。さらに、西には前回お話しした尾背寺があり、ここでも活発な書写活動が行われていました。大野原の萩原寺には、尾背寺で書写された聖教がいくつも残されています。ここからも尾背寺と萩原寺は人脈的にも法流的にも共通点が多く、中世は修験道の拠点として機能していた寺です。さらに四国霊場の雲辺寺は、萩原寺の末寺でもあり、やはり学問寺でした。
 こうしてみると中世讃岐の修験道のネットワークは金比羅・善通寺から三豊・伊予へと伸びていたことがうかがえます。これが修験者や聖など行者達の「四国辺路」で、これをベースに庶民の「四国遍路」が生まれてくると研究者は考えているようです。

DSC03290
金刀比羅宮の奥の院の行場跡に掲げられる天狗

 このような修験者ネットワークに変動が起きるのは、長宗我部元親の讃岐制圧です。
ここからは私の仮説と妄想が入ってきますので悪しからず
元親は、宥雅の残した松尾寺や金毘羅堂を四国総鎮守として、讃岐支配の宗教的な拠点にしようとします。その際に、呼び寄せられたのが土佐の有力修験者南光院のリーダーです。彼は宥厳と名前を改めて、讃岐の修験者組織を改編していこうとします。その下で働いたのが宥盛です。長宗我部元親撤退後も、宥厳は金毘羅にのこり金毘羅大権現を中心とする修験者ネットワークの形成を進めます。それを宥盛は受け継ぎます。

DSC03291
金刀比羅宮奥社の天狗

 新興勢力である金毘羅大権現が新たな修験道のメッカになるためには、周辺の類似施設は邪魔者になります。称名院や三十番社、尾背寺などは、旧ネットワークをになう宗教施設として攻撃・排斥されます。そのような動きの中に、光明院も置かれたのではないでしょうか。そして、廃墟化した後に、番人として宥盛は高野山から連れ帰った山伏を、ここに入れた・・・。そんなストーリーが私には浮かんできます。どちらにしても、金毘羅大権現とその別当金光院にとっては、邪魔な存在だったのではないかと思えます。

4 松尾寺弘法大師座像体内 宥盛記名4
松尾寺の弘法大師座像の中から出てきた宥盛の願文

 そのような金光院の強引なやり方に対して、善通寺誕生院は反撃のチャンスをうかがいます。しかし、生駒藩においては、金光院の山下家と生駒家は何重もの外戚関係を形成して、手厚い保護を受けていました。手の出しようがありません。そこで、生駒騒動で藩主が山崎家に変わると善通寺誕生院は「金光院はの本時の末寺だ」と訴え出ます。これは、善通寺の末寺であった称名寺や尾背寺などへの金光院の攻撃に対する反撃の意味合いもあったと、私は考えています。 

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗達

  中世山岳寺院としての尾背寺や修験道の拠点としての光明寺の歴史を探っていると、近世になって登場してくる金毘羅大権現と金光院の関係を考えざる得なくなります。現在、考えられるストーリーを展開してみました。
 最後に、光明寺はどこにあったのでしょうか?
まんのう町岸の上 寺山
明治38年の岸の上村
明治38年の国土地理院の地図を見てみると、現在の真福寺の北辺りに「寺下」「寺山」という地名が見えます。ここが光明寺跡ではないかと私は考えています。現在の真福寺は、初代高松藩主松平頼重によって、法然ゆかりの寺として建立されたとされます。それ以前に、その北側の丘の上に光明寺はあったのだと思います。それが地名としてのこっているという推測です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

尾背寺跡

   昔から気になる廃寺があります。まんのう町の尾背寺です。ここには、かつてはキャンプ場があり、若い頃は野外指導のために夏の間に何度も登っていました。そんな中で発掘調査が、1978・79年に行われ、その報告書も出されれています。それを読んでも、「中世山岳寺院のひとつ」ということくらいしか頭には残りませんでした。しかし、大川山中腹の中寺廃寺が発掘され、次のような事が見えてきました。
①讃岐の山岳寺院がネットワークとして結ばれていたこと
②熊野行者をはじめ修験者たちが頻繁に訪れ、辺路修行を行っていたこと、
③里の本寺の奥の院として、行場であり、学問所の機能を果たしていたこと
尾背寺が孤立的に存在していたのではなかったようです。そんな中で、町誌ことひらの史料編を眺めていると、大野原町・萩原寺の文書の中に尾背寺との関係がうかがえる史料があることを知りました。それらの資料で、尾背寺について分かることをまとめておこうと思います。
尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)

「尾ノ背寺跡の発掘調査書」には、発掘成果について次のようにまとめられています。
①寺の存続期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間と推定。
②その中心は、瓦片が集中出土する現在の尾野瀬神社拝殿周辺である
③拝殿裏には礎石が並んでいることから、ここが本堂跡の最有力地
④神社すぐ下の通称「相撲取場」と呼ばれる平坦地も候補地
⑤残存状態は良好で、礎石が点在する
⑥尾野瀬神社の在る平坦地から、墓ノ丸までの一帯には平坦地や石垣が多数検出され、いくつもの坊があったことを実証づける
⑦尾ノ背寺の寺域は広く、神社からさらに上方にも平坦地があり,「鐘撞堂」などの地名が残っている
調査で出土した遺物多くは、土師質の小四・杯のようです。
その土師器に特徴があるようです。出土した土師器は、地元の讃岐の元吉城ではない、外部から持ち込まれたものがあるようです。それは、底部の切り離しの際には、回転ヘラ切りが行われるのが一般的です。ところが小皿・杯 に各1点 づつ糸切りのものがあるようです。これは、在地のものではなく、讃岐以外の地から持ち込まれたものと研究者は考えているようです。修験者など、国を超えた移動が行われていたことがうかがえます。この時の調査では、仏具が出てきていないので、寺の性格については明らかにすることが出来なかったようです。
尾背寺 白磁四耳壷
尾背寺跡出土 白磁四耳壷 

  次にこの寺の文献資料を見ておくことにします。
まず挙げられるのが『南海流浪記』(宝治二年(1248)十一月)です。これは高野山の学僧道範の讃岐流刑記録です。道範は、和泉国松尾の人で、高野山正智院で学び文暦元年(1224)には、その院主となり、嘉禎三年(1237)には金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材でした。それが内部抗争の責任を取らされて、仁治三年(1242)、讃岐に流されます。
 道範は、赦免される建長元年(1249)までの8年間を讃岐国で滞留します。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んでからは、かなり自由な生活を送っています。例えば、宝治二年(1248)には、伊予まで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。
尾背寺参拝 南海流浪記
南海流浪記 尾背寺・称名寺参拝の部分

 その年十一月に、道範は尾背寺(まんのう町本目)に参詣をして、次のように記しています。
「同年十一月十七日、尾背寺参詣。此ノ寺ハ大師善通寺建立之時ノ柚山云々、本堂三間四面、本仏御作ノ薬師也、三間ノ御影堂・御影並二七祖又天台大師ノ影有之」
意訳変換しておくと
「尾背寺は、弘法大師が善通寺を建立したときの柚(そま)山であると云われる。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には七祖又天台大師の御影が祀られていた。

 ここからは次のようなことが分かります。
①尾背寺には、善通寺創建の時の柚(そま)山として、建築用材を供給した山と伝えられていた。この時も、宥範の手で進められていた善通寺復興のための木材確保のためにやってきたのかもしれません。この寺が善通寺の柚(そま)山の「森林管理センター」や、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。
②本堂には弘法大師作とされる薬師如来が祀られていたようです。善通寺の本尊も薬師如来です。ここからは、熊野行者的な修験者たちによって両者が結びつけられていたことがうかがえます。
③本堂以外にも御影堂があります。その他の坊も存在もうかがえます。何人もの修験者たちが修行や学問に励んでいたことがうかがえます。
尾背寺 出土瓦
 
このように13世紀半ばには、尾野瀬山には広大な寺域を持つ山岳寺院があり、いくつもの坊があったことが発掘調査や一次資料から分かります。

称名寺 「琴平町の山城」より
 尾背寺で一泊した翌日、道範は帰路に小松荘の称名院を訪ねています。称名院は、現在の金刀比羅宮の神田の上にあったとされる寺院です。それを次のように記しています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
     
 このあと、道範から二首の歌を念々房におくり、念々房からも二首の返歌があったようです。さらに、同じ称名院の三品房の許へこれらの贈答歌のことを書簡に書き送ったようです。三品房からの返書に五首の腰折(愚作の歌)が添えられ届けられています。

ここからは次のようなことが分かります。
①「九品の庵室」は、九品浄土の略で、この寺は浄土教の寺。
②念々房と三品房という僧侶がいた。念々房からは念仏信仰の僧侶であることがうかがえる
③三品房の書状には、称名院は弘法大師の建立であるとも記されている。

ここからは、まばらな松林の景観の中に、こじんまりとした洒脱な浄土教の庵寺があり、そこで念仏僧(高野聖?)が、慎ましい信仰生活を生活を送っていたことが見えてきます。これは、以前に四国霊場の弥谷寺に庵を構えていた高野の念仏聖の姿とよく似ています。彼らは、「念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰 + 修験者」の性格を併せ持った聖達でした。その影が称名院の僧侶達からもうかがえます。そしてこれらの寺院や庵は「善通寺 ー 称名寺 ー 尾背寺」と、修験者や高野聖たち行者のネットワークで結びつけられていたことがうかがえます。
尾背寺跡 地形図
尾背寺跡地形図
江戸時代に金毘羅金光院に仕えた修験寺院多聞院の〔古老伝旧記〕には、次のように記されています。
尾野瀬寺之事 讃州那珂郡七ヶ村之内 本目村上之山 如意山金勝院 尾野瀬寺 右寺領新目村 本目村 
一 本堂 七間四面 
一、諸堂数々 一、仁王門 一、鐘楼堂 一、寺跡数々 一、南之尾立に墓所数々有 
一、呑水之由名水二ヶ所有(後略)」
 意訳変換しておくと 
「尾野瀬(尾背)寺について この寺は讃州那珂郡七ヶ村、本目村上之山にあり如意山金勝院と号する。 尾背寺の寺領は新目村 本目村で 
一 本堂 七間四面 
一、諸堂数々 一、仁王門 一、鐘楼堂 一、寺跡数々 一、南の尾根に墓所が多数ある 
一、呑水之由名水二ヶ所有(後略)」

ここには、かつての尾背寺は、新目・本目を寺領としていたこと。本堂が七間四面あったと、山伏らしい法螺(?)が記されます。さらに本堂以外にも、数々の緒堂や山門があり、坊跡も残る寺院があったことが記されています。江戸時代になっても、かつての尾背寺の繁栄ぶりが伝わっていたことがうかがえます。
 ちなみにこの文書を残した多門院は、初代金光院院主とされる宥盛が土佐の修験道の有力な指導者を迎えて、設立した院房です。全国にネットワークを持つ金比羅行者の養成・指導機関として、機能するとともに、金比羅の街の警察・行政機関の役割も果たしていました。多門院には、阿波の箸蔵寺などを拠点とする修験者たちを始め、全国の修験者たち(天狗)が出入りしていたようです。そのために修験道者の交流・情報交換センターでもあったと私は考えています。

大正七年(1918)刊の『仲多度郡史』に「廃寺 尾背寺」として、次のように記されています。
「今の尾瀬神社は、元尾脊蔵王大権現と称し、この寺の鎮守なりしを再興せるなり、今も大門、鐘突堂、金ノ音川、地蔵堂、墓野丸などの小地名の残れるを見れば大寺たりしを知るべし」

昭和十三年(1938)刊の『香川県神社誌』もそれを受けて
「古くは尾脊蔵王大権現と称えられ、両部習合七堂伽藍にて甚だ荘厳なりしが、天正七年兵火に罹り悉く焼失。慶長十四年三月、その跡に小祠を建てて再興(中略)明治元年 脊を瀬に改め尾瀬神社と奉称」

と記されています。
ここにはもともとは「尾脊蔵王大権現」と称し、神仏混淆の「蔵王大権現」が祀られていたとします。「蔵王権現」は、修験者の信仰対象です。ここにあった尾背寺は「山伏寺」と認識されていたことが分かります。萩原寺所蔵の聖教類では、真言宗本来の教学修法の下にあったとされますが、山伏集団の拠点であったようです。それが長宗我部元親の侵攻で兵火に会い焼失したというのです。

  以上、文献史料や発掘調査から分かることをまとめたおきます
①鎌倉時代から戦国時代にかけて、尾背寺と呼ばれる山岳寺院が存在した。
②現在の尾背神社の拝殿辺りに本堂があったようで、本尊は薬師如来であった。
③尾背蔵王権現と呼ばれ、山岳修験者たちの修行地でもあった。
④善通寺の奥の院として、杣山の管理センター的な役割も果たしていた。
⑤寺域には、多くの院坊跡がみられ多くの修験者たちがいたことがうかがえる

   町誌ことひらは、尾背寺に関する新たな文書を史料編の中で紹介しています。それは、観音寺市大野原町の萩原寺に伝えられる文書です。それを次に見ていきましょう。

萩原寺地蔵院の「地鎮鎮壇法」には、文保元年(1317)尾背寺下坊で書写したと記されます。
御本云、寛喜二(1230)年四月廿二日、於北白川博授了、道範文賓治二年戟四月廿四日、於善通寺相博御本、同三年二月六日書篤畢、賞弘 抑賜御本而同年十月廿日、癸巳、左衛門少尉紀範忠氏寺筑佐堂之鎮壇修之、重験不思議也、是偏御本無誤之故也、不能委注耳、賞弘在判 文保元(1317)年目十一月十二月、於尾背寺下坊書篤了、
(東京大学史料編纂所架蔵「史料蒐/集目録』二五七、香川県萩原寺)
 この聖教は寛喜二年(1230)四月、道範が北白川で受法します。その後、道範は寛元元年(1243)讃岐へ配流されますが、その5年後の宝治二年(1248)四月に、善通寺でこの法を実弘に伝えたようです。翌三年二月に、実弘は自分用に、もう一度書写しています。その転写を行ったのが尾背寺下坊で文保元年(1317)のことです。配流の身の道範が伝えた聖教が、尾背寺下房で書写され、それが大野原の萩原寺の聖教として保管されていたことになります。
 ここからは次のようなことが分かります。
①道範がいくつかの聖教を善通寺に伝えたこと
②その一部は、伝来され尾背寺で書写されていること。
③尾背寺には「下房」があったこと。
④「善通寺 ー 尾背寺 ー 萩原寺」という高野山系僧侶のネットワークがあったこと

   四 〔授法最略作法〕
正平十二年後七月十二日、以相承之
本書加道叡法印了、御判(聖尊)
右、以師主遍智院宮三品親王(聖尊)、御自筆之本書篤之了、 道興右、以此本奉授与照海大徳即以了、
應安四(1371)年十月十八日
道興(花押)

ここには三品親王聖尊自筆の本を、醍醐宸尊院道興が写して応安四年(1237)十月に、尾背寺の照海に与えたことが書かれています。萩原寺の中興真恵も、聖尊・道興から高野山宏範を経てこの法を受けています。尾背寺の照海も、また聖尊と道興の法を受けています。ここからは、萩原寺と尾背寺の院主は「兄弟弟子」の関係にあったことが分かります。法流の面でも、人脈の面でも二つのお寺は親密であったことがうかがえます。

〔真成授真尊印信〕
護摩口決
(中略)
明徳三年正月五日、 令書篤畢、照海
應永九年八月廿二日、於讃州尾背寺遍照院、書篤畢、成紹
應永廿一年八月五日、書篤畢、真成
康正三年二月廿七日、書篤畢、真尊
ここからは〔真成授真尊印信〕の「護摩口決」が先ほど出てきた照海から成紹に伝わり、真成・真尊と書写され受け継がれていることが分かります。そして、成紹の書写は「讃州尾背寺遍照院」で行われたとあります。下房以外にも、「遍照院」もあったようです。
尾背寺文書
成紹授真恵印信 尾背寺金勝院で書写されたことが記されている

「成紹授真恵印信」は、尾背寺の照海の後継者成紹が真恵に授けた印信が七通集められています。 
塔印 口決在之
明  (梵字)
右於讃州尾背寺金勝院道場、授於
大法師真恵畢、
   應永十二年 二月十六日
博授阿閣梨位成紹

ここからは足しかけ3年にわたって、さまざまな法流が成紹から真恵に授けられたことが分かります。それが行われたのが「讃州尾背寺金勝院道場」です。金勝院という院房もあったことがわかります。

以上から次のようなことが分かります。
①中世の尾背寺は萩原寺と同門で、密接な関係があったこと
②尾背寺では、いくつもの院房があり、そこで活発な書写活動が行われていた。

それでは、尾背寺はどうして衰退したのでしょうか。
讃岐の寺院は、土佐の長宗我部元親の侵攻により兵火に会い、衰退したと由緒に書いている所が多いようです。これは、江戸時代後半になって郷土意識が高まるとともに、讃岐を「征服」した長宗我部元親に対する反発が強くなり、いろいろな書物が「反長宗我部元親」を展開するようになったこともあるようです。
 尾背寺の衰退には、当時台頭してきた新興勢力の金毘羅大権現の別当金光院との対立があったようです。
  先ほど見た『古老伝旧記』には、尾背寺と金毘羅金光院の間の争いがあったことが記されています。当時の金光院院主は宥盛でした。宥盛は、新興勢力の金毘羅神が発展していくために旧勢力との抗争を展開していきます。
  金比羅堂を創建した長尾家出身の宥雅は、長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命ていました。その後、元親が院主に据えた宥厳が亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、後を継いだ宥盛を藩主の生駒家藩主に訴えています。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束していた金を送らない
②称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、
③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。
④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
 宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾背寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。このようなお山の「権力闘争」を経て、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位を確立させていったのが宥盛です。
宥盛は、すぐれた修験僧(山伏)でもあったようです。
金剛坊と呼ばれて多くの弟子を育てました。その結果、金毘羅山周辺には多くの修験の道場が出来て、その大部分は幕末まで活躍を続けます。彼自身も奥社の断崖や葵の滝、五岳山などをホームゲレンデにして、厳しい行を行っています。同時に「修験道=天狗信仰」を広め、象頭山を一大聖地にしようとした節も見られます。つまり、修験道の先達として、指導力も教育力も持った山伏でもあったのです。
  彼の弟子には、多聞院初代の宥惺・神護院初代宥泉・万福院初代覚盛房・普門院初代寛快房などがいました。これを見ると、当時の琴平のお山は山伏が実権を握っていたことがよく分かります。
 特に、土佐の片岡家出身の熊之助を教育して宥哩の名を与え、新たに多聞院を開かせ院主としたことは、後世に大きな影響を残します。多門院は、金光院の政教両面を補佐する一方、琴平の町衆の支配を担うよう機能を果たすようになって行きます。
 宥盛は、真言密教の学問僧というばかりでなく、山伏の先達としてカリスマ性や闘争心、教育力を併せ持ち、生まれたばかりの金毘羅大権現が成長していける道筋をつけた人物と言えるでしょう。
 同時に、同門の善通寺とは対立し、その末寺的な存在であった称名寺や尾背寺に対して、攻撃を展開したことがうかがえます。その結果、 尾背寺の大師御影は金光院の所有となり、真如親王の御影も金光院御影堂に収められたと『古老伝旧記』には記されます。以前に現在の松尾寺に伝わる弘法大師座像は、「善福寺」にあったものを金光院の宥盛が手にして、金毘羅大権現に祀られていたものであったことは以前にお話ししました。坐像の中から宥盛自筆の祈願文が出てきました。宥盛の山伏としての辣腕ぶりがうかがえます。
  
ちなみに彼は金毘羅神の創建者として、今は神として祀られています。明治になって彼に送られた神号は厳魂彦命(いずたまひこのみこと)です。そして、かれが修行した岩場に「厳魂神社」が造営され、ここに神として祀られたのです。それが現在の奥社です。

近世はじめまで山岳寺院として繁栄してきた尾背寺は、戦国時代に衰退するとともに、江戸時代になると金毘羅大権現との抗争で廃寺となったようです。そして、その跡に明治になって尾野瀬神社が建立さるのです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
町誌ことひら 古代・中世史料編 268P  

このページのトップヘ