1年に3回、まんのう町図書館の郷土史講座を担当しています。今回は、丸亀平野南部を勢力下において、天霧城の香川氏と対峙した長尾氏を取り上げることになりました。時間と興味のある方の参加を歓迎します。
お話する内容については、以下の記事がベースになります。
急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

これに対して三好家の総帥となっていた①十河存保は、天霧城主香川信景と聖通寺城主奈良太郎兵衛に命じて、藤目城を奪還させようとした。香川信景は、この命に従わなかったが、②奈良太郎兵衛は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔など那珂・鵜足・阿野の兵3000を率い、藤目城を攻めてこれを奪還した。奈良太郎兵衛は、新目弾正を城主として城を防衛させた。③元親は、今度の藤目城攻撃に香川信景が加わらなかったのを見て、時機至れりと考えて財田城に進出した。財田城は、藤田城の東南の三野郡大野郷財田にあって、阿波の自地に最も近い讃岐の要衝である。財田城主財田和泉守は、香川信景の救援を求めたが得られず、土佐軍に囲まれて奮戦した。④200余名の部下を激励し、死戦を試みて生を得ようと、囲みの一角を破って打って出たが果たさず、部下と共に討死した。
財田城が占領されたので、藤目城の運命も定まった。城主となっていた。⑤新目弾正は歴戦の勇士で、土佐軍700人を討ち取ってなお奮戦を続け、500に足りない城兵は、最後まで戦って城主以下全員討死した。藤目城は土佐軍によって確保され、元親は、斉藤下総守を入れて城を守らせた。

元親は、西讃に進入するのに先だって、大西上野介(大西覚用の弟?)と謀り、土佐国分寺の西の坊を使僧として、香川信景の舎弟で観音寺景全の家老香川備前守を説き、香川氏が長宗我部氏に味方することを求めた。信景は、織田信長に通じてその一字を承けて信景と称していたのであるが、長宗我部軍の進撃が領内に迫ったので、ついに長宗我部氏に通じ、藤目城にも出陣せず、財田の救援にも兵を動かさなかった天正七年春、信景は岡豊城に元親を訪い、元親への服属を誓った。元親は信景を厚く馳走して、五日間にわたって歓待した。その年の冬、元親の次男親和が、香川信景の娘の婿として香川家に迎えられた。かくして元親は、藤目・財田・天霧の諸城を制して、中讃への進入の時機を待った´
阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」
4月28日、土佐軍の先鋒となった①東予軍は、櫛梨山の南方から高篠一帯にかけて布陣した。②羽床方が寵城して戦うものと思い込み、何の備えることもなく夜を迎えた。③羽床軍は闇に紛れて敵に接近し一斉に鉄砲を打ちかけ、突撃して東予軍を打ち破った。東予軍は退勢を立て直し、29日の早朝から激戦を続けて昼に及んだ。昼過ぎ元親の本隊が戦線に加わり、羽床伊豆守はこの本隊と戦ったが破れ、土器川を渡って退却した。土佐軍は、羽床軍を追って一気に城を落とそうとして、土器川器川の西岸に達したが、対岸の安造田・中津山一帯に有力な部隊が陣を張っているのを見て、あえて攻撃しなかった。④羽床方の留守部隊であった老人や子供が後詰めとして出陣し、擬陣を交じえて陣を張っていたのである。
⑤西長尾城の長尾大隅守は、土佐軍が攻め寄せて来るのを見て、城を出て土器川を渡り対岸でこれを迎え撃った。戦いは混戦となり、長尾方の部将で炭所西村の国侍であった片岡九郎兵衛が、土佐方の勇将大山孫九郎を討ち取った。土佐軍は兵を返して櫛梨山付近に集結した。その夜、長尾大隅守は、土佐軍の陣営に夜討ちをかけたが、敵陣の警成が厳しく充分な戦果を挙げることができなかった。
⑥長尾方の部将片岡九郎兵衛は、聞の中の戦いで湿田に馬を乗り入れ、流弾を受けて討死した 今も大歳神社の北東の本田の中に、片岡伊賀守の墓が残っている。仲南町の今田家に伝わる「今田家系図」に、今田景吉と今田掃門丞が西長尾城の落城の時に討死したと記されているのも、この日の戦いのことであろうと思われる
⑦長尾大隅守と羽床伊豆守は、それぞれの城に籠って戦おうとした。土佐軍は、那珂地方の南部の麦畑を「一畝隔てに薙ぎ払って」、夏以後の軍糧を脅かすと共に、農民に恩情を示して民心を得ようとした。
雖度々令啓達候、向後之儀猶以可得御内証、態以使者申人候、(中略)一(3)先度従在陣中如令注進候、讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、一 名東郡一宮之城を取巻候之条、十河・羽床搦手にハ対陣付置、一宮為後巻至阿州馳向候処、此方備まちうけす敵即敗北候、追而可及一戦処、阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計、先謀叛之輩共、或者令誅伐、或令追討、勝瑞一所に責縮、方角要々害・番手等堅固中付、(後略)長宗我部宮内少輔 元親(天正八年)霜月廿四日柴筑前守(秀吉)殿人々御中
度々の報告でありますが、今後のこともありますの使者を立て以下のことを連絡いたします。(中略)一 先日、注進したように、(A)讃州の十河・羽床両城を包囲中です。さて、石山本願寺を退城した牢人たちが紀州・淡路の者どもと共に、海を渡ってきて、阿波の勝瑞へ籠城しました。一 さらに名東郡一宮城を取り囲む勢いです。我々は十河・羽床城攻撃のために出陣中でしたが、阿波に転進して一宮を取り巻く勢力を敗走させました。それを追ってなお一戦しました。阿州南方には新開道善など雑賀に与するものがいて、なかなか手強い相手でしたが、これを誅伐・追討することができました。そして残る勝瑞に迫りました。
⑧元親は、香川信景を通じて羽床氏に降伏を勧めた。羽床伊豆守は、情勢を判断して、実子係四郎を入質として降伏した。長尾大隅守も、信景の扱いで元親に降伏した。
急いで注進致します。一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。①攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた我々警固衆は山を下り、(金蔵)川を渡り、一気に敵に襲いかかりました。②敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)

① 大坂石山戦争の石山本願寺への戦略物資の運び込みのために備讃瀬戸南航路を確保する② 備中に亡命していた香川氏を讃岐に返し、毛利氏の西讃支配の拠点とする
史料「厳島野坂文書」追而申入候、讃州表之儀、長尾・羽床人質堅固収置、阿州衆と参会、悉隙明候、於迂今阿・讃平均二成行、自他以大慶無申計候、(中略)(天正五年)十一月二十日 (小早川)隆景(花押)棚守方近衛将監殿同左近大夫殿御宿所
①11月20日以前に毛利氏と三好氏の和睦が成立したこと②その条件として、讃岐惣国衆の長尾氏・羽床氏から毛利方に人質が差し出されたこと③この和睦によって毛利氏は、阿波・讃岐を平定したとの認識があったこと
尊光寺は、鎌倉時代の中頃、領主大谷氏によって開基され、南北朝時代に中院源少将の崇敬を受けた……。
①まんのう町へは、鎌倉時代の承元元年(1207)に、法然が流罪となり、讃岐国小松庄の生福寺で約9ヵ月間寓居し、その間、各地で専修念仏を広めた。その後、四条の地には、生福、清福、真福の三福寺が栄えていたとあるので、鎌倉時代には真宗が伝わっていたと推察。②『徳島県史(旧版)』の安楽寺縁起には、鎌倉時代の宝治合戦(1247)に敗れた千葉氏の一族彦太郎が、縁者である阿波国守護の小笠原氏を頼って、北条氏に助命を願い、安楽寺に入って剃髪し、安楽寺は天台宗から浄土真宗に改宗したと書かれている。この記事から、四国へ浄土真宗が伝わったのは鎌倉時代と考えた。③尊光寺の記録にある開祖少将は、南北朝時代に、西長尾城を拠点にして南朝方の総大将として戦った中院源少将に仮託したものと推察。④尊光寺の本尊阿弥陀如来の木像は、 一部に古い様式があり鎌倉仏とも考えられること。
⑤中央では真宗史についての研究や、真宗教団の四国への教線拡大過程が明らかになった(『講座蓮如』第五巻)。⑥『新編香川叢書史料編二』(1979年)が発刊されて、高松藩の最も古い寺院記録である『御領分中寺々由来書』が史料として使用可能となった。⑦1990年代に『安楽寺文書上下巻』『興正寺年表』など、次々に寺院史の研究書が発刊されたこと。

①足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依した。④15世紀後半に、仏国寺の住持が蓮如を慕って蓮教を名のり興正寺を起こしたので、常光寺も興正寺を本寺とするようになった。

「足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた」

①興正寺経豪が蓮如に帰参した文明13年(1481)説②安楽寺の讃岐財田への逃散亡命から郡里に帰還した永正十七年(1520)説

①当時の興正寺の掲げていた「四国への真宗教線拡大戦略」②安楽寺の「財田逃散亡命」から帰還後の讃岐への教線拡大③三好氏の讃岐中讃への勢力の拡大

一向宗京都興正寺末寺
讃州鵜足郡長炭村 尊光寺
開基 少将
当寺は明応年中、少将と申す僧、炭所東村種子免(たねめん)の内、久保と申す所え開基候。其後享保年中、同種子免の内、雀屋敷之土地更之仕り候と申し伝え候得共、何の記録も御座なく候故、 一向相い知れ申さず候(原漢文)
尊光寺は明応年間に、少将と申す僧が、炭所東村の種子免(たねめん)の内の久保に開基した。その後、享保年間になって、同じ種子免の内の雀屋敷の現在地に移ってきたと伝えられる。しかし、これについては何の記録もない。詳しくはよく分かりません。
阿州安楽寺一向宗宇多郡尊光寺開基、明応年中、少将と申す僧、諸旦那の助力を以って建立仕り候事、寺の証拠は、本寺の証文所持仕り候(原漢文)。
右は天正年中、女子ばかりにて寺役が相勤め申さざる御、当国西長尾の城主長尾大隅守、土佐長宗我部元親のために落城。息長尾孫七郎と申す者、軍務を逃れ、右尊光寺の女子に要せ、中興仕らせ候申し伝え候得共、住職並びに隠居仰せつけられ候年号月日相知れ申さず候(原漢文)。
一 尊光寺の中興開基は、玄正天正年間に、尊光寺には女子ばかりで跡継ぎがいなかった。西長尾城が土佐長宗我部元親により落城した時に、城主長尾大隅守(高勝)は息子・長尾孫七郎を、尊光寺の女子と婚姻させ、寺の中興を果たしたと伝えられる。住職就任や隠居時の年号月日については分からない(原漢文)。
①中興開基の玄正は、長尾城主の息子・孫七郎であったこと②長尾氏滅亡の際に、孫次郎が尊光寺を中興したこと。
1492(明応元年)炭所東に尊光寺1517(永生14)長尾に超勝寺1523(大永3年)長尾に慈泉寺
①西長尾城主の弟(甥)とされる宥雅は、善通寺で仏門に入り、真言僧侶として、金毘羅大権現の金光院を開いている。
②長尾氏の菩提寺佐岡寺は真言宗で、長尾氏一族の五輪塔がある。
①応安元年(1368)
西長尾城に移って長尾と改め、代々大隅守と称するようになった②宝徳元年(1449)
長尾次郎左衛門尉景高が上金倉荘(錯齢)惣追捕使職を金蔵寺に寄進③永正9年(1512)4月
長尾大隅守衆が多度津の加茂神社に乱入して、社内を破却し神物④天文9年(1540)
7月詫間町の浪打八幡宮に「御遷宮奉加帳」寄進




谷地の開墾 大谷氏中世の開墾は、国家権力の保護や援助に依頼することができなかったので、大規模な開墾は行われなかった。平地部の条里制地域の再開墾田は年貢が高く、検田も厳重であった。そこで、開墾は小規模で隠田などが容易な、湧水に恵まれた谷地などで盛んに行れた。鎌倉時代になってからまんのう町域でも、平地部周辺の谷地が盛んに開墾されたものと思われる。小亀氏と共に南朝方として活躍した大谷氏(大谷川氏)は、炭所東の大谷川・種子・平山などの谷地を開墾して開発領主となり、惣領が大谷川から大井手(現在の亀越池地)にかけての本領を伝領し、庶子がそれぞれの谷地の所領を伝領して、惣領制によって所領の確保が図られた。
去廿二日同廿四日、松尾寺城に於て数度合戦に及び、父隼人佐討死候、其働比類無く候、猶以って忠節感悦に候、何様扶持を加う可く候、委細は石井七郎次良申す可く候、恐々謹言十月州日 久光(花押)石井軽法師殿
「当社壬申、長尾大隅守衆、卯月二十九日乱入して社内破却神物取矣云々」

五〇〇石 石井掃部、五〇〇石 守屋久太郎、四〇〇石 三井五郎兵衛、四〇〇石 岡部重内、二〇〇石 石川吉十郎
1492(明応元年)炭所東に尊光寺1517(永生14)長尾に超勝寺1523(大永3年)長尾に慈泉寺
(表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」于時元亀四年突酉十一月廿七記之」(裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
「南無駄弥陀ばかりを称える人たちが増えて、一向のお寺は信者が増えています。それに比べて、真言のお寺は、勢いがありません。私が院主を勤める金光院を盛んにするためにはどうしたらよいでしょうか」
「ははは・・それは新しい流行神を生み出すことじゃ。そうじゃ、近頃世間で知られるようになってきた島田寺に伝わる悪魚伝説の悪魚を新しい神に仕立てて売り出したらどうじゃ」
「なるほど、新しい神を登場させるのですか、大変参考になりました。もし、その案が成就したときには是非、お堂の落慶法要においでください」
「よしよし、分かった。信心が人々を救うのじゃ。人々が信じられる神・仏を生み出すのも仏に仕える者の仕事ぞ」
「長尾殿従り御寄進状案文」 上金倉荘惣追捕使職事合右彼職に於いては、惣郷相綺う可しと雖も、金蔵寺の事は、寺家自り御詫言有るに依って、彼領金蔵寺に於ては永代其沙汰指し置き申候。子々孫々に致り違乱妨有る可からざる者也。乃状件の如し。宝徳元年(1449)徳元年十月 日長尾次郎左衛円尉 景高御在判
長尾殿よりの御寄進状の案文 上金倉荘の「惣追捕使職」の事についてこの職については、惣郷全体で関わるものであるが、金蔵寺に関しては、寺家なので御詫言によって永代免除と沙汰した。これ以後、子々孫々に致るまで違乱妨のないようにすること。乃状件の如し。