瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:西教寺

前回は美馬の安楽寺が三好氏の保護を受けて、真宗興正寺派の教線を讃岐に伸ばしたことを見ました。今回は、興正寺派のもうひとつの拠点となった三木の常光寺が十河氏の保護を受けて、丸亀平野方面まで教線を伸ばしていく様子を見ていくことにします。まず、垂水にある常光寺の末寺だったとされる寺院を押さえておきます。

垂水の常光寺末寺
丸亀市亀水町にある常光寺の旧末寺 3ヶ寺

それでは常光寺とは、どんなお寺なのでしょうか?

常光寺
真宗興正寺派常光寺(三木町氷上)
この寺は銀杏が有名なようです。本堂の前の碑文には次のようなことが刻まれています。


常光寺縁起1
常光寺縁起

①開基年 応安元(1368)年 
②開基者 駒浄
泉で泉州の鳶城主出身の生駒浄泉

③全盛期には末寺が75

④明治維新には、27の末寺

⑤本堂が17世紀半ばのもの。

幕末に高松藩から求められて提出した縁起には、次のように記します。

常光寺記録』〔常光寺文書
常光寺縁起(常光寺文書)

この縁起には、仏国寺(興正寺)が四国に派遣したふたりの僧侶が開いたのが常光寺と安楽寺で、両寺は兄弟寺院にあたること、そして両寺が讃岐の真宗布教の拠点であったと強調されています。しかし、これは前回見た安楽寺の縁起とは違っています。安楽寺と常光寺の縁起を比較しておきましょう。 

常光寺縁起の検証
常光寺と安楽寺の縁起比較

安楽寺由緒の中には、興正寺も常光寺もでてきません。出てくるのは上総の守護だった千葉氏です。千葉氏が北条氏との権力闘争に敗れて、真宗僧侶となり阿波にやってきて安楽寺を天台宗から転宗させたことでした。つまり、安楽寺はもともとは本願寺の末寺だったのです。興正派に転じたのは、讃岐亡命の際に、興正寺が安楽寺を助けてくれた16世紀初頭以後です。ここからは、常光寺の縁起が安楽寺との関係を強調して、後世に作成されたことがうかがえます。研究者の中には、常光寺自体が安楽寺の末寺と考えている人もいます。次に常光寺の位置を押さえておきます。


十河城・常光寺・髙松御坊
常光寺は十河城の勢力下にあった

ここが三木町の香川医大です。琴電長尾線を越えた南方の尾根上に十河氏の十河城があります。十河一存は三好長慶や実休の実の弟で、十河家に養子として入っていたことは前回お話しました。常光寺は、その十河城の勢力範囲下あります。
 十河一存の息子が
興正寺派の高松御坊に出した保護状(上の右)を見ておきましょう。
ここからは次のような事が読み取れます。

①もともと髙松御坊は野原郷の潟(港)(現在の高松城周辺)にあったが退転した。

②そこで寺内町と坊を三木町の池戸(大学病院のあたり)の四覚寺原に再興することにした。

③ついては、十河氏が課税免除などの特権を与え保護する

「寺内」とあるので、寺だけでなく信徒集団も含めた居住エリアが併設されていたことがうかがえます。池戸の四覚寺原とは、現在の三木町井上の始覚寺周辺です。退転した高松の御坊は、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。それを保護しているのが十河氏です。ここからは常光寺や髙松御坊が十河氏の保護を受けて髙松平野で教線ラインを伸ばしていたことが見えて来ます。

三好氏の安楽寺保護

ここでは安楽寺が三好実休の保護を受けていたように、常光寺は十河氏の保護を受けていたことを押さえておきます。その
年代は1583年で秀吉の時代になります。これは丸亀平野で安楽寺が教線を伸ばしていた時期とも重なります。

次に常光寺縁起と一緒に髙松藩に提出したる末寺リストを見ていくことにします。

常光寺末寺リスト3
常光寺
末寺リスト

これを見ると次のような事が分かります。

①常光寺周辺の三木郡に多い。寒川や大内など東部は、水主神社の勢力が強くて入り込めない。

②赤◎をつけた垂水の西教寺と善福寺が末寺となっている。しかし、西の坊が見えない。

③那珂郡の円徳寺に注目。この寺は現在の満濃池の下手にあるお寺。

次のページに移ります。

常光寺末寺リスト2 円徳寺
                       円徳寺(まんのう町照井)の末寺

①髙松藩の最後に垂水の西坊があります。そこには円徳寺末寺とあります。「右の通り、御領分に御座候」とあるので、ここまでが高松領です。

②丸亀藩の末寺を見ると、佐文の法照寺 琴平苗田の西福寺も円徳寺の末寺だったようです。

円徳寺と3つの末寺をツリー化したのが上図左です。ここからは、この3つの末寺は円徳寺が創建や寺号の獲得の際に力を貸し、本寺となったことがうかがえます。 このように常光寺の教線ラインが三木から阿野郡を経て那珂郡・多度郡にのびてきたことがうかがえます。

丸亀平野の常光寺の末寺分布図を見ておきましょう。

常光寺末寺分布図(丸亀平野).2JPG

                     丸亀平野の常光寺の末寺分布図

常光寺の末寺を地図に落としてみました。黄色い星が末寺です。円徳寺が右隅のここです。円徳寺の末寺はは、佐文の法照寺 → 苗田の西福寺→ 垂水の西の坊と伸びていきます。注目したい点を挙げておきます。

①土器川以西の那珂郡・多度郡に分布。安楽寺は鵜足郡に集中。安楽寺と棲み分けている?

②丸亀平野南部に多く、海岸線部にはない

③三野・三豊平野は麻の光照寺ほか2つだけ

①に関しては、安楽寺と進出エリアを棲み分けていたことが考えられます。また、坂出の白峯寺、宇多津の郷照寺、多度津の道隆寺、金倉寺、三野の弥谷寺など真言系修験者の勢力が強かったエリアには教線は伸びていません。善通寺は、この時期に退転していたようで、末寺が生まれています。

 ここでは常光寺の教線ルートが内陸部を通って西に進んで円徳寺まで及んで、そこから更に丸亀平野の北部や麻方面に伸びていたことを押さえておきます。このように常光寺が教線ルートを順調に伸ばせたのは、背後に十河氏や三好氏の保護があったからだと私は考えています。
今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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前回は美馬市郡里の安楽寺訪問記をアップしました。今回は安楽寺周辺のお寺巡りを載せておきます。

美馬市寺町散策.2JPG
美馬市寺町散策パンフレット(表)
美馬市寺町散策
                 美馬市寺町散策パンフレット(裏)
安楽寺を後にして、その北側にある西教寺を訪ねます。


P1280922

西教寺は、慶長14年(1609年)に安楽寺から分かれた寺です。本堂・経蔵・山門が有形文化財に登録されています。
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西教寺の登録有形文化財
安政5年(1858) 建立の本堂
天保14年(1843)建立の山門
昭和5年(1930) 建立の経蔵
このなかで案内人の方の説明が一番長かったのは山門でした。

西教寺山門 美馬市寺町

西教寺山門(三間薬医門)
研究者は、この山門に対して次のように評しています。(阿波学会紀要 第55号(pp.115-126) 2009.7)
山門は三間一戸の薬医門で,正面向かって中央に桟唐戸,右手に潜戸(くぐりど),左手に板壁を設け,屋根は切妻,本瓦葺とする。棟南鬼瓦の正面に「天保拾四歳卯七月吉日」(1843)とある。

西教寺山門の妻飾り

本柱の上に冠木を置き,控柱は貫で繋ぎ,龍の木鼻が付く。妻飾は上部に男梁,下部に女梁とし,二重となるのが特徴である。その間に蟇股を挟み,先端には異様な形の拳鼻が付く連三斗を設ける。また,男梁の上に太瓶束笈形を置き,棟木を支える。破風の飾りは,くだり・外部側が菊,境内側は雲である(図20)。

美馬市寺町西教寺山門 軒裏

軒は二軒,飛檐垂木は板軒で雲の模様が施されているなど,山門の意匠には目を止めるものがある(図21)
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西教寺山門の説明を聞く参加者

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西教寺経蔵
経蔵は、昭和の初期らしくどっしりとして近代的な感覚がします。

安楽寺の西側が林照寺です。ここも安楽寺から分家されたお寺です。

林照寺 美馬市寺町

唐破風屋根を載せたものを唐門といいます。林照寺の山門は正面前後に唐破風のある一間一戸の向唐門です。


P1280930
林照寺の唐門
林照寺の唐門 美馬市寺町


林照寺本堂

寺町に浄土真宗のお寺が集まっていうのは、どうしてでしょうか?
美馬市探訪 ⑥ 郡里廃寺跡 願勝寺 | 福山だより
美馬市寺町の寺院分布

「安楽寺文書」には、安楽寺から分離した常光寺について次のように記します。

「常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」

意訳変換しておくと
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」

ここからは、常念寺は安永八年(1779)に安楽寺から檀家600軒を分与されています。安楽寺の子院として常念寺が分院されたのは、文禄4年(1595)のことでした。安永6年まで200年余り檀家がなくて、「寺中あつかい」だったことになります。
安楽寺の隠居寺として創建された林照寺も、当初は無檀家で西教寺の寺中として勤務していたようです。
それが西教寺より檀家を分与されています。その西教寺が檀家を持ったのは安楽寺より8年おくれた寛文7年(1667)のことです。檀家の分布状態等から人為的分割の跡がはっきりとみえるので、安楽寺から分割されたものと千葉乗隆氏は考えています。以上を整理すると次のようになります。
①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺(真言宗)に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。
②その後、安楽寺の子院が創建されると、その門徒は西教・常念・林照の各寺に振り分けられた
こうして、安楽寺を中心とする真宗の寺院が姿を見せるようになったようです。
 以上を整理しておくと
①もともと中世の郡里には、願勝寺(真言宗)と安楽寺(天台宗)があった。
②願勝寺は、真言系修験者の拠点寺院で多くの山伏たちに影響力を持ち、大滝山を聖地としていた。
③安楽寺はもともとは、天台宗であったが上総からの亡命武士・千葉氏が真宗に改宗した。
④安楽寺の布教活動は、周辺の真言修験者の反発を受け、一時は讃岐の財田に亡命した。
⑤それを救ったのが興正寺で、三好氏との間を調停し、安楽寺の郡里帰還を実現させた。
⑥三好氏からの「布教の自由」を得た安楽寺は、その後教線ラインを讃岐に伸ばし、念仏道場をソラの集落に開いていく。
⑦念仏道場は、その後真宗興正派の寺院へ発展し、安楽寺は数多くの末寺を讃岐に持つことになった。
⑧末寺からの奉納金などの経済基盤を背景に伽藍整備を行う一方、子院を周辺に建立した。
⑨その結果、安楽寺の周りには大きな伽藍を持つ子院が姿を現し、寺町と呼ばれるようになった。
⑩子院は、創建の際に門徒を檀家として安楽寺から分割された
こうして寺町には、浄土真宗興正寺派の拠点として機能していたようです。ただ、明治の宗教改革で、安楽寺は興正寺派から西本願寺に移ります。現在の安楽寺の看板には「西本願寺派」とありました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  まんのう町の「ことなみ道の駅」から県境の三頭トンネルを抜けて、つづら折りの国道438号を下りていったところが美馬町郡里(こおさと)です。「郡里」は、古代の「美馬王国」があったところとされ、後に三野郡の郡衙が置かれていたとされます。そのため「郡里」という地名が残ったようです。「道の駅みまの家」の南側には、古代寺院の郡里廃寺跡が発掘調査されていて、以前に紹介しました。

郡里廃寺跡 クチコミ・アクセス・営業時間|吉野川・阿波・脇町【フォートラベル】
郡里廃寺跡

この附近は讃岐山脈からの谷川が運んできた扇状地の上に位置し、水の便がよく古くから開けていきた所です。美馬より西の吉野川流域は、古代から讃岐産の塩が運び込まれていきました。その塩の道の阿波側の受け取り拠点でもあった美馬は、丸亀平野の古代勢力と「文化+産業+商業」などで密接な交流をおこなています。例えば、まんのう町の弘安寺跡から出土した白鳳期の古代瓦と同笵の瓦が郡里廃寺から見つかっています。讃岐山脈の北と南では、峠を越えた交流が鉄道や国道が整備されるまで続きました。

美馬市探訪 ⑥ 郡里廃寺跡 願勝寺 | 福山だより
郡里廃寺跡南側の寺町の伽藍群

 郡里廃寺の南側には、寺町とよばれるエリアがあって大きな伽藍がいくつも建っています。
それも地方では珍しい大型の伽藍群です。最初、このエリアを訪れた時には、どうしてこんな大きな寺が密集しているのだろうかと不思議に思いました。今回は郡里寺町に、大きなお寺が集まっている理由を見ていくことにします。その際に「想像・妄想力」を膨らましますので「小説的内容」となるかもしれません。
 地域社会と真宗 千葉乗隆著作集(千葉乗隆) / 光輪社 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

テキストは、千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」です。千葉氏は、郡里の安楽寺の住職を務める一方で、龍谷大学学長もつとめた真宗研究家でもあります。彼が自分の寺の「安楽寺文書」を整理し、郡里村の寺院形成史として書いたのがこの論文になります。
安楽寺3
河岸台地の上にある安楽寺と寺町の伽藍群
 寺町は扇状地である吉野川の河岸段丘の上に位置します。
安楽寺の南側は、今は水田が拡がりますが、かつては吉野川の氾濫原で川船の港があったようです。平田船の寄港地として栄える川港の管理センターとして寺は機能していたことが考えられます。
 この寺町台地に中世にあった寺は、真宗の安楽寺と真言宗の願勝寺の2つです。
寺町 - 願勝寺 - 【美馬市】観光サイト
願勝寺
願勝寺は、真言系修験者の寺院で阿波と讃岐の国境上にある大滝山の修験者たちの拠点として、大きな力を持っていたようです。天正年間(1575頃)の日蓮宗と真言宗の衝突である阿波法幸騒動の時には、真言宗側のリーダーとして活躍したとする文書が残されています。願勝寺は、阿波の真言宗修験者たちのの有力拠点だったことを押さえておきます。

安楽寺歴史1
安楽寺の寺歴
 安楽寺は、上総の千葉氏が阿波に亡命して開いたとされます。
千葉氏は鎌倉幕府内で北条氏との権力争いに敗れて、親族の阿波守護を頼って亡命してきた寺伝には記されています。上総で真宗に改宗していた千葉氏は、天台宗の寺を与えられ、それを真宗に換えて住職となったというのです。とすれば安楽寺は、かつては、天台宗の寺院だったということになります。それを裏付けるのが境内の西北隅に今も残る宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠です。中世には、天台・真言のお寺がひとつずつ、ここに立っていたことを押さえておきます。
 その内の天台宗寺院が千葉氏によって、真宗に改宗されます。
寺伝には千葉氏は、阿波亡命前に、親鸞の高弟の下で真宗門徒になっていたとしますので、もともとは真宗興正派ではなかったようです。そして、南無阿弥陀仏を唱える信者を増やして行くことになります。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
安楽寺の末寺分表

 安楽寺の末寺分布図を見ると、阿波では吉野川流域に限定されていること、吉野川よりも南の地域には、ほとんど末寺はないことが分かります。ここからは、当時の安楽寺が吉野川の河川交通に関わる集団を門徒化して、彼らよって各地に道場が開かれ、寺院に発展していったことが推測できます。
宝壷山 願勝寺 « 宝壷山 願勝寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

念仏道場が吉野川沿いの川港を中心に広がっていくのを、願勝寺の真言系修験者たちは、どのような目で見ていたのでしょうか。
親鸞や蓮如が、比叡山の山法師たちから受けた迫害を思い出します。安楽寺のそばには真言系修験者の拠点・願勝寺があるのです。このふたつの新旧寺院が、初めから友好的関係だったとは思えません。願勝寺を拠点とする修験者たちは、後に阿波法華騒動を引き起こしている集団なのです。黙って見ていたとは、とてもおもえません。ある日、徒党を組んで安楽寺を襲い、焼き討ちしたのではないでしょうか?
  寺の歴史には次のように記されています。

永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てた。」

 ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜいままでの所に再建しなかったのか。瀬詰村(麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、なおその後に讃岐山脈の山向こうの讃岐財田へ移動しなければならなかったのか? その原因のひとつとして願勝寺との対立があったと私は考えています。

安楽寺文書
「三好千熊丸諸役免許状」(安楽寺)
  安楽寺の危機を救ったのが興正寺でした。
それが安楽寺に残る「三好千熊丸諸役免許状」には次のように記します。(意訳)
興正寺殿からの口添えがあり、安楽寺の還住を許可する。還住した際には、従来通りの諸役を免除する。もし、違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える

この免許状の要点を挙げると
①「興正寺殿からの口添えがあり」とあり、調停工作を行ったのは興正寺であること
②内容は「帰還許可+諸役免除+安全保障」を三好氏が安楽寺に保証するものであること。
③「違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える」からは、安楽寺に危害を加える集団がいたことを暗示する
この「免許状」は、安楽寺にとっては大きな意味を持ちます。拡大解釈すると安楽寺は、三好氏支配下における「布教活動の自由」を得たことになります。吉野川流域はもちろんのこと、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えると云うことになります。安楽寺が讃岐と吉野川流域に数多くの末寺を、もつのはこの時期に安楽寺によって、数多くの念仏道場が開かれたからだと私は考えています。
 そして、安楽寺は調停を行ってくれた興正寺の門下に入っていったと私は考えています。
それまでの安楽寺の本寺については、本願寺か仏国寺のどちらかだと思います。安楽寺文書には、この時期の住職が仏国寺門主から得度を受けているので、その門下にあったことも考えられます。どちらにしても、最初から興正寺に属していたのではないような気がします。
 こうして、三好氏の讃岐支配の拡大と歩調を合わせるように安楽寺の教線ラインは伸びていきます。
まんのう町への具体的な教線ラインは、三頭・真鈴峠を越えて、勝浦の長善寺、長炭の尊光寺というラインが考えられます。このライン上のソラの集落に念仏道場が開かれ、安楽寺から念仏僧侶が通ってきます。それらの道場が統合されて、惣道場へと発展します。それが本願寺の東西分裂にともなう教勢拡大競争の一環として、所属寺院の数を増やすことが求められるようになります。その結果、西本願寺は惣道場に寺号を与え、寺院に昇格させていくのです。そのため讃岐の真宗寺院では、この時期に寺号を得て、木仏が下付された所が多いことは、以前にお話ししました。少し、話が当初の予定から逸れていったようです。もとに戻って、郡里にある真宗寺院を見ていくことにします。
近世末から寺町には、次のように安楽寺の子院が開かれていきます。
文禄 4年(1595)常念寺が安楽寺の子院として建立
慶長14年(1609) 西教寺が安楽寺の子院として建立
延宝年間(1675) 林照寺が西教寺の末寺として創立、
     賢念寺・立光寺・専行寺が安楽寺の寺中として創建
こうして郡里村には、真言宗1か寺、浄上真宗7か寺、合計8か寺の寺院が建ち並ぶことになり、現在の寺町の原型が出来上がります。

 安楽寺が讃岐各地に末寺を開き、周辺には子院を分立できた背後には、大きな門徒集団があったこと、そして門徒集団の中心は安楽寺周辺に置かれていたことが推測できます。どちらにしても、江戸時代になって宗門改制度による宗旨判別が行われるまでには、郡里にはかなりの真宗門徒が集中していたはずです。それは寺内町的なものを形作っていたかもしれません。郡里村の真宗門徒が、全住民の7割を占めるというというのは、その門徒集団の存在が背景にあったと研究者は考えています。
宗門改めの際に、郡里村の村人は宗旨人別をどのように決めたのでしょうか。つまり、どの家がどの寺につくのかをどう決めたのかを見ていくことにします。

寺町 - 常念寺 - 【美馬市】観光サイト
安楽寺から分院された常念寺(美馬市郡里)
「安楽寺文書」には、次のように記します。

「常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」

意訳変換しておくと
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」

ここからは、常念寺は安永八年(1779)に安楽寺から檀家六百軒を分与されたことが分かります。先ほど見たように、安楽寺の子院として常念寺が分院されたのは、文禄4年(1595)のことでした。それから200年余りは無檀家の寺中あつかいだったことが分かります。
美馬町寺町の林照寺菊花展 - にし阿波暮らし「四国徳島の西の方」
林照寺
西教寺の末寺として創建された林照寺も当初は無檀家で西教寺の寺中として勤務していたようです。それが西教寺より檀家を分与されています。その西教寺が檀家を持ったのは安楽寺より8年おくれた寛文7年(1667)のことです。檀家の分布状態等から人為的分割の跡がはっきりとみえるので、安楽寺から分割されたものと千葉乗隆氏は考えています。以上を整理すると次のようになります。
①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。
②その後、安楽寺の子院が創建されると、その都度門徒は西教・常念・林照の各寺に分割された
こうして、岡の上に安楽寺を中心とする真宗の寺院数ヶ寺が姿を見せるようになったようです。
 以上を整理しておくと
①もともと中世の郡里には、願勝寺(真言宗)と安楽寺(天台宗)があった。
②願勝寺は、真言系修験者の拠点寺院で多くの山伏たちに影響力を持ち、大滝山を聖地としていた。
③安楽寺はもともとは、天台宗であったが上総からの亡命武士・千葉氏が真宗に改宗した。
④安楽寺の布教活動は、周辺の真言修験者の反発を受け、一時は讃岐の財田に亡命した。
⑤それを救ったのが興正寺で、三好氏との間を調停し、安楽寺の郡里帰還を実現させた。
⑥三好氏からの「布教の自由」を得た安楽寺は、その後教線ラインを讃岐に伸ばし、念仏道場をソラの集落に開いていく。
⑦念仏道場は、その後真宗興正派の寺院へ発展し、安楽寺は数多くの末寺を讃岐に持つことになった。
⑧数多くの末寺からの奉納金などの経済基盤を背景に伽藍整備を行う一方、子院をいくつも周辺に建立した。
⑨その結果、安楽寺の周りには大きな伽藍を持つ子院が姿を現し、寺町と呼ばれるようになった。
⑩子院は、創建の際に門徒を檀家として安楽寺から分割された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
         千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」
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  四国真宗伝播 四国の宗派別寺院数
四国各県の宗派別寺院数と真宗占有率
香川県下の寺院数910ケ寺の内、約半分の424ケ寺が真宗で、それは約47%になります。その中でも興正寺派の占める割合が非常に多いようです。その背景として、次のような要因が考えられることを以前にお話ししました。
①15世紀に仏光寺(後の興正寺)が教勢拡大拠点として三木に常光寺、阿波の郡里(美馬市)に安楽寺を開き、積極的な布教活動を展開したこと
②本願寺も瀬戸内海沿い教線拡大を行い、宇多津に西光寺などを開き、周辺への布教活動を行ったこと
③戦乱の中で衰退傾向にあった真言勢力に換わって、農民層に受けいれられたこと
④髙松藩が興正寺派と幾重もの姻戚関係を結び、その保護を受けたこと
讃岐の浄土真宗寺院分布図
浄土真宗寺院の分布図
この中の①の阿波の安楽寺の丸亀平野方面への教線拡大過程は以前に押さえましたが、常光寺のうごきについては見ていませんでした。そこで、今回は常光寺の教線拡大ルートを見ていきたいとおもいます。テキストは 「藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号」です。
来迎山・阿弥陀院・常光寺 : 四国観光スポットblog
興正寺派の布教拠点となった常光寺(三木町)

江戸時代後半の19世紀前半に、常光寺が髙松藩に提出した由緒書きが残っています。それを見ると、常光寺というお寺の性格が分かります。
『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕(意訳)
 当寺の創建は、足利三代将軍義満の治世の時(1368年)とされます。泉洲大鳥領主で生駒左京太夫光治の次男政治郎光忠と申すものが発心し、法名浄泉と名前を改め、仏光寺で修行しました。その後、常光寺の号を与へられました。仏光寺門下に秀善坊という者がいて、安楽寺と号していました。
 あるときに仏光寺了源上人は、二人に四国への教線拡大を託します。浄泉と秀善のふたりは、ともに応安元年に四国へ渡り、秀善坊は、阿州美馬郡香里村安楽寺を創建しました。一方、浄泉坊は当国へやって来て、三木郡氷上村に常光寺を建立します。布教活動の結果、教えは阿讃両国の間にまたたくまに広がり、真宗に帰依する者は増えました。こうして安楽寺・常光寺の両寺の末寺となる寺は増え続け、日を追って両山門は繁昌するようになりました。
 開基の浄泉より百余年後の文明年中(1469~87年)、五代目の住侶浄宣のことです。仏光寺の経豪上人は本願寺蓮如上に帰依し、仏光寺を弟経誉上人に譲り、蓮如上人を戒師にして、その頼法名を蓮教と改名し、京都山科の口竹に小庵を構へました。その寺は、蓮如上人より興正寺と名付けられました。これを見て、蓮教を慕う当寺の浄定坊も仏光寺末を離れて、文明年中より興正寺蓮教上人の末寺となりました。こうして、応安元年に浄泉坊は当寺を建立しました。
22代の祖まで血脈は連残し、相続しています。
要約すると
①足利義満の時代に(1368)に、佛光寺(後の興正寺)了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣した。
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿波美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依した。
④15世紀後半に、仏国寺の住持が蓮如を慕って蓮教を名のり興正寺を起こしたので、常光寺も興正寺を本寺とするようになった。

以上は、300年以上経た19世紀になってから常光寺で書かれた由緒書きなので、そのままを信じることはできないにしても、大筋は認められると研究者は考えているようです。
常光寺や安楽寺は14世紀後半に創建されたとされますが、それが教線を拡大していくようになるのは16世紀になってからになるようです。この報告書には、続きがあります。そこには、常光寺の末寺が次のように列挙されています。
常光寺末寺1
常光寺末寺 1(髙松藩領内)
常光寺末寺2
常光寺末寺(前半髙松藩 後半丸亀藩領内)

かつて末寺あった寺としてあげられているのが次の通りです。
(年号は離末した年)
常光寺離末寺
常光寺離末寺(末寺を離れた寺院)

ここからは次のようなことが分かります。
①常光寺は興正寺の中本山として、41ケ寺の末寺をその管理下においていたこと。
②最盛期には、豊田郡流岡村(観音寺市)や、三野郡麻(三豊市)にまで末寺があり、三豊まで教線を伸ばしていたこと
③離末していく寺が18世紀になって増え、文化10(1813)年には多度津以西の寺が集団で離末していること

丸亀平野の末寺に絞り込んで見ると次の通りです。
①那珂郡七ケ村 円徳寺
②      垂水村 善行寺
③      垂水村 西教寺
④      原田村 寶正寺
⑤垂水村 西 坊     (円徳寺末寺)
丸亀藩領
⑥那珂郡 田村  常福寺
⑦那珂郡 佐文村 法照時(円徳寺末)
⑧那珂郡 苗田村 西福寺(円徳寺末)
旧末寺
⑨那珂郡 榎井村 玄龍寺
⑩多度郡  吉田村 西光寺
⑪多度郡 下吉田村浄蓮寺
⑫多度郡 三井村 円光寺
⑬多度郡 弘田村 円通寺

興正寺派常光寺末寺
丸亀平野の常光寺末寺分布地図
この中で①の円徳寺(現まんのう町七箇照井)は、⑤⑦⑧の3つの末寺を持っていたようです。
円徳寺・法照寺本末関係
那珂郡南部の常光寺の本末関係

常光寺の教線拡大図に阿波・安楽寺の末寺を重ねてみましょう。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
阿波郡里の安楽寺の末寺分布図
興泉寺(榎井)大念寺(櫛無)浄楽寺(垂水〉西福寺(原田)専立寺(富隈)超正寺(長尾〉
慈泉寺(長尾)慈光寺(岡田)西覚寺(岡田)尊光寺(種)善性寺(長炭)寺教寺(種)長善寺(勝浦) 妙廷寺(常清)長楽寺(陶)
安楽寺も勝浦の長善寺などを拠点に、教線ラインを次第に「讃岐の山から里へ」と伸ばしていく様子が浮かび上がってきます。
常光寺と安楽寺の教線拡大ラインと比較すると次のようになります。
常光寺 
三木から三豊へと讃岐を東西に結ぶ内陸の農村部を中心にした教線拡大ライン
安楽寺
阿波郡里から讃岐山脈を越えて丸亀平野や三豊平野に下りていく、南から北への教線拡大ライン

クローズアップして、現在の丸亀市垂水の両寺の末寺を見てみます。

垂水の興正寺派末寺
丸亀市垂水の善光寺・正教寺・浄楽寺

 以前にお話ししたように垂水は古代においては、土器川の氾濫原で条里制施行の空白地帯だったエリアです。それが中世になって有力武士団などによって、治水灌漑が行われ耕地整備が進んだと研究者は考えているようです。それを示すかのように、現在でも土器川生き物公園は、土器川の氾濫寺の遊水池として近世には機能していました。いわば土器川氾濫原の中世の開発地区が垂水や川西地区だと私は思っています。この開拓への入植農民達への布教活動を活発に行ったのが真宗の僧侶達だったのではないでしょうか。宗教的な情熱に燃える真宗僧侶が東の常光寺から、南の阿波安楽寺からやってきます。そして、道場が開かれ寺に成長して行くという道をたどったようです。
例えば、垂水の善行寺と西教寺は、もともとは常光寺の末寺で、善行寺は寛文年中(1661~72)に、西教寺は寛永年中(1624~44)に木仏・寺号を許されたといいます。

一方、この両寺の間にある浄楽寺は、讃岐名所図会に次のように安楽寺末寺と記されています。
一向宗阿州安楽寺末寺 藤田大隈守城跡也 塁跡今尚存在せり

とあり、1502年に藤田氏の城跡に子孫が出家し創建したと伝えられています。また、まんのう町買田の恵光寺の記録には、次のように記されています。
(この寺はもともとは、(まんのう町)塩入の奥にあった那珂寺である。長宗我部の兵火で灰燼後に浄楽寺として垂水に再建された

 琴南町誌には、現在も塩入の奥に「浄楽寺跡」が残り、また檀家も存在することが記されています。 以上から、垂水の藤田大隅守の城跡へ、塩入にあった那珂寺が垂水に移転再建され浄楽寺と呼ばれるようになったようです。どちらにせよ安楽寺の教宣拡大戦線の丸亀方面の最前線に建立された寺院であるといえます。この寺は、寛永年中に寺号を許されたようで、後には安楽寺を離れて西本願寺末となります。

  垂水の真宗興正派の3つのお寺を見ると、まさに西に向かって伸びていく常光寺の教線ラインと、北に伸びていく安楽寺の教線ラインが重なったのが丸亀平野なのだと思えてきます。このようなふたつのルートの存在が互いのライバル心となり、さらに浄土真宗の丸亀平野での拡大にはずみをつけたのかも知れません。これが16世紀半ばから17世紀前半にかけてのことです。
 これを真言宗の立場から見てみるとどうなるのでしょうか。
例えば当時の真言勢力の拠点と考えられるのは、阿野北平野では白峰寺、丸亀平野では善通寺です。これらの寺院は中世には、いくつもの子院や別院を持ち、多くの伽藍を擁する大寺院に成長し、僧兵を擁していた可能性もあることは以前にお話ししました。しかし、戦国時代になると戦乱と西讃岐守護の香川氏などの周辺武士団の押領を受けて勢力を失っていきます。白峰寺や善通寺・弥谷寺なども16世紀後半には、それまでの伽藍の姿が大きく縮小し、子院の数も激減しているのが残された絵図からは分かります。讃岐の真言勢力は衰退の危機的な状態にあったと私は考えています。そういう中で、古い衰退していた寺を、真宗僧侶は中興し、真宗に宗派替えしていきます。
 浄土真宗への転宗寺院の一覧表を見てみましょう。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗転宗一覧
 ここからは、次のことがうかがえます。
①どの宗派から真宗に転宗した寺院が多いか
②どの郡に転宗寺院が多いか
①については、密教系修験者の山林寺院が多かった天台・真宗からの転宗が多いことが分かります。
②については、鵜足・那珂・多度郡など丸亀平野を中心とする中讃地域に多いことが分かります。
また、転宗時期は、天文年間以降に多く見られます。この表からも讃岐で真宗寺院が増加していくのは天文年間以後であったことが裏付けられます。
  
次の表は各史料に書かれた讃岐の浄土真宗の創建年代を、年代別に示したものです。
讃岐の真宗寺院創建年代
16世紀までの讃岐の真宗寺院創建年代

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐最初の浄土真宗のお寺は、暦応4年(1341)に屋島沖の大島に創建された法蔵院(現真行寺)
②14世紀中に設立されたとする32寺院について、常光寺のように史料的に裏付けられるものは少ないこと
③讃岐における浄土真宗寺院の増加は16世紀以後のことであること。
④16世紀半ば以後に、真言・天台の大寺が衰退し、その勢力が弱まったこと。具体的には修験者の活動が停滞したこと。
⑤その隙間を狙うように、真宗興正寺派の教宣ルートが丸亀平野に延びてきたこと。

上の讃岐における真宗寺院創建年代を、更に詳しく郡別に分けた次のような表を研究者は作成しています。
四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗創建年代一覧
讃岐真宗寺院創建年代一覧(郡別)
ここからは16世紀までに創建されたとされる真宗寺院は、香川・阿野(綾)・鵜足・那珂に多いことが分かります。
以上のデータから当時の常光寺や安楽寺の教宣拡大戦略を私なりに考えて見ると次のようになります。
①戦乱の中で今まで大きな力を持ていた白峰寺や善通寺が衰退している。
②そのため多くの修験者や聖達が離れて、農村部への布教活動もままならない状態となっている。
③丸亀平野では「宗教的空白地帯」が生まれている。
④これは我々にとっては大きなチャンスである。丸亀平野を真言から「南無阿弥陀仏」念仏に塗り替えるときがやってきた。
⑤我々の新天地は、丸亀平野に在り! 丸亀平野が我々の西方浄土である!
⑥この仏の与えたチャンスをいかすために、我々の教宣活動の中心を丸亀に向ける
このような戦略が16世紀前半には立てられ、それが実行に移され浄土真宗寺院の数が増え出すのが16世紀半以後と私は考えています。

 一方このような浄土真宗の拡大に危機感を持った真言僧侶もいたはずです。
その一人が西長尾城の城主の弟とされる宥雅です。彼は善通寺で修行を重ねていましたが、長尾氏の勢力下でも増え続ける照度真宗のお寺や道場、真宗僧侶の布教活動のようすを見て脅威や危機感を感じていたののではないでしょうか。その対応策として考えたのが、松尾寺の守護神として新たな流行神である「金毘羅神」を祀るということでした。私は金毘羅神は、丸亀平野での真宗拡大に対する真言側の対応の一つ出ないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号
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