2024年最新】Yahoo!オークション -金刀比羅宮 名宝の中古品・新品・未使用品一覧

「金刀比羅宮の名宝(絵画)」を手にすることができたので、この本をテキストにして、私の興味があるところだけですが読書メモとしてアップしておきます。まず、表書院について見ていくことにします。

39 浦谷遊鹿
        象頭山十二景図(17世紀末)に描かれた表書院と裏書院

金光院 表書院
        金刀比羅宮表書院(讃岐国名勝図会 1854年)

生駒騒動後に、松平頼重が髙松藩初代城主としてやってくると、金毘羅大権現へ組織的・継続的な支援を次のように行っています。

松平頼重寄進物一覧表
松平頼重の金毘羅大権現への寄進物一覧表(町誌ことひら3 64P)

松平頼重が寄進した主な建築物だけを挙げて見ます。
正保二年(1645)三十番神社の修復
慶安三年(1650)神馬屋の新築
慶安四年(1651 仁王門新築
万治二年(1659)本社造営
寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築
延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立
これだけでも本堂を始めとして、山内の堂舎が一新されたことを意味します。表書院が登場するのも、この時期です。
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表書院は、客殿として万治年間(1658~61)に建立されたと伝えられています。

先ほど見たとおり、松平頼重の保護を受けると大名達の代参が増えてきます。その対応のためにもきちんとした客殿が必要になったのでしょう。建設時期については、承応2年(1654)に客殿を建て替えたという文書もあるので、万治2年(1659)の本宮造営完了の頃には姿を見せていたと研究者は考えています。そして、その時から各部屋は「滝之間、七賢之間、虎之間、鶴之間」の呼び名で呼ばれていたことが史料で確認できます。それが百年以上経過した18世紀後半になって、表書院をリニューアルすることになり、各部屋のふすま絵も新たなものにすることになります。その制作を依頼したのが円山応挙だったということのようです。この時期は、大阪湊からの定期便が就航して以後、関東からの参拝客が急速に増加して、金光院の財政が潤い始めた時代です。


表書院
表書院平面図2
                    表書院の間取り
 
円山応挙が表書院の絵画を描くようになった経緯については、金毘羅大権現の御用仏師の田中家の古記録「田中大仏師由緒書」に次のように記されています。

田中家第31代の田中弘教利常が金光院別当(宥存)の意を受けて円山応挙に依頼したこと、資金については三井北家第5代当主高清に援助を仰いだこと。

当時の金光院別当の宥存については、生家山下家の家譜には次のように記します。
俗名を山下排之進といい、二代前の別当宥山の弟山下忠次良貞常の息として元文四年(1739)10月26日に京都に生まれた。
宝暦5 年(1755)9月21日(17歳)で得度
宝暦11年(1761)2月18日(23歳)で金光院別当として入山し27年間別当職
天明 8年(1787)10月8日(49歳)で亡くなる。
宥在は少年時代を京都で過ごし、絵画を好んだので若冲について学んだと伝わります。
金光院別当宥存は京の生まれで、少年時代を京で過ごした経歴を持ち、絵事を好んで若冲に教えを受けたことがあるとされます。ここからは表書院の障壁画制作の背景について、次のように考えることができます。
①京画の最新状況に詳しい金光院別当の宥存
②経済的に他に並ぶものがない豪商三井家
③平明な写生画風によって多くの支持層を開拓していた円山応挙
これらを御用仏師の田中家が結びつけたとしておきます。京から離れた讃岐国でも、京都の仏師達や絵師たちが、善通寺の本尊薬師如来を受注していたことや、高松藩主松平頼重が多くの仏像を京都の仏師に発注していたことは以前にお話ししました。京都の仏師や絵師は、全国を市場にして創作活動を行っていました。金刀比羅宮表書院と円山応挙の関係もその一環としておきます。

金刀比羅宮 表書院4
       表書院 七賢の間から左の山水、右の虎の間を望む
応挙が書いた障壁画には、次のふたつの年期が記されています。
①天明7年(1787)の夏    虎の間・(同時期に鶴の間?)
②寛政甲寅初冬(1794)10月 山水の間・(同時期に七賢の間?)
ここからは2回に分けて制作されたことが分かります。まず、①で鶴の間・虎の間が作られ、評判が良かったので、7年後に②が発注されたという手順が考えられます。応挙が金毘羅へやってきたという記録は残っていないので、絵は京都で書かれ弟子たちが運んできたようです。
 なお、最初の天明7年(1787)10月には、施主であった第十代別当宥存(1727~87)が亡くなっています。もう一つの寛政6年(1794)は、応挙が亡くなる前年に当たります。そういう意味で、この障壁画制作は応挙にとっても集大成となる仕事だったことになります。ちなみに、完成時の別当は第11代宥昌になります。
 表書院は客殿とも呼ばれていて、表向きの用に使われた「迎賓館」的な建物です。
実際にどんなふうに運用されていたのかを見ていくことにします。『金刀比羅宮応挙画集』は、表書院が金光院の客段であったことに触れた後、次のように記します。

「表立ちたる諸儀式並に参拝の結紳諸候等の応接には此客殿を用ゐたるが、二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎之間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々並に役人等の座席に、鶴之間は当時使者之間とも唱へ、諸家より来れる使者の控室に充当したりしなり」

意訳変換しておくと
公的な諸儀式や参拝に訪れた賓客の応接にこの客殿を用いた。その内の二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎人の間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々や役人の座席に、鶴之間は使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室として用いられた。

ここでは、各間の機能を次のように押さえておきます。
①二之間(山水之間) 諸候の座席
②七腎人の間 儀式に際しての院主の座席
③虎之間 引見の人々や役人の座席
④鶴之間 使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室

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松原秀明「金昆羅庶民信仰資料集 年表篇」には、「虎の間」の使用実態が次のように記されています。
①寛政12年(1800)10月24日  表書院虎の間にて芝居.
②文化 7年(1810)10月18日  客殿(表書院)にて大芝居、外題は忠臣蔵講釈.
③文化 9年(1812)10月25日  那珂郡塩屋村御坊輪番恵光寺知弁、表書院にて楽奉納
④文政5年(1832)9月19日     京都池ノ坊、表書院にて花奉納
⑤文政7年(1834)10月12日    阿州より馳馬奉納に付、虎の間にて乗子供に酒菓子など遣わす
⑥弘化元年(1844)7月5日      神前にて代々神楽本納、のち表書院庭にても舞う、宥黙見物]
⑦弘化3年(1846)9月20日     備前家中並に同所虚無僧座頭共、虎之間にて音曲奉納
虎の間3
虎の間(金刀比羅宮表書院 円山応挙)
ここからは、次のような事が分かります。
A 表書院で最も広い大広間でもあった虎の間は、芸能が上演される小劇場として使用されていた
B ⑤の文政7年の記事からは、虎の間が馬の奉納者に対する公式の接待の場ともなっていたこと
C ⑥の記事からは単なる見世物ではなく、神前への奉納として芸能を行っていたこと
D 神前への奉納後に、金光院主のために虎のまで芸が披露されてたこと
以上から、虎の間は芸能者が芸能を奉納し、金光院がこれを迎える公式の渉外接待の場として機能していたと研究者は判断します。

鶴の間 西と北側
             表書院 鶴の間(金刀比羅宮)
同じように、鶴の間についても松原氏の年表で見ておきましょう。

①天保8年(1837)4月1日  金堂講元伊予屋半左衛門・多田屋次兵衛、以後御見席鶴之間三畳目とし、町奉行支配に申しつける

ここからは当時建立が決定した金堂(旭社)建設の講元の引受人となった町方の有力者に対して、「御目見えの待遇」で町奉行職が与えられています。それが「鶴の間三畳目」という席次になります。席次的には最も低いランクですが、町奉行支配という形で、金刀比羅宮側の役人に取り立てたことを目に見える形で示したものです。
七賢の間
七賢の間(金刀比羅宮表書院) 
七賢の間については、金光院表役の菅二郎兵衛の手記に次のように記されています。

万延元年(1860)2月の金剛坊二百丘十年忌の御開帳に際して、縁故の深い京の九条家からは訪車が奉納されたが、2月5日に奉納の正使が金毘羅にやってきた。神前への献納物の奉納後、寺中に戻り接待ということになったが、その場所は、本来は七賢の間であるべきところが、何らかの事情により小座敷と呼ばれる場所の2階で行われた

ここからは、七賢の間は公家の代参の正使を迎える場として使われていたことが分かります。
 天保15年(1844)に有栖川宮の代参として金刀比羅宮に参拝にやって来て、その後に奥書院の襖絵を描いた岸岱に対する金刀比羅宮側の対応を見ておきましょう
天保15年(1844)2月2日、有栖川宮の御代参として参詣した時には、岸岱は七賢の間に通されています。それが、6月26日に奥書院の襖絵を描き終わった後の饗宴では、最初虎の間に通され、担当役人の挨拶を受けた後、院主の待つ御数寄屋へ移動しています。この時、弟子の行芳、岸光は鶴の間に通され、役人の扶拶のないまま、師の岸岱と一緒に数寄屋へ移動しています。
表書院 虎の間

          七賢の間から望む虎の間(金刀比羅宮表書院)

以上から、表書院の部屋と襖絵について研究者は次のように解釈します。
表書院の部屋ランク

つまり、表書院には2つの階層格差の指標があったのです。
A 奥に行くほど格が高く、入口に近いほど低いという一般常識
B 「鶴(花鳥)→虎(走獣)→賢人→山水」に格が高くなると云う画題ランク

以上を踏まえた上で、表書院の各室は次のように使い分けられていたと研究者は指摘します。

金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割


このことは先ほど見たように、画家の岸岱が有栖川宮の代参者としてやってきた時には「七賢の間」に通され、画家という芸能者の立場では「虎の間」に通されていることとからも裏付けられます。
表書院は金刀比羅宮の迎賓館で、ランク毎に使用する部屋が決まっていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊藤大輔 金刀比羅宮の名宝(絵画) 
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