「長宗我部元親の四国平定の際の軍事戦略について、野本亮氏は次のように記します。
急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」
今回は、上の視点から長宗我部元親の讃岐侵攻を見ていくことにします。
伊予・讃岐・阿波への要となる白地城を大西覚用から手に入れた長宗我部元親は、ここを拠点にして四国平定戦を進めていきます。その手足となって働くのが、大西覚用の弟ともされる大西上野介です。彼によって、周辺国衆への調略工作が行われたようです。そのひとつが阿讃山脈の向こうの藤目城(豊田郡紀伊郷)の斎藤下総守師郷です。1577(天正5)年、斉藤師郷の縁者である大西上野介を通じて師郷を説き、師郷はその孫を人質に出して、元親に従うことになります。元親は、家臣の浜田善右衛門を斉藤師郷に添えて、共に藤目城を守らせます。


以下について、南海通記に基づいて「満濃町誌200P」は次のように記します。
これに対して三好家の総帥となっていた①十河存保は、天霧城主香川信景と聖通寺城主奈良太郎兵衛に命じて、藤目城を奪還させようとした。香川信景は、この命に従わなかったが、②奈良太郎兵衛は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔など那珂・鵜足・阿野の兵3000を率い、藤目城を攻めてこれを奪還した。奈良太郎兵衛は、新目弾正を城主として城を防衛させた。③元親は、今度の藤目城攻撃に香川信景が加わらなかったのを見て、時機至れりと考えて財田城に進出した。財田城は、藤田城の東南の三野郡大野郷財田にあって、阿波の自地に最も近い讃岐の要衝である。財田城主財田和泉守は、香川信景の救援を求めたが得られず、土佐軍に囲まれて奮戦した。④200余名の部下を激励し、死戦を試みて生を得ようと、囲みの一角を破って打って出たが果たさず、部下と共に討死した。
財田城が占領されたので、藤目城の運命も定まった。城主となっていた。⑤新目弾正は歴戦の勇士で、土佐軍700人を討ち取ってなお奮戦を続け、500に足りない城兵は、最後まで戦って城主以下全員討死した。藤目城は土佐軍によって確保され、元親は、斉藤下総守を入れて城を守らせた。
①については、天霧城香川信景が三好氏の従属化にあったという認識を南海通記の作者は持っていたことが分かります。しかし、香川氏は「反三好」を貫き、天霧城陥落後は備中に亡命し、毛利氏の傭兵として活動していました。それが毛利氏の支援で帰国できたのです。香川氏は反三好の急先鋒で、三好氏の配下になったことはありません。三好氏が香川氏に出陣命令が下せる体制ではなかったことを押さえておきます。
藤目城(大野原粟井)
②には「奈良太郎兵衛は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔など那珂・鵜足・阿野の兵3000を率い、藤目城を攻めてこれを奪還」とあります。
聖通寺山城の奈良氏に関しては「謎の武将」で、管領細川氏の「讃岐の四天王」のひとりとして、名前だけが一人歩きしています。史料を見る限り、讃岐では存在感がありません。一部の史料では、「奈良氏=長尾氏」としているものもあることは以前にお話ししました。どちらにしても、戦国末期のこの時点で、奈良氏が那珂・鵜足・阿野の兵3000を率いることはできなかったと研究者は考えています。さらに、その配下に長尾氏や羽床氏が加わることは、当時の軍事編成としては考えられません。例えば奈良氏の配下に入って従軍して、恩賞はどうなるのかという問題が発生ます。出陣を命じるというのは「恩賞」とセットなのです。恩賞付与権が奈良氏にはありません。この体制では、羽床・長尾氏は従軍しないはずです。「郷土防衛戦」という意識は、当時の武将達にはありません。さらに、西庄城の「香川民部少輔」というの武将は、南海通記だけに頻発して登場する人物で実在性が疑われていることは以前にお話ししました。
前年に戦われた毛利氏との元吉合戦に従軍している讃岐国衆のメンバーを見ると「元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口」とあます。ここにも香川氏の名前はありません。そして讃岐国衆を率いているのは、三好安芸守です。備中遠征の時には篠原長房が率いています。ここでは配下に置いた讃岐国衆を率いるのは、三好氏であったことを押さえておきます。以上から「奈良氏が国衆を率いて、藤目城を奪取」というのは、そのままは受けいれられない記述と研究者は考えています。
財田本篠城
③には「元親は藤目城攻撃に香川信景が加わらなかったのを見て、時機至れりと考えて財田(本篠)城に進出」とあります。香川氏が「反三好」であることは、長宗我部元親は以前から知っていました。「兵力温存=調略優先」を基本戦略とする長宗我部元親は、早くから香川信景の調略に動いていたはずです。ちなみに近年の秋山文書等の分析から香川氏については「天霧城陥落 → 香川氏の10年あまりの亡命 → 元吉合戦を契機に毛利氏の支援を受けて帰国」説が受けいれられるようになっています。帰国してすぐの香川氏にとっては、支配基盤も戦闘態勢も整っていません。土佐軍と戦うという選択肢はなかったと思われます。そのことを見抜いた元親は、早くから香川氏への調略活動をおこなっていたと私は考えています。だから、土佐軍の侵入に対して香川氏は動かなかったのです。
④⑤については、「新目弾正は歴戦の勇士で、土佐軍700人を討ち取ってなお奮戦を続け、500に足りない城兵は、最後まで戦って城主以下全員討死した」とあります。
ここには讃岐武将の奮戦ぶりが軍記ものらしく描かれます。しかし、何度も言いますが長宗我部元親の基本戦略は「兵力温存=調略優先」です。山里の小さな城に、700人の犠牲者を出す戦法をとることは考えられません。長期戦になっても「兵力温存」が第一なのです。これは、以後の讃岐での攻城戦を見ても分かりますが、徹底的な抗戦を行ったのは十河城だけです。あとは、調略で戦う前に降伏させています。南海通記には「戦った・抵抗した」とあるのも、そのまま信じることはできません。
ここには讃岐武将の奮戦ぶりが軍記ものらしく描かれます。しかし、何度も言いますが長宗我部元親の基本戦略は「兵力温存=調略優先」です。山里の小さな城に、700人の犠牲者を出す戦法をとることは考えられません。長期戦になっても「兵力温存」が第一なのです。これは、以後の讃岐での攻城戦を見ても分かりますが、徹底的な抗戦を行ったのは十河城だけです。あとは、調略で戦う前に降伏させています。南海通記には「戦った・抵抗した」とあるのも、そのまま信じることはできません。

天霧城
天霧城の香川信景の降伏について、満濃町誌(201P)には次のように記します。
元親は、西讃に進入するのに先だって、大西上野介(大西覚用の弟?)と謀り、土佐国分寺の西の坊を使僧として、香川信景の舎弟で観音寺景全の家老香川備前守を説き、香川氏が長宗我部氏に味方することを求めた。信景は、織田信長に通じてその一字を承けて信景と称していたのであるが、長宗我部軍の進撃が領内に迫ったので、ついに長宗我部氏に通じ、藤目城にも出陣せず、財田の救援にも兵を動かさなかった天正七年春、信景は岡豊城に元親を訪い、元親への服属を誓った。元親は信景を厚く馳走して、五日間にわたって歓待した。その年の冬、元親の次男親和が、香川信景の娘の婿として香川家に迎えられた。かくして元親は、藤目・財田・天霧の諸城を制して、中讃への進入の時機を待った´
ここには、観音寺景全の家老香川備前守を通じて、香川信景を味方に引き入れたとあります。そして、長宗我部元親は次男の親和を養子に入れて、香川家の跡継ぎとします。こうして香川信景は、元親の同盟軍として讃岐平定に加わります。ちなみに、香川氏の影響力のあったエリアでは、寺社は焼き討ちされていません。そのために観音寺や国宝の本山寺本堂も残っています。すべての寺社を焼き払ったというのは、後世の軍記ものの「長宗我部元親=悪者」説に由来することは以前にお話ししました。
長宗我部元親の基本戦略をもういちど振り返っておきます。
阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」
1579(天正七)年4月、元親は1、3万の兵を率いて丸亀平野に侵入します。
土佐軍の本隊は、白地から曼陀・六地蔵を越えて藤目城に集結し、香川信景の家老三野菊右衛門の兵800余を先導として出陣します。元親に服属した東予の金子・妻収・石川などの連合軍3500は、自ら求めて先陣を勤め、競い立って丸亀平野の南部に進入してきます。
土佐軍の本隊は、白地から曼陀・六地蔵を越えて藤目城に集結し、香川信景の家老三野菊右衛門の兵800余を先導として出陣します。元親に服属した東予の金子・妻収・石川などの連合軍3500は、自ら求めて先陣を勤め、競い立って丸亀平野の南部に進入してきます。
待ち受ける羽床伊豆守は、一族郎党合わせても1000人の動員力しかありません。これに長尾大隅守の兵力を加えても、その数は土佐軍の約1/5に過ぎません。なお、長尾氏は羽床氏に従軍する立場であったと記します。
この時の戦いの様子を、後世の軍記ものに基づいて書かれた満濃町誌(203P)には次のように記します。
4月28日、土佐軍の先鋒となった①東予軍は、櫛梨山の南方から高篠一帯にかけて布陣した。②羽床方が寵城して戦うものと思い込み、何の備えることもなく夜を迎えた。③羽床軍は闇に紛れて敵に接近し一斉に鉄砲を打ちかけ、突撃して東予軍を打ち破った。東予軍は退勢を立て直し、29日の早朝から激戦を続けて昼に及んだ。昼過ぎ元親の本隊が戦線に加わり、羽床伊豆守はこの本隊と戦ったが破れ、土器川を渡って退却した。土佐軍は、羽床軍を追って一気に城を落とそうとして、土器川器川の西岸に達したが、対岸の安造田・中津山一帯に有力な部隊が陣を張っているのを見て、あえて攻撃しなかった。④羽床方の留守部隊であった老人や子供が後詰めとして出陣し、擬陣を交じえて陣を張っていたのである。
⑤西長尾城の長尾大隅守は、土佐軍が攻め寄せて来るのを見て、城を出て土器川を渡り対岸でこれを迎え撃った。戦いは混戦となり、長尾方の部将で炭所西村の国侍であった片岡九郎兵衛が、土佐方の勇将大山孫九郎を討ち取った。土佐軍は兵を返して櫛梨山付近に集結した。その夜、長尾大隅守は、土佐軍の陣営に夜討ちをかけたが、敵陣の警成が厳しく充分な戦果を挙げることができなかった。
⑥長尾方の部将片岡九郎兵衛は、聞の中の戦いで湿田に馬を乗り入れ、流弾を受けて討死した 今も大歳神社の北東の本田の中に、片岡伊賀守の墓が残っている。仲南町の今田家に伝わる「今田家系図」に、今田景吉と今田掃門丞が西長尾城の落城の時に討死したと記されているのも、この日の戦いのことであろうと思われる
①②③からは、先陣をつとめる東予軍は櫛梨山の南方に無防備に布陣し、それに羽床軍は夜襲をかけたと記します。しかし、ルート案内から布陣までを手引きしているのは、同盟軍の香川氏なのです。入念な調査を行った上で布陣させているはずです。また、櫛梨山は前々年に元吉合戦が戦われたところで、毛利軍によって要害化されていました。毛利氏の讃岐撤退の後は無傷で残っていたようです。ここには5000の兵を収容する能力も防備力もありました。香川氏は迷うことなく、櫛梨城(元吉城)に毛利軍を導いたと私は考えています。そうだとすれば、羽床氏による夜襲は考えられません。
④については、太平記の楠木正成の軍略に出てくるような子供だましの記述です。こういうことが書かれること事態が、虚構であったことがうかがえます。
⑤には「西長尾城の長尾大隅守は、土佐軍が攻め寄せて来るのを見て、城を出て土器川を渡り対岸でこれを迎え撃った」とあります。しかし、先ほども見たように「長宗我部軍13000VS 羽床・長尾軍2000」で、圧倒的な兵力差があります。これに対して、城を出て突撃するのは無謀な戦いです。戦国時代の武将達は、このような戦いはしません。負けると分かっている戦いに対しては、逃げるか、降参するかです。ここにも南海通記の作者である香西成資の軍学者として「美学」が紛れ込まされている気配を感じます。
私は羽床氏も、長尾氏も戦っていないと思っています。理由はいくつかありますが、ここでひとつだけ挙げておくと、一度刀を抜き合って血を流し合った一族は、相手を許すことはありません。「敵討ち」は武将の誉れでもありました。自分の一族を殺した武将たちを仲間内に迎えることはできません。降伏するのなら血が流れる以前に、軍門に降る必要があります。一度血が流れた後で降伏しても、配下に加えられることはありません。そのときは命を取られず落ちのびていくことを許されるのみです。つまり籠城はあっても、羽床氏も長尾氏も、城を討って出て戦うことはなかった、最初から籠城で挑んだと私は考えています。
私は羽床氏も、長尾氏も戦っていないと思っています。理由はいくつかありますが、ここでひとつだけ挙げておくと、一度刀を抜き合って血を流し合った一族は、相手を許すことはありません。「敵討ち」は武将の誉れでもありました。自分の一族を殺した武将たちを仲間内に迎えることはできません。降伏するのなら血が流れる以前に、軍門に降る必要があります。一度血が流れた後で降伏しても、配下に加えられることはありません。そのときは命を取られず落ちのびていくことを許されるのみです。つまり籠城はあっても、羽床氏も長尾氏も、城を討って出て戦うことはなかった、最初から籠城で挑んだと私は考えています。
羽床城(綾川町羽床)
南海通記には、その後の羽床氏と長尾氏の取った選択を次のように記します。⑦長尾大隅守と羽床伊豆守は、それぞれの城に籠って戦おうとした。土佐軍は、那珂地方の南部の麦畑を「一畝隔てに薙ぎ払って」、夏以後の軍糧を脅かすと共に、農民に恩情を示して民心を得ようとした。
籠城した羽床城を長宗我部勢が包囲したことについては、次の史料が裏付けます。
この史料は、長宗我部元親が羽柴秀吉に宛てた全八カ条からなる書状(写)です。
【史料⑥】「東京大学史料編纂所架蔵「古田文書」(括弧内は条数を示す)
雖度々令啓達候、向後之儀猶以可得御内証、態以使者申人候、(中略)一(3)先度従在陣中如令注進候、讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、一 名東郡一宮之城を取巻候之条、十河・羽床搦手にハ対陣付置、一宮為後巻至阿州馳向候処、此方備まちうけす敵即敗北候、追而可及一戦処、阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計、先謀叛之輩共、或者令誅伐、或令追討、勝瑞一所に責縮、方角要々害・番手等堅固中付、(後略)長宗我部宮内少輔 元親(天正八年)霜月廿四日柴筑前守(秀吉)殿人々御中
意訳変換しておくと
度々の報告でありますが、今後のこともありますの使者を立て以下のことを連絡いたします。(中略)一 先日、注進したように、(A)讃州の十河・羽床両城を包囲中です。さて、石山本願寺を退城した牢人たちが紀州・淡路の者どもと共に、海を渡ってきて、阿波の勝瑞へ籠城しました。一 さらに名東郡一宮城を取り囲む勢いです。我々は十河・羽床城攻撃のために出陣中でしたが、阿波に転進して一宮を取り巻く勢力を敗走させました。それを追ってなお一戦しました。阿州南方には新開道善など雑賀に与するものがいて、なかなか手強い相手でしたが、これを誅伐・追討することができました。そして残る勝瑞に迫りました。
(A)からは、天正8年11月24日には、長宗我部勢が二手に分かれて、讃岐の十河・羽床両城を攻囲中だったことが分かります。包囲中に、大阪石山本願寺を退城した紀州雑賀衆や淡路の門徒が三好氏の勝瑞城に集結したために、それを討つために羽床城の包囲を解いて、阿波に転戦したと記します。
南海通記は、羽床氏と長尾氏の降伏を次のように記します。
南海通記は、羽床氏と長尾氏の降伏を次のように記します。
⑧元親は、香川信景を通じて羽床氏に降伏を勧めた。羽床伊豆守は、情勢を判断して、実子係四郎を入質として降伏した。長尾大隅守も、信景の扱いで元親に降伏した。
この後に、羽床氏と長尾氏は長宗我部元親の先陣として活動しています。ここからは城は取り囲まれたが、刃を交えることはなかったことがうかがえます。
元吉城 丸亀平野の南部
それでは、櫛梨山の南方では戦いは何もなかったのでしょうか?
実は、「櫛梨山城=元吉城」で、前々年に元吉合戦が行われた所なのです。小早川隆景に元古合戦の詳細を報告した連署状を見ておきましょう。
急いで注進致します。一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。①攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた我々警固衆は山を下り、(金蔵)川を渡り、一気に敵に襲いかかりました。②敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
元吉城
ここからは、元吉城(櫛梨城)を攻めた讃岐国衆が大敗し、多くの戦死者がでたことが記されています。戦いの後に櫛梨城の南側の地帯には、多くの供養塔や塚が建立されたことが考えられます。そのひとつがの「長尾方の部将片岡九郎兵衛」の慰霊碑でないかと私は考えています。つまり、元吉合戦の際の戦死者が、長宗我部元親と長尾氏の戦いの時のものと、後世の歴史書では混同したという説になります。
元吉合戦の毛利方の戦略的な目的は次の2点でした。
① 大坂石山戦争の石山本願寺への戦略物資の運び込みのために備讃瀬戸南航路を確保する② 備中に亡命していた香川氏を讃岐に返し、毛利氏の西讃支配の拠点とする
このため毛利氏には、丸亀平野に対する領土的な野心はなかったようで、元吉合戦の後は三好氏と和平工作がトントン拍子で進められます。
元吉合戦後の11月20日付の小早川隆景の書簡には、和睦条件が次のように記されています。
史料「厳島野坂文書」追而申入候、讃州表之儀、長尾・羽床人質堅固収置、阿州衆と参会、悉隙明候、於迂今阿・讃平均二成行、自他以大慶無申計候、(中略)(天正五年)十一月二十日 (小早川)隆景(花押)棚守方近衛将監殿同左近大夫殿御宿所
この史料からは次の情報が読み取れます。
①11月20日以前に毛利氏と三好氏の和睦が成立したこと②その条件として、讃岐惣国衆の長尾氏・羽床氏から毛利方に人質が差し出されたこと③この和睦によって毛利氏は、阿波・讃岐を平定したとの認識があったこと
私が分からないのは、元吉城を攻めた讃岐惣国衆は「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守」でした。ところが和睦交渉で人質を差し出したのは長尾氏と羽床氏しか記されていません。香西氏や奈良氏の名前がないのはどうしてなのでしょうか。どちらにしても羽床氏と長尾氏が人質を出しているのは、元吉合戦後の毛利氏に対してです。
元吉合戦のことは、南海通記にはでてきません。それは西庄城の香川氏と混同されて書かれていることは以前にお話ししました。つまりは、南海通記が書かれた頃には、元吉合戦のことは忘れ去られていたのです。そのため元吉合戦の時の慰霊碑や墓碑が長宗我部元親の侵攻時のものと混同されるようになってきたとしておきます。
以上をまとめておきます。
①長宗我部元親の四国平定戦の基本戦略は「兵力温存=調略優先」で、味方についた適地の有力者の協力を得て平定と支配を進めた
②讃岐侵攻でも香川氏を凋落し、「同盟関係」を結ぶことで兵力や戦略物資の調達をスムーズに進めた。
③征服軍としての土佐軍の前には、同盟軍としての香川氏がつねに存在したことを念頭におく必要がある。
④南海通記に書かれていることは、疑ってみる必要がある。
⑤南海通記には、元吉合戦のことは忘れ去られていたようで何も出てこない。
⑥元吉合戦と長宗我部軍と羽床・長尾軍が交戦したという櫛梨山南方の戦場は一致する。
⑦後世の軍記ものは、これを混同して記述している。
⑧羽床・長尾氏は、毛利氏とは元吉合戦でったかっているが、長宗我部元親に対しては戦うことなく軍門に降った可能性が高い。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 長宗我部元親の讃岐進出 満濃町誌200P
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以上をまとめておきます。
①長宗我部元親の四国平定戦の基本戦略は「兵力温存=調略優先」で、味方についた適地の有力者の協力を得て平定と支配を進めた
②讃岐侵攻でも香川氏を凋落し、「同盟関係」を結ぶことで兵力や戦略物資の調達をスムーズに進めた。
③征服軍としての土佐軍の前には、同盟軍としての香川氏がつねに存在したことを念頭におく必要がある。
④南海通記に書かれていることは、疑ってみる必要がある。
⑤南海通記には、元吉合戦のことは忘れ去られていたようで何も出てこない。
⑥元吉合戦と長宗我部軍と羽床・長尾軍が交戦したという櫛梨山南方の戦場は一致する。
⑦後世の軍記ものは、これを混同して記述している。
⑧羽床・長尾氏は、毛利氏とは元吉合戦でったかっているが、長宗我部元親に対しては戦うことなく軍門に降った可能性が高い。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 長宗我部元親の讃岐進出 満濃町誌200P
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