瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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現在のところ弘法大師が四国遍路に関わったことを記す最古の史料は、第51番札所・ 石手寺(松山市)の由緒を記した「通宣刻板」のようです。
これは厚さ1、6㎝の板で、戦国時代の「永禄10 (1567年)の年号が刻まれています。内容は
表面には、和銅 5 年(712)から文明13年(14811)までの安養寺(石手寺の旧名)の由緒と河野伊予守通宣の名前・花押
裏面には建物・文書・寺社領田・宝物の一覧
ここからは、この寺に、白山信仰・薬師信仰・真言密教・熊野信仰・弘法大師信仰・三島信仰など、さまざまな信仰が流れ込み、新たな要素が付け加えられきたことがうかがえます。

弘法大師と衛門三郎の像です - 神山町、杖杉庵の写真 - トリップアドバイザー
衛門三郎と弘法大師
この中に天長 8 年(831)のこととして、次のような浮穴郡江原郷の「衛門三郎」の話が載せられいます。
A
天長八辛亥載、浮穴郡江原郷右衛門三郎、求利欲而冨貴破悪逆而仏神故、八人男子頓死、自尓剃髪捨家順四国邊路、於阿州焼山寺麓及病死、一念言望伊豫国司、爰空海和尚一寸八分石切、八塚右衛門三郎銘封左手、経年月生国司息利男子、継家号息方件石令置当寺本堂畢

意訳変換しておくと
A
831(天長8) 年、江原郷に住む衛門三郎という富豪が、私腹を肥やして神仏も信じなかった。そのためか8人の男子が次々と死んだ。そこで心を入れ替えて剃髪し、四国遍路に出た。衛門三郎は阿波焼山寺(徳島県神山町)のふもとで病死する前、伊予国司になることを望み、現れた弘法大師は「八塚右衛門三郎」と書いた石を左手に握らせた。月を経て国司の河野家でこの石を握った男子が誕生した。この石は今は、安養寺(石手寺)の本堂奉納されている。

澄禅の『四国辺路日記』(承応2年(1653)にも、衛門三郎のことが次のように記されています。

B
河野氏の下人である衛門三郎は悪人で、八坂の宮(八坂寺)を訪れた①弘法大師の鉢を八つに割ってしまう。その後、衛門三郎の子八人が次々に亡くなり、それが②大師への悪事の報いであることをさとった衛門三郎は、発心して大師の跡を追い四国遍路に出る。衛門三郎は死ぬ間際に阿波国焼山寺の麓でようやく大師に出会い、河野の家に生まれ変わることを願う。大師は衛門三郎の左手に、③南無大師遍照金剛衛門三郎と書いた石を握らせる。三年後河野の家にその石を握った子が生まれ、衛門三郎の生まれ変わりであることがわかる。

A・Bを比べて見ると次のような違いがあることがことが分かります。
①Aには、衛門三郎が四国遍路に出るまでの部分に弘法大師は出てこないこと。
つまり、衛門三郎が大師の鉢を割ったことや大師を慕って四国遍路に出たことは書かれていません。書かれているのは、子が死んだのは、衛門三郎が貪欲で仏神に背いたためとされています。
②後半部に出てくる衛門三郎が握った一寸八分の石の銘も、Bは「南無大師遍照金剛衛門三郎」と記されていたとしますが、Aには「衛門三郎」としかありません。こうしてみるとBは、衛門三郎と大師の関係で話が進みます。それに対して、Aでは大師は死ぬ間際の衛門三郎に石を渡す役割だけです。

八坂寺 衛門三郎A
八坂寺版の「弘法大師と衛門三郎」
 このように衛門三郎伝説にはAとBの二つが伝わっています。
「記述量の少ない史料の方が古い。後世に付け加えられて伝説は長くなる。」というセオリーからするとAが原形で、Bが後世の付加物版と推測できます。研究者は、Aの「石手寺刻版」が「本来の衛門三郎伝説」であったと判断します。そして「本来の衛門三郎伝説は、現在伝えられるよりもはるかにシンプルなものであった」と指摘します。そうだとすると、衛門三郎は、弘法大師の鉢を割ってもいないし、弘法大師に会うために四国遍路に出たのでもないことになります。伝説の中の弘法大師は、もともとは影が薄いものだったのです。ここでは本来の衛門三郎伝説(A)が、弘法大師信仰の「肥大化」により四国遍路縁起にみられる(B)に付加変容していくこと、これが衛門三郎伝説の初見であることを押さえておきます。
実は「石手寺刻版」には、先の引用部分に続いて次のように記されています。

 寛平三年辛亥、創権現宮拝殿新堂、同四壬子三月三日奉請熊野十二社権現、改安養寺熊野山石手寺、令寄附穴郡江原?、順主伊予息方

意訳変換しておくと

寛平3年(891)に熊野権現宮拝殿・新堂を創建し、翌年に熊野十二社権現を勧請して、安養寺を熊野山石手寺と改める。これは河野氏の息子の手にあった石から「熊野山石手寺」とした。

衛門三郎の生まれ変わり記事に続いて、熊野権現が勧進されて拝殿や新堂が創建された経緯が記されています。また『予陽郡郷俚諺集』では、石を握りしめて生まれた子を「熊野権現の申し子」としています。そして「衛門三郎の再生=河野家の子の生誕」を熊野権現の示現と考え、「石手寺十二所(熊野)権現始めは是なり」と締めくくります。以上から衛門三郎伝説は、もともとは石手寺の熊野信仰の由来譚だったと研究者は判断します。
安養寺から石手寺への改名が、この地への熊野信仰の時期にあたることになります。それはいつごろなのでしょうか?
①正安 3 年(1301)の六波羅御教書(三島家文書)に「石手民部房」の名
②建武 3年(1336)の河野通盛手負注文写(譜録)に「石手寺円教房増賢」の名
ここからは安養寺に代わって、石手寺の名前が出てくるのは14世紀初頭であることが分かります。この時期までには、安養寺から石手寺に改名されたいことが分かります。同時に、衛門三郎伝説もその頃までに成立していたことになります。
 ここでは、14世紀には石手寺は熊野信仰の拠点として、熊野行者の管理下にあったこと、そのために安養寺から石手寺に寺名が替えられたこと。その背景には、熊野行者たちによる信仰圏の拡大があったことがうかがえます。それは以前にお話しした同時代の大三島の三島神社と同じです。その背後には、備中児島の新熊野勢力(五流修験)の瀬戸内海全域での信仰圏の拡大運動があったと私は考えています。
もう一度、衛門三郎伝説を見ておきましょう。研究者が注目するのは、この中に四国巡礼に出た衛門三郎が権力者に生まれかわりたいと望むことです。
 出家して四国遍路に出た衛門三郎が伊予国司に生まれ変わりたいという世俗的な望みを持つことは、私から見れば仏道を歩んできた者の最後の望みとしては不自然のように思えます。しかし、これには当時の宗教的な背景があるようです。12世紀末の仏教説話集『宝物集』には次のように記します。

「公経聖人が一堂建立を発願したが果たせず、死後国司に転生することを望んだ」

衛門三郎が伊予の国司へ生まれ変わりたいと望んだのも、自分の望む身分に生まれ代わって目的を達したいという遊行聖の性格が反映されていると研究者は考えています。また、よく知られた話として頼朝坊という六十六部聖が源頼朝に生まれ変わったとする六十六部縁起の話があります。これが「頼朝坊廻国伝説=頼朝転生譚」で、衛門三郎伝説とつながりがあるように思えます。
 このように伊予国主という権力者に生まれ変わるという衛門三郎伝説のモチーフは、それより以前の説話や縁起にすでにみえています。ここで注意しておきたいのは、転生しているのは「遊行聖」や「六十六部」たちであることです。
自分が生まれ変わりであることを知った権力者は、次のような「積善」を行っています。
A 『宝物集』 国司となった藤原公経が聖人の宿願である仏堂の供養
B 六十六部縁起 前世が六十六部聖であったことを知った源頼朝が法華堂(法華経信仰による仏堂建立
 以前にお話ししたように、六十六部は全国に法華経を奉納する巡礼を行う廻国僧(修験者)でした。つまり、生まれ変わった権力者の行為は、前世の聖と密接に関連しています。衛門三郎の生まれ代わりである河野氏の息子も、熊野権現宮などを創建し、熊野十二社権現を勧請しています。これは衛門三郎やその転生者が熊野信仰と深く関わっていたことを示すと研究者は考えています。

やまだくんのせかい: 江戸門付
             廻国の聖たち
以前に、こうした視点で一遍の熊野信仰の関係を次のようにまとめておきました
 この時期は、高野聖たちも本地仏をとおして、熊野信仰と八幡信仰を融合させながら、念仏信仰を全国に広めていた時期です。
熊野信仰と阿弥陀念仏信仰の混淆と一遍
①神仏混淆下では、熊野本宮や八幡神の本地仏は阿弥陀如来とされた。
②そのため一遍は、熊野本宮で阿弥陀仏から夢告を受け、お札の配布を開始する。
③一遍は、各地の八幡神社に参拝している。これも元寇以後の社会不安や戦死者慰霊を本地仏の阿弥陀如来に祈る意味があった。
④一遍にとって、阿弥陀如来を本地仏とする熊野神社や八幡神社に対しては「身内」的な感覚を持っていた。」
川岡勉氏は、石手寺の堂舎の配置や規模などから、中世において熊野行者たちが大きな勢力を有していたこと、そして近世になると熊野信仰が本来の薬師信を圧倒するようになったと指摘します。石手寺の衛門三郎伝説は、こうした熊野信仰隆盛の中で作り上げられたものと考えられます。そうだとすれば、衛門三郎伝説に八坂寺や阿波の焼山寺など熊野信仰が濃厚にみられ寺院が、各地にあらわれるのは当然のことです。当時は、熊野行者たちは強いネットワークで結ばれ、活発な活動を展開していたことは、三角寺と新宮村の熊野神社の神仏混淆関係のなかでもお話ししました。

四国巡礼の由緒は衛門三郎伝説
 
以上を整理しておきます。
①もともと衛門三郎伝説は石手寺の熊野信仰由来譚で、弘法大師信仰にもとづくものではなかった。
②中世の四国辺路には熊野信仰や阿弥陀念仏・山岳信仰などさまざまな信仰が流れ込んでいた。
③それが近世の四国遍路は弘法大師信仰一色になる
④その結果、当初は少なかった大師堂が各札所に建立されるなど「大師一幕化」が進む。
⑤弘法大師信仰が高まる中で四国遍路の由緒譚が求められるようになる。
⑥そこで石手寺の熊野信仰受容の由来譚であった衛門三郎伝説が、四国遍路の由来説話に接ぎ木・転用された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
寺内浩 四国巡礼縁起と西国巡礼遍礼縁起 霊場記衛門三郎伝説 四国遍路研究センター公開研究会
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弘法大師と衛門三郎(徳島県杖杉庵)

弘法大師伝説の中で、有名なものが遍路の元祖とされる衛門三郎伝説です。
これは四国八十八筒所霊場51番石手寺の「石手寺刻板」(予州安養寺霊宝山来)に、天長8年(831)のこととして記載されています。真念の『四国遍礼功徳記』に、次のように記されています。(意訳)

予州浮穴郡の右衛門三郎は貪欲無道で、托鉢に訪れた僧の鉢を杖で8つに割ってしまう。その後、8人の子が次々に亡くなり、それが僧(実は弘法大師)への悪事の報いであると悟った衛門三郎は、発心して大師の跡を追い四国遍路に旅立つ。21回の遍路で、ついに阿波国の焼山寺(四国霊場第12番)の麓で、臨終に大師と出あい、伊予の領主河野家に生まれ変わることを願う。大師は石に衛門三郎の名前を書いて手に握らせた。その後、河野家にその石を握った子が生まれる。その子は成長して河野家を継ぎ、安養寺を再興して、神社を多く立て、その石を納めて石手寺と寺名を改めた。

「四国辺路日記」の「石手寺」項には、次のように記されています。

「扱、右ノ八坂寺繁昌ノ御、河野殿ヨリモ執シ思テ、衛門三郎卜云者ヲ箒除ノタメニ付置タル.毎日本社ノ長床二居テ塵ヲ払フ。此男ハ天下無双ノ悪人ニテ怪貪放逸ノ者也」

意訳変換しておくと
「八坂寺の繁昌に対しては、太守河野殿からも保護援助があり、衛門三郎という云者を掃除のために八坂寺に付置き、毎日本社の長床の塵を払わせた。この男は天下無双の悪人で怪貪放逸の者であった」

ここには、衛門三郎のことを大守河野殿の下人で「本社ノ長床二居テ塵ヲ払フ」=「石手寺の熊野十二社権現の掃除番」=「長床衆(修験者)」と記します。また、石手寺に伝わる衛門三郎伝説は熊野信仰隆盛の中で作られたもので、衛門三郎伝説に八坂寺、焼山寺など熊野信仰が濃厚にみられる寺院があらわれるのは当然のことです。もともとは衛門三郎伝説は石手寺の熊野信仰の由来でした。それが江戸時代に「大師一尊化」が進むと、四国遍路の由来を説明する説話に作りかえられたと研究者は考えています。
衛門三郎伝説は、現在の八坂寺の縁起には詳しくふれられていません。
しかし、八坂寺には2種類の「弘法大師と衛門三郎」の刷り物が残されています。これはかつては八坂寺が、弘法人師と衛門三郎の伝説を重要視して積極的に流布していた証拠とも云えます。今回は、八坂寺の2種類の刷り物「弘法大師と衛門三郎」を見ていくことにします。テキストは、今村 賢司   「弘法大師と衛門三郎」の刷り物と八坂寺     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺229P 愛媛県教育委員会2023年」です。

八坂寺 衛門三郎A
「弘法大師と衛門三郎」の刷り物A
 八坂寺版「弘法大師と衛門三郎」の刷り物Aを見ておきましょう。
この大きさは縦82,5㎝ 横33㎝ 軸鼻含37㎝で、
右側に「大師修行御影 八坂寺」と記された修行姿の弘法大師像が立姿で左側に衛門三郎像が座って描かれています。朱印が押されているのが、右上側に札所番号印「四十七番」と宝印(菊桐重ね紋)、下部に寺印・山号印「熊野山妙見院」です。銘文は次のように記します。
【銘文l
四国拝祀伊豫松山八っつか(束)右衛門三郎
大師二十一遍目 御たいめん(対面)
なされ候時姿
弘仁六乙未より
安永五申迄
千八十六星至ル
何が描かれているかを、研究者は次のように説明します。
①右側の弘法大師は「修行大師像」は立像で、大師の視線の先には「衛門三郎」がいて、寄り添うような構図である。
②大師は法衣姿で墨の等身、垂領、有襴、袈裟を巻いてかける。頭巾(立帽子)を被り、右手に杖、
左手に念珠、脚絆を巻き、草韓をはく.穏やかな表情
③衛門三郎像は磐座に腰かけ、巡礼姿で正面を向く。長髪、額に彼、眉毛や目がさがり、虚ろなまなざし、頬がこけ、髭を生やし、口をへの字に曲げる。胸前には首から紐を掛けた「札はさみ」とと、左手で負俵を抱えているて、右手に杖(自然木)、足に脚絆を巻き、草軽(足半)をはく。
④衛門三郎は札挟み、負俵、杖、足半などの巡礼用具を身に着けているが、菅笠は描かれていない。
⑤彩色されていなので、白装束かどうかは分からない。巡礼者が衣服の上に着る袖無しの笈摺も描かれていない。
この刷り物の舞台は、いつ頃のものなのでしょうか
銘文に、次のようにあります。
「四国舞祀伊豫松山八っつか(束)右衛門三郎
「大師廿一遍日御たいめん(対面)なされ候時姿
ここからは、伊予国松山の八塚衛門三郎が四国巡拝21遍目に弘法人師に対面した時の姿が描かれていることが分かります。そのためか、弘法大師と再会を果たした衛門三郎は疲弊して後悔に満ちた表情で、懺悔の念を全身で表しています。
 衛門三郎が弘法大師と対面した場所は、徳島の焼山寺の麓にある番外霊場の杉杖庵(徳島県名西郡神山町)とされます。阿波でも「弘法大師と衛門三郎」の刷り物が発行され、そこには同じように衛門三郎と大師が再会する場面が描かれています。同じ刷り物が八坂寺でも摺られていたことを押さえておきます。
銘文にある「弘仁六乙未る安永五申迄千八十六星至ル」について、見ておきましょう。。
 安永元年(1772)に鋳造された八坂寺の梵鐘銘には「四州四十七番札所予州松府城南 高祖弘法大師霊刹」とあります。しかし、それ以前の八坂寺史料には弘法大師は出てきません。出てくるのは熊野信仰なのです。ここから八坂寺が自らを四国霊場の札所として称するようになったのは近世半ばになってからと研究者は指摘します。
 八坂寺の木札や梵鐘銘などからは、この頃に八坂寺の伽藍整備や寺史整理が行われていたことが分かります。熊野信仰の影響を受けた修験寺院であった八坂寺は、この時期に四国八十八箇所霊場の札所へと、立ち位置を移していったようです。そのような中で、弘法大師と衛門三郎ゆかりの霊場であることを強く主張するようになります。この刷り物Aは、そうした背景のもとで製作されたものと研究者は考えています。
それでは刷り物Aの製作時期は、いつなのでしょうか。
この点について手がかりを与えてくれるのが、今回の調査で発見された下の版木です。
八坂寺版木 弘法大師
弘法大師修行御影の版木
 先ほど見た「弘法大師と衛門三郎」の刷り物の右側の弘法大師立姿と、瓜二つです。大きさも一致するようです。とすると、この版木から先ほどの刷り物Aは摺られていたことになります。つまり、刷り物Aは、一体型の版木ではなく、2つの版木を組み合わせて刷られたのです。ちなみに、左側の衛門三郎像の版木は見つかっていないようです。
表面は「大師修行御影 八坂寺」と刻まれ、
裏面は「文政七申年九月吉祥日 四国第四拾七番熊野山八坂寺什物判」と墨書
ここからは、文政7年(1824)に彫られた版木であることが分かります。以上から「刷り物A」は、八坂寺所蔵の「大師修行御影」版木で、文政7年(1824)以降に摺られたと云えそうです。
こうして八坂寺で摺られた「弘法大師と衛門三郎」の版画は、参拝土産と売られたり、修験者によって配布されたことが考えられます。どちらにしても、八坂寺にとっては、非常に重要な版木であったはずです。それが、幕末には姿を見せていたことを押さえておきます。

八坂寺 衛門三郎B
「弘法大師と衛門三郎」刷り物B

もう一枚の「弘法大師と衛門三郎」刷り物Bを見ておきましょう。
大きさは縦36㎝横26,3㎝です。構図は先ほど見た「刷り物A」とほぼ同じです。銘文及び絵像の内容を見ておきましょう。
伊豫国下浮穴郡恵原郷ノ産ニテ八ッ束右エ門三郎ハ当山ニヲイテ弘法大師御教喩有り依テ弥善道二立直り奎心致シ為菩提請願ノ四國八十八ヶ所順逆舞礼遍路ヲ始ム姿ナリ 満願シテ同國旧領主河野伊豫ノ守ニ二度生レ替ル人餘此二略ス
弘仁六乙未年
意訳変換しておくと
伊豫国下浮穴郡恵原郷生まれの八ッ束衛門三郎は、当山八坂寺で、弘法大師の御教喩を受けて、善道に立直り改心して四國八十八ヶ所巡礼遍路を始めた。その姿を描いている。満願適い伊予の旧領主河野守に生まれ変わることがでした。その他のことは省略する。
弘仁六乙未年
構図を見ておきます
刷り物Aと構図や装束は、ほとんど同じです。異なるの次の2点です
①衛門三郎の表情が、衛門三郎像が発心して四国遍路を始めようとする姿なので、険しい決意の表情で描かれている
②首から掛ける札挟みは「札バセ」と書かれている。

刷り物Bは刷り物Aに比べると、衛門三郎伝説が次のようにより詳しく記されています。
①「八ツ束右工門三郎」は伊予国下浮穴郡恵原の出身である
②当山(八坂寺)で、弘法大師が衛門三郎に対して教え諭した。
③衛門三郎は善道に立ち直り発心した
④菩提請願のために四国八十八箇所を順打ち・逆打ちして拝礼した
⑤刷り物Aは、衛門三郎が遍路を始める姿である
⑥衛門三郎は願いが満たされ、伊予国領主河野伊予守に生まれ変わった

文末に「その他は略した」と記されています。省略された点を補足すると次の通りです。
①貪欲無道の衛門三郎の性格
②大師の托鉢を拒んだこと
③大師の鉢が割れた後に衛門三郎の人人の子が亡くなること
④弘法大師への悪事の報いであると悟ること
⑤四国遍路を21回行ったこと
⑥焼山寺の麓で大師と再会したこと
⑦臨終の衛門三郎は、大師か為石を手に握らされたこと
⑧安養寺から石手寺と改称したこと。
八坂寺に関係しない細部のストーリーが省略されています。八坂寺が舞台となる部分だけを切り取っているのです。八坂寺にとって、焼山寺の麓(杖杉庵)や石手寺の話は必要ないのです。中でも、研究者は注目するのは「当山山ニヲイテ弘法大師御教喩有り依テ弥善道二立直り奎心致シ」とあることです。衛門三郎は、当山(八坂寺)で弘法大師の教えと導きによって四国遍路を始めたと主張されています。つまり八坂寺自身が「衛門三郎の発心の旧跡」であると云っているのです。この認識の上で八坂寺は、刷り物を発行していたのです。刷り物Bは、衛門三郎が発心して遍路を始める姿であることを押さえておきます。
 刷り物Bの制作時期についての手がかりは、銘文に「下浮穴郡」とあることです。
ここからは、下浮穴郡が発足する明治11年(1878)以降のものであることが分かります。明治になって神仏分離後の八坂寺が四国霊場の札所として衛門三郎発心の旧跡であること主張し、それを広めていたことが分かります。
 同じような資料として、研究者が挙げるのが調査で確認された版木の「大師堂再造勧進状」(明治期)です。その冒頭に次のように記されています。
「夫当山ハ四国八拾八箇所霊場順拝開祖八束右衛門三郎初発心奮跡ナリ」

大師堂再建にあたって、八坂寺が衛門三郎発心の旧跡であることが主張されています。また、納経印にも次のように刻されています。

「奉納経   弘法大師宝前 四国八十八(ヶ)所順舞遍路開基 八(ッ)津(ヶ)右ヱ門二(ママ)破心旧跡 事務所」

この勧進状にも、八坂寺は衛門三郎発心の旧跡と記されています。その一方で、熊野権現については何も触れていません。明治になって、八坂寺の縁起の中心が熊野権現から衛門三郎に変更されていくプロセスが見えてくるようです。
 以前に八坂寺の縁起はよく分からないことをお話ししました。
江戸時代初期には、八坂寺は、衛門三郎発心の旧跡とは書かれていません。ところが明治12年(1885)の「寺院明細帳」には「四国八十八箇所順拝遍路開基八ツ束右工門三郎初発心ノ旧跡所也」と記さています。そして、明治・大正時代の案内記には、これが定番になっていきます。こうした背景には、明治元年(1868)の神仏分離令に続き、明治5年(1872)に修験宗廃止令が出されて修験道が禁止されたことがあるようです。近代の八坂寺は、熊野信仰よりも四国八十八箇所霊場の札所寺院として立ちゆくことを戦略とします。そして、その中心に「衛門三郎発心の旧跡」という縁起を据えたのです。そうすることで、衛門三郎伝説の始まりの聖地として、より多くの遍路や参詣者を誘い、大師堂再建などの勧進などにも役立てようとしたのでしょう。江戸時代末の刷り物Aから明治のBへの変化は、そのような八坂寺の戦略変化を反映したものと云えそうです。

以上をまとめておきます。
①八坂寺はもともとは、熊野信仰の影響が強い修験寺院であった。
②八坂寺は、ふたつの「弘法大師と衛門三郎」の刷り物を発行している
③刷り物Aは、八坂寺に残る文政7年銘「大師修行御影」版本から刷られたもので、江戸時代後期の製作と考えられる。
④刷り物Aは、遍路の参拝土産や、修験者が配布することで広められた
⑤明治になると、八坂寺は神仏分離政策で熊野神社を奪われた。そのため寺の存在意義を四国霊場に移した経営戦略をとるようになった。
⑥その一環が、「衛門三郎発心の旧跡」という主張で
⑦これに合わせて、刷り物Bは戒心した衛門三郎が八坂寺から遍路に出立するものへと解釈変更が行われた。
⑧それが昭和以降は「衛門三郎から役行者」へと移り変わる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
今村 賢司(愛媛県歴史文化博物館 専門学芸員)
「 弘法大師と衛門三郎」の刷り物と八坂寺     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺229P 愛媛県教育委員会2023年
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石手寺―衛門三郎の伝説

 
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石手寺は、衛門三郎の伝説があるところです。
本尊は行基の作と伝えられる薬師如来です。八十八か所の本尊でいちばん多いのは、病気を治してくださる薬師如来です。
 出雲の一畑薬師の例で言いますと、額堂にいて祈願する人が、明け方になると磯に下りて海藻を拾って薬師さんに上げるのです。それがいちばんの供養だといわれています。海のかなたから寄ってくるのが薬師だということを、これは示しています。 

石手寺は、もとは安養院というお寺でした。

そのため「西方をよそとは見まじ安養の十に詣りて受くる十楽」という御詠歌があります。
極楽に行くと十の楽しみがあるそうだが、安養寺に参れば極楽の十楽を受けることができる、という意味です。
イメージ 2

 四十七番の八坂寺にも衛門三郎の伝説があります。

 食べ物を求めた托鉢僧に乱暴をふるまったため、衛門三郎の八人の子どもが頓死したというものです。石手寺の縁起では、衛門二郎が石手寺の開創の伊予の国司の河野氏の子どもとして生まれ変わってきたことになっています。
当国浮穴郡花原の邑に右衛門三郎といふ人あり。四国にをいて富貴の声聞あり。
貪欲無道にして、神仏に背けり。男子八入ありしに、八日に八人ながら頓死す。
異説あり。是より発心し仏神に帰し、家を捨、霊区霊像を遍礼せり。
阿州焼山寺の麓にて恙を抱て死に臨めり。時に我大師ここに至り玉ひて、
発心修行の事を歎じ、汝当来の願ひいかがととはせ玉へば、
この国にて河野氏に勝れる人なし。われ彼が子に生れん事を欲すとぞいひげる。
大師小石に右衛門三郎と名を書付に賢らしめ玉ふ。既に命をはりて其所に葬る。
いまに其塚あり。扨月日をへて国司河野氏の男子に生る。彼石を左の手に握れり。
右衛門三郎の後身なる事、人みなしれり。其名を息方と号す。
羊砧円沢のためしよりも正し。此息方当社権現を崇敬し、神殿拝殿再興し、
手に握る所の石を宝殿に納めて、後世に伝ふ。
 罰が当たって八人の男の子が一日に一人ずつ死んでいったので、衛門三郎は発心して四国八十八か所を回りました。ここから八十八か所の始まりは弘法大師だという説と並んで、衛門三郎だという説が出てきます。「恙」は病気のことです。恙なしというのは病気がないということです。
「歎じ」は嘆くのではなくて賛嘆するという意味です。
弘法大師は、衛門三郎が悪逆無道であったけれども、発心して諸国をめぐって修行したことを賛嘆したわけです。来世はどうしたいかと聞くと、河野氏の子に生まれ変わりたいといいました。

イメージ 3

  伊予の名門となる河野氏が、伊予の北半分の国司の地位を鎌倉幕府から与えられるのは壇ノ浦の戦いのときに、源氏方に付いた恩賞です。ところが、承久の変のときに後鳥羽上皇に付いてしまったので、河野氏は没落します。その結果、名前だけは残りました。
 その時の通信は、奥州江刺に流されますが、長男の通広が伊予に留まって坊さんになりました。その子ども、すなわち通信の孫が一遍上人です。これも出家して太宰府の聖達上人に弟子入りします。
 この経緯から「衛門三郎の伝説」が生まれたのは河野氏が没落する以前の承久の変より前の話として、この縁起を受け取らないと「河野氏に勝れる人なし」というわけにはいきません。
 
イメージ 4

鎌倉時代に安養寺から石手寺に変わります

 当時は熊野十二所権現を勧請し、寺坊六十六を数える大寺でした。
 記録をたどると、村上天皇の天徳二年(九五八)に伝法濯頂が行われ、源頼義、北条親経に命じて伽藍を建立し、永保二年(一〇八二)には天下の雨乞いを行ったということになっています。平安時代から鎌倉時代にかけて、かなり栄えた寺であったと想像できます。
寛治三年(1089)に弘法大師御影を賜って御影堂を建てました。これが大師堂です。永久二年に頼義の末子親清か諸堂を修復します。源氏の勢力が伊予に及んでいたので、安芸の宮島と同じように源氏の勢力で諸宗が修復されました。
治承元年(1177)には高倉院から大般若経が施入されています。
元久元年(1204)に十二社権現の祭礼を行ったという記録があるので、このころ熊野権現が勧請されたのではないかとかもいます。それ以前の勧請ではありません。
熊野権現を別当として守るお寺が石手寺ですから、熊野権現が主体で、別当寺はそれに付随したものでした。今治の南光坊も同じような成立のしかたをしています。
弘安二年に十六王子ができたというのも、熊野の王子十六社をここに招いたからとおもわれます。
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熊野の王子はたいへん難しい問題です。

 かつては神様の御子だ、熊野の新宮と那智の神様は伊井諾・伊井再命だから、王子は天照大御神をまつったものだという説が通説でした。しかし、そういうものではなくて、海の向こうから来る神様を王子とではないか、天照大御神というのはむしろ不自然で、常世に去った神悌が夷というかたちで残ったのではないか。子孫を保護するという意味で、食べ物を豊かにする神として戻ってくる。例えば、恵比須様は豊漁の神ですから、そのほうが自然です。 
境内の水天堂には干満水があります。
土間だけの粗末なお堂に、甕が一つ置いてあって、半分ぐらい砂利が入ってします。そこに入っている水は干潮のときはひたひたで、満潮のときはいっぱいになる、といわれていますが、お寺が海とつながっている海洋宗教の寺であることを示しています。
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石手寺の境内は雑然としています。

 雑然としたお寺は庶民が近づきやすい。浅草みたいに、石手寺にも仲見世があって、昭和のころにしか見たことがないようなものが売られています。
 正面に本堂があります。本堂の中には最近作った仏像をたくさん並べています。
円空仏とまぎらわしいようなものが、いっぱい並べてあります。
 本堂の右のほうに大師堂があります。大師堂の左手の裏に兜率天洞という地獄めぐりが造られていて、まっ暗闇の中をめぐって歩くのです。阿弥陀堂は、安養寺の残ったものです。三重塔は鎌倉時代の復興です。それに経蔵、護摩堂、弥勒堂、水大京と並んで、建物はいちおう七堂伽藍がそろっております。
 このお寺は松山市内にあるので、ずいぶん人々に親しまれています。
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