かつて若い頃に、四国の山を歩いていて地図を読むと「佐古(さこ)」とか「葛籠」という集落をよく目にしたことを思い出します。これらの名前の付いた集落は稜線近くの空に近い集落が多かったように思います。「佐古」は、「水が湧くところ、谷田(さこ田)」で、山の高いところで水が湧き出すような所が、ソラの集落の開発拠点になり、そこに一族の主が最初に居館を構えたと、教えてもらいました。それ以後は、まんのう町美合の大佐古や吹佐古という集落を通る度に、その地形を観察し納得したことを思い出します。
 それでは「葛籠(つづろ)」は、どうなのでしょうか。

葛布 葛

葛(くず)は、秋の七草の一つで、秋に紫色の花をつけますが今では、やっかいものです。野放図にのびて、うち捨てられた畑を我が物顔に覆っていきます。その生命力には驚かされます。その根からはくず粉がとれることは、私も知っていました。しかし、葛から布がつくられたというのは、最近になって知ったことです。それはどんな布だったのでしょうか。今回は、葛から作られた繊維について見ていくことにします。
葛布 葛2

  まんのう町勝浦では葛布が作られていた

勝浦の葛布 洗い 讃岐国名勝図会
勝浦の葛布作り(讃岐国名勝図会)
 江戸末期に編纂された『讃岐国名所図会』には、挿絵入りでまんのう町(旧琴南町)勝浦の葛布が次のように記されています、
勝浦村農家、葛を製する図。天保年中より当村の樵夫、同所山中より葛を切り出し、農夫に商ふ。
農夫これを蒸して水に晒して葛布に織り立て、諸国へ出だし、遂に国産の一とはなれり」
意訳すると
「勝浦村の農家が葛布を制作する図。天保年間のころから当村の樵夫たちは、山中から葛を切り出して、農夫に売るようになった。農夫は、これを蒸して、水に晒して葛布に織り立て、諸国へ販売するようになり、ついには讃岐の名産の一つとなった。」
 
ここからは樵が集めてきた山中の葛を材料に、農家が「葛布」を織っていたことが分かります。 
 考古学者の森浩一は、阿波の山間部では「太布」が野良着とし着用されていたと指摘します。
太布づくり① 楮〜甑蒸し〜樹皮を剥ぐ〜木槌で叩く / 2016年晩秋•阿波太布染織の旅 その6 | 朝香沙都子オフィシャルブログ「着物ブログ  きものカンタービレ♪」Powered by Ameba

 太布は、コウゾ、カジノキ、シナノキ、フジなどの草木の皮からつくられたようです。中でもよく使われたのはコウゾとカジノキで、コウゾを「ニカジ」、カジノキを「クサカジ」とか「マカジ」と呼んで区別していたと云います。コウゾが「煮(ニ)カジ」と呼ばれたのは、その皮をはぐために、大釜で蒸したためでした。

勝浦の葛布釜ゆで 讃岐国名勝図会
葛の釜ゆで(まんのう町勝浦)葛を蒸す工程

葛布 葛3

 勝浦の葛布も「農夫これを蒸して水に晒して葛布に織り立て」と、葛を蒸す工程があります。阿波の「ニカジ」製法と同じです。勝浦で葛布が織られ始めたのは、「天保年間」からだとありますので、この製法は阿波から勝浦に伝わったと研究者は考えているようです。

勝浦の葛布 洗い 讃岐国名勝図会
勝浦の葛布工程 蒸して水に晒す(讃岐国名勝図会)

 太布について江戸時代の国学者、本居宣長はその著『玉勝間』の中で、次のように記しています
 いにしえ木綿といひし物は、穀の木の皮にて、そを布に織りたりし事、古へはあまねく常のことなりしを、中むかしよりこなたには、紙にのみ造りて、布におることは、絶えたりとおぼえたりしに、今の世にも阿波ノ国に、太布といひて、穀の木の皮を糸にして織りたる布あり。(後述)
意訳変換すると
  昔の「木綿」と呼んでいた織物は、木の皮で布を織ったもので、古へは全てそうであった。しかし、中世頃からは、木の皮から作るのは紙だけになって、、布を織ることは絶えたと思っていた。ところが、今も阿波ノ国には、太布と呼ばれる、穀の木の皮を糸にして織った布があるという

勝浦の葛布紡績・織布 讃岐国名勝図会
勝浦の葛布 紡績・織布工程(讃岐国名勝図会)

ここからは、次のようなことが分かります。
①古代の木綿とは、綿花から作られたものではなく、穀(カジ)の木の皮でつくった布のこと
②昔はどこにでもあって、めずらしいものでなかったが、現在(江戸時代)では阿波国にのみ残っていること
③古代には穀の木の布はどこにでもあったが、中世になると穀の木からは紙だけをつくるようになって布をつくることはなくなったこと
 「古事記伝」を著して古代のことを研究していた宣長の云うことですから真実味があるように思えてきます。本当なのでしょうか? 
古代文献を見ていくことにします。

葛布製法過程


 古代の木綿について「日本書紀」神代上、天石窟の段の第三の有名な部分を見ておきましょう。
スサノオノミコトの乱暴を怒ったアマアラスオオミカミが天石窟に隠れてしまったので、悪神がはびこる暗黒の世界となり困った。そこでアマテラスオオミカミを石窟から出すために神々が集まった。その際に、天香山の真榊を根っこから抜いて、その上枝には鏡をかけ、中枝には曲玉をかけ、下枝には「粟(阿波)国の忌部の遠祖天日鷲の作れる木綿を懸けた。」

葛布 自然の恵みに手仕事が命を吹き込みます。オールシーズンご使用可能

『古語拾遺』には、次のように記されます。
力令天富命率日鷲命之孫、求肥饒地、遣阿波国、殖穀麻種。其裔、今在彼国。当大嘗之年貢木綿、荒布及種々物、所以郡名為麻殖之縁也。

意訳すると
天富命が天日鷲命の孫を率いて肥沃な土地があるところを求めて、阿波国に至って穀と麻の種を植えた。其の子孫は今も阿波国にいて、大嘗祭がある年には本鄙と荒布のほか、種々の品物を献上し、その郡名も麻を植えたので「麻植郡」と呼ばれる。

それに続いて、天富命は阿波の忌部の一部を率いて東に行き、麻・穀を植えた。麻を植えたところを脂国(上総・下総)といい、穀を植えたところを結城郡といったと記します。
   先ほど見たように、古代には穀が木綿で、麻が荒布だったと云うのなら、木綿は穀からつくられた布、荒布は麻からつくられた布ということになります。また、荒布は和布に対する言葉で、目の荒い布ということになるようです。
『延喜式』には、
阿波の忌部は大嘗祭の時には、木綿・荒布のほか、鮎十五缶、ノビルの漬物十五缶、乾したギシギシ、サトイモ、橘(夏蜜柑か?)を各々十五篭、献上していた

と記します。

ふつけ鳥とは?

東方】かしこくてかわいいニワトリ様 : 2ch東方スレ観測所
平安末期の歌学書である『袖中抄』の「ゆふつけどり」の項には
「世の中さはがしき時、四境祭とて、おほやけのせさせ給に、鶏に木綿を付て四方の関にいたりて祭也」

とあって、疫病が起こって世の中が騒がしくなると、鶏に木綿を結び付けて、四関で放って祭ったとあります。

  また 『古今和歌集』(第十一の五三六)には
逢坂の ゆふつけ鳥も 我ことく 人や恋しき ねのみ鳴らむ

という歌を始めとして「ゆふつけ鳥」を歌った和歌が数多くあります。ここからは平安時代には、ゆふつけ鳥の風習が盛んだったことがわかります。この木綿は、穀の布を細く裂いたものと研究者は考えているようです。 古代には、穀の布を木綿と呼び、衣料用としてだけでなく四境祭のような祭礼にもゆふつけ鳥として使われていたのです。
葛布 太布

 以上をまとめておきます
 古代に阿波忌部は大嘗祭にあたって木綿・荒布などを献上していました。この木綿は、綿花から織られたものではなくカジノキ、コウソ、シナノキ、フジなどの皮からつくられたものでした。それが中・近世になると木綿は、阿波国以外ではすたれてしまいます。
 しかし、讃岐のまんのう町勝浦は、阿讃山脈のソラの集落で阿波との関係が強いところでした。以前に見たように、国境の行き来を制限する関所のようなものもなく、讃岐米や阿波からの借耕牛に見られるように、人やモノの交流・流通が盛んでした。そのため木綿(葛布)の製法が伝わり、江戸時代末期頃までは特産品として生産されていたようです。当時の葛布は、高級織物というより、農民の野良着として使用されたようです。これも阿讃交流史の一コマかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
葛布 自然の恵みに手仕事が命を吹き込みます。オールシーズンご使用可能

参考文献
  羽床明 阿波の太布と讃岐琴南勝浦の葛布   ことひら
関連記事