虎の間は、東西五間・南北三間の30畳で表書院の中では一番大きな部屋でした。東側が鶴の間、西側で七賢の間に接しています。上の写真は、七賢の間から見たもので正面が西側の「水呑の虎」です。ここには、応挙によって描かれた個性のある虎たちがいます。今回は、この虎たちを見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」299Pです。まず、虎たちの配置を押さえておきます。
①東側の大襖(四面、2-A 水呑の虎)②北側の襖(八面、2-B・2ーC) 八方睨みの虎 寝っ転がりの虎)③西側の大襖(四面、2‐D) 白虎)④南側の障子腰貼付(八面、2‐E、2‐F)
①東側の大襖(西側四面、2-A 水呑の虎)
②北側の襖(B) 「八方睨みの虎」(金刀比羅宮表書院 虎の間)
ここには、「八方睨みの虎」がいます。
ここには、「八方睨みの虎」がいます。
②北側の襖(B) 「八方睨みの虎」
②虎の間・北側の襖(2ーC)
八方睨みの虎のお隣さんが「丸くなって寝っ転がる虎(私の命名)」です。まだらヒョウのような文様で、目を閉じ眠っています。最後が西側です。
西側には3頭の虎がいますが、その中で目を引くのが白虎(ホワイトタイガー)です。
しっぽを立てて、威嚇するような姿に見えます。しかし、前足の動きなどがぎこちない感じです。また
虎は、鋭い眼光で四方八方から押し寄せる厄災から家を守ってくれるので魔除けとされたり、「1日にして千里を行き千里を返す」という例えから開運上昇の霊獣ともされました。「八方睨みの虎」は、上下左右どこから見ても外敵を睨んでいるように描かれた虎の絵柄で、後世になると魔除けや家内安全の願いを込めて用いられるようになります。この虎がよほど怖ろしかったのか、描かれてから約80年後の1862年に、小僧がこの虎の右目を蝋燭で焼こうとして傷つけられて修復した記録が残っています。しかし、私の目から見ると、なんだか愛くるしい「猫さん」のように見えていまいます。
②虎の間・北側の襖(2ーC)
八方睨みの虎のお隣さんが「丸くなって寝っ転がる虎(私の命名)」です。まだらヒョウのような文様で、目を閉じ眠っています。最後が西側です。
金刀比羅宮表書院 虎の間の北と西
虎の間 西側
西側には3頭の虎がいますが、その中で目を引くのが白虎(ホワイトタイガー)です。
表書院虎の間の「白虎」(円山応挙)
しっぽを立てて、威嚇するような姿に見えます。しかし、前足の動きなどがぎこちない感じです。また
実際の虎の瞳は丸いのですが、ここにいる虎たちはネコのように瞳孔が細く描かれています。それも可愛らしい印象になっているようです。
前回見た鶴の間の鶴たちと比べると「写実性」いう面では各段の開きがあるように思います。18世紀後半になると魚や鳥などをありのままに写実的に精密に描くという機運が画家の中には高まります。その中で鶴を描くのを得意とする画家集団の中で、応挙は成長しました。彼らはバードウオッチングをしっかりとやって、博物的な知識を持った上で鶴を書いています。しかし、その手法は虎には適用できません。なぜなら、虎がいなかったから・・。江戸時代は国内で実物のトラを観察することができず、ネコを参考に描き上げたことをここでは押さえておきます。
前回見た鶴の間の鶴たちと比べると「写実性」いう面では各段の開きがあるように思います。18世紀後半になると魚や鳥などをありのままに写実的に精密に描くという機運が画家の中には高まります。その中で鶴を描くのを得意とする画家集団の中で、応挙は成長しました。彼らはバードウオッチングをしっかりとやって、博物的な知識を持った上で鶴を書いています。しかし、その手法は虎には適用できません。なぜなら、虎がいなかったから・・。江戸時代は国内で実物のトラを観察することができず、ネコを参考に描き上げたことをここでは押さえておきます。
虎の画題は、龍とともに霊獣として古くから描かれてきました。

しかし、日本に虎はいません。そこで画家達は、上図のような中国から伝わったこの絵をもとに、変形・アレンジを繰り返しながら虎図を描いてきました。その到達点が17世紀半ばに狩野探幽が南禅寺小方丈の虎の間に描いた「水呑の虎」のようです。
伝牧籍(南宋)の筆「龍虎図」(大徳寺)
しかし、日本に虎はいません。そこで画家達は、上図のような中国から伝わったこの絵をもとに、変形・アレンジを繰り返しながら虎図を描いてきました。その到達点が17世紀半ばに狩野探幽が南禅寺小方丈の虎の間に描いた「水呑の虎」のようです。
![ぶらり京都-136 [南禅寺の虎・虎・虎] : 感性の時代屋 Vol.2](https://pds.exblog.jp/pds/1/201705/10/28/d0352628_1118644.jpg)
狩野探幽の「水呑の虎」 (南禅寺小方丈虎の間)
応挙も画家として、人気のある虎の画題を避け通ることはできませんから、墨画によるものや彩色を施されたもの、軸、屏風に描かれたものなどいろいろなものを描いています。

応挙も画家として、人気のある虎の画題を避け通ることはできませんから、墨画によるものや彩色を施されたもの、軸、屏風に描かれたものなどいろいろなものを描いています。

円山応挙の「虎図」=福田美術館蔵
「写生画」を目指した応挙にとって、見たこともない「虎」を、実物を見たように描くということは、至難のことだったはずです。
それに応挙は、どのように対応したのでしょうか? それがうかがえる絵図を見ておきましょう。
応挙筆「虎皮写生図(こひしゃせいず)」 二曲一双 紙本着色 本間美術館蔵
それに応挙は、どのように対応したのでしょうか? それがうかがえる絵図を見ておきましょう。
応挙筆「虎皮写生図(こひしゃせいず)」 二曲一双 紙本着色 本間美術館蔵
150㎝ × 178㎝(貼り切れない後脚と尾は裏側に貼ってある)
この屏風は、応挙が毛皮を見て描いた写生図です。毛並みや模様を正確に写していることが分かります。虎皮は実物大に描き、貼りきれなかった後足と尾の部分は裏側に貼られているようです。各部の寸法を記した記録や、豹の毛皮の写生、そして復元イメージの小さな虎の絵も添えられています。しかし、先ほど見たように「虎の目は丸い」ということまでは毛皮からは分かりません。猫の観察から「細い眼」で描かれたようです。表書院の虎たちが、どこか猫のように可愛いのはこんな所に要因があったようです。
しかし、応挙の晩年に描かれた虎たちには別の意図があったと研究者は次のように記します。
この屏風は、応挙が毛皮を見て描いた写生図です。毛並みや模様を正確に写していることが分かります。虎皮は実物大に描き、貼りきれなかった後足と尾の部分は裏側に貼られているようです。各部の寸法を記した記録や、豹の毛皮の写生、そして復元イメージの小さな虎の絵も添えられています。しかし、先ほど見たように「虎の目は丸い」ということまでは毛皮からは分かりません。猫の観察から「細い眼」で描かれたようです。表書院の虎たちが、どこか猫のように可愛いのはこんな所に要因があったようです。
しかし、応挙の晩年に描かれた虎たちには別の意図があったと研究者は次のように記します。
それまでの応挙の「水呑の虎」は「渓流に前足を踏み入れ、水を呑む虎の動作を柔軟に動的に表現」している。ところが「虎の間」の「水呑みの虎」は、墨画によるもので「虎の毛並みの表現に集中した静的で平面的な表現である。つまり両者の間には、着色で立体的に描かれた背景と、平面的に描かれた虎という対比的な表現法がとられている。平面的に描かれた虎は、背景の自然物の空間にはなじんでいない。ここでの虎は、自然の中を闊歩する動物としての虎ではなく、霊獣としての意味合いをもって立ち現れているのではないだろうか。
つまり、表書院の虎たちは平面的で静的にあえて墨で描かれているというのです。その意図は、何なのでしょうか? それは、この部屋の持つ役割や機能と関係があるとします。
以前お話ししたように迎賓館的な表書院の各間の役割は、以下の通りです。
表書院は、金光院と同格の者を迎える場で、大広間であり、小劇場の舞台としても使用されました。その機能を事前に知っていた応挙が、霊獣としての虎をあえて平面的に用いてたのではないかというのです。
この時に、鶴の間の鶴たちも同時に金光院に収められたと研究者は考えています。この年の応挙は、南禅寺塔頭帰雲院、大乗寺山水の間、芭蕉の間も制作しています。生涯の中で、最も多く障壁画を制作した年になるようです。
応挙は、これらの障壁画を現地の金刀比羅宮で制作したのではなく、大火後に家を失ってアトリエとして利用していた大雲院で制作したようです。完成した絵図は、弟子たちによって運ばれ、障壁画としてはめ込まれます。応挙が金毘羅を訪れた記録はありません。
最後に、完成した虎の間が、実際にはどのように使われていたのかを見ておきましょう。松原秀明「金昆羅庶民信仰資料集 年表篇」には「虎の間」の使用実態が次のように記されています。
①寛政12年(1800)10月24日 表書院虎の間にて芝居。②文化 7年(1810)10月18日 客殿(表書院)にて大芝居、外題は忠臣蔵講釈。③文化 9年(1812)10月25日 那珂郡塩屋村御坊輪番恵光寺知弁、表書院にて楽奉納④文政5年(1832)9月19日 京都池ノ坊、表書院にて花奉納⑤文政7年(1834)10月12日 阿州より馳馬奉納に付、虎の間にて乗子供に酒菓子など遣わす⑥弘化元年(1844)7月5日 神前にて代々神楽本納、のち表書院庭にても舞う、宥黙見物⑦弘化3年(1846)9月20日 備前家中並に同所虚無僧座頭共、虎之間にて音曲奉納
ここからは、次のような事が分かります。
A 表書院で最も広い大広間でもあった虎の間は、芸能が上演される小劇場として使用されていた
B ⑤の文政7年の記事からは、虎の間が馬の奉納者に対する公式の接待の場ともなっていたこと
C ⑥の記事からは単なる見世物ではなく、神前への奉納として芸能を行っていたこと
D 神前への奉納後に、金光院主のために虎のまで芸が披露されてたこと
以上から、虎の間は芸能者が芸能を奉納し、金光院がこれを迎える、公式の渉外接待の場として機能していたと研究者は判断します。それらをこの虎たちは見守り続けたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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