瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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  讃州竹槍騒動 明治六年血税一揆(佐々栄三郎) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

本棚の整理をしていると佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」が目に入ってきました。ぱらぱらと巡っていると私の書き込みなどもあって、面白くてついつい眺めてしましました。約40年前に買った本ですが、今読んでも参考になる問題意識があります。というわけで、今回はこの本をテキストに、「血税一揆」がどんな風にして起こったのかを見ていくことにします。

明治六年(1873)6月26日 三野郡下高野村で子ぅ取り婆さんの騒動が起こります。
この騒動について、森菊次郎は手記「西讃騒動記」を残しています。
この人は三豊郡詫間町箱の人で、戦前、箱浦漁業会長などもした人で、昭和28年に86歳で亡くなっていますから、この一揆のときは六、七歳の子どもです。そのため自分の体験と云うよりも聞書になります。そのために事実と違うことも多く、全面的に信用できる史料ではありません。しかし、一揆に関する記録のほとんどが官庁記録なので、こうした民間人の記録は貴重です。

血税一揆 地図
子ぅ取り婆事件の起きた下髙野

子ぅ取り婆事件について、この手記は次のように記しています。
『子ぅ取り婆が子供をとっているとの流言飛語が一層人心を攪乱した。しかも実際にその子ぅ取り婆を認めたものはなかった。その子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者でこれが、ちょうど騒動の起こりだった。

この子ぅ取り婆が明治六年六月二十六日、坂出町から三野郡に入り込み、同日昼ごろ、比地中村の春日神社に来たり、拝殿でしきりに太鼓を打ち鳴らし、騒がしいので神職及び二、三の人々は懇諭、慰安を与えなどして行き先を問うたら、観音寺へ行くというので、早く行かぬと日が暮れると言い聞かせ、門前を連れ出し、観音寺へ行く道を教えて出立せしめたが、 最早、下高野の不焼堂(如来寺)へ行くまでに日没となってしまった。
夕涼みの多くの人々は、子ぅ取り婆が来たと大騒ぎし、婆が行く前後には多くの子供がつきまとった。その子供らの中の一人を老婆が抱きあげると、多勢の人々はこれを追っかけ、取り返した。しかし実際は取ったのではなく、その子供が大勢の人々に押し倒され転んで井戸の中へ落ちんとしたのを救いあげ、抱いたまま走って行ったのでした。 一犬吠ゆれば万犬吠ゆで、これが竹槍騒動の動機となった』
以上が「西讃騒動記」の発端の部分です。ここからは次のようなことが分かります。
①子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者で
②明治6年6月26日、坂出町から三野郡に入り込み、昼ごろに比地中村春日神社にやってきた。
③日没時に下高野の不焼堂(如来寺)にやってきて騒ぎとなった
この他に、一揆のまとまった記録としては、次の2つがあるようです。
①一揆後の近い時期に官庁報告をまとめた「名東県歴史
②邏卒報告書などから材料を得た昭和9年発行の「旧版・香川県警察史
この内で②の「警察史」は、その発端をを次のように記します。
 『明治六年六月二十六日正午頃、第七十六区の内、下高野村へ散髪の一婦人現われ、附近に遊べる小児(当時の副戸長秋田磯太の報告によれば小児の父兄、姓名、自宅不明とあり)を抱き、逃げ去らんとしたり。これを眺めたる村民は、当時、児取りとて小児を拉し去り、その肝を奪ぅもの徘徊するとの風聞ありたる折柄とて、忽ち附近の農民寄り集まり、有無を言わせず、打殺さんとしたるを、村役人田辺安吉これを制し、故を訊さんため、先ずその婦人を自宅に連れ帰りたるに、村民増集、喧騒するを以て、日辺は比地大なる同区事務所(役場)へ報告、指揮を抑ぎたり。
 このとき事務所には戸長不在にて副戸長秋田磯太あり、兎に角その婦人を事務所まで同行すべく命じたり。然るに田辺宅附近に集まりし村民は日々に不同意を唱ぇ、田辺をして同行せしめず、田辺は止むなく再び事情を報告したりしに、秋田副戸長は田辺宅に出張し来り、門柱に縛しあるを一見するに頭髪の散乱せる様といいヽ眼使いといい、全く狂人としか思われず、何事を問ぬるも答うるところなく、住所、氏名さえ明らかならぎるをもって、徐々に取調べんと思いたるも、何分多人数集合せるを以て無用の者は退去すべく再三論したるも聴きいれず、彼是、押問答の内、戸長名東県歴史又駈けつけたり。
群集を説諭しヽ婦人は兎に角事務所へ連れ帰ることとなり、先ず戒めを解き門前に引出し、群集に示し、その何人なりやを訊したるも誰一人として知れるものなく、全く他村の者と定まりしがヽ狂婦は機をみて逃げ出さんとしたるを秋田副戸長はすかさずヽその襟筋をとらえて引戻したり。

然るに、このときまで怒気をおさえて見物せる群集は最早たまりかね、三つ股、手鍬をもって打掛かりしを以て戸長らはかろうじてこれを支え、狂婦をまた田辺宅に引き入れ警戒中、急報により観音寺邏卒(巡査)出張所より伍長吉良義斉は二等選率石川光輝、同横井誠作の二名を率い、急遠田辺宅に駈けつけたり。このときは既に無知の土民数百名、竹槍又は真槍を携え、田辺宅を取り囲み、吉良の来るをみるや、口を極めて罵詈し、騒然として形勢不隠なり。吉良は漸く田辺方に入り、ここにまたもや狂婦の尋間を開始したるも依然得るところなく、僅かに国分村の者なるを知り得たるのみ―』
 この経緯をまとめておくと、次のようになります。
①子ぅ取り婆が子どもを抱いて連れ去ろうとした
②それを村民たちが捉えて、なぶり殺しにしようとしたので村役人の田辺安吉が自分の家に連れて帰った
③戸長も駆けつけ、戸長役場に連行しようとしたが、取り囲んだ人々はそれを認めず騒ぎは大きくなった
④急報によって駆けつけた邏卒の姿を見ると群衆は、怒り騒然とした雰囲気に包まれた。

血税一揆 事件発生
下髙野

事件の起こった場所については、どの記録も下高野と記します。
地元では下高野の南池のほとりと伝えられているようです。南池は不焼堂(如来寺)から街道を百メートルあまり南へ行った付近にあります。不焼堂あたりから子供たちが、子ぅ取り婆さんにぞろぞろとつきまといはじめ、南池のほとりでこの事件が起こったものとしておきましょう。子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた子供と、この子供の守をしていた人の家、及び村吏の田辺安吉の家もこの南池の近くにあります。
 豊中町本山のKさんの祖母は田辺安吉家から出た人ですが、この人は生前に、子ぅ取り婆さんは田辺家の門の柱に縛りつけられ、散々痛めつけられて見るも哀れな姿であったと語っていたという。子ぅ取り婆さんは、その愛児が池で蒻死したため発狂したとされます。つきまとう子をかかえて走ったのは、その子がわが子とみえたのかもしれません。
子ぅ取り婆さんについては、名前は塩津ノブ。 年齢は30代後半と(旧「観音寺市史」は記します。出身地については、
「西讃騒動記」は坂出町
「警察史」は志度町とも国分村とも書いています。
「豊中町誌」は『寒川郡志度の者』
「名東県歴史」は 『女は阿野郡国分村農、与之助の孫女』
信頼度の高い「名東県歴史」に従って国分村の者と研究者は推測します。
子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた小児については
①「名東県歴史」は、「比地大村の農民某の妻二児を携え路傍に逍逢す」
②「警察史」は『小児の父兄、姓名、自宅不明』、『矢野文次の娘』
③地元の伝承では、「下高野村の南池近くの家の子で、後に成人して比地大村へ嫁した」

②の「警察史」は『矢野文次の娘』とあるのは、一揆の首謀者が矢野文次であったからのこじつけと研究者は指摘します。
①は、子ぅ取り婆さんが抱きかかえられた子を「二児」と記しますが、これは他の史料には見当たりません。抱きかかえたのは一人のようです。
「警察史」は続けて次のように記しています。
 一方、土民は、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるの諺の如く、何ら事実を知らざるものまで出で加わり、はては鐘、太鼓を打ち鳴らし、西に東に駈け回ることとて、さなきだに維新早々の新官憲の施政には万事猜疑の眼をもって迎えいたりし頑迷無知の徒、次第にその数を加え、殺気みなぎる』

村吏の田辺安吉の家を取り囲んだ群衆は、邏卒の姿を見て興奮したようです。その背景は、「維新早々の新官憲の施政には万事猜疑の眼をもって迎えいたりし頑迷無知の徒」から読み取れそうです。日頃から戸長や邏卒に「万事猜疑の眼」を向けていたようです。「警察が来たぞ!」という声に、テンションが上がったようです。

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早鐘が鳴らされた延寿寺
そして早鐘が打ち鳴らされます。早鐘は、今で云う非常招集サイレンで、火事や非常時の際にならされました。この早鐘は七宝山の麓の丘にある延寿寺のものでした。鐘を鳴らした矢野多造は、事件後の裁判で「杖罪」に処せられ、背中が青ぶくれにはれあがるほどたたかれたと生前に語っていたようです。

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              延寿寺本堂
 鐘が鳴りはじめると間もなく手に手に竹槍を持った農民が、比地大村や、竹田村方面から国木八幡前を、道一杯に長蛇をなして下高野へ押し寄せて来ます。こうして、竹槍農民の数はますます増えて来ました。

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国木八幡神社

観音寺邏卒出張所の吉良伍長の報告を見てみましょう

 『百方説諭すといえども集合の徒一切聞き入れず、四方よりますます奸民群集し、既に私共へ竹槍をもって突っかけ、切迫の勢いに相成り、手段これ無く―』

吉津邏卒出張所、北村伍長選卒報告。
『共に説諭を加え候へども何分頑愚にしてその意を弁ぜず、漸く右を平治すれば左沸騰し、間も無く人民数百人群集、暴言申しかけ、竹槍にて突っかからんとする勢い、とても防ぐべき策無きにつき―』

村吏の田辺安吉宅を取り囲んでいた群集は、やがて移動を開始します。国木八幡宮前をまっしぐらに比地大村友信の豊田戸長宅へ向かったのです。そして、戸長宅に火が付けられます。一揆の焼打ち第一号は豊田戸長宅になります。
 そのころ傷を負った豊田戸長は、身の危険を感じて七宝山麓の知人の家に逃れ潜んでいました。彼は知人から野良着を借り、野良帰りの農夫をよそおって帰途にしようとして、わが家の焼けるのを見たようです。地元の下高野村では、これ以外には高札場が毀されただけでした。
この騒ぎの中、子ぅ取り婆さんは姿を消しています。彼女のその後の消息については記録、伝承ともにありません。
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         延寿寺山門からの下髙野    
子ぅ取り婆は、子供の血をとる。という風評は以前からありました。
  明治5年の戸籍法(壬申戸籍)で役場が家族名、性別を各戸について調査したとき、血をとって外国人に売るためだという流言が流れたと云います。同じく明治五年、外国人指導の富岡製糸場の女工募集も「女工になって行けば外国人に血をとられる」との噂があったようです。
それでは、人々はこの流言を本当に信じていたのでしょうか。
農民が子ぅ取り婆だけを問題にしていたのであれば、子ぅ取り婆が狂人と分り、どこかへ消えていった段階でこの騒ぎはおさまったはずです。ところが、群衆はこの後、戸長、吏員宅、区事務所、小学校、邏卒出張所などを次々と襲っていきます。襲撃対象を見ると、明治維新の新政後に登場した村の「近代施設」ばかりです。江戸時代の襲撃対象となった庄屋や大商人の邸宅が対象となっていません。これをどう考えればいいのでしょうか。
 血税一揆を語る場合に、民衆が血を採られると勘違いしたのが契機となったと「民衆=無知」説で片づけられることが多かったようです。しかし、研究者はこれに対して異議を唱えます。「百姓を馬鹿にするなよ。それを知った上での新政府への新政反対一揆であった」というのです。
徴兵令とは】わかりやすく解説!!目的や内容(条件&免除規定)・影響など | 日本史事典.com

一揆の背景となった徴兵制を見ておきましょう
明治5年1月発布の徴兵令に関する太政官告諭に、次のような文句があります。
『凡そ天地の間に一事一物として税あらざるものなく、以て国用に充つ。然らば即ち人たるものは、もとより心力を尽し、国に報ぜざるべからず。世人これを称して血税という。その生血を以て国に報ずるの謂なり』

徴兵=「生血を以て国に報ずる」=血税という説明になっています。
血税は英語の「ブラッド タックス」で兵役を意味します。これを担当官は「徴兵=血税」と訳しました。この訳が一揆の原因となったというのです。それはこんな風に語られました。
血税の二字から、村々は次のような流言でもちきりになった。
「血税というのは若者を逆さづりにしてその血を異人に飲ませるのだそうだ」
「横浜の異人が飲んでいるぶどう酒というのがそれだ。赤い毛布や、赤い軍帽は若者の血で染めているのだ」
「徴兵検査は怖ろしものよ。若い子をとる、生血とる」
という噂が流言となって広がったようです。
「西讃騒動記」には、次のような一節があります。

血税の誤解から当時の三野郡、豊田郡の人心動揺をはじめ、遂に竹槍、薦旗の焼き打ち騒動を惹き起こし、各町村の小学校、役人の邸宅に放火し、暴状を極めた。徴兵告論を読んだ人が、我国には昔から武士が戦いのことには専ら関係しているため、我らは百姓を大切に農業に従事し、つつがなく租税を納めておればよい。しかるに、西洋にならって徴兵して、生血を取る御布令には少しも従うことは出来ぬと反対し、その声喧章、だんだん広がって騒がしくなって来たので、 県では容易ならぬこととして比地大村の豊田徳平、竹田村の関恒三郎、 本大村の大西量平の三戸長をして人民の誤解を解かせょうとしたので、三戸長はその命を受け、熱心に血税云々につき各村々を巡廻講話を行ったのであるが、人民は頑として聞き入れず……」

 ここからは、血税という流言だけでなく徴兵制そのものへの反対が民衆の間には根強くあったことが分かります。その中で地元戸長たちが徴兵制推進のために「県の命を受けて熱心に血税云々につき各村々を巡廻講話」を重ねますが「人民は頑として聞き入れ」なかったようです。徴兵制反対の人々にとって、推進の先頭に立つ戸長たちに敵意が向けられるようになったことがうかがえます。

実は、讃岐の一揆の一週間前に、鳥取県でも同じような一揆が起きています。これを政府に伝えた県庁報告書には、次のように記されています。(意訳)
『明治六年六月十九日に伯者国会見郡で農民が蜂起した。この一揆の背景には人民哀訴や歎願があったのではない。また巨魁、奸漢などの黒幕が企てたものでもない。ただ徴兵公布令を農民輩たちが、徴兵令の中の「血税」等の文字を誤解し、事実無根の流言を唱え、兵役は生血を搾り取られる、兵事とはただ名のみで、その実態は血を取るためであるという流言が広まったためである。
 これに加えて、鉱山での御雇外国人が、鉱山検査のため、山陰、山陽を巡回し、本管内を巡回する際にも、生血を搾られるという流言が流された。そのため民衆の中には、一層の恐怖感を抱き、、家族の数を知られないように表札を隠したりする者も現れる始末であった。
 これを見て戸長たちは驚き困惑し、懇々と説諭したが民衆は聞く耳を持たない。そして、ついに北条県下の人民が蜂起し、それが本県にも波及した。頑民(戸長の云うことを聞かない人々)は、徴兵募集の役人が来たときには、相共に竹槍や使い慣れた器杖で追い返すべしと相談した。
  六月十九日、会見郡古市村の農民勝蔵の妻いせが、山畑で耕作していると異状の者(邏卒)の姿を見て、絞血(採血)の者と勘違いして、家族を守るために、近隣の儀三郎の家に走り込んで次のように告げた
「異状の者がやってきました、気をつけて下さい」
儀三郎の家には、二十歳の男子があり日頃から搾血の説を聞いて、心痛めていた。そのためこれを聞いて狼狽して、走り廻って
「搾血の者来れり」と叫んで告げた
村の人々はこれを聞いて隣村にも伝えた。また、寺鐘を早打ちして緊急集合をかけた。これを以て各村は、一斉に蜂起すすることになった』
(上屋喬雄、小野道雄編「明治初年農民騒擾録」所収)

ここには当時の鳥取県の担当者が「無知蒙昧な民衆が血税の流言に惑わされて、一揆を起こした」と中央政府に報告していることが分かります。「血税一揆=流言説」です。 「西讃騒動記」「名東県歴史」「警察史」なども大体同じ論法です。しかし、これに対しては反対論もあったようです。

新聞(明治5年)▷「東京日日新聞」(創刊号、現・毎日新聞) | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives

明治七年二月七日の東京日々新聞に発表された「血税暴動は県側の詭弁」は、次のように反論します。
 血取りの説は「血税」以前から流布していたのであって徴兵令からはじまったものではない。従って徴兵反対一揆は血税の二字に原因するものではなく、それは県吏の民意を愚民観ですり代え、一揆の真因をぼかそうとする地方政治担当者の政治的作為によるものである。

一揆発生の明治六年に出版されたの横河秋濤著「開化の入口」という本には、次のように記されています。
『比の頃、徴兵とやら、血税とやらいって、大切な人の子を折角両親が辛苦歎難を尽し、屎尿の世話から手習い、算盤そこそこに稽古させ、これから少し家業の役にもたつようになったものを十七歳、或いは、二十歳より引上げて、ギャッと生れてから夢にも知らぬ戦いの稽古させ、体が達者でそろそろ役にもたつものは直ぐさま朝鮮征伐にやり――』

そして、大分県の徴兵反対一揆に立ち上った農民の一人は、次のように嘆いています。
「徴兵で鎮台に遣わされ、六、七年も帰して貰えないのでは全く困ったことになってしまう」

この頃、俗謡にあわせて、「徴兵、懲役一字の違い、腰にサーベル、鉄鎖り」という俗謡が流行になったともいいます。
ここからは農民は血取りを恐れていたのではなく、徴兵そのものに反対していたことがうかがえます。
警察の誕生と歴史
裸を取り締まる明治の邏卒(警察官)

血税一揆の際に、邏卒が上司へ提出した報告書を見てみましょう。
第四十九区(一揆波及地―阿野郡北村、羽床上、同下、山田上、同下の各村)
第五十五区(一揆波及地―同郡岡田上、同下、同東、同西、栗態東、同西の各村)
は、以前徴兵検査の節、所々山林へ集合し、度々説諭にまかり越し候区内なれば、農民共、此の虚(一揆蜂起)に乗じ発起すべきもはかり難きに付、情、知察のため午後二時頃より巡遣し、四時頃帰宅』
意訳変換しておくと
二つの区は、以前に徴兵検査について、山林へ集まって反対集会を開いていたところなので、度々説得に出かけた区内である。農民共が、この旅の一揆蜂起に参加するかどうか分からない情勢なので、偵察に午後二時頃より巡回し、四時頃に帰宅した』

滝宮邏卒出張所詰、平瀬英策報告。
『(鵜足郡)林田村の頑民、 既に説諭によって服従、 一時検査を受くるといえども余儘なお残炎、時あらば後燃せんとする気、もとよりその場動するものありて然り』
意訳変換しておくと
『(鵜足郡)林田村(坂出市林田町)の頑民(新政府反対派)たちは、 すでに我々の説諭によって服従し、徴兵検査を受けた者もいるが、心の中には今も残炎が残り、機会を見ては再び燃え上がろうとする雰囲気がある。もとよりその場動するものありて然り』

ここからは讃岐でも徴兵検査に反対する集会があちらこちらで開かれ、その度に邏卒や戸長が出向いて説諭を繰り返していたことが分かります。それが「血税」の流言だけのための反対運動ではないことは明らかです。「血税一揆」を流言によるものとするのは、民衆無知蒙昧説の上に胡座をかいた説と研究者は指摘します。
邏卒
              5代目菊五郎が演じた邏卒

上の史料からは一揆の頃には、すでに徴兵検査も行われ、徴兵検査で血が採集されないことは分かっていたはずです。ここからは人々が「血取り」反対したのではないと云えます。それでは何に反対したのでしょうか?
鳥取県一揆について農民の側から出した願書があります。それは次のように記されています。(「明治初年農民騒擾録」)
鳥取県一揆願書
一、米穀値段下げ仰せつけられ候こと。
二、外国人管轄通行禁止。
三、徴兵御繰出し御廃止仰せつけられ候こと。
四、今般騒動致し候条、発頭人御座無く候こと。
五、貢米、京枡四斗切り、端米御廃止仰せつけられ候こと。
六、地券合筆取調諸入費、官より御弁じ仰せつけられ候こと。
七、小学校御廃止、人別私塾勝手仰せつけられ候こと。
八、御布告板冊、代価御廃止。
九、太陽暦御廃止、従前の大陰暦御改め仰せつけられ候こと。
十、従前の通り半髪(丁髭)勝手仰せつけられ候こと。

ここには、徴兵反対の他にも、地券、小学校、太陽暦、斬髪令などの、この時期の新政府の出した政策に対する反対や、米価引き下げ、端米廃止などの生活に直結した要求が列挙されています。
先ほど見た政策担当者の県庁報告は、これらの事実を無視し、他に「哀訴歎願の根底あるに非ず」として、すべてを血税の誤解一色で塗りつぶそうとしていると研究者は指摘します。ある意味、一揆の原因を、愚民観ですりかえよう意図が見えてきます。

鳥取県一揆の願書でも分るように、徴兵だけが問題だったのではない。そのことは讃岐のこの一揆の経緯にも現われています。というのは、豊田戸長が真っ先に焼き打ちをかけられたのには理由があったからです。
「大見村史」に次のように記されています。
維新のはじめ、当郡比地大村、岡本村を管轄する戸長に豊田徳平なるものあり、此の者と同地人民との間に三升米とて公費の徴収に関し葛藤を生じ、故障申し立ての結果、終に人民の失敗に帰し、体刑に処せられたれば之を遺恨に思い、豊田戸長に報いんとする折柄、徴兵令の非議を豊田戸長に提起したるに戸長曰く、徴兵は風説の如く疑うべきに非ず、又、血税は決して血を採る意義に非ず、若し万一そのことありたる暁は予が首を渡すことを誓う、と。 一同はそのことを聞き、 一段落を告げたり。
 又、明治五年、県令を以て庶民の剃頭束髪(丁髭)を廃止され、其の実行を否む者に対しては吏員をして断髪の強制執行をなしたり。事態かくの如くなるを以て頑民は彼を思い、これを顧りみ不満に耐えず、疑惑、誤解交々起これり。時に明治六年六月二十六日、当郡岡本村に於て児取り婆の所為発生したり』(傍点、引用者)
ここからは、血税一揆が起こる前に、この地域では「三升米事件」や徴兵制検査・断髪強制など新政府の進める政策をめぐって、戸長と村民との間に対立が起こっていたことが分かります。
 
  子ぅ取り婆さんの騒動が、これらの積もり積もった戸長や邏卒への不満や反発に火をつけて暴発させたようです。そこには、人々の新政府への不満があったのです。
DSC07031
大見村遠景
  以上をまとめておくと
①明治5年になると新政府への期待は失望から反発へと転換していった。
②明治政府の徴兵制や義務教育制の強制は、人々にとっては新たな負担の増加で反対運動の対象となった
③民衆の反対運動への説得や圧迫のために、戸長や邏卒が活発に活動した。
④そのため戸長や邏卒は明治政府の手先として、反感・反発対象となった。
⑤そのため一揆が起こると戸長宅や邏卒事務所(駐在所)は攻撃対象となった。
⑥政策責任者や警察では、この一揆の原因を「無知蒙昧な民衆の血税への誤解」としたために、一揆の本質が伝わらないままになっている。
一揆の本質は、期待外れの明治新政府への不満と反発が背景にあった。それは香川県だけでなく、周辺の県でも同じような運動がおこっていることからいえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      と佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」
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 讃岐からの移住団をひきいてやって来た三橋政之について

三橋政之について「讃岐移民団の北海道開拓資料」の中に詳しい紹介があった。この本は大久保諶之丞の末裔の方が諶之丞に関する北海道開拓移住関係の貴重な書簡や資料をまとめて出版されたものだ。その中に、「洞爺村史」の中の三橋政之に関する部分が全文掲載されている。以下、紹介する。
三橋政之(伝四郎)の父は、間宮藤兵衛光庸といい丸亀藩士であった。
間宮家は丸亀藩士で郡奉行などを代々勤める百三十石の家柄であった。政之は二男で嘉永元年(一八四八)一月十一日に生れ伝四郎と名付けられた。兄は光輝、弟は後に政之と共に北海道へ移住し開拓功労者のひとりとなった間宮光貫である。
 一方、養子先の三橋家は藩主京極氏の古い家臣で、佐々木京極といわれた近江時代から仕えていたといわれる。
洞爺の倉庫の中から発見された柳行季の中から出てきた三橋家の系図では、  藩主に従って丸亀に移って来た時から書かれている。
 三橋家の丸亀初代は、三橋安太夫政宗で百三十石、寛文四年二六六四)に病死している。このあと、丸亀三代政常が亡くなった時、甥の敬英が養子となったが、跡目相続の遅れで、新知といって新しく禄を受ける形になり、半分の七十石になった。

 次の正為は、大目付などを勤めて功績があり、加増されて九十石、伝四郎が養子にいった時も禄はそのままで、養父の武太夫政一は、普請奉行を経て大目付を勤めていた。
 政之の叔母のヤエは初め常代のち吉といった。
同じ藩の侍である三橋武太夫政一のところへ嫁いでいたが、子どもがなかったので、自分の兄の光庸に頼んで、伝四郎を跡とりにすることにした。
伝四郎すなわち後の政之は養子として三橋家を継ぐことになった。
 当時の武士の家は、丸亀城の城郭の中に建てられていた武家屋敷の中にあった。三橋の屋敷はこの城の東郭の中で、もとの三番町といったところにあった。敷地は三九一坪で、伝四郎の控によると、

「私居宅、四開梁に桁行七間、南手へ五間、東手へ四間、両様共、尾ひさし付き、何年の頃取建候や、手暦相わかり難く候得共、余程、年古く相見え・…:」
と記している。伝四郎はこの家で育った。

同四年、伝四郎十才のときには、藩から貰う家禄の六割が天引されるという非常手段がとられた。生活が苦しくとも武士の対面は保たなければならない、しかも藩の内外は尊王攘夷の問題で、ようやく騒がしくなってきていた。伝四郎が育ったのはこの様な時代で、今のように恵まれた時代ではなかった。
三橋政之は必死になって文武の修業にとりくんだようである
彼は、当時の武士の子どものしきたりに従って、藩校の正明館で学問を学び、また鉄砲、槍、剣術などを師範のところへ通って修業したものと思われる。文久三年二八六三)十六歳になった時、芸州(広島県)へ剣術修行に出ている。
 政之は剣道の達人であると書かれているものがあるが、後に土肥大作事件で生死を賭けた働きや維新後の邏卒や県役人の経歴などを検討してみると、度胸もあり腕の立つ人物であったことは間違いない。彼の開拓に於ける不届の闘志と、不動の信念は、実にこの剣道の修業時代に形づくられたものといえる。

 文久三年(一八六三)八月京都の勢力の中心になっていた尊王攘夷派を、公武合体派がまき返して主導権をとった。丸亀藩は、藩主が上京し皇居の警備に当たることになった。藩では藩士の中から精鋭22名を選抜し上京させた。この中に伝四郎の兄、間宮庵や土肥大作らと共に十六歳の伝四郎が加えられた。この中では、もっとも年は若く、伝四郎にとっては最初の危険な運命との出合いであった。藩からは出発の祝として、酒一斗、干鯛五枚が下賜された。この一行は無事に年末にかけて帰藩している。
 元治元年(一八六四)八月藩は堀田嘉太夫、間宮藤兵衛、原田丹下の三名に宛てて、高島流練達の土の取立てに付いて文書で命じている。
 操練世話方 大塚秀治郎、間宮庵、原田八朔、三橋伝四郎など十六名 同 肝 煮 土肥大作など五名

伝四郎が、藩主の朗徹に正式に御目見を許されたのは、慶応元年(元治二年)正月であった。慶応三年五月父の武太夫政一は隠居を許され、伝四郎は二十才で家督を相続した。正式の名前も政之とすることを許され、そのまま九十石を受け継ぐことができた。同時に御側小姓、江戸勤番を仰付けられた。伝四郎は江戸藩邸に勤めること数ヶ月、藩主朗徹に従って京都へ向うことになった。

 慶応三年秋、朝廷では諸大名を京都に召集してその意見を聞き、幕府の大政奉還後の政治の方針を決めることにし大名招集の大号令が下った。
 「慶応三年。朗徹候江戸に在り。11月16日。迅速上京の命を蒙りしも、時恰も病獅に在りしを以て、漸く少癒を得て、十二月二十一日、江戸を発し、翌四年(明治元年)正月四日、池鯉鮒駅に至る頃、京都騒擾の報を得、急行して江州柏原駅に到るや、宿病復に発して進むを得ず。乃ち同駅附近清滝村の所領に入りで病を療する数日、同月十五日、京都に入りで西陣本條寺に宿す。時に京都鎮静に帰し、王政維新に際会す。』 
(丸亀藩事蹟)

 朝廷側と幕府方の決戦は朝廷側の大勝利に終り、丸亀藩は危い橋を渡らずに済んだのである。官軍の東征は二月、江戸城明け渡しは四月十一日であった。         
 慶応が明治という年号に改められたこの年十一月、伝四郎は藩主の養嗣子久之助の御膳番の兼任を命ぜられた。久之助は、後の子爵京極高徳で、政之が死ぬ最後まで尽力をした北海道京極農場の主となった人である。
 明治二年二月、京極朗徹は版籍奉還の願いを朝廷に提出、六月、朗徹は丸亀藩知事に仕命された。十一月、伝四郎は「先役中勤労も有之」として、これまでの功績が認められ侍番所次席を命ぜられ、ついで同三年四月、常備隊令士となった。

  土肥大作襲撃事件で武勇を示し、一躍時の人に

  明治4年旧丸亀藩士五十一名が、県の政治の視察にきた県出身の民部省の役人、土肥大作を斬ろうとして、その邸を軋撃する事件が起きた。新時代になって藩が県となり、禄の保証も心細くなった士族の人々にとって生活の不安と困窮は甚だしいものがあったに違いない。このことが県政に対する不満と結びつき、形をかえて土肥大作に向けられてきたのである。
 事件は七月十日、夜十一時頃に起きた。

『悪政の罪は、土肥大作にある。小身者が出世して藩政を専断したことに原因がある。大作を斬るべし』

と、五十人組は大作の宿舎へ斬り込んできた。
大作方には大作は勿論、伝四郎をはじめ腕の立つ者が多かったので、五十人組はついに退けられてしまった。翌十一日暴徒は全部逮捕され、投獄、家禄召しあげの上、それぞれ懲役、閉門、差控えを命ぜられることになった。
七月十二日、丸亀県は事件の顛末を中央政府へ急いで届出ている。
  死傷人氏名                 `
 一、土肥大作方
    極浅手    土肥大作
   土肥大作方に寄留書生
    深手     三橋伝四郎
    同      佐治与一郎
    同      百々 英夫
    深手     田中  鍛
    浅手     守武政一郎
 二、五十一人組方(氏名略)
    即死     三名
    深手     四名
    浅手     五名
    極浅手    一名
 県庁は公式には謹慎を申し渡し、知事は内々に見舞金を下している。
 三橋伝四郎
 去る十日、土肥大作宅江寄宿申、多人数暴人、及刃傷候趣、尚可承札義有之候に付、於自宅相慎可罷在候之事。  辛未(明治四年)七月十二日      県庁
 なお、伝四郎の控によると、
  「七月十日夜、土肥大作方にて不慮之儀有之、翌十一日、知事様より御内々金十両、養生料として被下、尤御住宅にて御家令、堀田清四郎より大塚一格迄渡に相成、同人を以御請中上候」
  辛未 七月二十五日
 中央政府はこの事件について、折返し土肥大作には金百円を賜って災難をねぎらい、三橋伝四郎外五名の者には、その相応の手当として治療、慰労など、優遇措置を取るように示達した。

 この明治初年の大事件は、讃岐地方の人々を驚かすとともに伝四郎の名を知らぬ者はないようになった。
しかし伝四郎にとって、降りかかった火の粉をはらうために止むを得なかったとはいえ、多くの人を死傷させる立場になったことが、あとあとまで心にかかったに違いない。政之の宗教心の篤いことや、後年になってもこの事件を語りたがらなかったので、洞爺では全く知られていなかったことからも、政之の心中を察することができる。
 土肥大作は、このあと民部省に戻り、その後各県の参事を歴任した。明治五年、新治県の参事となり、土浦へ赴任するが、時勢をなげいて三十六歳の働き盛りで切腹して果てている。

 政之の謹慎の解けたのは明治四年十二月五日である。
土肥大作事件で重傷を受けた政之の体もすっかり快復していた。 政之は県庁に出仕し、十四等出仕、聴訟課付、丸亀出張所詰を申付けられた。聴訟課というのは、警察と裁判の両面を担当する所で、この頃はまだ両者は分離していなかった。
 第一次香川県は徳島の名東県に合併し、明治六年七月二日、政之は聶卒総長に任命された。邏卒総長というのは現在の県警本部長のような職務である。 

邏卒早朝として「血税一揆」の鎮圧に功績

 明治六年、西讃地方は日照りが続き、田植えの水にも困る状態であった。ちょっとしたことが原因で農民暴動が起つだ。六月二十七日に始まり、七月六日に鎮定されるまで参加者約二万、二名の週卒が殺された。学校、役所、寺院などが多く焼かれ、民家と合わせ五九九戸が災害を受けた。
 丸亀、多度津では邏卒総長、三橋政之の指揮のもとに旧藩士二百余名で抜刀隊を組織し町の郊外で暴徒が町に入るのを防ぎ、また数人を捕えたので、暴徒は逃げ市中は幸いにその災害を免かれた。県では政之の働きに対し、感状と慰労金五円を付与している。

明治八年、第二次香川県が設置されたとき、政之はその職を辞任し、その後京極家の一等家徒を勤めることになった。
明治九年、香川県は愛媛県に合併された。同11年十二月十六日、愛媛県は政之に県庁出頭を命じ、那珂多度郡長に任命した。時に政之は満三十歳になろうとしていた。郡区町村編成法の発布により、那珂、多度の二郡を以て一郡とし、丸亀に郡役所を置いて監督機関とし、県政の円満な施行を図ろうとしたのである。  

郡長として香川県独立への願いと士族の救済

 明治十六年十一月十日、願に依って本官を免ぜられるまで五年間郡長として勤めた。この間にもっとも苦心したのは税金の問題であったのではないかと思われる。
 地租改正に伴う地租不納者に対する取扱いの配慮、営業税を納める営業者への心得方について各町村へ指令している。明治13年の愛媛県の決算報告では、香川側の収めた税金十九万円余に対し、香川の為に使われたのは十六万円余で差引三万円も伊予側か吸いとったという計算になる。
讃岐人としての政之は、この間に立って戸長会議、町村連合会の組織づくりをしながら、交通、通信、産業、教育など、各般の問題について丸亀を中心とする郡の発展に心魂を砕いた。
 明治十五年、郡の庁舎の借入料金の増額を県に事前に相談しないで、取計ったとして謹責を受けたりするが、これも政之の讃岐人としての人情の現れではあるまいか。

三橋政之の北海道開拓への思い

三橋政之は「讃岐分離の建議書」を中央政府の山鯖内務卿に提出したが、請願は却下されている。このあと五年、明治二十一年には愛媛県から分離し三度香川県が発足するが、このとき政之はすでに北海道の地であった。
 郡長を退職した政之は、郡長の時代から考えていた北海道移住の計画を練るかたわら、弟の光貫とともに士族の事業応援をしたようである。
士族や、狭い土地で苦しむ農民の救済のために、自ら移住することを決意し、明治十九年、知人を北海道に派遣して向洞爺の地を撰定し、郡役所とも協議を重ねていた。翌二十年、郡役所では各村々の戸長を通じて移住者を選び、ついに政之を団長とする二十二戸(政之書翰によれば二十三戸)八十九人の北海道向洞爺移住団が結成された。
 この時の郡長は政之の後任で同僚の豊田元良であった。
豊田元良は、明治十四年、三豊郡長となり、明治十六年十一月より十七年三月まで、仲多度郡長を兼ね、後任の福家清太郎が十七年十月死亡により、三豊郡長より転出、同十八年三月より二十三年十一月まで再び仲多度郡長を勤め、後は三豊郡長に転出、明治三十二年丸亀に市政を施いた時、初代市長となった人である。
 明治20年3月29日 三橋開拓団は盛大な見送りを受け丸亀港より神戸行きの汽船に乗り込んだ。政之40歳であった。

追記 
三橋政之の子政道は、十五歳の時に父に従い洞爺に赴き、同時に向洞爺に入植した堤清造の長女サワを妻とし、その間に生まれた政美は公選による洞爺村初代村長となった。その子三橋健次氏も村長であった。なお三橋政之の長女シズヱは京極高直夫人である。
三橋政之は、同農場内における小作人募集の件で上京中に発病して明治二十九年十一月三日死去した、と言われている。
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