瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:西讃府志

西讃府志に滝宮念仏踊と佐文綾子踊がどのように載せられているのかを、今回は見ておきたいと思います。

西讃府志 表紙
西讃府志
最初に滝宮念仏踊りを見ていくことにします。西讃府史には「滝宮踏舞」と題されています。
大日記曰く、延喜三年二月廿五日、菅氏(菅原道真)五十七歳、云々讃岐国民、至今毎歳七月二十五日、於瀧宮為舞曲祭之、俗謂瀧宮躍夫コノ踊ハ、七ケ村・南條・北條・坂本等ノ四処ヨリ年替ソニ是ヲ務ム、但シ北條ハイツノ年卜云定リナシ、七月十六日比ヨリ二十五日ノ比マデ、其アタリアタリノ氏社ニテ踊ル也、サレド瀧宮ヲ主トスンバ瀧宮踊卜云ナリ、
コハ盆踊ナドトハ其状大ニカハレリ、下知トテ頭タルモノ一人アリ、花笠フカブキ袴フ着テ、大キナル団扇ヲヒラメカシ、なつぱいぎうやヽ 卜云吉ヲ曲節トシテズヲドル、サテ小踊トテ十三二歳歳バカリノ童子花笠フカツキ袴フツケ、襷(たすき)ヲカケ彼下知ガ団扇ノマヽ二踊ル、又鼓笛鉦ナト鳴ス者アリ、イツレモ花笠襷ナドツケタリ、踊子鉦ウチ鼓ウチナドノ数モ定リアレド、各庭ニヨリ多少アリ、カクテ踏舞終リヌル時、彼下知ナル者、願成就なりや卜高フカニイフ、是ヲ一場(ヒトニワ)卜テ,一成(ヒトキリ)ナリ、又なつばいどう卜云者アリ、菅笠ノ縁二赤青ノ紙ヲ切リ垂レ、日月フ書ケル団扇ヲモチ、黒キ麻羽織キタルアリ、又なもでトテ、サルサマシテ、鉦モチタルアリ、此等幾十人卜云数ヲシラス、叉螺ナド吹モノモアリ、皆各其業アリト云、叉大浜浦ニモ瀧宮踊卜云ヲスル也、コハ名ノ同シキノミニテ、踊ハ尚常ニスル盆踊二異ナラズ、
  意訳変換しておくと
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳、讃岐国は毎歳七月二十五日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎に異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25五日までは、各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、瀧宮踊と呼ばれている。

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滝宮念仏踊り(午前は 滝宮神社 午後は滝宮天満宮) 

 この踊りは、盆踊とは大きな相違点がある。下知(芸司)と呼ばれる頭目が一人いて、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。

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滝宮念仏踊の幟「南無阿弥陀仏」 
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

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滝宮念仏踊り 入庭

 こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。

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滝宮念仏踊の花笠
菅笠の縁に赤・青の紙を垂らし、日月と書いた団扇を持って、黒い麻羽織を着る。又なもでトテ、サルサマシテ(?)、鉦を持つ者もいる。これらを併せると総勢は数十人を超える。叉法螺貝などを吹くものもいる。それぞれ各役目がある。叉大浜浦にも、瀧宮踊が伝わっている。名前は同じだが、こちらは普通の盆踊と同じである。


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滝宮念仏踊 惣踊り(滝宮天満宮)
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①菅原道真の雨乞成就に感謝して捧げられたとは記されていない。「讃岐国は毎年7月25五日に瀧宮で舞曲祭を行う。」とだけ記す。また「滝宮念仏踊り」という表現は、どこにもない。
②瀧宮の踊込みに参加していたのは、七ケ村(まんのう町)・南條・北條・坂本などの4組であった
③4組が毎年順番で担当していたが、北條組については、踊り込み年が定まっていなかった。
④滝宮への踊り込みの前の7月16日から25日までは、各地域の神社に踊りが奉納されていた。
⑤この踊りは盆踊とちがって下知(芸司)が指揮した
⑥小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、下知の団扇にあわせて踊る。
⑦踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっていが、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

綾子踊り 全景
綾子踊り(佐文加茂神社)
次に西讃府志の「綾子踏舞」を見ておきましょう。

西讃府志 綾子踊り
西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

佐文村二旱ノ時此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏社トニテスルナリ、是レニモ下知一人アリ。上下ヲ着、花笠カヅキ、大キナル団扇もテリ、踊子六人、十歳アマリノ量子ヲ、女千ノ姿二作リ、白キ麻衣ヲキセ赤キ帯ヲ結ビタレ、花笠ヲカヅキ、扇ヲモチタリ、叉踊ノ歌ウタフ者四人、菅笠ヲキテ上下ツケタリ、叉菅笠ノ縁二亦青ノ紙ヲ切テ付タルヲカヅキ、袴フツケ、木綿(ユフ)付タル榊持夕ル二人、又花笠キテ鼓笛鉦ナドナラス者各一人、
サテ踊始ントスル時 ヲカヅキ襷ヲ掛、袴フ高クカカゲ、長刀持夕ルガ一人、シカシテ棒持タルガ一人、其場二進ミ出、互ニイヒケラク、

意訳変換しておくと
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる。これも下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠か被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。
 踊り始める前には、襷掛けし、袴着た、薙刀と棒持ちが、その場に進み出て、次のような問答を行う。

西讃府志 綾子踊り2
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2

踊り前の薙刀と棒振りとの問答
しはらく′ヽ、先以当年の雨乞所願成就、氏子繁昌耕作一粒萬倍と振出す棒は、東に向てごうざんやしゃ、某が振長刀は南に向てぐんだりやしゃ、今打す棒は西に向て大いとくやしゃ、又某か振長刀は北に向かいてこんごうやしゃ、中央大日、大小不動明王と打はらひ、二十五の作物、根は深く葉は廣く、穂ふれ、虫かれ、日損水損風損なきよう、善女龍王の御前にて、悪魔降伏切はらふ長刀は、柄は八尺、身は三尺、神の前にて振出は礼拝、叉佛の前はをがみ切、主の前は立ひざ切、木の葉の下はうずめ切、茶臼の上はまはし切、小づ主収手はちがへ切、磯うつ波はまくり切、向献はから竹割、逃る敵は腰のつがひを車切、打破うかけ廻り、西から東、北南くもでかくなは、十文字ししふつしん、こらん入(にゅう)、飛鳥の手をくだき、打はらひ、天の八重雲、いづのちわき、利鎌を以て切はらひ、今紳国の政、東西南北と振棒は、陰陽の二柱五尺二十ゑいやつと振出す、某つかふにあらねども、戸田は三、打しげんはしんのき、どうぐん古流、五方の大事、表は十二理に取ても十二本、しばはらひ、腰車、みけん割、つく杖、打杖上段中段下段のかゝうは、鶴の一足、鯉の水ばなれ、夢の浮橋、三之口伝、四之大手、悪魔降伏しづめんが為、大切之一踊、はや延引候へば、いざ長刀ぎの参うやつど」
 
綾子踊り 薙刀
綾子踊 薙刀問答

薙刀と棒振りの問答の後、いよいよ踊奉納が次のように始まります。

西讃府志 綾子踊り3
       西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2
カクテ暫ク打合サマンテ退ク、歌謡ノ者各其座ニツクナリ、サテ下知ノイヘルハ、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 サテ歌ウタフ者、歌書タル本を開き、馨ヲソロヘテウタフ、例ノ下知進ミ出、団扇ヲヒラメンテ踊ル、踊子三人ヅツ二行二並ピ、下知ガ団扇ノマヽ二扇ヲ打フリテ踊ル、鼓笛鉦ナド持タル、其カタヘ並立テ曲節ヲナス、其後二榊持タル人立テ共節毎ニヒイヨウナドト声ヲ発して、節ヲナスウタフ節ハ今ノ田歌ニイト似タリ、其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ
  意訳変換しておくと
  しばらく棒振りと薙刀による演舞が行われた後に退く。その後に、歌謡の者がそれぞれの定位置に着く。そこで下知(芸司)が次のように云う。、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 地唄は、歌書を開いて、声を揃えて詠う。下知が進み出て、団扇を振りながら踊る。小躍りは三人ずつ二行に並んで、下知の団扇に合わせて、扇を振って踊る。鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。調子や節は、今の田歌に似ている。最初に詠うのが水踊で、以下、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ。その歌詞は次の通りである。

西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その形態は。下知(芸司)・女装した踊子(小躍)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒持の問答・演舞がある(全文掲載)
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている

西讃府志 郡名
西讃府志 那賀郡・多度郡・三野郡・苅田郡の郷名
   丸亀藩が領内全域の本格的地誌である西讃府志を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。
これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。西讃府志は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保11(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした。(意訳変換)

加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。

ここからは次のようなことが分かります。
①「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。しかし、通達を受けた庄屋たちには、この「課題レポート」にすぐに答えるだけの史料や能力がなくて、何年たっても提出されない有様だったことは以前にお話ししました。各村々の庄屋からの原稿がなかなか提出されず、そのために発行までに18年もの歳月がかかっています。
 私が気になるのは、佐文綾子踊の記述の多さです。
滝宮念仏踊りに比べても分量が遙かに多く、詠われていた地唄の12曲総ての歌詞が載せられています。どうして綾子踊りが、これほど「特別扱い」されているのでしょうか? 滝宮念仏踊りや佐文の綾子踊りが西讃府志に載せられていると云うことは、地元の庄屋が藩への「課題レポート」に買き込んで提出したということでしょう。それをまとめて丸亀藩の学者たちは西讃府志を完成させました。逆に言うと、佐文村の庄屋が綾子踊りについて、詳細に報告したとことが考えられます。それが西讃府志に綾子踊りの歌詞が全曲載せられていることになったとしておきましょう。そして、その歌詞内容が中世に成立していた閑吟集の中にある歌にルーツがあることを中央の学者が気づきます。これが綾子踊りの重要文化財師指定の大きな推進力となったことは以前にお話ししました。
 同時に、幕末には綾子踊りが佐文で踊られていたことの裏付けにもなります。綾子踊りの史料については、地元では昭和になって書かれた史料しか残っていないのです。また、実際に踊らたという記録も明治になってからのものです。近世末に、綾子踊りが踊られていたという西讃府志の記録は、ありがたいものです。

綾子踊り4
佐文綾子踊 芸司と小踊(佐文加茂神社)

 もうひとつ気になるのが佐文は「まんのう町(真野・吉野・七箇村)+琴平町」で構成される七箇村滝宮踊りの中心的な構成員でもあったことです。それが、いろいろな問題から中心的な役割から外されていきます。それが佐文村をして、独自の綾子踊りの立ち上げへと向かわせたのではないかと私は考えています。七箇村の滝宮踊りと、綾子踊りの形態は非常に似ていることは以前にお話ししました。


綾子踊り 全景
綾子踊り まんのう町佐文賀茂神社
綾子踊歌は、次の十二の組踊歌から成っています。
1水踊。 2四国 3綾子 4小鼓。 5花籠  6鳥籠  7邂逅(たまさか)8六調子(「付歌」を含む)。 9京絹 10塩飽船 11しのび 12帰り踊り

綾子踊りは雨乞い踊りなので、歌詞の内容は、降雨祈願のことが謡われているものとかつては思っていました。小さい頃は、何が謡われているのかも気にせずに佐文の住人として、この踊りに参加していました。ところが年月を経て、歌詞の内容を見てみると、雨乞い的な内容のフレーズは、ほとんど見当たらないことに気づきました。出てくるのは艶っぽいオトナの情愛の歌と、瀬戸内海航路を行き交う船と港のことばかりです。まるで「港町ブルース」の世界なのです。どうして、こんな艶っぽい歌が、雨を切実に祈願する綾子踊りで謡われ、踊られていたのか。また、この風流歌の起源はどこにもとめられるのか。それが長年の疑問でした。
 それに答えてくれるのが、「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」です。これをテキストにして、綾子踊歌の起源と内容を見ていくことにします。
       
綾子踊りで、最初に謡われるのは「水の踊り」です。
綾子踊り 水の踊
一、堺の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ 雨が降ろと ままいの ソレ  しつぽとぬうれて ソレ 水か水か サア こうちござれ こうちござれ
二、池田の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ雨が降ろと ままいの ソレ しつぽとぬうれて ソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ
三、八坂の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ 雨が降ろと ままいの ソレ しつぽと ぬうれてソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ

「さかひ(堺)の町、池田の町、八坂の町」の3つの町が登場します。

頭の町の名前が変わるだけで、後のフレーズは三番まで同じです。三つの町に雨が降ること、その雨に「しつぽと濡れる」ことが謡われます。これを「人々の雨を乞う願い、雨を降らせようとする強い気持ちで包まれた歌」と研究者は評します。

IMG_0018水の踊り

 ここに出てくる「堺・池田・八坂」の町は、現在のどこに当たるのでしょうか?
「さかい(堺)」は、南蛮貿易や商工業で栄えた堺市でしょう。瀬戸内海交易の最大拠点で、西の博多とともに中世には繁栄していた港町でした。瀬戸内海を行き来する廻船のゴールでもあり、文化の中心地で、憧れの地でもあったようです。
堺の港が、登場すると風流歌や雨乞い踊歌を挙げると次の通りです。
○あれに見えしはどこ浦ぞ 立目にきこえし堺が浦よ 堺が浦へおしよせて    (香川県三豊郡・和田・雨乞踊歌)
○さかへおとりわおもしろやヽ さかへさかへとおしやれども 一化の都にますわゑな      (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)
○堺の浜を通りて見れば あらうつくしのぬりつぼ竿や  (徳島県阿南市・神踊・殿御踊歌)
○堺ノ浦ノ千石船ハ ドナタヘマイルタカラブネ  (徳島県名東郡・佐那河内村・神踊歌)
○ここは堺か面白やア かたにおろしてあきないしよ あきなゐおどりはひとおどり(徳島県徳島市。川内町あきない踊り
こうしてみると堺の港は、瀬戸内海を行き交う船にとって象徴的な町として、風流歌の中に取り込まれて各地で謡われていたことが分かります。それでは、「池田」「八坂」は、どうなのでしょうか。考えつくのは
池田の町=阿波池田?
八坂の町=京都の八坂?
ですが、どうもピンときません。これらの町も「堺」とともに、めでたく豊かさを象徴する町として出てくるとしておきましょう、その中でも「堺の町」は、瀬戸内海文化エリアの中で繁栄する港町のイメージとして登場し、謡われていることを押さえておきます。
IMG_1379
綾子踊り 団扇には「雨乞い」裏が「水」

次に「広いようで狭い」「しっぽと濡れて」です。

この類型句を挙げて見ると次の通りです。
○堺の町は広いようで狭い 一夜の宿を借りかねて 森木の下で夜を明かす 夜を明かす  (順礼踊『芸備風流踊歌集』)
○遠州浜松広いようで狭い 横に車が二挺立たぬ(『山家鳥虫歌』・遠江)
○遠州浜松広いよで狭い 横に車が横に卓がやんれ 一丁も二丁目三丁目も…  (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)
ここに出てくる「広いようで狭い」という表現は、その街道が狭いこと云っているのではなく、むしろ、道も狭いと感じさせるほど、町が繁盛し人々で賑わっていることを伝えていると研究者は指摘します。浜松は、東海道のにぎやかな海道の要所です。18世紀後半の『山家鳥虫歌』に、このような表現があるので、近世民謡の一つのパターン的な表現方法のようです。いわば現在の演歌の「恋と涙と酒と女」というような決まり文句ということでしょうか。綾子踊「水のおどり」は、その決まり文句が入ってきているとしておきます。

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次は「しつぽと」についてです。
『宗安小歌集』に、次のような表現があります。
「しつぽと濡れたる濡れ肌を今に限らうかなう まづ放せ」(一七五番)
艶っぽくエロチックな表現です。しかし、「濡れ肌」でなく「町がしっぼと濡れる」です。これは堺の町など三つの町が、めぐみの雨によって、十分にしっとりとうるおい、蘇ったありさまを表現していると研究者は評します。しかし、それだけではありません。
 中世の『田植草紙』系田植歌には、色歌・同衾場面をうたう情歌にもよく出てきます。こんな表現を民衆は好みます。だから風流化として各地に広まったのでしょう。そして、その根っこでは、人間の「繁殖」と稲の豊穣を重ねて謡われていたと研究者は評します。ここでは、豊作を願う農民たちの祈り歌の思いが込められていたとしておきます。
どうして綾子踊りの最初に、「水おどり」(雨のおどり)が踊られるのでしょうか?
それは綾子踊の目的が雨乞いにあるからと研究者は指摘します。雨が降って身が濡れること、夕立雲が湧き出てくる様子も、豊穣の前兆としてうたわれます。「水おどり」も歌謡・芸能の風流の手法として、農耕の雨を呼ぶ「呪歌」であると云うのです。雨が降ることを確信を持って謡うこと、また祈願が叶って雨が降ったときの歓喜が「雨よろこび」の歌となります。
西讃府志 綾子踊り
西讃府志 『雨乞踊悉皆写』
幕末に丸亀藩が編纂した『西讃府志』・巻之三の『雨乞踊悉皆写』には、「綾子路舞」について、次のように記します。

佐文村二旱(日照)ノ時、此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏神ノ社トニテスルナリ」

これに続いて、祭礼の人数・役割・位置・衣装等が詳しく記されます。
西讃府志 綾子踊り3
西讃府志 『雨乞踊悉皆写』 最後に踊りの順番が記されている
その一番最後に、踊の順を次のように記します。
 其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠、次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ馴日、次ナルヲ忍び 次ナルヲ帰り踊 ナドト、十二段ニワカテリ
ここでも「水の踊」が全十二段の、最初に置かれています。
綾子踊りは、雨を呼ぶための呪術的祭礼歌謡です。そのために、雨を期待し、表明する歌謡として伝承されてきました。
しかし、雨乞い踊りと云われる中に、雨が降ったことに感謝するために踊られるものもあります。
例えば、滝宮神社に奉納される坂本念仏踊りには、「菅原道真の祈雨成就に感謝して踊られる」と、その由来に書かれています。雨乞い踊りではなく、もともとは「雨乞成就への感謝踊り」なのです。
 奈良大和の「なむて踊り」も、雨乞い踊りではなく、降雨感謝の踊りです。そして、その踊りは、風流盆踊りが借用されたもので、内容は風流踊りでした。これが雨乞い踊りと混同されてきたようです。

綾子踊り 善女龍王
綾子踊り 善女龍王の幟

 中世では素人が雨乞いを祈願しても神には届かないという考えがあったようです。
丸亀藩が正式に雨乞いを命じたのはは善通寺、髙松藩は白峰寺だったのは以前にお話ししました。そこでは、高野山や醍醐寺の雨乞い修法に則って「善女龍王」に、位の高い僧侶が祈祷を捧げました。村々でも、雨乞は山伏や近郷の祈祷寺に依頼するのが常でした。自ら百姓たちが雨乞い踊りを踊るというのは少数派で、中世においては「異端的で、先進的」な試みだった私は考えています。
 そういう意味では、佐文の綾子に雨乞い踊りを伝授したという僧侶は、正式の真言宗の僧侶ではありません。それは、山伏や高野聖たちであったと考えた方がよさそうです。雨乞いは、プロの修験者や真言僧侶など霊験のあるものが行うもので、素人が行うものではないという考えが中世にはあったことを、ここでは押さえておきます。

綾子踊り 善女龍王2

 以上見てきたように「水の踊」に登場するのは「堺・池田・八坂」です。讃岐近郊の地名は登場しません。この歌が瀬戸内海を行き交う船の寄港地などで風流歌として歌われ、それが盆踊りに「借用」され、讃岐でも拡がったこと。佐文では、さらにそれをアレンジして「雨乞踊り」に「借用」して踊られるようになったことが考えられます。
最後に意訳変換しておくと
繁昌する堺の町(池田の町、八坂の町)は、広いようで狭いよ。雨乞踊の祈願が叶って雨が降り、人々は蓑よ笠よと騒いでいるが、田も野もそして町も、しっぽりと濡て潤い、蘇りました。この「水が水が」とうたう水の歌が、佐文に水を呼ぶ。うれしいことだよ、めでたいことだよ。

 「雨乞踊の最初に、願いどおりの結果になつたことを、前もってうたい、世の中を祝った予祝歌謡」と研究者は評します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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西讃府志 表紙

  かつては、西讃地域の郷土史を調べようと思ったら、まず当たるのが西讃府志だったようです。そういう意味では、西讃府志は郷土史研究のバイブルとも云えるのかも知れません。しかし、その成り立ちについては、私はよく知りませんでした。高瀬町史を眺めていると、西讃府志の編纂についての項目がありました。読んでいて面白かったので紹介します。
西讃府志 讃岐国
西讃府志の第1巻 最初のページ

丸亀藩が支藩多度津藩を含めた領内全域の本格的地誌を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。『西讃府志』は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保十一(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした
     覚
加藤俊治
岩村半右衛門
右、此の度西讃井びに網千。江州御領分の地志撰述の義伺い出でられ、御聞き届け二相成り候、これに依り往古よりの名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来都て、御領中格段の事跡何事に寄らず委細調子書、其の村方近辺の識者古老等の申し伝え筆記等、其の組々大庄屋、町方二ては大年寄迄指し出し、夫々紛らわ敷くこれ無き様取り約メ、来ル十月中迄指し出し申すべし、尤も社人亦は寺院二ても格別二相心得候者へ、俊冶・半左衛門より直ち二、応接に及ばるべき義もこれ有るべく候条、兼ねて相心得置き申すべき旨、 方々御用番佐脇藤八郎殿より仰せ達せられ候条 其の意を得、来ル十月上旬迄二取調子紛らわ敷くこれ無き様、書付二して差し出し申さるべく
候、以上
意訳変換しておくと
加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。
 特に、社人(神官)や寺院については、特に注意しておきたいので、担当者の俊冶・半左衛門が直接に、聞き取りを行う場合もある。事前に心得ておくことを、 御用番佐脇藤八郎殿より伝えられている。以上の趣旨を理解し、提出期限の10月上旬までにはきちんと整理して、書面で提出すること。以上

ここからは次のようなことが分かります。
①加藤俊冶と岩村の提案を受けて、「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを藩は大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。

  西讃府志 郡名
西讃府志の讃岐の各郡について

これを受け取った大庄屋は、どうしたのでしょうか。
各村のお寺や神社の歴史を調べよというのです。とまどったにちがいありません。今では神社やお寺には由緒書きや縁起が備わっていますが、この時期には自分の村の神社の歴史などは興味もなく、ほとんどの神社はそんなものはなかったようです。書かれた歴史がないものを、レポートして報告せよと云われても困ってしまいます。とにかく大庄屋は、各組の構成員の庄屋に連絡します。和田浜組(三豊市高瀬町)の大庄屋宮武徳三郎は各村へ、藩からの通達文に添えて次のような文章を回しています。

「御別紙の通り御触れこれ有り候間御承知、寺院社人は格別二念を入れ、御申し達し成らるべく候、尚又名所古跡何事に寄らず、委細の調子書早々御指し出し成らるべく候」

意訳変換しておくと
「別紙の通りのお達しがあったので連絡する。神社や寺院は格別に念を入れて調べるようにとのことである。また、名所や古跡などに限らず、なんでも委細まで記して、期限までに提出せよとのことである」

と伝えています。これを受けて丸亀藩の庄屋たちは、自分の村の歴史調べとフィルドワークにとり組むことになります。今風に云うと、レポート「郷土の歴史調べ」が庄屋たちに課せられたのです。
西讃府志 延喜式内社
西讃府志の讃岐延喜式神社一覧

それから9ヶ月後の天保十二(1841)年3月に、大庄屋宮武徳三郎は和田浜組の村々へ次のような通達を出しています。
急キ申し触れ候、然れは昨子ノ六月、御達しこれ有り候御領分地志撰述御調子二付き、名前、古跡、且つ神社鎮座、寺院興立等の由来書付、早々差し出す様御催促これ有り候間、急二御差し出し成らるべく候、右書付二当たり御伺い申しげ候、左の通り
村 南北幾里 東西幾里 高 何石 家数 神社並小祠祭神々 鎮座 年紀 仏寺 本尊 何々 開基 年紀 縁起
宗末寺 山名 川名 池名 古城 名所 旧記 古墓 森
小名 産物 孝子 順拝 義夫 □婦
右、夫々相調子書付二して、指し出し候様仰せ付けられ候間、芳御承知何分早々御取計らい成らるべく候、以上
意訳変換しておくと
急ぎの連絡である。昨年6月の通知で村内の地志撰述の件について、名前、古跡、神社鎮座、寺院興立等の由来の調査し提出するようにとの指示があった。この詳細な調査項目は次の通りである。 村 南北幾里 東西幾里 高 何石 家数 神社並小祠祭神々 鎮座 年紀 仏寺 本尊 何々 開基 年紀 縁起宗末寺 山名 川名 池名 古城 名所 旧記 古墓  森 小名 産物
孝子 順拝 義夫 □婦
これらの項目を調査し、報告書として提出するように藩から再度指示があった。できるだけ早く提出するように、以上

この文書が出されたのは、翌年の3月です。藩から求められたレポート提出期限はその年の10月だったはずです。〆切期限を過ぎて翌年の春が来ても、和田浜組ではほとんどの村が未提出だったことが分かります。そこで、藩からの督促を受けて、大庄屋が改めて、レポート内容項目の確認と提出の督促を行ったようです。
西讃府志5
西讃府志 復刻版

さらにその年の八月には、藩から大庄屋へ次のような通達が再再度出されています。
急ぎ御意を得候、然れは地志撰述の義認め方目録、先達て相触れられ候処、未だ廻達これ無き村々も多くこれ有る由、全く何レの村々滞り居り候事と存じ候、右は在出の節寄々申し承り度き積もリニ候間、早々廻達村々二於いて通り候ハ、写し取り置き候の様、其の内ケ条の内、細密行い難き調子義もこれ有り候ハヽ、品二寄り皆共迄尋ね出し候ハヽ、指図に及ぶべき儀もこれ有り候、何様早々廻達候様御取り計らいこれ有るべく候、以上

意訳変換しておくと
 地志撰述の件について、先達より通達したようにて早々の報告書の提出を求めているが、未だに指示が伝わっていない村々もあると云う。どこの村で滞っているのか、巡回で出向いたときに確認するつもりである。早々に村々に通達を回して、写し取り指示した項目について、細々としたことは調査ができなくても、調査が出来る項目については尋ね聞いて、指図を受けることも出来る。とにかく早々に廻状をまわし、報告書が届くようにとりはかること 以上

 西讃府志 - 国立国会図書館デジタルコレクション
二年後の天保十四(1843)年六月には、次のように記されます
「地志撰述取調書き上げの義、去ル子年仰せ含め置き候得共、今以て相揃い申さず、又は一向指し出さざる組もこれ有る趣二て、掛り御役手より掛け合いこれ有り候」

意訳変換しておくと
「地志撰述の作成提出の県について、3年前に申しつけたのに、今以て揃っていない。一向に提出していない組もあるようだ。組番より各村々に督促するように」

ここからは3年経っても、各村からの地志撰述の提出が進んでいないことが分かります。レポート課題が指示されて3年が過ぎても、地志撰述の作成の通知がいっていない村があるということはどういうことだ、早く報告書を出すように藩から催促されています。督促された庄屋たちもどうしていいのか頭を抱えている様子がうかがえます。
 それまで何も知らずにお参りしていた神社やお寺のことを調べて提出せよと云われても困り果てます。和尚さんや神主さんに聞いても分からないし、史料はないし、レポート作成はなかなか進まない村が多かったようです。
 今までなかった寺や神社の歴史が、これを契機に書かれ始めたところも多かったようです。由緒書きや縁起がなければ、「創作」する以外にありません。またかつて住んでいた旧族についても、調べられたり、聞き取りが行われます。そこには同時に「創作」も加えられました。
その翌年の弘化元(1844)年2月には、次のような通達が廻ってきます。
社人秋山伊豆 右の者兼ねて仰せ達し置かれ候 地志撰述の儀二付き、御掛り置きこれ有り候、これに依り近日の内村々見聞として、御指し出し成られ候段、右御掛り中り御掛け合いこれ有り御聞き置き成られ候」

意訳変換しておくと
社人(櫛梨村神官)秋山伊豆が、地志撰述編纂に関わることに成り、近日中に村々を訪ねて指図することになった。疑問点があればその際に尋ねよ

ここからは櫛梨村の社人(神主)秋山伊豆が地志撰述作成のために、領内を廻って援助・指導することになったようです。4年目にして地志撰述の作業は軌道に乗り始めたようです。こうして各村での「地志撰述」が行われます。現在確認できるのは次の表の通りです。

西讃府志 地誌成立年代表

村によって「地志御改二付書上帳」、「地志目録」など名前が違います。最も古いものは多度津藩領羽方村の天保十二年十月の「地志撰述草稿」です。そして一番最後にできたのが丸亀藩領奥白方村の嘉永三(1850)年六月の「地志撰」、多度津藩領大見村・松崎村の嘉永三年夏の「地志目録」になるようです。
 提出日を見ると、期限どおりに提出されたものはほとんどありません。一番早い羽方村のものでも翌年の10月で、1年遅れです。そして、遅いものは嘉永三年夏ころになりますから、出そろうまでに十年間かかっています。各村から提出された地志撰述をもとにして、『西讃府志』が編集されていくことになります。

西讃府志 目次
西讃府志の多度津藩の村々の目次


 一番早く提出された羽方村の「地志撰述」を見てみましょう。 
     
藩からの指示では「村の広さ、田畝、租税・林・藪床・戸口・牛馬・陵池(はち)・里名庄内郷積浦小名・唱来候地名・神祠・仏寺・家墓・古跡・風俗・物産・孝義・雑記」などの項目がありました。
大水上神社 羽方エリア図
赤いライン内が羽方村 大水上神社の鎮座する村
『西讃府志』に載せられなかった部分には何が書かれていたのでしょうか。
  貞享二(1685)年の検地畝68町余のうち等級を示す位付の面積が次のように記されています。

上田一町五反余、上下田三町三反余、中田六町九反余、中下田五町九反余、下上田八町八反、下田一一町二反余、下々田一六町二反余、上畑二反余、中畑一町一反余、下畑二町九反余、下々畑八町余

ランク付の低い田畑の「下以下」で五五町余を占めており、生産高の低い土地が多かったことが分かります。
  年貢率も次のように記されています。
川北・白坂・長坂 三割七分
瀬丸・二之宮・石仏・上所 四割三分、
村中・下所 三割四分
庄屋分池之内出高 三割
宮奥 二割五分
田畑68町余のほかに、新田として正徳から寛政までの1町3反余、新畑として正徳から享和までの4町9反余が開かれたことが分かります。
惣田畑74町3反余で、石高は519石6斗余で、租税202石3斗余の内訳は、定米(年貢米)176石2斗余、日米5石2斗余、夫米20石7斗余で、ほかに夏成(年貢麦)が12石余となっています。
戸数は156軒で、内訳は本百姓87軒、間人69軒とあります。間人とは田畑を持たない水呑百姓のことで、村の中の階層構成が分かります。
池は17のため池が全て書かれています。一番大きな瀬丸池の池廻りは32町46間で、水掛かり高は上高野村1000石、寺家村300石、羽方村160石となっていて、瀬丸池のある羽方村の水掛かり高は少いことが分かります。次に大きい白坂池は池廻りは11町45間で、水掛かり畝が本ノ大村12町三反余、羽方村3町9反余、上高野村1町9反余、大ノ村1町2反余となっており、白坂池も本ノ大村の水掛かりが多いようです。そして、どちらも樋守給(池守の給料)は羽方村から出されていることも分かります。

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大水上神社(二宮神社)

神祠のうちでは、大水上大明神(二宮社)について詳しく述べられています。
 祭礼・境内諸社を述べた後に「二宮三社之縁起」の全文が載せられています。二宮三社之縁起については以前に紹介しましたが、この時に成立したのではないかと私は考えています。羽方の庄屋から相談を受けた宮司が書いたという説です。そのほか「神事之次第」。「大水上御神事指図之事」・「ニノ宮記」などが添えて提出されています。「仏寺」では、大水上神社の別当寺龍花寺のことにも触れられています。しかし、龍花寺は以前にお話ししたように、祭礼をめぐる神職との対立の責任を取らされ、藩から追放されています。この時期の大水上神社の運営主体は、神職だったと思います。
 こうしてみると羽方村の庄屋が一番早く調査報告書(地志撰述)を提出できたのは、大水上神社に縁起やその他の史料があったこと、別の見方からするとそれが書ける神職がいて、延喜式内社という歴史もあったからとも云えそうです。こんな条件を持っているのはわずかです。その他の多く村々では、中世に祠として祀っていたものを、近世の村々が成立後に社殿が建立された神社がほとんどです。そこには、祀ってある神がなんだか分からないし、縁起もないのが普通だったようです。そこに、降って湧いてきた「寺社の歴史報告レポート」作成命令です。庄屋たちは、あたふたとしながらも互いに情報交換をして、自分の村々のデーターを作り、歴史を聞き取り報告書として提出したようです。それは、藩が命じた〆切までに、決して間に合うものではなかったのです。
 これを契機に「郷土史」に対する興味関心は高まります。
西讃府志は幕末から明治にかけての西讃の庄屋や知識人の必須書物となります。そして、西讃府志をベースにしていろいろな郷土史が書かれていくことになります。戦前に書かれた市町村史は、西讃府志を根本史料としているものがほとんどです。それだけ史料価値も高いのです。手元に置いて史料や辞書代わりに使いたいのですが、いまだに手に入りません。ちなみに古本屋での値段は55000円とついていました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献 高瀬町史392P 西讃府志の編纂

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