瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:西大寺律宗

    「鎌倉新仏教」の通説がぐらついているようです。
かつては、鎌倉時代は天台・真言系や南都(奈良)の「旧仏教」(顕密仏教)が民衆の支持を失い、法然や親鸞、道元、日蓮らが唱えた「新仏教」が勢力を拡大してきたとされてきました。しかし、以前見たように四国への「新宗教」の伸張と信者の獲得は、思っていたよりもはるか後であったことが次第に分かってきました。浄土真宗の道場が讃岐で姿を現すのは、16世紀になってからです。近年の研究では、鎌倉時代は「旧仏教」が主流で、「新仏教」は少数派の異端に過ぎなかったと研究者は考えるようになっています。

真言律宗総本山 西大寺|JAFナビ|JAF会員優待施設
奈良・西大寺

 その中で南都・西大寺の叡尊は、旧仏教改革派の旗手として戒律復興を掲げ、弟子らの活躍で帰依者を全国に爆発的にひろげることに成功します。晩年には内紛の続いていた四天王寺の別当に就任して鎮静化をはかるなど、叡尊は後年「真言律宗」の祖と呼ばれるようになります。
 以上を整理しておくと、
①鎌倉時代に登場する新仏教は、開祖達が新たな教義を説くが、未だ「異端的存在」であった。
②そのため教団を組織し、全国的な活動を行えるまでには成長し切れていなかった。
③それに対して、鎌倉時代にめざましい発展を遂げるのが律宗西大寺であった。
つまり、鎌倉時代に最も教勢を拡大していたのが西大寺律宗と云うことになります。
ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会
叡尊

律宗西大寺を率いた叡尊とは何者なのでしょうか?
叡尊は建仁元年(1201)5月、現在の大和郡山市白土町で生まれます。父親は興福寺の学侶・慶玄。7歳で母親が亡くなり、醍醐寺の巫女の家の養子となります。4年後に養母も亡くし、11歳で醍醐寺の叡賢に預けられ、17歳で醍醐寺・恵操を師として出家、東大寺戒壇で受戒し、真言宗の官僧(官僚僧)になります。ここまでは順調に官僧(高級国家公務員)への階段を登ってきます。以後は、高野山などで修行を重ね、嘉禎元年(1235)1月に持斎僧(戒律を守る僧)を募集していた西大寺に入ります。

仏教の戒律とは不淫(セックスをしない)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗みをしない)、不妄(うそをつかない)など僧侶たちの規範のことです。ところが、当時の僧侶は叡山延暦寺のふもとの坂本や南都の東大寺、興福寺の門前に僧侶が住む家が社宅のように並んでいました。そこには僧侶の妻子がおり、坊さんは妻子に見送られて修行に向か姿が当たり前になっていたのです。不淫の戒など無きに等しいありさまでした。

叡尊は僧たちを魔道から救うには戒律を厳しくする以外にない、と戒律復興運動を決意します。
覚盛(かくじょう)(1194〜1249)らと出会い、同志4人は嘉禎2年(1236)9月、東大寺法華堂で仏・菩薩から直接に受戒して戒律護持を誓う「自誓受戒」を挙行し、官僧を離脱します。これが叡尊のターニングポイントになるようです。官僧であったかどうかは重要でした。というのも、官僧たちには、死穢(しえ)などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは以前にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な一歩を踏み出すことになります。

創建1250年記念「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」 | 日本学術研究支援協会

 もともとの西大寺は奈良時代、仏教第一の政治を進めた称徳天皇が建立した寺院です。
しかし、創建当時には百を超えてあった堂宇が平安中期以降は数棟になり荒廃が進んでいました。叡尊が活動理念とした「興法利生」は、釈迦本来の仏教に立ち返り人々を救うことです。叡尊は「妻帯をしない、家族を持たない、財産を求めない」といった戒律を厳格に守ります。その清廉潔白な人柄に弟子が集まり、西大寺の再建が軌道に乗るようになります。
 仁治元年(1240)には忍性(1217〜1303)が弟子に加わってハンセン病患者や身体障害者、生活に困窮した物乞いら「非人」と呼ばれた社会的弱者の救済に乗り出します。
叡尊らは戒律復興運動、弱者救済、さらに庶民の働き口となる勧進事業を精力的に展開します。
そして、陸上や河川、海上の交通路の整備、耕地開発を進めます。一方、鎌倉に下った忍性の社会活動は、鎌倉幕府の要人の注目を集め、帰依者も増えます。こうして、叡尊は幕府から懇請されて鎌倉に出向き、帰依者は支配層から最下層まで貴賤の別なく広がるようになります。また、亀山上皇に授戒するなど朝廷からも信頼を得ます。叡尊は生涯で9万7710人に菩薩戒を授け、西大寺が直接、住持を任命した寺は全国に262寺、末寺総数は1500寺に上ったとされ、亀山上皇から興正菩薩の貴号が贈られます。

中世叡尊教団の全国的展開 | 剛次, 松尾 |本 | 通販 | Amazon

 叡尊教団の社会救済活動の一つに港の管理維持・河海支配がありました。
かつては、遣唐使派遣停止以後の影響を「国風文化」形成の要因になったなどと教科書には書かれていました。しかし、これは海外取引の「過小評価」だったようです。その後の研究で、日宋・日元・日明貿易の果たした役割は、考えられた以上に大きかったことが分かってきました。遣唐使廃止後も、それまで以上に、人・物・情報の国際交流は想像以上に進んでいたのです。
韓国新安沖の海底で発見された沈没船の積荷の中国陶磁器
新安沈没船から引き上げられた中国陶器
 例えば、1976年に韓国新安沖で引き上げられた新安沈没船を見てみると次のようなことが分かります。
①船は、全長28m、幅6,6m、重量約200屯
②元亨3(1323)年に中国(寧波)から日本に向かう途中で、新安沖で沈没
③積荷は、2万点の白磁・青磁、28トン、800万枚もの中国銅銭
④積荷の木札の墨書銘から、京都東福寺がチャーターした貿易船だった
こうした荷物を積んだ貿易船4艘ほどが船団を組んで貿易に従事し、鎌倉の和賀江津、六浦津などに入港していたのです。
 今度は足利尊氏が律宗西大寺の、鎌倉の極楽寺に対して出した文書を見ておきましょう。
飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事、元の如く、御管領あり、嶋築興行といい、殺
生禁断といい、厳密沙汰を致さるべし、殊に禁断事おいては、天下安全、寿算長遠のためなり、忍
性菩薩の例に任せて、其沙汰あるべく候、恐々謹言
ごくらく噸和五年二月十一日        尊氏
極楽寺長老                     
                                     『鎌倉市史 史料編第3』426号
この史料は、足利尊氏が、貞和五(1349)年2月11日付で、鎌倉の極楽寺に対して、「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」に関する支配権を今まで通りに認めたことを示しています。ここからは次のようなことが分かります。
①極楽寺は、飯島(和賀江津)の敷地で、着岸船から関米(一石につき一升、約1%)を取る権利を認められていたこと
②それは「嶋築興行」(飯島の維持・管理の代償)でもあったこと
③同時に、前浜の殺生禁断権が認められていたこと
④「忍性菩薩の例に任せて・・・」とあるので、これらの権利は忍性以来のことだったこと

①の関米(一石につき一升、約1%)については、新安沈没船の積荷は「2万点の白磁・青磁、800万枚の中国銭」でしたから、極楽寺の取り分1%は、200点の白磁・青磁、8万枚の銭ということになります。これが1船分の取り分です。これらが唐物の市で販売され、極楽寺の収益となります。
鎌倉の港
鎌倉の和賀江島
どのようにして、極楽寺は関税徴収権を手に入れたのでしょうか。
和賀江島は飯島ともいい、材木座海岸の、現光明寺の前浜あたりに突き出て造成された人工の岸壁です。岩を埋め立て、江を作ったとされます。今は、千潮時に黒々とした丸石が現れるだけで、これが鎌倉時代の港跡とは思えません。それまでは鎌倉の由比ヶ浜は遠浅ですので、中国船などの大型船は着岸できません。そこで武蔵国の六油津に入港していたようです。ところが、貞永元(1232)年7月12日に、念仏僧の往阿弥陀仏は、「舟船着岸の煩いをなくすために、和賀江島を築きたい」(『吾妻鏡』同日条)と、鎌倉幕府に申請します。時の執権北条泰時は、これを喜んで許可し、支援します。こうして和賀江津の工事は始まります。しかし、土砂の堆積などにより、その維持は難しかったようです。そこで、技術的な指導を含めて関わったのが忍性を中心とした極楽寺、つまり律宗傘下の技術者集団です。この成功報酬が、先ほど見た「着岸船積荷1%の関米(関税)ということになるようです。
 これに対して日蓮は『聖愚間答抄』で、次のように忍性を批判しています。
忍性 -救済に捧げた生涯-』展 レポート【奈良国立博物館 】│寺社参拝 法輪堂 拝観日記
鎌倉を拠点に社会活動を行った忍性

極楽寺良観上人(忍性)は上一人より下万民に至て生身の如来と是を仰ぎ奉る。彼の行儀を見るに実に以て爾也.飯島の津にて六浦の関米を取ては、諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取ては、諸河に橋を渡す。(『昭和定本日蓮聖人遺文』第1巻 353P)
 
意訳変換しておくと
(鎌倉)極楽寺の良観上人(忍性)は、多くの人から生身の如来と尊敬されている。彼のやり方を見ると、まことにおかしい。飯島の津や六浦で関税を取ては、諸国の道を作り、全国七道に関所を構えて、通行税を取り立てる。その銭で、諸河に橋を渡す。
ここからは、次のようなことが分かります。
①飯島津で船から徴収した米は、諸国の道の造成にも使われていたこと。
②作った道に関所を作って、通行税を徴収していたこと
③さらに、それを資金に橋を架けていたこと
 飯島の関米徴収は、現在の光明寺のところにあった末寺万福寺が担当していたようです。また、鎌倉の化粧坂には鎌倉時代には燈炉堂がありました。そこでは夜に火が灯され海上を進む船の目印として灯台的役割を果たすようになります。これに関わって、唐招提寺系の律僧琳海(りんかい)が建治元(1251)年に開いた大覚律寺は、兵庫県尼崎にあった河尻燈炉堂の管理をまかされていました。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉幕府からも鎌倉の海上交通管理を任されていた忍性が、鎌倉化粧坂の燈炉堂の管理も鎌倉末期には任されていたこと。
②全国の主要港に建立された律宗寺院は、港湾管理センターとしての役割を果たしていたこと。
 先ほど見た足利尊氏の文書には「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」とあって、前浜での殺生禁断権を認められています。これは「前浜での全面漁業禁止」ではありません。浜での一般人の禁漁と、漁民に対しては 一定の金品を寺院に寄附することで、漁を認める権利です。つまり極楽寺は漁民に対しての漁場管理権を握ったことになります。これは以前にお話しした叡尊が弘安9(1286)年に宇治橋を修造した時に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められた「漁業権」と同じ扱いです。
 現在、千潮時に残る丸石の多くは、相模川・酒匂川および伊豆海岸から筏などにで運ばれてきたものとされています。
研究者は、そうした石を採取した川などの通行管理権を握っていた可能性が高いとします。
 ここでは次の事を押さえておきます。
①鎌倉の内港和賀江津を叡尊教団の関東における拠点寺院・極楽寺が握っていた
②六浦津は、金沢称名寺が管理責任を持っていました。
こうして律宗西大寺教団は、中国との交易利益を求めて、瀬戸内海に進出してきます。その際に尾道や博多などには、港湾管理センターとしての西大寺末寺が建立されます。そして、そこには律宗独自のモニュメントして、十三重石塔や巨大五輪塔などが建立されます。瀬戸内海沿岸に残る巨大石造物は、このような西大寺律宗の教線拡大の動きの中で押さえていく必要があるようです。

今日はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」

前回は、西大寺律宗が奈良の般若寺を末寺化するプロセスを次のようにまとめました
①西大寺律宗中興の祖・叡尊にとって、十三重石塔は信仰の中心的な存在で、伽藍造営の際には本堂や本尊よりも先に造立された。
②そのため新たに末寺として中興された寺院には、大きな十三重石塔や多重石塔などの石造物がまず姿を見せた。
③これらの石造物は、南宋から東大寺再建時に南宋からやってきた伊派石工集団の手による「新製品」であった。
④西大寺律宗の全国展開に、伊派石工集団が深く関わっている。
今回は尾道の浄土寺を西大寺が、どのように末寺化したかを見ていくことにします。テキストは、辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」です。

1400年の歴史を後世に。浄土寺完全修復に向けて<第1弾>(小林暢善(国宝浄土寺住職) 2019/10/21 公開) - クラウドファンディング  READYFOR
尾道の浄土寺
浄土寺は、国宝の本堂など見所の多い寺で、尾道観光には欠かせない観光スポットになっています。この寺の創建は13世紀中頃とされ、尾道の「光阿弥陀仏」によって、弥陀三尊像を本尊とする浄土堂・五重塔・多宝塔・地蔵堂・鐘楼が建立され、真言宗高野山派寺院として創建されます。その伽藍については「當浦邑老光阿彌陀佛或興立本堂、加古佛之修餝或始建堂塔、造立數躰尊像」と記しています。しかし、13世紀末には退転していたようです。
 叡尊の弟子定證は、1298(永仁六)年に浄土寺にやってきて曼荼羅堂に居住するようになります。
『定證起請文』には、当時の浄土寺の住持もなく、荒れ果てた姿を次のように記します。
當寺内本自有堂閣有鐘楼有東西之塔婆、無僭坊無依怙無興隆之住侶、唯爲爲青苔明月之閑地、空聞晨鐘夕梵之音聲、此地爲躰也」
 
定證は西大寺の指示を受けて尾道にやってきたのでしょう。翌年には、すぐに浄土寺の再興にとりかかります。
定證の再興は「定證勸進、十方檀那造營之。」
壇那衆は「晋雖勸十方法界、多是當、浦檀那之力也。」
とあるので、尾道浦の壇那衆をその中心として、金堂・食堂・僧坊・厨舎などを勧進・造営していったことが分かります。金堂にはその本尊として、大和長谷寺の観音菩薩像を模した金色観音菩薩像を安置します。その足下には『書記知識奉加之目録』が納められ、さらに、「各牽寸鐡尺木之結縁、爲預千幅輪文之引導也」とあるので、結縁者が観音により極楽へ引導されることを説いたようです。
 1306(嘉元四)年9月上旬に、浄土寺金堂は完成します。
9月29日に、定證の招きで西大寺第二世長老以下60余人の僧侶が尾道に到着しています。さらに、山陽、山陰より律僧60余人も集まってきます。そして、10月1日から13日間に渡って、金堂上梁・曼荼羅供養が行われたことが「日々講法時々説戒無有間断」と記されています。そして、近隣地より幾千万の道俗結縁者が供養会に参集したともされています。そして、十月になると定證に、太田庄預所和泉法眼淵信より別当職が譲与されます。こうして浄土寺は、西大寺末寺となります。これは前回に見た奈良の般若寺の末寺化プロセスを踏襲するものです。
 ちなみに中興直後の1325(正中2)年に、浄土寺は焼失してしまいます。そのため西大寺律宗時代の遺物は、石造物としてしか残っていないようです。現存の国宝の本堂・多宝塔、重要文化財の阿弥陀堂は、有徳人道蓮・道性夫妻によってその後に復興されたものになります。西大寺の瀬戸内海沿岸での活動は、目に見えた形では残っていません。石造物が「痕跡」として残るのみです。
浄土寺境内に残された石造物を見ておきましょう。

 
  浄土寺納経塔(重文) 弘安元年(1278)花崗岩製高:2.8m)
銘文:(塔身)
「弘安元年戊寅十月十四日孝子吉近敬白 大工形部安光」 

定証の浄土寺中興以前に伽藍の修繕に尽力した光阿弥陀仏の子・光阿吉近が父の供養塔として建立したものです。1964年に移動させた時に、塔内から法華経・香の包・石塔の由来を墨書した木札が、金銀箔を押した竹筒に納められて出てきています。塔身・露盤・請花の形態は古調で、全体的に重厚豪快な鎌倉時代の逸品とされます。
浄土寺(じょうどじ)宝篋印塔(越智式)
  浄土寺宝篋印塔(越智式:重文)貞和4年(1348)総高:2.92m)
逆修と光考らの冥福を祈り、功徳を積むのために建立されたものです。塔身と基礎の間にある請花・反華の二重蓮華座の基台は備後南部・伊予地域の宝篋印塔に見られる特徴のようです。

「基壇・基礎には多めの段数が、また基礎上部の曲線の集合・椀のような輪郭をもつ格狭間が装飾性を豊かにしている。南北朝期を代表する塔。」

と研究者は評します。
 光明坊(こうみょうぼう)十三重石塔
  瀬戸田町光明坊十三重塔 永仁二年(1294)、総高:8.14m)
銘文:(基礎背面)「釈迦如来遺法 二千二百二二(四)十参年奉造立之 永仁二年甲午七月日」 
基壇に「石工心阿」
中世の瀬戸田は中国や朝鮮などとの交易を行っていて、芸予諸島の中心的交易港として栄えていました。戦国大名に成長する小早川氏は、この地を制して後に急速に成長して行きます。その瀬戸田にも西大寺の末寺があったことが、この十三重石塔からも分かります。研究者は次のように評します。
笠石は肉質が厚く力強い反りを示すが、上にいくほど厚みは減少している。遠近法を取り入れてより高く、重厚さを感じさせる緻密な計算がなされている。

光明坊十三重塔を作成した「石工心阿」は、次のような寺の石造物にも名前を残しています。
①三原市の宗光寺七重塔
②兵庫県朝来郡の鷲原寺不動尊
③神奈川県箱根山中の宝篋印塔
④神奈川県鎌倉市の安養院宝篋印塔
鎌倉のイエズス会、西大寺教団 - 紀行歴史遊学
三原市の宗光寺七重塔
「心阿」という人物については、よく分かりません。しかし、作品が全国に散らばっているところをみると、各地で活動を行っていたことが分かります。
 一方寺伝では、光明坊十三重石塔は奈良西大寺の僧叡尊の弟子忍性が勧進したと伝えられます。
そして、心阿作の石造物が残る④安養院・③鷲原寺や瀬戸田の光明坊には、忍性の布教活動の跡がたどれるという共通点があります。ここからは忍性と心阿がセットで、布教活動を行っていたことが推測できます。叡尊の教えを拡めるべく各地に赴いた弟子たちには、こうした石工集団が随行していたと研究者は考えています。
 光明坊十三重塔の「石工心阿」という銘文から、高い技術を備えた伊派石工が尾道周辺に先進技術をもたらし、後にこの地に定着していったことが推測できます。浄土寺を再興した定証にも、彼に従う伊派石工がいたはずです。彼らが尾道に定着し、求めに応じて石造物制作を行うようになった。それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていったとしておきます。
国分寺 讃岐国名勝図会
讃岐国分寺(讃岐国名勝図会)
  西大寺の勧進活動と讃岐国分寺の関係について触れておきます。
13世紀末から14世紀初頭は、元寇の元軍撃退祈祷への「成功報酬」として幕府が、寺社建立を支援保護した時期であることは以前にお話ししました。そのため各地で寺社建立が進められます。
 このような中で叡尊の後継者となった信空・忍性は朝廷の信任が厚く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられます。こうして西大寺は、各地の国分寺再興に乗り出していきます。そして、奈良の般若寺や尾道を末寺化した手法で、国分寺を末寺として教派の拡大に努めます。
 江戸時代中期萩藩への書状である『院長寺社出来』長府国分寺の項には、「亀山院(鎌倉時代末期)が諸国国分寺19力寺を以って西大寺に寄付」と記しています。別本の末寺帳には、1391(明徳2)年までに讃岐、長門はじめ8カ国の国分寺は、西大寺の末寺であったとされます。
 1702(元禄15)年完成の『本朝高僧伝』第正十九「信空伝」には、鎌倉最末期に後宇多院は、西大寺第二代長老信空からの受戒を謝して、十余州国分寺を西大寺子院としたと記されています。この記事は、日本全国の国分寺が西大寺の管掌下におかれたことを意味しており、ホンマかいなとすぐには信じられません。しかし、鎌倉時代終末には、讃岐国分寺など19カ寺が実質的に西大寺の末寺であったことは間違いないと研究者は考えているようです。
 どちらにしてもここで確認しておきたいのは、元寇後の14世紀初頭前後に行われる讃岐国分寺再興は西大寺の勧進で行われたことです。そして、その際には優れた技術を持った石工が西大寺僧侶とともにやってきて石造物を造立したことが考えられます。こういう視点で白峰寺の十三重石塔(東塔)や高瀬の「石の塔」を見る必要があるようです。ちなみに、白峯寺は国分寺の奥の院とされていました。その関係で、西大寺による国分寺再興の動きの中で、白峰寺の別院に造立されたとも考えられます。

最後に叡尊と十三重石塔との関係をまとめておきます
①西大寺中興の叡尊は、信仰の中心として多重石塔を勧進した。
②そして、百人を超える律僧を参集しうる勧進集団を形成した。
④西大寺には叡尊を頂点とする勧進集団が構成され、各地の国分寺再建を行い、末寺化するなどして急速に教勢を拡大した。
⑤そのため西大寺末寺には、十三重石塔などの当時最先端技術で作られた石造物が造立された。
⑥この石造物を作ったのは西大寺僧に同行した伊派石工たちである。
⑦尾道の浄土寺や瀬戸田の光明院の石造物も西大寺僧侶に従った伊派石工の手によるものであった。
⑧彼らの中には石材が豊富な尾道に定住し、花崗岩製の優れた石造物を作り続ける者も現れた。
④それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていった。

それでは西大寺の末寺が14世紀後半以後は増えず、西大寺の教勢時代が下火になっていくのは、どうしてでしょうか。
この背景には、西大寺が大荘園経営を行なわず、光明真言・勧進活動による寺院経営を行なっていたことがあるようです。大きく強力な荘園を持たなかった西大寺では、高野山のように荘園内で僧侶の再生産は困難で、勧進聖集団が継続して育ったなかったからと研究者は考えているようです。詳しくは、また別の機会に。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」

白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峰寺古図(東西二つの十三重石塔が描かれている)

白峰寺の十三重石塔について以前にお話ししました。十三重石塔は、奈良の西大寺律宗の布教活動と深い関係があると研究者は考えるようになっているようです。

P1150655
白峰寺の十三重石塔

どうして西大寺律宗は、石塔造立を重視したのでしょうか。それを解く鍵は、西大寺中興の祖とされる叡尊にあります。叡尊にとっての多重層塔の意味は何だったのかを今回は見ていくことにします。テキストは「辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」

叡尊上人
西大寺中興の祖・叡尊上人
叡尊上人の伝記・作善集には、次の2つがあります。
①『金剛佛子叡尊感身学正記』
②『西大寺勅謚興正菩薩行實年譜』
西大寺叡尊傳記集成[image1]

ここに記された多重層塔の造立勧進の記事を研究者は見ていきます。
「暦仁一(1238)年」八月から九月
①又流記日 四王堂八角塔塞韆講郎佛舎利可爲當殿奪乏旨顯然。故告當寺五師慈心爲彼五師沙汰。以二九月上旬。立八角五重石塔。②郎奉納予所持佛舎利一粒一畢。(中略)
從同月卅日。一寺男女奉爲供養舎利。受持八齋戒。③可爲毎月勤行

ここには次のような事が記されています。
①四王堂の中心として本尊舎利を納めていた木造八角五重塔を八角五重石塔に造りかえた、
②そして叡尊の所持する舎利を一粒納入し、復元した
③四王堂本尊舎利塔再興後は、毎月舎利供養がおこなわれた
ここからは西大寺の八角五重石塔は「当殿本尊」である仏舎利を納入する舎利塔として造られていたことが分かります。
さらに『行実年譜』の暦仁一年十月には、次のように記されています。
廿八日結界西妻而爲弘律之箋醐覺葎師羯摩菩嗜相講翌日始行二四分衆法布晦

十月二十八日に西大寺に覚盛律師をむかえて、弘律の道場としています。再興された八角五重石塔は、単に四王堂本尊の舎利を納める舎利塔としてだけではなく、弘律道場の中心的存在を示すシンボルタワーとしての意味を持つものでした。言いかえれば、舎利塔としてだけではなく、釈迦の仏体そのものを示すものとして考えられていたと研究者は指摘します。
宇治の十三重石塔
宇治の浮島十三重塔
『行実年譜』「弘安九年丙戌」の条に出てくる宇治の浮島十三重塔(1286年)を見ておきましょう。
この塔は叡尊が宇治川の大橋再建の際に建立した日本最大の石造物で、次のような銘があります。
菩薩八十六歳。宇治雨寳山橋并(A)宇治橋修造己成。啓建落成佛事。(中略)
而表五智十三會深義。(B)以造五丈十三層石塔。建之嶋上。
(A)宇治橋修造にさいして、梵網経講読に集まる聴衆の中の漁民が発心して、舟網など殺生具をなげだした。その供養として川中に小島を築き、殺生具を埋めた。
(B)石塔造立に続いて、漁人の発心によって築かれた島上に十三重石塔を造立した。
ここには宇治に建てられた十三重石塔は「五智十三会の深義」を表わすものであったことが記されています。ここからこの石塔は、宇治川の漁業禁止と宇治橋供養のため建立され、塔の下には漁具などが埋められたと伝えられます。
この石塔について『行実年譜』には、次のような願いがこめられていると記されています。
意欲救水陸有情也。所謂河水浮塔影。遠流滄海。魚鼈自結善縁。清風觸支提。廣及山野。鳥獸又冤惡報。其爲利益也。不可測也。印而教漁人。曝布爲活業。又時有龍神。從河而出來。從菩薩親受戒法。歡喜遂去亦不見矣。

意訳変換しておくと
水に映える塔影が広く世界隅々までおよび、人間はもとより生きとし生けるものすべてにわたるもので、漁民も含まれる。さらには竜神にさえも、その功徳をさずけるものである。


そして十三重石塔銘文には、次のように刻まれています

於橋南起石塔十三重於河上奉安佛舎利并數巻之妙曲載在副紙令納衆庶人等與善之名字須下預巨益法界軆性之智形上

ここからは次のようなことが分かります。
①十三重塔の塔内には、金銅製・水晶製五輪塔形舎利塔数個と功徳大なる経典・法花経などを納入されたこと
②併せて舎利を納め「法界軆性之智形」として、釈迦の仏体として造立されたものであること
③「衆庶人等與善之名字」を記した結衆結縁名帳も納入したこと
これは名を連ねた結縁者を極楽に導びこうとするものとされます。
それでは、石塔造立を行なうことで得られる功徳とは何だったのでしょうか
それについてて『覚禅抄』には、次のように記されています。
寳積經云。作石塔人。得七種功徳。一千歳生瑠璃宮殿。壽命長遠。三得那羅延力。四金剛不壊身。五自在身。六得三明六通。七生彌勒四十九重宮夢。

塔の造立者に授けられる功徳が7つ挙げられ、弥勒四十九重宮へ導びかれると説いています。宇治浮島の十三重石塔に納められた名帳に名を連ねた人は、その功徳(勧進)によって、弥勒浄土へ導びかれると説かれたのです。
 
 以上から叡尊上人と十三重石塔には、次のような関係があると研究者は指摘します。
①五智十三会の深義を表わし、仏舎利を納入することで、釈迦の仏体そのものとなっていること
②塔は弘律道場の中心で、その存在が永遠の弘律道場となるには必要であったこと。
③造塔功徳によって、衆生を弥勒浄土への道筋を示すこと
このように十三重石塔は、信者を弥勒浄土へ導くためのシンボルタワーとして不可欠なものだったようです。上田さち子氏は「叡尊の宗教活動は。こうした点でも、融通念仏、時衆、真宗仏光寺派と共通するものが認められる。」と評します。
以上を整理しておきます。
①叡尊は光明真言を、融通念仏的より簡単に功徳が受けられるようにした
②それは貴族や一部の僧侶たちだけのものから光明真言を社会の底辺まで広げることになった。
③その根本思想は、時衆などの阿弥陀如来による往生ではなく、釈迦如来における往生であった。
④十三重石塔銘文中の「釈迦如来、当来導師弥勒如来」が、そのことを物語っている。
 
西大寺律宗は、末寺をどのように増やして行ったのでしょうか?
  1391(明徳二)年の西大寺『諸国末寺帳』には、数多くの寺院が末寺として記されています。しかし、これらの寺は最初から西大寺末寺であったのではないようです。その多くは叡尊と、その死後に弟子たちによって西大寺末寺として組みこまれたものです。
それでは西大寺は、どのようにして末寺を増やして行ったのでしょうか。それと石塔造立とはどんな関係にあったのでしょうか。
叡尊の布教勧化活動を考える際に、研究者が取り上げるのが奈良の般若寺です。
般若寺 | 子供とお出かけ情報「いこーよ」
般若寺の十三重石塔(宋人石工の伊行末作)

般若寺の十三重石塔と本堂と本尊の出現時期を見てみます。
十三重石塔は、石塔内に仏舎利、経巻が納入されていて、経箱には「建長五(1253)年」の墨書銘が残されています。ここから塔納入時の年代が分かります。

本尊については『感身学正記』に、次のように記されています。

建長七年乙卯 當年春比。課佛子善慶法橋。造始般若寺文殊御首楠木。自七月十七日迄九月十一日。首尾十八日。
1255年の春に、仏師善慶法橋に命じて、般若寺のために文殊菩薩像の首を楠木で作らせた。
奈良般若寺
般若寺本堂と十三重石塔
本堂については、次のように記されています。
弘長元年辛酉二月廿五日。文殊奉渡般若寺。御堂半作之間。構彼厨子。奉安置堂乾角。
1261年 製作開始から六年後に文殊菩薩が般若寺に渡され、本堂に厨子が作られ、そこに安置した。
以上からそれぞれが出現した年は以下の通りになります。
1253年 十三重塔造立
1255年 般若寺本尊の文殊菩薩像製作
1261年 般若寺本堂建立
ここからは十三重石塔は、文殊菩薩像製作開始より2年前、本堂完成より8年前には般若寺境内に造立されていたことになります。何もない伽藍予定地に、まずは十三重石塔が建てられたのです。これは現在の私たち感覚からすると、奇異にも感じます。本尊や本堂が建てられる前に、十三重石塔が建てられているのですから・・・
「伊派の石工」
      南宋からやってきた石工集団・伊派の系譜
 般若寺の十三重石塔を製作したのが伊行末(いのすえゆき)とされます。
伊行末は、明州(淅江省寧波)の出身で、重源が東大寺大仏殿再興工事のために招聘した、陳和卿(ちんなけい)などととともに来朝し、石段、四面回廊、諸堂の垣塌の修復に携わっています。正元二年(1260)7月11日に行末はなくなりますが、その後は嫡男の伊行吉(ゆきよし)をはじめとして、末吉(すえよし)・末行(すえゆき)・行氏(ゆきうじ)・行元(ゆきもと)・行恒(ゆきつね)・行長(ゆきなが)といった石工たちが伊(猪・井)姓を名乗り、伊派石工集団を形成し優れた作品を残しています。伊派石工集団の菩提寺だったのが般若寺でもあるようです。般若寺】南都を焼き打ちの平重衡が眠る奈良のお寺
  般若寺の笠塔婆(伊行末の息子・伊行吉が父母のために寄進)

十三重石塔建立の意義とは、何なのでしょうか?
『覚禅抄』の「造塔巻」建塔萬處事には、次のように記されています。
諸經要集三云。僣祗律云。初起僣伽藍時。先觀度地。將作塔 處不得在南。不得在西。應得在東。應在北。

ここには伽藍を建てる時には、まず塔造立から始めることとされています。般若寺中興も、まずは宋人石工の伊行末によって十三重石塔が造立されたようです。
1267(文永四)年に、般若寺は僧138人の読経の中で整然と開眼供養が行なわれ、再興されます。その様子が次のように記されています。
抑當寺者。去弘長年中。奉安讒尊像以來、雖不經幾年序。自然兩三輩施主出來。造添佛殿僧坊鐘樓食堂等。殆可謂複本願之昔。數宇之造營不求自成。是偏大聖文殊善巧房便與。願主上人良恵无想之意樂計會之所致也。

このように往古の姿に復興させた後、次のように管理されます。
印爲西大寺之末寺。可令管領一之由。上人競望之間。遣同法比丘信空一令住。

ここからは般若寺が西大寺末寺に置かれ、叡尊の弟子信空が責任者として管理したことが分かります。

西大寺の叡尊による般若寺復興事業の手法を整理しておきます
①叡尊と伊派石工により、十三重石塔が造立され、弘律道場とされた。
②その後に文殊菩薩像を造立し、その礎を築いた
③復興が終ると、大量の僧を動員して大イヴェントを開催して、西大寺の勢力の大きさを示し、末寺に組みこんだ
④さらに弟子信空を送り込み、 西大寺末寺の固定化をはかった。
④弟子信空は、叡尊亡き後に西大寺第二代長老となる人物である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六

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