瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:藤堂高虎

郷土史講座 満濃池と西嶋八兵衛

上記講座で使用した資料を中心にアップしておきます。時間と興味のある方は御覧下さい。

満濃池 3人の再築した人物

満濃池は8世紀初頭に築造されたとされますが、何度も決壊しています。空海の修復後も源平合戦頃には決壊したまま放置されます。そのため池跡が開発されて、池之内村ができていたと伝えられます。それが再築されるのは天下泰平になった江戸時代初期です。それを指揮したのが西嶋八兵衛ということになります。今回は、この西嶋八兵衛について見ていくことにします。

西嶋八兵衛 どうしてやってきたのか

これらについては、西嶋八兵衛が藤堂高虎の子飼いの腹心であったためであったと答えられます。まず主君の藤堂高虎を見ておきましょう。

西嶋八兵衛と藤堂高虎


藤堂高虎は、今年の大河ドラマの主役である秀吉の弟秀長に見いだされます。その後、主君を秀吉→家康と乗り換えて、戦乱を生き延びていきます。「戦乱の風見鶏」と評される由縁です。さらに晩年に駿府に隠居した家康の傍らに仕えて、絶大な信頼を得ます。外様大名でありながら譜代大名あつかいとなり、時の老中と親族関係を結ぶなど大きな政治力をもつ存在になっていきます。西嶋八兵衛は、その藤堂高虎に、若い頃に仕官します。英才教育を受けて栄達していきます。それを年表で押さえておきます。

西嶋八兵衛 藤堂高虎の英才教育を受けた

西嶋八兵衛の父は、もともとは藤堂高虎に仕えていましたが病気で浜松に隠居していました。八兵衛が17歳になると、駿府にいる高虎を訪ねています。見所があったのでしょう150石で小姓に取り立てられています。以後、高虎の身近にあって、英才教育を施されていきます。そして高虎の信頼を得た若者に成長していきます。
  
どうして西嶋八兵衛は、讃岐にやってきたのか?

西嶋八兵衛 生駒家と藤堂家は親族

生駒家3代目の正俊が突然若死にします。残された4代目の高俊は11歳の幼年です。この時期の幕府は、難癖を付けては外様大名を取り潰したり、無理難題を押しつけていた時代です。生駒藩も幕府の標的になる可能性がありました。生駒藩の危機です。これを救おうとしたのが伊勢津藩藩主の藤堂高虎です。
 高虎は生駒親正
に深い御儀がありました。高虎には、主君の秀長(秀吉の弟)が亡くなると、無能な主君に仕えること嫌って高野山に出家して隠遁生活を送っていた時期がありました。その時に秀吉への再就職を勧誘・説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名にリクルートできました。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。その後は、上図のように高虎の娘が生駒家に嫁いできていて子どもを産みます。それが生駒家4代目の高俊になります。つまり高俊は高虎の孫でもあったのす。高虎と父正俊から一字ずつもらって高俊です。高虎は、このように親密な関係にあった生駒藩の危機に対して一肌脱ごうとしたようです。そこで全権委任大使として生駒藩に派遣されたのが若き西嶋八兵衛ということになります。
 家老待遇として生駒藩にレンタルされた西嶋八兵衛を待ち受けていたのは大旱魃でした。

西嶋八兵衛来讃時の讃岐は大旱魃


 八兵衛がやってきた
のは寛永二年(1625)ですが、翌年から災害が続きます。旱魃・台風と2年続きの凶作で餓死者がでます。農民達は土地を捨てて他国に逃散するものも現れます。生駒藩存続の危機が訪れたのです。これに対して右往左往する生駒藩の指導者達に対して、藤堂高虎はレンタルしている西嶋八兵衛にやらせろと命じます。こうして西嶋八兵衛を中心としての災害対策、つまりそれは丸亀平野や髙松平野などのの総合開発プロジェクトでした。

 ここで注意しておきたいのは、満濃池だけを西嶋八兵衛は作ったのではないと云うことです。ため池 + 土器川・金倉川の治水工事 + 灌漑用水路の整備という3つの要素を同時に行っているのです。しかもこれを讃岐全土で同時進行で行っています。これは西嶋八兵衛が単なる技術者ではなく、当時の政策担当者の中枢部にいたからできたことです。それを裏付ける史料を見ておきましょう。

大川神社へ寄進された鉦 西嶋八兵衛・尾池玄蕃


これは1628年(満濃池着工時)に、琴南の大川神社(権現)に寄進された鉦です。ここには上記のような文字が刻まれています。ここからは次のようなことが分かります。


①大川神社は権現で、修験者たちの管理運営下にあったこと。


②雨乞い祈願用に、生駒藩奉行(家老)が寄進していること


③それをとりまとめたのが尾池玄蕃であること。


②の三人の奉行の中に西嶋八兵衛の名前があります。彼が生駒藩中枢にあり、政務を担当していたことが裏付けられます。また丸亀平野の担当が尾池玄蕃であったこと、当時の生駒藩が大旱魃に対して、権現の力を借りて雨を降らせようとしていたことも分かります。
それでは、西嶋八兵衛が讃岐にやってきたときに満濃池はどうなっていたのでしょうか?

満濃池営築図2 矢原家
満濃池営築

西嶋八兵衛がやって来た時の満濃池跡です。地元の矢原家に残っていた絵図です。

①の左下から中央を通って上に伸びていくのが金倉川で、川の中には大小の石がゴロゴロと転がっている

②右側が「うてめ」(余水吐)跡で、機能を失って川のように描かれている。

③金倉川を挟んで2つの岡があり、左(東)側が「護摩団岩」で空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる。この岩は今では満濃池に浮かぶ島となっている。

④右(西)側の丘に池の宮(現神野神社)が鎮座している。

古代に空海が再築した満濃池も③と④の二つの丘を堰堤で結んでいたとされています。それが崩壊したまま450年間放置されてきた姿が描かれています。つまり、ここに描かれているのは17世紀初頭の「古代満濃池の堤跡」なのです。


絵図の上方に描かれた堤跡の内側を見ておきましょう。

西嶋八兵衛 池之内村

④の池の宮の南側(上側)には、民家と農地を区切るあぜ道が描かれています。讃岐国名勝図会(1853年)には、次のように記します。

(満濃池)跡地は、(再開墾されて)五百石(25丁㌶)ほどの谷間の山田となった。人家も次第に増えて、池の内村と呼ばれる村ができていた。


ここからは源平合戦の頃に決壊した満濃池は、中世には農地化されて、内部に村ができていたことが分かります。これを「池内村」と呼んでいたようです。位置的には現在の神野寺の下あたりになります。ここには豊富な湧水があったようなので、それを水源とする村ができたのでしょう。

 
さらに絵図上部には、文字がぎっしりと書かれています。何が書かれているのか見ておきましょう。

西嶋八兵衛と矢原家

ここには工事が始まる2年前の寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へやってきたことが記されています。矢原家というのは、当時の池の内村の有力土豪だったようです。そして、西嶋八兵衛は当主と那珂郡の毎年の旱害について懇談します。その話を聞いて、矢原正直は池の内に所持している田地(500石=25町)を残らず差し出すことを申し出たと記されています。これに藩主は喜んで、後に褒美を取らせると約束します。ちなみにこれは後の池守となる矢原家にとっては、その正当性をしめす証拠資料ですから、記録として残され大切に保管されてきたようです。つまり、旧満濃池跡地の池之内村の領主が矢原家であったことになります。

 矢原家には、次のような文書も残されています


西嶋八兵衛と矢原家文書
御意として申せしめ候。仲郡満濃池上下にて、高五十石永代に遣わされ候間、
常々仕かけ水、堤まわり諸事由断なく、指図つかまつり、堅く相守るべく候ものなり。
よってくだんのごとし。 

寛永拾弐年亥四月三日   西嶋八兵衛之尤(花押)  
                  浅田右京 直信(花押)
矢原又右衛門(正直) 
ここからは池跡の25㌶(500石)を、藩に差し出したことへの恩賞として、藩主から代替地を満濃池周辺で与えられたこと、満濃池の池の守(管理人)に任命されたことが記されています。

こうして矢原家の土地寄進を受けて、工事が始まります。先ほどの絵図をトレスしたものを見ると、工期が日程が上段にはびっしりと書き込まれています。

満濃池着工と完成

冒頭の着工日と末尾の完成日時は上記の通りです。こうして西嶋八兵衛によって満濃池は再び姿を見せます。その満濃池を見ておきましょう。
西嶋八兵衛の満濃池
堰堤は、護摩壇岩と池の宮を結ぶようにして築かれています。そして現在の堰堤よりも前方にありました。この堰堤は戦後の嵩上げ工事によって、護摩壇岩だけを残して、今は池の中に沈んでしまいました。西嶋八兵衛が再築した満濃池の約200年後の姿を見ておきましょう。

満濃池遊鶴 
満濃池遊鶴(まんのう町蔵)
護摩壇岩と池の宮を結んで堰堤が築かれています。その向こうに拡がる池面を鶴の群れが飛んでいます。こうして満濃池は名勝地としても知られていくようになります。この絵図の5年後の讃岐国名勝図会に載せられた満濃池も見ておきましょう。

満濃池 讃岐国名勝図会2
ドローンで堤防北側上空から俯瞰した姿が満濃池を描く定番になっていきます。

江戸時代の満濃池は西嶋八兵衛が再築したスタイルが変化することなく踏襲され、維持管理されたことを押さえておきます。それだけ優れた設計だったことになります。これが崩壊するのは、新しい技術を取り入れ底樋を石造化したときに、技術が未熟で決壊します。同じ讃岐国名勝図会に載せられた矢原氏の屋敷です。

矢原邸 讃岐国名勝図会

矢原邸には空海が持ち帰ったかりんの大木があったとされますが、この絵図にはそれは見えません。描かれているのは大きな松の木が2本です。矢原家は移転地として満濃池の下の「池下」や「池尻」などに土地を支給され、江戸時代を通じて存続していきます。今でも満濃池周辺の土地は矢原家が所有しているようです。現在の矢原家周辺を見ておきましょう。


満濃池からの矢原家

満濃池堰堤から見た矢原家跡(こんもりとした森)

西嶋八兵衛は満濃池を再築しただけではない。丸亀平野総合開発プロジェクトを推進した。
地元でも西嶋八兵衛のことを知っている人は、そんなに多くありません。多くの人が空海が作った満濃池が存続していたと思っている人の方が多いように思えます。知っている人も「満濃池再築者」という点に限られています。しかし、彼が築造したのは満濃池だけではありません。同時進行で、次のようなため池の築造を行っています。
西嶋八兵衛 讃岐における業績一覧

これらのため池が西嶋八兵衛が作ったため池とされています。しかし、先ほど見たように彼は生駒藩の三人の奉行のひとりで、藩政の中枢にいた人物です。ただの技術者とはちがいます。各地の築造現場に頻繁に出向くことは難しかったのではないかと思います。また重臣が工事現場に常駐して指揮すると云うことは、当時の建設システムからは考えられません。黒鍬組のような土木技術者集団を引き連れていて、指示を受けた技術者たちが請け負っていたことが考えられます。その際の各地の庄屋たちの協力を取り付けるためのお膳立てはしたかもしれません。しかし、満濃池に西嶋八兵衛がかかりっきりで陣頭指揮をしたとは私には考えられません。問題提起としておきます。

もうひとつの問題提起は、満濃池を作っただけでは丸亀平野に水はやってこないということです。

西嶋八兵衛 丸亀平野総合開発事業の一環としての満濃池

池の水を下流に提供するためには、上記のように治水工事(既存の川の流路変更)と、灌漑用水路の整備がセットで求められます。つまり、丸亀平野の総合開発計画の実行ということになります。これはひとつやふたつの村の協力ではできません。多くの村々の庄屋たちの協力なしではできることではありません。西嶋八兵衛は、藤堂高虎が派遣した目付で、国奉行として藩政の中心にいたことからこそ立案・実行できたのです。満濃池の築造と同時期に行われた治水・灌漑を見ておきましょう。

満濃池水掛かり図.JPG 1870年
この絵図は、明治になって長谷川佐太郎によって再築された満濃池水掛の各村々とそこに至る用水路が水色で書き込まれています。上図を拡大して90度回転させて見てみます。

近世:治水整備後に整えられた灌漑網

これを見ると、用水路が東は土器川の左岸まで、西は金倉川を越えて、善通寺から多度津白方方面にまで伸びていることが分かります。灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。ここからは次のような事が読み取れます。
①満濃池の受益面積は桃色の髙松藩が最も多いこと。最大の受益者は髙松藩。
②土器川から分水導入している用水路は左岸にはないこと 土器川左岸は満濃池に依存していたこと
③金倉川も善通寺・多度津方面以外は、分水を行っていないこと。つまり、土器川と金倉川には灌漑機能はなく、放水路の機能を持たされていたこと。だから白色で描かれている。
④黄色の天領(五条・榎井・苗田)は、丸亀藩の給水分岐点であり、戦略的な意味を持っていたこと。
⑤善通寺・多度津白方方面は苗田村で一度金倉川に水を落とし、その下流で再度導水していたこと
⑥この水掛図で、最も灌漑用水が不足するのが多度津の白方方面であったこと。
このように丸亀平野一円に用水路を張り巡らせるために、どのような治水工事が行われたのでしょうか。金倉川から満濃池用水路の導入口の③附近を拡大して見ます。③でそれまでの流路が変更され、新しく金倉川が人工的に作られたと丸亀市史は次のように記します。

西嶋八兵衛 四条川治水と用水路建設
つまり、満濃池再築以前には、③→④→⑤という流路で「四条川」が流れていたのを、③で放水路として金倉川を開削し、丸亀平野の西端に移動させ、中央部を洪水の被害を受けないようします。その上に新たな用水路網を開いたというのです。言い換えれば、満濃池用水は旧四条川の流路変更の上に作られたことになります。この工事が満濃池築造と同時期に、庄屋たちの分担作業で行われていたことが考えられます。その段取りをつけたのが西嶋八兵衛とその配下の土木技術者集団だと私は考えています。

③の金倉川からの分水点である水戸大横井を見ておきましょう。

西嶋八兵衛 水戸大横井

③の水戸大横井堰(まんのう町吉野下)は、パン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に何代目かの堰が今もあります。ここでせき止められた水がコントロールされて用水路に流れていきます。附近には旧四条川の痕跡が残っています。また、金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという手法です。
 ちなみに西嶋八兵衛が伊勢藩に帰国して開いたのが雲出井用水です。規模も建設方法、完成後の管理方法が満濃池用水によく似ていることは前回お話ししました。讃岐での経験が伊勢藩で活かされているように思えます。

西嶋八兵衛の雲出井用水

伊勢の雲出井用水 満濃池用水と類似点が多い

西嶋八兵衛は満濃池を完成させた後も、重臣の座にいながら各地で総合開発プロジェクトを進めます。

西嶋八兵衛の讃岐滞在2

そして満濃池完成後の8年後の1639年に、伊勢藤堂藩に帰ります。この年は生駒騒動が勃発した年です。生駒藩の家臣団の亀裂は深まるばかりで、押さえが効かなくなっていきます。沈み行く船を見捨てての、伊勢藤堂藩への帰国という形になります。彼にしてみれば20歳代後半から20年間に渡って、生駒藩に関わってきました。それが、生駒騒動という形で終末を迎えることにはいろいろな思いがあったはずです。
 ところが帰国した西嶋八兵衛に幕府から呼び出しがかかります。どんな用向きだったのでしょうか

西嶋八兵衛 生駒藩転封後の来讃

生駒騒動で生駒藩が改易された後は、幕府は高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西分割することにします。そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。水利権の問題は複雑です。後世に問題を残さないように処理することが担当者には求められることになります。讃岐に派遣された幕府要人は、この課題処理のために白羽の矢を立てたのが、生駒藩奉行として満濃池築造するだけでなく、多くの民政に関わった西嶋八兵衛でした。彼は満濃池再築の責任者として、他国人ではありますが庄屋たちからはリスペクトされていたようです。庄屋たちから水利や里山利用の問題点を聞き取り、それを文書化して後に問題が起きないようにまとめて幕府要人に提出しています。そこには例えば満濃池管理について、次のように記されています。

西嶋八兵衛 満濃池水掛村鷹

西嶋八兵衛 満濃池水掛村高末尾鷹

これをまとめたのが西嶋八兵衛です。これを見えも西嶋八兵衛が満濃池の諸問題について、よく理解していたこと、同時に丸亀平野一円の庄屋たちの信頼を得ていたこともうかがえます。西嶋八兵衛の働きぶりに対して幕府要人は、小太刀一振りを与えてねぎらっています。有能な働きぶりだったことが裏付けられます。
伊勢帰国後の働きについては、前回にお話ししたので省略します。最後に西嶋八兵衛の業績と評価を振り返っておきましょう。

西嶋八兵衛 業績と評価

 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。軍用技術の民政への転用というこになります。こうして家臣団の中に『民政臣僚』と呼ばれる集団が現れます。その走りが藤堂藩で、西嶋八兵衛もそのなかの一人だったようです。彼の場合は、その場がレンタル客臣として赴いた讃岐で、そこで讃岐平野全体の総合開発事業に家老として関わるようになったのです。そのシンボル的な事業が満濃池再築だったとしておきます。
 それでは西嶋八兵衛の讃岐での満濃池周辺での評価はどうでしょうか。
最初に見たように3人の満濃池再築者の中で、空海には遠く及ばず、長谷川佐太郎よりも知名度は低いといったところでしょうか。それでは西嶋八兵衛があまり知られていないのはどうしてなのでしょうか? 例えば満濃池に空海の銅像や長谷川佐太郎の顕彰碑はあります。これらは20世紀になって姿を見せるようになりました。

満濃池 空海の銅像
満濃池の空海像と長谷川佐太郎顕彰碑
ところが西嶋八兵衛のものは見当たりません。どうしてなのでしょうか?
それには次のような背景が考えられます。

西嶋八兵衛 銅像がないのはどうしてか

第1に西嶋八兵衛が讃岐の人ではなく他国人であったことです。そのために、後世に応援団(顕彰団代やファンクラブ)が育ったなかったことがあります。また、生駒藩がなくなったことです。そのため西嶋八兵衛の業績についての資料の多くが失われました。また、その後にやってきた松平髙松藩では、初代松平頼重がカリスマ化されていきます。その結果、先代の生駒藩の偉人伝は語られることがありませんでした。西嶋八兵衛は江戸時代には讃岐では忘れ去られた存在のようになていました。それが再評価されるのは、近代になってからです。こうして満濃池周辺では銅像も顕彰碑も建てられなかったようです。ただ髙松では、木太北部公園のように地域興し事業の一環として顕彰碑が姿を見せるようになりました。
西嶋八兵衛功徳費 

西嶋八兵衛が満濃池に着工し、完成させた年をもう一度見ておきましょう。

西嶋八兵衛 満濃池再築400周年
2年後が着工400周年 5年後が完成400周年にあたるようです。これを機会に、西嶋八兵衛の再評価が進み、銅像建立につながればと願っている私です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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歴史の見方

中讃TV「歴史の見方で、満濃池を再築した西嶋八兵衛のことについてお話しました。
2月中いっぱい毎日21:00から放送されるようです。興味のある方で、時間のある方は御覧下さい。
西嶋八兵衛76

Q1西嶋八兵衛は満濃池を造るためにやってきたのではないのですか?
 そうではないようです。西嶋八兵衛は若い頃から藤堂高虎に仕え小姓や右筆として英才教育を施された人物でした。ところが高虎が娘を嫁がせていた讃岐の生駒藩に存亡の危機が訪れるんです。

生駒騒動 関係図1
それは3代藩主の生駒正俊が30歳過ぎで若死にしてしまいます。残されたのは11歳の幼君で、これが高虎の孫で生駒藩を継ぐことになります。当時の幕府は、幼い殿様が継いだ外様藩に対しては、落ち度を見つけては言いがかりをつけては取り潰すことを繰り返していました。生駒藩がその取り潰しのターゲットになったわけです。そんな中で藤堂高虎は家康に気に入られて、幕府からも一目置かれる存在でした。そこで生駒藩を守り、幕府介入の口実を与えないために目付(全権委任腹心)を送り込むことにします。その目付に撰ばれたのが育ててきた西嶋八兵衛だったのです。
 こうして讃岐にやってきた八兵衛は当時は26歳なんですが、今の県庁で云えば総務部・土木部部長に東京出張所所長を兼ねたような権限を持っていたことになります。ちなみに、この時点では、生駒藩の重臣たちは西嶋八兵衛が土木技術者であることはどうも知らなかったようです。西嶋八兵衛はあくまで藤堂高虎が送り込んだ全権委任の家老代理のような存在だったのです。

西嶋八兵衛 来讃理由

Q2 なぜ若い他国者の西嶋八兵衛に大工事を任せたのですか?

生駒藩 藤堂高虎
藤堂高虎
 それは主君藤堂高虎が「築城の名手」であったからです。高虎は、家康の命令で江戸城・二条城・大阪城のなどの天下普請を行っています。そこに八兵衛を参加させ実際に縄張り造り(設計)もやらせています。天下普請は、当時の最大の規模で、最高の技術を競う「土木技術競技会=土木技術コンテスト」のようなものでもありました。そこで西嶋八兵衛は腕を磨いた経歴も持っていました。それを知っていたので旱魃で農民達が逃散する現状打開のために、藤堂高虎は生駒藩の重臣たちに次のように伝えています。
「生駒藩が現在の危機をのりこえるためには、灌漑の便をよくし、百姓共の心をを落ちつかせることである。ついては、目付として遣わしている西島八兵衛は、伊勢藩では郡奉行をつとめ、灌漑土木事業には巧者(たっしゃ)の者である。故、西島と心を合わせて事を運ぶよう」

 こうして生駒藩では西嶋八兵衛を中心に「挙国一致」で体制が整えられます。それが讃岐各地で一斉にため池や用水路の大型土木工事が始まる政治的な背景になります。これを大きな目で見ると天下泰平の世の中になって、城づくりの軍用技術が、治水灌漑などの民政技術に転用される時代がやってきたこと、そのさきがけを告げるもので、その中心に讃岐では西嶋八兵衛がいたという意味づけができます。

矢原邸(現在)
現在の矢原邸跡(まんのう町池の尻 ほたる見公園付近)
Q3 満濃池再築で立ち退きを迫られた人達はどうなったのですか?
このあたりが立ち退きを迫られた池之内村の人達の移転先と伝えられています。満濃池の堰堤の下側に当たるので「池の尻」と呼ばれています。このあたりを描いた江戸末期の絵図がこれです。

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
            矢原家(まんのう町池の尻) 讃岐国名勝図会
大きな屋敷と松が描かれています。これが池之内村の名主だった矢原氏の移転後の屋敷になります。その跡がこの森になります。矢原家に残された文書には、西嶋八兵衛とのやりとりが次のように記されています。

   矢原家が満濃池跡に所持する田畠二十五町余を、池の再築のために総て差し出すことを、主君に伝えました。するとその行為についてお喜びの様子でした。いずれかの機会に、何らかの形で矢原家への処遇を考えたいと仰せられていた。讃岐の衆人の見守る中での今回の行い、まことに誉れ有る行為である。

 ここからは、家老待遇の身でありながら西嶋八兵衛が矢原家に何度か足を運んでいたこと、そして満濃池築造の必要性を訴えて協力を求めていたことが分かります。今でも大規模工事をスムーズに進めるには地元の人達の協力が必要です。そういう点で西嶋八兵衛は、矢原家などの同意と協力を得ながら再築を奨めたことがうかがえます。そして矢原家の協力に対して、25石の所領と池の守の役職を与えることで報いています。いろいろな配慮や調整をしながら工事を進める利害関係調整能力や、その人柄までもがうかがえます。
Q4 空海に比べて西嶋八兵衛の業績があまり語られないのは?
満濃池を修復をした人物は3人います。
A 古代の空海
B 近世はじめの西嶋八兵衛
C 明治維新前後の長谷川佐太郎

弘法大師像除幕式 1933年.2JPG
満濃池の空海像 1933年建立

弘法大師像除幕式 1933年

空海については、神野寺に大きな銅像が昭和8(1933)年に建てられています。これが満濃池=空海築造を思い浮かばせるモニュメントとなっています。

長谷川佐太郎顕彰碑
満濃池堰堤の長谷川佐太郎の顕彰碑
長谷川佐太郎については堰堤に大きな顕彰碑が建てられています。ところが西嶋八兵衛については、石碑も銅像も満濃池にはありません。満濃池と西嶋八兵衛を視覚的に結びつけるモニュメントがありません。これがひとつの理由かもしれません。
Q5 どうして西嶋八兵衛の顕彰碑や銅像ががないのでしょうか?
  いろいろ考えられますが、西嶋八兵衛には後世の応援団がいなかったことがひとつの理由だと私は思っています。具体的には、次のような事が考えられます。
A地元讃岐の人間ではなかったこと 伊勢から生駒藩にレンタルされてやって来た客臣だったこと
Bもうひとつは彼が活躍した生駒藩が生駒騒動でなくなったこと。その後やってきた髙松松平藩では、初代の松平頼重がカリスマ化されて、それ以前の偉人に関してはあまり評価されなかったこと。
Cそのため西嶋八兵衛は江戸時代には忘れ去られた存在となっていたこと。彼の業績などが語られることがなかった、蓄積されなかったことが挙げられます。
Q6   西嶋八兵衛の再評価について
  西嶋八兵衛が満濃池を再築したのが1631年です。つまり、5年後に再築400周年をむかえることになります。それに向かって、西嶋八兵衛の果たした業績を、ため池づくりだけでなく、丸亀平野や髙松平野全体から見た治水灌漑プランからもみておくこと、ひいては戦乱から泰平時への移りかわりのなかで生駒藩が讃岐にもたらしたものという視点でとらえることが求められていると思っています。その中で西嶋八兵衛の果たした役割が見えてくるはずです。

時間と興味のある方はこちらの「歴史の味方(9分)を御覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=K0gHOxzXlhw
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

豊臣秀吉の四国支配体制は?
長宗我部元親侵攻図

長宗我部元親の四国平定

天正13年(1585)春、土佐の長宗我部元親は四国統一を果たします。しかし、それもつかの間、秀吉が差し向けた三方からの大軍の前に為す術もなく飲み込まれ、8月に四国は豊臣統一政権に組み込まれます。その後の四国の大名配置は、四国平定の論功行賞として行われます。秀吉は、四国の大名達を「四国衆」と呼んでいたと言われます。ここからは、四国の大名を一括して認識していたフシが見えられます。どんな思惑で秀吉は、大名達を配置していったのでしょうか。讃岐に生駒氏が配される背景を巨視的に見ていきたいと思います。テキストは「川岡勤  豊臣政権における四国の大名配置 中世西国社会と伊予所収」です。 
51585年頃の大名配置図
  
四国平定後の秀吉の大名配置を見ておきましょう。
長宗我部元親には土佐一国のみの領有が許され、
阿波・蜂須賀家政
讃岐・仙石秀久
伊予・小早川隆景
このほか詳しく見ると各国の一部は、
阿波には 赤松則房・毛利兵橘
讃岐には 十河存保・安富又三郎
伊予には 安国寺恵瑣・来島通総・得居通久にも与えられています。彼らは、いずれも長宗我部戦での活躍が認められたものです。長宗我部から奪った瀬戸内三国を見ると、阿波・讃岐には豊臣大名が、伊予には秀吉に近い毛利系大名の小早川氏が配されています。以前から河野氏と結び伊予に進出していた毛利氏は、平定前に秀吉から伊予拝領を約されていました。この大名配置のねらいは、阿波・讃岐・伊予の瀬戸内三国に政権下の有力大名を配置し、九州征討に備えることにあったようです。それを裏付けるように天正13年~15年にかけて、この三国では検地が行われています。これは新たな軍役賦課のためであったと研究者は考えているようです。そして実際に、九州攻撃の先陣を務めたのは「四国衆」でした。
 
仙石秀久、戦国を駆ける | 書籍 | PHP研究所

 讃岐の領主とまった仙石秀久は天正14年(1586)9月に島津征討に参陣しますが、豊後・戸次川の戦で大敗し、その責任を問われて領地没収となります。代わって翌年正月に、讃岐国領主になったのは尾藤知宣です。しかし、彼もまた日向での作戦失敗で領知を没収されます。その後を受けて、天正15年8月に讃岐領主に封じられたのが、生駒親正(近規)です。短命に終わった仙石・尾藤氏に代わって領主となった生駒氏によって讃岐は戦国時代にピリオドを打ち、近世へと脱皮していくことになります。

高松城 周辺地理図

生駒親正の高松城築城の戦略的なねらいは?

 天正十五年の九州平定後は、讃岐・伊予の大名が入れ替えられて瀬戸内の固めが増強されます。秀吉の子飼いの豊臣大名によって、この地域が占められるようになります。その中でも生駒親正が築城した高松城は、城の中に港湾機能を取り込んだ今までにない構造であることは以前にお話ししました。その規模や岡山城などの移転状況などから判断して、瀬戸内海の制海権を握るための重要な役割を担うために作られた水城だと研究者は考えているようです。
 秀吉は生駒親正を信頼し、頼りとしていたようです。秀吉は親正に「讃岐国一円領知状」〔生駒家文書〕を出し、国内に秀吉直轄の蔵入地を観音寺に設定し、その代官にも任命しています。豊臣政権下での讃岐や生駒親正の重要性をうかがい知れます。さらに、親正は中村一氏・堀尾吉晴とともに三中老(小年寄)として、五大老・五奉行間の調整を図る要職にも就いています。
 こういう中で親正は、自らの居城築城を開始します。
その選定にあたっては、まず引田浦・宇多津という港町に入りますが適地とせずに、最終的に野原庄(現在の高松)を選定したことは以前にお話ししました。「南海通記」によれば、戦国時代の野原庄には香西氏配下の武将達の小城が多数あったとされます。その記録通りにサンポート開発の発掘によつて、港湾施設や積荷が出土し、中世の港町があったことが分かっています。西浜や東浜や砂州の存在、船便の良さや背後の高松平野のヒンターランドとしての潜在力も、高松選定の大きな要因だったと研究者は考えているようです。
 高松城と生駒親正は、西国全体を支配下に置いた豊臣政権にとって、瀬戸内海の防衛・侵略拠点としての大きな布石の役割を果たすことになります。

次に伊予の情勢を見てみましょう
小早川隆景の肖像画の画像 | 戦国ガイド 
小早川隆景(毛利元就の三男)
伊予を支配することになったのは、安芸から海を越えてやってきた小早川隆景です。彼は秀吉の意向を受けて、城割・検地などを実施し、近世伊予の礎を築いたとされます。これらの政策は、先ほど見たように九州侵攻をにらんでのことでした。しかし、伊予国内には先ほど見たように旧領主の河野氏や西園寺氏の領地も混在し、小大名領が入り交じった状態でした。その結果、中世的遺制が残り、これが払拭されるのは九州平定後のことになるようです。
 しかも秀吉は、翌年の天正15年(1587)6月には、隆景(毛利元就二男)に筑前一国と筑後二郡・肥前二郡が与えて九州に転封させます。これに併せて毛利秀包(元就九男・隆景養子)に筑後三郡が与えられます。この転封は、朝鮮半島への侵攻準備のためだと研究者は考えているようです。九州平定のために四国にその侵攻の中核となるべき大名が配置されたのと同じ手法です。秀吉の信頼の厚かった小早川隆景に、朝鮮半島侵攻の基盤となる筑紫が任されたのです。こうして筑前名島城に入った隆景は、太閤検地など近世的政策が展開され、地元領主階級の結集がなされていきます。
5 四国の大名配置表

このような動きと連動する形で、秀吉は四国の大名配置を行なったことを改めて確認する必要がありそうです。
九州平定とそれに続く朝鮮出兵の布石として、秀吉は四国の大名配置を行ったという視点です。その動きを簡単に見ておくことにしましょう。

5 秀吉の四国大名配置図

 小早川隆景を筑紫に転封したの後、秀吉は東・中予に福島正則、南予に戸田勝隆を入れます。こうして瀬戸内三国全てに、秀吉子飼いの豊臣大名が配されます。福島正則や戸田勝隆は、伊予の近世化を進め、地付きの土豪族を弾圧し多くの悲劇が生まれますが、それも後に控える朝鮮半島侵攻のためには不可欠な準備の一つだったと考えていたのかも知れません。領内の不満分子弾圧を果たした後、戸田勝降は大津城から板島丸串城へ、福島正則は湯築城から国分山城へ短期間で移ります。
国分山城 - 城見る人も好きずき
国分山城に迫る小早川軍
 
文禄4年(1595)7月、関白秀次は高野山へ追放され、切腹を迫られます。その検使役を勤めた福島正則は、尾張清州34万石に転じ、代わって池田秀雄が国分山城へ入ります。秀雄の子秀氏は、南予の大津二万石に移された。同じく文禄4年7月には、加藤点明が文禄の役の功によって増封され、淡路から正木に入ってきます。そして同月、板島の戸田勝隆に換わり、藤堂高虎がやって来ることになります。豊臣秀長配下で、高野山に隠居していた高虎を秀吉に仕えさせたのは、讃岐藩主の生駒親正でした。

国分山城の写真:今治城天守にあった解説文 | 攻城団

朝鮮出兵にみる「四国衆」
豊臣秀吉は四国の大名を「四国衆」と呼んでいたことは最初に述べました。秀吉は小田原の役から朝鮮出兵にかけて、四国衆を水軍として軍団編成を行ったようです。当時の四国衆の大名にとって、朝鮮半島出兵のための水軍編成が大きな課題として秀吉から求められていたことになります。しかし、朝鮮での実戦では「四国衆」として統一的に動くことはありませんでした。それどころか大名間で反目し、ばらばらに動きに終始して、そこを朝鮮水軍に各個撃破されることが多かったようです。
阿波の古狸と呼ばれた『蜂須賀家政』したたかに乱世を生き抜く - YouTube

その中で、讃岐の生駒親正と阿波の蜂須賀家政だけは名実ともに同一ユニットで動いていたと研究者は指摘します。蜂須賀正勝は、秀吉の与力としてその統一過程に深く関わり、播磨国龍野5万石余の大名となります。四国平定においても、嫡子家政とともに讃岐・阿波に侵攻して活躍し、長宗我部元親との講和も結んでいます。その功績を認められ戦後に、阿波一国が与えられ、長男家政は父同様、政権下での重要な置を占めることになります。
  一方、土佐の長宗我部元親は、柴田勝家や徳川家康と結び、島津義久を援助するなど、豊臣政権においては「外様」大名扱いされます。土佐の長宗我部は秀吉にとっては仮想敵国だったのです。これに対して、秀吉子飼いの重要な豊臣大名である生駒・蜂須賀は、瀬戸内海だけでなく士佐を抑える役割も担っていました。そのために、生駒・蜂須賀両藩は対土佐・長宗我部に対する同一ユニットの軍事編成が想定されていたと研究者は考えているようです。それを裏付けるように城下町の防衛ラインである寺町は、高松・徳島ともに土佐を向いて形成されています。また実際に、生駒・蜂須賀連合軍が上佐を攻める軍事演習を行っていたことも紹介されています。このような「讃岐・阿波」の同盟関係が朝鮮半島侵攻の際にも発揮されたようです。

 朝鮮出兵した豊臣大名同士でも大きな軋蝶があったことはよく知られています。
それがその後の関ヶ原の戦いなどにどのような影響をもたらすのか、ひいては四国の大名配置にどう働いたのかという視点で見ておきます
 伊予の藤堂高虎と加藤嘉明は、同じ水軍に編成されていました。しかし、この両者は激しく対立し、軍事行動の分離・排斥がたびたびあったようです。そのため高虎は独断で、秀吉に注進しています。その際に蜂須賀家政は嘉明に同情的だったと伝えられます。
 朝鮮出兵では、関ヶ原合戦の要因ともなる事件も起きています。
石田三成の腹心・福原長尭が軍目付として派遣され、蜂須賀家政らの戦線縮小策を秀吉に報告し、家政らが罰せられます。後に家政は、福島正則・藤堂高虎・加藤清止・浅野幸長・細川忠興・黒田長政とともに石田三成襲撃を決行しています。朝鮮戦線に出兵した大名達の間には、大きな亀裂が生まれ豊臣政権は内部から分裂していたのです。その中で「四国衆」と呼ばれた大名たちの連携・対立が次代へと受け継がれていきます。

慶長五年(1600)9月15日、関ヶ原合戦における四国大名の動向を見ておきましょう。

5 四国の大名配置表 関ヶ原直前

徳川家康の東軍についていたのは
①阿波の蜂須賀至鎮
②讃岐の生駒一正
③伊予の加藤嘉明・藤堂高虎
石田三成の西軍についたのは
④讃岐の生駒親正
⑤伊子の安国寺恵瑣・小川祐忠・池田高祐・来島康親、
⑥土佐の長宗我部盛親

東軍勝利の結果、合戦後の論功行賞では、
⑦伊予が加藤嘉明・藤堂高虎に三分
⑧土佐一国に山内一豊
⑨讃岐の生駒氏は親子が両軍に分かれて戦ったが、一正の活躍が認められ、旧領を安堵された。
⑩蜂須賀家政は、領国家臣を豊臣秀頼に返却して高野山に隠遁
関ヶ原合戦を四国衆の視点で見ると、次のようになるようです。
①徳川秀忠軍の遅参のために、家康は旧豊臣大名中心の陣立てで勝利を得た
②そのため戦後の論功行賞では、旧豊臣大名に報いる必要があった
③結果として徳川政権成立期には、阿波・讃岐・伊予には秀吉子飼いの「外様」大名領が残った

そのような中で、長宗我部氏の居城であった土佐浦戸城の受け取りには井伊直政が派遣されますが、長宗我部軍の激しい抵抗を受けます。阿波・讃岐・伊予軍の動員によって,ようやく城が明け渡され、翌年正月に山内一豊が入城し、高知築城に着手するという不穏な情勢もあったようです。徳川の天下に決まったとは思わない人たちも数多くいたようです。

徳川の時代到来と四国衆
慶長八年(1603)2月、家康は征夷大将軍に任命され、江戸城・城ドの増改築を進めるなど二重公儀・東西分治体制を確立していきます。「四国衆」もこれに協力していく姿勢を取るようになります。山内一豊は、御前帳において9、8万石の拝領高を10、36万石に改正して提出します。応分の軍役を負担することをこのような形で申し出たのです。「四国の押さえ」としての自覚ともいえます。
 風見鶏と云われながらも外様大名として家康の信頼を得て、側近的地位を築いたのが藤常高虎です。
彼は伊予から伊勢・伊賀への転封後、家康の下で大坂を包囲する戦略を練り、それを具体化するための各地の城造りに携わります。高虎の旧領大津へ、洲本から高虎に近い脇坂安治が入ります。高虎は家康の意を汲んで、洲本城を大津に移し、板島城を改築して、大坂包囲網を完成させます。その後、伊達秀宗がこの地に入国し、宇和島と改称します。
大坂の陣へは、四国衆も出兵します。
戦後に、諸大名の中で最も高い評価を受けたのは、松平忠直・井伊直政・藤常高虎でした。四国衆では蜂須賀至鎮の評価が高かったようです。至鎮へは淡路一国7万石が加増さています。蜂須賀家では、この武功は後の世まで語り継がれることになります。
 大坂夏・冬の陣で豊臣家が減亡することによって、「二重公儀体制」は清算されました。しかし、秀吉時代に配置された旧豊臣大名が四国や西国を占るという問題は解消されませんでした。
            
 この状況が大きく変化するのは、三代将軍家光治世の寛永期になってからです。
この時期は、キリスト教禁止令・貿易制限令・ポルトガル船来航禁止令の発布、島原の乱平定など、幕府の「鎖国」(海禁)体制整備期でもあり、西日本は対外的・軍事的緊張が高まっている時でした。そのような西日本の軍事的緊張を背景に、瀬戸内海沿岸にも御家門が配置されていきます。それまで、瀬戸内の中国・四国筋に御家門はありませんでした。ただひとつだけ備後福山に「譜代」水野家があるだけです。そういう意味で、四国に御家門を置くということは徳川政権にとって家康以来の大きな課題でもあったようです。
寛永13年(1645)には、松山15万石、今治3三万石が久松松平家に与えらます。そして、この藩は正保4年(1647)のポルトガル船来航に際し、長崎警備を命じられています。
さらに生駒騒動の後、寛永19年には水戸徳川家の連枝として高松城に入った松平頼重もまた、徳川政権下で瀬戸内海掌握を期待されていました。将軍から「西国・中国の目附たらんことを欲す命」〔「英公実録」〕があったようです。幕府の意を汲んで、松平頼重は高松城の海側への拡張工事を行い、軍事機能を充実させています。頼重は、朝鮮出兵も経験した生駒家の船団をそのまま引継ぎ、さらに紀伊徳川家からは、軍船が武器を備えて贈呈されています。頼重はこの船に乗って、宮島参り称して安芸の宮島近くまで船団の「軍事訓練兼示威パレード」を何度も行っています。
高松城122スキャナー版sim

 つまり、生駒氏によって築城された高松城は秀吉の大阪城を守るためであり、瀬戸内海の制海権防衛の拠点、さらには豊臣家の外様である土佐長宗我部への備えという戦略的な意味がありました。しかし、松平高松藩の高松城は大坂防衛の水城であると同時に「西国・中国の目付」の役割を求められていたようです。それを体現したのが松平頼重による高松城の改修だったことになるようです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
川岡勤  豊臣政権における四国の大名配置
中世西国社会と伊予所収」    

     
西嶋八兵衛5
西嶋八兵衛(大正時代の絵はがき)
 
最初に 村治圓次郎の『西嶋八兵衛翁』で彼の略歴を見ておきましょう。

西嶋八兵衛伝1
西嶋八兵衛4


西嶋八兵衛年表1


慶長元年(1596)遠州(静岡県)浜松で生まれた(八兵衛自身の由緒書などの史料には記載なし)幼名は之尤(ゆきまさ)で、八兵衛は通称です。木端の名を持ち、晩年は拙翁とも号する文人でもありました。八兵衛の父は、西嶋九郎左衛門之光で、藤堂高虎に仕えていましたが、年老いたため浜松で隠居生活に入ったようです。
慶長17年(1612)、八兵衛が満16歳の時に、父は息子を高虎へ出仕させようと駿府(静岡市)に行き、家老藤堂古采女(采女元則)の斡旋で、父の跡を継ぐ形で高虎に仕え始めます。父子共に高虎の家臣となります。当時、家康は駿府を隠退の地として、江戸城から移っていました。藤堂高虎もそれに付き添うように、駿府に屋敷を設けていたようです。
生駒藩 藤堂高虎
藤堂高虎

八兵衛は、最初は高虎の右筆(近習役・記録役)として仕えたようです。
 関ヶ原の戦いや大坂の陣で高虎の傍らにあって、戦闘の記録を担当しています。達筆な筆跡の文書が伝わっています。
西嶋八兵衛文書2
西嶋八兵衛の若い頃の文書記録
同時に、高虎の身近に仕えて、次第にその信頼を得るようになっていったようです。
 主人の藤堂高虎は、秀吉の弟秀長に仕えていた頃から和歌山城・今治城を築き、次第に「築城の名人」と云われるようになり、家康の下では江戸城・丹波亀山城(京都府亀岡)・安濃津城(三重県津市)・伊賀上野城など数多くの城を築城しています。八兵衛もまた経験豊富な高虎の側に仕え、土木現場の実情や技術者集団に接する中で、築城や土木工事に関わる諸知識を身につけていったようです。
 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。
高虎は、この時に八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。

西嶋八兵衛 来讃理由


生駒親正

生駒親正
  まず生駒家と藤堂家には、強い絆が結ばれていたことです。
藤堂高虎は仕えていた秀長(秀吉の弟)が亡くなり、その甥で養子の豊臣秀保も文禄4年(1595年)早世すると、無能な主君に仕えることをせずに高野山で出家して隠遁生活を送っていました。その将才を惜しんで「復職」の説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名に「再就職」することができたのです。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。
  これ以外にも生駒家と藤堂家は秀吉の子飼い大名という出身ながら、関ヶ原の戦い前後の大政治変動を巧みに泳ぎ抜けた経歴などに似通ったところがあります。そして、両藩共に外様ながら家康からも一目置かれる雄藩だったのです。特に藤堂高虎は、秀吉の弟の秀長の家老に任ぜられていましたが、処世にはなかなかの練達者で、秀吉の死後はぴったりと家康に密着し、外様大名の中では最も家康の気に入られる存在になっていきます。この変わり身のうまさを「風見鶏」とも揶揄されたりもするようです。

生駒騒動 関係図1
 生駒・藤堂家の関係は、その後もいろいろな形で婚姻関係が結ばれるようになります。三代目正敏には高虎の養女が嫁いできます。正俊は、藤堂高虎の娘を夫人としていたのです。生駒藩四代目として生まれてきた高俊は、藤堂高虎から見れば「孫」に当たります。両家は親戚で、強いパートナーシップをもつようになります。
そのような中で生駒藩に危機が訪れます。
三代目正俊が元和7年に36歳で亡くなるのです。正俊には、たった一人の男の子・小法師(高俊)がいましたがやっと11歳でした。当時の幕府は家光の「外様取りつぶし策」の全盛時代でした。幼年の藩主の場合には、責任ある統治が出来ないとの理由で大幅に領土を削られた例もありました。
 そこまで至らなくても幼年藩主の場合は、監督のために幕府から毎年国目付をつかわすことになっていました。その際には、歓迎儀式やなどで格式張った気づかいが求められます。どちらにしても生駒藩としては避けたいところです。
 何らかの不利益な措置が幕府によってとられるのではないかという危惧が、生駒藩内に漂いました。そんな中で藤堂高虎は生駒藩のために一肌脱ぎます。自らが生駒藩の幼い藩主(孫)の「後見人」となって、支えることを幕府に申し出ます。家康の信頼の厚かった藤堂高虎の申し出に幕臣達も動けなかったようです。こうして藤堂藩の家臣達が「客臣」(レンタル家臣)として送り込まれることになります。

西嶋八兵衛

西嶋八兵衛
西嶋八兵衛年表2

高虎が家中から選んで、目付として讃岐につかわしたのが西嶋八兵衛です。
 
西嶋八兵衛の讃岐滞在

西嶋八兵衛は讃岐に4回派遣され、約20年間を過ごしたようです。
 一番最初に西嶋八兵衛が讃岐にやって来たのは、正俊から高俊への領主交替という事務引継ぎの実務担当者とでした。そこで、高虎の下で鍛えられた事務処理能力を遺憾なく発揮して、煩雑な事務を処理し、きちんと高虎に報告します。
 その後、後見人である藤堂高虎の目付的な客臣が高松藩に派遣されることになります。その際に、高松藩側からは、この時の手腕や人柄を高く評価して、西嶋八兵衛の再度の来讃を求めたといいます。高虎も西嶋八兵衛は、子飼いの側近で信頼も厚い人物だったので異論はありません。こうして西嶋八兵衛の二回目の来讃が実現します。
 この時の八兵衛の普請奉行としての二回目の来讃は、寛永二年(1625)のことです。
彼が30歳の時のことで、サラリーは500石で、三年間滞在となります。彼の屋敷は、城内には確保することが難しかったようで、当時の城下町最南端であった寺町のさらに南側に構えられました。今の四番丁小学校の西北角に当たります。幕末の「高松城下町屋敷割図」に、大本寺は「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」との注釈がつけられています。

生駒藩 西嶋八兵衛の元屋敷大本寺
大本寺には「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」と記されている
彼は日蓮宗の高僧、日省上人に帰依していたようで、屋敷跡に大本寺は建立されたと寺伝には記されています。四番丁小学校は、そのお寺の境内に明治に建てられます。ちなみに「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、西嶋八兵衛の屋敷が記されています。その位置は、中堀に面する一番西側で重臣層と肩を並べるロケーションです。この屋敷割図が作られた時点では西嶋八兵衛がVIP待遇であったことが分かります。少し回り道をします
「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのかが分かりませんでした。そんな中で、この西嶋八兵衛の屋敷から作られた年代が明らかにされました。その過程を見ておきましょう。西嶋八兵衛は寛永2(1625)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあったこと、その後に大本寺は建立されたことが,大本寺の寺伝にあることは前述しました。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では、寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作されたと研究者は考えています。

 八兵衛がやってきた寛永二年(1625)は、大変な年でした。

飢えに苦しむ人達 江戸時代

「寛永三年閏四月七日大雨あり爾後 雨なきこと九十五日、秋七月十五日に至る田毛皆枯死し民人飢餓に迫りて餓死する者多し」

ここには
「寛永3年(1626)4月、大風雨となり、その後、7月に至るまで雨がなく干ばつとなった。稲は枯死し、人々は飢餓に瀕した。」

とあります。年代順に並べると
寛永2年(1625) 秋に大地震 西嶋八兵衛が来讃
寛永3年 大暴風雨、次いで大干ばつ、三か月という長期日照りで作物全滅、餓死者発生
寛永4年 大地震、暴風雨による風水害、収穫皆無
寛永5年 満濃池再築に着手
と、自然の猛威が連続して襲いかかってきたことが分かります。稲が実らず、五穀も残らず、百姓らの困苦は一方でなく、他国に逃散する者も出てくる始末です。

凶荒図録 飢饉逃散
村を逃げ出す農民達

藩の存亡の危機でもありました。首席家老の生駒将監は、必死に対応に努めたようです。  このことを目付の西島八兵衛は、当然に高虎に報告します。それを受けて、高虎は家老の将監や生駒家の重臣らに、次のように指示します。

「今日第一の急務は、灌漑の便をよくし、百姓共を落ちつかせることである。ついては、目付として遣わしている西島八兵衛は、当地にいる頃郡奉行をつとめ、それらのことに巧者の者である故、家老らよく西島と心を合わせて事を運ぶよう」

 生駒家の重臣らは、この指示書を見せて西嶋八兵衛に頼みこんだのではないでしょうか。高虎からの指示でもあり、生駒家の重臣らの頼みもあります。また、目の前の百姓らの困窮を視ているし、やれるという自信もあったのでしょう。西嶋八兵衛は、

 「かしこまった。やってみましょう」

 と答えたのでしょう。そして、讃岐国内を巡って現地を見た上で、各地のため池と用水路の築造計画を立てます。
寛永3年(1626)4月地震・干ばつで生駒藩存続の危機的状況
寛永4年(1627年)西嶋八兵衛が生駒藩奉行に就任
1628年 山大寺池(三木町)築造、三谷池(三郎池、高松市)を改修。
1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修。藤堂高虎死亡し、息子高次が後見人へ
1631年、満濃池の再築完了。
1635年、神内池を築く。
1637年、香東川の付替工事、流路跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭。高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾。
1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成。生駒騒動の藩内抗争の中で伊勢国に帰郷。
なぜ短期間に、集中してこれだけの工事が行われたのでしょうか?
それは生駒藩が「自然災害による藩存亡の危機」という状況にあったからだと私は思っています。何もしないで座していたのでは、未来に希望を持てない百姓達は讃岐から「逃散」しています。その流れを食い止めるためにも、後見人の藤堂高虎が西嶋八兵衛にやらせろと命じてきたのです。危機の中で、未來に希望の持てる大土木工事を行うというのは、有能な政治家がとる方策です。その危機管理責任者に藤堂藩からレンタル派遣されていた西嶋八兵衛が就いたのです。そして、彼を危機感で団結した家臣団や百姓が担いだのだと私は思います。
 こうして、三谷三郎池(現高松市内)の嵩上げも行われ、続いて寛永5年には源平合戦の中で決壊放置されていた満濃池の修築にかかります。満濃池は400年以上、姿を消し、池の中は再開発され「池内村」が形成されていたのです。この再築については、以前触れましたので、ここでは省略します。 
 満濃池築造のはじまった寛永4年に高俊は15歳になります。

生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
藤堂高虎の子の高次が烏帽子親となって元服させ、一字を与ええて高俊と名乗らせます。そして、高虎は生駒家に対する幕府の覚えをよくするために、高俊と老中首席の土井利勝の女との婚約をとりもちます。後見人としての高虎の生駒家にたいする心づかいは、細やかです。
  若き藩主と幕府老中の娘との結婚が執り行われた年には各地で進めたため池が完成します。
水源確保や暴れ川のルート変更などによって新田開発は一挙に進みます。この新田開発を推進したのが、生駒家に再雇用された讃岐侍たちであったことは前回お話ししました。開発した土地が知行地として認められたために、土着勢力は争って新田開発を行います。それが出来ない他国侍からの不満が生駒騒動の要因になっていくのです。どちらにしても、この時点では生駒藩では太閤検地後の知行制から俸給制への切り替えがきちんと行われていなかったようです。武士達にはサラリーでなく知行地が与えられていることを示す史料が残っています。

西嶋八兵衛の進める灌漑・治水工事について、批判的な藩士もいたようです。
 「百姓は飢え疲れている七、無用な工事をおこして、民を虐げる」
 「農事の水利のことのみを目的としている故、国の要害はまるで失われてしまう」
1630年に藤堂高虎が江戸で亡くなります。
その前に西嶋八兵衛は、江戸に出向いて讃岐の状況を報告する一方、帰国願いを再度願いでたようです。高虎の後を継いだ高次は、このあたりのことを承知していたようです。しかし、生駒藩で重要ポストを占めるようになった西嶋八兵衛は、後見人である目付としては最適で、これに代わる人物はいません。
「八兵衛は帰りたがっているが、生駒家の様子を見ると、当分は西島がいて目を光らせていたほうがよさそうである」

と高次は考えたのではないでしょうか。ちなみに西嶋八兵衛が伊賀に帰ることが聞き届けられるのは、生駒騒動の勃発直前のことでした。「沈みゆく生駒丸」からの脱出だったのかもしれません.
  高次は八兵衛に対して、改めて「讃岐国の用向き」を申しつけて、生駒藩に帰します。
これが西嶋八兵衛の3度目に来讃となります。その際に、生駒藩は五百石を加増し、併せて千石待遇としています。こうして、西島は五百石の加増を受けて、藤堂家からの目付として讃岐駐在をつづけることになります。覚悟を決めた西嶋八兵衛は、いよいよ満濃池再築に向けて動き出すのです。
 西嶋八兵衛のから目から見た当時の生駒藩の政策課題は何だったのか?
それはやはり「知行制からサラリー制へ」の移行、讃岐侍や有力農民による自由な開発に規制をかけること。つまりは家臣団と土地を切り離させること、藤堂藩の事例からそれが藩主権力の強化につながることを熟知していたはずです。そういう目で、生駒藩を見た場合に「危うい藩」と見えたはずです。ため池や治水は完成し、新田開発は行われて石高は増えていますが、それが領主の懐には入ってこないシステムが温存されているのです。これは時代に逆行した制度だったのです。それが保守派の動きで進まない生駒藩は「危うい」と思っていたはずです。

讃岐を去って伊賀に帰った後の西嶋八兵衛は?

西嶋八兵衛 伊賀市

 生駒騒動が始まる前に伊賀に帰ってきた八兵衛は、正保2年頃までの5年間ほどを妻子とともに津の妻の実家である藤堂仁右衛門高経(義兄)の下屋敷で過ごしていたとされています。
 この間に、生駒藩は取りつぶしとなり、松平藩への引渡し作業が行われます。その際に、高松城や讃岐のことを熟知する人物として彼に白羽の矢が当たり、上使案内役として讃岐入りします。これが4度目の来讃となります。この時に高松城や城下町、あるいは自分の屋敷跡をどのような思いで見つめたのでしょうか。心血を注いで立て直した生駒藩がなくなったことへの思いは、いかばかりであったことでしょうか。中国の文人達ならその思いを漢詩に託して詠んだことでしょう。しかし、西嶋八兵衛が四度目の来讃で残した俳句は伝わっていません。

正保2年(1645)、八兵衛は、藩主藤堂高次のもと1000石の江戸家老加判役となります。
この頃、藤堂藩支配地の伊賀や伊勢でも大干ばつに襲われ、被害も甚大になって農村の疲弊が著しくなります。高虎の跡を継いだ2代目藩主高次は、農村部の復興を目指し、正保3年(1646)に江戸より帰国します。八兵衛も共に帰国し、伊賀でための新設29池、修理14池を行ったと伝えられます。さらに、翌年からは新田開発を始めます。

西嶋八兵衛年表4
西嶋八兵衛年表 伊勢帰国後

 その業績を受けて、慶安元年(1648)、52歳で、城和加判奉行に任ぜられました。
これは大和・山城に広がる藤堂藩領約5万石の支配地を預かる奉行職です。一時、伊賀奉行も拝命したようですが、52歳の慶安元年(1648)から81歳の延宝5年(1677)の引退まで約29年間、城和奉行として執務します。引退して3年経った延宝8年(1680)3月20日、亡くなります。享年85歳。
西嶋八兵衛の墓2

西嶋八兵衛の墓
西嶋八兵衛の墓(正崇寺)
 ここからは若い時代に藤堂高虎のもとで学んだ築城術を、讃岐の地でため池の築造に活かし、その経験を晩年には、故郷の伊賀の地に還元した姿が見えてきます。
西嶋八兵衛は文人でもあり、俳句や書にも秀でて流麗な筆致を残しています。
 彼の墓は伊賀上野市紺屋町の正崇寺にありますが、脇に正五位の贈位の碑が建っています。大正四年になって香川県の上申で叙位されたようです。ちなみに八兵衛を祭った神社は香川県にはありません。彼が神となって敬われることはなかったようです。ただ、津市高茶屋の水分神社だけです。彼のことが後の讃岐では忘れられた存在となっていたことが分かります。自分の親分の政治家の銅像を建てようとするのは近代に流行になりますが「讃岐の大恩人・西嶋八兵衛」の銅像が讃岐に建てられることはなかったようです。
 満濃池を作ったのは空海と云われますが、これは「空海伝説」です。史料的に、それを裏付けるものは現在の所ありません。研究者は「空海が造ったと云われる満濃池」という言い方をします。その意味では、現在の満濃池の直接の築造者は、西嶋八兵衛に求められると云っても過言ではないように思います。しかし「空海築造」は云われても、西嶋八兵衛による再築を語る人は少ないようです。 「そんなものだよ歴史は・・・」と八兵衛は、つぶやいているかもしれません。

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