金刀比羅宮は、明治維新の神仏分離までは神仏が習合した信仰の場で金毘羅大権現という神号社号で呼ばれていました。山号・象頭山、寺号・松尾寺、院号・金光院と称する古義真言宗の無本寺で、金光院住職は金毘羅大権現の別当職として神前奉仕を行っていました。それでは具体的にはどんな宗教活動を金光院院主は行っていたのでしょうか。それを「金光院日帳」で見ていくことにします。
金光院日帳(記)
金光院日帳は金光院院主側近の側用人と、脇坊と重役が勤める役の両方から提出された情報を、用人部屋で記録したものです。そのため院主の動静がよく分かります。院主は、「御上(おかみ)」「御前(ごぜん)」「旦那様」などと記されています。宝暦年間 (1751~64)に、院主がどんな活動をしていたか、まず正月元旦の様子から見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事」です。
正月朔日
お上(金光院院主)、午前零時お目覚め、若湯を召される。このとき土蔵奉行が湯を差し上げる。午前一時、①護摩堂へ出仕、天下泰平・国家安全祈疇のため護摩供を開白、二時ごろ終わり居間へ入る。
ここからは金光院院主が、年の初めにまず行う事は、護摩堂での護摩祈祷であったことが分かります。
ここに出てくる護摩堂について見ておきましょう。

金光院表書院の南側にあった護摩堂と、その本尊の不動明王(金刀比羅宮宝物館)
『金毘羅山名所図会』(文化年間(1804~18)の護摩堂の項には、次のように記されています。(意訳)
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)
ここからは金光院の護摩堂では、金光院の僧侶達によって連日護摩が焚かれたことが分かります。
弘化年間の日記には、次のように記されています。
ここからは、阿弥陀堂や大黒天・毘沙門天なども当時の金毘羅大権現には安置されていたことが分かります。

この護摩堂の本尊が、現在宝物館に展示されている不動明王になります。この不道明王は「足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分が見られ、塗りがおちて、部分的に木地が露出している」と報告されています。「ただれ跡の剥落」は「かつて護摩を焚いた熱によるもの」と研究者は考えています。ここでは、金光院院主の年頭最初の仕事は、護摩堂で不動明王に向かって護摩祈祷をおこなうことであったことを押さえておきます。
弘化年間の日記には、次のように記されています。
護摩修行を終えて帰りがけ、御影堂・阿弥陀堂・持仏堂歳徳神・大黒天・奥の間毘沙門天を順拝される。
ここからは、阿弥陀堂や大黒天・毘沙門天なども当時の金毘羅大権現には安置されていたことが分かります。

金刀比羅宮 元禄末頃(1704)境内図
午前2時頃に護摩祈祷から帰った後の動きを見ておきましょう。ほどなく、②書院の間で寺院のあいさつを受ける。続いて同宿役人・人・医師・侍・神役・茶道がお礼を申し上げる。次に③富士の間で御供禅門・男・五師・冶師などの御礼を受けられる。右の者と同席に百姓組頭・三条村百姓町方独礼のがお礼、大井宮神主も御礼申し上げる次に、次に④通りの間で小頭共、さらに⑤大台所で草履取・中間・堂禅門伽藍中間・勝手門番・畑男・前屋敷番・太鼓打・下屋敷番・地方肝煮・山留共がそろってお礼。
次に、⑥お上へ蓮菜・口取・大福茶を差し上げ、寺院書院・法中・役人へ大福茶を出す。つづいて⑦寺中・法中・役人御相伴にて雑煮を差し上げる。酒は三献、肴は二種、梅干とせり。次に七賢の間で町方御用のお礼を受けられる。
ここからは次のような事が読み取れます。
②③④⑤からは、各スタッフや町衆の指導者から年頭の挨拶を表書院で受けています。そこには、だれがやって来て、どの部屋に通して、何を出したかがきちんと記録されています。
ここからは、各間が次のような役割を持っていたことが分かります。
ここで注意しておきたいのは、身分によって使用される部屋が異なることです。
『金刀比羅宮応挙画集』は、表書院が客殿であったことに触れた後、次のように記します。(意訳)
公的な諸儀式や参拝に訪れた賓客の応接にこの客殿(表書院)を用いた。その内の二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎人の間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々や役人の座席に、鶴之間は使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室として用いられた。
ここからは、各間が次のような役割を持っていたことが分かります。
①二之間(山水之間) 諸候の座席
②七腎人の間 儀式に際しての院主の座席
③虎之間 引見の人々や役人の座席
④鶴之間 使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室
しばらく居間で休憩して神前出仕。供は奥の者六人、外に七人。⑦神前では恒例の神事、五人百姓・神役も出仕する。⑧終わって午前八時、本坊へ降りる。
⑦からは、護摩祈祷後に本殿に上がって、五人百姓や神官とともに神事を行っています。ここには、僧侶は出席していないようです。その神事の内容については、よく分かりません。神事を終えて、本坊に下りてくるのが午前8時です。そこで、また次のように挨拶を受けます。
⑨休息のあと七賢の間で町年寄また重立の者のあいさつを受ける。つづいて⑩富士の間で町医者・各町組頭のあいさつを受ける。この時、町重立の者は前々通り、御守所でお守りを頂戴する。⑪小松庄の五條・榎井・苗田・四条の四ヶ村また隣郷の、前々から出入りしている人達が登山してお礼のあいさつを申し上げる。今日は朝夕とも、院内上下の者に雑煮とお節、また酒も下さる。お節は脇坊・役人・法中は富士の間でお相伴で頂く。
⑫明後三日からの参籠のお供のお触れがある。高松のお船の祈祷を船行宛に手紙を添えて使僧に持たせてやる。
⑨⑩⑪などからは町年寄や町医者・町組頭など身分に応じて、通される部屋が違っています。身分を可視化するための装置として、表書院の各部屋は造られていたことを押さえておきます。

江戸時代中期の表書院平面図
表書院の間取図を見ると、上段・二之間・七賢間・虎の間(広間)・鶴の間・富士の間などの名称や間取りは、現在とほとんど変わらないようです。大きい違いは、上段・二之間と富士の間に挟まれて仏壇と仏間があることです。この仏間は、持仏堂と呼ばれて法要が営まれていました。これは、明治の神仏分離で取り払われます。正月などに町方の者が登山して料理や酒が振る舞われるのが「通りの間」や大台所が表書院に、もともとはあったことを押さえておきます。

江戸時代中期の表書院平面図
表書院の間取図を見ると、上段・二之間・七賢間・虎の間(広間)・鶴の間・富士の間などの名称や間取りは、現在とほとんど変わらないようです。大きい違いは、上段・二之間と富士の間に挟まれて仏壇と仏間があることです。この仏間は、持仏堂と呼ばれて法要が営まれていました。これは、明治の神仏分離で取り払われます。正月などに町方の者が登山して料理や酒が振る舞われるのが「通りの間」や大台所が表書院に、もともとはあったことを押さえておきます。
それでは正月二日に進みます。
朝飯後、高松領・丸亀領のこれまで出入りの人達があいさつに登山、お次の広間で逢われる。登山の人々に吸い物・酒を出す。恒例の畑の耕し初めがあり、銚子に酒を少し入れ、畑で松幣を建てる。
「弘化年間」には、「町方重立の者・御用組頭のあいさつを受ける。 夜、座の間で謡初、酒がある。」と記されています。
正月三日
昨日と同じように東西領の出入りの人達があいさつに登山する。 財田中之村の百姓も毎年のように登山。 丸亀・高松・萱原の屋敷守も御礼に参上する。近在の寺院が三ヶ日のうちに登山した場合は酒と吸い物を出す。午後四時から参籠。 脇坊中も神前に詰める。
正月年賀の挨拶参りの人達のがやってきますが、その参賀日にはルールがあったようです。元旦は、各院主からはじまり、スタッフ、門前町の町衆代表などで、2・3日には周辺の人達と同心円的に拡がって行きます。正月3日に「財田中の村百姓も毎年のように登山」とあるのは、金光院主を輩出する山下家の出里が財田であったためのようで、その縁から来ているようです。
そして、3日4時からは6日間の参籠が始まります。これについては、また次回に
以上をまとめておきます。
①明治以前の神仏混時代の金毘羅大権現では、真言僧侶の金光院院主が「小領主」として支配していた。
②正月年頭に、最初に行う事は護摩祈祷であり、金光院の修験者的性格を引き継いでいる。
③「仏道が先、神事は後」で、神前儀式は護摩祈祷の後に行われている。
④金光院の客殿(表書院)には、年頭挨拶に訪れる時間帯が身分毎に決められていた。
⑤また、身分毎に通される部屋も異なっており、各身分を視覚化し、再確認させる場ともなっていた。
⑥金光院日帳には、やって来た人々、通された部屋、出された飲食物などが記載されて、後の参考にされた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事」
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