瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:蜂須賀家政

秀吉の長宗我部元親処遇案

前回は、秀吉の四国出兵が長宗我部元親処遇案が、あいまいな部分を残したまま開始されたことを見ました。また、四国出兵は秀吉が陣頭指揮をしないという初めてのケースでもありました。そのため今までにない指揮系統や戦術が見られます。その辺りのことを阿波方面を中心に今回は見ていくことにします。テキストは「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」です。

秀吉の四国侵攻6
四国征伐・羽柴本軍
羽柴軍の進撃ルート
秀吉の四国出兵 阿波戦線

羽柴軍が阿波に上陸したのは6月23日のことです。そして、撫養の土佐泊城に集結します。ここが阿波制圧のスタート地点となります。これも秀吉の事前の指示によるものでした。
 緒戦となったのが木津城攻めでした。この城について「ウキ」は、次のように記します。

秀吉の四国侵攻 阿波木津城
木津城 羽柴軍に8日の籠城で落城
    「永禄年間(1558年 - 1570年)から三好氏の武将篠原自遁が守っていた。1582年(天正10年)の長宗我部元親による阿波侵攻では、十河存保方についたものの、中富川の戦いや勝瑞城攻防戦には参加しなかった。しかし頼りの織田信長が本能寺の変で討たれ、織田方の援軍が期待できないため、自遁は城を明け渡し淡路へ逃走した。
 長宗我部元親領有後は腹心である東条関之兵衛が城主となった。この時期に秀吉の侵攻に備えて大規模な城郭改築を行なったと見られる。1585年(天正13年)、羽柴秀吉による四国攻めでは、羽柴秀長の攻撃を受け、8日間後に水の手を断たれて落城した。関之兵衛は脱出し、土佐に帰還したが敗戦の責を問われて首をはねられた。
木津城を秀長と秀次の大軍が囲みます。そして8日後の7月5日には落城します。その後、羽柴軍は二手に分かれますが、そこへ黒田官兵衛など讃岐方面の軍勢も合流し、次のように手分けして攻略します。
A 秀長+宇喜多勢           一宮城
B 秀次+近江衆・仙石秀久・蜂須賀正勝 牛岐城(牟岐)
秀次勢は7月10日には調略によって牛岐城を開城させ、15日には脇城攻めに取り掛かります。こうして羽柴軍は一宮・脇両城を包囲し、7月下旬に長宗我部氏が降伏するまで攻城戦を続けます。

 木津城・一宮城・脇城の攻城戦には共通点があることを、研究者は指摘します。
①木津城「木津ノ城、敵楯籠之条、即座押詰、本城塀際迄仕寄、責破処」
②一宮城「其後一宮取巻、諸口以仕寄押詰、水を相留候条、一途不可有程候」
③脇城
「当脇城へ押詰、山下追破、従翌日仕寄等丈夫二申付候」
「当城も水之手不自由にて迷惑由、従城内闕落申越候、殊懸樋をも切落候間、弥不可有程候」
    意訳変換しておくと
①木津城の攻城戦では、敵の籠城戦対して、即座に押詰め、本城塀ぎわまで仕寄、これを攻め破る
②一宮城では、城を取り囲み、諸口を仕寄って押詰め、水源を遮断し、水が手に入らないようにした。
⑧脇城では押詰て、山下で追い破り、翌日に仕寄を丈夫に設置することを申し付けた
「当城も水之手がなく、飲み水に不自由している様子なので、城内に水をひく懸樋をも切落し、水を断った。
 ここには、共通した戦法として「押詰」「仕寄」と「水断」という言葉が出てきます。
「仕寄」とは、「敵の城を攻撃する際に用いる、竹などを束ねた防具」のことのようです。

仕寄り戦法

「仕寄り」

仕寄せ 真田丸に出てきた
大河ドラマ 真田丸に登場した「仕寄り」作り
 仕寄せは、盾や竹の束で身を守りながら、城を攻めるためのもの簡易な基地です。鉄砲から身を守るためのもので、この小型の基地を移動させて城を攻めたようです。鉄砲が普及した戦国時代後半に出てきた戦い方です。これに加えて、水断ちが行われています。四国出兵はちょうど夏季(現在の8月頃)にあたりました。真夏に、水を断たれることは籠城側にとっては、致命傷となったことが推測できます。

7月18日に戦地の伊藤祐時に、秀吉が宛てた書簡を見ておきましょう。
 去十四日書状十六日於京都到来、披見候、
一、其面取巻丈夫成由、兵吉口上之通、何も聞届尤候事、
一、一宮城如此取巻、既仕寄以下入精、水手相留由候条、少々日限延候共、菟角国々こらしめ、旁以千殺二可然、委細兵吉二申聞候事、[中略]
 意訳変換しておくと
 14日の戦地から書状が、16日に京都に届いた。
一、籠城戦への対応が指示通り首尾良く進んでいるとの報告を受け取った。
一、一宮城のように、兵で取巻き、仕寄で対応し、水断ちすれば、少々日数はかかろうが、阿波国衆をこらしめ、干乾しにすべし。委細は兵吉に伝えている[中略]
ここからは「仕寄」と水断による包囲戦は、秀吉の命令によるものであったことが分かります。秀吉の指示で「押詰(包囲)」「仕寄(接近)」と「水断」が、セットとなって、各攻城戦で展開されていたことを押さえておきます。
 また「国々こらしめ、旁以干殺二仕可然候」とあります。阿波の国衆をこらしめ、干殺しにするよう指示しています。これは見せしめの意図も読み取れます。これに加えて秀吉は、繰り返し前線に次のような指示を出しています。
「手負等無之様二木津城責殺可申候」(7月3日付)
「手負無之様二可申付候事」(7月10日付)
「少々長陣候事者不苦候条、少之手負無之様二」(7月27日付)
ここからは秀吉が「手負等無之様」と、「たとえ長引いたとしても、自軍の損害を最小限におさえることを優先せよ」と求めていたことが分かります。

秀長は7月19日付の伊予戦線の小早川隆景に宛てた書状で、一宮・脇城攻めの近況を次のように報告しています。
9000とされる一宮城兵は善戦したが、筒井定次・藤堂高虎・蜂須賀正勝・増田長盛など5万の我が軍に兵糧を絶たれ、城への坑道を掘り水の手を断つ戦法で、7月中旬には開城した。

これに前後して脇・岩倉城も、秀次・黒田・蜂須賀勢らによって陥落します。この結果、白地城の長宗我部元親は、東からの秀長・秀次勢、西から川之江まで進撃してきた毛利氏に挟撃される形になります。
『南海治乱記』には、前線から白地城へ戻った谷忠澄が、次のように述べて長宗我部元親に降伏を勧めたと記します。
上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。兵糧も多くて心配することは少しもない。これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、鞍も曲って木の鐙をかけている。武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。小旗を腰の横に差しており、上方とは比較にならぬ。国には兵糧がなく、長い戦争などできるはずがない。

これに対し『元親記』には、長宗我部元親が言葉が次のように記されています。
縦(たと)い、岩倉・一の宮を攻落さるる共、海部表へ引請け、一合戦すべき手立、この中、爰許(ここもと)に詰候つる軍兵、又、国元の人数打震いて打立ち、都合その勢一万八千余、信親大将して野根・甲浦に至り着合ひ、海部表への御働を相待つ筈なり。
意訳変換しておくと
たとえ、岩倉・一の宮城を奪われようとも、海部城に退却し、合戦すべき手立がある。そうなったら白地城に集結している軍兵や土佐国元の兵力を総動員すれば、一万八千余の兵力になる。それを、信親が大将として率いて野根・甲浦で待ち受け、海部城を支援する。

ここでは元親は、一度も決戦せずに降伏するのは恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦すると言います。そして、降伏を勧めた谷忠澄を罵倒し、腹を切れとまで言っています。
しかし、重臣らの説得を受けて、元親も最後には折れ、7月25日付の秀長の停戦条件を呑んで降伏します。交渉の仲介役を務めたのが蜂須賀正勝です。
 降伏から和睦条件の成立に至る経過を整理しておきます。
①天正13年7月下旬、一宮・脇両城を包囲する羽柴軍に対し、長宗我部方から降伏交渉の打診。
②7月25日、羽柴秀長は一宮城の長宗我部重臣の江村親俊・谷忠澄に、土佐一国安堵と、五日間の「矢留(戦闘停止)」を約束
③同じ頃、秀吉は秀長に宛て、元親の土佐一国のみの安堵と降伏条件を確認し、最終的な判断を秀長らの判断に一任
  そして8月4日までに、長宗我部元親の正式な降伏が了承されます。8月6日に成立した和睦条件の内容は、次の4項目です。
①長宗我部氏に土佐一国のみ安堵
②長宗我部家当主が毎回兵3000を率いて軍役を務めること、
③人質の提出
④徳川家康との同盟禁止
これによって、長宗我部氏は阿波・讃岐・伊予を失います。ちなみに、秀吉から秀長への指示書にかかれた阿波国の統治方針についての部分を見ておきましょう。

 一、阿波国城々不残蜂須賀小六二可相渡候、然者小六居城事、絵図相越候面ハいの山麓二覚候、去我々不見届事候条、猶以其方見計よき所居城可相定、秀吉国を見廻二四国へ何頃にても可越候条、其時小六居城よき所と思召様なる所を、其方又ハ各在庫の者とも談合、よく候いん所相定、さ様二候ハ、大西脇城かいふ牛木かせてよく候いん哉、小六身二替者可入置候、但善所ハ立置悪所かわり、新儀にも其近所にこしらへ候事、[四~六条目略]

意訳変換しておくと
一、阿波国については、城はすべて蜂須賀小六に渡すこと、小六の居城については、絵図からすれば「いの山(渭山:現徳島城)」山麓が適地と思うが、実際に見ていないのでなんとも云えない。ついては、その方(秀長)が候補地をいくつか選定し、秀吉が四国を見廻りに行き決定しても良い。また小六が適地と考えるところを、秀長や各在庫衆と協議して決定してもよい。大西・脇・海部・牟岐城については、城の現状を維持し、小六が信頼が出来る者を選んで配置すること、ただし、戦略上からして立地条件が不適切な城は、新規に適所に移転して築城すること。

 読み取れる情報を挙げておきます。
①阿波国内の諸城は、残らず蜂須賀家政に渡すこと、
②居城は「いの山(渭山)」を適地とするが、秀長ら在庫衆で談合して定めること、
③大西・脇・海部・牛岐の各城は今まで通り存置し、しかるべき人物を配置すること。

研究者が注目するのは、③で具体的な城郭整備について言及している点です。
渭山に置かれた新城が徳島城で、大西城ほかの4城は近世初期まで阿波の支城体制「阿波九城(一宮・牛岐・仁宇・海部・撫西条・川島・脇・大西)」として活用されていきます。阿波では、戦後処理の初期段階から、秀吉の統治方針が明確にあらわれています。四国出兵で羽柴軍の攻撃対象となった一宮・牛岐・脇の諸城は、「阿波九城」に含まれます。四国侵攻の軍事行動の意図には、領国支配のための拠点となる城郭の掌握があったと研究者は考えています。

 阿波での戦いは、羽柴軍の主力(秀長・秀次勢+宇喜多)を動員した四国出兵最大の軍事作戦でした。
秀吉の指示に基づき、攻めるべき城が 事前に選定され、そこでの採用される戦術まで指定され、自軍兵力の消耗をおさえる慎重な戦術を行うように求められています。さらに、後の蜂須賀氏による領国支配につながる地域の拠点城の掌握まで考えられていたと研究者は評します。

以上をようやく整理しておきます。
①阿波・讃岐への侵攻については、兵力の集結メンバー・日時・場所・ルートについて事前に秀吉が指示を詳しく示している。
②その立案や連絡調整に当たったのが黒田官兵衛や小西行長である。
③阿波戦線は、羽柴軍の主力(秀長・秀次勢+宇喜多)を動員した四国出兵最大の軍事作戦であった。
④木津城・一宮城・脇城に対しては「押詰」→「仕寄」→「水断」という共通した戦法が採られている。
⑤「これは
自軍の損害を最小限におさえることを優先せよ」という秀吉の指示でもあった。
⑥同時に攻城対象の城は、蜂須賀氏による領国支配のための拠点となる城郭でもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」
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 1585(天正13年)春、土佐の長宗我部元親は四国統一を果たします。しかし、それもつかの間、秀吉が差し向けた三方からの大軍の前に為す術もなく飲み込まれ、8月に四国は豊臣統一政権に組み込まれます。その後の四国の大名配置は、四国平定の論功行賞として行われます。秀吉は、四国の大名達を「四国衆」と呼んでいました。そして四国の大名を一括して認識していたとも云われます。そのため四国衆は、秀吉の助言や指示を仰ぎながら国造りや、城下町形成を行ったことが考えられます。今回は、その中で阿波の蜂須賀家の徳島城下町形成を見ていくことにします。
Amazon.co.jp: 近世城下絵図の景観分析・GIS分析 : 平井 松午: 本
テキストは「徳島城下町の町割変化 近世城下絵図の景観分析GIS分析比較63P」です。
1585(天正13)年の秀吉による四国平定後に阿波に入ってきたのが蜂須賀家政です。
特別展 蜂須賀三代 正勝・家政・至鎮 ―二五万石の礎【図録】(徳島市立徳島城博物館:編) / パノラマ書房 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
蜂須賀の3代
彼は最初は鮎喰川中流の山城一宮城に入りますが、羽柴秀吉の指示で古野川河口南岸のデルタに新たな拠点に定めます。その背景としては、次のような事が考えられます。
①徳島が吉野川流域の「北ケ」と勝浦川・那賀川・海部川流域の「南方」の結節点であったこと
②畿内や瀬戸内経済圏に近く、海上交通に利便であったこと
そして吉野川デルタの城山(標高61.7m)に、徳島城を築き、翌年14年には、次の布令をだしています。

「去年から徳島御城下市中町割被仰付町屋敷望之者於有之ハ申出二任相応二地面可被下旨」
(「阿淡年表秘録」徳島県史編さん委員会編1964頁)

意訳変換しておくと
「去年から徳島の城下市中で町割を実施している。ついては屋敷を所望する者については、申し出れば相応な地面(土地)を下される。
 
ここからは城郭建設の一方で、積極的に町人の移住を奨励していることが分かります。こうして城下町建設は急速に進みます。蜂須賀家によって進められた徳島城下町は、全国的にみても早い時期に成立した近世城下町の一つのようです。
蜂須賀氏に少し遅れて讃岐に入ってきたのが生駒氏です。生駒氏も讃岐のどこに拠点を置くかについて、「引田 → 宇多津 → (丸亀) →高松」と変遷しています。高松への城下町設置についても秀吉からの助言と指示があったことが考えられます。

桃山時代に行われた徳島城下町プランの特徴を、研究者は次のように指摘します。
①古野川の分流である新町川・寺島川・助任(すけとう)川・福島川な下の網状河川を濠堀として利用した「島普講」
②従来の渭山城と寺島城のふたつの城を取り込んで築城し、「渭津」と呼ばれた地を「徳島」と改称。
③城郭のある徳島地区と大手筋(通町)にあたる内町・寺島地区を中心に、出来島・福島・常三島・藤五郎島の6島と前川・助任・寺町・新町の各地区を徐々に整備。(図4-1)c
御山下画図 、徳島城下町の一番古い絵図
       御山下画図(徳島城下町の一番古い城下町図)
例えば、この時に整備された「寺島」地名の由来は、『阿波志 二巻』(国会図書館蔵)の次の記述からきているとされます。

「旧観多因名天正中移之街」

  ここに最初から寺社が建ち並んでいたのかと云えば、そうではないようです。もともと渭津には、中世には社寺はほとんどなかったようです。それでは、どこから移転させたのでしょうか。
中世徳島の政治的中心は、細川・三好氏の拠点があった勝瑞城館周辺でした。
そのためその周辺には、27ケ寺もの寺院がありました。その内の6ヵ寺を寺島に、8ヶ寺を徳島城下の寺町、2ケ寺を層山山麓に蜂須賀氏は移しています。寺院を城下町の一箇所に集め「寺町」を形成し、軍事的・政治的要地とするという手法は、当時の城下町形成のほとつの手法でした。

 御山下画図をもう一度みてみましょう。
御山下画図 、徳島城下町の一番古い絵図

これを見ると、徳島地区の城郭東隣3区画 + 徳島城側の寺島地区3区画 + 「ちき連(地切)」と呼ばれた籠島地区2区画は、「侍町」と記されています。寺島地区にはこの他にも、「侍町」「町や」、「城山」や、城山西隣に隣接した瓢箪島(一部は明屋敷、のちの花畠)や、出来島・常三島・前川に「侍屋敷」、助任や、福島川治いにも「町家」が見えます。新町川対岸の新町地区にも道路割から町割があったことが分かります。
 ここでは秀吉時代に姿を見せた徳島城下町は、徳島・寺島・出来島を中心とした小規模な城下町で、次第に町割が拡充整備されていったことを押さえておきます。

 徳島と寺島に架かる徳島橋(寺島橋)については、『阿波志 二巻』に、次のように記されています。
「紙屋街 坊三有、旧名寺島街、国初徳島橋跨此後移橋迂通街、官命許嵩(販売)紙他街不得」
「徳島橋 在左詐樵(物見櫓):門外、跨寺島川、旧在鼓楼下、跨紙量街後移迂此」
御山下画図
御山下画図の徳島橋

ここからは城下町建設当時の徳島橋は、寺島街(町)と呼ばれた紙屋町に通していたこと、それが後に約100m南に移され、通町につなげたとことが分かります。通町は、徳島城下町の大手筋にあたりますが、仮に城下町建設当初は紙屋町が大手筋とすれば、徳鳥橋移設前の城下町構造は寛永前期(1630年頃)までとは多少異なっていたと研究者は考えているようです。
 徳島城下町は豊臣期プランでは、天守を仰ぐタテ町型の城下町建設が進んだと従来はされてきました。
しかし、紙屋町・通町のいずれからも城山山上の本丸や東ニノ丸の天守を見ることはできません。ただ北方道と紙屋町通りが合流する三叉路地点からは、徳鳥城南西隅に設けられた物見櫓が正面に見えただけになると研究者は指摘します。

徳島城下町がヴァージョンアップするのは、1615(元和元)年の大坂の陣以後のことです。
大阪の陣の功績で、蜂須賀家は淡路一国七万石が加増されます。これを契機に徳島城の大幅改造が行われます。その一環として徳島城の拡幅や、徳島橋の架け替えが行われたようです。しかし、徳鳥城下町の町割自体には大きな変化は見当たりません。
 一方、大坂夏の陣が終わると―国一城令が出されますが、当時の蜂須賀家の阿波国統治の基本スタイルにすぐには変化はなかったようです。蜂須賀藩では、人部以来、手を焼いた祖谷山一揆や丹生谷一揆の領内鎮撫への反省・対応から、9つの支城をそれぞれ城番家老が担当するという分権的支配体制(「阿波九城」体制)がとられていました。

阿波九城a.jpg
阿波九城体制

そこで新たに領地となった淡路国にも、山良成山城に城番として大西城(池田城)の城番を務めた牛田一長入道宗樹が宛てられています。阿波九城の一宮城や川島城などは、元和元年ころまでには廃城となっていたようですが、支城すべての破却が完了するのは、島原の乱後の1638(寛永15)年頃になります。
 しかし、徳島城下町の都市改造は、これよりも早く1630年代(寛永期以降)には着手していたようです。それが分かるのが「(忠英様御代)御山下画図」で、これには次のような懸紙が付されています。
徳島城の建物・石垣の修復願い
徳島城下(御山下)周辺の佐古村に「町屋二被成所」
福島東部の地先に「御船置所」
富田渡場に「橋二被成所」
ここからは、この絵図が徳鳥城修復や城下町再編のために幕府に提出した計画図の控えであることが分かります。ちなみに富田橋の建設申請は何度も幕府に提出されますが認められず、架橋されたのは明治になってからです。
「御山下画図」には「島普請」の様子が、次のように描かれています。
①徳鳥・寺島・出来島・編島・住吉島・福島・前川地区に侍屋敷が配置されていること
②内町・新町・助任町・福島町の町人地の家並みが描かれていること
③内町には尾張・竜野出身の蜂須賀家譜代の特権商人が集められていること
④新町川を挟んだ対岸に地元商人が集つまる新町が形成されたこと
⑤新町と眉山の間に寺町が設けられていること
⑥城下町縁辺に配置されることが多い足軽町が見当たらないこと

⑥については、当時はまだ有力家臣による城番制で、各支城ごとに約300人の家臣団が分散配置されていたためと研究者は考えています。しかし、村方の佐古村や富田浦には生け垣で囲われた中上級武士の家屋が多く描かれています。すでに廃城となった一宮城や川島城にいた中下級家臣が、城下周辺に住むようになったことがうかがえます。これらの家屋は伊予街道・土佐街道沿いに建ち並び、家並みも後世の町割につながる形状です。この図が作られた頃には、徳島城下町の改造計画が始まっていたのです。
 この図には、次のような施設も描かれています
①常三島の南東部(現・徳島大学理工学部付近)に移転することになる安宅船置所(古安宅)や住吉島の加子(水主)屋敷
②城下町の北側には蜂須賀家菩提寺の福衆寺(慶長6年に徳島城内より移転、寛永13年に興源寺に改称)や江西寺、
③城下東側に慈光寺(慶長11年に名束郡人万村より福島に移転)。蓮花寺(寛永8年に住吉島に移転ヵ)、
④城下南方の勢見(せいみ)には1616(元和2)年に勝浦郡大谷村より移転し徳島城下の守護仏とされた観音寺
また、この図には描かれていませんが城下西の佐古村には1602(慶長7)年に大安寺が創建されています。これらの四囲の寺院は、城下町防衛の軍事的観点から配置されたと研究者は考えています。関ヶ原の戦い以後も、蜂須賀家が引き続き城下町整備に務めていたことがうかがえます。

以上、初期の徳鳥城下町は吉野川デルタの島々の上に形成されたために、同時期に建設された近江八幡・岡山・広島・高松の城下町のように方格状の町割や足軽町の形成などは見られません。そういう意味では、町割ブランは明確ではなかったと云えます。町割りプランが明確化するのは、徳川政権下の慶長期以降だったことを押さえておきます。
 徳島城下町が大きく再編するのは、1630年代末になってからです。
その背景には、1638(寛永15)年までに阿波九城(支城)の破却が進んだことが挙げられます。そして1640年代になると川口番所や境目(国境)番所や阿波五街道などのインフラ整備が進みます。こうして阿波九城に居住していた家臣団が徳島城下へ集住することになります。その対応策としてとられたのが佐古村や富田浦を新たに城下に組み入れ、武士団の居住地として整備することです。そこには伊予街道や土佐街道のインフラ整備と連動して、新たな都市プランが採用され、足軽屋敷や中下級藩士の屋敷、町屋など長方形街区の町割が整備され姿を見せるようになります。こうして「御山下」と称する徳島城下町の縄張りがほぼ確立します。
 洲本城下町の建設や徳島城下町の再編を主導したのは非城番家老の長谷川越前でした。蜂須賀家では、幕府指導の下にこうしたインフラ整備を実行していく中で、各城番家老による分権的支配体制から藩主直仕置体制への政治改革が同時に進んだと研究者は考えています。

  あたらしく城下に編入され佐古・富田の町割プランを見ていくことにします。
阿州御城下絵図 1641年
阿州御城下絵図(1641年)

徳島城下町 西富山の屋敷割図
新たに城下に編入された西富田の「屋敷割之絵図」(1641(寛永18)年:国文学研究資料館蔵)です。土佐街道が中央を貫いています。これについて、研究者は次のように分析します。

徳島城下町 富山の屋敷割図
富田地区の屋敷割図

①東富田地区は中下級家臣の拝領屋敷や有力家臣の下屋敷が多くを占めている
②新町川南岸沿いに長方形街区が2列幣然と区画され、東西幅はおおむね75間を基準とした
③一方で長方形街区の南側に立地する下屋敷の規模は大きく、町割は不規則区画を示している|。
徳島城下町 東富田の屋敷割り(1641年)
東富田地区の屋敷割り(1641年)
徳島城下町 左古の屋敷割図
佐古の屋敷割図
佐古は東西に伊予街道が貫きます。
④佐古橋で新町に通じる佐古地区では、4間幅の伊予街道北側に東西55間(約100m)×南北15間(約27m)の町屋敷ブロックが9丁にわたって整然と配置されている。

徳島城下町 左古の屋敷割図拡大
佐古一丁目の拡大図
⑤伊予街道と平行して北側に東西方向に伸びる4間道の両側と3間道の南側に、東西55間×南北15間の街区ブロック3列が9丁連続し、
⑥それぞれの街区ブロックには間口を道路側に向けた11戸の鉄砲組屋敷が短冊状に配置
⑦鉄砲組屋敷ブロックの北側には、3間道を挟んで御台所衆・御長柄の組屋敷や中級高取屋敷が不規則に配置

寛永末期の徳島藩士は3374人を数え、その内訳は高取482人、無足444人に対し、無格奉公人が2448人で約736%を占めています。阿波九城が破棄されると、その中下級藩士を徳島城下に集住させることになります。このために徳島城下町の大改造が行われたことを押さえておきます。
(正保元)年12月に、幕府は国絵図・郷帳と合わせて城絵図(城下絵図)の提出を各本に求めます。

正保国絵図 徳島3
正保国絵図 徳島城下

「阿淡年表秘録」正保3年の項には、次のように記されています。
今年 御両国絵図 且御城下之図郷村帳御家中分限帳依台命仰御指出」

この時に幕府に提出された正保城絵図(上図)が国立公文書館に所蔵されていて、控図も残っています。そこには「阿波国徳島城之絵図 正保三丙戊11月朔  松平阿波守」と奥付に記されています。
この絵図で研究者が注目するのは、「(忠英様御代)御山下画図」では、村方表記になっていた佐古・西富田・東富田の侍屋敷地が「御山下」に編人されていることです。
正保国絵図 徳島.左古拡大JPG
坂本の侍屋敷と伊予街道

西富田の足軽町は、徳島城|下の守護を祈願した観音寺や金刀比羅神社がある勢見岩ノ鼻まで拡大されています。1616(元和2)年の観音寺や全刀比羅神社の移転は、こうした城下町再編計画の一環だった可能性があります。福島地先には計画通り安宅船置所が設置され、その西側に「船頭町」も描かれています。船置き場移転の結果、常三島の古安宅付近は、「侍屋敷」になっています。また、阿波五街道に指定された讃岐本道・伊予本道・土佐本道・淡路本道の4街道は、徳島城鷲の門を起点に朱筋で示されています。
 正保城絵図は城地・石垣に関する情報のほかにも、城下の町割と侍屋敷、足軽町、町家、寺町な下の土地利用を記載することが幕府によって求められていました。これに従って「阿波徳島城之絵図」では次のような施設が描かれています。
城地に屋敷や馬屋・蔵屋敷
安宅に船頭町
西富田に餌指町・鷹師町
寺町周辺や城下四隅に置かれた「寺」
ここでは寛永後期~正保期にかけての都市大改造によって、徳島城下町の縄張りが確立されたこと、正保城絵図である「阿波国徳島城之絵図」は、そうした徳島城下町の再編計画の完成を示す城下絵図であることを押さえておきます。
明治初期の徳島城下町

以上をまとめておくと
①秀吉から阿波国主に封じられた蜂須賀家は、その指示に基づいて吉野川デルタ地帯に城下町を築いた。
②初期の城下町はデルタ上の島々の上に築かれたもので、寺町・町人などの居住区は整備されたが侍屋敷の数は少なかった。
③これは当時の蜂須賀藩が「九支城体制」で、多くの家臣団が支城に居住していたことによる。
④それが変化していくのは、淡路加増や一国一城が貫徹し支城が廃棄されるようになってからのことである。
⑤多くの家臣を徳島城下町に居住させるために、計画的な家臣団住宅整備プランが実施され、侍屋敷が整備された。
⑥これらは五街道や藩船置場(港)などの社会的なインフラ整備と一括して実施された。
⑦こうして1640年代には、徳島城下町はヴァージョンアップした。

こうしてみると高松城の変遷と重なる点が見えて来ます。高松城は、16世紀末に生駒氏によって、海に開かれた城郭として整備されます。しかし、城下町に家臣団は住んでいなかったことは以前にお話ししました。それは生駒藩が棒給制をとらずに、領地制を維持したために家臣団が自分の所領に舘を構えて、生活していたからでした。それが変化するのは、高松藩成立後です。生駒騒動後にやってきた高松藩初代藩主松平頼重は、再検地を行い棒給制へ移行させ、家臣団の高松城下町での居住を勧めます。こうして高松城下町でも家臣団受入のために、侍屋敷の整備が求められると同時に、急速な人口増が起きます。その結果、南の寺町を越えて市街地は拡大することになります。高松と徳島で、城下町が整備されていくのは1640年代のことのようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 徳島城下町の町割変化 近世城下絵図の景観分析GIS分析比較
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「祖谷紀行」を読んでいると「祖谷八家」という用語が良く出てきます。「祖谷八家」の中には、平家の落人伝説の子孫で、平家屋敷と呼ばれる家もあります。中世の「山岳武士」の流れを汲む名主という意味で、誇りを持って使われていたようです。今回は「祖谷八家」が、中世から近世への時代の転換点の中で、どのようにして生き残ったのか。その戦略や処世術を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」です。

祖谷山は中世に、以下のように東西三十六名の名主(土豪)達によって支配されていました。
祖谷山三十六名

東祖谷山分12名
菅生名・久保名・西山名・落合名・奥井名・栗枝渡名・下瀬名・大枝名・阿佐名・釣井名。今井名・小祖谷名
西祖谷分24名
、閑定名・重末名・名地名・有瀬名・峯名・鍛冶屋名・西名・中屋名・平名・榎名・徳善名・西岡名・後山名・.尾井内名・戸谷名・一宇名・田野内名・田窪名・大窪名・地平名・片山名・久及名・中尾名・友行名・
以上の二十四名、東西合わせて三十六名になります。
 この時代は「兵農未分離」で、武力を持つ者が支配者になっていきます。各名主は、力を背景にエリア内では経済的に抜きん出た地位にありました。
曽我総雄氏は、慶長17年の「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」を分析して、次の表を作成しています。(『西祖谷山村史』(大正11年版)
「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」
三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳の土地所有関係
この表からは次のような事が分かります。
①50反(五町)以上の土地所有者が名主。
②吾橋西の名内全耕地面積は77、8反
③名主の所有は反数54反
④名全体のの耕地面積の約7割を、名主が所有
⑤全戸数12戸の内で8戸は、3反以下の貧農
ここからは、名主が名(みょう)内の経済を牛耳っていたことが分かります。貧農達は独立しては生活できません。何らかの形で名主に頼らざる得ません。これを隷属農民と研究者は呼びます。ここからは、中世から近世にかけての祖谷山の支配構造は、つぎの両極に分かれていたことが分かります。
①各名主階層に隷属する農民
②農民の夫役労働力に依存して農地経営をおこなう名主
ここでは名主は、各名単位に経済単位を形成し、名内に君臨していたことを押さえておきます。
蜂須賀家政(徳島県・戦国武将像まとめ) | 武将銅像天国
             蜂須賀家政
 阿波一国の主人としてやってきた蜂須賀家政は、近世大名として「領内一円知行」を進めます。
領内一円知行とは、領主が自分の権力で、領内を自己一人のものとして領有し経営することです。これは中世以来の阿波の土豪衆の存在を否定することから始まります。このために細川・三好・長宗我部の三代に渡って容認されていた土豪からの領地没収が当面の課題となります。
 まず蜂須賀家政は、検地に着手します。これによって①耕地面積の確認と②耕作者としての農民の確保、の実現を目指します。そのために「土地巡見使」を派遣します。この役割は、検地施行を前提とする土地の所有状況と実態掌握を行うものでした。これ対して、平野部での検地作業は順調にすすみますが、山間部の土豪達は、抵抗の狼煙をあげます。天正13年(1885)6月から8月にかけて、仁宇山・大粟山・祖谷山などの土豪たちが立ち上がります。これらは内部分裂もあって、短期間で軍事力によって押さえつけられます。
 仁宇谷・大粟山の抵抗を一か月余で鎮圧した蜂須賀家政は、祖谷山にその矛先を向けます。
 この当時の様子を伝えるものとして「祖谷山旧記」は、次のように記します。
蓬庵様(蜂須賀家政)御入国遊ばせられ候硼、数度御召遊ばせらるといえども、御国命に応じ奉らす、御追罫の御人数を御指向け遊ばせられ候ところ、悪党難所に方便を構え、追て御人数多く落命仕り候。此時に至り、私先祖北六郎二郎、同安左衛門、美馬郡一宇山に罷り在り、兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、降参人の者召し連れ罷出、名職を申し与え、相違なく下し置させられ候。相一坦わざる族は、或は斬拾、或は溺め捕え、罷り出候、

  意訳変換しておくと
蜂須賀小六が阿波に入国して、(祖谷の土豪達に)何度か徳島城に挨拶に来るように命じたが、その命に応じない。そこで、追討の兵を差し向けると、悪党(土豪)たちは難所に砦を構え抵抗し、追手側に多くの死者が出た。そのため私の先祖である北六郎二郎、安左衛門が、美馬郡一宇山にやってきて、祖谷の悪徒誅討を願い出た。方便(調略)で、土豪衆の半分を降参させ、その者達を召し連れて、名職を与え、蜂須賀家の下に置いた。ただ従わない一族は、斬首や溺め捕えた。その次第は以下の通りである

 蜂須賀家政は、祖谷の名主たちの抵抗に対して、武力鎮圧を避けようとします。そして、祖谷の名主のことをよく知っている人物に処理を任せます。それが北(喜田)氏でした。
北氏の出自については、よく分かりません。
 ただ、天正十年に長宗我部氏と争って敗れ、本貫地だった阿波郡朽田城から一宇山に退却していたようです。北氏と祖谷山勢とは、もともとは対抗関係にありました。北氏としては、この際に新勢力の蜂須賀氏につくことで、失地回復を計ろうとする目論見があったようです。そのため蜂須賀氏にいち早く帰順したのでしょう。そして、美馬郡岩倉山・曽江山勢の武力反抗の鎮圧に参加しています。その功としてし天正14年には、一宇山で知行高百石余を得ています。これはかつての朽田城城主の地位には及ばないにしても、経済的には祖谷山の名主に優るものでした。
こうして、蜂須賀藩から祖谷山勢の鎮圧を任されます。このあたりのことが次の表現なのでしょう。
兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、

ここからは、北氏は武力一辺倒でなく、北氏の才覚で「名職の安堵」を条件に、祖谷土豪達の懐柔分断策を展開したことが分かります。「名職の安堵」とは、中世以来の名主の地位の容認です。
 ちなみに『祖谷山旧記』は、北(喜多)家の軍功と由緒を記録した「自家褒賞」的なもので、史料としては問題があります。しかし、当時の様子を記したものが他にないので、取扱に注意しながら手がかりとする以外に方法がないと研究者は考えています。

『祖谷山旧記』に書かれた喜田(北)氏の「調略」方法をもう一度見ておきます。
いち早く降服した者は、
菅生名、名主・榊原 織部介
久保名、名主・阿佐 兵庫
西山名、名主・橘主 殿之助
阿佐名、名主・阿佐 紀伊守
徳善名、名主・国藤 兵部
有瀬名、名主・橘  右京進
大窪名、名主・青山 右京
小祖谷 名主・石川 備後
ついで降服した者は、
後山名、名主・国藤左兵衛
片山名、名主・片山 与市
地平名、名主・今井 藤太
閑定名、名主・阿佐 六郎
戸の谷名、名主・川村 源五
名地名、名主・青山 新平
西岡名、名主・堀川 内記
西  名、名主・播摩平太兵衛
中屋名、名主・下川与惣治
友行名、名主・佐伯 彦七
以上18名の名主は、北(喜田)氏の調略を受入て、「御目見仰せ付けさせられ、持ち懸りの名職、下し置させられ(藩主へのお目見えを許された名職」を与えられ、蜂須賀家政に下った者達です。

一方斬首された者は、
下瀬名、名主・大江 出雲
久及名、名主・香川 権大
釣井名、名主・播摩 左近
今窪名、名主・中山藤左衛門
榎  名、名主・三木 兵衛
一宇名、名主・田宮 新平
平  名、名主・八木 河内
この七名は、北六郎二郎・同安左衛門父子の手によって斬首されました。その理由は、「重々御国命に相背き、相随わず、あまつさえ土州方と取持、狼藉」を働いたとされます。また、次の十一名の名主は、前記七名の名主が斬首されたのと前後して、讃州の鵜足に逃げますが、北六郎二郎、同安右衛父子の手によって補えられます。
落合名、名主・橘  大膳
大枝名、名主・武集 平馬
尾井内名、名主・大野 王膳
今井名  名主・黒田 監物
田野窪名、名主・横田 内膳
田野内名、名主・坂井 大学
鍛冶屋名、名主・轟  与惣
峯  名、 名主・影山 将監
奥野井名、名主・松下 平太
栗伎渡名、名主・松家 隼人
重末名、 名主・本多 修理
これを一覧表にしたものが東祖谷山村誌223Pに、以下のように載せられています。
近世祖谷山三十六名の措置一覧
近世祖谷山三十六名の処置一覧表
この中で北氏が斬殺処分にした七名については、次のように記します。
「重々国命に叛いた上に、右七人の者共と徒党を組んで、土州と連絡しながら敵対を重ねた。そこで徒党のメンバー七人の首謀者六郎二郎・安左衛門を斬り亡ぼした。また逃亡した六郎二郎・安左衛門父子を追補し、讃州の鵜足郡にて11人を捕らえた。安左衛門については、ここからすぐに渭津へ囚人として引連れて、早速に成敗が仰せ付けられた。六郎二郎については、上記18人の親族のどのような企みをしていたのかが分からないので、捕縛地の鵜足から祖谷山へ連れて帰り、十八人の一族を総て召し捕えて渭津へ連行し、取り調べを行った上で、罪刑の軽重によって、重い者は成敗が仰せ付けられ、軽い者には、以後は国命に随うとの起請文を書かせて放免とした。

以上を整理して起きます
①蜂須賀家政は、北六郎二郎、安左衛門に、祖谷の土豪抵抗勢力の鎮圧をを命じた。
②北六郎二郎、安左衛門は、方便(調略)で土豪衆を分断懐柔し、半分を降参させた。
③早期に抵抗を止めて従った者達は、名主(後の庄屋・政所)として取り立てた。
④一方、最後まで抵抗を続けた土豪たち18名は厳罰に処した。
⑤こうして中世には36名いた名主は、18名に半減した。
⑥18名の名主の統括者として、喜田(北)氏が祖谷に住むことになった。

祖谷山の名主たちの武力抗争が鎮圧されたのが天正18年(1590)でした。それから20年近く経た元和3年(1617)に、刀狩りが祖谷山でも行われることになります。
祖谷山日記には、刀狩りについて次のように記されています。

「元和三年、蓬庵様の御意として、祖谷中の名主持伝えの刀脇指詮議を遂げ指上げ中すべき旨、仰せ付けられ、東西名々それぞれ詮議仕り、取り揃え指上げ申し候。」

意訳変換しておくと
「元和3年に、藩主の蜂須賀家政様の名で命で、刀狩りを行うことを、祖谷中の名主に伝え、刀脇などを差し出すように申しつけた。東西祖谷山村の名主達は、命に従い刀を取り揃えて提出した。

祖谷山に派遣された刀狩代官は、渋谷安太夫で、政所は喜田安右衛門でした。この二人によって徴発された刀剣は27本と記録されています。その際に、徴発した刀類については、代物、代銀が支払われることになっていたようです。ところ3年経った元和6年(1620)になっても、その約束が守られません。
これに対して、祖谷の名主が不満を表明したのが、刀狩りと強訴一件です。
この事情について「祖谷山旧記」は、次のように記します。
「代銀元和六年迄に御否、御座無く候に付、指上人の内、名主拾八人発頭仕り、百姓六百七拾人召し連れ、安太夫に訴状指上げ、蓬庵様御仏詣の節、途中において、御直訴仕り候」

意訳変換しておくと
「元和6年になっても刀剣の代金が支払われていないことに対して、名主18人が発議し、百姓670人余りを引き連れて、安太夫に訴状を指し上げ、藩主のお寺参りの途中で直訴した

この強訴に対しての、蜂須賀蓬庵(家政)の処置を一覧化したものが下の表です。
祖谷山刀狩りと強訴参加一覧

この表からは次のような事が読み取れます
①天正の一揆では、早期帰順者18名は処分されなかった(○△)
②残りの18名の名主は処分を受けたが、罪が軽いとされた名主は家の存続を許されていた。
③その中で18名の名主が刀狩り強訴に加わり、その中の多くの者がが「成敗・磔罪」に処せられた。
④一揆での早期帰順者は、刀狩りの際に刀剣を供出しているが、強訴には参加していない。
結局、「一揆・早期帰順者と強訴不参加者グループ」が阿波藩からの粛正を免れたことになります。そして彼らが「祖谷八家」のメンバーになっていくようです。

結果的には、この強訴事件を逆手にとって、蜂須賀藩は祖谷への支配強化を図ります。それはある意味では藩にとっては「織り込み済みのこと」だったのかもしれません。これについて東祖谷山村誌は、次のように記します。
藩権力としては、どうしても祖谷山名主層の武力解体は、藩経営のうえからいって、さけることのできないことであった。(中略)
このことは、藩権力のまさに、藩制確立のために、天正の武力抗争への持久力を秘めた処置の姿であり、名主層にしてみれば権力失墜への最後の抵抗も、力の優位の前に敗北という結果となっている。元和四年という年は、阿波藩にとっては重大な時期であり、祖谷山の強訴の落着によっていよいよ藩制の確立が目に見えて強まるのである。
 
  どちらにしても、阿波藩に抵抗せずに温和しくしたがった名主達が生きながらえて、「祖谷八家」と称するようになることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」

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