大久保諶之丞 大久保家年表1

大久保諶之丞の年譜を見ていると、1873年や77年に戸長辞任を願いでています。これを私は「三顧の礼」のような「謙譲の美徳」と思っていたのですが、どうもそうではないようです。なぜ、戸長を辞めさせてくれと大久保諶之丞が言っていたのか、当時の情勢や背景を見ておきたいと思います。
テキストは「馬見州一 双陽の道 大久保諶之丞と大久保彦三郎 言視社2013年」です
大久保諶之丞の家族 明治10年
大久保家の家族写真明治10年 
後列左から諶之丞・父森冶・母リセ
前列左から妻タメ・娘キクエ・サダ(妹)

大久保諶之丞の祖父と父の話から始めます。
 大久保諶之丞の祖父與三治は、讃岐三白といわれた砂糖の原料となる甘庶の栽培をすすんで取り入れて小作農家を育成したり、山道改修をおこなっています。跡継ぎは男子がなかったので、隣村十郷村(旧仲南町)田中源左衛門の長男森治(文政八年。1825生)を、その利発さを見込んで頼み込んで養子に迎えます。これが諶之丞の父になります。森治は、與三郎が見込んで養子に迎えた人物で、文武に秀でているばかりでなく、人柄は温厚篤実で近隣の住民からも親しく信頼されていました。
 父森治は、與三郎を尊敬し、その意志を継いで池を作り新田開発をしたり、同村戸川(御用地)で藩御用の菜種油製造をして、藩から二人扶持を与えられています。父祖は、実業に熱心だったことがうかがえます。                        
 森治は、大久保家の養子になる前は、十郷村田中家の長男として、若いころの香川甚平の塾に出入りしていました。甚平の語る陽明学とは、次のようなものです。

「知行合一」で「心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を生み出す。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多い。よって先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。」

陽明学は行動主義で、本の中に閉じこもる学問ではありません。幕末の志士たちのイデオロギーともなった思想です。 後には、諶之丞や弟の彦三郎も香川甚平の塾で学び、陽明学を身につけていきます。
 大久保家では曽祖父権左衛門から「直」の字を字に取り入れています。人が生きるのに最も大切なものであるのは「直」であるという考えが家の中に一本通っていたと云えるかも知れません。
  「直」には、ただしい心、ただしい行の意味があるようです。
 森冶は、自らを「直次」と称し、長男菊治は「直道」、三男諶之丞は「直男」、五男彦三郎は「直之」と称させています。そして折に触れて「直」のもつ意味と、生きる方向を伝えたのでしょう。
 後に尽誠学園を開く彦三郎は、父森治61歳の還暦祝のときに、「家厳行述」と題して父の伝える家訓「直」を讃える漢詩を作っています。
大久保諶之丞3

18歳で結婚し、諶之丞は、明治5(1872)年24歳の時に、財田上の村役場吏員となります。その間には、長谷川佐太郎が指揮して、約20年前に崩壊していた満濃池再築工事(1870年)に参加して土木技術と「済世利民」の理念を身をもって学んでいます。ここには父や祖父の意思を継いで、地域に貢献しようとする意思が見えます。

讃州竹槍騒動 明治六年血税一揆(佐々栄三郎) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

このような中で明治6(1873)年6月西讃竹槍(農民)騒動(血税一揆)が起きます。
 明治維新の「文明開化」の名の下に、徴兵制や学制などの近代化政策が推し進められます。地元の女達からすれば徴兵制は、兵士として夫や子どもを国に取られることです。義務教育制は、学校建設や授業料負担を地元に強制するモノです。新たな義務負担と見えます。それを通達する地元の役人たちも、江戸時代の村役人のように村の常会で協議での上で決定というそれまでの流儀を無視するものでした。しかも、それを行う村の役人は庄屋に代わって、あらたにそのポストに成り上がって、威張ったものもいました。全国の農村で、現場無視の近代化政策への不満と、現場役人たちへの不満が高まっていたようです。
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発端は、三野郡下高野村で起きた娘の誘拐事件で、次のように伝えられます。
下高野村の夕方のこと。ひとり蓬髪の女が女の子を抱え、連れ去ります。「子ぅ取り婆あ」に娘がさらわれたという騒ぎに、住民が手に手に竹槍をもって集まり、さらった女を取り押さえなぶり殺しにしようとします。それを阻止しようとした村役人や戸長に対して、日頃の不満が爆発し暴動に発展します。これがあっという間に、周辺に広がります。26日豊田郡萩原村(現観音寺市大野原町萩原)へ向かって進んだ後、翌27日には、群集の蜂起は2万人にも膨れあがり、三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに丸亀へと進んで行きます。
 その背景には、「徴兵検査は恐ろしものよ。若い児をとる、生血とる」という「徴兵=血税=血が採られる」いうフェイク情報がありました。また、一揆の掲げたスローガンを見ると「徴兵令反対、学制反対、牛肉食による牛価騰貴、貧民困却」などが挙げられています。ここからは、徴兵制や学制など明治政府の進める政策への民衆の不満に自然発火的に火が付いたことがうかがえます。暴動の襲撃目標は、近代化の象徴である小学校、戸長事務所、戸長宅、邏卒出張所などに向けられます。約600の家屋が焼打ちにされたと報告書は記します。この内の48が小学校とありますので、義務教育の強制に対しても住民は不満を持っていたことが分かります。その背景には学校経費として丸亀・多度津では一年につき最下層でも25銭の負担が住民に課せられるようになったことがあるようです。

西讃竹槍騒動 進行図
西讃竹槍騒動の一揆軍と鎮圧部隊の進行図
財田上の村では、戸長、副戸長宅、品福寺、宝光寺など家屋十軒が火災被害にあっています。
森治が村の副戸長、諶之丞が村吏をしていたために大久保家も焼打ちにあいます。ちなみに後に出された大久保家の被災届には、次のように記されています
「居宅、座敷、竃場、湯殿、作男部屋、雪隠、釣屋、懇屋、牛屋、薪屋、油絞屋、勝手門、土蔵三棟など三百坪に及ぶ屋敷」

森治の屋敷は、長屋門を構え300坪のる大きなものであったことが分かります。
このあとすぐに、父森治は副戸長を、諶之丞は役場吏員を辞しています。翌年の明治七(1874)年には、大久保家は財田上の村戸川に自宅を再築します。村の政治から手を引いた大久保家ですが、村民の大久保森治家、とくに諶之丞に対する信望は厚かったようです。固持しても、とうとう担ぎ出されて諶之丞は、明治八(1875)年に、副戸長(副村長)となり、4カ月後には27歳の若さで戸長(村長)になっています。兄菊治は村の小区会議員に担がれています。
  諶之丞は一揆のことを、教訓として次のように日記に書き残しています。
「どのような事業であれ、民衆を十分に納得させて、その合意を得なければ、あらゆる目論見は成り難い。」

 「合意と実行」が政策を進める上での教訓となったようです。
この事件は、大久保家にとっては大きなトラウマとして残ります。。
 諶之丞が戸長になることについて、父森治は別として義母リセ、妻タメをはじめとする家族の心配や小言が絶えなかったことが諶之丞の日記からはうかがえます。この時期は、明治9年熊本神風連の変、前原一誠萩の乱、明治10年の西南の役と続いた世情不安定な時代です。戸川に再建した自宅も、あの西讃竹槍騒動のときのように再び焼打ちに遭うのではないか、諶之丞の身に危険が及ぶのではないかという心配が家族にはあったのです。諶之丞が戸長を辞めたいと再三のように嘆願しているのは、家族の声を聞いてのことのようです。しかし、それもかなわないまま明治12年まで戸長を続けます。
財田上の村荒戸組三十二名連判の明治十年六月「村民条約書」が残っています。意訳すると次のようになります。
戸長の大久保甚之丞殿より何度も辞職願が提出されているが、村民一同より辞めないで続けてくれるように、何度もお願してきた。同氏は資性才敏にして、村内の利益を第一に考え、村民を保護安堵させてくれていりので、我々一同お蔭で助かっています。元来同氏は、役員(人)となることは不本意で好まないところですが、村内が選ぶので命用されます。そのたびに上司に辞任届を出しますが承諾されず、村民もひたすらこれを推戴して、ついに今日に至った次第です。
 先年農民の暴動(讃岐血税一揆)は、役員(人)と見れば問答無用で居宅を放火し、その人物の如何を論じない。同氏もその災害に罹った。一揆が突然だったために、焼き討ちを止めるいとまがなく遺憾極まりない。
 大久保家の家族は、先年の暴動に懲りて吏職を嫌うようになりました。奉職している諶之丞氏は、不本意だが村民の情実を汲みとつて勉励してくれています。村民において、同氏に報いる義務なくしては、実に相済まない。そのため以下の条件を約し連判するものである。万一、条約に背いた者は、村内一同より罰責する。
第一条
村民大久保氏を推戴して戸長となつている以上はその指揮に間違いなく従います。いやしくも意見があれば直ちに忠告をし、親睦補佐して、利害を共にし憂楽を同じくすること。
第二条
    万一、先年のごとき奸民暴挙、官吏を傷害することがあって、大久保氏をも禍いしようとすれば、村民一同相率いて居宅家族を囲統守護して、乱暴の者は即刻排除すること。
第三条
万一、乱民暴動を防ぎ切れず居宅が毀わされ焼かれたときには、村民一同その居宅の新築費用を助成すること。
右三条硬く守り決して違背しません。
「荒戸組」というのは、藩政時代の行政組織として財田上の村にあった集落のことです。東から山分組、荒戸組、石野組、朝早田組、さらに財田川北川の北地組と五つの組がありました。大久保家が属していた石野組とは別の隣り組です。荒戸組だけでなく、五つの組すべての村民が、組それぞれにこのような連判状を作って諶之丞に差し出したことがうかがえます。それほど村民の信望は厚かったようです。

戸長については、明治四(1871)年四月に戸籍法が定められ、戸籍吏として戸長・副戸長が置かれます。
戸長は、この戸籍吏に土地人民一般の事務を取扱わせたものです。大区には区長、小区には戸長が置かれました。この時の戸長は、民選したものを郡長が指名しまします。戸長の職務は、県・郡からの通達徹底、戸籍整備、租税徴収、小学校設置、徴兵調査などで、政府の中央集権政策の末端遂行機関でした。ここには、衛生福祉などサービス的な要素は一切ありません。小さな政府の小さな役所で、戸長の家が役所として使われていた所も多かったのです。そのために、農民騒擾が起ると、その攻撃対象に戸長宅がなることが多かったようです。
 また江戸時代の村役人とは異なり、権威主義的な統治手段がとれません。村民と権力側の板挟みになる立場のために旧庄屋層は戸長就任を嫌うことも多かったようです。例えば、明治になって満濃池再築を行う榎井村の大庄屋の長谷川佐太郎も戸長に選ばれますが、すぐに辞退しています。

   諶之丞が、財田上の村戸長をしていたときのことです。
財田上の村では、品福寺内に学校を置いていましたが、一揆以後に新たに小学校を建てることになります。当時の義務教育は、全額が地方負担です。国は何の補助も出さずに、地方に義務教育の普及を命じます。村の予算の1/3が学校建築や教員給与となっていた時代です。受益者負担で、そのため村民は授業料も負担しなければなりませんでした。この義務教育の強制は徴兵制施行とともに、村人の怨嗟の的になります。「讃州血税一揆」の原因となったは先ほど触れた通りです。
 このような中で、戸長を勤めていた大久保諶之丞がどのようにして学校建設を行ったのかを見てみましょう。
 彼は、少しでも村の財政負担を少なくするために近隣の山林を多く所有する神社寺院や村民などから木材を寄進してもらおうと、村内を駆け回つています。校舎建築のための材木確保のためです。
  その頃の村のわらべ歌に次のようにうたわれていたと云います。
大久保諶之丞は  大久保諶之丞は
日暮のカラス
森をめがけて飛んで行く
公務を終えて夕方になると小学校建築のため奔走していた当時の諶之丞の姿が、村民の親から子に言いはやされていたようです。その姿が目に浮かぶようです。

明治9年12月、財田上の村は、「学校新築を勧むる諭言」を出しています。
学問の必要性と学校新築の重要性を論じ、金のある者は多額の寄金を、そうでない者は竹木縄薪夫力を提供することを求めたものです。おそらく当時の戸長であった諶之丞が起案した文書でしょう。明治8年4月に戸長になった諶之丞は、すぐに校舎新築のために動き出したようですが、資金力に乏しい村では完成までの資金が不足します。校合完成のために村民全体の世論を高め協力を求めた書面のようです。建築資金の支払は、明治12年までかかっていますが、校合はそれ以前には出来上がっていたようです。財田上の村の春魁小学校、雉峡小学校の校舎は、このようにして建築された。ここには、血税一揆から学んだ次の教訓が活かされています。
「どのような事業であれ、民衆を十分に納得させて、その合意を得なければ、あらゆる目論見は成り難い。」 

 学校建設においても、強制的に資金を割り当てて徴収するのではなく、その必要性を手間暇掛けて村民に膝つき合わせて説いて、財力に相応した資金提供を求めています。それが新たに出来だ学校を「自分たちが創った学校」と村民に意識づけることになったようです。この手法が、大久保諶之丞への信頼につながり、彼のファンを増やしたのかもしれません。これは新道造りにも反映されていきます
以上をまとめておくと
①大久保諶之丞の父森冶は、陽明学を学び、それを経営の柱に位置づけようとした。
②そのためため池や道路工事などに積極的に関わり、信望の厚い人物で、それが諶之丞にも受け継がれていくことになる
③明治維新後、父は森治副戸長、諶之丞は役場吏員を務めていたが、西讃血税一揆の際に家が焼き討ち対象とされた。
④このため大久保家では諶之丞が戸長などの公的なポストに就くことに反対する雰囲気が強くなった
⑤その意を受けて、諶之丞は何度も戸長辞任願いを提出しているが、受けいれられることはなかった
⑥このような大久保家の心配を受けて、財田上ノ村の5つの地区は、それぞれが留任嘆願書を出している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「馬見州一 双陽の道 大久保諶之丞と大久保彦三郎 言視社2013年」
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