①開発費用はすべて平田が一旦立替えて出すこと
②目処が立った後で備中屋などの三者は、3人で経費の半分を負担すること
③新田開発の利益の1/6を備中屋・米屋・三嶋屋が取り、残りの6分の3を平田が受け取ること
こうして「中間」たちは中姫村庄屋・四郎右衛門宅に逗留して、新田開発を進めます。そして、つぎのような作業を同時並行で進めていきます。
A 藩の役人や近隣の村役人立会いの下、請所大野原エリアの確定B 開拓者の募集C 自分たちの土地・屋敷を整えることD 郷社の建設E 井関池の築造

上記を解読すると(「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」(44P)
生駒様御代二、西嶋人兵衛殿と申役人、無隠案者ノ見立テ井関池ヲ築立、井関村ハ大野原カ福田原江百姓御出シ、浪指ハ落相、宇手ロハ東ハ地蔵院山ノタリ西ハ鋳師岡ヲ水吐二〆、大野原不残田地二〆万石も可在之積、靭ハ杵田邊観音寺迄ヘモ用水二可遣トノ積ニテ、樋御居(据?)サセ被成候。樋尻東江向有之候.然処二生駒様御落去以後打捨在之、山崎様へ願銭持ニテ池二築立候。樋初ハ弐ケ所在之候。壱ケ所ハ石樋二仕、長三十三間蓋迄石ニテ仕二付、堤ノ土ニテシメ割、役二不立二付、京極様御代二成御断申埋申候.猫塚池下掛樋二石樋有之蓋石壱つハ中間入口門ノ跡石二成候。此コトク成石樋二候。今ニテも入用二候得ハ堤ノ裏方堀候得ハ何程も在之候。今ノ東方樋ヨリ七八間西方二候堤前ノ本槙木ノ樋二候。
生駒様の御代に、西嶋人兵衛殿という役人が、井関池築造に取りかかった。井関村や大野原・福田原へ百姓を動員し作業を始めた。計画では、宇手ロ(うめて:余水吐口)は東の地蔵院山で、堤は西の鋳師岡までくもので、大野原だけでなく、杵田・観音寺へも給水を行う計画であった。しかし、底樋の樋尻を東へ向けて設置したところで、生駒様は御落去となって以後は打捨てられた状態になっていた。そこで、丸亀藩山崎家に対して「銭持(町人請負)」での池の築造計画を願いでた。樋は最初は、2ケ所に設置した。1ケ所は石樋で、長さ33間(1間=1,8m)の石造であったが、堤の土の重さに耐えきれずに割れてしまったので、京極様の許可を得て堤防の中に埋めた。そこで猫塚池の下掛樋に石樋蓋石があったが、これは中間入口門の跡石であった。これがコトク成石樋二候。今でも必要であれば、堤の裏方を堀ればでてくるはずである。現在の東方の樋から8間西に堤前のものは本槙木製の樋である。
寛永3年(1626)4月地震・干ばつで生駒藩存続の危機的状況寛永4年(1627年)西嶋八兵衛が生駒藩奉行に就任1628年 山大寺池(三木町)築造、三谷池(三郎池、高松市)を改修。1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修。藤堂高虎死亡し、息子高次が後見人へ1631年、満濃池の再築完了。1635年、神内池を築く。1637年、香東川の付替工事、流路跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭。
高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾。1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成。生駒騒動の藩内抗争の中で伊勢国に帰郷。
次に「尾池平兵衛覚書NO69:井関池外十三ケ所の池の事」73Pを見ておきましょう。
尾池平兵衛覚書NO69
一、井関池 南請 但生駒様御代二堤形有之山崎様御代大野原より願銭持ニテ築立ル寛永弐拾未年二請所申請候。正徳六申年迄七拾四年二成ル。井関築立二現銀弐百貫目余入、大阪ョリ銭ヲ積下シ観音寺方牛車ニテ毎日井関マテ引上ル。牛遣ハ大津方抱参候久次郎と申者、右之車外今中間明神様御社之下二納在之候。其時分観音寺る海老済道ハ在之候得共、在郷道二候ヘハ幅四五尺斗之道ニテ、杵田川方ハ北岡岸ノ上江登り、善正寺ノキハヲ天王江取付候。牛車通不申二付御断申上、川原ヨリ天王宮ノ下今ノ道へ、新規二道幅も井関迄弐間宛仕候.井関池下二町並二小やヲ立、酒肴餅賣居申。又四国ハ不及申中国ョリも、讃岐二池ノ堤銭持在之候卜間俸、妻子召連逗留日用仕候。堤ハ東と西方筑真中ヲ川水通、此川筋一日二築留申日、前方方燭ヲ成諸方方大勢集、銭フイカキニ入置握り取二仕候。毎日ノ銭持ハ土壱荷二銭五歩札壱銭札ヲ持せ、十荷廿荷と成候時ハ十文札五十文札二替手軽キ様二仕候。其時二桜ノ小生在之ヲ、今ノ中間へ壱荷二〆銭百文ニ買四本並植候。老木二成枯(漸今壱本残ル。
一、井関池 生駒様の御代に堤の形はあったが、山崎様の御代に大野原から願い出て、町人受で資金を拠出して築造した。寛永20年(1643)に、(新田開発)の請所を申請し、正徳6年(1716)まで74年の年月を経て完成した。①井関池築造のために銀二百貫目余りを投入した。②銭は大坂から船便で、観音寺まで送り、そこから牛車で毎日井関まで運んだ。牛遣いは、大津の時代から平田家に仕えていた久次郎という者にやらせた。その頃の観音寺から井関までは海老済道(阿波道?)があったが、途中までは幅四・五尺ほどの狭い在郷道だった。そこで杵田川から北岡・岸ノ上で上がって、善正寺(川原)から天王宮下を通り、井関まで二間ほどの道を新規につけて運んだ。③井関池の下には多くの小屋が建ち並び町並みを形成するほどであった。そこでは酒や肴・餅などを売る店まで現れた。 ④井関池工事に行けば「銭持普請」(毎日、その日払いで銭を支払ってくれた)で働けることを伝え聞いて四国だけでなく、遠く中国地方からも多くの人足が妻子連れで長逗留の準備をして集まって来た。堤は東と西より土をつき固めていき、真ん中は山からの川水を通すため開けておき、最後に一気に川筋を築き留めるという工事手順だった。そのため最後の日は前々から周知し、銭を篭に入れて、労賃を握り取るという方法で大勢の人足をかき集めてた。⑤毎日の労賃の支払いは土一荷(モッコに二人一組で、土を入れ運んだ?)に銭5歩札の札を与え、10荷、20荷単位で十文札、50文札に替えて銭と交換した。堰堤が完成したときには、桜の苗を4本買って植えた。それも老木になって枯れていまい、壱本だけ残っている。
堤長弐百拾間(約282m)、根置(堤の底面幅)30間(約55m)、樋長22間(約66m)、高6間(約11m)、馬踏(堤の上部幅)3間(約5・5m)で、所によって2間半もある。水溜りは、新樋は四間五尺で、土俵三俵二水溜リテ□(上の文書はここから始まる)
東の古樋は八寸五分二九寸で、櫓三つでスホンは三穴五寸新樋は壱尺五寸二壱尺六寸で、櫓三スホン六櫓一ニ二宛スホン上ノ穴八寸 宛下ハ六寸仮樋は八寸四方で、櫓一つで鳥居立一スホンニ穴五寸宛此樋自分仕置候樋尻の小堤は長さ七拾六間池之内の面積は、十二町壱反池の樋取り替えは、延宝七未年、仮樋も同年に行った。。正徳六申迄三十八年六月ヨリ工事を始め、12月21日に成就した。

水掛かりについては、次のように記します。
池の水掛については①大分木(大分岐)水越九尺
内壱尺 萩原 田拾六町此高百六拾石壱尺 中姫 田四拾町此高四百石壱尺 杵田四ケ 田十三町高弐百汁石 黒渕田五拾九丁 田拾五町高百五拾石 北岡村高五百汁石 田拾壱町高百拾石 大畑ケ田拾町高七拾石 山田尻
六尺 大野原 田百拾町高七百七拾石水掛畝〆弐百弐拾五町 高〆千人百六拾石右之通ノ水越寸尺ニテ候処、先年方三分古地方七分大野原申偉、則御公儀上り帳面二も其通仕候。
「大分木を越えていく水が幅にして九尺分あるとすると、その内一尺分を萩原の田へ引くようにする。同様に一尺分は中姫へ、同じく一尺分の水は杵田四カ村(黒渕・北岡。大畑。山田尻)へ、そして大野原へは幅6尺分の水を流すようにする。」
つまり井関池本樋から流れて来た水を、「大分木」で次のように配分します。
開発が始まって2年目の正保二(1645)年9月に作成されたもので、ここには井関池から伸びる用水路がびっしりと描き込まれています。ここに描かれた用水路は、基本的には現代のものと変わりないと研究者は評します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 観音寺市文化財保護協会 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原
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