前回は西行が23歳で出家し、高野聖としての勧進活動を行いながら、32歳の時には、高野山の先達に連れられて大峯山で百日にわたる本格的な修験道の修行を経ていることを見ました。今回は、50歳になった西行が讃岐にやってきた時の旅程を、山家集の歌で見ていきたいと思います。テキストは「佐藤恒雄 西行四国行脚の旅程について 香川大学学術情報リポジトリ」です
讃岐への出発に先立って、西行は京都賀茂社に参拝奉幣しています。
そのかみまいりつかうまつりけるならひに,世をのがれてのちも,かもにまいりけり,としたかくなりて,四国のかたへ修行しけるに,またかへりまいらぬこともやとて,仁安二(1167)年十月十日の夜まいり,幣まいらせけり,うちへもいらぬ事なれば,たなうのやしろにとりつぎて,まいらせ給へとて,心ざしけるに,このまの月ほのぼのに,つねよりも神さび,あはれにおばえてよみける。
①かしこまるしでになみだのかゝるかな 又いつかはとおもふあはれに(1095)
意訳変換しておくと
世を捨て出家してからも鴨神社への神参りをおこなっていた。四国への修行に出向くに際して,還って来れないこともあるかもしれないと考えて,1167(仁安二)年十月十日の夜に参り,幣を奉納した。社殿へも入らずに、社務所に取り次いで参らせてもらおうと思っていると、その間に月がほのぼのと登り、いつもより神さび,あはれに思えたので一句詠んだ。
①かしこまるしでになみだのかゝるかな 又いつかはとおもふあはれに(1095)
西行の讃岐出発については,1167(仁安2)年説と翌年3年説の両説があるようです。その期間は、次のようないろいろな異説があるようです。
A 短いのは一冬を過しただけでの3ヶ月の旅B 讃岐を拠点にして生活し、宮島に詣でていると考えると、短くとも2、3年の「旅」C 九州筑紫まで讃岐から出向いたとすると10年
西行東下りの図
①の歌が詠まれた10月10日に賀茂神社を参拝しています。その際に「四国のかたへ修行しけるに,またかへりまいらぬことも・・」とあります。定説では「崇徳上皇の墓参と慰霊」のためとされますが、「四国で修行」することが出発前から予定されていたことがうかがえます。崇徳上皇の慰霊に讃岐にやって来て、そのまま居着いてしまったとする説もあるようですが、私はそうではないと思います。同僚の高野聖達から讃岐の善通寺や弥谷寺のことについて、情報を仕入れた上で紹介状なども書いて貰っていたかもしれません。もうひとつ踏み込んで推測するなら、善通寺の伽藍事業のための勧進活動のために、西行が呼ばれたということも推測できます。西行は高野聖で、生活費は勧進活動から得ていたことを想起すれば、そんなことも考えられます。「修行と勧進を兼ねた長期滞在」が出発当初から予定されていたと、ここではしておきます。
鴨神社への参拝した旧暦10月10日(新暦では11月中頃)直後に、西行は京を出発したようです。
山家集には、道筋や航路については何も触れられていません。残された歌から詠まれた場所をたどるしかありません。
法然を乗せて鳥羽の川湊を離れる船(法然上人絵伝 巻34第2段)
参考になるのは、約40年後に讃岐流刑になる法然のたどった航路が絵図に描かれていることです。法然は、京の鳥羽から川船に乗って、淀川を下り,兵庫湊(神戸)→ 高砂 → 室津 → 塩飽 というルートをとていることは以前にお話ししました。
法然を乗せて鳥羽の川湊を離れる船(法然上人絵伝 巻34第2段)
参考になるのは、約40年後に讃岐流刑になる法然のたどった航路が絵図に描かれていることです。法然は、京の鳥羽から川船に乗って、淀川を下り,兵庫湊(神戸)→ 高砂 → 室津 → 塩飽 というルートをとていることは以前にお話ししました。
西行は、山城国美豆野から明石を経て,播磨路に入り,野中の清水に立ち寄って,飾磨か室津あたりの港に入ったようです。それは、以下の歌から推察できます。
西の国の方へ修行してまかり待けるに,みづの(美豆野)と申所にく小しならひたる同行の侍けるが,したしきものゝ例ならぬ事侍とて,く小せぎりければ
意訳変換しておくと
西国へ修行しにいくのに,摂津の美津濃という所で、同行予定の僧待ち合わせをしていた。しかし、近親者の病気で遅れることになり、その時に作った歌が
②やましろのみづのみくさにつながれて こまものう捌こみゆる旅哉(1103)
②の歌詞書の「くしならひたる同行」というのは同僚の西住のことのようです。みずの(美豆野)で落ち合って、同行する予定になっていました。ところが近親者の病気というアクシデントで、それができなくなったようです。ここからも旅の目的は「西国修行」であったことが裏付けられます。
高野聖の姿
西行の廻国は、歌人西行の名声が高まるにつれて美化されていきます。
そのために西行は、旅から旅へ「一杖一笠」の生涯をおくったように思われがちです。私もそう思っていました。しかし実際には、奥羽旅行、北陸旅行、西国安芸・四国へのほかには、大峯・熊野修行などの旅行があるだけです。しかも、それは修行と勧進のための廻国(旅)です。
その目的に従う限りで「異境人歓待」を受けられたのです。そのためには、高野とか東大寺とか鞍馬寺、長谷寺・四天王寺・善光寺などから出てきたという証明書(勧進帳)と、それぞれの本寺の本尊の写しやお札をいれた笈(おい)を、宗教的シンボルとして持っていなければなりませんでした。
高野聖には大師像の入った笈が必需品だったのです。笈を負う形に似ているというので、高野聖は「田龜(たがめ)」とも呼ばれたようです。西行も笈を背負っていたはずです。西行に笈を背負わせていない絵は、歌人としての西行をイメージしているようです。宗教歌人と捉えている作者は、笈を背負わせると研究者は指摘します。
意訳変換しておくと津の国にやまもとゝ申所にて,人をまちて日かずへければ③なにとなくみやこのかたときくそらは むつましくてぞながめられける(1135)
摂津の山本で人を待って日数がたっていくさまを一句
ここの出てくる「津(摂津)の国の山本」が,板木では「あかし(明石)に」とあるようです。地名をがちがうのです。これについては、西住から再度同行する旨の連絡を受けた西行が,迫ってくる西住を明石で待っていた時の詠作であると研究者は考えています。
書写山
明石からは陸路をたどって、姫路の書写山へ二人で参拝しています。
はりまの書写へまいるとて,野中のし水をみける事,ひとむかしになりにけり,としへてのち,修行すとてとをりけるに,おなじさまにてかはらざりければ④むかし見しのなかのし水かはらねば わがかげをもや思出らん(1096)
意訳変換しておくと
播磨の書写山へ参拝した。野中の清水を最初に見てから,年月が経ち遠い昔になった。しかし、年月を経て,修行地に向かうために立ち寄ったのだが,同じ様で風景は替わらないのにことを見て④むかし見しのなかのし水かはらねば わがかげをもや思出らん(1096)
都を出発したのは旧暦10月10日で、新暦では11月中頃のことになります。法然の場合は順調に船で進んで室津まで10日ほどかかっています。西行は、待ち人がいてなお多くの日数を費やしています。そうすると12月になっていた可能性があります。12月になると強い北西の偏西風が瀬戸内海を吹き抜けるようになり、中世瀬戸内海航路を行き交う船は「冬期運航停止」状態になります。そのため西行達も明石からは陸路山陽道をたどったようです。
書写山は、修験者や廻国行者たちの拠点寺院でもありました。
彼らを保護することは、勧進活動の際には大きな力となります。「GIVE &take」の関係にあったのです。「播磨の書写山へ参拝した」とありますが、西行達はここで何日か宿泊したのかもしれません。笈を負った高野聖の西行の宿泊を、書写山は快く迎えたはずです。ここで同行の西住は都へ帰ることになったようです。
彼らを保護することは、勧進活動の際には大きな力となります。「GIVE &take」の関係にあったのです。「播磨の書写山へ参拝した」とありますが、西行達はここで何日か宿泊したのかもしれません。笈を負った高野聖の西行の宿泊を、書写山は快く迎えたはずです。ここで同行の西住は都へ帰ることになったようです。
四国の方へく、してまかりたりける同行,みやこへかへりけるに⑤かへりゆく人のこゝろを思ふにも はなれがたきは都なりけり(1097)
ひとりみをきて,かへりまかりなんずるこそあほれに,いつかみやこへはかへるべきなど申ければ⑥柴のいほのしばしみやこへかへらじと おもはんだにもあはれなるべし (1098)
⑤と⑥の歌については,ここまで同行してきた西住との別れを詠っているようです。西行と西住は,摂津の山本か播磨の明石で落ち合い,播磨路を同行しただけのようです。その後は、飾磨か室津から西行だけが乗船します。初冬の荒れる海の波が収まるのを待って船は出されたのでしょう。西住と別れ,船上の人となった西行は,瀬戸内海の本州岸に沿って西下し,備前牛窓の瀬戸を通り,小島(児島)までやってきます。
吉備児島は島だった
近世以後、「児島湾干拓」で児島湾は埋め立てられて児島は陸続きになりました。
しかし、古代吉備の時代からここには、「吉備の穴海」と呼ばれる多島海が拡がっていていました。児島は、当時は「小島」と書かれていますが、東西10キロ、南北10キロもある大きな島で、山陽側とはつながっておらず、島でした。波が高かったためか児島湾に入り、児島の北側に上陸しています。
児島のことを山家集は、次のように記します。
児島のことを山家集は、次のように記します。
西国へ修行してまかりけるをり,こじま(児島)と申所に八幡のいはゝれたまひたりけるに,こもりたりけり,としへて又そのやしろを見けるに,松どものふるきになりたりけるをみて⑦むかし見し松はおい木に成にけり 我としへたるはどもしられて(1371)
意訳変換しておくと
西国修行に行くのに,かつて修行のために籠もった児島の八幡宮に参拝した。その社の松が古く味わいがあったのを見て一句、⑦むかし見し松はおい木に成にけり 我としへたるはどもしられて(1371)
ここからは、西行はかつて児島にやって来て、この八幡神社周辺で籠もり修行を行っていたことが分かります。児島は熊野行者の拠点で「新熊野」と呼ばれた五流修験の拠点でもありました。五流修験の行者は、ここを拠点に熊野水軍の船に乗り込み、その水先案内人を務めて行場のネットワーク化を進めていきます。そして、塩飽や芸予諸島の大三島などを勢力下に置くことは以前にお話ししました。書写山から五流修験と、高野聖である西行らしい足取りです。
児島の五流修験(新熊野)
次にやって来るのが児島の南側の渋川海岸です。
備前国に小嶋と中嶋にわたりたりけるに,あみ申物とる所は,をのをのわれわれしめて,ながきさは(棹)にふくろをつけてたてわたすなり,そのさはのたてはじめをば,一のさはとぞなづけたる,なかにとしたかきあま人のたてそむるなり,たつるとて申なることばきゝ侍しこそ,なみだこばれて,申ばかりなくおぼえてよみける⑧たてそむるあみとるうらのはつさほは つみのなかにもすく“れたるこひ (1372)
意訳変換しておくと
備前国の小嶋(児島)に渡ってきた。「あみ」というものをとる所は,それぞれの猟場が決まっていて,海中に長い棹に袋をつけて長く立てる。その棹の立て始めを,「一の棹」と呼ぶ。年とった海民が立て始めたという。「たつる」という言葉を聞いて涙がこぼれてきて一句詠んだ⑧立て初むるあみとる浦の初竿は つみのなかにもすくれたるかな (1372)
「あみ」は、「海糖、醤蝦」と書く小さなエビのようです。コマセとも呼ばれるようで、それを採って生業としている漁師たちを「海人(あま)」と表現しています。海中に竿を立てて採る漁法を見て、「涙がこぼれた」というのはどうしてなのでしょうか? それが「つみ」という言葉と関係があると研究者は考えています。「つみ」とは何なのでしょうか?
次の渋川海岸でも「つみ」が登場します。
ひゞ(日比),しぶかほ(渋川)と申す方へまはりて,四国のかたへわたらんとしけるに,風あしくてほどへけり,しぶかはのうらと申所に,おさなきものどものあまたものをひろひけるを,とひければ,つみと申物ひろふなりと申けるをきゝて⑨をりたちてうらたにひろふあまのこは つみよりつみをならふなりけり(1373)
意訳変換しておくと
日比,渋川というところまでやってきて,四国へ渡ろうとしたが,強風で船が出ず渡れない。渋川の浦で風待ちしていると,幼い子ども達が何かを海岸で拾っている。それは何かと聞いてみると,「つみ」というものを拾っているという。それを聞いて一句。⑨を(降)りたちてうら(浦)にひろふあま(海民)のこ(子)は つみよりつみ(罪?)をなら(習)ふなりけり
ここにも「つみ」が登場します。浜辺で拾うと書いているので、貝のようです。当時すでに「罪」という言葉は使われているようですが、ひらがななので「積み」か、「摘み」かもしれません。先ほど句には「つみの中にもすぐれたるかな」とあったので、「採って積まれた海の幸」かとも研究者は推測します。
「玉野市史」に次のように記します。
「扁平な九い蓋のような貝で、浅い海底の砂泥のなかにいる。最近は姿を見ない。」
地元では、「つみ」とは「ツブ」と伝わっているようです。
「蓮の葉カンパン」とよばれる屈平で、丸い海中生物のことで、蓮根を輪明りにした感じで5つの小さな穴があいているヒトデに近い棘皮動物だと伝わるようです。これを、かつては、子供たちがひろって遊んでいたようです。
「蓮の葉カンパン」とよばれる屈平で、丸い海中生物のことで、蓮根を輪明りにした感じで5つの小さな穴があいているヒトデに近い棘皮動物だと伝わるようです。これを、かつては、子供たちがひろって遊んでいたようです。
西行は、地元の発音を「つみ」と、ひらがなで表記しているので、その正体は分かりません。しかし、「つみからつみを習う」とすれば、「貝から罪を習う」という流れになります。漁師の子供たちは、貝を拾っているうちに、「殺生」という罪を習い覚えることを、西行は憂えたのでしょうか?。あるいは、貝や魚を採ることも「殺生」だと気づかずに生きていることを歌にしたでしょうか。 よく分かりません。
渋川海岸からの備讃瀬戸 大槌・子槌とその向こうに五色台
「つみ」という言葉を入れた歌には、もうひとつ次の歌があります。
真鍋と申す島に、京より商人どもの下りて、やうやうの「つみ」のものなどをあきなひて、また塩飽の島に渡りて、商はんする由、申しけるを聞きて、
真鍋より塩飽へ通ふ商人はつみを買ひにて渡るなりけり
意訳変換しておくと
讃岐と安芸の間の真鍋島という島には、京よりやってきた商人たちが船から下りて、様々な「つみ」などを商う。そして、それを仕入れて塩飽島に渡って、商売することを聞いてて、真鍋から塩飽へ通う商人は「つみ」を、買って渡るという
ここの出てくる「つみ」とは、なんなのでしょうか
「やうやう」とは「様々」で、「色々な」という意味でしょう。とすれば沢山の種類の貝「摘み」か「積み」か、大量に採れる海産物のようです。塩飽附近で、たくさんとれる「つみ」を買いに船で真鍋島から商人が船で塩飽に通っているということになります。私は、最初はそう思って、「塩飽が周辺の流通センターの機能を果たしていた裏付け資料」と納得していました。しかし、西行は「言葉遊び」をしているのかも知れないと、思うようにもなりました。先ほど見たように「つみ」を「罪」と重ねているようにも思えるのです。どちらにしても、「つみ」については私はよく分かりません。今回は、讃岐を目の前にした児島の渋川海岸で終わりたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐藤恒雄 西行四国行脚の旅程について 香川大学学術情報リポジトリ
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