瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:虚空蔵信仰

仏像の種類:虚空蔵菩薩とは】知恵の四次元ポケット!空海の生みの親、虚空蔵菩薩の梵字真言など|仏像リンク
若き日の空海が大学をドロップアウトして、信仰の道へと入っていくきっかけは「虚空蔵求聞持法」の修得にあったとされます。それはドロップアウト後の空海の行動からも分かります。空海は、四国の大瀧山や室戸で「虚空蔵求聞持法」の修得修行を開始するのです。この時の空海には、まだ密教の全体像が見えてはいません。その入口に立ったばかりなのです。そこに至るまでの導き手になったのが秦氏出身の僧侶です。虚空蔵求聞持法の伝来に秦氏が深く関わってきたことについては、以前にお話ししました。今回は虚空蔵菩薩信仰を「鉱山開発」の視点から見ていこうと思います。テキストは大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363Pです。

「虚空蔵」と名前のつく山と鉱山の関係を一覧したものを見ておきましょう。
虚空蔵尊(徳島県阿南市大竜寺山)水銀鉱.
虚空蔵尊(徳島県名西郡神山町下分焼山寺)含銅黄鉄鉱.
虚空蔵尊(高知県室戸市最御崎寺)金鉱.
虚空蔵山(高知県高岡郡佐川町斗賀野)鉢ケ嶺。マンガン鉱。
虚空蔵山(岡山県浅目郡里庄)銅山がある。
虚空蔵山(佐賀県藤津郡嬉野丹生川)水銀、銀を産する波佐見鉱山がある。
虚空蔵酋獄(鹿児島県串木野市)一斤ケ野金山(黄金、黄鉄鉱、輝銀鉱)
虚空蔵尊(岐阜県大垣市赤坂 金星山明星輪寺)金、銀、銅、水銀。
虚空蔵尊(三重県伊勢市朝熊山 金剛証寺)カンラン石、 ハンレイ岩で、鋼、クロームコバルト、鉄、ニツケルをふくむ山.
虚空蔵尊(岐阜県武儀郡高賀山)銅山ら
虚空蔵山(新潟県北蒲原郡安田町)鉄鉱ヽ砂鉄
虚空蔵尊(福島県河沼郡柳津村円蔵寺)銀山川があり、銅山
虚空蔵山(宮城県伊共郡丸森町大帳)山麓に金山部落
虚空蔵山(山形県米沢市)十日野鉱山
虚空蔵寺(岩手県気仙郡店丹・五葉山)平泉の藤原氏時代、伊達氏時代の最高の金の産地で、平泉の金色堂の黄金は、みなここの産金によるという.
虚空蔵尊(青森県岩木山百沢村)鉄鉱.
虚空蔵宮(金井神社 栃木県下都賀郡金井町)「この楽落を小金井郷といふ。この地名小金の湧き出づる井戸に通ずる語源なり」

  ここからは、虚空蔵山と名のつく山の近くには、鉱山があったことが分かります。
 谷有二氏は、「虚空蔵」と鉱山の例を次のように紹介しています。
「埼玉県秩父黒谷の金山遺跡からも、室町時代とおぼしき一寸人分の銅製虚空蔵書薩が掘り出されて」
「和銅山に、往時のものと推定出来る露天掘り跡が、二本の溝のような形で山麓の和銅沢に向かって急谷に落ち込んでいる。和銅山の東側一帯は金山と呼ばれ、選鉱場、精錬所跡からは銅滓、火皿の大きい朝鮮式煙管(キセル)とともに虚空蔵蔵が掘り出された。現在、附近には五ヵ所八本の坑道が明確に残っているが、全部ノミによる掘進坑で、三〇〇~五〇〇年前のものとみられる。江戸時代はもちろん近くは明治38年まで掘り続けるれた」

「上州武尊山麓薄根川沿いで鉄を採つた金山の一峰を虚空蔵山とする。その虚空蔵菩薩縁起では、平安時代の天長一四年に空海が同地で修行したことに始まるとあるが、この『縁起』そのものは戦国時代の永禄11年に書かれたものなので、歴史は相当古いことがわかる」

「東北の例として、「山形県出羽三山の北に1090mの虚空蔵岳がある。山麓を昔から砂金採掘で知られた立谷沢がぐるりと半周するだけでなく、今も山腹には大中島、東山など金銀銅を出す鉱山が働いて、一ッ目伝承もからむ」

「山形県上山市の西2㎞も355mの虚空蔵山がある」が、上山市の南側の「蔵王連峰山形側は金属地帯で(中略)鉱山が目白押しにならぶ」

「宮城県の栗原町と花山村との境にある1404mの虚空蔵山は、それこそ鉱物の真上に乗つたような感覚だ。福島県の蔵の町として知られる喜多方周辺も、鉱物に恵まれていて、ここにも虚空蔵森(304m)」があり、「六世紀のタタラ遺跡が発見された新潟県笹神付にも虚空蔵山があり砂鉄の存在を示している。岐阜県の名山として有名な高賀三山の一峰瓢岳にも虚空蔵尊が祭られているが、これは山麓の銅山と関連がある」

以上からは、虚空蔵信仰の山は鉱山であったようです。別の見方をすると、鉱山がある山が「虚空蔵菩山」と呼ばれるようになったということかもしれません。それには、どんなプロセスがあったのでしょうか?
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 唵のブログ
佐野賢治は「虚空蔵菩薩信仰の研究」で、虚空蔵信仰と鉱山の関係を次のように指摘します。     
「山形県南陽市の吉野鉱山などは『白鷹の虚空蔵さま』の南麓流域にあり、虚空蔵信仰と鉱山の関係を物語る」
「白鷹山北麓の山辺町作谷沢の諏訪神社本殿内には「一つ目小僧」の絵像か描かれ、この地区に炭焼藤太、小野小町伝説、鉱物・鉱山関係の地名や鉄津・鉄製懸仏が残ることからも、古代における産鉄の地であったことは確かであり、虚空蔵信仰関係では作谷沢の館野には虚空蔵山 、西黒森山の麓には『虚空蔵風穴』があり、地中から冷風が吹き出している。また、桜地蔵と呼ばれる岩には虚空蔵菩薩と考えられる磨崖仏が彫られている。このように「白鷹虚空蔵さま」山麓は鉱山地帯であり、その伝承を現在まで濃厚に伝えている鉱山に関係する伝承の豊富な地区である」

そして次のように指摘します
「全国の虚空蔵関係寺院、虚空蔵菩薩像の分析から虚空蔵信仰を主に荷担したのは当山派修験」
虚空蔵菩薩信仰の研究―日本的仏教受容と仏教民俗学 | 佐野 賢治 |本 | 通販 | Amazon

 ここからは、鉱山開発を担った集団が信仰したのが虚空蔵菩薩であり、その信仰の中心には修験者たちがいたというのです。修験者の当山派は醍醐寺を中心とした真言宗の寺院です。宗派の祖は弘法人師空海で、中興の祖は理源大師で、二人ともに讃岐出身とされます。四国には虚空蔵菩薩を安置する寺院も多くあり、求聞持法の信仰者が多いことは以前にお話ししました。四国の空海伝承に登場する虚空蔵像は、「明星が光の中から湧きたった」「明星が虚空蔵像となってあらわれた」とするのものが多いようです。

 空海の高弟で讃岐秦氏出身の道昌が虚空蔵求持法の修得のため百日参籠した時「明星天子来顕」と「法輪寺縁起」は記します。この「明星」は、弘法大師が土佐国の室戸岬で虚空蔵求聞持法を行じていた時、口の中に入ってきたというものと同じでしょう。 虚空蔵求聞持法と明星とは、関係がありそうです
星の信仰―妙見・虚空蔵 | 賢治, 佐野 |本 | 通販 | Amazon

星神信仰については、次の2つの流れがあるようです
1密教的系統(尊星法=天台、北斗法=真吾)
 ①北斗星を祀る密教系の法
 ②①から派生した妙見信仰
 ③虚空蔵求聞持法に拠る虚空蔵信仰から派生した明星信仰
2陰陽道系統(安倍晴明→土御門神道)

このうち秦の民が信仰したのは、もともとは③の星神信仰だったようです。それが後世になると②の妙見信仰と混淆していきます。その結果、秦氏の星神信仰は妙見信仰になっていったようです。秦氏の妙見信仰と星神信仰を見ておきましょう。
妙見信仰 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市

それでは妙見信仰とは、いつ誰が伝来したのでしょうか
研究者は次のように指摘します。
「妙見信仰がわが国に伝来したのは、六~七世紀の中頃と考えられる。伝来当初の妙見信仰は畿内の南河内地方など帰化人と関係深い地方で信仰されていたようであるが、次第に京畿内の大衆間に深く浸透していった」

妙見信仰は朝鮮半島からの渡来人によって、仏教伝来と同じ時期にもたらされたようです。「帰化人」とありますが、もっと具体的に云うと、秦の民になるようです。
妙見信仰の史的考察 | 中西 用康 |本 | 通販 | Amazon

 秦氏の妙見信仰を考えるときに取り上げられるのが、河内国茨田部の秦氏の祀る「細(星)屋神社」(寝屋川市茶町・太秦)です。
 この神社は、『延喜式』神名帳に載る茨田郡細屋神社に比定される神社です。しかし、今は小さな祠となって近くの八幡神社の境内に移されています。
星屋神社


泰氏の子孫と称する寝屋川市の西島家文書には「星屋」と称していることからも、渡来した秦氏が天体崇拝思想から、星神を祀ったものと研究者は考えているようです。
 この神社はもともとは「星屋神社」で、妙見信仰による神社だったようです。神社の境内にある案内板にも次のように記されています。
「祭神は秦村の記録に、天神・星屋・星天宮と記され、先祖からの天体崇拝の風俗をここに伝え、星を祭ったと考えられます」

なぜ、星を祭る神社が秦村にあるのでしょうか。その理山は、古代の鍛冶屋と星辰信仰は深い関係にありました。この地にやってきた秦氏が鍛冶や鋳造業に関わる先端技術者集団で、彼らが信仰していたのが星神だったと考えられます。
細屋神社 : 神社参詣 - 大阪府 - 寝屋川市 : 御中主 - 社寺探訪
移築される前の細屋神社(現在は近くの八幡神社に移築)

現在のこの地区の産土神は八幡神社で、近くに大きな本殿や拝殿が鎮座しています。しかし、もとともはこの地は、秦氏の拠点でその氏神として建立されていたのは細屋(星屋)神社だったようです。現在に至る変遷を考えて見ましょう。
①この地に朝鮮半島からやって来た秦の人々は、当時の先端産業である鍛冶関係であった。
②鉱山・鍛冶関係者は星神を祀つていたから、この地に星(細)屋神社を建立した
③後代にこの地の住民は農民化し、それに伴って農民が信仰する八幡神社を産上神にした
④そのため茨田郡の式内社の五社に入っていたのに、八幡神社の摂社になり細屋神社と呼ばれるようになった

『河内名所図会』には、後鳥羽上阜が諸州の名匠を徴して刀剣を造らせたとき、秦村の鍛冶匠秦行綱が、第一に選ばれたとあります。秦村の字鍛冶屋垣内には、秦行綱宅址があります。中世には刀鍛冶へと発展していたことが分かります。
 細屋(星屋・星天宮)神社の伝承には、境内の樹を伐り草を刈ると腹痛をおこすが、秦村・太泰付(現在の寝屋川市大字秦・大字太秦)の人だけには障りがないといわれてきたようです。これもこの神社が泰氏系の神社であったことを示しているようです。秦氏と星信仰と妙見・虚空蔵信仰の関係がかすかに見えてきました。もともとの星(細)屋神社は、鍛冶関係の秦の民が氏神として祀っていた「妙見神」であったことを押さえておきましょう。
番外編】妙見寺(板東妙見信仰の祖) : 大江戸写真館(霊場巡礼編)
妙見信仰と鉱山・鍛冶業とは、どんな関係があったのでしょうか?
鉱山師は妙見=北極星で、天から金属を降らせたと信じていたようです。いくつかの例を挙げてみましょう。
①「金の島=佐渡」の金北山の隣に妙見山
②甲斐の武田氏の軍資金の半ばをまかなった大菩薩山域の妙見ノ頭は、そのものが金山の守護神
③新潟県栃尾市と長岡市境にある戊辰戦争古戦場の榎峠を、妙見山と呼びますが、東には金倉山、半蔵金山がつらなっていています。それは金属の存在を暗示しています。

西日本の岡山県の妙見山を見てみましょう。
日本霊異記には、千年前の鉱夫の悲惨な姿を次のように記します。
「美作国英田部内二官ノ鉄ヲ取ル山有り」
「暗キ穴二居テ、個へ恨ム。生長シ時ヨリ今ロニ至ルマデ、コノ哀ミニ過ギタルハ無シ」
このあたりは鉄が掘られなくなった後も銅、水銀を産するので鉱毒災害も起きていたことがうかがえます。
 岡山市から旭川をさかのぼった赤磐郡金川(御津町)近くにも妙見山があります。ここでは水銀、銅が採れました。苅田、軽部の金属を示すカリ、カル地名と山口吹屋が、それに妙見山があります。また、吉備地方には温羅(カラ)と呼ばれた鬼が左目に矢を受けてたおされる伝承が長く語り伝えられている。これも「一つ目」の変形パターンかも知れません。
 兵庫県養父郡の妙見山(1142m)一帯には金をとった跡があります。その南麓には今もアンチモン等の鉱物が採れて足坂、中瀬などの鉱山が集まり、金山峠は、その昔の運搬路を示すようです。こののあたりも古くは軽部郷と呼ばれていました。
 豊臣家の台所をまかなった金は、大阪府豊能郡能勢町一帯から採られました。今でも妙見鉱山には磁鉄鉱床がありますが、ここの歴史は古く多田源氏の祖・源義仲が砂金を掘って源氏の基礎を築いたといわれます。ここにも蛇の伝説、行基にからまる昆陽池の一ツ目魚伝承、妙見山(662m)がそろってあります。
 どこも鉱山関係者の信仰や言い伝えですが、妙見信仰を持った修験者の影が見えます。以上の記述からも、妙見信仰は
①村に居住する鍛冶職の「小鍛冶」
②鉱山の採鉱、金属精錬の「大鍛冶」
と関係があることがうかがえます。秦の民が信仰する虚空蔵信仰と妙見信仰は結びついていたのは、秦の民の職業と関係しているからのようです。
北斗七星: Fractal Underground Studio
まとめてみると
①朝鮮半島からの渡来した秦氏集団は、最先端産業である鉱山・鍛冶の職人集団であった
②当時の鉱山集団がギルド神のように信仰したのが星神である
③彼らは妙見=北極星を、妙見神が天から金属を降らせたと信じ信仰した。
④妙見信仰と明星信仰は混淆しながら虚空蔵信仰へと発展していく。
⑤修験者たちは虚空蔵信仰のために、全国の山々に入り修行を行う者が出てくる。
⑥この修行と鉱山発見・開発は一体化して行われることになる
⑦こうして開発された鉱山には、ギルド神のように虚空蔵菩薩が祀られ、その山は虚空蔵山と呼ばれることになる。

このようにしてみると四国の行場と云われる霊山にも鉱山が多かった理由が分かるような気もしてきます。そして、空海の四国での修行場にも丹生(水銀)鉱山との関係がうかがえることは以前にお話ししました。その媒介をした集団が、空海に虚空蔵求聞持法を伝えた秦氏ではないかというのです。
渡来系の秦集団は、戸籍に登録されているだけでも10万人を越える大集団です。その中には支配者としての秦氏と、「秦の民」「秦人」と呼ばれた、さまざまな技術をもつた工人集団がいました。彼らが信仰したのが、虚空蔵信仰・妙見信仰・竃神信仰でした。そして、この信仰は主に一般の定着農民の信仰ではなく、農民らから蔑視の目で見られ差別されていた非農民たちの信仰でもありました。一方、秦氏の信仰した八幡神・稲荷神・白山神などは、周囲の定着農民も信仰するようになって大衆化します。しかし、もともとはこれらも秦氏・秦の民が祭祀する神の信仰で、虚空蔵・妙見・竃神信仰と重なる信仰であったと研究者は考えているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
      大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363P
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虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか?

麻生祇 燐 の オカルトコレクション: 虚空蔵求聞持法
空海が出家するきっかけとなった虚空蔵求聞持法の継承ラインが
「道慈→善儀→勤操→空海→勤操
であるという大和岩雄「秦氏の研究」を前回は見てきました。
虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか? 素人ながらその闇の中に分け入って「迷子」になってみようと思います。

まずは、虚空蔵求聞持法をインドから請来した善無畏三蔵

善無畏三蔵図 - 埼玉県飯能市 真言宗智山派 円泉寺
(インド名、シュバカラシンバ)について見てみましょう。
『宋高僧伝(巻二)』によれば、
三蔵はインドですでに虚空蔵求聞持法など密教の奥義を極めており、中インドに大旱のあったとき、請われて祈雨によって雨をふらせています。また、金を鍛えて貝葉のようにして大般若経を書写し、銀を型に入れて鎔して卒塔婆を仏身と同じ量に作り、寺で銅を鋳て塔を建てた、
とあります。
  「祈雨によって雨をふらせ」という雨乞い祈雨は、後の空海にもつながっていくものです。 「銀を型に入れて鎔して」からは、冶金・鍛冶術を身につけていたことが分かります。   

虚空蔵求聞持法には具体的に、次のような「技術」が書かれています。

「牛蘇一両を取りて執銅の器の中に盛り貯え、並に乳ある樹葉七枚及び枝一条を取りて壇の辺に軋どけ、華香等の物、常の数に加えて倍せよ。供養の法は前に同じ。供養し我ごて前の樹葉を取り、重ねて壇の中に布の上に置いた葉の上に於て酪器を安置せよ。手印を作りて陀羅尼三遍を誦して此の酪を護持せよ。また樹の枝を以て酪をまぜて其の手を停むる刎れ。目に日月を観ご兼ねてはまた酪を看よ。陀羅尼を誦して遍数を限ることなし。初めて蝕するより後に退して未だ円たざる已来に、其の酪に即ち三種の相現ずることあらん。一には気、二には煙、三にはに喰り。此の下中上の三品の相の中に、隨いて一種を得ば、法即ち成就す。この相を得已りぬれば便ち神薬と成る。
酪は蘇とも書き、牛または羊の乳を煮つめて作ったもので、牛酪は一斗の牛乳で一升できるといいます。この求聞持法の工程は、漆塗りの工程に似たところがあるようです。 

前回も記したように、虚空蔵求聞持法をはじめて列島に伝来したと伝えられる道慈は、

渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身で、大和郡山市額田部寺町にある額安寺は額田氏の氏寺です。この寺は道慈が自ら彫刻した虚空蔵仏を本尊とします。求聞持法の「神薬」製法には、額田氏のもつある技術と重なるものがあったといいます。それが道慈が虚空蔵求聞持法に興味をもった理由かもしれません。それは何でしょうか?

 虚空蔵求聞持法の伝授は、経文に書かれていることだけなら経文を読めばいいのですが、経文に秘められた奥義は、師からの口承による伝授でした。

 道慈の一族は、鍛冶・鋳物集団の「工巧」で、その職業的な原点が師のインド僧善無量から求聞持法を学んだ動機だったとも考えられます。
 とすれば、豊前「秦王国」の秦氏系辛島勝の本拠地に建てられた九州最古の寺が虚空蔵寺であることと、香春岳の銅や八幡信仰の鍛冶翁伝承は、無関係とはいえません。虚空蔵信仰は、鍛冶鋳造にかかわる人と結びつく要素が強かったようです。 

宇佐八幡の神宮寺であった虚空蔵寺の座主は、弥勒寺の座主になった法蓮です。

法蓮は、医術に長じていて虚空蔵求聞持法の「神薬」製法をマスターしていたようです。この「神薬」の効用を虚空蔵求聞持法は、
「若し此の薬を食すれば即ち聞持を獲て、一たび耳目に経るるに文義倶に解す。之を心に記して永く遺忘することなし。」
と記し、知恵増進は、記憶力の増進・強化で、更に
「諸余の福利は無量無辺なり」と、福徳を述べ「始めてより却退し円満するに至るまでの已来に、三相若し無くんば法成就せず。徹更に初めより猷め而も作すべし」
と記します。
三相(気・煙・火の三品の相)が成就しなかったら、はじめからやり直せというのです。そして、七遍すれば
「極重の罪障あれども、亦みな鎔滅して法定んで成就す」
と述べ、罪障消滅の功徳も記しています。知恵増進と福徳は「神薬」を飲んだ結果ですが、飲まなくても、この法を「七遍」もくりかえしおこなえば、罪障消滅はできるというのです。
  もちろん、この牛酪の呪法は、その前に陀羅尼を百万辺誦習するという難行が前提です。 
嵐山の法輪寺を開山した空海の弟子道昌が、虚空蔵求聞持法を百ヶ日修したのは、百万辺の誦習のためです。
しかしその後、虚空蔵像を刻んだのは、神薬を作る法の代りでもありました。 

虚空蔵信仰が自力による知恵増進・福徳・災害消除なのに対し、弥勒信仰は弥勒の上生・下生を待つ他力の信仰です。

これをミックスしたのが空海の密教とも言えます。
 空海の最初の著書である『三教指帰』は、仏教を代表する仮名乞児の口を借りて、
「滋悲の聖帝(釈迦)が滅するときに印璽を慈尊に授け、将来、弥勒菩薩が成道すべきことを衆生に知らせた。それゆえ私は、旅仕度をして、昼も夜も都史の宮(兜率天)への道をいそいでいる」
といわせ『性霊集(巻八)』も弥勒の功徳を述べています。
 また、空海が弟子たちに自分の死後のことをさとした『御遺告二十五ヶ条』の第十七条には、
「私は、眼を閉じたのち、かならず兜率天に往生し、弥勒慈尊の御前で待ち、五十六億余年ののちには、かならず慈尊とともに下生して、弥勒に奉仕し、私の旧跡をたずねよう」
とあります。
 平岡定海は、「平安時代における弥勒浄土思想の展開」で、
「秦王国の彦山が、弥勒の浄土の兜率天とみられていたように、空海も高野山を兜率天に往生する山と見立てていた。したがって、後に、高野山は、兜率天の内院に擬せられたり、空海は生身のまま高野山に入定し、弥勒の下生を待っている、という信仰も生まれた」
と記します。

「聖徳太子の太子信仰」が「弘法大師の大師信仰」とスライドしていくのは

その根っこに弥勒信仰があったからのようです。太子・大師・弥勒信仰に秦氏がかかわっていることからして、これらの信仰を流布した秦氏が、タイシとダイシの信仰を習合させたと推察します。
 宮田登は、
聖徳太子を祀るタイシ講は、大工・左官・屋根屋・鍛冶屋・桶屋・樵夫・柚などの職業集団で祀られていることは、よく知られる民俗である。しかし何故、彼らだけが太子を祀るのかというと十分に説明はできていない。大工が古く寺大工から派生したものだとすると、代表的寺院であった法隆寺などの関係からそれが説かれたことも想像されるがはっきりしない。
木樵たちの場合、山の神の子を太子として信仰していたことから太子が聖徳太子と成り得たとするがこれも確証はない。ただ聖徳太子の宗派性を問題とすると、真宗・天台宗がこれに大いに関係してくることは指摘できる」
と書きます。
 タイシ講の職業集団は、秦氏が深く関与している職業です。
法隆寺の聖徳太子の寵臣は、『日本書紀』によれば秦河勝で、真言・天台宗の開祖も秦氏の信仰と結びついていることからみても、キーワードは秦氏であり、秦王国なのかもしれません。
 特に、太子信仰は虚空蔵信仰と同じ職人の信仰です。もともとは虚空蔵菩薩は、もともとは鉱山関係者の信仰する仏だったようです。そして太子信仰も、鉱山関係の人々の間に多いようです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵
 これらの源流は、がっての秦王国にあったもので、秦王国の豊国奇巫・豊国法師の伝統を受け継いだものであり、秦王国の信仰が、空海に継承されたともいえます。

大和岩雄は「秦氏の研究」で
「この法を弥勒信仰と結びつけて勤操が説いたのを、十八歳の空海が聞いて、出家の決意をしたのだろう。」
と推察します。
 やはり危惧していたように虚空蔵求聞持法をめぐる迷路の中で、迷子になったようです。
しかし、秦氏 秦王国 職能集団 弥勒仏 虚空蔵求聞持法のつながりがかすかに見えてきたように思えます。

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