瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:西行と讃岐

西行5
西行        

前回は西行が23歳で出家し、高野聖としての勧進活動を行いながら、32歳の時には、高野山の先達に連れられて大峯山で百日にわたる本格的な修験道の修行を経ていることを見ました。今回は、50歳になった西行が讃岐にやってきた時の旅程を、山家集の歌で見ていきたいと思います。テキストは「佐藤恒雄 西行四国行脚の旅程について 香川大学学術情報リポジトリ」です

   讃岐への出発に先立って、西行は京都賀茂社に参拝奉幣しています。 
そのかみまいりつかうまつりけるならひに,世をのがれてのちも,かもにまいりけり,としたかくなりて,四国のかたへ修行しけるに,またかへりまいらぬこともやとて,仁安二(1167)年十月十日の夜まいり,幣まいらせけり, 
うちへもいらぬ事なれば,たなうのやしろにとりつぎて,まいらせ給へとて,心ざしけるに,このまの月ほのぼのに,つねよりも神さび,あはれにおばえてよみける。 
①かしこまるしでになみだのかゝるかな 又いつかはとおもふあはれに(1095) 

意訳変換しておくと
世を捨て出家してからも鴨神社への神参りをおこなっていた。四国への修行に出向くに際して,還って来れないこともあるかもしれないと考えて,1167(仁安二)年十月十日の夜に参り,幣を奉納した。 
 社殿へも入らずに、社務所に取り次いで参らせてもらおうと思っていると、その間に月がほのぼのと登り、いつもより神さび,あはれに思えたので一句詠んだ。 
①かしこまるしでになみだのかゝるかな 又いつかはとおもふあはれに(1095) 

西行の讃岐出発については,1167(仁安2)年説と翌年3年説の両説があるようです。その期間は、次のようないろいろな異説があるようです。
A 短いのは一冬を過しただけでの3ヶ月の旅
B 讃岐を拠点にして生活し、宮島に詣でていると考えると、短くとも2、3年の「旅」
C 九州筑紫まで讃岐から出向いたとすると10年
これについては又別の機会に触れるとして、ここでは先を急ぎます。

西行6
西行東下りの図
①の歌が詠まれた10月10日に賀茂神社を参拝しています。
その際に「四国のかたへ修行しけるに,またかへりまいらぬことも・・」とあります。定説では「崇徳上皇の墓参と慰霊」のためとされますが、「四国で修行」することが出発前から予定されていたことがうかがえます。崇徳上皇の慰霊に讃岐にやって来て、そのまま居着いてしまったとする説もあるようですが、私はそうではないと思います。同僚の高野聖達から讃岐の善通寺や弥谷寺のことについて、情報を仕入れた上で紹介状なども書いて貰っていたかもしれません。もうひとつ踏み込んで推測するなら、善通寺の伽藍事業のための勧進活動のために、西行が呼ばれたということも推測できます。西行は高野聖で、生活費は勧進活動から得ていたことを想起すれば、そんなことも考えられます。「修行と勧進を兼ねた長期滞在」が出発当初から予定されていたと、ここではしておきます。


   
 鴨神社への参拝した旧暦10月10日(新暦では11月中頃)直後に、西行は京を出発したようです。
山家集には、道筋や航路については何も触れられていません。残された歌から詠まれた場所をたどるしかありません。

.鳥羽の川船jpg
  法然を乗せて鳥羽の川湊を離れる船(法然上人絵伝 巻34第2段)

参考になるのは、約40年後に讃岐流刑になる法然のたどった航路が絵図に描かれていることです。法然は、京の鳥羽から川船に乗って、淀川を下り,兵庫湊(神戸)→ 高砂 → 室津 → 塩飽 というルートをとていることは以前にお話ししました。
 西行は、山城国美豆野から明石を経て,播磨路に入り,野中の清水に立ち寄って,飾磨か室津あたりの港に入ったようです。それは、以下の歌から推察できます。

西の国の方へ修行してまかり待けるに,みづの(美豆野)と申所にく小しならひたる同行の侍けるが,したしきものゝ例ならぬ事侍とて,く小せぎりければ 

  意訳変換しておくと
西国へ修行しにいくのに,摂津の美津濃という所で、同行予定の僧待ち合わせをしていた。しかし、近親者の病気で遅れることになり、その時に作った歌が

②やましろのみづのみくさにつながれて こまものう捌こみゆる旅哉(1103) 

②の歌詞書の「くしならひたる同行」というのは同僚の西住のことのようです。みずの(美豆野)で落ち合って、同行する予定になっていました。ところが近親者の病気というアクシデントで、それができなくなったようです。ここからも旅の目的は「西国修行」であったことが裏付けられます。

西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
高野聖の姿

  西行の廻国は、歌人西行の名声が高まるにつれて美化されていきます。
そのために西行は、旅から旅へ「一杖一笠」の生涯をおくったように思われがちです。私もそう思っていました。しかし実際には、奥羽旅行、北陸旅行、西国安芸・四国へのほかには、大峯・熊野修行などの旅行があるだけです。しかも、それは修行と勧進のための廻国(旅)です。
 その目的に従う限りで「異境人歓待」を受けられたのです。そのためには、高野とか東大寺とか鞍馬寺、長谷寺・四天王寺・善光寺などから出てきたという証明書(勧進帳)と、それぞれの本寺の本尊の写しやお札をいれた笈(おい)を、宗教的シンボルとして持っていなければなりませんでした。
 高野聖には大師像の入った笈が必需品だったのです。笈を負う形に似ているというので、高野聖は「田龜(たがめ)」とも呼ばれたようです。西行も笈を背負っていたはずです。西行に笈を背負わせていない絵は、歌人としての西行をイメージしているようです。宗教歌人と捉えている作者は、笈を背負わせると研究者は指摘します。

津の国にやまもとゝ申所にて,人をまちて日かずへければ 
③なにとなくみやこのかたときくそらは むつましくてぞながめられける(1135) 
意訳変換しておくと
摂津の山本で人を待って日数がたっていくさまを一句

ここの出てくる「津(摂津)の国の山本」が,板木では「あかし(明石)に」とあるようです。地名をがちがうのです。これについては、西住から再度同行する旨の連絡を受けた西行が,迫ってくる西住を明石で待っていた時の詠作であると研究者は考えています。

今日の書写山… | 姫路の種
書写山

明石からは陸路をたどって、姫路の書写山へ二人で参拝しています。
はりまの書写へまいるとて,野中のし水をみける事,ひとむかしになりにけり,としへてのち,修行すとてとをりけるに,おなじさまにてかはらざりければ 

④むかし見しのなかのし水かはらねば わがかげをもや思出らん(1096) 
意訳変換しておくと
播磨の書写山へ参拝した。野中の清水を最初に見てから,年月が経ち遠い昔になった。しかし、年月を経て,修行地に向かうために立ち寄ったのだが,同じ様で風景は替わらないのにことを見て
④むかし見しのなかのし水かはらねば わがかげをもや思出らん(1096) 
都を出発したのは旧暦10月10日で、新暦では11月中頃のことになります。法然の場合は順調に船で進んで室津まで10日ほどかかっています。西行は、待ち人がいてなお多くの日数を費やしています。そうすると12月になっていた可能性があります。12月になると強い北西の偏西風が瀬戸内海を吹き抜けるようになり、中世瀬戸内海航路を行き交う船は「冬期運航停止」状態になります。そのため西行達も明石からは陸路山陽道をたどったようです。
  書写山は、修験者や廻国行者たちの拠点寺院でもありました。
彼らを保護することは、勧進活動の際には大きな力となります。「GIVE &take」の関係にあったのです。「播磨の書写山へ参拝した」とありますが、西行達はここで何日か宿泊したのかもしれません。笈を負った高野聖の西行の宿泊を、書写山は快く迎えたはずです。ここで同行の西住は都へ帰ることになったようです。
四国の方へく、してまかりたりける同行,みやこへかへりけるに 
⑤かへりゆく人のこゝろを思ふにも はなれがたきは都なりけり(1097) 
ひとりみをきて,かへりまかりなんずるこそあほれに,いつかみやこへはかへるべきなど申ければ
⑥柴のいほのしばしみやこへかへらじと おもはんだにもあはれなるべし (1098) 
⑤と⑥の歌については,ここまで同行してきた西住との別れを詠っているようです。西行と西住は,摂津の山本か播磨の明石で落ち合い,播磨路を同行しただけのようです。その後は、飾磨か室津から西行だけが乗船します。初冬の荒れる海の波が収まるのを待って船は出されたのでしょう。西住と別れ,船上の人となった西行は,瀬戸内海の本州岸に沿って西下し,備前牛窓の瀬戸を通り,小島(児島)までやってきます。 
吉備の穴海
吉備児島は島だった

  近世以後、「児島湾干拓」で児島湾は埋め立てられて児島は陸続きになりました。
しかし、古代吉備の時代からここには、「吉備の穴海」と呼ばれる多島海が拡がっていていました。児島は、当時は「小島」と書かれていますが、東西10キロ、南北10キロもある大きな島で、山陽側とはつながっておらず、島でした。波が高かったためか児島湾に入り、児島の北側に上陸しています。
児島のことを山家集は、次のように記します。
西国へ修行してまかりけるをり,こじま(児島)と申所に八幡のいはゝれたまひたりけるに,こもりたりけり,としへて又そのやしろを見けるに,松どものふるきになりたりけるをみて 
⑦むかし見し松はおい木に成にけり 我としへたるはどもしられて(1371) 
意訳変換しておくと
西国修行に行くのに,かつて修行のために籠もった児島の八幡宮に参拝した。その社の松が古く味わいがあったのを見て一句、 
⑦むかし見し松はおい木に成にけり 我としへたるはどもしられて(1371) 
ここからは、西行はかつて児島にやって来て、この八幡神社周辺で籠もり修行を行っていたことが分かります。児島は熊野行者の拠点で「新熊野」と呼ばれた五流修験の拠点でもありました。五流修験の行者は、ここを拠点に熊野水軍の船に乗り込み、その水先案内人を務めて行場のネットワーク化を進めていきます。そして、塩飽や芸予諸島の大三島などを勢力下に置くことは以前にお話ししました。書写山から五流修験と、高野聖である西行らしい足取りです。

五流尊瀧院
児島の五流修験(新熊野)

次にやって来るのが児島の南側の渋川海岸です。

備前国に小嶋と中嶋にわたりたりけるに,あみ申物とる所は,をのをのわれわれしめて,ながきさは(棹)にふくろをつけてたてわたすなり,そのさはのたてはじめをば,一のさはとぞなづけたる,なかにとしたかきあま人のたてそむるなり,たつるとて申なることばきゝ侍しこそ,なみだこばれて,申ばかりなくおぼえてよみける 
⑧たてそむるあみとるうらのはつさほは つみのなかにもすく“れたるこひ (1372) 
  意訳変換しておくと
備前国の小嶋(児島)に渡ってきた。「あみ」というものをとる所は,それぞれの猟場が決まっていて,海中に長い棹に袋をつけて長く立てる。その棹の立て始めを,「一の棹」と呼ぶ。年とった海民が立て始めたという。「たつる」という言葉を聞いて涙がこぼれてきて一句詠んだ
⑧立て初むるあみとる浦の初竿は つみのなかにもすくれたるかな (1372) 

「あみ」は、「海糖、醤蝦」と書く小さなエビのようです。コマセとも呼ばれるようで、それを採って生業としている漁師たちを「海人(あま)」と表現しています。海中に竿を立てて採る漁法を見て、「涙がこぼれた」というのはどうしてなのでしょうか? それが「つみ」という言葉と関係があると研究者は考えています。「つみ」とは何なのでしょうか?
  次の渋川海岸でも「つみ」が登場します。

ひゞ(日比),しぶかほ(渋川)と申す方へまはりて,四国のかたへわたらんとしけるに,風あしくてほどへけり,しぶかはのうらと申所に,おさなきものどものあまたものをひろひけるを,とひければ,つみと申物ひろふなりと申けるをきゝて 
  ⑨をりたちてうらたにひろふあまのこは つみよりつみをならふなりけり(1373) 
意訳変換しておくと
日比,渋川というところまでやってきて,四国へ渡ろうとしたが,強風で船が出ず渡れない。渋川の浦で風待ちしていると,幼い子ども達が何かを海岸で拾っている。それは何かと聞いてみると,「つみ」というものを拾っているという。それを聞いて一句。
  ⑨を(降)りたちてうら(浦)にひろふあま(海民)のこ(子)は つみよりつみ(罪?)をなら(習)ふなりけり 
ここにも「つみ」が登場します。浜辺で拾うと書いているので、貝のようです。当時すでに「罪」という言葉は使われているようですが、ひらがななので「積み」か、「摘み」かもしれません。先ほど句には「つみの中にもすぐれたるかな」とあったので、「採って積まれた海の幸」かとも研究者は推測します。
 「玉野市史」に次のように記します。

「扁平な九い蓋のような貝で、浅い海底の砂泥のなかにいる。最近は姿を見ない。」

HPTIMAGE
謎の生物 つみ
と絵入りで推定していますが、今も特定できないようです。

地元では、「つみ」とは「ツブ」と伝わっているようです。
「蓮の葉カンパン」とよばれる屈平で、丸い海中生物のことで、蓮根を輪明りにした感じで5つの小さな穴があいているヒトデに近い棘皮動物だと伝わるようです。これを、かつては、子供たちがひろって遊んでいたようです。

西行は、地元の発音を「つみ」と、ひらがなで表記しているので、その正体は分かりません。しかし、「つみからつみを習う」とすれば、「貝から罪を習う」という流れになります。漁師の子供たちは、貝を拾っているうちに、「殺生」という罪を習い覚えることを、西行は憂えたのでしょうか?。あるいは、貝や魚を採ることも「殺生」だと気づかずに生きていることを歌にしたでしょうか。  よく分かりません。
海開き前の渋川海岸 in 岡山・玉野市 - 続・旅するデジカメ 我が人生
渋川海岸からの備讃瀬戸 大槌・子槌とその向こうに五色台

「つみ」という言葉を入れた歌には、もうひとつ次の歌があります。

真鍋と申す島に、京より商人どもの下りて、やうやうの「つみ」のものなどをあきなひて、また塩飽の島に渡りて、商はんする由、申しけるを聞きて、
真鍋より塩飽へ通ふ商人はつみを買ひにて渡るなりけり

意訳変換しておくと
讃岐と安芸の間の真鍋島という島には、京よりやってきた商人たちが船から下りて、様々な「つみ」などを商う。そして、それを仕入れて塩飽島に渡って、商売することを聞いてて、
真鍋から塩飽へ通う商人は「つみ」を、買って渡るという
 ここの出てくる「つみ」とは、なんなのでしょうか
「やうやう」とは「様々」で、「色々な」という意味でしょう。とすれば沢山の種類の貝「摘み」か「積み」か、大量に採れる海産物のようです。塩飽附近で、たくさんとれる「つみ」を買いに船で真鍋島から商人が船で塩飽に通っているということになります。私は、最初はそう思って、「塩飽が周辺の流通センターの機能を果たしていた裏付け資料」と納得していました。しかし、西行は「言葉遊び」をしているのかも知れないと、思うようにもなりました。先ほど見たように「つみ」を「罪」と重ねているようにも思えるのです。どちらにしても、「つみ」については私はよく分かりません。今回は、讃岐を目の前にした児島の渋川海岸で終わりたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐藤恒雄  西行四国行脚の旅程について  香川大学学術情報リポジトリ
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西行1

西行といえば有名な歌人として私の中にはインプットされていました。彼の作品は、のちの連歌師宗祗や俳講師芭蕉の手本となったように、旅を生命とした吟遊詩人でもあったというのが私の西行観でした。
 ところが「西行の本業は高野聖」であったということが書かれた本に出会いました。「五来重 高野聖 13章 高野聖・西行」です。ここには「隠遁性・廻国性・勧進性・世俗性」などの視点からすると、西行は高野聖だと云うのです。その本を見ています。
崇徳院ゆかりの地(西行法師の道) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る
坂出市青海町

西行は、讃岐にもやって来ています。

白峰寺で崇徳上皇の怨霊を鎮めたり、弘法大師が捨身修行したと伝えられる善通寺の我拝師山で庵を結んで、三年近くの山岳修行も行っています。その合間に、記録や歌を残しています。讃岐での生活も、修行よりも、歌の方に関心が向けられることが多いようです。しかし、讃岐への旅も、芭蕉のような風雅の旅ではなく、慰霊の旅であり、四国辺路の聖地での修行であったのです。その余暇に歌は作られていました。
諸国行脚の歌人 西行が歌い歩いた道を行く | わかやま歴史物語

西行が、いつ、どこで、どのくらい修行したのかを、年表化して確認しておきましょう。
保延六年(1140)23歳 出家
久安五年(1149)32歳 高野山入山
治承四年(1180)63歳 高野山退山 
ここからは32歳から63歳まで約30年間を高野聖として、隠遁と廻国と勧進にすごし、その副産物として多くの歌をのこしたことが分かります。
高野山に入るまでの西行の姿を追ってみましょう
西行は出家して2年後の康治元年(1142)二月十五日、内大臣頼長の邸に一品経の勧進にあらわれたことが次のように記されています。
西行法師来りて云ふ。 一品経を行ふに依り、両院以下の貴所皆下し給ふ也。料紙の美悪を嫌はず、只自筆を用ふ可しと。余軽々しくは承諾せず。又余年を問ふ。答へて曰く、二十五、抑も西行は、右兵衛尉義清(のりきよ)也 重代の勇士を以て法皇に仕へ、俗時より心を仏道に入れ、家富み年若くして心無愁なり。遂に以て遁陛す。人之を歎美する也
意訳変換
西行法師がやってきて次のようなことを言った。「一品経の書写を、両院以下の貴所が全て行うことになった。紙の善し悪しにかかわらず、自筆で行うのがよい」と。私は、軽々しく承諾しなかった。そして、西行の年齢を聞いた。二十五歳と答えた。そもそも西行は、佐藤義清(のりきよ)である。彼は、勇士として法皇に仕へながら、俗事より仏道に心を奪われた者である。家は富み、年は若くしながら心は無愁で、隠遁生活を選んだのだ。これを賛美するものが多い。

ここからは次のようなことが分かります。
①西行が勧進僧として活動していること
②当時の年齢が25歳であったこと
③西行の隠遁が、世の中の人々の話題になり、賛美されていたこと
この勧進活動は、大治元年(1126)11月19日に焼亡した鞍馬寺再興のためのものだったようです。その活動の中に、西行の姿はありました。彼は宮中に顔がきいていたので、鳥羽・崇徳両上皇以下の貴族を勧進しています。
 自筆一品経というのは28人の結縁者に法華経二十八品を写してもらい、その供養料をあつめて如法経埋経供養と、別所聖の生活資縁にあてるものです。西行は、この後も東山や嵯峨を転々とします。双林寺・長楽寺・清凍寺・往生院のまわりに群れ集まる念仏聖や、勧進聖たちのあいだに混じって生活していたことがうかがえます。
 『西行物語絵巻』に描かれた彼の寓居は、聖の庵が建ちならんで商人が往き交い、子どもがが遊ぶなど、雑踏の巷です。このとき詠んだとされる歌が以下の歌です。
嵯峨にすみけるに、たはぶれ歌とて、人々よみけるを
うなゐ子が すさみにならす 麦笛の
こゑにおどろく  夏のひる臥
  絵巻には、この歌のように西行が昼寝している姿が描かれています。これは西行を隠者とするイメージではありません。聖は「仙人」ではないようです。それでは食べていけません。俗塵にまじわらなければ生活できなかったようです。出家後に西行は勧進僧になっていました。
西行4
西行 東下りの図

なぜ西行は高野山にやってきたのか
久安五年(1149)に高野山の大搭・金堂・灌頂院が雷火で焼け墜ちます。そして、勧進活動が開始されることになります。そのために、経験のある有能な勧進聖が招かれて、復興勧進にあたることになったようです。このとき西行を高野山にまねいたのは、この大火を目のあたりに見て日記に記した覚法親王(白河上皇第四皇子、堀河天皇の御弟)と、大塔再興奉行だった平忠盛だったと研究者は考えているようです。西行は、高野山と京都とのあいだを往復して、文学の才をもって貴族のあいだにまじわり、高野山の復興助力をすすめたようです。復興の総元締めである平忠盛の西八条の邸に出人りしていたことが記録されています。
 高野山復興のパトロンである平忠盛が亡くなると、その子の清盛のサロンにも出入りするようになります。こうしたサロン活動を通じて、期待された勧進目標を確実に果たしていたようです。そういう意味では彼は優秀な勧進僧であったと云えそうです。
 そして勧進活動の合間には、大峯修行や熊野那智で滝行など、聖らしい苦行も行っています。同時に、大原や東山・嵯峨の聖との往来も重ねます。とくに大原三寂といわれる寂念(藤原為業)・寂然(壱岐守頼業)・寂超(頼業の弟)および西住とは、しばしば歌論や法談をかわしていることが『山家集』にも記されています。生業の勧進、サロン活動、ロマンス、創作活動、修験など、彼の人生は充実したものだったようです。
西行2
天竜川を渡ろうとした西行が武士に鞭打ちされた話 ここでも笈を背負っています

最初にも述べたように、西行の廻国は美化されています。

そのため、一生を旅から旅へ「 一杖一笠」の生涯をおくったように思われがちです。私もそう思っていました。しかし実際には、奥羽旅行、北陸旅行、西国安芸・四国へのほかには、大峯・熊野修行などの旅行があるだけのようです。しかもそれは修行と勧進のための廻国(旅)です。
 その目的に従う限りで「異境人歓待」を受けられたのです。そのためには、高野とか東大寺とか鞍馬寺、長谷寺・四天王寺・善光寺などから出てきたという証明書(勧進帳)と、それぞれの本寺の本尊の写しやお札をいれた笈(おい)を、宗教的シンボルとして持っていなければなりませんでした。
 たとえば東大寺勧進聖には勧進帳が、高野聖には大師像のはいった笈が必需品だったのです。田亀(たがめ)は、笈を負う形に似ているというので、高野聖は「たがめ」とも呼ばれたようです。讃岐にやって来た西行も笈を背負っていたはずです。西行に笈を背負わせていない絵は、歌人としての西行をイメージしているようです。宗教歌人と捉えている作者は、笈を背負わせます。      
西行3

応永20年(1413)の「高野山五番衆一味契状」には、次のように記されています。
   高野聖とりし、空口(=おい)を負ひ、諸国に頭陀せしむ
  笈が高野聖のシンボルになっていたのは、宗教的権威の象徴だったからのようです。
歴史めぐり源頼朝~西行に出会う~

西行の東大寺再興勧進
勧進聖は、一つの寺の専属ではありませんでした。依頼されれば、他寺の勧進におもむいたようです。西行は関わった最も大きい勧進は、東大寺勧進でした。治承四年(1180)12月に平重衡の南都焼打ちによって東大寺は炎上しました。その再建のために重源が大勧進空人に任命され、多数の勧進聖をあつめます。西行は重源に頼まれて、鎌倉と東北の平泉を勧進のために訪れています。これも西行の名声を利用した大口勧進(募金)であったようです。
知って楽しい鎌倉の歴史!駅からスグの史跡めぐり~頼朝公と西行法師の出逢い~ | 神奈川県 - 観光・地域 - Japaaan - ページ 2
西行と頼朝

『吾妻鏡』(文治二年(1186)八月十五日)は、次のように記されています。
二品(頼朝)鶴岡宮に御参詣、而るに老僧一人烏居の辺に徘徊す。之を怖しみ、景季を以て名字を間はじめ給ふの処、佐藤兵衛肘憲清法師なり。今の西行と号すと云々(中略)
則ち営中に招引して御芳談に及ぶ。此間、歌道並びに弓馬の事に就きて、條々尋ね仰せらるる事有り。(中略)
恩問等閑(おんもんなほざる)の間、弓馬の事に於ては具(つぶさ)に以て之を申す。即ち俊兼をして其の詞を記し置かしめ給ふ。絆終夜を専にせらると云々
意訳変換しておくと
将軍頼朝が鶴岡宮に参詣した時のことである。老僧が一人烏居の辺を徘徊している。これを怖しんだ景季が、その名を問わせると、佐藤憲清法師で、今は西行と名乗っていると云う。(中略)
すぐに営中に招き入れて、歓談に及んだぶ。この間、歌道や弓馬の事について、将軍はいろいろと尋ねられた。(中略)それに対して西行は、弓馬の道はみな忘れました。和歌についてもその奥義については私にも分かりませんと答えた。頼朝は西行が気に入って、夜通し話しをした。

 これが有名な頼朝と西行の出会いシーンです。頼朝は西行に鎌倉に滞在するようしきりにひきとめますが、西行は先を急ぐといって平泉に出かけてしまいます。
重源上人の約諾を請け、東大寺析として沙金を勧進せんが為、奥州に赴く

とありますので、奥州平泉旅行が勧進行であったことが分かります。

これには、頼朝が西行に錢別に銀作りの猫をあたえたが、門前の子供にあたえて去ったというエピソードが加わります。西行の無欲さを協調する人もいますが、旅行の荷物になるからと研究者は考えているようです。しかし『吾妻鏡』によると、この銀猫は、義経滅亡のとき平泉で発見されたと記されます。いずれが真か偽か謎が残ります。
 頼朝は、これより先にすでに(米)一万石、沙金 千両、上絹千疋を重源に贈っていましたので、このときには勧進に応じなかったようです。また、奥州平泉でも秀衡は寿永三年(1184)6月に沙金五千両を東大寺に奉加していました。西行の重ねての勧進に応じたかどうかは分かりません。関東・平泉への旅も勧進目的であったことは押さえておきたいと思います。
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西行の世俗性                           
西行の世俗性とは、具体的に妻子がいたのかどうかです。これには、次のようなふたつの見方があるようです。
①歌聖にふさわしく、まったくの清僧であるから、妻子などもってのほかで、歌のなかにあらわれる女性もたんなる文学上の交友にすぎないという立場で、『山家集』に妻子をよんだ歌が一首もないのも、妻子がいなかったことを示すものだ
②妻帯だけはみとめようとする立場
②の立場としては、次のような見解も出されています
「妻子を振り棄てたからには、一向家の事、家族の事を顧みず、直ちに山林に入って関係を絶つのかというとそうでもない。俗縁の者と居を共にせず、僧堂山林に起居して念修するだけのことで、俗縁の家族はやはり家族に相違ないから、時々会見もすれば消息も明らかにしておく」
 また、次のような説もあります。
「僧として、人前に通るまでは、分相応に多少修行をしなければならない。その期間だけは、毎日家庭から弁当をもつて通ふわけにはゆかぬから、妻子の傍を離れるとということはある。西行にもそいう期間が若干はあったろう。しかし、修行が終われば俗縁への出人は自由である」

 これだと「修行中のみの別居で、その後は妻帯可」ということになります。このような俗聖(ぞくひじり)の妻帯は、行基や空也や親鸞がそうであつたように、特殊な階級として許されていたようです。しかし、俗聖では僧位・僧官は、のぞむことができず、本寺からの衣食住の支給もありません。そのため、聖は勧進によって身をたてるほかはなかったようです。当時は「僧」にもいくつかの階級があり、清僧と俗聖の間には、明快な一線があったとしておきましょう。西行は俗聖だったのです。
和歌山県立博物館さん『大西行展~西行法師生誕900年記念』に行ってきました - 百休庵便り

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 五来重 高野聖 13章 高野聖・西行

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