瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:西汐入川

  郷土史関係の本を読んでいると、古代の郡にはそれぞれに港があったと書かれています。それが近世の港へと引き継がれたと云うのです。例えば、次のような各郡と港です。
A 阿野郡  松山湊
B 鵜足郡  宇多津
C 那珂郡  中(那珂)津・津森(守)
D 多度郡  多度津
F 三野郡  三野津
これらの港が本当に郡の港であったのかどうかを見ていくことにします。今回は、Cの那珂郡の湊とされる中津・津之郷についてです。
那珂郡の湊については、柿本人麿の歌が万葉集に次のように載せられています。

「王藻よし 讃岐の国は国柄か 見れども飽かぬ神柄 か ここだ貴き 天地 日月とともに たりゆかむ 神のみ面と つぎ来る 中(那珂)の水門ゆ 船浮けて 吾が 漕ぎくれば 時つ風 雲居に吹くに 沖見ればとい浪立ち辺見れば……(中略)。 
反歌二首 妻もあらば疹みてたげまし佐美(沙弥島)の山 作の 上のうはぎ 過ぎにけらずや (後略)」

ここには人麻呂が「中(那珂)の水門」から船出して、強風で沙弥島へたどり着いた時のことが記されています。この歌に出てくる「中の水門=那珂郡の湊」が、どこにあったについていろいろな説が出されています。例えば「丸亀の歴史散歩」には、次のように記します。(要約)
①途中に亀山があるが、中津、今津、津森、中府、高津などを結ぶが線がほぼ一直線となっているので、この直線のあたりが昔の海岸線。
②現在の中津、今津、津森のあたりから北は海で、柿本人麿が舟出した中の水門も、今津か津森
③現在に残る地名由来からすると、「津の守」は郡港役所のあった所、宮浦は船の着く所、八日市は八のつく日に物々交換の市が立った所。
④津森天神のあたりが港で、津ノ守から津森の地名になった。
 津森天神宮の名前については、次のような2つの話が伝えられます。
A 景行天皇の孫津森別命と津森王が、ともにここにいたという説
B 菅原道真が国司として国内巡視の際に、亀山の麓の松原から那珂の入江の風光を眺め、「あの森は何か」と聞かれたので「加治須(梶州)の森といい、天穂日命を祭る社です」と答えたところ、道真は「わが遠祖の神だ」と言い、わざわざ下馬参拝したので、やがて州の森が津の森となったという説

そして次のように続けます。

古代においては津森(津守)が那珂郡の湊であったが、それが土器川と金倉川の堆積作用で、砂州帯が形成されて埋まっていまう。鎌倉時代には、北方約700mの所にある法然上人ゆかりの擢掘の井戸のあたりも砂浜となっていた。鎌倉時代の海岸線はこの井戸の北にある県道多度津線のあたりと思われ、今津や津森は既に陸地になっていたわけである。

 整理すると古代の那珂郡の湊は、「津森=那珂津」であったが、中世には堆積作用で陸封された。そこで、今津に湊が移動した。つまり、那珂郡の湊は、古代の津森から中世には今津に移動したというのが従来の説のようです。
この説を、地形復元しながら見ていくことにします。

丸亀 西出汐川・塩屋. 3
丸亀市の中府・津森・今津・中津周辺の土地条件図
前回にお話ししたように、西汐入川は丸亀競技場の先代池や平池附近を源流として、Aの今津で大きく東に屈曲して丸亀福島町で瀬戸内海に流れこんでいます。A地点で屈曲する理由は、北にB・C・Dの砂丘帯が東西に伸びているからです。そのため北上できずに東流し、砂丘帯の隙間を縫って福島へ流れ出します。問題は、この砂堆がいつからあったのかということです。
 「丸亀の歴史散歩」には「津森(津守)が那珂郡の湊であったが、それが土器川と金倉川の堆積作用で、砂州帯が形成されて埋まっていった」とありました。しかし、この状態は中世にはじまるものではなく弥生時代以前まで遡ると研究者は考えています。そうすると、津森や今津は古代にはすでに「陸封」され、湊の機能を果たすことはなかったことになります。確かに、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳に、多度津や宇多津は登場しますが、津森や今津はでてきません。交易活動などが史料では追いかけられません。
 それでは那珂郡の湊は、どこにあったのでしょうか? 私が注目するのは金倉川河口の西側周辺です。
金倉川河口2

金倉川河口 明治39年
  
道隆寺 堀江の旧干潟2
金倉川河口の土地利用図 Bは那珂郡と多度郡の旧郡境

  金倉川河口西側の下金倉や中津万象園は、丸亀市に属します。それは、Bの那珂郡と多度郡の郡境がここにあったためです。古代の郡境は川が「自然国境」とされることが多かったようです。そういう意味では、金倉川の西に那珂郡の一部(下金倉)があります。これは、古代に郡境線が川沿いにひかれた後に、流路変更があったことを伺わせます。もともとは旧金倉川は、下金倉と北鴨の間を流れ、堀江付近で海に流れ出していたことが考えられます。もうひとつは、堀江にも砂丘堆が東西に伸びて、その背後に大きな潟湖があったことが地形復元できることは以前にお話ししました。
道隆寺 堀越津地図
堀江から道隆寺に駆けて拡がっていた「堀江潟」
また、古代には「港」という言葉は使わずに、次のような用語が使い分けられていました。

「水門・津・泊・船瀬」が

柿ノ本人麻呂は「中(那珂)の水戸」と表記しています。水戸=水門=「河口にできた船着き場」になります。そうすると「中の水戸」は、金倉川河口にあったことになります。
 以上から那珂郡の湊は、この潟湖の中の那珂郡に属する部分か、旧金倉川沿いあったのではないかと私は考えています。その根拠を挙げておきます。
①金倉川は那珂郡の重要輸送ラインであった。その河口に湊を設置するのが便利
②道隆寺・下金倉・北鴨 →  金倉寺は活発な人とモノの動きがあった。
③多度郡の古代の郡港は弘田川河口の白方にあり、競合関係にはなかった
④「中(那珂の水戸」は、旧金倉川河口にあった潟湖が考えられる。
以上を整理して起きます
1 柿ノ本人麻呂の歌の中に「中の水門=那珂郡の湊」から出港したことが出てくる
2 那珂郡の湊については、従来の説では津森や今津などが挙げられてきた。
3 しかし、津森や今津は古代の時点で砂堆によって陸封化され、湊としての利用は難しかった
4 そこで、現在の金倉川河口の東側の那珂郡に属する潟湖の内側が那珂郡の湊候補として考えられる
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

追補
 「中乃水門」について「新編丸亀市史1 398P」には次のように記します。
①四条川は田村番神から左折して、津森町の東部を北流し海に注いでいた。②その河口に開けたのが中之水門であり、ここに津の守が設けられた。近世にはいり集落が形成されて、現在の津森町の地名になった由来ももこれに起因する。
平野部に位置し津としての立地条件はよくないが、南海道那珂郡衙からまっすぐに通じ、距離もわずか三・五㎞と近い。四条川によって長年月にわたり運ばれたおびただしい土砂は、海中に堆積して広大な洲を形成した。現在の福島町・新町・新浜町・塩屋町・前塩屋町・天満町などである。
 このように③四条川の河口に開けた中乃水門は、しだいに内陸部に位置するようになり、津としての機能を失ってゆく。④中世に至って、四条川の支流である西汐入川に新しく開けたのが今津である。承元元年(1207)三月、専修念仏停止で讃岐国に配流となった法上人が、5月に小舟で塩飽を出て上陸したのがここ今津である。
丸亀市史は、流路変更される以前の旧金倉川は四条川であったという立場で書かれています。これを「四条川=旧金倉川」に置き換えて要約してみます。
①四条川は田村番神から左折して、津森町の東部を北流し海に注いでいた。
②その河口に開けたのが中之水門であり、ここに津の守が設けられた。
③近世にはいり集落が形成されて、現在の津森町の地名になった由来ももこれに起因する。
④四条川の河口に開けた中乃水門は堆積作用で陸封化され、津としての機能を失っていった
⑤中世に至って、四条川の支流である西汐入川に新しく開けたのが今津である。

 津森周辺の土地利用図を見ておきましょう。

丸亀市 津森2
丸亀市津森・今津周辺の土地利用図 旧金蔵川の河道跡が何本も見える

先ほど見た西汐入川(旧金倉川)の支流が幾筋も現在の金倉川と併行に南北に流れています。津森町も東西に支流跡が見えます。このように丸亀平野になる前に「丸亀扇状地」では、土器川や金倉川は幾筋もの流れに分かれて網の目状にながれていたことは以前にお話ししました。ここでは、旧金倉川も数多くの支流があったことを押さえておきます。
 次に「北流し海に注いでいた」とありますが、先ほど見たように津森の北には、東西に走る砂堆が東西にB・C・Dとありました。砂堆は、B・C・Dの順番に形成されてきたものですが、その起源は古代に遡ります。そのため旧金倉川は北流できずに、東流して福島町あたりで海に流れ出していました。当時の津森や今津と砂堆の間は、洪水時には湧水池化して広大な芦ノ原となっていたことが考えられます。
以前にもお話ししたように、津森は丸亀扇状地の突端あたりに位置します。その下の砂州の一部を開発することは出来ても、北側にできた遊水池を全面的に開拓できる技術力は古代にはありません。また、湧水地に福島方面から船が入ってこられていたかどうかは分かりません。もし、堀江潟のようになっていたのなら港としての機能はあったかもしれません。今の私に言えるのは、ここまでです。
また、丸亀市史399Pは中津については次のように記します。
 那珂郡の古代の津は、中乃水門であったことはうなずけるが、中世においては堀江津の可能性もある。いずれにしても、中津という津はまったく存在しない。従来、現在の中津町の読み方を誤解して、金倉川の河口を那珂津に比定する説が多いが、これらの説は間違っているのである。起名の由来は中州であり、このナカスが濁音化してナカズとよばれるようになったのである。近世後期に入って、たまたま中津の字が使われたもので、現在もナカツとは決してよぶことはないし、「中州」「中津」は俗称地名であった。

丸亀市史は、金倉川について「人工河川」説を唱えています。その背景として、西嶋八兵衛が満濃池を再築する時に、灌漑用水網を丸亀平野に整備するために、その邪魔になる金倉川の流路変更を行ったということが考えられます。そんな中で、さらに次のような説が出されています。

「金倉川の下流部は、生駒藩時代に流路変更されている。旧金倉川は現在の西汐入川である。」

この説を今回は、見ていきます。  テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。まず地図で西汐入川を見ておきましょう。

丸亀 西出汐川・塩屋
現在の金倉川と西汐入川の流路
上図からは次のような情報が読み取れます。
①金倉川は中津万象園の東側に河口があること
②西汐入川は、丸亀競技場の先代池や平池あたりを源流としていること
③西汐入川は、JR塩屋駅の南500m辺りで流れを、北方向から東北方向に大きく変えること
④西汐入川は、丸亀駅の北に今は河口があること。

約120年前の明治39(1907)年の地理院の地図で、見ておきましょう。

丸亀 西出汐川・塩屋. 明治39年G
              現在の金倉川と西汐入川の流路(1909年)
西汐入川の流路に、大きな変化は見られません。A地点で、大きく屈曲しています。金倉川は、まっすぐに北上するのに、どうして西汐入川はA地点で東に流れを変えるのでしょうか? それを解くヒントが土地利用図に示されています。

丸亀 西出汐川・塩屋. 3
       西汐入川の屈曲点Aの北側には、砂丘帯B・C・Dが東西に横たわっている 

この土地利用図からは、B・C・Dの砂丘帯(微高地)が黄色で着色されています。土器川河口から、多度津までは、土器川と金倉川によって堆積した砂州が続いていました。その砂州の一部がB・C・Dのようです。この砂州によって、西汐入川は北上を阻まれて、東に流れを変えていたのです。
丸亀の砂嘴・砂堆
丸亀周辺の砂州と金倉川・土器川
次に、金倉川の下流部は西汐入川であったという説を見ていくことにします。
まず西汐入川の源流を確認します。
西汐入川の源流2
西汐入川の源流は、平池・先代池あたり
この土地条件図からは次のような情報が読み取れます。
西汐入川の源流は、平池・先代池あたりで、金倉川と併流していること
②金倉川が、かつては東の西汐入川に流れこんでいた形跡があること。
③先代池の北側には「原」「荒」の地名が残り、開発が遅れ湿地が広がっていたこと

金倉川が西汐入川として、丸亀城下に流れこんでいたことを示す絵地図が残されています。
 
金倉川流路変更 
高松市歴史資料館の「讃岐国絵図」 の「圓(丸)亀古城」部分
この地図からは次のような情報が読み取れます。
①「圓(丸)亀古城」が丸亀城で、海側に「町」とあるのが丸亀城下町
②東(左)に土器川河口が描かれている
③西(右)側から「町」丸亀城下に川が流れこんでいること。
④西側の河口から砂嘴が伸びていること
①の「圓(丸)亀古城」の表記は、一国一城令で、廃寺となったので「古城」と呼ばれたようです。しかし、城はなくなっても城下町の一部は残っていたことがうかがえます。それが、御供所・平山・南条・塩飽などの町筋であったようです。
 この地図で研究者が注目するのは、③の西側(右側)から回り込むようにして「町」の北に流れ込んでいる川です。最初は西汐入川かと思っていました。しかし、川の西(右)側には中津・下金倉・上金倉の地名が見えます。中津と上金倉の間を流れています。どうやらこの川は、金倉川のようです。金倉川が今津の北で西汐入川に流れこんで流域を広げて、大きく東に向きを変えて、丸亀城の北側で瀬戸内海に流れ出している様子が描かれているようです。

丸亀城周辺 正保国絵図
 一方、国立公文書館版の讃岐国絵図を見てみましょう。ここからは次のような情報が読み取れます。
①②丸亀城を囲んで、東に土器川、西に金倉川が流れている
③の土器川河口の砂嘴の上に船番所が置かれ、そこから丸亀城に東汐入川が伸びている
④の西汐入川河口にも船番所が置かれていること
ここから先ほど見たように、丸亀城下に西側から流れこんでくる川が小さく描かれています。そして、多度郡と郡境近くに金倉川は下金倉村で海に流れ出しています。この絵地図と先ほど見た絵地図は生駒藩時代のほぼ同時代に、作られた絵図なのに金倉川の流路が違います。これをどう考えればいいのでしょうか。
研究者は次のように記します。
①旧金倉川は中津と今津との間を流れ東流し、九亀城北方の二本の砂堆の間で海へ注いでいた。
②ところが「正保国絵図」では、金倉川は砂堆の間を通らず今津・下金倉間から真直ぐ北に流れ海へ注いでいる。
③一方、北方の二本の砂堆間の入江は金倉川とはつながっていない。ここには西汐入川が流れ込んでいた。
④西汐入川は、かつての金倉川の流路を流れていた。
⑤西汐入川は、中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。
①の旧金倉川河口が、丸亀城下町の西北にあっために、この附近の南条・塩飽町や三浦の街並みは、台風などの度に大きな被害を受けたことが考えられます。

この被害を小さくするために旧金蔵川のルート変更を、現在の原田町や金蔵町付近で行ったのでしょう。その結果、丸亀城下町の水害は大きく減少したはずです。その一方で⑤の結果、中津から津森にかけては、砂堆の後背地湿地が広がり、葦の原野となっていきます。それは「原」「荒」などの地名からもうかがえます。
丸亀新田町
先代池が丸亀扇状地の突端部 その北の新田町
 丸亀扇状地の突端部は、先代池であることは以前にお話ししました。その北側は一段低くなっていて、かつてはここまで海だったようです。ゆめタウン建設時の発掘調査からは、海に面した集落として次のようなものが出てきています。
①製塩土器
②飯蛸壺が8か所から14点
また条里制遺構もでてきています。この辺りが丸亀平野の条里制の北限部であり、人が住んでいたのもここまでだったとされます。
 そして近世に至るまでは、その目の前には旧金倉川が逗留し、葦が茂る湿地が砂堆との間に拡がっていたことになります。ここで開拓が始まるのは山崎時代の承応年中(1652~55)のことで、塩飽島の岸本十郎重綱の子孫で又右衛門によってでした。彼らも廻船業などで得た資金を手にして入植したようです。
 ゆめタウン北東にある天満池を囲むように南と西に、塩屋の飛地がありました。この飛地は新田の開拓より数年遅れて、塩屋の人々が約11町歩の土地を開拓したという記録があります。赤穂からきた塩職人が塩田を開き、塩屋別院を建立し、門徒たちが集まり住むようになります。その門徒集団によって開かれた飛び地のようです。先に塩飽島出身者が開墾した新田に刺戟され、塩屋の天満の人々が新田に隣接したこの地を開墾したことが考えられます。
以前を整理して起きます。
①旧金倉川は金倉附近から、現在の西汐入川に流れ込み、丸亀の西へ流れこんでいた
②丸亀城下町の水害からの防衛のために、金倉川が金倉附近で付け替えられ、まっすぐに北上して下金蔵で海に流れ出すように流路変更が行われた。
③その結果、旧金倉川流路が湿地化し、開拓が始まり、新田が開発された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)


 丸亀港と云えば福島港を連想します。しかし、福島港が丸亀城下町の看板港になるのは19世紀になってからのようです。福島港がどのように発展してきたのかを絵図で追いかけて見ようと思います。
まずは、時代をぐーんと遡って、丸亀平野の地質から始めましょう。

丸亀平野の扇状地

丸亀平野は、①土器川と②金倉川の扇状地をベースにできています。この二つの川が、暴れ狂う龍のように流れを変えながら扇状地を形成します。それが黄色で現されています。④の丸亀競技状付近がその先端になることが発掘調査からも分かっています。そこから北は、その後の縄文海進や堆積作用で氾濫平野が形成されていきます。つまり、丸亀城のある亀山は、湿原の中にぽっかりと浮かぶ小島のような形であった可能性があります。山北八幡神社の由緒書きには、満潮時には亀山までの波が打ちよせていたと記されているのは前回見たとおりです。裏付け史料として丸亀平野の条里制遺構を見ておきましょう
丸亀平野北部 条里制

 ⑥が丸亀城です。この周囲は真っ白で、条里制遺構はありません。湿地帯で耕地には適さなかったようです。ついてに、亀山が鵜足郡と那珂郡の境界上にあること、③の金倉川流域にも条里制遺構がないことを押さえておきます。 

それでは、亀山の北はどうなっていたのでしょうか。拡大して見ましょう。
丸亀平野 地質図拡大版

  亀山(丸亀城)から北には、氾濫平野が広がりますが、古代には満潮時には海面下になりますので人が住むことは出来ません。人が住めるのは、亀山から西に伸びる微髙地です。現在の南条町あたりになります。
 ここで注目したいのは、海際には砂州①と砂州②が東西に伸びていることです。これは、流路を変えながら金倉川と土器川が運んできた砂が海岸線に沿って堆積したものです。古代には、土器川と金倉川の河口は、砂州で結ばれていたようです。よく見ると砂州①と②は、丸亀駅付近で途切れています。ここが西汐入川の海への出口となります。そうすると砂州①が現在の御供所、平山町になります。そして砂州②の東先端付近が福島町になるようです。
古代丸亀周辺の砂州と流路を見てみましょう。
丸亀の砂嘴・砂堆

砂州①②以外にも、砂州③④⑤があります。この砂州と川の流路の関係を考えて見ます。現在この流域を流れているのは、上金倉を源流とする西汐入川です。この川は、北に向かって流れず東に向かって流れて、丸亀駅の西北で海に流れ出しています。どうして真っ直ぐに北に流れないのか不思議に思っていました。この地質図を見て納得することができます。東西に伸びる砂州が幾重にも待ち構え、西汐入川は北上できないのです。そこで東に流れ砂州①と②の間まで行って、やっと海へ出れることになります。

 この砂州①②は、近世初頭の絵図には、どのように描かれているのでしょうか?

丸亀城周辺 正保国絵図
1644年に丸亀藩山崎家が幕府に提出した正保国絵図です。
通目したいのは、丸亀城の北にある③と④の半島のような地形です。その先端には「舟番所」とあります。実は、③と④が先ほどの地質で見た砂州①②にあたると研究者は指摘します。
これを、同時期に作られた正保城絵図と比べて見ましょう
讃岐国丸亀絵図 拡大

 地質図で見たように砂州①②の間を⑤西汐入川が海に流れ出しています。そして、砂州1・2の先端には、それぞれ舟番所が描かれています。この絵図からは、砂州1の上には、宇多津から移住してきた三浦(御供所・西平山・北平山)の家並みが海沿いに続きます。
 一方、砂州2には番所があるだけで民家の姿は見えません。この砂州2は、西汐入川によって隔てられ「中須賀」と呼ばれていました。この無人の砂州が福島町に発展していくようです。そのプロセスを追ってみましょう。
延宝元年(1673)になって、大工七左衛門ら16人が、藩に中須賀に家を建てたいと願い出ます。

丸亀城下町比較地図41

具体的には、南側の波打ち線際から八間下がったところに幅三間の道を東西に伸ばし、その道に沿い表口10間奥行25間を一屋敷とし、屋敷は船作事場と菜園にしたいという願い出でした。「船作事場」を行うのですから申し出た大工は、船大工だったことが分かります。当時は、塩飽が幕府の海上輸送を独占し、船の需要がうなぎ登りの時代です。その波及効果が海を越えて丸亀城下町にも及んでいたようです。船大工にとって海に近い方が何かと便利だったのでしょう。

 六年後の延宝七年になって、 一戸につき表口五間、裏へ二〇間の屋敷と、西の方では五間に二〇間の菜園場が認められることになりました。その代わりとして、 一屋敷12匁の納入を求められます。これを16戸が負担し、計192匁を町役銀として納入することになります。その際に、戸数が増えても、この金額は変わらないという約束を取り付けます。
丸亀城下町比較地図51

こうして貞享元年(1684)から砂州の上に家の建築が始まります。
3年後には、最初に申し出た16屋敷とほかに8屋敷増えて、計24屋敷がそれまで無人だった砂州に軒を並べることになります。同時に、新しい街の氏神様として天満官を勧進し、共同井戸も掘り、4年後の元禄元年(1688)には弁財天も祀るようになります。
  しかし、浜町から海を隔てた洲浜の地で生活することは何かと不便です。その上、いざというときの藩船の御用にも間に合わないこともあります。
そこで、元禄三(1690)年、濱町と結ぶ橋の架橋願いを出します。
丸亀城 福島町

藩はこれを認めて、銀一貫五〇〇匁を支給します。こうして、藩の普請奉行のもと人足600人が架橋工事に当たります。資金が不足したので、大坂の安古町さかいや惣兵衛から丁銀で一貫目を借りています。さらに町から上納する192匁をこの橋のため用立てることが許されたます。こうして元禄四(1691年2月に橋は完成します。当時の藩主高豊がこの橋を「福島橋」と命名します。この橋名にちなんで、中須賀の町は以後は福島町と呼ばれるようになります。橋の長さは15間5尺で、場所は現在のJR丸亀駅の東の重元果物店の西北の所にありました。
坂本龍馬が渡った福島橋の欄干と常夜燈(丸亀市) | 自然、戦跡、ときどき龍馬
福島橋の欄干と常夜灯
福島橋と町の変遷を、「古法便覧」は、次のように記します。
宝永四年(1707)、福島橋床石垣普請、人足千人ご用立をし、福島側より普請。
享保四年(1719)、福島橋新たに仕替えるため銀五貫目拝借し、無利子十年返済の達しあり
享保六年(1721)福島橋の石垣が崩れ落ちた。橋が長くなったためで、修理のために町と三浦から費用の半分負担を申せ付けられた。
享保十年(1725) 福島にて相撲を行う。
元文二年(1737)正玄寺・善龍寺にて芝居興行が許可、これまで芝居は停止されていたが、福島町は橋修復資金のために興行許可が下りた。
元文三年(1738)橋架け替えのため藩の舟子の道具を拝借したいと、藩の船頭に申し出た。
元文四年(1739)福島橋の銀については大年寄も承知しておくこと。
宝暦三年(1753)、橋修復のため芝居興行を願いでたが不許可。その代わり銀二貫目、無利子拝借し七年返済とした。
同年六月、福島橋開通記念の時に、大年寄・御用聴役らが行列の押えに出るよう求められ、祝儀に 樽一荷、生鯛一折をいただいた
天明元年(1781、橋架掛替と山北八幡官の御祭礼があり、お上より御祝儀として白銀10枚下
された。

これを見るとたびたび架け替え修復が必要だったことが分かります。改修費は福島町の住民負担でした。公共事業だから藩が面倒見ると云うわけではないようです。そのため間役銀・棒役は免除されています。また橋の維持費をひねり出すために芝居興行をひんぱんに催しています。

福島橋の掛け替えについては、次の文書もあります。
一福島橋の儀、先年は春秋両度芝居の徳用銀等を以て、掛替修覆等仕り来り候の処、去る天保午歳掛替の節は入用銀調達相成り難く、拠んどころ無く十八貫目拝借御願ひ中上候の処、 貧町の事故、 その後上納も三、四度にて柳の上納、その余の処は今以て上納に相成中さず候の処、その後弘化三午歳板替の節も過分の入箇に御座候えども、最早拝借の儀も中上げ難く、町内にて色々心配仕り漸く出来に相成り……(中略)
……最早近年の内には、板・欄干等取替中さずては相成り難く、貧町にて右様過分の入箇まで引受け罷りあり候儀も御座候につき何様にても、以来の通り定間割に仰せつけなされ下され度く候事
安政三丙辰十一月                     福島町
意訳変換しておくと
福島橋の件について、前回は春秋の度芝居の徳用銀収入で、掛替修覆費を賄いました。また天保の掛替の時にはは入用銀調達が困難で、仕方なく十八貫目を拝借しての掛け替えとなりました。貧しい町のことですので、 その後の上納も未だ完済できていません。その後、弘化三の橋の板替の時も過分の援助をいただいており。これ以上拝借することもできません。町内では、色々と心配しております。(中略)
……最早近年の内には、板・欄干などの取替を行わなければなりません。貧町の福島町には過分の出費を負担することもできませんので、これまで通りの定間割を仰せつけていただけるようにお願い申し上げます。
安政三(1856)年十一月                      福島町

 ここからは、福島橋の修復が町民のおおきな負担であると同時に、橋修理費を捻出するために芝居や相撲の勧進を町を挙げて行っていたことが分かります。それが町民の団結力となっていたのかもしれません。

 西讃府志には、戸数198、人口989(男490、女499),馬3。寺は白蓮社・大師堂・庵、神祠は天満宮2・弁財天、白蓮社が玄要寺院内より移されています。庵は西山寺へ、天満宮と弁財天は寛保元年に合祀(現市杵島神社)して、福島弁天として信仰を集めるようになります。町の東側に船着き場があったので、金毘羅参拝客の増加と共に繁栄するようになります。
福島町が表玄関になるのは、文化3年に福島湛甫が作られてからです。

丸亀城 福島町3

福島湛甫は東西61間・南北50間・入口18間・満潮時水深1丈余で、役夫延5万人余・此扶持米485石余・石工賃銀18貫の経費で完成します。丸亀繁昌記には、材木問屋が軒を並べて賑わう湛甫近辺の様子が記されています。福島湛甫の完成で、丸亀港の航行が容易となり安全性も高まります。さらに、金毘羅船で上陸した旅客は福島町内を通り浜町方面へと向かうため、町内の旅籠、土産物屋などが急増し福島町は、その目抜き通りとしてにぎわうことになります。それまでは、御供所の東汐入川の川口に入港していた客船は、この福島湛甫を目指すようになり、西汐入川川口に繋留されるようになります。金毘羅船の船着き場も移動したようです。

丸亀城 福島湛甫

 以後、金毘羅船の発着で幕末に向けて飛躍的な発展を遂げることになります。その利益をもとに、持舟をもち、海上商品輸送などに乗り出していく商人も増え、丸亀の商業的中心になっていきます。
丸亀城 今昔比較図

この橋がなくなるのは、浜町と福島町の間の西汐入川が埋め立てられてからのことになります。それは、明治43(1910)年の西汐入川付け替え工事が始まるまで待たなければなりませんでした。これについては以前にお話ししましたので、絵図だけ紹介しておきます。
丸亀市実測図明治 注記入り

明治34年 鉄道が通過し丸亀駅が完成。その裏を西汐入川が流れています。

11929年(昭和4年)

丸亀駅の裏を流れていた西汐入川のルートが変更されました。そして旧川跡は埋め立てられ新町となります。
以上をまとめておくと
①古代の丸亀城のある亀山は、湿地の中に浮かぶ島で、海岸線には東西に砂州が伸びていた。
②そのため古代は耕作地としては適さず、条里制遺構も残っていない。
③近世には砂州①の背後は畑地として耕作されるようになり、砂州①上には宇多津からの移住者の家並みが海沿いにならぶようになった。
④西側の砂州②は中須賀とよばれる無人の砂地であった
⑤そこに船大工たちが家と作業所を建てて暮らし始めると、人々が移り住むようになった
⑦不便なために藩に申し出て橋を建設し、その橋を藩主は福島橋と命名した。そのため町の名前も福島町と呼ばれるようになった。
⑧福島湛甫ができると金比羅船の発着として発展するようになり繁華街となった。
⑨資本蓄積を重ねた商人の中には、持ち舟を持ち商業資本として活躍する者も現れた。
⑩明治になって鉄道が通過するようになり駅裏開発のために西汐入川が埋めたてられ「新町」となった。
⑪こうして福島橋は、お役御免と成り撤去された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史4近世 

  
 「寺社の由緒記・縁起等は一般には信じ難い」といいながら丸亀市史は、山北八幡神社の由緒記を参考にして、お城が出来る前の丸亀周辺のことを探ろうとします。史料がないので、使えるものは批判的に使わなければ書けません。
山北八幡官の由緒記には、古代の丸亀浦について、次のように記されています。
①神功皇后が三韓へ出兵した帰途、この地の波越山(亀山=丸亀城)に風波を避けた折、土地の人が清水を献じ、船も修理した。
②波越山(亀山)の山麓は近くまで潮の満干があり、船造りや修理などをし、舟山神も祀っていた。
③波越山の形は円く、朝日によって西の方に長く影ができ、亀の這うのに似ており、土地の人は円亀山・神山と書き、「かみやま、かめやま」と呼んだ。
④国司讃岐守藤原楓磨が宝亀二年(771)宇佐八幡官に準じて祠をつくり祀った。この祠を土地の人は石清水八幡と尊崇し氏神とした。
ここからは、古くは亀山まで潮の干満が押し寄せていたこと、そこに浪越神が祀られていたこと、さらに八幡神が勧進され八幡神社が鎮座していたことが記されます。この八幡神社が山北八幡神社のようです。つまり「神山=亀山」として霊山でもあったことがうかがえます。
『万葉集』には、柿本人麻呂が丸亀の西にある「中之水門」から舟出して佐美島へ渡りつくった歌「玉藻よし 讃岐の国は国柄か……」があります。「中之水門=那珂郡の湊=中津」と考える人も多いようです。
「道隆寺温故記」には、延久五年(1073)国司讃岐守藤原隆任が、円亀の山北八幡を旧領に造営したと記されています。堀江港の交易管理管理センターとして機能した道隆寺の傘下に置かれていたようです。山北八幡神社を氏子して信仰する集団が、周辺にはいたこともうかがえます。
 古代の条里制遺構を見てみましょう
丸亀平野北部 条里制

⑥の丸亀城は、鵜足郡と那珂郡の境に立地することが分かります。条里で呼ぶと那珂郡1条24里あたりになるようです。しかし、丸亀城のある亀山周辺には条里制遺構は残っていません。23里より北に条里制が残っているのは微高性の尾根上地域が北に続く2条や4条だけです。
 現在の標高5mラインを仮想海岸線だったすると亀山の麓は海浜で、確かに満潮時には波が打ち寄せていたことが想像できます。そこに浪越神が祀られ、後には八幡宮が勧進されたというストーリーが考えられます。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

以前に見たように地質図からも丸亀城周辺は、砂州であったことが分かります。

南海通記には 『南海通記』、 次のように記します。
①享徳元年(1452)、 細川勝元が室町幕府の管領職となった
②その後に、細川家四天王と称せられた香川・香西・安富・奈良の四氏に讃岐の地を与えた。
③鵜足・那珂の旗頭になった奈良元安は、畿内を本領としていたが、子弟を讃岐に派遣し鵜足津の聖通寺山に居城させた。
④その下に、長尾・新目・本目・法勲寺・金倉寺・三谷寺・円亀の城があった
 ここには、15世紀半の奈良氏統治下の那珂郡には、円亀山に支城があったと記されています。しかし、考古学的には確かめられていません。
その後、阿波三好勢力の侵入の中で、鵜足津エリアは篠原氏が支配することになますが、これもわずかのことで、長宗我部元親の制圧を経て、豊臣秀吉の四国統一の時代に入っていきます。

短期間の仙石・尾藤氏の讃岐支配に代わって、 生駒親正が讃岐の領主としてやってきます。彼の下で讃岐は中世から近世への時代の転換をとげていくことになります。
生駒親正がやってきた頃の丸亀の様子は、どうだったのでしょうか?
『西讃府志』の「市井」には次のように記されています。
此地 今ノ米屋町ヲ限り東側ハ鵜足郡津野郷二属キ、西側ヨリ那珂郡杵原郷二属開城以前ハ海浜ノ村ニテ、杵原郷ハ丸亀浦卜唱ヘテ高四百六石八斗九升三合ノ田畝アリ 津野郷ハ土居村トイヒケルフ、慶長六年(1601)其北辺二宇多津ナル平山ノ里人フ移シ 始テ三浦卜呼テ高百七十二石八斗八升ノ田畝アリヽ(以下略)
 意訳変換しておくと
この地は、今の米屋町から東は鵜足郡津野郷に属し、西側は那珂郡杵原郷に属する。丸亀城が開城される前は、海浜の村で杵原郷ハ丸亀浦と呼ばれていた。石高は468石8斗9升3合の田畝があった。一方津野郷は土居村と呼ばれ、慶長六(1601)年に、この北辺に宇多津の平山の里人を移住させて三浦と呼ぶようになった。その石高は172石8斗8升である。(以下略)

 ここからは、先ほど見たように丸亀は鵜足郡と那珂郡の境に位置して、米屋町より西は、那珂郡杵原郷に属する丸亀浦で、東は鵜足郡津郷の上居村だったことが分かります。生駒時代までに、海→海浜→農漁村へと「成長」していったようです。
 周辺の地形復元でも、那珂郡の海岸線には、いくつかの砂堆が南北に走っていたことが分かっています。扇状地としての丸亀平野が終わるとそこには、東西に砂堆が広がっていたことは、以前にもお話ししました。
丸亀城周辺 正保国絵図

元禄十年(1697)の「城下絵図」には、現在の通町の中ほどまでが入海となっています。③の砂州上に、三浦からやって来た人たちが人々が住み着きます。④の中洲は「中須賀」と呼ばれ、後に福島町に発展していきます。
 関ヶ原の戦いの後に、西国雄藩を押さえるために生駒親正・一正父子は高松城と丸亀城・引田城の同時築城を始めます。
それは瀬戸内海を北上してくる毛利軍や豊臣恩顧の大名達を仮想敵としての対応でした。このような緊張関係の中で、丸亀城や高松城は築かれたことは以前にお話ししました。生駒親正は西讃岐の鎮として亀山に築城し、この地を円亀と称すようになります。これが丸亀城の誕生になります。
 築城に先だって土器川と金倉川のルート変更を行ったことが指摘されています。
 亀山の東にある鵜足・那珂両郡の境界を流れていた土器川を約800mほど東へ移した。その川跡が外堀であるという説もあるようです。この外堀は、東汐入川によって海に連なります。
一方西側では、金倉川が北にある砂州によって流れを東へ東へと変えて、現在の西汐入川のルートでを流れていたようです。
金倉川流路変更 

これも上金倉で流路変更を行い、現在のルートにしたことが指摘されています。そして、外堀よりL字形の掘割をつくり海に連絡するようにします。こうして、土器川と金倉川の流路変更を行うことで、外堀の東西から海に続く東汐入川と西の掘割の間が城下となります。

丸亀城 生駒時代

尊経閣文庫の所蔵する生駒時代の丸亀城の絵図「讃州丸亀」を見てみましょう。
亀山の山頂には矢倉が設けられ、山下の北麓には山下屋敷があり、それらを囲んで内堀があります。内堀とその外にある外堀との間を侍屋敷とし、外堀の北方を城下町としています。築城以前は、こここは、海浜の砂堆で畑もあったかもしれません。
山下屋敷は、藩主一族かそれに次ぐ高級武土の居館だと研究者は考えているようです。この山下屋敷は、東・北・西の三方は高さ八間の石垣に囲まれた高台で、南は山腹に連なっています。広さは東西八〇間、南北三〇間の長方形の台地で、そこに屋敷があったようです。現在の紀念碑・観光案内所・うるし林の南の部分にあたるエリアです。この高台の北端は内堀より約20間南に当たります。
 丸亀城築城に伴い城下町形成も行われます。
そのために移住政策がとられます。記録に残る移住者達を視ておきましょう
①那珂郡の郡家に大池をつくり、南条郡国分村の関池を拡張し、香西郡笠井村の苔掛池などを掘ったと伝えられます。このとき、関池付近の住人が城下へ移されところが南条町であると云われます。南条町は地形的には亀山の西に続く高地にあたり、丸亀浦ではもっとも高く、もっとも早く人々が住み着き人家のできたところのようです。
丸亀市南条町塩飽町

また、南条町は西汐入川と外堀を結ぶ運河が城乾小学校の東側から北向地蔵堂を経て外堀にもつながっていました。いわゆる運輸交通網に面していたエリアです。ここに最初の人々が居を構えるのは納得できます。
② 豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に、生駒氏が朝鮮に出兵した時には、塩飽の水夫や鵜足津の三浦の水夫が従軍したと云われます。水軍整備の一環として、塩飽島民の一部が城下へ移されたと伝えられます。これらの人々は、南条町の東側に定住地が指定されたようです。これが塩飽町と呼ばれるようになります。

宇多津平山からの三浦漁夫の移住 
慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの後も、これで天下の行方に決着が着いたと考える人の方が少なかったようです。もう一戦ある。それにどう備えるかが大名たちの課題になります。ある意味、軍事的な緊張中は高まったのです。瀬戸内海沿いの徳川方の大名達は、大阪に攻め上る豊臣方の大名達を押しとどめ、大阪への進軍を防ぐことが自らの存在意義になると考えます。徳川秀忠をとうせんぼした真田家の瀬戸内版と云えばいいのでしょうか。そのための水城築城と水軍の組織強化が進められたと私は考えています。生駒氏が、丸亀・高松・引田という同時築城を、関ヶ原以後に行ったのは、このようなことが背景にあるようです。

丸亀市平山

 丸亀城築城中の生駒一正は、城下町形成のため、鵜足郡聖通寺山の北麓にある三浦から漁夫280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に移住さています。この三浦とは現在の御供所・北平山・西平山の三町になります。彼らをただの漁民とか水夫と見ると、本質は見えなくなります。塩飽の人名とアナロジーでとらえた方がよさそうです。この3つの浦は、中世には活発に交易活動を営んでおり、多くの廻船があり、交易業者がいた地区です。彼らはこれより前の文禄元年(1592)、 豊臣秀吉の命により朝鮮へ出兵した生駒親正に、 塩飽水夫650人、三浦の水夫280人が従軍しています。塩飽水軍と共に、水夫としてだけでなく、後方物資の輸送などにも関わっていたようです。彼らを城下町の海沿いエリアに「移住」させるということは何を狙っていたのか考えて見ましょう。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫
②瀬戸内海交易集団の拠点
③商業資本集団
これらは生駒氏にとっては、丸亀城に備えておくべき要素であったはずです。そのために、鵜足津から移住させたと研究者は考えているようです。
妙法寺(香川県丸亀市富屋町/仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)) - Yahoo!ロコ
妙法寺
 生駒氏以前には、丸亀にはお寺はほとんどなかったようです。
古いお寺としては文正元年(1466)に、鵜足津から中府へ移り東福寺と称し、さらに天正年間高松へ移り見性寺と改称された寺があるくらいです。多くの寺社は、生駒氏の城下町形成に伴って移って(移されて?)きたようです。その例として丸亀市史が挙げるのが、次の寺院です。
①豊田郡坂本村から日蓮宗不受不施派であった妙法寺
②鵜足津から丸亀へ、さらに高松へと移った日妙寺
③聖通寺山麓から280人の水夫の移住に伴い、真光寺・定福寺・大善院・吉祥院・威徳院・円光寺などが丸亀の三浦に移ってきます
これらの寺のうち定福寺・大善院・吉祥院・威徳院は、丸亀城の鎮護として鬼門に当たる北東に並んで建立され、俗に寺町四か寺と称されるようになります。
山北八幡宮と御野屋敷跡(丸亀市) | どこいっきょん?
山北八幡神社
亀山の南にあるのに、山北八幡と云うのはどうして?
 先ほど見たように山北八幡宮は、もともとは亀山の北麓に鎮座していました。そのため「山北」と呼ばれていました。ところが築城のために移転させられ、現在の杵原村の皇子官の社地に移りました。この結果、亀山の南に鎮座ずることになりました。しかし、社名は「山北八幡」のままです。
富屋町の稲荷大明神も田村から慶長四年(1599)に移ってきたと伝えられます。
移転してきた時は、社殿のすぐ北まで海水が満ちていたと云います。築城とともに人が集まり、上下の南条町を中心に、塩飽町、 さらにその東に兵庫町(現富屋町)、 北に横町(現本町)、浜町へと人家が広がり、その家々に飲み込まれていったようです。
「生駒記」には慶長七年、一正が丸亀城から高松城に移り、城代を置いたとあります。このときには、町人の中から高松へ殿様に付いていった人たちもいたと云われます。現在高松にある商店街丸亀町は、このときに丸亀からの移住者によって作られた町とされます。私には「希望移住」と云うよりも「指名移住」であったようにも思えます。
お城ウンチク(松江城・萩城)│inazou blog

 元和元(1615)年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると一国一城令が出され、丸亀城は廃城になります。
私は、これに伴い城下町も消滅したのかと思っていました。しかし、どうもそうではないようです。生駒時代の末期に当たる寛永十七年(1640)に記された「生駒高俊公御領分讃州郡村丼惣高覚帳」の丸亀城下に関係のある所を見てみましょう。
那珂郡の内
一高四〇六石八斗九升一合    円(丸)亀浦
内 一八石 古作              見性寺領
四七石三斗五升七合          新田悪所
鵜足郡の内
一高一七二石八斗八升            三浦
翌十八年の「讃岐国内五万石領之小物成」に、
仲郡之内
一 銀子二一五匁 但横町此銀二而諸役免許      円亀村
一 米三石 但南条町上ノ町此米二而諸役免許    同 村
一 米五石 但三町四反田畑共二請米          同 村
一 塩八五一俵二斗九升六合 但一か月二      同 村
宇足郡之内
一 千鯛一〇〇〇枚                三浦運上
一 鱗之子一五〇腸               同 所
このとき、田村の総高が803石余です。円亀浦は406石ですので、農地は、田村の約半分ぐらいはあり、相当広い農地がお城の北側に広がっていたことが想像できます。同じように、三浦は172石です。これは円亀浦の約四割強に当たります。ここにも、ある程度の広さの農地があったことがうかがえます。農地が広がるなかに街並みが続いていたようです。
ここで丸亀市史が指摘するのは、小物成(雑税)として円亀村では銀子や米を上納していることです。丸亀村からは「銀子二一五匁」が収められ、その内の「横町此銀二而諸役免許」と「諸役免許」の特権が与えられています。ここからは商人や海運者などが廃城後も住み着いていたことがうかがえます。
 また塩851俵とあります。これは塩屋村からの上納品と考えられますが、すでにこれだけの塩の生産力があったことを示します。また、三浦からは運上(雑税)として「干鯛・鱗之子」が納めています。これは東讃大内郡の「煎海鼠・海鼠腸」とともに讃岐の特産物で、江戸・京では珍重されていたようです。三浦に移住してきた水夫達は、漁民として活動し、特産品の加工なども行っていたことが分かります。
   私は、政治的に強制力を持って集められた集団なので、一国一城令による丸亀城の取り壊しと共に、人々は去り、町は消えたように思っていました。しかし、ここからうかがえるのは、生駒藩が形成した旧城下町には、集められた住民はそのまま丸亀に残って、経済活動を続けていた者の方が多かったことが分かります。それは、横町のようにここに住む限りは、様々な特権や免除が約束されていたからでしょう。城は消えたも、街は残ったとしておきましょう。
丸亀城 正保国絵図注記版

正保の城絵図です。これは山崎藩時代に幕府に提出されたものです。
地図では古町を黒く塗りつぶしています。
⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前からあった街並みを指します。古町は微髙地の南条町を中心に、生駒時代に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していった所といえるようです。
 お城がなくなっても、水夫や海運業者や商人たちは残って経済活動を続けていたことが裏付けられます。

丸亀城 正保国絵図古町と新町
⑦新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。
このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記された広い場所が東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって、計画された町なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。
20200619074737

  以上をまとめておくと
①丸亀城築城以前は、亀山まで海が迫り、遠浅の砂浜が土器川から金倉川まで続いていた。
②このエリアが、古代の条里制施行の範囲外となっていることも「低湿地」説を裏付ける
③そのため生駒氏は、土器川・金倉川のルート変更を行い、水害からの防止策を講じた
④その上で、亀山を中心とする縄張りと城下町造りが始まった
⑤最初に街並みが形成されたのは亀山から西の城乾小学校に続く微髙地で、ここに南条町が出来た。
⑥その後、この南条町を中心とする微髙地に、塩飽町などの街並みが形成される。これが「古町」であった。
⑦一国一城令で殿様が高松に去った後も、古町の住人達はこの地を去らずに、丸亀での生活を続けた。
⑧讃岐東西分割後に、西讃に入ってきた山崎藩は、旧城下町の経済活動が活発に行われていた丸亀にお城を「復興」することにした。
⑨そして、古町の東側に新町を計画した。しかし、その東は畑や水田が続いていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 


金倉川河口 土地利用図
金倉川河口付近(土地利用図) 旧流路が幾筋も見える 
丸亀平野を流れる金倉川について、丸亀市史は「人工河川」説を唱えています。満濃池築造時に金倉川は流路変更され、その跡に用水路が整備されたと以前にお話ししました。そんな中で
「金倉川の下流部も、生駒藩時代に流路変更されている。旧金倉現在の現在の西汐入川である。」

という説が出てきました。それは、香川大学の田中教授です。この説を今回は、見ていきます。  テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
.西汐入川jpg
青が西汐入川の流路
 
廃城となった丸亀城  
慶長15年 (1610)に生駒藩では初代一正が亡くなると、嫡子正俊が家督を継ぎます。正俊は高松城を領国支配の拠点と定め、祖父親正の時代に築城された丸亀城を廃城とします。その後に作成された「高松国絵図」には城地に「圓亀古城」と注記され、「丸亀国絵図」 には、樹木の茂る小山として描かれいます。ここからは丸亀城は生駒時代に、城割は行われていたことがうかがえます。
廃城後の丸亀城址について
寛永17年(1640)2月15日「生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳」には、那珂郡の中で丸亀城跡の地名が次のように記されています。
一、高四百六石八斗九升壱合  圓亀(丸亀浦)
   内拾八石古作      見性寺領
    四拾七石三斗五升七合 新田悪所
また、翌18年10月20日の山崎家治宛ての讃岐国内五万石領之小物成帳には、次のように記されています。
一、銀子弐百拾五匁  円亀村
  但横町此銀ニ而諸役免許
一、米三石      円亀村
  但南条町・上ノ町此米ニ而諸役免許
この二つの史料からは、次のようなことが分かります。
① 廃城後の旧丸亀城下町は「」 や「村」になっていたこと
②しかし、築城後に作られた横町や南条町、上ノ町などの町場も残っていたこと。
生駒家の改易後、寛永18年(1641)9月、西讃岐五万石の領主としてやってきたのが山崎家治です。山崎家は翌年7月、丸亀の古城を修復し居城にすることを江戸幕府に認められ、丸亀城の再築と城下町作りに着手します。山崎家は三代で絶えますが、初代家治のとき、正保二年 (1645) に幕府の命を受けて、丸亀城の領分の絵図を提出しています。この時の絵図は、「讃岐国丸亀絵図」で検索すると、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。
 研究者は、同時期に作られた「正保国絵図」の 「讃岐国丸亀絵図」と比較することで、丸亀城下町とその周辺地域での開発の様相を明らかにしていきます。それを見ていきたいと思います。

金倉川流路変更 

まず研究者が示すのは上図です。高松市歴史資料館の「讃岐国絵図」 には「圓亀古城」とあり、海側に「町」と記されています。これが、先ほど史料で見た廃城後も存続した城下町の一部のようです。海沿いのほんの一部にしか過ぎなかったようです。この地図で、注目したいのは西側(右側)から回り込むようにして「町」の北に流れ込んでいる川です。最初は西汐入川かと思っていました。しかし、地図に書き込まれた地名を見ると、上流の流域が細い部分には、「上金倉」や「今津」が見えます。どうやら金倉川のようです。金倉川が今津の北で流域を広げて、大きく東に向きを変えて、丸亀城の北側で瀬戸内海に流れ出していたようです。

丸亀城周辺 正保国絵図
 一方、上図の国立公文書館版の讃岐国絵図を見ると、丸亀城の西側を流れる川は、そのまま北に直流して、下金倉村で海に流れ出しています。ほぼ同時代に、作られた絵図なのに金倉川の流路が違うのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
研究者は「この両図が作成される間に金倉川の河道は、付け替えられた」と指摘します。
 ここで、研究者が注目するのは砂州や砂堆です。丸亀城の北側 (海側) に二本の砂堆 (砂嘴) が描かれています。先ほどの絵図では、金倉川の河口は、二本の砂堆の間にあります。この砂堆は、現在のどの辺りになるのでしょうか。次に研究者が利用するのは、国土地理院の土地利用図です。
丸亀の砂嘴・砂堆
 「図13」 は、丸亀城周辺地域の砂堆と河道を示したものです。
黒い部分が砂堆や砂州です。これを見ると丸亀城の北側の海岸線には、東西方向に延びる①と②の二本の砂堆が発達していたことが分かります。さらに、西北部には③と④二本の砂堆があります。これらの砂堆が並んでいるために、旧金倉川は北流することが出来なくて、砂堆と平行に東流して丸亀城の北側で海に流れ出していたようです。
丸亀平野の扇状地
多度津から丸亀の旧海岸線には砂堆や砂州が形成されていた

旧金倉川の流れをもう少し詳しく見てみましょう。
①河口に三角州帯が形成されたため⑤の砂堆に沿って東へ流れる
② ④の砂堆との切れ目を抜けて海岸近くへ流れる
③しかし、③や②の砂堆に妨げられてまたも東へ方向を変える
④最終的には②と①の砂堆の間から海へ流れ込む。
このように旧金倉川は、いくつもの砂堆によって北に流れることを邪魔されて、東へ東へと導かれていたようです。この流路地と【図12の「高松国絵図」に見える金倉川の流路は、一致します。以上から、次のように研究者は結論づけます。
旧金倉川は中津と今津との間を流れ東流し、九亀城北方の二本の砂堆の間で海へ注いでいた。
ところが「正保国絵図」では、金倉川は砂堆の間を通らず今津・下金倉間から真直ぐ北に流れ海へ注いでいる。一方、北方の二本の砂堆間の入江は金倉川とはつながっていない。ここには西汐入川が流れ込んでいた。つまり、西汐入川は、かつての金倉川の流路を流れていたのである。この川は【図13】から知られるように、中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。

それでは、金倉川の付け替えが行われたのは,いつでしょうか。
金倉川の流路変更2

その、決め手史料として研究者が提出するのが【図15】です。
この絵図の中央下よりの海岸線近くには、小判型の中に「円亀」と記されています。その上には小山に木が茂っている様子が描かれています。これが丸亀城跡のようです。「丸亀」の左脇に「三浦」が同じ小判型の中に記されています。寛永一七・八年ごろ、「丸亀浦」や「九亀町」と呼ばれていた城下町跡です。この地域が「古町」になるようです。
 河川については、土器川と金倉川が次のように描かれています。
①津郷の上井・高津両村と、同じく津郷の土器村との間を流れる土器川、
②下金倉村と杵原今津村との間を流れる金倉川
土器川の流路は、【図12】の「正保国絵図」と変わりありません。研究者が注目するのは、金倉川の流路です。こちらも「正保国絵図」と流路は同じです。ということは、【図12】の「高松国絵図」が作られたのち、「正保国絵図」が描かれるまでの間、さらに時期を絞れば、【図15】が作られる寛永10年(1633)までの間に、金倉川の流路は付け替えられたことになります。この間は、九亀城は廃城になっていた時期に当たります。九亀城は、無くなっているのに金倉川の付け替えという工事が行われなければならなかったのか。何らかの理由があったはずです。
  それを、研究者は次のように説明します。
旧丸亀城下町には、港が置かれていた。九亀は「」であって、そこは「町」となっていた。言い換えれば、港町として機能していたのである。その機能は丸亀城の廃止後も、保たれていたから、安全に船が出入りできるよう港湾の保全を図る必要があった。金倉川を遠方へ付け替えることで、洪水時の水量を減らし、港が設けられている河ロヘ流入する土砂の減少をはかったのである。

 お城はなくても、港と古町は残った。それを守るために金倉川の付け替え工事は、行われたと研究者は考えているようです。
 満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2
整備された満濃池用水

最後に、私の仮説を出しておきます。
 丸亀城廃城後の寛永10年(1633)までの間に、生駒藩が金倉川の付け替えと、西汐入川の新設を行ったことについて、もう少し広い視点から見ておきたいと思います。注目したいのは、この時期の西嶋八兵衛の動きです。襲い来る旱魃に対して、生駒藩奉行に就任した西嶋八兵衛は治水・灌漑を各地で進め、危機に立ち向かう姿勢を藩全体で作り出す事によって難局を乗り越えようとします。その目玉が1628年に着工し、3年後に完成させた満濃池でした。しかし、満濃池の水を丸亀平野全体に供給するためには、整備された用水網が必要です。

まんのう町 満濃池のない中世地図
満濃池が描かれていない絵図。かつての池の中に池之内村があった。

 ここからは以前にもお話ししたので要点だけ記します。
 満濃池の工事に先駆けてか、平行して、丸亀平野の用水路整備が行われたと私は考えています。これは治水工事とセットで行う必要がありました。その治水工事の大きな柱が、暴れ川の金倉川の流路変更です。何カ所かで金倉川は付け替えられた痕跡があることは、丸亀市史が指摘するとおりです。その時期は、満濃池完成までに間に合わせる必要があります。池ができても、用水路がなければ水は来ません。用水路を整備するためには、何匹もの龍が暴れるような川筋を持つ金倉川や四条川を「退治」する必要があったはずです。高松平野の郷東川や新川・春日川で行われたことが丸亀平野の金倉川に対しても行われたということにしておきます。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺与北町付近の金倉川旧流路跡 
 そして、金倉川下流での流路変更は、丸亀の湊と町を守るためであった。さらに、流路変更後の河川跡地が新田開発されていったのではないでしょうか。研究者は次のように指摘します
西汐入川は「中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。」
西嶋八兵衛の動き
1627年寛永4年8・- この頃までに,西島八兵衛,生駒藩奉行に就任
1628年寛永5 10・19 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
           この年 西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
 1631年 寛永8 2・-満濃池の全工事,完成する.
1635年 寛永12 4・3 奉行西島八兵衛,生駒高俊の命により矢原又右衛門に50石を与え満濃 池の管理を命じる
    9・8 西島八兵衛,山田郡神内池を築造する
1637年 寛永14 春 西島八兵衛,松島から新川の間の堤防築造。
1639年 寛永16 12・- 生駒帯刀と石崎若狭らの対立が拡大し、家中立退きの状況となる。生駒騒動勃発
1640年 寛永17 7・26 幕府,生駒藩騒動の処分として生駒高俊の封地を収公し,出羽国矢島1万石に移す.

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

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図書館で「新田橋本遺跡2 エデイオン店舗建設に伴う発掘調査報告書 2015年」という報告書を見つけました。この報告書を見たときに、「新田橋」っていったいどこ?という印象でした。
家電量販店のエデイオンの建設工事にともなう発掘調査だったようです。

丸亀の海岸線 旧流域図3
新田橋本遺跡周辺旧流域想定図
報告書のページをめくると出てきたのが上の図です。「新田橋本遺跡周辺旧流域想定図(S=1/20,000)」と題されています。私が探していた丸亀平野北部の流域復元図がありました。高速道路や11号バイパスの発掘で明らかになった流路をつなぎ合わせていくと、こんな流路復元図が描けるようです。かつて丸亀平野を流れていた河川の流路が黒く示されています。地図の西側を金倉川が流れています。その姿は現在の姿とは、かなり違います。堤防が整備される以前の金倉川は暴れ川で、一条の流れではなく幾筋もの流れとなって、網の目のような姿で瀬戸内海に下っていたことは以前にお話ししました。
丸亀平野 旧練兵場遺跡
善通寺王国の旧練兵場遺跡の復元図
その痕跡がこの復元図からはうかがえます。この図からは見えませんが金倉付近から平池・先代池へと分流する流れもあったと言われます。その流路跡に、平池や先代池は近世になって作られたようです。
 以前に丸亀平野を流れていた四条川のお話をしました。
『全讃史』には、四条川と金倉川が次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫ぎ下金倉に至り海に入る」
ここからは四条川と金倉川は蛇が絡み合うかのように丸亀平野を流れ下っていたことがうかがえます。四条川は櫛梨山と摺臼山の間を、金倉川とともに下り、そして上金倉で流れを東に変えて、土器川と合流していたというのです。最初、これを読んだときにはそのルートを頭の中に思い浮かべることが出来ませんでした。しかし、発掘調査報告書に載せられたいくつもの復元流路図を見ていく中でなんとかイメージを描けるようになりました。
平池南遺跡 5m等高線地図

しかし、丸亀平野北部の河口部がどうなっていたのかは分かりませんでした。今回、この復元図が初めてです。
丸亀平野の扇状地

 もう一度、復元図を見て分かることをまとめておきましょう。
丸亀の海岸線 旧流域図3

①近代以前の金倉川は一条の流れとはなっていないことです。堤防もない時代は、台風などの洪水の時には丸亀平野を網の目のようになって海に流れ下っていました。その中の微髙地に人々は集落を構えていたとされます。これは、近世になるまでかわらないようです。
②新田橋本遺跡の西側には、かつての金倉川支流の西汐入川・竜川の旧流路や低地帯が広がり、瀬戸内海に注ぎ込む直前のエリアになるようです。
③遺跡の西側には天満池の低地が、また、東にも地形が緩やかに下っていきます。つまりこの遺跡は東西の低地に挟まれた微高地上にあったことがわかります。
④この遺跡から北には、集落遺跡は見つかっていません。そういう意味では、この「遺跡は丸亀平野の北限の集落遺構」となるようです。
⑤津森天神社あたりが河口で、那珂郡の湊があったとする人もいますが、確かに津森は河口にあたるようです。
  
調査書が記す丸亀平野の「遺跡概観説明」を見ておきましょう。
報告書の概況説明というのは、研究者には当たり前のことがさりげなく書かれていますが、素人の私にとっては始めて知ることも多くて、見逃せない部分です。私にとって気になるところを拾い読みしていきます。
まず弥生時代の集落遺跡ついては、次のように記されています。
弥生時代前期では、新田橋本遺跡の西に隣接する道下遺跡とその南部に続く中の池遺跡、平池西遺跡、平池南遺跡、平池東遺跡でまとまった前期後半の集落跡が確認されている。特に中の池遺跡は、屈指の規模を誇ることに併せて多重環濠を有することで注目されている
弥生時代中期には、飯野山中腹や南部の山間部など高地性集落へと移行しており、平野部全域で遺跡密度が極端に薄くなる。唯一旧練兵場遺跡で集落が造営される。

弥生時代後期になると、前期集落の分布区域に対応するように、集落が再生されているが、若千生活区域の変動が見られ、金倉川に程近い中の池遺跡では直近地における集落の再生は見られない。生活区域の変動によつて、平野北部では新田橋本遺跡、平野中央部で郡家原遺跡、三条番ノ原遺跡などで新たに集落が営まれるようになる。

ここからわかることは丸亀平野には、環濠をもつ集落がいくつも現れるのですが、それが続かないことです。前期の遺跡は中期になると姿を消していきます。その中で善通寺王国の王都である旧練兵場遺跡だけが継続して発展していきます。これをどう考えていいのか、気候的な変動があったでしょうか? 今の私には分かりません。
 それが弥生後期になると「復興」したり、「新興」の集落が登場してきます。そして、古墳時代には弥生後期の集落を継承する形で存続します。それが古墳時代後期になると、より内陸部に移動した集落が増えていると研究者は考えているようです。
 金蔵寺条里地図

 古代に入ると白村江の戦い(663年)後には、唐や新羅による侵攻に備えて、古代山城である城山が作られます。ここには、渡来人の技術力があったことがうかがえます。また、宝幢寺や田村廃寺などの古代寺院も地元の豪族達によって建設され始めます。彼らは同時に中央政府の進める条里制工事を積極的に担います。こうしての丸亀平野の大部分に条里制の地割が引かれます。大規模土地改良が行われた所は、大きく姿を変えていきます。この条里制による地割りは、現在においても一町(109.09m)四方に区画された方形の地割が残っていて、グーグル地図で見ると碁盤の目状の条里地割がよく分かります。しかし、これは一気に行われたのではなく、その多くのエリアは放置されたままだったことが発掘調査からは分かってきています。照葉樹林帯の森の中にぽつんと開かれた農耕エリアがあったとイメージした方がよさそうです。丸亀平野の開墾・開拓は近代まで続きます。その成果が、現在の姿です。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

新田橋本遺跡の時代ごとの様子を見てみましょう
【弥生時代】            
弥生時代後期頃から、この地域では灌漑用水路の整備が始まります。東西両側が低地に挟まれた微高地にあたるために、集落が形成されるには適していますが、農業を行うためには農業用水に不足するエリアです。そのため上流域から大型の水路を整備しています。弥生時代に開削されたと考えられる大型の溝は3条見つかっています。これらの溝は、古代まで継続的に利用されていたようです。3本の用水路の中でもSD02は、他の溝と比べても合流等が多く、水量も多かったようで、特に重要なものだったと研究者は考えているようです。
 この時代の土器等は出てきたので集落機能はもっていたようですが、建物遺構は出てこなかったようで、詳しいことは分からないようです。
【古墳時代】
弥生時代に整備された大型の灌漑用水路が、古墳時代になっても使われています。しかし、中には埋没し、機能を終えた用水路もあったようです。溝は少し小規模化したようですが、その背景は分かりません。しかし、弥生以来の溝のほとんどは、条里制施行でほとんどが廃止され使用されなくなります。弥生時代と同じように、少量の土器の出土しましたが、建物遺構は出てきません。
【古代】
丸亀平野では、8世紀初頭から条里制施行の大規模土地区画事業が始まります。この遺跡の東にある津森位遺跡では、7世紀の終わり頃には条里地割に沿った溝跡等が確認されています。この遺跡の古代の遺構としての特徴は、条里地割に沿った溝が縦横に多く整備されていることです。更に、建物群が集中して建てられていたことです。出てきた建物跡は、全て掘立柱建物で、それ以前にも建物はあったようですが、条里制施行による土地改良で消失してしまったと研究者は考えているようです。
 発掘エリアの南部では、条里地割の坪界があり、ここには大型の東西溝があります。その南側には、少しランクの落ちる溝が併走しています。この間が道路と研究者は考えているようです。
特徴的なのは、海との関連が強く感じられるものが出てきたことです。
①製塩土器の出土があったこと、
②飯蛸壺が8か所から14点出土したこと。
津森位遺跡からは、やはり飯蛤壺保管用と考えられる土坑も見つかっているので、海岸線近くに立地した集落であったことがうかがえます。
【中世】
古代の景観が基本的には継承されているようです。15棟の建物遺構の内のいくつかは、柱穴の切り合い状況や形状から見ても中世に属するものと研究者は考えているようです。出土遺物も土師質土器片が多く出てきています。大型円形土坑が多く出てきましたが、これは中世につくられたもののようです。各圃地の隅部や縁辺部に配置されているので農業関連遺構のようですが、詳しくは分からないようです。
【近世】
古代以降の条里制地割が継承されています。柱穴列が確認されているので、近世までは継続して集落があったことがうかがえます。その後は、基本地割や景観を保ったまま今に至っていると研究者は考えているようです。

さて、注目したいのは「条里地割の坪界」とされる大型の東西溝がみつかっていることです。
丸亀平野北部 条里制

上図は丸亀平野の条里制復元図です。那珂郡は丸亀城を通る南北ラインを基軸手として、東から一条・二条と五条まで条があったことが分かります。里は南から打たれているので北側は24里まであったようです。
 空白部は条里制が未実施な所とされます。先ほど見た金倉川流域は空白地帯です。そして海岸線を見ると道隆寺より北側も空白地帯です。これは、当時はここが海岸線だったことを示します。
 ⑤の平池から北に流れているのが西汐入川です。その右岸(東側)は空白地帯です。つまり新田橋本遺跡付近は、条里制は施行されていなかったと研究者は考えいました。実際はどうだったのでしょうか。報告書を読み進めていきます。
土器川 扇状地


この遺跡は小字名に『新田』とあるように、周辺は近世の新田開発により形成された地域です。
史料には「町新田・丸亀新田・新興・丸亀新興」という名前で登場してきますが、正式な地名はなかったようです。明治になって丸亀新田となり、明治11年に新田村として那珂郡作原郷に属していましたた。

丸亀平野北部 条里制復元図

 この遺跡の場所は、新田町の北西端で、北は今津町、西は金倉町に接しています。そして、西の天満池水系と東の皿池水系に挟まれる微高地の上にあり、周囲には水田地帯が広がります。しかし、皿池水系エリアでは、条里地割とは軸がずれて水田が整備されています。ここからは、このエリアが古代の条里制施行の時に開発されたものではなく、近世の開発によることがうかがえます。そして、地元の研究者も、「新田」という地名から江戸期になって初めて開発された所と考えていたようです。
 しかし、今回の発掘では古墳時代の用水路が条里制施行によって埋められている跡が出てきました。つまり、この遺跡周辺も条里制実施エリアであったということになります。その復元図が上図になります。この復元図からは、新田橋本遺跡が那珂郡三条二十一里一ノ坪」に位置していたことが分かります。条里制施行による区画整理が行われた後は、大きな地割の変更は行われずに現代に至ったようです。現在の地割が、古代の状況を比較的留めていると研究者は考えているようです。
平池南遺跡 5m等高線地図

調査報告書には、発掘成果を次のようにまとめています
①弥生時代の灌漑用水路が、予想通りにでてきたこと
②古代の条里制施行により土地改良が行われ、現在の地割になったこと、そして、その後に新しい地割に沿った集落遺構が作られたことを裏付ける遺構が発見された
③新田橋本遺跡において初めての建物を検出したこと
④この地割に沿った集落造営は近世まで継続していたこと
①からは、微髙地に水を引いてくるために、上流の湧水などから用水路が整備されていたことが分かります。これは丸亀平野の弥生遺跡の一般的な姿のようです。
②③からは、この微髙地も条里制工事の対象で、8世紀の早い時期に工事が行われ、その後には集落が形成されるようになったことが分かります。
また、海岸線に近く丸亀平野で一番海に近い集落として、漁労活動も行っていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
新田橋本遺跡2 エデイオン店舗建設に伴う発掘調査報告書 丸亀市埋蔵文化財発掘調査報告書20号 2015年
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丸亀絵図5
『讃岐国丸亀絵図』(正保年間一六四四~一六四八年)です。
この城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させたものです。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。その他にも城下の町割・山川の位置・形も載されています。丸亀藩も幕府の命を受けてこの絵図を提出したと思われます。原図サイズは、東西217cm×南北255cmとかなり大きなものです。
  この絵図を見ていると私には分からないことがいくつもあるのですが、それは今は置いておいて基本的なことを確認しておきます。
①丸亀城下町は北に開ける瀬戸内海を意識した城造りがされている。そのため町割りも北には伸びているが東・西は外堀の外は田んぼや畑が広がっていた。
②西側には西南に延びる金毘羅街道沿いに市街位置が形成されている。
③外堀と汐入川を結ぶ運河は、現在の北向地蔵菩薩堂の所で直角に曲がり、城乾小学校の西側を通って汐入川とつながっていた
④汐入川河口は西から東に流れ現在の港公園付近を経由して海に流れ出ていた。
以前に、丸亀駅の北側は汐入川の河口で、その向こうには長い中洲があったこと、そこに人が住むようになり町になり、金比羅船が着く港が作られ大いに繁栄するようになったことをお話ししました。この上の地図では河口の右手(西側)の砂州にあたります。
今回は上(南)に向かって、城の方へ真っ直ぐに伸びている「運河」(水路)について見てみましょう。
この『讃岐国丸亀絵図』には「船入」書かれていることから城下町の奥深くまで船が入りこめるように、運河のような港がつくられていたようです。
丸亀市実測図明治
この「船入運河」は、現在のどこにあったのでしょうか? 
この絵図だけ見ていては分からないので、明治34年の『香川県丸亀市実測全図』と比べてみましょう.。明治34年と云えば日露戦争直前で善通寺に11師団が設立された直後になります。現在の東中学校や大手前高校、消防署・警察署丸亀城には、丸亀連隊が置かれ
明治天皇も視察に訪れたりしています。城の東側(労災病院周辺)には、広大な練兵場があったことが分かります。また、丸亀から高松への鉄道も開通し、丸亀駅も現在地点に移転しているので、江戸時代と現在を比較する際の「座標軸」の役割を果たしていくれるので私は重宝しています。
この地図で注目したいのは次の3点です
①汐入川は丸亀駅のすぐ裏を西から東に流れている
②東に流れる汐入川が直角に流れを返るあたりから南(上)が埋めたてられて「船入運河」が姿を消している
③埋め立てられた上を高松行きの鉄道が通っている。
丸亀市が西汐入川の附け替えと港湾の大改修に着手するのは、日露戦争後のことです。この時点では汐入川は江戸時代と同じ流路でした。
  この地図から推察できるのは、埋め立てられた「船入運河」が流路を東から北にかえるポイントの南への延長線上にあるということでしょうか。17世紀と20世紀の地図を拡大して比較してみると次のようになるようです。
丸亀実測図拡大版
この『香川県丸亀市実測全図』では「船入運河」の細長い港は線路より南(上)は埋め立てられています。その埋められた部分が、この地図でどこに当たるのでしょうか。ふたつの地図を眺めてみると現在の本町通りあたりまでが、埋め立てられた部分になりそうです。
丸亀城下町比較地図1
 現地調査を行って見ましょう。
線路上に「停車場」とあるのが丸亀駅です。駅前の本町通りに百十四銀行支店と記されています。現在はここには、ホテルアルファーワンが建っています。その西通は富屋通りで、南へ行くと妙法寺方面です。この通りは今でも健在です。さて、めざすホテルの東側の通りに入っていきます。はすかいの十字路を越えて丸亀市の商店会連合会事務局の前をなおも進むと、突き当たりになります。そして、左折(東)方向にしか進めない「L字道」になっています。

丸亀福島・新堀
手前左が新堀港・右が福島港 城方向に真っ直ぐ「船入運河」が伸びている
丸亀新堀湛甫3
上の拡大図

 そして、東に進むと、すぐに通町商店街に出て、そこで再び突き当たりとなってしまいます。その突き当たりからさらに東の松屋町の方へ進もうとすると、いったん右折してから、すぐに次の角で左折するというルートをたどらなければなりません。城下町として整然と区画された町割りの中で、この「L字道」は少し「ヘン」です。「地図上の比較 + 現地調査」の結果から「このL字道は、船入運河(港)の終点のコーナーであった」という結論が引き出せそうです。
2丸亀地形図
 江戸時代は、本通りの「ラーメンきらく」あたりまで港が入り込んでいたようです。明治になって鉄道が高松に伸びる頃になって、港の奥が埋め立てられ、本町通りは東に延びて通町で松屋町の方につながりました。しかし、運河によって隔てられていたために埋め立てた後に、本町通りは通町のところで突き当たって、そこから先は道が作られなかったということになります。

丸亀新堀1
 通町の真ん中あたりまで運河が入り込んで、船が出入りしていたということは新鮮な驚きです。満潮になると底の浅い川船に積み替えられた荷物が運ばれてきて、ここから荷揚げされていた光景がかつては見られたのかもしれません。
 丸亀も瀬戸の城下町として目の前の海に向かって開かれた町であり、直接に城下町の真ん中まで船が入ってくることの出来る港湾施設があったようです。

参考文献 井上正夫 丸亀本町通りの東はし 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収

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