瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:西大寺

白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峰寺古図(東西二つの十三重石塔が描かれている)

白峰寺の十三重石塔について以前にお話ししました。十三重石塔は、奈良の西大寺律宗の布教活動と深い関係があると研究者は考えるようになっているようです。

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白峰寺の十三重石塔

どうして西大寺律宗は、石塔造立を重視したのでしょうか。それを解く鍵は、西大寺中興の祖とされる叡尊にあります。叡尊にとっての多重層塔の意味は何だったのかを今回は見ていくことにします。テキストは「辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」

叡尊上人
西大寺中興の祖・叡尊上人
叡尊上人の伝記・作善集には、次の2つがあります。
①『金剛佛子叡尊感身学正記』
②『西大寺勅謚興正菩薩行實年譜』
西大寺叡尊傳記集成[image1]

ここに記された多重層塔の造立勧進の記事を研究者は見ていきます。
「暦仁一(1238)年」八月から九月
①又流記日 四王堂八角塔塞韆講郎佛舎利可爲當殿奪乏旨顯然。故告當寺五師慈心爲彼五師沙汰。以二九月上旬。立八角五重石塔。②郎奉納予所持佛舎利一粒一畢。(中略)
從同月卅日。一寺男女奉爲供養舎利。受持八齋戒。③可爲毎月勤行

ここには次のような事が記されています。
①四王堂の中心として本尊舎利を納めていた木造八角五重塔を八角五重石塔に造りかえた、
②そして叡尊の所持する舎利を一粒納入し、復元した
③四王堂本尊舎利塔再興後は、毎月舎利供養がおこなわれた
ここからは西大寺の八角五重石塔は「当殿本尊」である仏舎利を納入する舎利塔として造られていたことが分かります。
さらに『行実年譜』の暦仁一年十月には、次のように記されています。
廿八日結界西妻而爲弘律之箋醐覺葎師羯摩菩嗜相講翌日始行二四分衆法布晦

十月二十八日に西大寺に覚盛律師をむかえて、弘律の道場としています。再興された八角五重石塔は、単に四王堂本尊の舎利を納める舎利塔としてだけではなく、弘律道場の中心的存在を示すシンボルタワーとしての意味を持つものでした。言いかえれば、舎利塔としてだけではなく、釈迦の仏体そのものを示すものとして考えられていたと研究者は指摘します。
宇治の十三重石塔
宇治の浮島十三重塔
『行実年譜』「弘安九年丙戌」の条に出てくる宇治の浮島十三重塔(1286年)を見ておきましょう。
この塔は叡尊が宇治川の大橋再建の際に建立した日本最大の石造物で、次のような銘があります。
菩薩八十六歳。宇治雨寳山橋并(A)宇治橋修造己成。啓建落成佛事。(中略)
而表五智十三會深義。(B)以造五丈十三層石塔。建之嶋上。
(A)宇治橋修造にさいして、梵網経講読に集まる聴衆の中の漁民が発心して、舟網など殺生具をなげだした。その供養として川中に小島を築き、殺生具を埋めた。
(B)石塔造立に続いて、漁人の発心によって築かれた島上に十三重石塔を造立した。
ここには宇治に建てられた十三重石塔は「五智十三会の深義」を表わすものであったことが記されています。ここからこの石塔は、宇治川の漁業禁止と宇治橋供養のため建立され、塔の下には漁具などが埋められたと伝えられます。
この石塔について『行実年譜』には、次のような願いがこめられていると記されています。
意欲救水陸有情也。所謂河水浮塔影。遠流滄海。魚鼈自結善縁。清風觸支提。廣及山野。鳥獸又冤惡報。其爲利益也。不可測也。印而教漁人。曝布爲活業。又時有龍神。從河而出來。從菩薩親受戒法。歡喜遂去亦不見矣。

意訳変換しておくと
水に映える塔影が広く世界隅々までおよび、人間はもとより生きとし生けるものすべてにわたるもので、漁民も含まれる。さらには竜神にさえも、その功徳をさずけるものである。


そして十三重石塔銘文には、次のように刻まれています

於橋南起石塔十三重於河上奉安佛舎利并數巻之妙曲載在副紙令納衆庶人等與善之名字須下預巨益法界軆性之智形上

ここからは次のようなことが分かります。
①十三重塔の塔内には、金銅製・水晶製五輪塔形舎利塔数個と功徳大なる経典・法花経などを納入されたこと
②併せて舎利を納め「法界軆性之智形」として、釈迦の仏体として造立されたものであること
③「衆庶人等與善之名字」を記した結衆結縁名帳も納入したこと
これは名を連ねた結縁者を極楽に導びこうとするものとされます。
それでは、石塔造立を行なうことで得られる功徳とは何だったのでしょうか
それについてて『覚禅抄』には、次のように記されています。
寳積經云。作石塔人。得七種功徳。一千歳生瑠璃宮殿。壽命長遠。三得那羅延力。四金剛不壊身。五自在身。六得三明六通。七生彌勒四十九重宮夢。

塔の造立者に授けられる功徳が7つ挙げられ、弥勒四十九重宮へ導びかれると説いています。宇治浮島の十三重石塔に納められた名帳に名を連ねた人は、その功徳(勧進)によって、弥勒浄土へ導びかれると説かれたのです。
 
 以上から叡尊上人と十三重石塔には、次のような関係があると研究者は指摘します。
①五智十三会の深義を表わし、仏舎利を納入することで、釈迦の仏体そのものとなっていること
②塔は弘律道場の中心で、その存在が永遠の弘律道場となるには必要であったこと。
③造塔功徳によって、衆生を弥勒浄土への道筋を示すこと
このように十三重石塔は、信者を弥勒浄土へ導くためのシンボルタワーとして不可欠なものだったようです。上田さち子氏は「叡尊の宗教活動は。こうした点でも、融通念仏、時衆、真宗仏光寺派と共通するものが認められる。」と評します。
以上を整理しておきます。
①叡尊は光明真言を、融通念仏的より簡単に功徳が受けられるようにした
②それは貴族や一部の僧侶たちだけのものから光明真言を社会の底辺まで広げることになった。
③その根本思想は、時衆などの阿弥陀如来による往生ではなく、釈迦如来における往生であった。
④十三重石塔銘文中の「釈迦如来、当来導師弥勒如来」が、そのことを物語っている。
 
西大寺律宗は、末寺をどのように増やして行ったのでしょうか?
  1391(明徳二)年の西大寺『諸国末寺帳』には、数多くの寺院が末寺として記されています。しかし、これらの寺は最初から西大寺末寺であったのではないようです。その多くは叡尊と、その死後に弟子たちによって西大寺末寺として組みこまれたものです。
それでは西大寺は、どのようにして末寺を増やして行ったのでしょうか。それと石塔造立とはどんな関係にあったのでしょうか。
叡尊の布教勧化活動を考える際に、研究者が取り上げるのが奈良の般若寺です。
般若寺 | 子供とお出かけ情報「いこーよ」
般若寺の十三重石塔(宋人石工の伊行末作)

般若寺の十三重石塔と本堂と本尊の出現時期を見てみます。
十三重石塔は、石塔内に仏舎利、経巻が納入されていて、経箱には「建長五(1253)年」の墨書銘が残されています。ここから塔納入時の年代が分かります。

本尊については『感身学正記』に、次のように記されています。

建長七年乙卯 當年春比。課佛子善慶法橋。造始般若寺文殊御首楠木。自七月十七日迄九月十一日。首尾十八日。
1255年の春に、仏師善慶法橋に命じて、般若寺のために文殊菩薩像の首を楠木で作らせた。
奈良般若寺
般若寺本堂と十三重石塔
本堂については、次のように記されています。
弘長元年辛酉二月廿五日。文殊奉渡般若寺。御堂半作之間。構彼厨子。奉安置堂乾角。
1261年 製作開始から六年後に文殊菩薩が般若寺に渡され、本堂に厨子が作られ、そこに安置した。
以上からそれぞれが出現した年は以下の通りになります。
1253年 十三重塔造立
1255年 般若寺本尊の文殊菩薩像製作
1261年 般若寺本堂建立
ここからは十三重石塔は、文殊菩薩像製作開始より2年前、本堂完成より8年前には般若寺境内に造立されていたことになります。何もない伽藍予定地に、まずは十三重石塔が建てられたのです。これは現在の私たち感覚からすると、奇異にも感じます。本尊や本堂が建てられる前に、十三重石塔が建てられているのですから・・・
「伊派の石工」
      南宋からやってきた石工集団・伊派の系譜
 般若寺の十三重石塔を製作したのが伊行末(いのすえゆき)とされます。
伊行末は、明州(淅江省寧波)の出身で、重源が東大寺大仏殿再興工事のために招聘した、陳和卿(ちんなけい)などととともに来朝し、石段、四面回廊、諸堂の垣塌の修復に携わっています。正元二年(1260)7月11日に行末はなくなりますが、その後は嫡男の伊行吉(ゆきよし)をはじめとして、末吉(すえよし)・末行(すえゆき)・行氏(ゆきうじ)・行元(ゆきもと)・行恒(ゆきつね)・行長(ゆきなが)といった石工たちが伊(猪・井)姓を名乗り、伊派石工集団を形成し優れた作品を残しています。伊派石工集団の菩提寺だったのが般若寺でもあるようです。般若寺】南都を焼き打ちの平重衡が眠る奈良のお寺
  般若寺の笠塔婆(伊行末の息子・伊行吉が父母のために寄進)

十三重石塔建立の意義とは、何なのでしょうか?
『覚禅抄』の「造塔巻」建塔萬處事には、次のように記されています。
諸經要集三云。僣祗律云。初起僣伽藍時。先觀度地。將作塔 處不得在南。不得在西。應得在東。應在北。

ここには伽藍を建てる時には、まず塔造立から始めることとされています。般若寺中興も、まずは宋人石工の伊行末によって十三重石塔が造立されたようです。
1267(文永四)年に、般若寺は僧138人の読経の中で整然と開眼供養が行なわれ、再興されます。その様子が次のように記されています。
抑當寺者。去弘長年中。奉安讒尊像以來、雖不經幾年序。自然兩三輩施主出來。造添佛殿僧坊鐘樓食堂等。殆可謂複本願之昔。數宇之造營不求自成。是偏大聖文殊善巧房便與。願主上人良恵无想之意樂計會之所致也。

このように往古の姿に復興させた後、次のように管理されます。
印爲西大寺之末寺。可令管領一之由。上人競望之間。遣同法比丘信空一令住。

ここからは般若寺が西大寺末寺に置かれ、叡尊の弟子信空が責任者として管理したことが分かります。

西大寺の叡尊による般若寺復興事業の手法を整理しておきます
①叡尊と伊派石工により、十三重石塔が造立され、弘律道場とされた。
②その後に文殊菩薩像を造立し、その礎を築いた
③復興が終ると、大量の僧を動員して大イヴェントを開催して、西大寺の勢力の大きさを示し、末寺に組みこんだ
④さらに弟子信空を送り込み、 西大寺末寺の固定化をはかった。
④弟子信空は、叡尊亡き後に西大寺第二代長老となる人物である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六

西大寺

明治神仏分離の際に金毘羅を離れた「金毘羅大権現像」が、裸祭りで有名な岡山市の西大寺に安置されているといいます。どんな経緯で、象頭山から海を渡り、西大寺で祀られるようになったのでしょうか。そして祀られている「金毘羅大権現像」とは、どんなお姿なのでしょうか。
西大寺に今ある「金毘羅大権現像」を確認しておきましょう。 
1西大寺不動明王
       こんぴらさんから伝来した不動明王
牛玉所殿に安置される仏像三部の内の中央と左の二躰が「金毘羅大権現」として祀られているようです。中央が像高217㎝の不動明王像、左が邪鬼から兜までの総高が117㎝の毘沙門天像です。不動明王の方が一回り大きいようですが、おなじ形の厨子に納められていています。
西大寺の金毘羅大権現の毘沙門天
                   毘沙門天
 確認しておきたいのは、ふたつの仏像は「金毘羅大権現像」ではないということです。祀られているのは不動さまと毘沙門さまです。こんぴらさんに祀られていた「金毘羅大権現」像の姿については、幕末に金毘羅の当局者によって記された「象頭山志調中之能書」には次のように記されています。
「優婆塞形也、但今時之山伏のことく持物者、左之手二念珠、右之手二檜扇を持し給ふ、左手之念珠索、右之手之檜扇ハ剣卜申習し候、権現御本地ハ不動明王也、権現之左右二両児有、伎楽・技芸と云也、伎楽ハ今伽羅童子、技芸ハ制託伽童子と申伝候也、権現自木像を彫み給ふと云々、今内陣の神躰是也」
 
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現

ここからは、内陣に御神体として祀られていた金毘羅大権現像は、優婆塞姿で山伏のような持ち物をもった姿だったことがわかります。まさに「頗ル役ノ行者ニ類セリ」とあるように、その姿は、役行者像そのものの修験道者姿だったのです。
 そうだとすれば、西大寺の2躰はこんぴらさんの内陣にあった金毘羅大権現像ではないということになります。さて、それではどこにあったお不動さんと毘沙門さんなのでしょうか?これを解く鍵を私は持っていませんので、先を急ぎます。
西大寺牛玉所殿1
       「金毘羅大権現」安置される牛玉所殿
毘沙門天像の厨子の内側には、次の墨書があります
  毘沙門天
 此尊像故有て更々 西京之仏司二命し 日ならず成工上 
 朝廷下は国家万民安全子孫繁昌のため敬て安置し畢于時 
 明治三年庚午孟春
 備陽岡山藩知事 源朝臣池田章政  謹誌
 この厨子は西京の仏司に命じ 日ならず完成したとあります。池田章政(1836~1903)は、明治元年三月に最後の岡山藩主となった殿様で、その年の六月岡山藩知事となり、明治四年廃藩置県により藩知事を免ぜられ東京に去ります。
 この厨子は明治3年に知事であった池田章政が、毘沙門天の保管のために作らせたもののようです。「此尊故有て」というのが、こんぴらさんからの「亡命仏」ということを暗示しているのでしょうか?
疑問を持ちながら前へ進みましょう。
西大寺2
吉井川河畔に面していた西大寺
不動明王の「亡命」のいきさつを追いかけてみましょう。
岡山県立博物館にある西大寺文書には、この金毘羅大権現像についての史料がいくつかあります。その一つが「金毘羅大権現由縁記」で、明治十五年三月五日に当寺の西大寺観音院住職 長田光阿が記したものです。長いのですが全文を紹介します。
 当山江奉安鎮 金毘羅大権現者、素卜讃岐国那賀郡金毘羅邑象頭山金光院二安置シ、其盛乎可知也、然ルニ年月ヲ経過シ、維新之際二至リ、当時之寺務者、何之故乎、仏像ヲ以テ神ナリト奏之、堂宇悉ク神道二変擬ス、依之彼仏像ヲ幽蔽シ、自来又祭ル者無シ、爰二明治三年有字法眼者、彼之尊像祭祠不如意ヲ歎キ、自ラニ鐙ノ尊像ヲ乞受而郷二帰リ、仮リニ同苗悦治ノ弟二置而、後光阿二祭祠センコトヲ請フ、然トモ時未至矣、

意訳変換しておくと
 当寺の金毘羅大権現はもともとは讃岐那珂郡の金毘羅(金光院)に祀られていたものであり、世間によく知られたものである。ところが明治維新の神仏分離によって、金毘羅は堂宇ことごとく神社に変わり、これらの仏像も神殿の奥深くに幽閉されてしまい、誰もこれを祭祀する者がいない状態になってしまった。これを憂えた有字法眼(宥明)は明治3年、二躰の仏像を譲り受けて自らの故郷である備前上道郡君津村(現、岡山市東区君津)の親戚角南悦治宅にこれを移し、光阿にその祭祀を依頼したが、時いまだ熟せず、実現はしなかった。
西大寺会陽 絵巻
                 裸祭りと西大寺
 宥明は金毘羅大権現の神仏分離の際にどんな行動を起こしたか?
この文章だけでは、象頭山で起きていた神仏分離、廃仏毀釈の嵐の様子が伝わって来ません。そこで明治末期の新聞記事からこんぴらさんのお山に吹き荒れた廃仏の大嵐を年表で見てみましょう。 
明治2年  金毘羅大権現本社、神道に転換 諸堂、御守所等残らず改革。
金堂を旭社などと改称し、仏像仏具を運び込み保管所へ
明治3年  万福院宥明、福田万蔵と改名、金刀比羅宮の幹部となる。
  旧多宝塔の建物除去。
         宥明が二躰の仏像を岡山の実家角南悦治宅に移す。
       県知事池田章政が、毘沙門天の保管のために厨子を作らせる
明治4年   廃藩置県で池田章政免官し、東京へ去る。
明治5年   神仏分離に反対する普門院宥曉、松尾寺に移動。
  仏像、雑物什器等売却。
  諸堂内の仏像を焼却
  象頭山を琴平山と改名
明治7年  7月12日 宥明(福田万蔵)が琴平の阿波町の自宅で死去。
明治13年  西大寺に牛玉所殿が造営
明治15年  両仏像が西大寺へ勧請

明治元年に、神仏分離令が出ると金光院宥常は復飾改名し、僧侶から宮司に転じて神社への「変身」を推し進めます。そのために僧職者を還俗させ、わずかばかりの一時金で山から下ろします。これに対して、脇寺の
普門院住職宥暁は、強硬に反対し、寺院維持を主張します。そこで、宥常は宥暁に対して、金毘羅大権現の堂塔や仏像などを山外に移し、(新)松尾寺を継承することを許します。こうして山内の仏像仏具経巻は、松尾寺の宥暁に引継ぐまでは金堂(現旭社)に集められ保管管理されます。しかし、宥暁は、あらたに松尾寺で金毘羅大権現を復活させ仏式で祀ることを計画したため、宥常は約束を反故にし、一切の仏像などを渡さず焼却することにします。こうして、明治5年に、旧金堂に集められていた仏像・仏具などは「浦の谷」に運んで全てが焼却さたのです。

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     現在に伝わった観音堂本尊の聖観音(宝物館蔵)  
 ちなみに、この際に焼却を免れ現在でも宝物館に残る仏像は2躰のみです。一躰が観音堂の正観音像、もう一躰が本堂の不動明王です。それ以外に今に伝わるのは、西大寺の不動さまと毘沙門さまということになります。

 宥明は、神仏分離によって還俗して、福田万蔵と改名して、明治3年には金刀比羅宮の幹部職員に「就職」していたことが史料から分かります。「明治3年、二躰の仏像を譲り受けて」とありますが、当寺の情勢の中で仏像を金刀比羅宮当局が宥明に譲り渡すということは考えられません。旧金堂(旭社)に集められた仏像群の中から不動明王と毘沙門天を選んで、密かに運び出したというのが真相ではないでしょうか。
 ふたつの仏像
の大きさは、先ほど確認したとおり、不動さんは2メートルを超えます。一人で運ぶ事は困難です。協力者が必用です。丸亀街道か多度津街道を人力車に乗せて夜に運び、舟で岡山に着いたのでしょうか。大変な苦労をして実家の角南助五郎宅に持ち込んだのでしょう。
 彼宥明者、備前上道郡内七番君津村之産而、角南助五郎二男ナリ、幼而師於金光院権大僧正宥天而随学、象頭山内神護院二住職シ、又転シテ万福院二住ス、後金刀比羅邑安波町福田氏ニテ上僊ス、時明治七年七月十二日也、宥明之為性 蓋シ可謂愛著仏像者矣、
而右仏像金毘羅大権現者世尊(釈迦)ノ所作卜伝唱ス、又不動明王者宗祖(弘法大師)之所作ナリ、故ヲ以テ信仰之者日々ニ月々盛也、
意訳すると 
この宥明という僧侶は君津村角南助五郎の二男で、幼くして金毘羅別当金光院住職宥天大僧正に師事して学び、象頭山内の神護院住職、次いで万福院住職を歴任し、還俗後は福田姓を名乗り明治七年七月十二日に琴平の阿波町でこの世を去ったという。二躰の仏像の内、金毘羅大権現は釈迦が作ったもの、不動明王は宗祖弘法大師空海が作ったものと伝承され、角南家に祀られた両像は日を経るごとに多くの人の信仰を集めるようになった。

  ここには仏像を持ち出した宥明が金光院の脇坊であった万福院の住職であったこと、神仏分離で還俗した後に琴平で亡くなったことが記されています。さらに、彼が持ち出した仏像が2つであること、その内のひとつが金毘羅大権現で、もうひとつが不動明王と理解していたことが分かります。つまり、小さい方の毘沙門天を金毘羅大権現と考えていたようです。

なお、西大寺のHPには
万福院の住職宥明師が、明治7年(1874年)7月12日自らの故郷である津田村君津の角南助五郎宅へ、金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰った。
とありますが、この日付は宥明の死亡日時です。持ち替えたのは明治3年です。それは、毘沙門天の厨子の墨書の日付が明治3年となっていることからも分かります。
 而当国前知事 池田章政公者、厚ク信心之命于市街下、出石村円務院住職大忠令祭之、以テ天下安静ヲ祈ル矣、時政府廃藩之令出テ諸知事ヲ廃ス、依而知事東京二趣ク、而大忠故有テ大念二譲ル、而尊像祭祠不意、是れ以テ本院光阿迎而祭祠セントス、其臣杉山直及岡野篤等二之ヲ謀ル、而二人公(池田章政)二告ルニ 彼ノ寺之衰ヲ以テス、公又之ヲ許諾ス、乃チ命於本院遷移、既而光阿撰日、迎祭祠焉、当此時寺務者謂出還尊像、則以彼之寺益衰、依之防禦之資金若干ヲ以テス、此事件之成ルヤ、偏二杉山氏之尽力、其功居多卜云、
    金毘羅大権現由縁ヲ略記云
                   本院  光阿
      明治十五年三月五日奉迎 
 意訳すると
当時備前の藩知事であった池田章政は大変信仰心の厚い人で、岡山城下出石村(現、岡山市北区出石町)の池田家祈祷所円務院の住職大忠にこれを祀らせて、市街の人々にこれを信仰するよう命じ、以て天下安静を祈らしめた。
 けれども明治新政府が廃藩の命令を出し知事が廃されることとなったため、池田章政は東京に移ることとなった。円務院の住職は故あって大忠から大念に譲られていたが、仏像は満足に祭祀されていなかった。これを見た西大寺の光阿は、両仏を迎えて祭祀せんと決意し、池田家の家臣杉山直・岡野篤らに協力を要請した。
 両名が東京に去った池田章政に諮ったところ、円務院は寺自体衰微しつつあり、仏像のためにも移した方がよかろうとこれを許し、その結果、両像は西大寺に遷座することになった。光阿は良き日を選びこれを迎えて祭祀しようと思っていたが、円務院の方では両像を奪われては益々寺が衰微するとこれに納得しなかった。そこで若干ではあるが円務院にお金を渡し、ようやく遷座が実現する運びとなった。これも偏に杉山氏の多大なる尽力があったればこそ、
と光阿は締め括っています。
  ここでは藩知事であった池田章政がこんぴらさんからもたらされた両仏を引き取り、池田家祈祷所円務院の住職大忠に祀らせたことが分かります。最初に見た毘沙門天像を納めた厨子の池田章政の墨書は、角南悦治宅から両像を引き取り円務院に移した時に、京都の仏師に命じて両像を修理させるとともに、それぞれに合う厨子を新調させたことを記したものと研究者は考えているようです。
 どちらも明治3年のことなので、角田家に安置されていたのはわずかな期間であったようです。ところが翌年の明治4年に廃藩置県で、池田章政は東京へ去ります。池田家の保護を失い檀家もなかった円務院の経営は困難になったようです。そこで明治15年になって、西大寺の住職光阿は、池田家の了承を取り付けて、この仏像を西大寺に向かえます。
松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現
ふたつの仏像を円務院から西大寺に移す事については、明治十五年四月十七日付の桑原越太郎が岡野篤に宛てた次の書簡もあります。
 先年円務院江 池田家ヨリ安置被致候不動尊・毘沙門天二部之義ハ、当時杉山直祭典之者二付、其縁故ヲ以テ、右二躰、今般西大寺へ遷座致度段、両寺熟議之上、陳述方同人江及依願候二付、其旨東京本邸へ申出候処、頼意二被為任候由、尤此件二付テハ、素々御関係之義モ不砂候間、承諾被致候義、貴殿占両寺へ御伝達相成度候、及御伝候様、直ヨリ依願書差送間、此段及御通知候也
     十五年四月十七日 桑原越太郎刑
      岡野 篤殿
伸、本章之後、両寺へ御伝達之上ハ、将来不都合無之様、御注意有之度段モ、併テ申被遣候様トノ依頼二御座候也                     
 差出人の桑原越太郎は、当時内山下(現、岡山市北区内山下)にあった池田家事務所につとめていた人物のようです。杉山直から提出された円務院の不動尊・毘沙門天の二躰を西大寺に遷座させたいとの願いについて、東京の池田家本邸に伺いをたてたところ、希望どおりにせよとの回答が得られた、と伝えています。追伸として、将来にわたって両寺の間で問題が生じないように配慮せよ、と最後に記されています。
   東京の池田家より仏像のを西大寺に移す承諾があると、岡野篤は杉山直にその決定を伝えたのでしょう。
Cg-FljqU4AAmZ1u金毘羅大権現

同年六月付で杉山直は西大寺の光阿に対し、次のように知らせています。
 備前国御野郡上出石村円務院二鎮座相成居候 旧金毘羅大権現本地仏卜称シ候毘沙門・不動ノニ躯、今般同院協議之上、其院へ譲受遷坐相成候旨、池田従三位殿へ申達候処、被聞置候トノ事二候、此段及御伝達候也
  明治十五年
   六月  杉山 直
  備前国上道郡西大寺村
  観音院住職
   長田光阿殿
ここには「旧金毘羅大権現本地仏卜称シ候 毘沙門・不動ノニ躯」と記されています。 こうして両仏像が西大寺に安置された翌々年に、光阿はこれをを金毘羅大権現として、開帳して良いかどうかを次のような文書で確認しています。
        奉伺
一、金毘羅大権現祭祀為 荘厳之提燈並幕・祭器等、御紋付相用度奉存候、不苦候哉、此段奉伺候、宜上申可被下候也
       西大寺観音院住職
   明治十七年    長田光阿俳
    桑原越太郎殿
  乙心伊書面之趣、承届候事
   十七年七月廿八日 桑原越太郎俳」
ここでは金毘羅大権現(両仏像)をお祭りするための提灯や幕に池田家の紋章を使っても良いかという聞き方です。これに対して、「内山下 池田家事務所」から円務院で使っていた麻幕・紫絹幕を同院から返上させたので使用するようにとの回答を得ています。これは、西大寺がふたつの仏像を金毘羅大権現として広めていくお墨付きを池田家からもらったことを意味します。こうして、「毘沙門・不動ノニ躯」は、「旧金毘羅大権現本地仏卜称シ」て広められていきます。
 以上から西大寺の不動明王・毘沙門天は、明治3年に藩知事池田章政によって同家祈祷所たる円務院に安置されたものが、明治15年になって西大寺に遷座されたという経緯が確認されます。
img003金毘羅大権現 尾張箸蔵寺
不動明王・毘沙門天は、こんぴらさんのどこに祀られていたの?
 ところで「略縁記」の中で光阿は
  「右仏像金毘羅大権現者 世尊ノ所作卜伝唱ス、又不動明王者宗祖之所作ナリ」
と記していました。ここからは、二躰の内一躰が金毘羅大権現で、残りの一躰が不動明王ということになることを指摘しておきました。
 金毘羅大権現の本地仏については
「本地は不動明王也とぞ」(『一時随筆』)
「本地不動明王之応化」(『翁躯夜話』)
「権現御本地「不動明王也」(「象頭山志調中之鹿書」)
などとされていますから、二躰の内の不動明王が金毘羅大権現の本地仏であったことは確かなようです。しかし、もうひとつの毘沙門天像をもって金毘羅大権現像とする見解には、研究者は次のような疑問の声を投げかかけます。
「役行者の如き像容をした江戸時代の金毘羅大権現像とは、全く姿を異にする」
と。
金毘羅大権現2

 もう一度、こんぴらさんの本堂に祀られていた金毘羅大権現像について見てみましょう。
承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳が綴った『四国遍路日記』に、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録です。
「金毘羅二至ル。(中略)
坂ヲ上テ中門在四天王ヲ安置ス、傍二鐘楼在、門ノ中二役行者ノ堂有リ、坂ノ上二正観音堂在り 是本堂也、九間四面 其奥二金毘羅大権現ノ社在リ。権現ノ在世ノ昔此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り此社壇二安置シ 其後入定シ玉フト云、廟窟ノ跡トテ小山在、人跡ヲ絶ツ。寺主ノ上人予力為二開帳セラル。扨、尊躰ハ法衣長頭襟ニテ?ヲ持シ玉リ。左右二不動 毘沙門ノ像在リ
ここには、金光院住職宥典が特別に開帳してくれ、金毘羅大権現像を拝することができたと書き留めています。その姿は尊躰「法衣長頭襟ニテロヲ持シ玉リ」と表現されるように、役行者の如き像容をしています。そして、最後のに金毘羅大権現の左右には「不動・毘沙門」の二躰が祀られていたと記されます。研究者は
「明治維新後金毘羅を離れ、現在西大寺鎮守堂に安置される不動明王・毘沙門天の両像はまさしくこの二躰にほかならないのであろう」
といいます。 つまり、西大寺の両像は金毘羅大権現像の脇仏であったようです。
それでは、金毘羅大権現像はどこへいったのでしょうか?
金毘羅大権現像については、役行者説と近世初頭の金光院住僧金剛坊説のふたつがあるようです。『古老伝旧記』は金光院住僧の金剛坊(宥盛)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る
慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之
常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
 金剛坊の御影修験之像が観音堂裏堂あると記されています。ここからは、江戸時代に金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、金毘羅別当金剛坊宥盛であった研究者は考えるているようです。ちなみに金剛坊宥盛は、現在は祭神として奥社に祀られています。その木像もひょっとしたら奥社に密かに祀られているのではと私は考えています。
 ここまでで分かったことは、江戸時代には観音堂裏堂には本尊として金毘羅大権現(宥盛)、脇仏として、不動明王と毘沙門天が安置されていたこと、そして脇侍が西大寺に「亡命」してきたようです。そして、本尊の金毘羅大権現は行方不明ということでしょうか。
 
西大寺牛玉所殿
             明治13年に造営された牛玉所殿
金毘羅大権現を祀った西大寺の戦略は?
西大寺の呼び物は「裸祭り」ですが、この裸祭りは正式には「会陽」というそうです。これは正月元旦から十四日間にわたって執行される修正会の結願の行事で、修正会で祈封した牛玉を参詣者に投授するというものです。陰陽二本の神木を、群がる信徒たちが裸体で激しく奪い合うという裸祭りは、研究者に言わせれば「牛玉信仰が特異な行事に発展したもの」のようです。

西大寺8
その西大寺における牛玉信仰の中核が、牛玉所大権現です。
こちらの権現さまは、金毘羅大権現(実際は不動明王・毘沙門天の二部)がやってくるまでは、単独で鎮守堂に祀られていました。今は金毘羅大権現とされるふたつの仏像と並んで祀られています。
7西大寺牛玉所殿
 金毘羅大権現を西大寺が勧進した狙いは何だったのでしょうか?
江戸時代後半以来、喩伽大権現(岡山県倉敷市の楡伽山蓮台寺)は「金毘羅さんと喩迦さんの両参り」を宣伝し、参拝客を集めていました。西大寺はそれに、牛玉所大権現を加えた「三所詣り」を喧伝していたようです。
5西大寺牛玉所殿

それを証明するかのように、竜宮城の姿をした石門を潜って出た吉井川の旧河畔には、次のように+刻まれた常夜燈が建っています。
 (竿正面) 金毘羅大権現
 (竿右面) 喩伽大権現
 (竿左面) 牛玉所大権現
 (竿裏面) 嘉永七年歳在庚戌六月新建焉
 (基礎正面)玉垣講連中
 ここからはこんぴらさんからやってきた金毘羅大権現を勧進することで、『三所詣り』の縁をより強くし、参拝客にアピールしたいという願いが読み取れます
8西大寺牛玉所殿

参考文献 北川 央 岡山市・西大寺鎮守堂安置金毘羅大権現像の履歴         近世金毘羅信仰の展開所収
 

    

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