「鎌倉新仏教」の通説がぐらついているようです。
かつては、鎌倉時代は天台・真言系や南都(奈良)の「旧仏教」(顕密仏教)が民衆の支持を失い、法然や親鸞、道元、日蓮らが唱えた「新仏教」が勢力を拡大してきたとされてきました。しかし、以前見たように四国への「新宗教」の伸張と信者の獲得は、思っていたよりもはるか後であったことが次第に分かってきました。浄土真宗の道場が讃岐で姿を現すのは、16世紀になってからです。近年の研究では、鎌倉時代は「旧仏教」が主流で、「新仏教」は少数派の異端に過ぎなかったと研究者は考えるようになっています。
かつては、鎌倉時代は天台・真言系や南都(奈良)の「旧仏教」(顕密仏教)が民衆の支持を失い、法然や親鸞、道元、日蓮らが唱えた「新仏教」が勢力を拡大してきたとされてきました。しかし、以前見たように四国への「新宗教」の伸張と信者の獲得は、思っていたよりもはるか後であったことが次第に分かってきました。浄土真宗の道場が讃岐で姿を現すのは、16世紀になってからです。近年の研究では、鎌倉時代は「旧仏教」が主流で、「新仏教」は少数派の異端に過ぎなかったと研究者は考えるようになっています。
奈良・西大寺
その中で南都・西大寺の叡尊は、旧仏教改革派の旗手として戒律復興を掲げ、弟子らの活躍で帰依者を全国に爆発的にひろげることに成功します。晩年には内紛の続いていた四天王寺の別当に就任して鎮静化をはかるなど、叡尊は後年「真言律宗」の祖と呼ばれるようになります。
以上を整理しておくと、
①鎌倉時代に登場する新仏教は、開祖達が新たな教義を説くが、未だ「異端的存在」であった。
②そのため教団を組織し、全国的な活動を行えるまでには成長し切れていなかった。
③それに対して、鎌倉時代にめざましい発展を遂げるのが律宗西大寺であった。
つまり、鎌倉時代に最も教勢を拡大していたのが西大寺律宗と云うことになります。
つまり、鎌倉時代に最も教勢を拡大していたのが西大寺律宗と云うことになります。
叡尊
律宗西大寺を率いた叡尊とは何者なのでしょうか?
叡尊は建仁元年(1201)5月、現在の大和郡山市白土町で生まれます。父親は興福寺の学侶・慶玄。7歳で母親が亡くなり、醍醐寺の巫女の家の養子となります。4年後に養母も亡くし、11歳で醍醐寺の叡賢に預けられ、17歳で醍醐寺・恵操を師として出家、東大寺戒壇で受戒し、真言宗の官僧(官僚僧)になります。ここまでは順調に官僧(高級国家公務員)への階段を登ってきます。以後は、高野山などで修行を重ね、嘉禎元年(1235)1月に持斎僧(戒律を守る僧)を募集していた西大寺に入ります。
仏教の戒律とは不淫(セックスをしない)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗みをしない)、不妄(うそをつかない)など僧侶たちの規範のことです。ところが、当時の僧侶は叡山延暦寺のふもとの坂本や南都の東大寺、興福寺の門前に僧侶が住む家が社宅のように並んでいました。そこには僧侶の妻子がおり、坊さんは妻子に見送られて修行に向か姿が当たり前になっていたのです。不淫の戒など無きに等しいありさまでした。
叡尊は僧たちを魔道から救うには戒律を厳しくする以外にない、と戒律復興運動を決意します。
覚盛(かくじょう)(1194〜1249)らと出会い、同志4人は嘉禎2年(1236)9月、東大寺法華堂で仏・菩薩から直接に受戒して戒律護持を誓う「自誓受戒」を挙行し、官僧を離脱します。これが叡尊のターニングポイントになるようです。官僧であったかどうかは重要でした。というのも、官僧たちには、死穢(しえ)などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは以前にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な一歩を踏み出すことになります。
もともとの西大寺は奈良時代、仏教第一の政治を進めた称徳天皇が建立した寺院です。
しかし、創建当時には百を超えてあった堂宇が平安中期以降は数棟になり荒廃が進んでいました。叡尊が活動理念とした「興法利生」は、釈迦本来の仏教に立ち返り人々を救うことです。叡尊は「妻帯をしない、家族を持たない、財産を求めない」といった戒律を厳格に守ります。その清廉潔白な人柄に弟子が集まり、西大寺の再建が軌道に乗るようになります。
仁治元年(1240)には忍性(1217〜1303)が弟子に加わってハンセン病患者や身体障害者、生活に困窮した物乞いら「非人」と呼ばれた社会的弱者の救済に乗り出します。
叡尊らは戒律復興運動、弱者救済、さらに庶民の働き口となる勧進事業を精力的に展開します。
そして、陸上や河川、海上の交通路の整備、耕地開発を進めます。一方、鎌倉に下った忍性の社会活動は、鎌倉幕府の要人の注目を集め、帰依者も増えます。こうして、叡尊は幕府から懇請されて鎌倉に出向き、帰依者は支配層から最下層まで貴賤の別なく広がるようになります。また、亀山上皇に授戒するなど朝廷からも信頼を得ます。叡尊は生涯で9万7710人に菩薩戒を授け、西大寺が直接、住持を任命した寺は全国に262寺、末寺総数は1500寺に上ったとされ、亀山上皇から興正菩薩の貴号が贈られます。
そして、陸上や河川、海上の交通路の整備、耕地開発を進めます。一方、鎌倉に下った忍性の社会活動は、鎌倉幕府の要人の注目を集め、帰依者も増えます。こうして、叡尊は幕府から懇請されて鎌倉に出向き、帰依者は支配層から最下層まで貴賤の別なく広がるようになります。また、亀山上皇に授戒するなど朝廷からも信頼を得ます。叡尊は生涯で9万7710人に菩薩戒を授け、西大寺が直接、住持を任命した寺は全国に262寺、末寺総数は1500寺に上ったとされ、亀山上皇から興正菩薩の貴号が贈られます。
叡尊教団の社会救済活動の一つに港の管理維持・河海支配がありました。
かつては、遣唐使派遣停止以後の影響を「国風文化」形成の要因になったなどと教科書には書かれていました。しかし、これは海外取引の「過小評価」だったようです。その後の研究で、日宋・日元・日明貿易の果たした役割は、考えられた以上に大きかったことが分かってきました。遣唐使廃止後も、それまで以上に、人・物・情報の国際交流は想像以上に進んでいたのです。
新安沈没船から引き上げられた中国陶器
例えば、1976年に韓国新安沖で引き上げられた新安沈没船を見てみると次のようなことが分かります。
①船は、全長28m、幅6,6m、重量約200屯②元亨3(1323)年に中国(寧波)から日本に向かう途中で、新安沖で沈没③積荷は、2万点の白磁・青磁、28トン、800万枚もの中国銅銭④積荷の木札の墨書銘から、京都東福寺がチャーターした貿易船だった
こうした荷物を積んだ貿易船4艘ほどが船団を組んで貿易に従事し、鎌倉の和賀江津、六浦津などに入港していたのです。
今度は足利尊氏が律宗西大寺の、鎌倉の極楽寺に対して出した文書を見ておきましょう。
飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事、元の如く、御管領あり、嶋築興行といい、殺生禁断といい、厳密沙汰を致さるべし、殊に禁断事おいては、天下安全、寿算長遠のためなり、忍性菩薩の例に任せて、其沙汰あるべく候、恐々謹言ごくらく噸和五年二月十一日 尊氏極楽寺長老『鎌倉市史 史料編第3』426号
この史料は、足利尊氏が、貞和五(1349)年2月11日付で、鎌倉の極楽寺に対して、「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」に関する支配権を今まで通りに認めたことを示しています。ここからは次のようなことが分かります。
①極楽寺は、飯島(和賀江津)の敷地で、着岸船から関米(一石につき一升、約1%)を取る権利を認められていたこと②それは「嶋築興行」(飯島の維持・管理の代償)でもあったこと③同時に、前浜の殺生禁断権が認められていたこと④「忍性菩薩の例に任せて・・・」とあるので、これらの権利は忍性以来のことだったこと
①の関米(一石につき一升、約1%)については、新安沈没船の積荷は「2万点の白磁・青磁、800万枚の中国銭」でしたから、極楽寺の取り分1%は、200点の白磁・青磁、8万枚の銭ということになります。これが1船分の取り分です。これらが唐物の市で販売され、極楽寺の収益となります。
鎌倉の和賀江島
どのようにして、極楽寺は関税徴収権を手に入れたのでしょうか。
和賀江島は飯島ともいい、材木座海岸の、現光明寺の前浜あたりに突き出て造成された人工の岸壁です。岩を埋め立て、江を作ったとされます。今は、千潮時に黒々とした丸石が現れるだけで、これが鎌倉時代の港跡とは思えません。それまでは鎌倉の由比ヶ浜は遠浅ですので、中国船などの大型船は着岸できません。そこで武蔵国の六油津に入港していたようです。ところが、貞永元(1232)年7月12日に、念仏僧の往阿弥陀仏は、「舟船着岸の煩いをなくすために、和賀江島を築きたい」(『吾妻鏡』同日条)と、鎌倉幕府に申請します。時の執権北条泰時は、これを喜んで許可し、支援します。こうして和賀江津の工事は始まります。しかし、土砂の堆積などにより、その維持は難しかったようです。そこで、技術的な指導を含めて関わったのが忍性を中心とした極楽寺、つまり律宗傘下の技術者集団です。この成功報酬が、先ほど見た「着岸船積荷1%の関米(関税)ということになるようです。
これに対して日蓮は『聖愚間答抄』で、次のように忍性を批判しています。
鎌倉を拠点に社会活動を行った忍性
極楽寺良観上人(忍性)は上一人より下万民に至て生身の如来と是を仰ぎ奉る。彼の行儀を見るに実に以て爾也.飯島の津にて六浦の関米を取ては、諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取ては、諸河に橋を渡す。(『昭和定本日蓮聖人遺文』第1巻 353P)
意訳変換しておくと
(鎌倉)極楽寺の良観上人(忍性)は、多くの人から生身の如来と尊敬されている。彼のやり方を見ると、まことにおかしい。飯島の津や六浦で関税を取ては、諸国の道を作り、全国七道に関所を構えて、通行税を取り立てる。その銭で、諸河に橋を渡す。
ここからは、次のようなことが分かります。
①飯島津で船から徴収した米は、諸国の道の造成にも使われていたこと。
②作った道に関所を作って、通行税を徴収していたこと
③さらに、それを資金に橋を架けていたこと
飯島の関米徴収は、現在の光明寺のところにあった末寺万福寺が担当していたようです。また、鎌倉の化粧坂には鎌倉時代には燈炉堂がありました。そこでは夜に火が灯され海上を進む船の目印として灯台的役割を果たすようになります。これに関わって、唐招提寺系の律僧琳海(りんかい)が建治元(1251)年に開いた大覚律寺は、兵庫県尼崎にあった河尻燈炉堂の管理をまかされていました。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉幕府からも鎌倉の海上交通管理を任されていた忍性が、鎌倉化粧坂の燈炉堂の管理も鎌倉末期には任されていたこと。②全国の主要港に建立された律宗寺院は、港湾管理センターとしての役割を果たしていたこと。
先ほど見た足利尊氏の文書には「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」とあって、前浜での殺生禁断権を認められています。これは「前浜での全面漁業禁止」ではありません。浜での一般人の禁漁と、漁民に対しては 一定の金品を寺院に寄附することで、漁を認める権利です。つまり極楽寺は漁民に対しての漁場管理権を握ったことになります。これは以前にお話しした叡尊が弘安9(1286)年に宇治橋を修造した時に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められた「漁業権」と同じ扱いです。
現在、千潮時に残る丸石の多くは、相模川・酒匂川および伊豆海岸から筏などにで運ばれてきたものとされています。
研究者は、そうした石を採取した川などの通行管理権を握っていた可能性が高いとします。
研究者は、そうした石を採取した川などの通行管理権を握っていた可能性が高いとします。
ここでは次の事を押さえておきます。
こうして律宗西大寺教団は、中国との交易利益を求めて、瀬戸内海に進出してきます。その際に尾道や博多などには、港湾管理センターとしての西大寺末寺が建立されます。そして、そこには律宗独自のモニュメントして、十三重石塔や巨大五輪塔などが建立されます。瀬戸内海沿岸に残る巨大石造物は、このような西大寺律宗の教線拡大の動きの中で押さえていく必要があるようです。①鎌倉の内港和賀江津を叡尊教団の関東における拠点寺院・極楽寺が握っていた②六浦津は、金沢称名寺が管理責任を持っていました。
今日はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松尾剛次 躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動 142P」