寛政5年(1793)の春、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が、阿波の祖谷を旅行した時の紀行文を現代語に意訳して読んでいます。前回は、高松の由佐発して、次のようなコースで一宇の西(最)福寺までやってきたのを見ました。今回は、3日目の一宇から小島峠を越えて、東祖谷山の久保までの行程を見ていくことにします。これまでの行程を振り返っておきます。
4月25日
由佐 → 鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠 → 貞光4月26日
貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇 →西福寺
![祖谷紀行 小島峠へ1](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/d/b/dba90deb.jpg)
祖谷紀行 西福寺を出発し、小島峠へ
意訳変換しておくと
4月27日、昨日に案内を頼んだ「辺路」が、早朝に西福寺まで迎えに来てくれた。住持へ厚意を謝して、辰の刻(午前八時)には出立した。谷川を渡って行くと、一里ほどで大きな橡の木が現れた。幹周りが三抱えもあって、枝葉が良く茂っている。この辺りでは「志ほて」と呼ばれる草があって、蕨に似て美しい。その味は、淡いという。
ひらの木や草杉苔などが多く茂る。橡の巨樹の木陰で休息し、その後は、葛籠折れの羊腸のような山道を捩り登り、をしま(小島)峠に着いた。
小島峠が一宇と祖谷との境である。ここで今までの道を振り返って見ると、讃岐の由佐から相栗峠までは、地勢は南が低く、川は北に流れる。一方、相栗から芳(吉)野川にまでは、川は南に流れる。これは、阿讃山脈が阿波と讃岐の界を分けるためである。吉野川から一宇までは、地勢はますます高くなり、川は北に流れる。そのため、この峠はことさらに高く険しい。これは一宇と祖谷の分岐点界となっているためだ。
一宇から小島(おじま)峠
①小島峠への道は、西福寺から谷川沿いの道を辿っている。②道沿いには橡などの巨樹が茂っていた。
現在の小島峠へのルートは、貞光から国道438号を剣山方面へ向い、旧一宇村明谷で明渡橋を渡り、県道261号を車で行くのが一般的です。
![令和5年6月25日・小島峠の地蔵祭り - とくしまやまだより2](https://blogimg.goo.ne.jp/image/upload/f_auto,q_auto,t_image_sp_entry/v1/user_image/1e/0a/0e47175e73e50a35452d3ef14583ded0.png)
旧小島峠のお地蔵さん
旧小島峠には、天明7年(1787)建立の半跏像の地蔵尊が祀られています。台石に「圓福寺現住宥□ 法練道乗居士 菅生永之丞室」の銘があります。これは菅生家11代永之丞の妻が主人の菩提を弔うために立てたものといわれます。ここには氏寺の円福寺の住職名も刻まれています。ということは、一行がこの小島峠を訪れた時には、この地蔵はあったはずなのですが、何も触れられていません。作者の興味は、詩作やその題材となる樹木・山野草に、より強く向けられていたようです。
剣山と丸笹山と鞍部の見ノ越(祖谷山絵巻)
小島峠から見える剣山を、「祖谷紀行」は次のように記します。
剣山は、昔は立石山と呼ばれていたが、安徳天皇の御剣を納めたことから、剣の峯と呼ばれるようになったという。美馬郡記には「この山上に剣権現の御鎮座あり、又小篠権現とも云う。谷より高さ三十間計、四角なる柱のごとき巖(神石)が立つ。これを神体とするが、その前に社はない。ここにに剣を納めたが、風雨にも錆ない、神宝の霊剣である。六月七日多くの人々が参詣する。木屋平村よりの道があり、多くの人は、木屋平ルートで参詣し、夜になって帰る」剣の峰と大剣神社(祖谷絵巻)天皇の御剣を納めた所は、ミツエという所で、剣の峯ではないという説もある。ミツエは久保の南三里ばかりの所で、その上に、長い戟のような石がある。時に白く、時に黒くなるので、住民はこの石の色で、雨が降るか降らないかを占うという。
小島峠で昼食をとり、しばらく休んでから坂を下ると岩休場という所に至る。①ここには二抱えもある楓樹がある。これほどの巨樹は珍しい。半田の山には、七抱えもある「かハけ」の巨樹があるという。いよいよ深山幽谷に入ってきた思いを深くする。
西湖が云うには、祖谷の西の栗か峯とい所で商人が休んでいると、空からほろほろと降ってくるものがある。衣についたのを見ると血である。空は、晴れて何も見えない。しかし、次のような声が聞こえてきた。「それ追かけよ、土佐のいらす(不入)山へ赴たり」 これは今より三、四年前のことである。これは②天狗たちの相戦う姿だと、人々は噂したという。この辺りには③升麻(しょうま)・独活(うど)が多く生えている。ウドは長さ二尺余、これを折れば匂ひが辺りに漂う。柳茸の大きなものもある。士穀とって懐に入れた。峠を下り、谷川を渡ると、老翁が蓑笠を着て、岩に腰掛けて④魚を釣る姿が見えた。それは中国の渭水で釣をする雙のように思え、一幅の絵を見るようであった。この釣翁にかわりて「南山節々鳥刷々、青簡空差白髪年、誰識渭濱垂釣者、不語三暑六朝篇」と詠った。一の小坂を上ると、地がなだらかになり人家五・六軒が見えて来た。この中に、菅生四郎兵衛の家がある。そのさまは雌雄の南八蔵と同じように、祖谷八士の一人という。
ここからは以上のことがうかがえます。
①旧一宇村は「巨樹」が多いことで有名。この時期から大きな木が切らずに残されていたこと
②天狗が空中で争うことがエピソードとして語られている。「天狗=修験者」で、修験者たちの活発な動きがうかがえる。
③草木や薬草などや④釣りなどの知識が深い。中国の漢詩などの素養もある。
④菅生には、祖谷八士の菅生四郎兵衛の家があった。
![祖谷](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/a/0/a0623705.jpg)
①旧一宇村は「巨樹」が多いことで有名。この時期から大きな木が切らずに残されていたこと
②天狗が空中で争うことがエピソードとして語られている。「天狗=修験者」で、修験者たちの活発な動きがうかがえる。
③草木や薬草などや④釣りなどの知識が深い。中国の漢詩などの素養もある。
④菅生には、祖谷八士の菅生四郎兵衛の家があった。
![祖谷](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/a/0/a0623705.jpg)
「菅生の滝」は、現在の「に虹の滝」
そこから百歩程行くと谷川があり、川を右に見て山の半腹を半里いく。さらに谷を下り、山を越え、谷川を渡れば、 一の瀑布が現れる。千筋の白糸が空から連なり流れ下るかのように見える。先に見た鳴瀧に比べれれば、児孫程度だが、郷里讃岐の小蓑瀧に比べれば父母のようである。この滝の名を聞くと、名はないという。山深中で、誰に聞けというのか。とや白糸の瀧の波音打志らふらん、と一首詠んで、白糸の瀧の名と仮にしておく。
菊地武矩が「白糸の瀧」と詠んだ瀧は、斜めに日がさしこむと、みごとな虹が一面にかかります。そのため「虹の瀧」と呼ばれるようになって、今は公園になっています。
祖谷菅生の虹の谷公園
雌雄より久保までは約五里。久保には、久保二十郎盛延という祖谷八士の一人がいる。私は西湖に託して大和うた(短歌)を久保氏に送った。久保氏は門脇宰相平國盛の子孫で、敷島の道にさとく、巧みであると聞ている。そこで、私の今の気持ちを歌に託して詠み送った。雲の上にありし昔の月かけを 世々にうつせるわかの浦波、志き島の道を通ハん友千島いや山川の霧へたつとも、南天千嶺合、望断白雲中、借間秦時客、柳花幾責紅一かえし
歌のやりとり末に、久保氏の家に泊まることになります。そこで、祖谷の平家伝説が語られることになります。それは、また次回に。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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