瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:西光寺

安楽寺文書
三好千熊丸諸役免許状(安楽寺文書)
 真宗の四国への教線拡大を考える際の一番古い史料は、永正十七年(1520)の三好千熊丸(元長または 長慶)が安楽寺に対して、亡命先の讃岐財田から特権と安全を保証するから帰ってくるようにと伝えた召還状(免許状)です。これが真宗が四国に根付いていたことをしめすもっとも古い確実な史料のようです。
Amazon.com: 大系真宗史料―文書記録編〈8〉天文日記1: 9784831850676: Books

その次は「天文日記」になります。これは本願寺第十世證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けた日記です。『天文日記』に出てくる四国の寺院名は、讃岐高松の福善寺だけです。ここには16世紀前半には、讃岐高松の福善寺が本願寺の当番に出仕していたこと、その保護者が香西氏であったことが書かれています。
その他に讃岐の有力な真宗寺院としては、どんな寺院があったのでしょうか?
幻の京都大仏】方広寺2021年京の冬の旅 特別拝観の内容と御朱印 | 京都に10年住んでみた
秀吉が建立した京都方広寺の大仏殿
天正14(1586)年、秀吉は当時焼失していた奈良の大仏に代わる大仏を京都東山山麓に建立することにします。高さ六丈三尺(約19m)の木製金漆塗坐像大仏を造営し、これを安置する壮大な大仏殿を、文禄4(1595)年頃に完成させます。大仏殿の境内は,現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館の3か所を含む広大なもので,洛中洛外図屏風に描かれています。現存する石垣から南北約260m,東西210mの規模でした。モニュメント建設の大好きな秀吉は、この落慶法要のために宗派を超えた全国の僧侶を招集します。浄土真宗の本山である本願寺にも、声がかかります。そこで本願寺は各地域の中本寺に招集通知を送ります。それが阿波安楽寺に残されています。大仏殿落慶法要参加のための本願寺廻状で、その宛名に次のような7つの寺院名が挙げられます。

阿波国安楽寺
讃岐国福善寺・福成寺・願誓寺・西光寺・正西坊、□坊

阿波では、真宗寺院のほとんどが安楽寺の末寺だったので、参加招集は本寺の安楽寺だけです。以下は讃岐の真宗寺院です。これらの寺が、各地域の中心的存在だったことが推測できます。ただ、常光寺(三木)や安養寺などの拠点寺院の名前がありません。安養寺は安楽寺門下ために除外されたのかもしれません。しかし、常光寺がない理由はよくわかりません。また、「正西坊、□坊」などは、寺号を持たない坊名のままです。
 この七か寺中について「讃岐国福成寺文書」には、次のように記されています。
当寺之儀者、往古より占跡二而、御目見ハ勝法寺次下に而、年頭御礼申上候処、近年、高松安養寺・宇多津西光寺、御堀近二仰付候以来、其次下座席仕候

意訳変換しておくと
当寺(福成寺)については、古くから古跡で、御目見順位は勝法寺(高松御坊)の次で、年頭御礼申上の席次は、近年は高松安養寺・宇多津西光寺に次いで、御堀に近いところが割り当てられています。

ここからは江戸時代には、讃岐国高松領内の真宗寺院の序列は、勝法寺(高松御坊)・安養寺(高松)・西光寺(宇多津)・福成寺という順になっていたことが分かります。先ほど見た安養寺文書の廻状に、福成寺・西光寺の寺名があります。ここからも廻状宛名の寺は、中世末期までに成立していた四国の代表的有力寺院であったことが裏付けられます。今回は、これらの寺の創建事情などを見ていくことにします。テキストは、千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 地域社会と真宗399P 千葉乗隆著作集第2巻」です。

千葉乗隆著作集 全5巻(法蔵館) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

まず宇多津の西光寺です。この寺の創建について「西光寺縁起」には、次のように記します。
天文十八年、向専法師、本尊の奇特を感得し、再興の志を起し、経営の功を尽して、遂に仏閣となす。向専の父を進藤山城守といふ。其手長兵衛尉宣絞、子細ありて、大谷の真門に帰して、発心出家す。本願寺十代証知御門跡の御弟子となり、法名を向専と賜ふ。

意訳変換しておくと
天文八年十一月、向専法師が、本尊の奇特を感じて西光寺を創建した。向専の父は進藤山城守で其手長兵衛尉宣絞という。子細あって、大谷の本願寺で、発心出家し、本願寺十代証知の弟子となり、法名向専を賜った。

ここには、天文年間に大和国の進藤宣政が本願寺証如の下で出家し、宇多津に渡り、西光寺を創始したと伝えます。これを裏付ける史料は次の通りです。
①『天文日記』の天文20年(1551)3月13日の条に「進藤山城守今日辰刻死去之由、後聞之」とあり、西光寺の開基専念の父進藤山城守は本願寺証如と関係があったことが分かる。
②西光寺には向専法師が下賜されたという証如の花押のある『御文章』が保存されている
③永禄十年(1567)6月に、三好氏の重臣で阿讃両国の実力者篠原右京進より発せられた制札が現存している。
以上から、「西光寺縁起」に伝える同寺の天文年間の創立は間違いないと研究者は判断します。
③の西光寺に下された篠原右京進の制札を見ておきましょう。
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
西光寺ではなく「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」とあります。鍋屋というのは地名です。その付近に最初に「念仏道場」が開かれたようです。それが元亀2年(1571)に篠原右京進の子、篠原大和守長重からの制札には、「宇足津西光寺道場」となっています。この間に寺号を得て、西光寺と称するようになったようです。

宇多津 讃岐国名勝図会2
宇多津の真宗寺院・西光寺(讃岐国名勝図会 幕末)
 中世の宇多津は、兵庫北関入船納帳に記録が残るように讃岐の中で通関船が最も多い港湾都市でした。そのため「都市化」が進み、海運業者・船乗や製塩従事者・漁民などのに従事する人々が数多く生活していました。特に、海運業に関わる門徒比率が高かったようです。非農業民の真宗門徒をワタリと称しています。宇多津は経済力の大きな町で、それを支えるのがこのような門徒たちでした。

6宇多津2135
中世の宇多津復元図 
西光寺は大束川沿いの「船着場」あたりに姿を現す。
 西光寺の付近に鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。それが「鍋屋道場」の名前になったと推測できます。どちらにしても手工業に従事する人々が、住んでいた中に道場が開かれたようです。それが宇多津の山の上に並ぶ旧仏教の寺院との違いでもあります。
東本願寺末寺 高松藩内一覧
17世紀末の高松藩の東本願寺末寺一覧
つぎに高松の福善寺について見ておきましょう。
福善寺という名前については、余り聞き覚えがありません。 上の一覧表を見ると、福善寺は7つの末寺を持つ東本願寺の有力末寺だったことが分かります。そして、この寺は最初に紹介したように讃岐の寺院としては唯一「天文日記」に登場します。天文12(1543)5月10日条に、次のように記されています。 
「就当番之儀、讃岐国福善寺、以上洛之次、今一番計勤之、非向後儀、樽持参

ここには「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあり、福善寺が本願寺へ樽を当番として持参していたことが記されています。本願寺の末寺となっていたのです。これが根本史料で讃岐での真宗寺院の存在を証明できる初見となるようです。
 この寺の創立事情について『讃州府志』には、次のように記されています。
昔、甲州小比賀村二在り、大永年中、沙門正了、当国二来り坂田郷二一宇建立(今福喜寺屋敷卜云)文禄三年、生駒近矩、寺ヲ束浜二移ス、後、寛永十六年九月、寺ヲ今ノ地二移ス、末寺六箇所西讃二在り、円重寺、安楽寺、同寺中二在リ

意訳変換しておくと
福善寺は、もともとは甲州の小比賀村にあった。それを大永年中に沙門正了が、讃岐にやってきて坂田郷に一宇を建立した。今は福喜寺屋敷と呼ばれている。文禄三年、生駒近矩が、この寺を東浜に移した。その後、寛永16年9月に、現在地にやってきた。末寺六箇寺ほど西讃にある。また円重寺、安楽寺が、同寺中にある。

ここにはこの寺の創建は、大永年中(1521~28)に、甲斐からやってきた僧侶によって開かれたとされています。

高松寺町 福善寺
高松寺町の真宗寺院・福善寺(讃岐国名勝図会)

それでは、福善寺のパトロンは誰だったのでしょうか?
天文日記の同年7月22日は、次のような記事があります。
「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」

ここには、讃岐の香西神五郎が始めて本願寺を訪れたとあります。香西一族の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたようです。つまり、16世紀中頃には、讃岐の武士団の中に真宗に改宗する武士集団が現れ、本願寺と結びつきを深めていく者も出てきたことが分かります。
三好長慶政権を支える弟たち
天下人の三好長慶を支える弟たち
どうして、香西氏は本願寺の間に結びつきができたのでしょうか?
 当時、讃岐は阿波三好氏の支配下にありました。そして、三好長慶は「天下人」として畿内を制圧しています。長慶を支えるために、本国である阿波から武士団が動員され送り込まれます。これに、三好一族の十河氏も加わります。十河氏に従うようになった香西氏も、従軍して畿内に駐屯するようになります。三好氏の拠点としたのは堺です。堺には本願寺や興正寺の拠点寺院がありました。こうして三好氏や篠原氏に従軍していく中で、本願寺に連れて行かれ、そこで真宗に改宗する讃岐武士団が出てきたと推測できます。

西本願寺末寺(仲郡)
願成寺は丸亀平野の農村部にある。

丸亀市郡家の願誓寺は、文安年中(1444~49)に蓮秀によって開かれたとされます。
周辺部には、阿波の安楽寺や氷上村の常光寺の末寺が多い中で、買田池周辺の3つの寺院は西本願寺を本寺としてきました。周辺の真宗寺院とは、創建過程がことなることがうかがえます。しかし、史料がなくて、今のところ皆目見当がつきません。

西本願寺本末関係
高松領内における西本願寺の末寺一覧(17世紀末)
20番が願誓寺で、末寺をもつ。



福成寺は天正末年(1590)に、幡多惣左衛門正家によって栗熊村に創立されたと伝えられます。
この寺も丸亀市垂水町の願誓寺とおなじで、丸亀平野の農村地帯にあります。眼下に水橋池が広がり、その向こうに讃岐山脈に続く山脈が伸びています。境内には寒桜が植えられていて、それを楽しみに訪ねる人も増えているようです。丸亀平野の終わりになる岡の上に伽藍が築かれています。農民の間にも、真宗の教線が伸びてきたことがうかがえます。しかし、その成立過程についてはよくわかりません。

 福成寺
   
以上、廻状宛名の讃岐国六か寺のうち四か寺についてみてきました。残りの正西坊と坊名不明の二か寺については、どこにあったのか分かりません。
ただ、正西坊については、伊予松山の浄念寺ではないかと研究者は考えています。
浄念寺はもともとは三河国岡崎にあった長福院と称する真言宗の寺でした。それが長享年間(1487―89)に、蓮如に帰依して真宗に転じます。そして永禄年間(1558~70)の二代願正のときに、伊予道後に来て道場を開きます。天正14(1586)年、3代正西のときに、本願寺から木仏下付を受けています。讃岐国では所在不明の正西坊は、この伊予国道後の正西坊だと研究者は推測します。その後、慶長年間に松山に移建したといわれています。
以上をまとめておくと
①真宗教団は四国東部の阿波・讃岐両国、とくに讃岐でその教線を伸ばした。
②その背景としては、臨済・曹洞の両教団が阿波、伊予ではすでにその教圏を確立していて、入り込む隙がなかったこと
③それに対して讃岐や土佐はは鎌倉仏教の浸透が遅く未開拓地であったこと。
④それが真宗教団の教線伸張の方向を讃岐・土佐佐方面に向けさせたこと
⑤四国における真宗教団の最初の橋頭堡は、阿波国郡里(美馬)の真宗興正派の安楽寺だったこと
⑤安楽寺は三好氏の保護を受けて、讃岐に教線を伸ばし有力な末寺を建てて、道場を増やしたこと⑦それが安楽寺の讃岐進出の原動力となったこと。
⑧讃岐には、三好氏や篠原氏に従軍して出向いた堺で、真宗に改宗し、菩提寺を建てるものも出てきたこと
⑨宇多津の西光寺のように、海上交易センターとして海運業者などの門徒によって建立される寺も現れたこと。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 地域社会と真宗399P 千葉乗隆著作集第2巻」
関連記事

  前回は17世紀後半に成立した高松藩の寺院一覧表である「御領分中寺々由来書」の成立過程と真言宗の本末関係を見ました。今回は浄土真宗の本末関係を見ていくことにします。テキストは「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」です。

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来2
 
「御領分中寺々由来書」に収められた高松藩の各宗派の寺数は、浄上8、天台2、真言115、禅宗7、法華12、 一向129、律宗・時宗・山伏各1の計376寺です。各宗本山の下に直末寺院があり、それに付属する末寺は直末寺院に続けて記されています。そして各寺院には簡単な由緒が書き添えられています。この表は、研究者がその中から由緒の部分を省いて、本末関係だけに絞って配置したものです。真宗については「西本願寺・東本願寺・興正寺・阿州東光寺・阿州安楽寺」が本山としてあげられいます。まず西本願寺の末寺を見ていきます。
 西本願寺本末関係
「御領分中寺々由来書」の西本願寺末寺リスト
東から西に末寺が並びます。そこに整理番号が振られています。西本願寺末の寺院が22あったことが分かります。例えば一番最後の(22)の西光寺には(宇足)と郡名が記されているので、宇多津の西光寺であることが分かります。この寺は信長との石山合戦に、戦略物資を差し入れた寺です。本願寺による海からの教宣活動で早くから開かれた寺であることは以前にお話ししました。しかし、他の宇足郡のお寺から離れて、西光寺だけが最後尾にポツンとあるのはどうしてなのでしょうか? よくわかりません。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津の西光寺(讃岐国名勝図会)

仲(那珂)郡の3つの寺を見ておきましょう。
(17)正覚寺(善通寺市与北町)は、買田池の北側の岡の上にあるお寺です。末寺に(18)正信とあります。これは、寺号を持たない坊主の名前のようです。このような坊主名と思われるものが(2)(3)(4)(6)(11)(15)(18)と7つあります。正式な寺号を名のるためには、本山から寺号と木仏などを下付される必要がありました。そのためには、数十両(現在価格で数百万円)を本寺や中本寺などに奉納しなければなりませんでした。経済基盤が弱い坊などは、山号を得るために涙ぐましい努力を続けることになります。
(19)の源正寺は、如意山の東麓にある寺です。
(20)の願誓寺は旧丸亀琴平街道の垂水町にあるお寺で(21)の光教寺(まんのう町真野)を末寺としていたようです。

 阿波安楽寺に残された文書の中に、豊臣秀吉の大仏殿供養法会へ出勤するようにとの本願寺廻状があり、その宛名に次のような7つの寺院名が挙げられます。
「阿波国安楽寺、讃岐国福善寺・福成寺・願誓寺・西光寺・正西坊、□坊」

これらの寺が、讃岐の真宗寺院の中心的存在だったことが推測できます。願誓寺も西本願寺の拠点寺院として、早くからこの地に開かれたことがうかがえます。
仲郡の西本願寺末の3つの寺を地図に落としてみます。

 西本願寺末寺(仲郡)
西本願寺末寺の正覚寺・源正寺・願正寺
これをみると3つの寺が与北周辺に集中していることが分かります。丸亀平野の真宗教線ラインの伸張は、東から常光寺(三木町)、南から阿波美馬の安楽寺によって進められたこと、このエリアの東側の垂水地区にある真宗寺院は、ほとんどが常光寺末だったことは以前にお話ししました。それが与北の如意山の北側の与北地区には、西本願寺に属するお寺が17世紀後半には3つ姿を見せていたことになります。その始まりは願誓寺だったようです。ちなみに、この3つ以外には、高松藩領の仲郡には西本願寺末の寺はなかったということです。
正覚寺
西本願寺末寺の正覚寺

続いて宇(鵜)足郡の西本願寺末の5つの寺を見ておきましょう。
(12)東光寺は丸亀南中学校の東南にあります。寺伝には開基について次のように記します。
「清水宗晴(長左衛門尉、後に宗洽と改む)の次男釈清厳か讃州柞原郷に住居し本光寺を開基す」

祚原の三本松(今の正面寺部落)に本光寺を建てたとあります。それが、元禄のころに寺の東に光り輝く霊光を見て現在地に移され、名を東光寺と改めたとされます。

土器川旧流路
郡家・川西周辺の土地利用図 旧流路の痕跡が残り土器川が暴れ川だったことが分かる
 以前にもお話ししたように近世以前の土器川や金倉川(旧四条川)は、扇状地である丸亀平野の上を山田の大蛇のように何本もの川筋になって、のたうつように流れていました。そこに霞堤防を築いて川をコントロールするようになったのは、近世はじめの生駒藩の時代になってからです。西嶋八兵衛によってすすめられたとされる土器川・金倉川の治水工事で、川筋を一本化します。その結果、それまでは氾濫原だった川筋に広大な開墾可能地が生まれます。開発した者の所有となるという生駒家の土地政策で、多くの人々が丸亀平野に開拓者として入り込んできます。その中には、以前にお話ししたように、多度津町葛原の木谷家のように村上水軍に従っていた有力武将も一族でやってきます。彼らは資金を持っていたので、周辺の土地を短期間で集積して、17世紀半ばには地主に成長し、村役人としての地位を固めていきます。このように西讃の庄屋たちには、生駒時代に他国からやってきて、地主に成り上がった家が多いように思います。その家が本願寺門徒であった場合には、真宗の道場を開き、菩提寺として本願寺末に入っていったというストーリーは描けます。
 東光寺は丸亀南中学校の南東にありますが、この付近一帯は木や茅などの茂った未開の地で、今も地名として残っている郡家の原、大林、川西の原などは濯木の続く原野だったのでしょう。その原野の一隅に東光寺が導きの糸となって、人々をこの地に招き集落ができていったとしておきましょう。
(13)万福寺は、大束川流域にある富隈小学校の西側の田園の中にあるお寺です。
(14)福成寺は、アイレックス丸亀の東にある岡の上にあり、目の前に水橋池が拡がります。
(15)「先正」という坊主名がつく道場については、何もわかりません。以後、寺号を獲得してまったくちがう寺院名になっていることも考えられます。

まんのう町称名寺
称名寺(まんのう町造田:後は大川山)
(16)称名寺は、土器川中流のまんのう町造田の水田の中にあります。
このエリアは、阿波の安楽寺が南から北の丸亀平野に伸びていく中継地にあたります。そこに、17世紀という早い時期に、本願寺末のお寺があったことになります。寺伝には開基は「享徳2(1453)年2月に、沙門東善が深く浄土真宗に帰依して、内田に一宇を建立したのに始まる。」と記します。
讃岐国名勝図絵には、次のように記されています。

「東善の遠祖は平城天皇十三代の末葉在原次郎善道という者にて、大和国より当国に来り住す。源平合戦平家敗軍の時、阿野郡阿野奥の川東村に逃げ込み、出家して善道と改む。その子善円、同村奥の明神別当となり、その子書視、鵜足郡勝浦村明神別当となり、その子円視、同郡中通村に住居す。その子円空、同所岡堂に居す。その子善圓、造田村に来り雲仙寺と号す。その子善空、同所西性寺に居れり。東善はその子にして、世々沙門なり」

ここには次のようなことが記されています。
①称名寺の開基・東善の祖先は、大和国の人間で源平合戦の落人として川東村に逃げ込み出家。
②その子孫は川東村や勝浦村の明神別当となり、祭礼をおこなってきた
③その子孫はさらに山を下って、中通村や造田村に拠点を構えてきた
源平合戦の落人というのは、俄に信じがたいところもありますが、廻国の修験者が各地を遍歴した後に、大川信仰の拠点である川東や勝浦の別当職を得て、定住していく過程がうかがえます。その足跡は土器川上流から中流へと残されています。そして、造田に建立されたのが称名寺ということになるようです。しかし、山伏がどうして、真宗門徒になったのでしょうか。そして、安楽寺の末寺とならなかったのかがよくわかりません。

称名寺 まんのう町
称名寺(まんのう町造田)

中寺伝承には、次のように伝えられています。
「称名寺は、もともとは大川の中寺廃寺の一坊で杵野の松地(末地)にあった。それが、造田に降りてきた」

この寺が、「讃岐国名勝図絵」にある霊仙寺(浄泉寺)かもしれません。造田村の正保四年の内検地帳に、「りょうせんじ」という小字名があり、その面積を合わせると四反二畝になります。ここは、現在の上造田字菰敷の健神社の辺りのようです。この付近に霊仙寺があったと研究者は推測します。どうもこちらの方が私にはぴったりときます。
以上をまとめておくと、次のような「仮説」になります。
古代からの山岳寺院である中寺の一子院として、霊仙寺があった。いつしか寂れた無住の寺に廻国の修験者が住み着き住職となった。その子孫が一向宗に転宗し、称名寺を開基した。

西村家文書の「称名寺由来」(長禄三卯年記録)には、次のように記されています。
享徳2(1453)年3月、帯包西勝寺の子孫のものが、一向宗に帰依し内田村に二間四方の庵室を建て、朝夕念仏をしていた。人々はそれを念仏坊、称名坊と呼んだ。

 これが称名寺の開基のようです。とすれば、称名寺は「帯包西勝(性)寺の子孫」によって、開かれたことになります。
  称名寺は、寛文5(1665)年に寺号公称を許可、元禄14(1701)年に、木仏許可になっています。また文化年間(1804)の京都の本願寺御影堂の大修復の際には、多額の復興費を上納しています。その時から西本願寺の直末寺の待遇を受けるようになったといいます。

  ここで西本願寺末寺になっているからといって、創建時からそうであったとは限らないことを押さえておきます。
  17世紀中頃の西本願寺と興正寺の指導者は、教義や布教方法をめぐって激しく対立します。承応二年(1653)12月末、興正寺の准秀上人は、西本願寺の良如上人との対立から、京都から天満の興正寺へと移り住みます。これを受け、西本願寺は各地に使僧を派遣して、興正寺門下の坊主衆に今後は准秀上人には従わないと書いた誓詞を提出させています。この誓詞の提出が、興正寺からの離脱同意書であり、西本願寺への加入申請書であると、後には幕府に説明しています。つまり、両者が和解にいたる何年間は、西本願寺が興正寺の末寺を西本願寺の末寺として扱っていました。それはこの期間に西本願寺が下した親鸞聖人の御影などの裏書からも確認することができます。江戸時代、西本願寺は末寺に親鸞聖人の御影などを下付する際には、下付したことの控えとするため「御影様之留」という記録に、下付する御影の裏書を書き写していました。西本願寺と興正寺が争っていた期間に、興正寺の末寺に下された御影の裏書には興正寺との本末関係を示す文言が書かれていません。
 両者の対立は、和解後も根強く残ります。対立抗争の際に、興正寺末から西本願寺末とされ、その後の和解後に興正寺末にもどらずに、そのまま西本願寺末に留まった寺院もあったようです。つまり、興正寺末から西本願寺末へ17世紀半ばに、移った寺院があるということです。高松藩の西本願寺末の22ケ寺の中にも、そんな寺があったことが考えられます。開基当初から西本願寺末であったとは云えないことになります。
最後に、東本願寺の末寺を見ておきましょう。

東本願寺末寺 高松藩内一覧
東本願寺の末寺
①17世紀後半の高松藩「御領分中寺々由来書」には、東本願寺末の寺が24ヶ寺挙げられている。
②高松の福善寺が7ヶ寺の末寺を持っている。
③東本願寺の末寺は高松周辺に多く、鵜足郡や仲郡などの丸亀平野にはない
ここからは現在、丸亀平野にある東本願寺のお寺は、これ以後に転派したことがうかがえます。
 気になるのは(27)西光寺(西本願寺末香西郡)が、(26)竜善寺と(28)同了雲との間にあることです。
西光寺については由緒書に「寛文六年二月、西本願寺帰伏仕」とあります。もとは東本願寺の孫末であったのを、西本願寺に改派したときに、西本願寺直末になったようです。そうだとすると、前回見た真言宗大覚寺末の八口(八栗)寺が仁和寺孫末の安養寺と直末屋島寺との間にあるのは、もとは仁和寺末であったのを、大覚寺末に改派したためと研究者は推測します。
また②の高松の福善寺は阿波安楽寺文書の中の「豊臣秀吉の大仏殿供養法会へ出勤依頼廻状」に名前があるので、16世紀末にはすでに有力寺院だったことことが分かります。7つの末寺を持っていることにも納得がいきます。

  以上をまとめておくと
①17世紀末に成立した高松藩の「御領分中寺々由来書」には、西本願寺末寺として22の寺院が記されている。
②22の寺院の内訳は「寺号14、坊名1、道場主名7」で、寺号を得られていない道場がまだあった。
③丸亀平野には真宗興正派の常光寺と安楽寺の末寺が多い。
④その中で、仲郡の3つの西本願寺の寺院は、与北の如意山北麓に集中している。
⑤鵜足郡の西本願寺の5寺は、分散している。その中には他国からの移住者によって開基されたという伝承をもつ寺がある。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献

    讃岐の守護と守護代 中世の讃岐の守護や守護代は、京都で生活していた : 瀬戸の島から
安富氏は讃岐守護代に就任して以来、ずっと京都暮らしで、讃岐については又守護代を置いていました。そのため讃岐のことよりも在京優先で、安富氏の在地支配に関する記事は、次の2つだけのようです。
①14世紀末の安富盛家による寒川郡造田荘領家職の代官職を請負
②15世紀前半の三木郡牟礼荘の領家職・公文職に関わる代官職を請負
香川氏などに比べると、所領拡大に努めた形跡が見られません。長禄四年(1460)9月、守護代安富智安は守護細川勝元の施行状をうけて、志度荘の国役催促を停止するよう又守護代安富左京亮に命じています。ここからは、安富氏が讃岐守護の代行権を握っていたことは確かなようです。一方、塩飽については、香西氏が管理下に置いていたと「南海通記」は記します。安富氏は塩飽・宇多津の管理権を握っていたのでしょうか。今回は安富氏の塩飽・宇多津の管理権について見ておきましょう。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。 
塩飽諸島絵図
塩飽諸島
塩飽は古代より海のハイウエーである瀬戸内海の中で、ジャンクションとサービスエリアの両方の役割を果たしてきました。瀬戸内海を航行する船の中継地として、多くの商人が立ち寄った所です。そのため塩飽には、重要な港がありました。これらの港は鎌倉時代には、香西氏の支配下にあったと「南海通記」は伝えます。それが南北朝期には細川氏の支配下になり、北朝方勢力の海上拠点になります。やがて室町期になると支配は、いろいろと変遷していきます。
讃岐守護であり管領でもあった細川氏の備讃瀬戸に関する戦略を最初に確認しておきます。
応仁の乱 - Wikiwand
細川氏の分国(ブルー)  
当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々でした。そのため備讃瀬戸と大坂湾の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、かつての平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。そのために宇多津・塩飽・備中児島を結ぶ戦略ラインが敷かれることになります。
このラインの拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津と塩飽の管理権を任せることになります。文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、宇多津の港湾管理権が香川氏から安富氏に移動していることを以前にお話ししました。こうして東讃守護代の安富氏の管理下に宇多津・塩飽は置かれます。これを証明するのが次の文書です。
 応仁の乱後の文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家への次の文書です。

摂津国兵庫津南都両関役事、如先規可致其沙汰候由、今月八日御本書如此、早可被相触塩飽島中之状如件、
文明五十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
意訳変換しておくと
摂津国兵庫津南都の両関所の通過について、先規に従えとの沙汰が、今月八日に本書の通り、守護細川氏より通達された。早々に塩飽島中に通達して守らせるように
文明五年十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
細川氏から兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるように守護代の安富氏に通達が送られてきます。これに対して12月10日付で守護代元家が安富左衛門尉宛に出した遵行状です。
 ここからは、塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、塩飽は安富氏の管理下に置かれていることが分かります。
安富元家は、守護代として在京しています。そのため12月8日付けの細川氏奉行人の家廉左衛門尉からの命令を、2日後には京都から塩飽代官の安富左衛門尉に宛てて出しています。仁尾が香西氏の浦代官に管理されていたように、塩飽は安富氏によって管理されていたことが分かります。
この 命令系統を整理しておきましょう
①塩飽衆が兵庫北関へ入港せず、関税を納めずに通行を繰り返すことに関して管領細川氏に善処依。これを受けて12月8日 守護細川氏の奉行人家廉から安富新兵衛尉元家(京都在京)へ通達
②それを受けて12月10日安富新兵衛尉元家(京都在京)から塩飽代官の安富左衛門尉へ
③塩飽代官の安富左衛門尉から塩飽島中へ通達指導へ

文安二年(1445)に宇多津・塩飽の管理は、安富氏に任されたことを見ました。それから約30年経っても、塩飽も安富氏の管理下に置かれていたようです。南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということについては、疑いの目で見なければならなくなります。時期を限定しても15世紀後半には、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。
それでは、安富氏は塩飽を「支配」できていたのでしょうか?
細川氏は塩飽船に対して「兵庫北関に入港して、税を納めよ」と、代官安富氏を通じて何回も通達しています。しかし、それを塩飽衆は守りません。守られないからまた通達が出されるという繰り返しです。
 塩飽船は、山城人山崎離宮八幡宮の胡麻(山崎胡麻)を早くから輸送していました。そのために、胡麻については関銭免除の特権を持っていたようです。しかし、これは胡麻という輸送積載品にだけ与えられた特権です。自分で勝手に拡大解釈して、塩飽船には全てに特権が与えられたと主張していた気配があります。それが認められないのに、塩飽船は兵庫関に入港せず、関税も納めないような行動をしています。
 翌年の文明6年には、塩飽船の兵庫関勘過についての幕府奉書が興福寺にも伝えられ、同じような達しが兵庫・堺港にも出されています。その4年後の文明10年(1478)の『多聞院日記』には「近年関料有名無実」とあります。塩飽船は山崎胡麻輸送の特権を盾にして、関税を納めずに兵庫北関の素通りを繰り返していたことが分かります。
 ついに興福寺は、塩飽船の過書停止を図ろうとして実力行使に出ます。
興福寺唐院の藤春房は、安富氏の足軽を使って塩飽の薪船10艘を奪います。これに対し、塩飽の雑掌道光源左衛門は過書であるとして、塩飽の人々を率いて細川氏へ訴えでます。興福寺は藤春房を上洛させて訴えます。結果は、細川氏は興福寺を勝訴とし、塩飽船は過書停止となります。この旨の奉書が塩飽代官の安富新兵衛尉へ届けられ、塩飽船の統制が計られていきます。
 細川政元の死後になると、周防の大内氏が勢力を伸ばします。
永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権掌握を図り、三島村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。この間の安富氏を通じた細川氏の塩飽支配についてもう少し詳しく見ておきましょう。
香西氏の仁尾浦に対する支配と、安富氏の塩飽支配を比較してみましょう。
①細川氏は仁尾浦に対して、海上警備や用船提供などの役務を義務づける代償に、上賀茂神社から課せられていた役務を停止した。
②そして仁尾浦を「細川ー香西」船団の一部に組織化しようとした
③仁尾町場の「検地」を行い、課税強制を行おうとした。
④これに対して仁尾浦の「神人」たちは逃散などの抵抗で対抗し、仁尾浦の自立を守ろうとした。
以上の仁尾浦への対応と比較すると、塩飽には直接的に安富氏との権利闘争がうかがえるような史料はありません。安富氏が塩飽を「支配」していたかも疑問になるほど、安富氏の影が薄いのです。「南海通記」には、塩飽に関して安富氏の記述がないのも納得できます。先ほど見た「関所無視の無税通行」の件でも、代官の度重なる通達を塩飽は無視しています。無視できる立場に、塩飽衆はいたということになります。安富氏が塩飽を「支配」していたとは云えないような気もします。
永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
  就今度忠節、讃岐国料所塩飽島代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申す候、謹言、
高国(花押)
卯月十三日
意訳変換しておくと
  今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言
         高国(花押)
卯月十三日
村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で、海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。高国政権下では御料所となり、政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったようです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
 ここからは、16世紀に入ると、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させこと、その拠点となる塩飽は、大内氏に渡り、村上氏にその代官職が与えられたことが分かります。
 そして村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえ、塩飽を通過する船舶から「津公事」(港で徴収する税)を徴収するなど、その支配を強化させていきます。東讃岐守護代の安富氏による塩飽「管理」体制は15世紀半ばから16世紀初頭までの約60年間だったが、影が薄いとしておきます。つまり、細川氏の備讃瀬戸防衛構想のために、宇多津と塩飽の管理権を与えられた安富氏は、充分にその任を果たすことが出来なかったようです。塩飽は、能島村上氏の支配下に移ったことになります。

次に、安富氏の宇多津支配を見ておきましょう。
  享禄2(1526)年正月に、宇多津法花堂(本妙寺)にだされた書下です。
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
意訳変換しておくと
宇多津法華堂を中心とする本妙寺に対して諸課役令の免除を認める。柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
花押がある元保は、安富の讃岐守護代です。この書状からは、16世紀前半の享禄年間までは、宇多津は安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽の代官職は失っても、宇多津の管理権は握っていたようです。
天文10年(1541)の篠原盛家書状には、次のように記されています。
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富古筑後守折昏、拙者共津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
天文十年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
意訳変換しておくと
本港(宇多津)本妙寺について、惣別諸保役やその他の寺中宿などの賦役について、従来の安富氏が保証してきた権利について、拙者も引き続き遵守することを保証する。   恐々謹言
天文十(1541)年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
夫役免除などを許された本妙寺は、日隆によって開かれた日蓮宗の寺院です。尼崎や兵庫・京都本能寺を拠点とする日隆の信者たちの中には、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭なども数多くいたことは以前にお話ししました。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を支援したようです。
 例えば岡山・牛窓の本蓮寺の建立に大きな役割を果たした石原遷幸は「土豪型船持層」で、船を持ち運輸と交易に関係した人物です。石原氏の一族が自分の持舟に乗り、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくという筋書きが考えられます。このように日隆が布教活動を行い、新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆との間には何らかのつながりのあったことが見えてきます。
 宇多津の本妙寺の信徒も兵庫や尼崎の問丸と結んで、活発な交易活動を行い富を蓄積していたことがうかがえます。その経済基盤を背景に本妙寺は発展し、伽藍を整えていったのでしょう。ある意味、本妙寺は畿内を結ぶパイプの宇多津側の拠点として機能していた気配があります。
 だからこそ、安富氏は経済的な支援の代償に本妙寺に「夫役免除」の特権を与えているのです。安富氏に代わった阿波三好家の重臣篠原氏も引き続いての遵守する保証を与えています。ここからは、1541年の段階で、篠原氏が字多津を支配したこと、本妙寺が宇多津の海上交易管理センターの役割を果たしていたことが分かります。つまり安富氏の宇多津支配は、この時には終わっているのです。
 またこの文書からは、安富氏も篠原氏も直接に宇多津を支配していたのではないことがうかがえます。
これは三好長慶の尼崎・兵庫・堺との関係とよく似ています。長慶は日隆の日蓮宗寺院を通じての港「支配」を目指していたようです。篠原長房も本妙寺や西光寺を通じて、宇多津港の管理を考えていたようです。
 戦国期になると守護細川氏や守護代の安富氏の勢力が弱体化し、阿波三好氏が讃岐に勢力を伸ばしてきます。そうした中で、安富氏の宇多津支配は終わったことを押さえておきます。
 浄土真宗が「渡り」と呼ばれる水運集団を取り込み、瀬戸内海の港にも真宗道場が姿を現すようになることは以前にお話ししました。
宇多津にも大束川河口に、西光寺が建立されます。西光寺は石山本願寺戦争の際には、丸亀平野の真言宗の兵站基地として戦略物資の集積・積み出し港として機能しています。ここにも「海の民」を信者として組織した宗教集団の姿が見えてきます。その積み出しを、篠原長房が妨害した気配はないようです。宇多津には自由な港湾活動が保証されていたことがうかがえます。
 以前に、細川氏から仁尾の浦代官を任じられた香西氏が町場への課税を行おうとして仁尾住民から逃散という抵抗運動を受けて住民が激減して、失敗に終わったことを紹介しました。当時の堺のように、仁尾でも「神人」を中心とする自治的な港湾運営が行われていたことがうかがえます。だとすると、塩飽衆の「自治力」はさらに強かったことが推測できます。そのような中で、代官となった安富氏にすれば、塩飽「支配」などは手に余るものであったのかもしれません。その後にやって来た能島村上衆の方が手強かった可能性があります。

以上をまとめておくと
①管領細川氏は、備讃瀬戸の制海権確保のために備中児島・塩飽・宇多津に戦略的な拠点を置いた。
②宇多津・塩飽の管理権を任されたのが東讃守護代の安富氏であった。
③しかし、安富氏は在京することが多く在地支配が充分に行えず、宇多津や塩飽の「支配」も充分に行えなかった
④その間に、塩飽衆や宇多津の海運従事者たちは畿内の問丸と結び活発な海上運輸活動を行った。
⑤その模様が兵庫北関入船納帳の宇多津船や塩飽船の活動からうかがえる。
⑥細川氏の備讃瀬戸戦略は失敗し、大友氏の進出を許すことになり、塩飽代官には能島村上氏が就くことになる。
⑦守護細川氏の弱体化に伴い、下克上で力を伸ばした阿波三好が東讃に進出し、さらにその家臣の篠原長房の管理下に宇多津は置かれるようになる。
⑧しかし、支配者は変わっても宇多津・塩飽・仁尾などの港は、「自治権」が強く、これらの武将の直接的な支配下にはいることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界 
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  室町時代になると、綾氏などの讃岐の国人武将達は守護細川氏に被官し、勢力を伸ばしていきました。それが下克上のなかで、三好氏が細川氏に取って代わると、阿波三好氏の配下で活動するようになります。三好氏は、東讃地方から次第に西に向けて、勢力を伸ばします。そして、寒川氏や安富氏、香西氏などの讃岐国人衆を配下においていきます。

3 天霧山5

そんな中で、三好の配下に入ることを最後まで拒んだのが天霧城の香川氏です。
香川氏には、細川氏の西讃岐守護代としてのプライドがあったようです。自分の主君は細川氏であって、三好氏はその家臣である。三好氏と香川氏は同輩だ。その下につくのは、潔しとしないという心持ちだったのでしょう。香川氏は、「反三好政策」を最後まで貫き、後には長宗我部元親と同盟を結んで、対三好勢力打倒の先兵として活躍することになります。

3 天霧山4
天霧城
阿波の三好氏と香川氏の決戦の場として、語られてきたのが「天霧城攻防戦」です。
今回は、天霧城攻防戦がいつ戦れたのか、またその攻め手側の大将はだれだったのかを見ていくことにします。
3 天霧山2
天霧城

天霧城攻防戦を南海通記は、次のように記します。

阿波三好の進出に対して、天霧城主・香川之景は、中国の毛利氏に保護を求めた。これを討つために、阿波の三好実休(義賢)は、永禄元(1558)年8月、阿波、淡路、東・西讃の大軍を率いて丸亀平野に攻め入り、9月25日には善通寺に本陣をおいて天霧城攻撃を開始した。
 これに対して香川之景は一族や、三野氏や秋山氏など家臣と共に城に立て龍もり籠城戦となった。城の守りは堅固であったので、実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った。10月20日 実休は兵を引いて阿波に還った。が、その日の夜、本陣とされていた善通寺で火災が生じ、寺は全焼した。
 
これを整理しておくと以下のようになります
①阿波の三好実休が、香西氏などの東・中讃の勢力を従え,香川之景の天霧城を囲み、善通寺に本陣を置いたこと。
②香川之景は降伏して、西讃全域が三好氏の勢力下に収まったこと
③史料の中には、降伏後の香川氏が毛利氏を頼って「亡命」したとするものもあること
④善通寺は、三好氏の撤退後に全焼したこと

香川県の戦国時代の歴史書や、各市町村史も、南海通記を史料として使っているので、ほんとんどが、以上のようなストーリー展開で書かれています。香川県史の年表にも次のように記されています。

1558 永禄1
6・2 香川之景,豊田郡室本地下人等の麹商売を保証する
8・- 天霧城籠城戦(?)三好実休,讃岐に侵入し,香川之景と戦う(南海通記)
10・20 善通寺,兵火にかかり焼失する(讃岐国大日記)
10・21 秋山兵庫助,乱入してきた阿波衆と戦い,麻口合戦において山路甚五郎を討つ(秋山家文書)
10・- 三好実休,香川之景と和し,阿波へ帰る(南海通記)
 しかし、近年の研究で実休は、この時期には讃岐にはいないことが分かってきました。『足利季世記』・『細川両家記』には、三好実休の足取りについて次のように記されています
8月18日 三好実休は阿波より兵庫に着し、
9月18日 堺において三好長慶・十河一存・安宅冬康らとの会議に出席
10月3日 堺の豪商津田宗及の茶会記に、実休・長慶・冬康・篠原長房らが、尼崎で茶会開催
つまり、実休が天霧城を包囲していたとされる永禄元(1558)年の夏から秋には、彼は阿波勢を率いて畿内にいたと根本史料には記されているのです。三好実休が永禄元年に、兵を率いて善通寺に布陣することはありえないことになります。

天霧城縄張り図
天霧城縄張り図
 
南海通記は、天霧合戦以後のことを次のように記します。
「実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、香川之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った」

つまり永禄元(1558)年以後は、香川氏は阿波三好氏に従った、讃岐は全域が三好氏配下に入ったというのです。しかし、秋山文書にはこれを否定する次のような動きが記されています。
 1560年 永禄3 
6・28 香川之景,多田又次郎に,院御荘内知行分における夫役を免除する
11・13 香川之景,秋山又介に給した豊島谷土居職の替として,三野郡大見の久光・道重の両名を秋山兵庫助に宛行う
1561 永禄4 
1・13 香川之景,秋山兵庫助に,秋山の本領であった三野郡高瀬郷水田分内原樋口三野掃部助知行分と同分内真鍋三郎五郎買得地を,本知行地であるとして宛行う。
(秋山家文書)
 ここからは、香川之景が「就弓矢之儀」の恩賞をたびたび宛がっていることが分かります。この時点では、次のことが云えます。
①香川之景は、未だ三好氏に従っておらず、永禄4年ごろにはたびたび阿州衆の攻撃をうけ、小規模な戦いをくり返していること
②香川之景は、戦闘の都に家臣に知行を宛行って領域支配を強固にし、防衛に務めていたこと。
つまり、天霧城籠城戦はこの時点ではまだ起きていなかったようです。天霧合戦が起こるのは、この後になります。
1562 永禄5
 3・5 三好実休,和泉久米田の合戦で戦死する(厳助往年記)
                  換わって三好の重臣篠原長房が実権掌握
1563 永禄6
 6・1 香川之景,帰来小三郎跡職と国吉扶持分の所々を,新恩として帰来善五郎に宛行うべきことを,河田伝右衛門に命じる(秋山家文書)
 8・10 香川之景・同五郎次郎,三野菅左衛門尉に,天霧籠城および退城の時の働きを賞し,本知を新恩として返すことなどを約する(三野文書)
この年表からは篠原長房が三好氏の実権を握って以後、西讃地域への進出圧力が強まったことがうかがえます。
永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。

飯山従在陣天霧籠城之砌、別而御辛労候、殊今度退城之時同道候而、即無別義被相届段難申尽候、然者御本知之儀、河田七郎左衛門尉二雖令扶持候、為新恩返進之候、並びに柞原寺分之儀、松肥江以替之知、令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六 八月十日                   五郎次郎 (花押)
之  景 (花押)
三野菅左衛門尉殿進之候

意訳変換しておくと
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労したこと、特に、今度の(天霧城)退城の際には同道した。この功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返進に加えて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六(1563)年 八月十日        五郎次郎(花押)
(香川)之 景(花押)
三野菅左衛門尉殿
進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①最初に「天霧籠城之砌」とあり、永禄6(1563)年8月10日以前に、天霧城で籠城戦があったこと
②香川氏の天霧城退城の際に、河田七郎左衛門尉が同行したこと
③その論功行賞に新恩として本知行地が返還され、さらに杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
④三野氏の方が河田氏よりも上位ポストにいること。
⑤高瀬の柞原寺が河田氏の氏寺であったこと

 ここからは天霧城を退城しても、香川之景が領国全体の支配を失うところまでには至っていないことがうかがえます。これを裏付けるのが、年不詳ですが翌年の永禄七年のものと思われる二月三日付秋山藤五郎宛香川五郎次郎書状です。ここには秋山藤五郎が無事豊島に退いたことをねぎらった後に、
「總而く、此方へ可有御越候、万以面可令申候」
「国之儀存分可成行子細多候間、可御心安候、西方へも切々働申附候、定而可有其聞候」
と、分散した家臣の再組織を計り、再起への見通しを述べ、すでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始したことを伝えています。
 それを裏付けるかのように香川之景は、次の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行
②永禄8(1565)年八月には、秋山藤五郎に対して、三野郡熊岡香川之景が知行地の安堵、新恩地の給与などを行っていること
これだけを見ると、香川之景が再び三豊エリアを支配下に取り戻したかのように思えます。ここで阿波三好方の情勢を見ておきます
 
天霧城を落とし、香川氏を追放した篠原長房のその後の動きを見ておきましょう。
1564永禄7年3月 三好の重臣篠原長房,豊田郡地蔵院に禁制を下す
1567永禄 10年
6月 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書) 6月 篠原長房,備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)
1569永禄12年6月 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1571元亀2年
1月 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書) 5月篠原長房,備前児島に乱入する.
  6月12日,足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
  8月1日 足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
  9月17日 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、次のようなことが分かります。
①香川氏を追放した、篠原長房が、宇多津の「鍋屋下之道場(本妙寺)や聖通寺に禁制を出し、西讃を支配下に置いたこと
②西讃の宇多津を戦略基地として、備中児島に軍事遠征を行ったこと
③「
三好氏(篠原長房)によって追われた香川某」が安芸に亡命していること
④香川某の讃岐帰国運動を、鞆亡命中の足利義昭が支援し、毛利氏に働きかけていること
 同時に香川氏の発給した文書は、以後10年近く見られなくなります。毛利氏の史料にも、香川氏は安芸に「亡命」していたと記されていることを押さえておきます。

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書) | 和三郎, 若松 |本 | 通販 | Amazon

 以上の年表からは次のようなストーリーが描けます。
①三好実休の戦死後に、阿波の実権を握った篠原長房は、讃岐への支配強化のために抵抗を続ける香川氏を攻撃し、勝利を得た。
②その結果、ほぼ讃岐全域の讃岐国人武将達を従属させることになった。
③香川氏は安芸の毛利氏を頼って亡命しながらも、抵抗運動を続けた。
④香川氏を、支援するように足利義昭は毛利氏に働きかけていた
⑤篠原長房は、宇多津を拠点に瀬戸内海対岸の備中へ兵を送り、毛利側と攻防を展開した。
 篠原長房の戦略的な視野から見ると、備中での対毛利戦の戦局を有利に働かるために、戦略的支援基地としての機能を讃岐に求めたこと、それに対抗する香川氏を排除したとも思えてきます。

 天霧城攻防戦後の三好氏の讃岐での政策内容を見ると、その中心にいるのは篠原長房です。天霧城の攻め手の大将も、篠原長房が最有力になってきます。
篠原長房の転戦図
篠原長房の転戦図
篠原長房にとって、讃岐は主戦場ではありません。
天霧城攻防戦以後の彼の動きを、年表化して見ておきましょう。
永禄7年(1564年)12月
三好長慶没後は、三好長逸・松永久秀らと提携し、阿波本国統治
永禄9年(1566年)6月
三好宗家の内紛発生後は、四国勢を動員し畿内へ進出。
三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対。
 9月 松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦
永禄11年10月  この年まで畿内駐屯。(東大寺大仏殿の戦い)。

この時期の長房のことを『フロイス日本史』は、次のように記します。
「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的執政であった」

ここからは、阿波・讃岐両国をよくまとめて、長慶死後の三好勢力を支えていたことがうかがえます。
永禄11年(1568年) 織田信長が足利義昭を擁して上洛してきます。
これに対して、篠原長房は自らは信長と戦うことなく阿波へ撤退し、三好三人衆を支援して信長に対抗する方策をとります。2年後の元亀元年(1570年)7月 三好三人衆・三好康長らが兵を挙げると、再び阿波・讃岐2万の兵を動員して畿内に上陸、摂津・和泉の旧領をほぼ回復します。これに対して信長は、朝廷工作をおこない正親町天皇の「講和斡旋」を引き出します。こうして和睦が成立し、浅井長政、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍をひきます。

 この間の篠原長房の対讃岐政策を見ておきましょう。
 自分の娘を東讃守護代の安富筑前守に嫁がせて姻戚関係を結び、東讃での勢力を強化していきます。さらに、守護所があったとされる宇多津を中心に丸亀平野にも勢力を伸ばしていきます。宇多津は、「兵庫北関入船納帳」に記されるように当時は、讃岐最大の交易湊でもありました。その交易利益をもとめて、本妙寺や郷照寺など各宗派の寺が建ち並ぶ宗教都市の側面も持っていました。天文18(1550)年に、向専法師が、大谷本願寺・証知の弟子になって、西光寺を開きます。本願寺直営の真宗寺院が宇多津に姿を見せます。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世地形復元図上の西光寺(宇多津)

 この西光寺に、篠原長房が出した禁制(保護)が残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記されています。鍋屋というのは地名です。鍋などを作る鋳物師屋集団の居住エリアの一角に道場はあったようです。それが「元亀貳年正月」には「西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
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本願寺派の西光寺(宇多津)最初は「鍋屋下之道場」

1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。
翌年には西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、本願寺の蓮如からの支援督促も受けています。
 西光寺は、本願寺の「直営」末寺でした。それまでに、丸亀平野の奥から伸びて来た真宗の教線ラインは、真宗興正寺派末の安楽寺のものであったことは、以前にお話ししました。しかし、宇多津の西光寺は本願寺「直営」末寺です。石山合戦が始まると、讃岐の真宗門徒の支援物資は西光寺に集約されて、本願寺に送り出されていたのです。

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西光寺
 石山戦争が勃発すると讃岐では、篠原長房に率いられて、多くの国人たちが参陣します。
これは長房の本願寺との婚姻関係が背後にあったからだと研究者は指摘します。篠原長房が真宗門徒でないのに、本願寺を支援するような動きを見せたのは、どうしてでしょうか?
考えられるのは、織田信長への対抗手段です。
三好勢にとって主敵は織田信長です。外交戦略の基本は「敵の敵は味方だ」です。当時畿内で、もっとも大きな反信長勢力は石山本願寺でした。阿波防衛を図ろうとする長房にとって、本願寺と提携するのが得策と考え、そのために真宗をうまく活用しようとしたことが考えられます。本願寺にとっても、阿波・讃岐を押さえる長房との連携は、教団勢力の拡大に結びつきます。こうして両者の利害が一致したとしておきましょう。
西光寺 (香川県宇多津町) 船屋形茶室: お寺の風景と陶芸
西光寺 かつては湾内に面していた

  石山戦争が始まると、宇多津の西光寺は本願寺への戦略物資や兵粮の集積基地として機能します。
それができたのは、反信長勢力である篠原長房の支配下にあったから可能であったとしておきましょう。そして、宇多津の背後の丸亀平野では、土器川の上流から中流に向かってのエリアで真宗門徒の道場が急速に増えていたのです。

以上をまとめておくと
①阿波三好氏は東讃方面から中讃にかけて勢力を伸ばし、讃岐国人武将を配下に繰り入れていった。
②三好実休死後の阿波三好氏においては、家臣の篠原長房が実権をにぎり対外的な政策が決定された。
③篠原長房は、実休死後の翌年に善通寺に軍を置いて天霧城の香川氏を攻めた。
④これは従来の南海通記の天霧城攻防戦よりも、5年時代を下らせることになる。
⑤香川氏は毛利を頼って安芸に一時的な亡命を余儀なくされた
⑥篠原長房が、ほぼ讃岐全域を勢力下においたことが各寺院に残された禁制からもうかがえます。⑦宇多津を勢力下に置いた篠原長房は、ここを拠点に備中児島方面に讃岐の兵を送り、毛利と幾度も戦っている。
このように、長宗我部元親が侵攻してくる以前の讃岐は阿波三好方の勢力下に置かれ、武将達は三好方の軍隊として各地を転戦していたようです。そんな中にあって、最後まで反三好の看板を下ろさずに抵抗を続けたのが香川氏です。香川氏は、「反三好」戦略のために、信長に接近し、長宗我部元親にも接近し同盟関係をむすんでいくのです。
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髙松街道沿いに建つ西光寺
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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信長朱印状
  信長の朱印状(塩飽勤番所)
   
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。 
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 信長朱印状は、もともとは折紙であったのを上下半分に切り、上半分を表装しています。縦14、9㎝・横41、3㎝で、朱印は縦5,5㎝、横4,7㎝の馬蹄形です。 印判がすわっていますが、これが信長の有名な「天下布武」の朱印です。讃岐にかかわりのある信長の朱印状はこれだけだそうです。宛先の宮内卿法印とは、信長が直轄領としていた和泉国堺の代官松井友閑のことです。

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この文書の解釈について、真木信夫氏『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』は、次のように記します。

「先々の如く」とあるのは従来より塩飽船に与えられていた「触れ掛り」と称する海上の特権を指したもので、堺港への上り下りの塩飽船は航海中にても碇泊中にても船綱七十五尋の海面を占有することのできる権利である。信長は従来よりのこの特権を再確認し、万一この占有海面を侵犯する者は処罰するようにと、堺の代官である宮内卿松井友閑に令したものである。

 これが従来の定説で、「触れ掛り特権」とは「塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない。港に入ってもその周囲の船はよけろ」という特権です。これを侵したものに対しては塩飽衆が「成敗」できることを信長が再確認したのだ、といわれていました。館内の説明書きもそう書かれています。

塩飽 信長朱印状説明
信長朱印状(塩飽院番所の説明書き)

 これに対して橋詰茂氏は「讃岐塩飽における朱印状の検討」の中で、次のような疑問を提出します。

第1に、「触れ掛り」の特権を示すと云うが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに、「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が、必ずしも「触れ掛り」を示す文言とはいえない。

第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権を持っているように考えているが、本来このような権限は塩飽船のみに与えられるものではない。これは堺代官の持つ権限である。

第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈である。

第3の指摘にを受けて、文書が発給された天正5年(1577)3月前後の讃岐の年表を見ておきましょう。
1575 天正3 (乙亥)
① 5・13 宇多津西光寺.織田信長と戦う石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する(西光寺文書)
1576 天正4 (丙子)
②8・29 宇多津西光寺向専,石山本願寺顕如より援助の催促をうける(西光寺文書)
 この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める(南海通記)
 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
③7・13 毛利軍が木津川の戦いで信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮を搬入する(毛利家文書)
1577 天正5 (丁丑)
④3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書 信長朱印状?)
⑤7・- 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う(本吉合戦)
 11・- 毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野坂文書)
1578 天正6 
 この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
 この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する(耶蘇会士日本通信)
 11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る(萩藩閥閲録所収文書)
1582 天正10 4・- 塩飽・能島・来島,秀吉に人質を出し,城を明け渡す(上原苑氏旧蔵文書)
 5・7 羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する(浅野家文書)
 6・2 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。翌年には年表①にあるように宇多津の真宗寺院の西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、②のように蓮如からの支援督促も受けています。

 そのような中で起こるのが③の木津川の戦いになります。
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ベストセラーになった「海賊の娘」を読むと、大坂湾の海上突破は、安芸門徒と紀伊門徒との連携策で行われていたことがうまく描かれています。淡路岩屋をめぐっての信長と毛利の攻防は、安芸一揆水軍の本願寺への搬入ルート確保のための戦いでもありました。そして、もう少し視野を広げて見ると、安芸・紀伊門徒による瀬戸内海の制海権確保は、本願寺に物資や秤量を運び込むための補給ルート確保の戦いでもあったのです。

マイナー・史跡巡り: 荒木村重② ~石山本願寺~

本願寺派は、海からの補給ルートがあったために長きにわたって戦えたのです。信長は、それを知っていたために、遮断するための方策を講じます。それは瀬戸内海における水軍確保です。そのために行われたのが塩飽衆の懐柔策です。
 そういう目で讃岐と周辺の備讃瀬戸を見てみましょう。
1576(天正4)には、信長は多度津の香川氏や・勝賀城の香西氏といった国人領主を懐柔し、支配下に組み込んでいます。塩飽に影響力のある香西を配下に置くことによって、塩飽懐柔を進めたのでしょう。塩飽を配下に置くことで、毛利の本願寺・紀伊門徒とのパイプを遮断するという戦略が信長の頭の中には生まれていたはずです。それが功を奏して、塩飽を村上武吉から離脱させた後に出されたのが④の文書ということになります。

 塩飽衆が信長方についたこの年に、宇多津沖で安芸門徒の兵糧船が撃沈されています。これは塩飽水軍など信長方に付いた讃岐の海賊衆(水軍)によって行われたと研究者は考えているようです。この事件は、本願寺援助ルートへの脅威で、毛利側にとっては放置することはできません。塩飽を信長に押さえられた毛利は、その打開策として対岸の讃岐を押さえて備讃瀬戸航路の通行の確保を図ろうとします。それが⑤の讃岐出兵で、善通寺の元吉城(櫛梨城)をめぐっての三好氏との攻防になります。

1 櫛梨城1
元吉城(櫛梨山城)
これに毛利は勝利しますが、毛利の関心は瀬戸内海の制海権なので、備讃瀬戸沿岸の通行権が確保できるとすぐに讃岐から兵を引いています。以上を整理しておくと
①塩飽衆は、1577(天正5)年に村上武吉側から織田信長側に寝返った。
②従来の通説は、その代償として「信長朱印状」が塩飽に発給されたとされてきた。
③以後、塩飽は毛利・村上方とは対立する立場にたったことになる。
 このような状況の中で塩飽衆は、毛利水軍・安芸門徒の本願寺支援ルートを、妨害することを信長から求められます。裏返すと塩飽衆は、村上水軍からは攻撃対象になったことを意味します。このような中で、「触れ掛り」特権が与えられたとしても実際の効力はありません。また、村上水軍が制海権を持つ中で、塩飽船が特権を主張して自由航行できる状態ではなかったと研究者は指摘します。

そんな状況を加味しながら、橋詰氏は次のようにこの文書を解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは、寝返ったばかりで本願寺や村上水軍に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行った塩飽船なのです。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
 塩飽船は石山戦争下で、信長の支配下に組み込まれたのです。
信長の戦略は、塩飽船を用いて村上水軍による本願寺支援ルートの封鎖をはかること、代わって塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはかろうとすることでした。その責任者である堺代官・松井友閑に、この朱印状は宛てられています。塩飽に下された朱印状ではないという結論になります。塩飽は信長に服従したのであり、それを違えた場合には成敗すると、読むべしと云うのです。ここからは、堺代官である松井友閑を通じて、塩飽船を統括したことがうかがえます。
信長の朱印状のある松井友閑宛文書が、なぜ塩飽勤番所にあるのでしょうか?
この文書の初見は享保12年(1727)9月の宮本助之丞後室宛吉田有衛門等の覚書(宮本家文書「朱印状五通請取之党」)に登場するようです。ここからは、これ以前にすでに塩飽に伝わっていたことが分かりますが、どんな経路で伝わったかは分かりません。
 そして元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。ここからは信長朱印状が伝わったのはこれ以降で、享保12年までの間のことであったと研究者は考えているようです。そうだとすると、この時点まで塩飽衆はこの文書の存在を知らなかった可能性も出てきます。元禄まで塩飽になかった文書が、「触れ掛り特権」を保証する文書と云えるのかという問題も出てきます。

以上をまとめておきます
①  信長の朱印状と云われる文書は、塩飽に宛てられたものではなく、当時の堺代官宛てのものである
②この文書が塩飽に伝来したのは、元禄から享保の間のことで、もともと塩飽にあったものではない。
③この文書に対して後の塩飽人名衆は、信長が航行特権を塩飽に認めたもので、これに反する者は処罰する権限も与えたものと言い伝えてきた。
④それを批判することなく、そのまま戦後の研究書の中にも引き継がれ定説となってきた。
⑤しかし、「触れ掛り」特権をしめす文書はないし、これ自体が当時の法体系からしても超法規的で認めがいたものであるなどの疑問が出されるようになった。
⑥また、この文書を歴史的な背景というまな板の上に載せて、再検討する必要が求められた。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    橋詰茂氏「讃岐塩飽における朱印状の検討」   
 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 
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 図書館で何気なく郷土史コーナーの本達を眺めていると「尊光寺史」という赤い立派な本に出会いました。手にとって見ると寺に伝わる資料を編纂・解説し出版されたもので読み応えがありました。この本からは、真宗興正寺派がまんのう町へどのように教線を拡大していったのかが垣間見えてきます。尊光寺が真宗を受けいれた戦国時代末期の情勢と、長尾城主の長尾氏の動きを見ておきましょう。

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まんのう町種子のバス停から見える尊光寺

  長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。
そのためか讃岐の大名となった生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、孫の孫一郎も尊光寺に入ります。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだのです。長尾城周辺の寺院である善性寺・慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。
 まんのう町での真宗伝播に大きな役割を果たしたのが徳島県美馬市郡里の安楽寺です。
この寺は興正寺の末寺で、真宗の四国布教センターの役割を担うことになります。カトリックの神学校がそうであったように、教学ばかりか教育・医学・農業・土木技術等の研修センターとして信仰的情熱に燃える若き僧侶達を育てます。そして、戦国時代になると彼らが阿讃の峠を越えて、まんのうの山里に布教活動に入ってきます。山沿いの集落から信者を増やし、次第に丸亀平野へと真宗興正寺派のお寺が増えます。

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尊光寺
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍が整のっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、今から見ればちっぽけな掘建て小屋のようなものです。そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。
六字名号(浄土真宗 お東用 尺五) 無落款! 名号 - 掛け軸(掛軸)販売通販なら掛け軸総本家
六字名号

そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えます。農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていきます。この点が他の宗派との大きな違いなのです。ですから、山の中であろうと道場はわずかな場所で充分でした。
 縁日には、村の門徒が集まり家の主人を先達に仏前勤行します。正信偈を唱え御文書をいただき、安楽寺からやってきた僧侶の法話を聞きます。そして、非時を食し、耕作談義に夜を更かすのが習いでした。
 やがて長尾氏のような名主層が門徒になると安楽寺から領布された大字名号を自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花器を置いて仏間にしました。それがお寺になっていた場合もあります。
  尊光寺も長尾氏出身の僧侶で、この寺の中興の祖と言われる玄正の時に総道場建設が行われ、1636年には安楽寺の末寺になります。安楽寺の支配に属する寺は、江戸時代には、讃岐50、阿波21、伊予5、土佐8の合計84ヶ寺に達し四国最大の真宗寺院に発展します。讃岐の末寺の多くは中讃に集中しています。中讃に真宗(特に興正寺派)の寺院がたくさんあるのは、安楽寺の布教活動の成果なのです。

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尊光寺から見える種子集落と阿讃山脈
 本寺末寺関係にあった寺院は、江戸時代には阿讃の峠を越えて安楽寺との交流を頻繁に行ます。また、讃岐布教の最前線となった讃岐側の山懐には、勝浦の長善寺や財田の宝光寺などの大きな伽藍を誇る寺院が姿を見せます。
 さらに、お寺の由緒に
「かつては琴南や仲南の山間部にあったが、江戸時代のいつ頃かに現在地に移転してきた」
と伝わるのは、布教の流れが「山から里へ」であったことを物語っています。このため中西讃の真宗興正寺派の古いお寺は山に近い所に多いようです。
  最後に確認したいことは、この布教活動という文化活動は、瀬戸内海を通じて海からもたらされた物ではないということです。流行・文化は、海側の町からやって来るという現在の既成概念からは捉えられない動きです。 もう一度、阿讃の峠を通じたまんのう町と阿波の交流の実態を見直す必要があることを感じさせてくれました。

    
観音寺湊 復元図1

中世の観音寺湊の復元図です。この湊が河口に浮かぶ巨大な中洲に展開していたことが分かります。
琴弾八幡宮とその別当寺・観音寺の門前町として発展した港町
 観音寺は讃岐国の西端の苅田郡(中世以降は豊田郡に改称)に属し、琴弾八幡宮とその別当寺であった神恵院観音寺の門前町として、中世には町場が形成されていたようです。
観音寺琴弾神社絵図
鎌倉後期の「琴弾宮絵縁起」には、琴弾八幡宮が海辺に浮かぶ聖地として描かれています。聖地は人の住むところではないようです。この絵図には、集落は描かれていません。今回は、川のこちら側の人の住む側を見ていくことにします。
観音寺地図1
 財田川と手前の一ノ谷川に挟まれた中洲には、いくつかの浦があり、それぞれに町場をともなって港湾機能をもっていたようです。中洲と琴弾神社と、財田川に架かる橋で結ばれます。この橋から一直線に伸びる街路が町場の横の中心軸となります。そして、中洲上を縦断する街路と交差します。中洲上には「上市や下市」と呼ばれる町場ができています。

観音寺 琴弾神社放生会
 享徳元年(一四五二)の「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(資料21)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。放生会の祭には、各町場の住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたようです。町場を越えて人々を結びつける役割を、琴弾神社は果たしていたようです。
そして各町場は、財田川沿いにそれぞれの港を持ちます。
 文安二年(1455)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記されています。財田川の背後の耕作地から集められた物資がここから積み出されていたことが分かります。そして、いつの頃からかこの中洲全体が、観音寺と呼ばれるようになります。
 かつて財田川沿いには、船が何隻も舫われていたことを思い出します。その中には冬になると広島の福山方面からやって来て、営業を始める牡蠣船もありました。裁判所の前の河岸も、かつては船の荷揚場であったようで、それを示す境界石がいまでも残っています。その側に立つのが西光寺です。立地ロケーションからして、町場の商人達の信仰を一番に集めていたお寺だったことがうかがえます。
 中世の宇多津や仁尾がそうであったように、中核として寺院が建立されます。寺院が、交易・情報センターとして機能していたのです。そういう目で観音寺の財田川沿いの町場を歩いてみると、お寺が多いのに気がつきます。さらに注意してみると、西光寺をはじめ臨済宗派の寺院がいくつもあるのです。気になって調べてみると、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)に属するようです。私にとって、初めて聞く言葉でした。
「聖一派」とは? 
またどうして、同じ宗派のお寺がいくつも建立されたのでしょうか?  国史辞典で開祖を調べてみると
弁円(諡・聖一国師)が京都東福寺を中心に形成した顕密禅三教融合の習合禅
②弁円は駿河国(静岡県)に生まれ,5歳のときに久能山に入り教典,外典の研鑽に努める
③22歳で禅門を志し,上野長楽寺に臨済宗の栄朝を訪ね
④嘉禎1(1235)年4月34歳で入宋。臨済宗大慧派の無準師範に7年間参学,
⑤帰国後,寛元1(1243)年,九条道家の帰依を得て、道家が建立した東福寺の開山第1世となる。
⑥入院後、後嵯峨,亀山両上皇へ授戒を行い、東大寺,天王寺の幹事職を勤める
 当時の朝廷・幕府・旧仏教へ大きな影響力を持った禅僧だったようです。さらに、東山湛照,白雲慧暁,無関玄悟など,のちの五山禅林に関わる人たちに影響を与える弟子を指導しています。この門流を彼の諡から聖一派と呼んでいるようです。
  ここでは教義内容的なことには触れず、弁円の「交易活動」について見ておきましょう。
淳祐二年(1242)、宋から帰国して博多に留まっていた彼のもとに、留学先の径山の大伽藍が火災で焼失した知らせが届きます。彼は直ちに博多商人の謝国明に依頼して良材千枚を径山に贈り届けています。弁円から師範に材木などの財施がなされ、師範からは円爾に墨蹟その他の法施が贈られています。ここには南宋禅僧が仏道達成の証しになるものをあたえると、日本僧が財力をもってその恩義に報いるというパターンがみられます。
 日本僧が財力を持って入宋している例は、栄西や明全・道元らの場合にも見られるようですが、円爾にもうかがえます。彼の第1の保護者は、謝国明ら博多の商人たちで、その支援を受けて中国留学を果たしたのです。そして、資力に任せて最先端の文物を買つけて帰国します。その中には仏典ばかりではく流行の茶道具なども最先端の文物も数多くあったはずです。大商人達たちに布教を行うと同時に、サロンを形成するのです。同時に、彼は博多商人の宋との貿易コンサルタントであったと私は考えています。これは、後の堺の千利休に至るまで変わりません。茶道は、交易業者のたしなみになっていくのです。博多商人の船には、弁円の弟子達が乗り込み宋への留学し、あるときには通訳・医者・航海祈祷師としての役割も果たしたのではないでしょうか。それは、宋王朝に対する対外的活動だけではなく瀬戸内海においても行われます。
 こうして、円爾弁円(聖一国師)を派祖とする聖一派は、京都東福寺や博多を拠点として、各港町に聖一派の寺院ネットワークを形成し、モノと人の交流を行うようになります。観音寺が内海屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の禅僧が博多商人の船に乗ってやって来て、信者を獲得し寺院が創建されていったと考えられます。
 これは、日隆が宇多津に本妙寺を開くのと同じ布教方法です。
日隆は、細川氏の庇護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立しています。いずれも内海屈指の港町であり、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動が行われています。お寺が日宋貿易や瀬戸内海交易のネットワークの中心になっていたのです。その中で僧侶の果たす意味は、宗教的信仰を超え、ビジネスマン、コンサルタント、情報提供など雑多な役割を果たしていたようです。
伊予への弁円(聖一国師)の門下による聖一派の布教を見てみましょう。弁円の師弟関係が愛媛県史に載っています。

観音寺 弁円

①山叟恵雲は
正嘉二年(1258)入宋、円爾門十禅師の一人で正覚門派祖、東福寺五世で宇摩郡土居町関川東福寺派大福寺は、弘安三年(1280)に彼によって開かれたと伝えられます。
②弁円の高弟癡兀(ちこつ)大恵は、
平清盛の遠孫で、東福寺九世で没後仏通禅師号を賜わっています。彼は保国寺(西条市中野、東福寺末)の中興開山とされ、その坐像は重要文化財に指定されています。伊予に巡回してきた禅師を迎えて開山としたと伝えられます。しかし、禅師の伊予来錫説については否定的見解が有力で、臨済宗としての中興開山は二世とされる嶺翁寂雲であると研究者は考えているようです。
③孫弟子に鉄牛継印は、
観念寺(東福寺末、東予市上市)の開祖とされます。もとは時宗による念仏道場だったようですが、元弘二年(1332)元から帰朝して間もない鉄牛を迎えて中興し禅寺としたと伝えられます。鉄牛は諱を継印、越智郡の菅氏の生まれです。晩年の祖師弁円に学んだ後、元王朝に渡り帰朝しています。
④悟庵智徹(ごあんちてつ)近江の人で、
豊後を中心に九州に布教の後で、宇和島にやってきて正平20年(1365)に、西江寺を開きます。また、西光寺も同じような由来を伝えます。
⑤伊予に最も深い関係をもつのは弟子南山士雲の法系のようです。
彼は北条・足利両氏の帰依を受けた当時のMVPです。伊予の河野通盛が遊行上人安国のすすめで南山士雲の下で剃髪して善恵と号したと云われます。この剃髪によって河野通盛は、足利尊氏の知遇を得て、通信以来の伊予の旧領の安堵されたと『予章記』には、次のように記されています。
 建武三年(1336)、通盛は自己の居館を寺院とし、南山士雲の恩顧を重んじてその⑥弟子正堂士顕を長福寺から迎えて善応寺(現東福寺派、北条市河野)を開創した。ちなみに、正堂士顕は渡元して無見に参じて印可を受け、帰国後当時長福寺(東予市北条)にあった。善応寺第二世はその法弟南宗士綱である。
 河野通盛は、足利尊氏への取りなしの御礼として、建立したのが北条市の善応寺のようです。しかし、正堂士顕が長福寺にいたことを記すのは『予章記』のみのようです。同寺の縁起には、河野通有が、弘安の役に戦死した将兵を弔うため、士顕の弟子雲心善洞を開山として弘安四年(1281)に開創したと伝えますが、年代があいません。
⑥正堂士顕を招請開山として応永二一年(1414)に中興したと伝えるのが宗泉寺(美川村大川)です。しかし、正堂士顕の没年は応安六年(1373)とされますので、これも没後のことになります。
⑦南山士雲の弟子中溪一玄は、暦応二年(1339)開創の仏城寺(今治市四村)の開山に迎えられています。さらに、河野通盛によって中興したとされる西念寺(今治市中寺)は、南山士雲を勧請開山としますが、事実上の開山はその法孫枢浴玄機のようです。
 このように中世の伊予には、弁円(聖一国師)の弟子達が多くの寺院を開いたことが分かります。
1高屋神社
高屋神社から望む観音寺市街
讃岐の西端で燧灘に面する観音寺は、西に向かって開かれた港で、古代以来、九州や伊予など瀬戸内海西部との関係が深かった地域です。伊予での禅宗聖一派ネットワークの形成が進むにつれて、その布教エリア内に入ったのでしょう。それが観音寺町場に、聖一派の禅宗寺院が建立された背景と考えられます。
 しかし、なぜいくつもの寺院が必要だったのでしょうか。
宇多津の日蓮宗寺院は本妙寺だけです。しかし、伊予の場合を見ていると、宇和島や今治・北条市などには、複数の聖一派寺院が建立されています。周辺部への拡大とも考えられますが。観音寺では、各町場毎に競い合うように建立されたのではないかと私は考えています。
観音寺の旧市街の狭い街並みを歩いていると、瀬戸の港町の風情を感じます。
観音寺 アイムス焼き

古くから続く乾物屋さんには、伊吹のいりこをはじめ、酒のつまみになるいろいろな乾物があります。アイムス焼き物や山地のカマボコ、路地の中の柳川うどんなどを味わいながらの町場歩きは楽しいものです。そんな町場の荷揚場に面して禅宗聖一派の西光寺はあります。ここがかつての伊予の同宗派の拠点の一つで、ここに禅僧達がもたらす情報やモノが集まっていた時代があったようです。
 以上、これまでのことをまとめておきます。
①中世の財田川と一ノ谷川に挟まれた中洲に、琴弾神社の門前にいくつかの町場が形成された
②定期市から発展した上市・下市・今市などの町場全体が観音寺と呼ばれるようになった。
③各町場は、それぞれ港を持ち瀬戸内海交易を展開した。
④中世には各宗派のお寺が建立されるようになるが、臨済宗聖一派のお寺がいくつかある
⑤これは開祖弁円(聖一国師)の支援者に博多商人が多かったためである。
⑥博多商人の進める日宋貿易や瀬戸内海交易とリンクして聖一派の布教活動はすすめられた。
⑦伊予は開祖弁円の弟子達が活発に布教活動を進め、各港に寺院が建立された。
⑧そのような動きの中で燧灘に開かれた観音寺もそのネットワークに組み込まれ、商人達の中に信者が増えた
⑨それが観音寺にいくつもの聖一派のお寺が作られる背景である

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。


6宇多津1
香川県立ミュージアムの特別展『海に開かれた都市~高松-港湾都市九〇〇年のあゆみ~』で提示された一五世紀~一六世紀前半の宇多津の景観復元図を見ていくことにしましょう
この復元のためには、次のような作業が行われているようです。
①幕末の『讃岐国名勝図会』・『安政三年奉納宇夫階神社に七』・『網浦眺望 青山真景図絵馬』から町割など近世後期の景観を復元する
②そこから延享二年(1745)頃に作られた古浜塩田、浜町・天野新開を消す
③塩田工事と同時に行われた大束川河口部の付替工事を、それ以前の景観にもどす
④伊勢町遺跡発掘調査から近世前期にできた形成を消す
⑤大足川を近世以前の位置にもどす
これらの作業を経てできあがった14世紀の復元図を見てみましょう。
6宇多津2
①青ノ山北麓と聖通寺山北端部を突端部とし、大きく湾入するように海域が入り込む
②その中央付近に大束川が流れ込む。
③河口入江には東と西に突端した砂堆がある(砂堆2・3)
④大束川河口部をふさぐように砂堆が細長く延び(砂堆I)、先端付近では背後に潟がある
⑤砂堆Iの海側には遠浅地形が広がっていた
⑥居住可能なエリアは、青ノ山山裾とそこから海際までの緩斜面地と砂堆、
⑦平山では聖通寺山と平山の山裾の狭陰な平坦地
                
宇多津地形復元図
中世宇多津の復元図
宇多津の中心軸(道路)の  両端には宇夫階神社と聖通寺が鎮座します
①宇多津の中心軸は、西光寺がある砂堆Iの真ん中を東西方向伸びる道路である。
②河口部は、深く入り込んだ入江に沿って聖通寺山の麓の平山まで続く。
③内陸部へ伸びる南北道路は、砂堆1の付根で東西道路と交差し東西・南北の基軸線となる。
④東西道と南北道の交差点付近に港があり、海上交通と陸上交通の結節点となり最重要エリアになる
④東西軸は丸亀街道、南北道路は金毘羅街道へと継承されていく主要路である。
宇多津の東西に位置する聖通寺と宇夫階神社を見ておきましょう
聖通寺の建立時期の古さは何を物語るのか?
 大束川の河口は深く入り込んだ入江となっていて、宇多津と聖通寺山とは湾で隔てられています。その山裾に修験道の醍醐寺開祖・理源大師と関係が深いとされる聖通寺(真言宗)があります。寺伝では貞観10年(868)の創建、文永年間の再興を経て、貞治年間に細川頼之の帰依を受けて復興したとあります。創建時期が、宇多津の諸寺院よりもはるかに古いこを研究者は指摘します。
  聖通寺には、長享二年(1488)に常陸国六反田(茨城県水戸市)六地蔵寺の僧侶が聖通寺で書写したという記録が残っています。
ここからはこの寺が、各地の僧侶が集まる様々な書籍や情報を所蔵した「学問所」であったことがうかがえます。理源大師も若い頃に、この寺で学んだと伝えられます。道隆寺や金蔵寺なども学問所であったと云われ、諸国からの修験者たちがやってきたお寺です。この寺も奥の院は、聖通寺山の山中にあり、大きな磐座(いわくら)が聖地となっていたようです。同時に、この地域には沙弥島・本島・聖通寺山・城山と理源大師に関係の深い「聖地」が残っていて、修験者が活発な活動を行っていた形成がうかがえます。
宇夫階神社も勧請時期は古く、聖通寺の同じ時期に従五位に叙せられています
この神社は、産土神として古くから宇多津の総鎮守的な存在です。復元地図で見ると、大束川を挟んだ宇多津の領域の両端に宇夫階神社と聖通寺が鎮座していることになります。ここからも宇多津における両者の重要性がうかがえます。九世紀後半の宇多津において、この両者が登場してくる「事件」があったのかもしれません。
6宇多津2135
 宇多津の中世集落は、どのあたりにあったのでしょうか
①東西・南北道路が交差する場所(集落I・現西光寺周辺)
②郷照寺の門前周辺で砂堆1と砂堆3が形成する湾入部の一番奥の付近(集落2)、
③砂堆Iの背後の潟周辺で、長興寺(安国寺)の門前周辺(集落3)、
④宇夫階神社の門前で、砂堆3の付根(集落4)
の4つに分かれて集落があったようです。伊勢町遺跡の調査報告書には、各集落が港湾施設(船着場)を伴っていた可能性が高く、『兵庫北関入船納帳』にある「中丁」「西」「奥浜」という三つの集落の存在との対応関係」があることを記しています。

宇多津
宇多津(讃岐国名勝図会)
そして、さらに次のように推論しています
①「中丁」は集落I、
②「西」は集落2ないし4、
③「奥浜」は集落3ないし2
に当たると研究者は考えているようです。
 内陸・海上交通の結節点になる集落1が、宇多津の中心集落のようです。『兵庫北関入船納帳』に出てくる船頭の「弾正」は、ここを本拠地に活動したのかもしれません。さらに、集落1の発掘調査からは、次のような集団がいたことが分かっているようです。
①鍛冶屋等の職人がいたこと
②大規模で多様な漁労活動を行っていた集団がこと
③いち早く「灯明皿」を使うなど「都市的なスタイル」を取り入れた「先進的生活」を送っていた人たちが生活していたこと
このように4つの港湾施設をもる集落が複合体として、宇多津という港町を形成していたと研究者は考えているようです。

6宇多津2213
中世の船着き場の変遷 
中世宇多津の港(船着場)は、どんなものだったのでしょうか?
伊勢町遺跡からは、14世紀初めの石を積み上げた護岸と、16世紀の礫敷きが出てきました。石積み護岸は絵画資料では『遊行上人縁起絵』など、15世紀の室町期になって描かれるようになります。この遺跡も15世紀頃のものなのでしょう。研究者が注目するのは、海際の集落が港湾施設を持ち、それが石材を用いて整備されている点です
6宇多津2
  宇多津への寺社勢力の進出の背景は・
 青野山の山裾や、南北道路の高台、砂堆Iの背後の潟(河口部)に各宗派の寺院が立ち並んでいます。このような景観は『義満公厳島詣記』や文献資料からも見えますし、今でも同じ光景を見ることが出来ます。
宇多津に多くの宗派の寺院がそろっているのはどうしてなのでしょうか。
 まず挙げられるのは、港町宇多津の経済力の高さでしょう。各寺院の瀬戸内海の港町への布教方法を見ると、そこに住む人びとを対象とした布教活動とともに、流通拠点となる港町に拠点をおいて円滑に瀬戸内海交易を行おうとする各宗派のねらいがあったことが分かります。僧侶は、中世の荘園を管理したように、港町の寺院を「交易センター」として管理していたのです。
6宇多津の寺院1
各宗派の進出状況を時期別にまとめると、次のような表になります
①鎌倉期には真言宗寺院、
②南北朝~室町前期には守護細川氏と関連が深い禅寺、
③室町後期にも細川氏の帰依を受けた法華宗寺院、
④戦国期には浄土真宗寺院
が年代順に建立されていて、各宗派の寺院が段階的に進出したことが分かります。一度に姿を現したのではないのです。このことは13世紀後半~16世紀代を通して、宇多津が成長し続けたことを物語ると同時に、各時代の歴史的なモニュメントとも言えます。
本妙寺(法華宗)の建立については以前も取り上げました。
宇多津本妙寺
本妙寺
この寺はの開祖日隆は、細川氏の保護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教活動を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立します。いずれも内海屈指の港町で、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動を展開したことがうかがえます。細川氏が本妙寺を保護していたことは、守護代安富氏が寺中諸課役を免除したことからも分かります。(『本妙寺文書』)。
戦国期には青ノ山南東麓にあった寺院が、西光寺と名前を変えて町内に移転してきます。
 西光寺は、それまでの寺院が青ノ山の山裾に建立されていたのに対し、河口の港のそばに寺域を設けます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津の西光寺 港のそばに立地
その背景には、浄土真宗寺院の海上流通路掌握といった動きがうかがえます。西光寺は石山合戦に際して本願寺顕如の依頼に応えて、物資を援助をするなど、経済力も高いものがあったようです。
これらの14世紀後半期の法華宗寺院、15世紀後半期における浄土真宗寺院の動きは瀬戸内海各地の港町と同時進行の動きで、当時の瀬戸内海港町で共通する動向だったようです。
宇夫階神社の担った役割は?
宇多津では、このように多くの宗派が林立したために、住民がひとつの寺院の下に集まり宗教活動を行い結集の機会を作り出すことはありませんでした。集落や諸宗派・各寺院の檀家といったレベルのちがう単位がモザイク状に並立した状況だったのです。こうしたある面でばらばらな集団単位を結びつける役割を担ったのが宇夫階神社だったようです。

utadu_02 宇夫階社・神宮寺・秋庭社・神石社:
産土階神社(宇多津)

この神社は、祭礼をとおして複数の集落や単位を統合させる宇多津の重要な核として機能します。そのことは、宇多津の中心軸である東西道路の西端正面に鎮座する立地が示しています。総鎮守的な単一の神社であるを宇夫階神社は宇多津の大きな求心力として機能していたようです。
領主勢力は、直接的に宇多津を支配していたのか?
 宇多津には守護所が置かれたと云われますが、これについては研究者は慎重な態度のようです。『兵庫北関入船納帳』にみる国料船や本妙寺・長興寺・普済院・聖通寺等守護細川氏との関わりが深い寺院の建立・再興などに、守護勢力の影はうかがえます。しかし、宇多津町内に城郭があった形成はありません。封建勢力が港町宇多津への直接的支配権を持っていたとは云えないようです。
 守護所跡と考えられる円通寺・多聞寺、南隆寺の城郭的施設も領主勢力の居城としては、根拠が弱いのです。集落内にも領主の平地居館は、見当たりません。つまり、守護を中心とした領主勢力の宇多津への直接的な関与はあまり感じられないのです。それよりも寺社勢力や「弾正」や「法徳」などの有力海運業者を通じて間接的に関与していたと研究者は考えているようです。

宇多津地形復元図

隣接する港町 平山の役割は?
 湾内を隔てて、聖通寺山の麓にある平山も港町だったようです。『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てきます。宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。自立した港ですが、機能面では連動した相互補完的関係にあったと研究者は考えているようです。
平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)、
聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
が想定できるようです。
 『兵庫北関入船納帳』の記載からも平山に本拠地を置く船主の姿がいたようで、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。また、宇多津よりも沖合いに近い立地や、広域的な沖乗り航路とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。


川津と宇多津の関係は?
 一方、宇多津は後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業者がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。

連雀商人

連雀商人
連雀商人の活動と衰退
連雀商人の衰退要因

このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港であったと研究者は考えています。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。そうすると尾道のや倉敷のように、宇多津も荘園の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。そして広いエリアからの集荷活動を行い、備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する塩飽を背景に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

4344102-42宇多津海側
宇多津の海側(讃岐国名勝図会)

     江戸時代になっての宇多津は?
 天正期には豊臣配下の仙石氏が平山に聖通寺山城を築きます。しかし、それも一時的でその後にやって来た生駒親正は、讃岐支配の新たな拠点として高松と丸亀に城を築城し、城下町を開きます。その際に、宇多津や平山からは多くの寺院、町が高松と丸亀に移転させました。港町宇多津は重要な機能を失うことになります。その背景には商人の街である港町宇多津が、新たな領主にとっては解体すべき対象であったのでしょう。同時に、宇多津から「引抜」いていかないと、新たな城下町として高松や丸亀の建設は難しかったとも考えられます。
 大足川の埋積作用は河口部や砂堆前面を着実に埋没させて行きました。讃岐を代表する港町宇多津は、政治的経済的な中心性だけでなく、港湾機能も奪われていくことになり、やがて地方的な港町になっていきました。
江戸期になると高松藩米蔵が設置され、新たな展開をむかえます。
髙松藩米蔵一覧

高松藩米蔵は、東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に置かれますが、宇多津は他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。これにともない現在の地割が整備されていきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
大束川沿いに置かれた米蔵(讃岐国名勝図会)
 しかし、大束川の堆積作用は、港に深刻な状況をもたらします。それを克服するため18世紀前半には、他の港町に先駆けて湛甫形式の港湾施設を完成させ、港湾機能の維持に努めます。しかし、やがては金比羅詣での船が寄港するようになった多度津や丸亀にその役割も譲ることになります。
  参考文献
Amazon.co.jp: 中世讃岐と瀬戸内世界 (港町の原像 上) : 市村 高男: 本
   中世讃岐と瀬戸内世界 所収    中世宇多津・平山の景観 松本和彦

浄土真宗の中讃への布教は、阿波の安楽寺が布教センターだったことを前回にお伝えしました。それは阿波ルートの興正寺派の教線でした。しかし、真宗の伝播には、もう一つ本願寺による「海のルート」があります。

四国真宗伝播 寛永3年安楽寺末寺分布

興正寺派の阿波安楽寺の末寺分布図(寛永3年)
讃岐に数多くの末寺があったことが分かる。

 古代から瀬戸内海は東西を結ぶ「海のハイウエー」の役割を果たしてきました。島の湊はそのサービスエリアでもありました。この瀬戸内海を通じて真宗は入ってきます。これが本願寺のルートです。
 讃岐への真宗の伝播は、興正寺からのルートと本願寺からのルートの二つがあったことになります。讃岐の真宗寺院の分布状況を見ると、海岸線に本願寺系が多く、内陸部には興正寺系は多く存在しています。それは、海から伝わったか、阿波から伝わったかの伝播ルートのちがいによるようです。

 真宗と讃岐の結びつきはいつ頃から?

「天文日記」は、本願寺第十世證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けた19年間の日記です。その中の天文12(1543)5月10日条に、次のように記されています。 
『天文日記』天文十二年五月十日・七月二十二日
十日 就当番之儀、讃岐国福善寺以上洛之次、今一番計動之、非何後儀、樽持参第二七月二十二日 従讃岐香西神五郎、初府致音信也。使渡辺善門跡水仕子也。
ここには、天文十二(1544)に「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあります。福善寺は高松市にありますが、本願寺へ樽を持参していたことが記されています。福禅寺が本願寺の末寺となっていたようです。この16世紀半ばの天文年間に、本願寺と関係がある真宗寺院が髙松にはあったことが分かります。
 また、
七月二十二日「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」とあります。これは、香西氏が初めて本願寺を訪れた記録になるようです。香西氏の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたようです。讃岐の武士団の中に真宗信者が現れ、本願寺と結びつきを深めていく者もいたのです。

どうして、香西氏は本願寺の間に結びつきができたのでしょうか?

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 当時、讃岐は「阿波三好氏の支配下」にありました。そして、阿波三好氏の実権を握っていたのが重臣の篠原長房でした。そこで香西氏は長房に率いられて上洛し、本願寺へと赴くようになるのです。それは長房の夫人が、堺の真宗のお寺の娘さんという関係があったからのようです。それを縁に本願寺と長房は、深い結びつきを持つようになります。こうして、篠原長房に従った讃岐武士団のなかにも、真宗に改宗し、真宗を保護する者もあらわれます。
讃岐に真宗寺院が、増加するのは享禄から天文年間にかけてです。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗創建年代一覧
讃岐の真宗寺院の郡別創建年代一覧
応永・明応年間  1368年から1375年 1492年から1501年
②文亀・大永年間  1501年から1504年 1521年から1528年
③天文年間 1532年から1555年
④天正年間 1573年から1593年
上表から分かることをあげておくと
①の15世紀末時期に創建された4寺は、興正寺系末寺である
②になると三木郡の常光寺や阿波郡里の安楽寺の興正寺の教線がラインが伸びてくる。
③天文年間になると、瀬戸内海ルートで本願寺からの教線ラインが伸びてくる。
④大水上神社の信仰圏である大内・寒川・三木や、善通寺・弥谷寺など真言系修験道の信仰圏である多度郡・三野郡・豊田郡などは、この時期に設立された真宗寺院が少ない。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗転宗一覧
讃岐郡別の真宗への転宗寺院数
上図は、この時期に旧仏教(真言・天台)から真宗に転宗した郡別寺院数を一覧化したものです。上の④で指摘したように、修験道系の旧仏教勢力の強いところでは、転宗寺院は少ないようです。
真言・天台の旧勢力が衰えていた地域に真宗が入り込んで、真宗に宗派替えをするようになっていることがうかがえます。地域的に見ると中讃地域に多いようです。改宗時期を見ると、讃岐で真宗寺院が増える天文年間(1532. ~1555年)のようです。
 ここからは、私の仮説です。
 この時期は、西長尾城主の弟・宥雅が流行神である金毘羅神を産み出し、金毘羅堂を象頭山に建立した時期にもあたります。宥雅の中には、讃岐山脈を越えて丸亀平野に入ってくる郡里安楽寺の布教僧侶たちの姿が目に入っていたはずです。土器川の奧の百姓たちに根付いて、各地で道場を開いていく真宗の僧侶たち。宥雅は善通寺で修行を修めた真言僧侶です。彼らは、丸亀平野の奥から次第に、門徒を増やして行く真宗の布教活動を見て、なんとかしなければならないという危機意識を膨らませます。その答えが、新たな霊力ある神を祭り、信者を獲得することでした。そのために地元に伝わる悪魚退治伝説の悪魚を、善進化しクンピーラとして登場させます。
 つまり、宥雅による流行神である金毘羅神の創出は、那珂郡や鵜足郡で急速に門徒を増やす真宗への対抗措置であったと私は考えています。
土器川沿いに上流から中流へと道場をふやしていく動きとは、別の動きが真宗にはありました、それが本願寺自らが開拓していた教線ルートである瀬戸内海ルートです。

その中の一つに宇多津の西光寺があります。

この寺の「縁起」を見てみましょう。『諦観山西光寺縁起』
天文十八年、向専法師、本尊の奇特を感得し、再興の志を起し、経営の功を尽して、遂に仏閣となす。向専の父を進藤山城守といふ。其手長兵衛尉宣絞、子細ありて、大谷の真門に帰して、発心出家す。本願寺十代証知御門跡の御弟子となり、法名を向専と賜ふ。
天文十八年(1550)に本願寺・証知の弟子になって、向専という名前を与えられています。そして、この寺に当時の支配者であった阿波の篠原長房が出した禁制(保護)が西光寺に残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記載があります。
 鍋屋というのは地名です。その付近に最初は「道場」ができたようです。それが「元亀貳年正月」には西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
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西光寺の門扉の紋章
本願寺派に属する宇多津の西光寺の前は、かつては海でした。

宇多津 西光寺

中世の宇多津
江戸時代になって塩田が作られ、現在ではそれが埋め立てられて海は遙か北に退きましたが、この時代は西光寺の前は海でした。小舟であれば直接に、この寺の船着き場にこぎ寄せることが出来ました。本願寺から「教線拡大」のための僧侶が海からやってきたのです。
 宇多津は中世は管領細川氏の拠点で当時の「県庁所在地」で、讃岐で最も繁栄する「都市」であり「湊」でした。その山手には各宗派の寺院が、建ち並んでいました。このような「宗教激戦地」の中で本願寺は、どんな形で布教活動を進めたのでしょうか? 興正寺派が農村で進めた布教活動とは、どんな点がちがっていたのでしょう。

まず、布教対象です。どのような人々が門徒になったかです。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世の復元図の中の西光寺 湾内に突き出た砂州上に立地

 先ほど史料で見たように、西光寺の付近に鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。手工業に従事する人々が、この付近に住んでいたことが分かります。この地域には、今も西光寺の檀家が多くいるそうです。
 また宇多津は港町として繁栄しますが、水運業に関わる人たちのなかにも門徒が増えていくようです。非農業民の真宗門徒をワタリと称しています。宇多津は経済力の大きな町で、それを支えるのがこのような門徒たちであり、また西光寺も支えていたのです。

宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津 西光寺(江戸時代後半)

 ちなみに、宇多津の沖の本島・広島には多くの寺院がありましたが真宗寺院はありません。小豆島もそうです。讃岐の島々は旧勢力の真言宗が強く、真宗の入っていく余地はなく「布教活動」は成功しなかったようです。
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宇多津の西光寺が成長していく永禄年間というのは戦国時代の真最中です。
 当時の讃岐の状況は、阿波の三好氏が侵入してきてその支配下になっていました。また中央では、大坂の石山本願寺をめぐって織田信長と本願寺の対立が目増しに激しくなっていく時期です。その渦に、讃岐の真宗寺院が巻き込まれていくのです。
 当時は真宗の門徒たちが一致団結して、権力者に立ち向かっていく状況が各地で見られました。一向一揆ですが、その「司令本部」が石山本願寺(現大阪城)でした。石山本願寺と信長が直接対決するようになるのが元亀元年からで、この戦いを「石山戦争」と呼んでいます。この「石山戦争」に建立されたばかりの讃岐の真宗寺院が巻き込まれていきます。
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西光寺

 大阪石山本願寺の顕如が阿波の慈船寺に当てた次の文書が残っています。顕如書状〔慈船寺文書〕
近年信長依権威、爰許へたいし度々難題いまに其煩やます候、此両門下之輩於励寸志者、仏法興隆たるへく候、諸国錯乱の時節、卸此之儀、さためて調かたなく覚候へとも、旨趣を申候、尚様鉢においては上野法眼・別邸郷法橋可申候、あなかしこあなかしこ
     十月七日
      阿波               顕如花押
       坊主衆中へ
       門徒衆中へ
「阿波坊主衆中 門徒衆中」となっています。本願寺から直接阿波の寺院へ出したものです。内容は
「信長の非道を責めつつ、信長と本願寺がついに戦いを始めたから、各地の門徒たちは本願寺を援助しろ」
ということです。しかし、信長と戦うにも本願寺が自前の軍隊をもっているわけではありません。本願寺の要請によって各地の門徒たちがこぞって応援にかけつけることになります。また兵糧・軍資金の要請もします。このような顕如の手紙を「置文」といい、全国に多く残っています。
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西光寺本堂

 そして、讃岐でそれに応じたのが西光寺です。

 下間頼廉書状〔西光寺文書〕
  回文「詳定」
  一 青銅七百貫
  一 法米五十解
  一 大麦小麦格解貳斗
 今度御門跡様織田信長と就御鉾楯不大方、依之其方以勧化之働、右之通獣上述披露候所、懇志之段神妙思召候、早奉仰御利運所也、弥法儀相続無出断仏恩称名可披相嗜事、白河 以肝要愉旨、能々相心得可申候由御意愉、則披顕御印愉悦
             別邸郷法橋
     五月十三         頼廉(花押)
         西光寺 専念
これは本願寺の財務方の「法橋」からの礼状になります。
「青銅七百貨、植木五十解、大麦小麦捨百二斗」を、西光寺が支援物資として本願寺へ送ったことに対する礼状です。青銅七百貨は銭です。西光寺がそれだけの資金を準備できるお寺であり、それを支える門徒衆の存在がうかがえます。これは西光寺だけでなく、阿波の安楽寺や安芸門徒(広島)などの寺院も送っています。全国各地から多額の軍資金や兵糧が本願寺へ送られるのです。
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西光寺 白壁の塀には「銃眼」が開けられています

 信長は本願寺と戦うだけでなく、あちこちで一向一揆と壮絶な戦いを繰り広げています。本願寺にとってみれば、長島・越前など各地のの一向衆の一揆がたたき潰されていくのですから、生き残りをかけた戦いで敗れるわけにはいきません。ここで敗れることは本願寺王国の壊滅というせっぱつまった状況にあったのです。信長にとってみれば、本願寺をたたき潰すことにより、長年の一向一揆との戦いに終止符をうつことになるのです。お互いに負けることができない戦いがこの石山戦争なのです。そして、同時展開で西欧で展開されていた「宗教戦争」とも似ていました。
 そして本願寺は戦いの向こうに展望が開けて行くことになります。

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西光寺 東側はかつては海だった
どちらにしても、真宗の讃岐への伝播は
① 阿波ルートで「真宗興正寺派」が山から平野に
② 瀬戸内海ルートで「真宗本願寺」が海岸の港町を拠点に
讃岐に「教線拡大」していくのです。

参考文献 橋詰 茂 「讃岐における真宗の展開」
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