
本棚の整理をしていると佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」が目に入ってきました。ぱらぱらと巡っていると私の書き込みなどもあって、面白くてついつい眺めてしましました。約40年前に買った本ですが、今読んでも参考になる問題意識があります。というわけで、今回はこの本をテキストに、「血税一揆」がどんな風にして起こったのかを見ていくことにします。
明治六年(1873)6月26日 三野郡下高野村で子ぅ取り婆さんの騒動が起こります。
この騒動について、森菊次郎は手記「西讃騒動記」を残しています。
この人は三豊郡詫間町箱の人で、戦前、箱浦漁業会長などもした人で、昭和28年に86歳で亡くなっていますから、この一揆のときは六、七歳の子どもです。そのため自分の体験と云うよりも聞書になります。そのために事実と違うことも多く、全面的に信用できる史料ではありません。しかし、一揆に関する記録のほとんどが官庁記録なので、こうした民間人の記録は貴重です。
子ぅ取り婆事件の起きた下髙野
子ぅ取り婆事件について、この手記は次のように記しています。
『子ぅ取り婆が子供をとっているとの流言飛語が一層人心を攪乱した。しかも実際にその子ぅ取り婆を認めたものはなかった。その子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者でこれが、ちょうど騒動の起こりだった。この子ぅ取り婆が明治六年六月二十六日、坂出町から三野郡に入り込み、同日昼ごろ、比地中村の春日神社に来たり、拝殿でしきりに太鼓を打ち鳴らし、騒がしいので神職及び二、三の人々は懇諭、慰安を与えなどして行き先を問うたら、観音寺へ行くというので、早く行かぬと日が暮れると言い聞かせ、門前を連れ出し、観音寺へ行く道を教えて出立せしめたが、 最早、下高野の不焼堂(如来寺)へ行くまでに日没となってしまった。夕涼みの多くの人々は、子ぅ取り婆が来たと大騒ぎし、婆が行く前後には多くの子供がつきまとった。その子供らの中の一人を老婆が抱きあげると、多勢の人々はこれを追っかけ、取り返した。しかし実際は取ったのではなく、その子供が大勢の人々に押し倒され転んで井戸の中へ落ちんとしたのを救いあげ、抱いたまま走って行ったのでした。 一犬吠ゆれば万犬吠ゆで、これが竹槍騒動の動機となった』
以上が「西讃騒動記」の発端の部分です。ここからは次のようなことが分かります。
①子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者で②明治6年6月26日、坂出町から三野郡に入り込み、昼ごろに比地中村春日神社にやってきた。③日没時に下高野の不焼堂(如来寺)にやってきて騒ぎとなった
この他に、一揆のまとまった記録としては、次の2つがあるようです。
①一揆後の近い時期に官庁報告をまとめた「名東県歴史」②邏卒報告書などから材料を得た昭和9年発行の「旧版・香川県警察史」
この内で②の「警察史」は、その発端をを次のように記します。
『明治六年六月二十六日正午頃、第七十六区の内、下高野村へ散髪の一婦人現われ、附近に遊べる小児(当時の副戸長秋田磯太の報告によれば小児の父兄、姓名、自宅不明とあり)を抱き、逃げ去らんとしたり。これを眺めたる村民は、当時、児取りとて小児を拉し去り、その肝を奪ぅもの徘徊するとの風聞ありたる折柄とて、忽ち附近の農民寄り集まり、有無を言わせず、打殺さんとしたるを、村役人田辺安吉これを制し、故を訊さんため、先ずその婦人を自宅に連れ帰りたるに、村民増集、喧騒するを以て、日辺は比地大なる同区事務所(役場)へ報告、指揮を抑ぎたり。このとき事務所には戸長不在にて副戸長秋田磯太あり、兎に角その婦人を事務所まで同行すべく命じたり。然るに田辺宅附近に集まりし村民は日々に不同意を唱ぇ、田辺をして同行せしめず、田辺は止むなく再び事情を報告したりしに、秋田副戸長は田辺宅に出張し来り、門柱に縛しあるを一見するに頭髪の散乱せる様といいヽ眼使いといい、全く狂人としか思われず、何事を問ぬるも答うるところなく、住所、氏名さえ明らかならぎるをもって、徐々に取調べんと思いたるも、何分多人数集合せるを以て無用の者は退去すべく再三論したるも聴きいれず、彼是、押問答の内、戸長名東県歴史又駈けつけたり。群集を説諭しヽ婦人は兎に角事務所へ連れ帰ることとなり、先ず戒めを解き門前に引出し、群集に示し、その何人なりやを訊したるも誰一人として知れるものなく、全く他村の者と定まりしがヽ狂婦は機をみて逃げ出さんとしたるを秋田副戸長はすかさずヽその襟筋をとらえて引戻したり。然るに、このときまで怒気をおさえて見物せる群集は最早たまりかね、三つ股、手鍬をもって打掛かりしを以て戸長らはかろうじてこれを支え、狂婦をまた田辺宅に引き入れ警戒中、急報により観音寺邏卒(巡査)出張所より伍長吉良義斉は二等選率石川光輝、同横井誠作の二名を率い、急遠田辺宅に駈けつけたり。このときは既に無知の土民数百名、竹槍又は真槍を携え、田辺宅を取り囲み、吉良の来るをみるや、口を極めて罵詈し、騒然として形勢不隠なり。吉良は漸く田辺方に入り、ここにまたもや狂婦の尋間を開始したるも依然得るところなく、僅かに国分村の者なるを知り得たるのみ―』
この経緯をまとめておくと、次のようになります。
①子ぅ取り婆が子どもを抱いて連れ去ろうとした
②それを村民たちが捉えて、なぶり殺しにしようとしたので村役人の田辺安吉が自分の家に連れて帰った
③戸長も駆けつけ、戸長役場に連行しようとしたが、取り囲んだ人々はそれを認めず騒ぎは大きくなった
下髙野
事件の起こった場所については、どの記録も下高野と記します。
地元では下高野の南池のほとりと伝えられているようです。南池は不焼堂(如来寺)から街道を百メートルあまり南へ行った付近にあります。不焼堂あたりから子供たちが、子ぅ取り婆さんにぞろぞろとつきまといはじめ、南池のほとりでこの事件が起こったものとしておきましょう。子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた子供と、この子供の守をしていた人の家、及び村吏の田辺安吉の家もこの南池の近くにあります。
豊中町本山のKさんの祖母は田辺安吉家から出た人ですが、この人は生前に、子ぅ取り婆さんは田辺家の門の柱に縛りつけられ、散々痛めつけられて見るも哀れな姿であったと語っていたという。子ぅ取り婆さんは、その愛児が池で蒻死したため発狂したとされます。つきまとう子をかかえて走ったのは、その子がわが子とみえたのかもしれません。
子ぅ取り婆さんについては、名前は塩津ノブ。 年齢は30代後半と(旧「観音寺市史」は記します。出身地については、
「西讃騒動記」は坂出町「警察史」は志度町とも国分村とも書いています。「豊中町誌」は『寒川郡志度の者』「名東県歴史」は 『女は阿野郡国分村農、与之助の孫女』
信頼度の高い「名東県歴史」に従って国分村の者と研究者は推測します。
子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた小児については
①「名東県歴史」は、「比地大村の農民某の妻二児を携え路傍に逍逢す」②「警察史」は『小児の父兄、姓名、自宅不明』、『矢野文次の娘』③地元の伝承では、「下高野村の南池近くの家の子で、後に成人して比地大村へ嫁した」
②の「警察史」は『矢野文次の娘』とあるのは、一揆の首謀者が矢野文次であったからのこじつけと研究者は指摘します。
①は、子ぅ取り婆さんが抱きかかえられた子を「二児」と記しますが、これは他の史料には見当たりません。抱きかかえたのは一人のようです。
「警察史」は続けて次のように記しています。
一方、土民は、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるの諺の如く、何ら事実を知らざるものまで出で加わり、はては鐘、太鼓を打ち鳴らし、西に東に駈け回ることとて、さなきだに維新早々の新官憲の施政には万事猜疑の眼をもって迎えいたりし頑迷無知の徒、次第にその数を加え、殺気みなぎる』
村吏の田辺安吉の家を取り囲んだ群衆は、邏卒の姿を見て興奮したようです。その背景は、「維新早々の新官憲の施政には万事猜疑の眼をもって迎えいたりし頑迷無知の徒」から読み取れそうです。日頃から戸長や邏卒に「万事猜疑の眼」を向けていたようです。「警察が来たぞ!」という声に、テンションが上がったようです。
早鐘が鳴らされた延寿寺
そして早鐘が打ち鳴らされます。早鐘は、今で云う非常招集サイレンで、火事や非常時の際にならされました。この早鐘は七宝山の麓の丘にある延寿寺のものでした。鐘を鳴らした矢野多造は、事件後の裁判で「杖罪」に処せられ、背中が青ぶくれにはれあがるほどたたかれたと生前に語っていたようです。国木八幡神社
観音寺邏卒出張所の吉良伍長の報告を見てみましょう
『百方説諭すといえども集合の徒一切聞き入れず、四方よりますます奸民群集し、既に私共へ竹槍をもって突っかけ、切迫の勢いに相成り、手段これ無く―』
吉津邏卒出張所、北村伍長選卒報告。
『共に説諭を加え候へども何分頑愚にしてその意を弁ぜず、漸く右を平治すれば左沸騰し、間も無く人民数百人群集、暴言申しかけ、竹槍にて突っかからんとする勢い、とても防ぐべき策無きにつき―』
村吏の田辺安吉宅を取り囲んでいた群集は、やがて移動を開始します。国木八幡宮前をまっしぐらに比地大村友信の豊田戸長宅へ向かったのです。そして、戸長宅に火が付けられます。一揆の焼打ち第一号は豊田戸長宅になります。
そのころ傷を負った豊田戸長は、身の危険を感じて七宝山麓の知人の家に逃れ潜んでいました。彼は知人から野良着を借り、野良帰りの農夫をよそおって帰途にしようとして、わが家の焼けるのを見たようです。地元の下高野村では、これ以外には高札場が毀されただけでした。
子ぅ取り婆は、子供の血をとる。という風評は以前からありました。
明治5年の戸籍法(壬申戸籍)で役場が家族名、性別を各戸について調査したとき、血をとって外国人に売るためだという流言が流れたと云います。同じく明治五年、外国人指導の富岡製糸場の女工募集も「女工になって行けば外国人に血をとられる」との噂があったようです。
それでは、人々はこの流言を本当に信じていたのでしょうか。
農民が子ぅ取り婆だけを問題にしていたのであれば、子ぅ取り婆が狂人と分り、どこかへ消えていった段階でこの騒ぎはおさまったはずです。ところが、群衆はこの後、戸長、吏員宅、区事務所、小学校、邏卒出張所などを次々と襲っていきます。襲撃対象を見ると、明治維新の新政後に登場した村の「近代施設」ばかりです。江戸時代の襲撃対象となった庄屋や大商人の邸宅が対象となっていません。これをどう考えればいいのでしょうか。
血税一揆を語る場合に、民衆が血を採られると勘違いしたのが契機となったと「民衆=無知」説で片づけられることが多かったようです。しかし、研究者はこれに対して異議を唱えます。「百姓を馬鹿にするなよ。それを知った上での新政府への新政反対一揆であった」というのです。

一揆の背景となった徴兵制を見ておきましょう
明治5年1月発布の徴兵令に関する太政官告諭に、次のような文句があります。
『凡そ天地の間に一事一物として税あらざるものなく、以て国用に充つ。然らば即ち人たるものは、もとより心力を尽し、国に報ぜざるべからず。世人これを称して血税という。その生血を以て国に報ずるの謂なり』
徴兵=「生血を以て国に報ずる」=血税という説明になっています。
血税は英語の「ブラッド タックス」で兵役を意味します。これを担当官は「徴兵=血税」と訳しました。この迷訳が一揆の原因となったというのです。それはこんな風に語られました。
血税の二字から、村々は次のような流言でもちきりになった。「血税というのは若者を逆さづりにしてその血を異人に飲ませるのだそうだ」「横浜の異人が飲んでいるぶどう酒というのがそれだ。赤い毛布や、赤い軍帽は若者の血で染めているのだ」「徴兵検査は怖ろしものよ。若い子をとる、生血とる」
という噂が流言となって広がったようです。
「西讃騒動記」には、次のような一節があります。
『血税の誤解から当時の三野郡、豊田郡の人心動揺をはじめ、遂に竹槍、薦旗の焼き打ち騒動を惹き起こし、各町村の小学校、役人の邸宅に放火し、暴状を極めた。徴兵告論を読んだ人が、我国には昔から武士が戦いのことには専ら関係しているため、我らは百姓を大切に農業に従事し、つつがなく租税を納めておればよい。しかるに、西洋にならって徴兵して、生血を取る御布令には少しも従うことは出来ぬと反対し、その声喧章、だんだん広がって騒がしくなって来たので、 県では容易ならぬこととして比地大村の豊田徳平、竹田村の関恒三郎、 本大村の大西量平の三戸長をして人民の誤解を解かせょうとしたので、三戸長はその命を受け、熱心に血税云々につき各村々を巡廻講話を行ったのであるが、人民は頑として聞き入れず……」
ここからは、血税という流言だけでなく徴兵制そのものへの反対が民衆の間には根強くあったことが分かります。その中で地元戸長たちが徴兵制推進のために「県の命を受けて熱心に血税云々につき各村々を巡廻講話」を重ねますが「人民は頑として聞き入れ」なかったようです。徴兵制反対の人々にとって、推進の先頭に立つ戸長たちに敵意が向けられるようになったことがうかがえます。
実は、讃岐の一揆の一週間前に、鳥取県でも同じような一揆が起きています。これを政府に伝えた県庁報告書には、次のように記されています。(意訳)
『明治六年六月十九日に伯者国会見郡で農民が蜂起した。この一揆の背景には人民哀訴や歎願があったのではない。また巨魁、奸漢などの黒幕が企てたものでもない。ただ徴兵公布令を農民輩たちが、徴兵令の中の「血税」等の文字を誤解し、事実無根の流言を唱え、兵役は生血を搾り取られる、兵事とはただ名のみで、その実態は血を取るためであるという流言が広まったためである。これに加えて、鉱山での御雇外国人が、鉱山検査のため、山陰、山陽を巡回し、本管内を巡回する際にも、生血を搾られるという流言が流された。そのため民衆の中には、一層の恐怖感を抱き、、家族の数を知られないように表札を隠したりする者も現れる始末であった。これを見て戸長たちは驚き困惑し、懇々と説諭したが民衆は聞く耳を持たない。そして、ついに北条県下の人民が蜂起し、それが本県にも波及した。頑民(戸長の云うことを聞かない人々)は、徴兵募集の役人が来たときには、相共に竹槍や使い慣れた器杖で追い返すべしと相談した。六月十九日、会見郡古市村の農民勝蔵の妻いせが、山畑で耕作していると異状の者(邏卒)の姿を見て、絞血(採血)の者と勘違いして、家族を守るために、近隣の儀三郎の家に走り込んで次のように告げた「異状の者がやってきました、気をつけて下さい」儀三郎の家には、二十歳の男子があり日頃から搾血の説を聞いて、心痛めていた。そのためこれを聞いて狼狽して、走り廻って「搾血の者来れり」と叫んで告げた村の人々はこれを聞いて隣村にも伝えた。また、寺鐘を早打ちして緊急集合をかけた。これを以て各村は、一斉に蜂起すすることになった』
(上屋喬雄、小野道雄編「明治初年農民騒擾録」所収)
ここには当時の鳥取県の担当者が「無知蒙昧な民衆が血税の流言に惑わされて、一揆を起こした」と中央政府に報告していることが分かります。「血税一揆=流言説」です。 「西讃騒動記」「名東県歴史」「警察史」なども大体同じ論法です。しかし、これに対しては反対論もあったようです。


明治七年二月七日の東京日々新聞に発表された「血税暴動は県側の詭弁」は、次のように反論します。
血取りの説は「血税」以前から流布していたのであって徴兵令からはじまったものではない。従って徴兵反対一揆は血税の二字に原因するものではなく、それは県吏の民意を愚民観ですり代え、一揆の真因をぼかそうとする地方政治担当者の政治的作為によるものである。
一揆発生の明治六年に出版されたの横河秋濤著「開化の入口」という本には、次のように記されています。
『比の頃、徴兵とやら、血税とやらいって、大切な人の子を折角両親が辛苦歎難を尽し、屎尿の世話から手習い、算盤そこそこに稽古させ、これから少し家業の役にもたつようになったものを十七歳、或いは、二十歳より引上げて、ギャッと生れてから夢にも知らぬ戦いの稽古させ、体が達者でそろそろ役にもたつものは直ぐさま朝鮮征伐にやり――』
そして、大分県の徴兵反対一揆に立ち上った農民の一人は、次のように嘆いています。
「徴兵で鎮台に遣わされ、六、七年も帰して貰えないのでは全く困ったことになってしまう」
この頃、俗謡にあわせて、「徴兵、懲役一字の違い、腰にサーベル、鉄鎖り」という俗謡が流行になったともいいます。
ここからは農民は血取りを恐れていたのではなく、徴兵そのものに反対していたことがうかがえます。

裸を取り締まる明治の邏卒(警察官)
血税一揆の際に、邏卒が上司へ提出した報告書を見てみましょう。
第四十九区(一揆波及地―阿野郡北村、羽床上、同下、山田上、同下の各村)第五十五区(一揆波及地―同郡岡田上、同下、同東、同西、栗態東、同西の各村)は、以前徴兵検査の節、所々山林へ集合し、度々説諭にまかり越し候区内なれば、農民共、此の虚(一揆蜂起)に乗じ発起すべきもはかり難きに付、情、知察のため午後二時頃より巡遣し、四時頃帰宅』
意訳変換しておくと
二つの区は、以前に徴兵検査について、山林へ集まって反対集会を開いていたところなので、度々説得に出かけた区内である。農民共が、この旅の一揆蜂起に参加するかどうか分からない情勢なので、偵察に午後二時頃より巡回し、四時頃に帰宅した』
滝宮邏卒出張所詰、平瀬英策報告。
『(鵜足郡)林田村の頑民、 既に説諭によって服従、 一時検査を受くるといえども余儘なお残炎、時あらば後燃せんとする気、もとよりその場動するものありて然り』
意訳変換しておくと
『(鵜足郡)林田村(坂出市林田町)の頑民(新政府反対派)たちは、 すでに我々の説諭によって服従し、徴兵検査を受けた者もいるが、心の中には今も残炎が残り、機会を見ては再び燃え上がろうとする雰囲気がある。もとよりその場動するものありて然り』
ここからは讃岐でも徴兵検査に反対する集会があちらこちらで開かれ、その度に邏卒や戸長が出向いて説諭を繰り返していたことが分かります。それが「血税」の流言だけのための反対運動ではないことは明らかです。「血税一揆」を流言によるものとするのは、民衆無知蒙昧説の上に胡座をかいた説と研究者は指摘します。

5代目菊五郎が演じた邏卒
上の史料からは一揆の頃には、すでに徴兵検査も行われ、徴兵検査で血が採集されないことは分かっていたはずです。ここからは人々が「血取り」反対したのではないと云えます。それでは何に反対したのでしょうか?
上の史料からは一揆の頃には、すでに徴兵検査も行われ、徴兵検査で血が採集されないことは分かっていたはずです。ここからは人々が「血取り」反対したのではないと云えます。それでは何に反対したのでしょうか?
鳥取県一揆について農民の側から出した願書があります。それは次のように記されています。(「明治初年農民騒擾録」)
鳥取県一揆願書一、米穀値段下げ仰せつけられ候こと。二、外国人管轄通行禁止。三、徴兵御繰出し御廃止仰せつけられ候こと。四、今般騒動致し候条、発頭人御座無く候こと。五、貢米、京枡四斗切り、端米御廃止仰せつけられ候こと。六、地券合筆取調諸入費、官より御弁じ仰せつけられ候こと。七、小学校御廃止、人別私塾勝手仰せつけられ候こと。八、御布告板冊、代価御廃止。九、太陽暦御廃止、従前の大陰暦御改め仰せつけられ候こと。十、従前の通り半髪(丁髭)勝手仰せつけられ候こと。
ここには、徴兵反対の他にも、地券、小学校、太陽暦、斬髪令などの、この時期の新政府の出した政策に対する反対や、米価引き下げ、端米廃止などの生活に直結した要求が列挙されています。
先ほど見た政策担当者の県庁報告は、これらの事実を無視し、他に「哀訴歎願の根底あるに非ず」として、すべてを血税の誤解一色で塗りつぶそうとしていると研究者は指摘します。ある意味、一揆の原因を、愚民観ですりかえよう意図が見えてきます。
鳥取県一揆の願書でも分るように、徴兵だけが問題だったのではない。そのことは讃岐のこの一揆の経緯にも現われています。というのは、豊田戸長が真っ先に焼き打ちをかけられたのには理由があったからです。
「大見村史」に次のように記されています。
維新のはじめ、当郡比地大村、岡本村を管轄する戸長に豊田徳平なるものあり、此の者と同地人民との間に三升米とて公費の徴収に関し葛藤を生じ、故障申し立ての結果、終に人民の失敗に帰し、体刑に処せられたれば之を遺恨に思い、豊田戸長に報いんとする折柄、徴兵令の非議を豊田戸長に提起したるに戸長曰く、徴兵は風説の如く疑うべきに非ず、又、血税は決して血を採る意義に非ず、若し万一そのことありたる暁は予が首を渡すことを誓う、と。 一同はそのことを聞き、 一段落を告げたり。又、明治五年、県令を以て庶民の剃頭束髪(丁髭)を廃止され、其の実行を否む者に対しては吏員をして断髪の強制執行をなしたり。事態かくの如くなるを以て頑民は彼を思い、これを顧りみ不満に耐えず、疑惑、誤解交々起これり。時に明治六年六月二十六日、当郡岡本村に於て児取り婆の所為発生したり』(傍点、引用者)
ここからは、血税一揆が起こる前に、この地域では「三升米事件」や徴兵制検査・断髪強制など新政府の進める政策をめぐって、戸長と村民との間に対立が起こっていたことが分かります。
子ぅ取り婆さんの騒動が、これらの積もり積もった戸長や邏卒への不満や反発に火をつけて暴発させたようです。そこには、人々の新政府への不満があったのです。
大見村遠景
以上をまとめておくと
①明治5年になると新政府への期待は失望から反発へと転換していった。
②明治政府の徴兵制や義務教育制の強制は、人々にとっては新たな負担の増加で反対運動の対象となった
③民衆の反対運動への説得や圧迫のために、戸長や邏卒が活発に活動した。
④そのため戸長や邏卒は明治政府の手先として、反感・反発対象となった。
⑤そのため一揆が起こると戸長宅や邏卒事務所(駐在所)は攻撃対象となった。
⑥政策責任者や警察では、この一揆の原因を「無知蒙昧な民衆の血税への誤解」としたために、一揆の本質が伝わらないままになっている。
一揆の本質は、期待外れの明治新政府への不満と反発が背景にあった。それは香川県だけでなく、周辺の県でも同じような運動がおこっていることからいえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
と佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」
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