瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:西讃府誌

今回は江戸時代にはムラの神社の祭礼を、お寺の住職がしていたことを見ていくことにします。
式内社など古くからある神社では、神々に仕える家が神主となり管理運営を行っていました。それが中世になると重要な役割を務める家が固定化して「頭屋(頭家・当家)」と呼ばれるようになり、宮座を形成して祭礼を行うスタイルが生まれてくることは以前にお話ししました。それが江戸時代になると神主にも家元制度ができあがり、京都の吉田家か白川許可状がないと神主になれなくなります。そのためにムラの神主たちも、継目ごとに上京して、吉田家で講習を受けて神道成許状を受けるようになります。一方、髙松藩の松平頼重に典型的に見られるように支配安定化のために、神社の保護政策をとるようになります。そして主な神社には、少々でも社料の土地と米を寄進して、保護者として達振る舞うようになりまう。
 このように近世になると神社は、藩の保護と氏子の支えによって維持されるようになります。
神社といっても式内社のような古くからの伝統を持つものもあれば、神主もいない小さな祠や神社もあり、部落でまつる山の神や、龍王さんのような祠のようなものまでさまざまでした。その中で、近世の検地の「ムラ切り」で生まれたムラには、新たに村社が建立されるようになります。そこに祀られた神々は、次のような神々が多いとされます。
A 大国主命や稲倉魂命のように農業を司る神
B 山の神の大山祇の神・悪霊を防ぎ旅の平安を守る猿田彦の八幡神社の武の神々
C 菅原(天神)神社
Bは中世の武士集団によって居館周辺に勧進されたものが、村社に成長したもの。Cは今は学問の神となっていますが、もともとは怒りの怨霊(御霊)で、荒ぶる神でした。それが転じて、近世になると悪をこらしめ、争いに勝つ神であった。学問の神に脱皮・変身していきます。祭神の分布を調べると、江戸時代の人々が、どんな思いでこうした神を祀った見えてくるとかつては云われてきました。これらを勧進したのも廻国の修験者や聖達だったことは以前にお話ししました。
修験役一覧
 幕末の西讃府誌の編纂過程が明らかになるにつれて分かってきたことは、村社と言われる神社でも何を祀っているのか分からずに、レポート提出を求められた庄屋たちが近隣の神主や国学者達に相談して祭神を選んだ例が多数報告されています。村人達にとっては、何を祀っているのかはあまり関心がなかったようです。関心がでてくるのは明治以後の神道が国教化されて以後のようです。

 讃岐の多くの神社の祭りは、氏子から輪番で選ばれた当(頭)屋が神主とともに管理してきました。
私が住む佐文の加茂神社もそうです。8つの小集落(子部落)から年ごとに当番(総代:当屋)が輪番で選ばれます。彼らが準備を行い、岸の上の朝倉神主をお呼びして祭礼を行います。神主については神職の家系もありましたが、特別な霊力を持つ修験者(山伏)が、氏子の信頼を得て、神主を勤めるようになった所も多いようです。以前にお話したように、修験者は、悪霊・疫病退散・先祖供養・虫追い・雨乞祈祷などの様々な村人の願いに応える身近な頼れる存在として、信頼を獲得していました。

 各藩は、お寺に戸籍作成や往来手形の発行をさせ、旅行や移転の取締りやをさせるようになります。
さらにはキリスト教管理のために風紀の仕事もさせたりします。こうして見ると、お寺は藩の行政機関の末端として機能し、僧侶は庄屋などの村役人と並ぶ行政官のような存在だったことが見えてきます。それは身分制社会の中では、住職は社会的な地位が高かったことにつながります。それに比べてムラの神官は修験者上がりのよそ者扱いで、両者の間の社会的地位には大きな格差があったようです。
 各藩は神社の管理を僧侶に委任し、別当職を与えました。

別当寺とは

別当職は、神社の職階の最上位で、平安時代からあった特別職です。神社管理の責任者で、神主(宮坊・神主・社僧・社人・弥宜「寛保神社帳」)を指揮して祭りも執り行う最高責任者です。金毘羅大権現でいえば、金光院院主が別当になります。金光院の歴代院主は、高野山で学んだ真言宗の高僧であると同時に、吉野山で修行を積んだ修験者でもありました。金毘羅大権現の社僧たちは、善通寺誕生院の院主とはかつては高野山で共に学んだ学友であったものもいます。同じ釜の飯を食った中間なのです。そのため大祭などでも、法と称して別当の読話があり、祭具も仏式の物が多く、焼香を行い、神官は内陣に入ることも許されませんでした。そこでは神官は、別当の補助にすぎませんでした。これが国学などの力が大きくなると、反発材料となり、明治の神仏分離・廃仏毀釈運動につながっていきます。ここでは、お寺の住職は江戸時代は準公務員的な立場で、身分的にも高かったこと、お寺の境内は白州場で、村人にとっては敷居が高かったことを押さえておきます。
 盆踊りなどは、祖先供養ですから寺の境内で行われたものと私は思っていましたが、神社で行われることの方が多かったようです。それはお寺が公的な空間で、猥雑化した盆踊りの場としてはふさわしくないとされたのかもしれません。神社とお寺に対しては村人の見方の差あったことを押さえておきます。
 讃岐財田の向こう側の阿波三好市の下野呂内の三所大権現の棟札を見ておきましょう。

阿波三好市の下野呂内の三所大権現の棟札

          阿波三好市の下野呂内の三所大権現の棟札
  遷宮導師大別当箸蔵寺心性法印印
奉上三所権現
  社僧密厳祥寺権別当詳灯
  (裏面)文化元歳九月吉詳日
  野呂内総氏子中
三所大権現は、大きい社ではありませんが、明治初年まで相撲や競馬が行われて栄えていた神社です。この棟札からは、大別当が箸蔵寺で、権別当に箸蔵寺の末寺である密厳寺が当たっていたことが分かります。小さな神社なので、神官はいません。氏子の頭屋が雑務を行い、祭りの進行を取り仕切っていたのでしょう。祭礼で主役となるのは箸蔵寺や、その末寺の蜜厳寺の僧侶です。
 池田町の神社に残る棟札からは、遷宮大導師を務めているのは雲辺寺が一番多いことが報告されています。雲辺寺が池田エリアの多くの寺社を傘下に入れていたのです。それが山頂に立派な伽藍を維持していく経済力となっていました。同じように中世の道隆寺(多度津)が、塩飽から荘内半島にかけての西備讃瀬戸エリアで、多くの寺院や神社を配下に置いていたことは以前にお話ししました。大きな伽藍を持っていた寺院は、近隣だけでなくネットワークを張り巡らして、広域的に多くの寺社を配下に置いていたことを押さえておきます。そこでは、神社の祭礼にも仏式が取り入れられ、般若心経が称えられていたのです。
別当寺による神社支配に対して、神社=神官側も抵抗したこともありました。
例えば、金光院が別当寺として金毘羅大権現の管理権強化を進めていくのに対して、三十番社の神官が幕府の寺社部卿に訴え出ています。しかし、判決は寺領の最高管理者である金光院院主に刃向かったということで一族処刑になったことは以前にお話ししました。寺院が別当職を得て、神社を管理下に置くことを幕府や藩は認めていたのです。神官達の訴えは聞き入れられません。
 一方、氏子たちは、お寺の神社管理をどう見ていたのでしょうか。
 氏子達は中世以来の神仏混交思想に馴れていましたから違和感はなかったようです。そして、宗門改めなどよって、寺院の行政的性格はさらに強化されていきます。その中で讃岐が阿波とは異なる点があります。それは讃岐では浄土真宗興正寺派の比率が非常に高いことです。それも江戸時代になって新たに寺号を得たお寺が多いことは以前にお話ししました。興正寺派は、神社との関係を持ち別当寺となることを自ら禁じていたようです。そのため村々の神社管理や祭礼に関与することを律していた節が見えます。このあたりが讃岐の近世神社の運営の特殊性のひとつかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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綾子踊り 講演会表紙
郷土史講座でお話ししたことをアップしています。
どうして綾子踊は、国指定になり、ユネスコ登録されたのか。
その理由のひとつは、根本史料が残されていたからです。近世には、讃岐のどこの村でも雨乞い行事が行われていました。それが記録としてのこされなかったから、明治になって消えていったのです。その中で佐文の綾子踊りは2つの史料が残されました。それが西讃府誌と尾﨑清甫が残した記録です。
西讃府誌と尾﨑清甫
西讃府誌と尾﨑清甫文書
西讃府誌は幕末に丸亀藩が編集したもので、各村の庄屋たちに命じて地誌的な情報をレポートとして提出させたものを藩が編纂したのものです。つまり、当時の佐文村の庄屋のレポートにもとづいて書かれています。その中に綾子踊りのことが次のように取り上げられています。
西讃府誌の綾子踊り

これは公的な一級資料になります。西讃府誌の要点を列挙しておきます。
西讃府誌の綾子踊り記述

西讃府史には、これに続いて12曲の歌詞が記されています。しかし、これ以外のことは西讃府誌には書かれていません。由来や綾子踊り取り方、団扇や花笠の寸法などは何も書かれていません。それが書かれているのが尾﨑清甫文書になります。
「雨乞踊緒書」というのは、佐文の尾﨑清甫の残した文書です。
尾﨑清甫
尾﨑清甫とその文書箱の裏書き
尾﨑清甫は、代議士でもあった増田穣から未生流家元の座を譲られた華道家でもありました。
尾﨑清甫華道免許状
秋峰(増田穣三)から尾﨑清甫(伝次)の華道免許状

尾﨑清甫 華道作品
未生流・尾﨑清甫の荘厳
今から110年前の大正3(1914)年の大旱魃が起こり、途絶えていた綾子踊が踊られます。それを機に、尾﨑清甫は記録を残しはじめ、昭和14年(1939)に集大成しています。

尾﨑清甫史料
尾﨑清甫文書
その中に、踊りの隊形がどのように記されているのかを見ておきましょう。以下が現在のフォーメーションです。

綾子踊り隊形

①女装した6人の小踊り(小学校下級年)
②その後に全体の指揮者である芸司が一人、おおきな団扇でをもって踊ります。
③その後に太鼓と榊持(拍子)
④その後に鉦や鼓・笛などの鳴り物が従います。
⑤そのまわりを大踊り(小学生高学年)が囲みます。
綾子踊り4
綾子踊 小踊りと芸司
ここで押さえておきたいのは、綾子踊りの隊形は円形ではないことです。2つのBOXからなることです。讃岐で踊られる「風流小唄系雨乞い踊」は、先祖供養のための盆踊りが雨乞用に「借用」されたものなので、円形隊形が普通であることは以前にお話ししました。そのため綾子踊りの隊形は「ハイブリッド」だと評する研究者もいます。近世後半になって新たに作り出された可能性があります。
尾﨑清甫の残した隊形図を見ておきましょう。
綾子踊り隊列図 尾﨑清甫
尾﨑清甫の綾子踊隊形図
これが西山(にしやま)の山頂直下にあった「りょうもさん(旧三所神社)」に奉納されていたという隊形図です。読み取れることを列挙しておきます
①正面に磐座があり、その背後に「蛇松」がある
②その前に、御饌が置かれ、台笠や善女龍王の幟が立っている。
③その前に、地唄が横に9人並んでいる
④その前に、小踊りが6人×4列=24人
⑤その他の鳴り物も。現在の数よりも多い人数が描かれている
⑥特に、一番後の外踊りは数え切れない多さである。
⑦それを数多くの見物人が取り囲み、警固係が警備している。
実は、尾﨑清甫は3つの隊形を記しています。それは「村踊り」「郡踊り」「国踊り」です。そして、これは「国踊り」とされます。つまり、踊る場所によって、その規模や編成が変えられたことが伝えたかったようです。しかし、綾子踊が村外に出て踊られたことはありません。この記述には、滝宮牛頭天王社に奉納されていた七箇念仏踊りのイメージが尾﨑清甫の頭の中にあったことがうかがえます。先ほど見た「西讃府誌」には「下知(芸司)1人、小踊6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各1人とありました。これが実際の編成だったのです。つまり、この絵は、頭の中の「当為的願望」と私は考えています。しかし、ここからは、小踊りと芸司の位置など現在にそのままつながる所も多いように見えます。ここでは昔の隊形を、綾子踊りが継承していることを押さえておきます。

綾子踊り 入庭図4
綾子踊の入庭 棒と薙刀の問答
今回は、綾子踊の隊形についてお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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