瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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「遺告二十五ヶ条」(略称「御遺告」)10世紀半ば成立
御遺告 10世紀半ば成立
 空海の請雨伝承を伝える史料は『御遺告』と『大師御行状集記』が代表的なものとされます。このふたつは成立年代がちがうので、空海請雨伝承に違いが出てくるのは当然です。しかし、それ以上に両者の内容は隔たりがあり、全くちがう話と言ってもよいほどです。どうしてこんなに内容が異なるのでしょうか。今回はこのふたつを比較しながら見ていくことにします。テキストは「籔元晶   国家的祈雨の成立」です。
   『御遺告』は、空海の遺言を記録したものというスタイルなので、成立は空海が没した承和二年(835)ということになっています。しかし、それを信じる研究者はいません。実際は百年後の10世紀半ばと研究者は考えています。御遺告は、空海の祈雨祈願について次のように記します。
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 従爾以降帝経四朝奉為国家建壇修法五十一箇度。亦神泉薗池辺御願祈雨霊験其明。上従殿上下至四元。此池有竜王名善如。元是無熱達池竜王類。有慈為人不至害心。以何知之。御修法之比托人示之。即敬真言奥旨従池中・現形之時悉地成就。彼現形業宛如金色長八寸許蛇。此金色蛇居在長九尺許蛇之頂一也。見此現形弟子等実恵大徳并真済真雅真照堅慧真暁真然等也。諸弟子等敢難覧着。具注言心奏聞内裏。少時之間勅使和気真綱御幣種種色物供二奉竜王。真言道崇従爾弥起也。若此池竜王移他界浅い池減水薄世乏人。方至此時須不火知公家私加中祈願上而已。

  意訳変換しておくと
神泉苑での祈雨が行われる理由は、この池に天竺の無熱達池にいた善如竜王が棲んでいるからである。その姿を空海は、正月の後七日の御修法の時に人々に示した。その姿は八寸ばかりの金色の蛇で、九尺ばかりの蛇の頭の上に乗っており、その姿を見ることができたのは七人の弟子に限られており、他の弟子は見ることができなかった。そのことを天皇に奏上すると、和気真綱が勅使となって竜王を祀ることとなった。このことによって、真言宗はますますさかんとなったのである。そして、もしこの竜王がよそへ移るようなことがあったならば、公家に相談せずともすぐに真言宗の僧侶が祈願をしなければならない。

読んで気がつくのは、空海による祈雨が話の中心に据えられていないことです。中心は、善如竜王が神泉苑に棲んでいるという所にあります。作者の一番伝えたかったのは神泉苑で祈雨を行うことの意味だったようです。なぜ神泉苑という場所で祈雨を行うのか、神泉苑が祈雨の場所としてなぜふさわしいのか、その理由を善如竜王が棲むということ説明しています。ここでは、話の中心は善如竜王で、空海ではないこと、そういう意味では御遺告の雨乞祈願は「善如竜王出現譚」とも云えることを押さえておきます。

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神仙苑に現れた善女龍王
 この内容は神泉苑での祈雨を行うことについての理由付けです。この話が生まれてくる前提を考えると、実際の神泉苑で祈雨が行われるようになってから出来上がったことが推測できます。つまり、真言宗が神泉苑での祈雨を行うようになってから作られた話であることを押さえておきます。それでは、その説話の成立はいつ頃のことなのでしょうか 。
真言宗による神泉苑での祈雨が定着するのは延喜8年(908)以降のことのようです。
『祈雨日記』長暦2年(1038)の記事に、次のように記します。
被綸旨云。炎気日増。雨雲永隠。田水忘溝。農業納鍬。皇情御歎。相同湯代。爰聞無熱池水通神泉。阿御竜類移法水。加之祈請者弘法祖師之慈悲願力応化者。善如竜王利生誓力。仰而仰之。憑而憑之。但任先例。〔率〕廿口伴僧。於大師霊験古跡。可被勤修請雨経法也者。綸旨如此。悉之。
長暦二年六月十四日左中弁源四匹経 奉
  勤奉  仁海法印房
意訳変換しておくと
 炎気は日増しに高まり、雨雲は見えない。田に水はなく、農民は鍬をおさめたままで旱魃に苦しんでいた。天皇はこれを嘆き、救済したいと願った。ある時に①無熱池水が神泉苑に通じていること。龍が雨を降らせること、②祈請者の弘法大師の慈悲願力によって③善如竜王に祈雨を祈祷して雨を降らせた先例があることを聞き及んだ。そこで20人の高僧を引き連れて、④大師霊験古跡の神仙苑で請雨経法を襲封させた。綸旨如此。悉之。
 長暦二(1038)年六月十四日左中弁源四匹経 奉
  勤奉  仁海法印房
ここには次のような事が記されています。
①無熱池水が神泉苑に通じていること。
②空海の験力のこと、
③善如竜王のこと
大師霊験古跡の神仙苑
これを書いた人が『御遺告』をベースにしていることが分かります。つまり『御遺告』記載の空海請雨伝承の成立年代は、延喜八(908)年から長暦二(1038)年までの間と研究者は推測します。
 
 次に、『大師御行状集記』(以下『行状集記』)の空海請雨伝承を見ていくことにします。
この『行状集記』は、寛治三年(1089)の成立であることがはっきりとしていて、伝承の変遷を考える上で基準となります。そのなかの「被勧請神泉苑於竜王条第六十九」には、「有書曰」という形で先の『御遺告』と全く同じ記事が載せられています。それに続いて「又或曰」という形で、もう一つ次のような空海請雨伝承が載せられています。

 又或曰。淳和帝御即位天長元年甲辰。依旱災 奉勅於神泉苑。可修請雨之法者。爰守敏大徳奏状僊。守敏已上陽也。同修之。須先勤仕。而令雨西京者。依請早修者。即以勤仕。七箇日結願之朝。西京如暗夜 雷響尤盛也。其雨成洪水 衆人感嘆也。但遣使令検地之処。雨界内不及山外云々。亦大師勤修 雖経七日無雨。大師入定思惟。守円大徳駈取諸竜 既入水瓶已云々。即出定 延修二ケ日夜。大師告曰。池中有竜王 号曰善如 元是無熱達池竜王之類所勧請也云々。乃至結願之日。重雲覆天雷鳴於四方急降膏雨・池水涌満。至于大壇之上 自是以後。三箇日之間普雨三天下 自然傍佗。水愁已以絶。賀其功一任小僧都慶賀之間不好有威勢出入之処自然施面目・云々。
意訳変換しておくと
天長元年(824)に旱魃があり、神泉苑で請雨経法を修するように勅が下った。そこで、守敏は自分が上陽であることを主張し、先に西の京に雨を降らすことになった。そして、西の京が洪水になる程雨が降った。しかし、検分したところ、狭い範囲でしかなかった。
 次に空海が祈雨を行ったが、七日たっても雨が降らなかった。そこで入定して考えたところ、守敏が諸竜を水瓶に閉じ込めていることが分かった。そこでインドの無熱達池の善如竜王を神泉苑に勧請して雨を祈った。そうしたところ、三日間雨が広く降ることとなり、その功績によって空海は少僧都に任じられた、という。

 このように『行状集記』では、神泉苑での空海の祈雨は守敏との験比べという形で書かれています。この話は「空海の守敏との祈雨の験比べ譚」とも云える内容です。先ほど見た御遺告の内容と大きく違います。これと同じモチーフが天永二(1111)年成立と言われる『本朝神仙伝』や元永元年(1118)成立の『高野大師御広伝』にも載せられていて、伝承として定着していったことがうかがえます。
2善女龍王 神泉苑2g
 ところが、同時期の成立とされる『今昔物語集』には、この「守敏との験比べ」のエピソードは出てきません。
巻第十四の「弘法大師、請雨経の法を修して雨を降らせたる語」と第四十二「空海が神泉苑で請雨経法を修したところ、壇に五尺ばかりの蛇が出現した」の2つの話を見ておきましょう。

今昔、□□天皇の御代に、天下旱魃して、万の物皆焼畢て枯れ尽たるに、天皇、此れを歎き給ふ。大臣以下の人民に至まで、此れを歎かずと云ふ事無し。其の時に、弘法大師と申す人在ます。僧都にて在しける時に、天皇、大師を召て、仰せ給て云く、「何(いか)にしてか、此の旱魃を止て、雨を降して、世を助くべき」と。大師、申て云く、「我が法の中に、雨を降す法有り」と。天皇、「速に其の法を修すべし」とて、大師の言ばに随て、神泉苑にして請雨経の法を修め給ふ。七日に法を修する間、壇の右の上に五尺許の蛇出来たり。見れば、五寸許の金の色したるを戴けり。暫許(とばかり)有て、蛇、只寄りに寄来て池に入ぬ。而るに、廿人の僧、皆居並たりと云へども、其の中に止事無き伴僧四人こそ、此の蛇を見けれ。僧都はたら更也。此れを見給ふに、一人止事無き伴僧有て、僧都に申して云く、「此の蛇の現ぜるは何なる相ぞ」と。僧都、答へて宣はく、「汝ぢ、知らずや。此れは天竺に阿耨達池と云ふ池有り。其の池に住む善如竜王、此の池に通ひ給ふ。然れば、此の法の験し有らむとて、現ぜる也」と。而る間、俄に陰(くもり)て、戌亥の方より黒き雲出来て、雨降る事、世界に皆な普し。此れに依て、旱魃止ぬ。此より後、天下旱魃の時には、此の大師の流を受て、此の法を伝へたる人を以て、神泉苑にして此の法を行なはるる也。而るに必ず雨降る。其の時に阿闍梨に勧賞を給はる事、定れる例也。于今絶えずとなむ語り伝へたるとや。」

ここには弘法大師の神仙苑での雨乞祈祷は記されますが、「守敏との験比べ」の話はありません。詳しく見ると『行状集記』と今昔物語を比較すると細かな点に多くの違いがあります。これは、時間経緯と共にかなり口承化が進んでいたことをうかがわせるものです。

2善女龍王2
神仙苑に招来された善女龍王と空海

 また、「今昔物語集」には別な話として、「弘法大師、修円僧都に挑みたる語 第四十」があります。
その内容は修円が加持をして生栗を煮て天皇に献じますが、空海がそれを妨害したことによりお互いに呪咀するようになります。そこで、空海は死をよそおって修円を油断させて、呪咀して殺すという話です。この二つの話と非常に関係が深い守敏との祈雨の験比べ譚が、『今昔物語集』にはないのです。これについて研究者は次のように記します。

「当時一般に口承化されていた空海の請雨伝承は、『御遺告』に見られる善如竜王出現譚が主流であった。『行状集記』に見られる守敏との祈雨の験比べ譚は、まだそれほど一般に広まっていなかった」 

守敏との祈雨の験比べ譚が初めて登場した『行状集記』の時点では、口承伝承としてはこの話はあまり知られてなかったことが推測できます。そうだとすると『行状集記』の成立した寛治三(1089)年を余りさかのぼらない時期に、この説話が誕生したことになります。
実はこれと関係する出来事が、永保二年(1082)7月16日の範俊と義範の神泉苑の祈雨をめぐる事件なのです。『祈雨日記』は「大蔵卿為房記」を引用して次のように記します。
 今日神泉苑以阿闇梨範俊匹被行請雨経法。先例先被仰一宗長者。次及此門徒云々。一宗長者信覚僧正一門 上陽義範律師也。義範隠居山門之故欺。人以相傾云々。範俊奏云。義範吾弟子也。越吾不可修此法云々。但宣下修之。爰義範難思登上醍醐山真言参龍居発願云。仰願大師三宝。吾若彼弟子者。雨必降給。若又彼奏虚妄者。不可雨降。心誓願祈念三宝。遂雨不降。範俊此間於真言院勤修愛染王云々。
 ここには神泉苑で範俊が請雨経法を行ったことが最初に記されます。しかし、先例からすると義範が行うべきものであったようです。そこで、義範は範俊に対抗して、醍醐寺にこもって止雨の法を行ったというのです。これを読んで気がつくことは、空海と守敏との祈雨の験比べ譚と次のように類似点が多いことです。
①神泉苑での請雨経法をめぐっての対立であること
②実施者の決定に際して上屋などの理由がうんぬんされていること
③一方が祈雨を行っている時に、もう一方が止雨を行っていること
ここからは、この事件を元にして「空海と守敏との祈雨の験比べ譚」が生まれたことが推測できます。そうだとすると守敏との祈雨の験比べ譚は永保二(1082)年から寛治三(1089)年の間に成立したことになります。

弘法大師雨乞祈願伝承


 次に『御遺告』の善如竜王出現譚と『行状集記』の守敏との祈雨の験比べ譚が空海請雨伝承の展開の中でどのように位置付けられているのかを見ていくことにします。
 空海請雨伝承の成立期の内容は、『贈大僧正空海和上伝記(寛平七年(895)成立』にあるように、天長年中に空海が神泉苑で祈雨を行い、その成功によって少僧都に任じられたというシンプルなものでした。それに続いて、十世紀に『御遺告』の善如竜王出現譚が成立します。御遺告は『贈大僧正空海和上伝記』の伝承をもとにしていること、そして直接的には祈雨場面について語っているものではないことは、先ほど見てきた通りです。空海の遺言という形を取りながら、神泉苑が祈雨の場としてすぐれている理由が述べられていて、その重点は神泉苑と真言宗の深い関係にあります。つまり、空海の祈雨そのものを説いた説話とは言えず、空海請雨伝承から少し離れた位置にある説話であったと研究者は考えています。 ここでは『御遺告』の善如竜王出現譚は、厳密には空海請雨伝承とは言えないことを押さえておきます。
2善女龍王 醍醐寺2
唐服姿の善女龍王
しかし、時間とともに空海の祈祷場面の方が重視されるようになります。
空海の伝記の一つで『御遺告』より成立が後とされる『金剛峯寺建立修行縁起』は、次のように記されています。
天長元年甲辰依旱災奉勅於神泉苑請雨経法 長八寸許金色竜王。現在二九尺許蛇頂是無熱池河女危
 
①天長元年の祈雨の場面となっていて、そこに善如竜王が出現したこと
②『贈大僧正空海和上伝記』などの初期の空海請雨伝承に、『御遺告』の善如竜王出現譚が挿入・接ぎ木されたもの
③祈雨の修法については何も触れていなかったのが「請雨経法」と限定されていること

神仙苑の祈雨法一覧
上表を見ると神泉苑での祈雨については、初期の段階では請雨経法と孔雀経法の両法が行われています。また請雨経法がまさっているとは書かれていません。いろいろな流儀で雨乞が行われていたのです。それが延長七年(929)からは、請雨経法だけが行われるようになります。この時期に、空海の祈雨法が請雨経法へと限定されたことが分かります。それは醍醐寺の聖宝から観賢の時期にあたります。この二人によって弘法大師伝説は作られていったとされます。
 こうしてみると聖宝から観賢の頃に、『御遺告』を参照しながら空海請雨伝承の充実が行われたことがうかがえます。内容的には、天長元年のこととし、請雨経法を修したとして『金剛峯寺建立修行縁起』を継承しています。また研究者が注目するのは、善如竜王について「所勧請也」としている点です。つまり、空海が善如竜王を勧請したことになっています。これまで善如竜王は天竺の無熱達池より神泉苑に来ているとしか記されていませんでした。それが、初めて空海の勧請によって天竺からやってきたことが記されるようになります。善如竜王が神泉苑に棲む理由について説いている中に、「空海伝来」という言葉が書き込まれたことになります。これもまた伝承の発展でしょう。
 また「結願之日(中略)自然傍詑水愁已絶」の文は、これは『行状集記』の守敏との祈雨の験比べ譚の中の文とほぼ同文です。ここからは、守敏との祈雨の験比べ譚が、『弘法大師伝』を参考に書かれたことが分かります。
 以上のように、『御遺告』から『行状集記』までの期間は、『御遺告』の善如竜王出現譚を取り込む形で空海請雨伝承の発展が見られ、そこに天長元年のこと、請雨経法のこと、善如竜王勧請のことが盛り込まれていったことになります。その中心にいたのが聖宝や観賢ということになります。

観賢について、佐々木令信氏は、「空海神泉苑請雨祈祷説について 東密復興の一視点」で次のように記します

「空海神泉苑請雨祈祷説が流布しつつあった十世紀初頭は、東密がそれまで空海以降、人を得ずふるわなかったのを、復興につとめそれをなしえた時期にあたる。聖宝、観賢とその周辺が空海神泉苑請雨祈祷説を創作することによって、請雨経法による神泉苑の祈雨霊場化に成功したと推測したが、観賢がいわゆる大師信仰を鼓吹した張本人であってみればその可能性はつよい」
 
理源1
左から観賢僧正、理源大師、神変大菩薩像(役行者) 上醍醐

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージア

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空海に大師号をたまわりたい、と真言宗から願い出たときの上奏文が4通、伝わっています。
その内の「①延喜18(918)年8月11日 寛平法皇、贈大僧正空海に諡号を賜わらんことを請わせ給う。」については、寛平法皇(宇多天皇)が上表したとされるものですが、後世の偽書的な要素が強いことを前回は見てきました。今回は、空海への大師号下賜の決め手となった観賢の上奏文を見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。

「弘法大師」の誕生: 大師号下賜と入定留身信仰 [書籍]

残されている
観賢の上奏文は、次の3通です。

②延喜18(918)年10月16日 観賢、空海に諡号を賜わらんことを奏請す。
③同 21(921)年10月 2日 観賢、重ねて空海に諡号「本覚大師」を賜わらんことを奏請す。
④同年        10月 5日 観賢、早く諡号を賜わらんとの書を草す。
④については、③との間隔が短すぎるので、実際には提出されなかったとされます。そうだとすると、空海の場合は、観賢僧正による2回(②③)の上奏をへて、下賜されたことになります。
空海に大師号が下賜されたとき、中心的な役割を果たしたのは誰か。
研究者は次の3人の名を挙げます。
①二度上表した観賢
②偽作ではあるが上奏文の残る寛平法皇(宇多天皇)
③大師号を下賜された醍醐天皇
①の観賢僧正について見ておきましょう。
854年 空海と同郷の讃岐・鶴尾(旧鷺田村)の豪族伴氏(秦氏?)の家に生まれる。
8歳の時に巡錫中の聖宝(理源大師)が掠うように連れ帰った。
18歳の時に、真雅(空海の弟)について出家・受戒し、聖宝より三論・真言密教の教学を学ぶ
895年(寛平7年) 灌頂(41歳)
900年(昌泰3年) 仁和寺別当となり、般若寺を再興し、その後は弘福寺別当・権律師となる。
909年には第9代東寺長者となり
919年に第2代醍醐寺座主、そして第4代金剛峯寺座主を歴任し
923年(延長元年)には権僧正に任じられた。
以上から、観賢が讃岐出身で理源大師の直弟子であったこと、理源大師の後、醍醐寺の第二代座主についた人物であること、修験者的要素を持つ人物であったことなどを押さえておきます。


観賢僧正(854-925)は、讃岐国の出身。
中央が聖宝(理源大師)・右が役行者・左が
観賢 (醍醐寺)
観賢僧正(854-925)は、讃岐国の出身。聖宝尊師の没後、醍醐寺の第一世の座主となった。
                    観賢
最初に上奏された918年から921年に下賜されるまでの間、醍醐天皇・寛平法皇・観賢の3名を結びつけたのが『三十帖策子』の回収作業だったと研究者は指摘します。

東京古典会>出品目録:三十帖策子
                 三十帖策子

『三十帖策子』とは、在唐中の空海が経典・儀軌など150部を筆録した枡形の小冊子です。
東寺経蔵に秘蔵されていたものを、真然が持ち出し、弟子の寿長・無空へと伝えました。無空が山城圍提寺で亡くなったあと、『策子』はその弟子たちが分散所持していました。空海の根本法文が散逸していることを藤原忠平が醍醐天皇に奏上します。それを受けて天皇はその回収を観賢に命じます。すべてを回収できなかった観賢は、920年2月、寛平法皇の力をかりてすべてを回収して目録を作成し、天覧します。
天覧の場には、天皇だけでなく寛平法皇も臨席されていたでしょう。『策子』を目にした人達は、空海の入唐の労苦を偲ぶとともに、その大いなる恩恵を語ったなかで、大師号のことが話題に登ったという物語を研究者は考えています。
 この『三十帖策子』改修作業と並行して、919年10月、観賢は空海への大師号の下賜を上表していたことになります。この時は、天皇の内意は得られたが、勅書は出されなかったとされます。そして、『三十帖策子』が改修され東寺に秘蔵された後の920年10月の2度目の上表に応えて勅書が下されます。「三十帖策子」の回収と天覧が、大師号の下賜に大きな役割を果たしたことになります。
観賢僧正による1回目「延喜18年(918)10月16日付」の上奏文を見ておきましょう。
『追懐文藻』『弘法大師全集』第五輯、410P)
観賢(式部少輔大江千古、観賢に代りて文を作る)
諡号を真所根本阿閣梨贈大僧正法印大和尚位空海に追贈せられんことを請うの事
       右、空海、
ア 智慧鏡を懸け、戒定珠(たま)を護る。法水の方流を酌み、禅門の偉器為(いきた)り。
イ 爰に命を魏欠(ぎけつ)に衛んで、週に聡明を渉り、道を唐家に問って、遂に玄妙を窮む。如末秘密の旨、伝印相承し、恵果甚深の詞、写瓶して漏らさず。
ウ 其の帰日に臨んで請来の法文、都慮二百十六部四百六十一巻、皆な足れ護国の城郭、済世の舟柑たる者なり。
エ 閣梨、其の道至って優れ、其の徳弥広し。
オ 公私共に帰依の意を寄せ、紺素争って欽仰の誠を凝らす。
カ 況んや復、門徒業を受くる者、肩を比べて相い連なれり。弟子風に染む者、跡を継いで絶えず
キ 其の大阿閣梨為ること、世を歴ると雖も知るべし。
ク 只だ贈位の勅のみ有って、曾って礼論の栄無し
ケ 茲に因って真言を習うの侶、卓書を学ぶの流、其の称揚に当つて、動もすれば忌講に触れん。
コ 方に今、当時の恩朽株に被り、仁枯骨を霧すこと、既に千年の運に遇う。何ぞ万代の名を埋めん。
サ 望み請うらくは、殊に天の恩裁を蒙り、将に諡号を追賜せられんことを。懇切の至りに任えず。仍って事の状を録して、謹んで処分を請う。
延喜十八年十月十六日           権大僧都法眼和尚位観賢
乃ち允許の天気を蒙ると雖も、米だ施行の明詔有らず。
〔現代語訳〕
諡号を真言の根本阿閣梨・贈大僧正法印大和尚位の空海に追贈せられんことをお願いする事
右、空海は、
ア 智慧をよりどころとして掲げ、戒定慧の三学を宝珠のように護って、仏法の最高の教えである密教を学び、禅定門の偉人な師となられました。
イ ここに朝廷から命をうけ、留学僧として大海をわたり、仏道を唐の長安に求め、ついに奥深い教えを余すところなく体得されました。正統なる如来秘密の教えを誤りなく相承し、恵果和尚の甚深なる教えを一滴たりとも漏らすことなく伝えられました。
ウ その帰朝に際してわが国に請来した法文は、全部で二百十六部四百六十一巻に及びます。これらはみな国を護る城に等しい教えであり、世の人びとを彼岸に渡す舟であります。
エ 大阿閣梨たる空海が求めえた教えはこの上なく優れ、またその徳は広大無辺であります。
オ 天子様をはじめ多くのひとが親しく帰依し、僧も俗人もきそって欽仰の誠をささげました。
カ その法を受け一門に人ったものは数多くあり、今に相続いています。空海の教えを慕い信奉するものも跡を絶たず、しっかり受け継がれています。
ク これまではただ、贈位を下賜されただけでありまして、いまだ諡号の栄誉には預かっておりません。
ケ よってここに真言密教を習っている僧侶、また草書を学んでいる文人が、空海を称揚するあまり、どうかすると天子様のお怒りにふれないかと恐れています。
コ 今まさにご恩を賜りますならば、その仁徳によって生命がよみがえり、まぎれもなくその誉れは千年におよび、万代にもその名は伝わるでありましょう。
サ お願いいたしたきことは、天子様の特別の思し召しをこうむりまして、正に諡号を追賜せられんことであります。本心からの真のお願いでございます。そのため、お願いにいたった経維を記しまして、謹んでご聖断をお願いいたす次第でございます。
延喜十八年十月十六日           権大僧都法眼和尚位観賢
〇かくて允許するとのご意向をこうむったけれども、実際に詔勅を下されるまでにいたらなかった。

この上奏文で、研究者が注目するの次の2点です。
第1は、巻首に、「式部少輔であった大江千古、観賢に代りて文を作る」とあります。ここからはこの上奏文が、観賢から依頼を受けて、式部少輔大江千古(ちふる)が代作したものであることが分かります。千古は、「本朝秀才のはじめ」といわれた大江音人の子で、従四位上式部少輔で、兄が三十六歌仙のひとり大江千里です。千古は学問の家、学者の家系に生まれ育った名文家であったようです。

第2の注目点は、上表文の最後に、「乃ち允許の天気を家ると雖、未だ施行の明詔有らず」です。「允許する」との朝廷の内意はあったけれども、具体的な勅許の沙汰はなかつたと、最後に註記します。
この「未だ施行の明詔有らず」をうけて、3年後の921年10月2日、再度の上奏がおこなわれることになります。
【史料8】『迫懐文藻』(『弘法大師令集」第5、410P)
観賢(大学の頭三善文江(みよしふみえ)、観賢に代りて文を作る)
 重ねて処分を被り、諡号を真言根本阿間梨贈大僧正法印大和尚位空海に追賜せられんことを請う事
右、空海、
ア 戒行倶に足りて、人天皆な敬う。虚鳥の翅自ら軽く、水鮫の眼溺れず。
イ 昔王言を聖朝に奉りて、遠く仏語を震旦に求め、葦を萬里の外に浮べ、 三密を寸心の中に請う。
ウ 是に於いて波を踏んで津を問い、岸に帰って道を伝う。
エ 二百十六部、之を習う者は、不空の前に対するが如く、四百六十一巻、之を受くる者は、自ら如来の室に入る。
オ 世を済い物を済う、其の務め深し。惑を断じ機を断ず、其の情至れり
カ 故に前年、誠を抽んでて 諡号を賜わらんことを請う。而るに卑聴、猶隔てあり。懇志披かず。
キ 空く机檀を改め、多く冷焼を過ぎん。阿闍梨深く定水の心を凝らし、兼ねて臨池の妙を究む
ク 締素皆な脩頼を成し、倭漢推して借模と為す。
ケ  夫れ以みれば、諡は其れ功を顕わし、徳を施すの称、古を引き後を誠めるの法なり゛
コ  若し斯の人をして其の名を埋め令めなば、則ち美玉山巌の下に潜み、黄金沙石の中に免れ不るなり。
サ  望み請うらくは、殊に天裁を蒙り、本覚大師と号し、将に溢号を追贈せ被れんことをことを。猥りに軽毛の心に任せ、偏に逆鱗の畏れ忘る。仍って事の様を注して重ねて重ねて処分を請う
延喜二十一年十月二日                          権大僧都法眼和尚位観賢上表す
〔現代語訳〕
重ねてご聖断をたまわりまして、諡号を真言の根本阿閣梨・贈大僧正法印大和尚位・空海に追賜せられますことをお願いする事
        右、空海は、
ア 戒律を守り徳行を十分に備えた方であって、人間界だけでなく天上界からも敬慕されています。大鳥の翅といえども軽く、水中にすむ龍は決して溺れることはございません。
イ かつて天子の勅命により、仏の真実のことばをはるか唐に求めて、小舟をもって万里の波濤をわたり、心から三密の教えを請い求められました。
ウ このように大海を越えて教えをもとめ、帰り来たって真実の道を伝えられました。
エ その請来された仏典は二百十六部、これを学習するものは、あたかも不空三蔵の面前にいるかと想い、四百六十一巻の経巻によって受法するものは、おのずと大日如来の曼茶羅世界に入っていきました。
オ 世の悩み苦しむ人びとに救いの手を差しのべ、また生きとし生けるものすべてを救わんとなさる、その活動は極めて意義深いことです。
カ それゆえ、先年、真心を尽して、読号を賜わりたき旨をお願いいたしました。しかるに、浅はかなお願いであったのか、朝廷とのあいだに開きがあり、真心からのお願いにもかかわらず受け入れられませんでした。
キ 世の無常にめざめて大学をやめ(役人となる道を)改めてから、幾星霜が過ぎたでありましょう。阿閣梨はひたすら深き禅定に心を集中なさり、一方で書の妙境を究められました。
ク 僧も俗人もみな心から信頼をよせ、わが国でも唐でもすすんで手本としています。
ケ よくよく考えてなると、諡号はその人の功績を顕彰し、功徳をたたえる呼称であって、先の性の人を引きたて後の世の人びとの誡めとする法であります。
コ もし空海の名を(いま顕彰しないで)埋没させるならば、それは美玉を山の巌のもとに隠し、責金を沙石のなかに埋めるに等しきことであります。
サ お願いいたしたきことは、天子様の特別の思し召しをこうむりまして、正に諡号「本覚大師」を追贈せられんことであります。思慮もなく安易な心に任せてのお願いではございますが、(真心からのお願いでありますから)天子様のお怒りをかうなどと言うことを忘れるほどでございます。そのため、お願いにいたった経緯を記しまして、重ねてご聖断をお願いいたす次第でございます。
延喜二十一年十月二日         権大僧都法眼和尚位観賢上表す

この上奏文で研究者が注目するのは、サの部分です。
殊に天裁を蒙り、本覚大師とし、将に諡号を追贈せ被れんことを。

ここでは観賢は空海に「本覚大師」の諡号をたまわりたいと、具体的な名前を挙げてお願いしていることです。「本覚思想」は、空海が最終的にたどりついた密教世界のこととされます。したがって、観賢としては、「本覚大師」こそが、空海にもっともふさわしい諡号とと考えていたことが分かります。

観賢僧正の2度目の上奏に対して、その25日後に、醍醐天皇は勅書をもって空海に「弘法大師」の諡号を下賜します。
【史料1】(『国史大系』第。1巻、24P)

己卯。勅す。故贈大僧正空海に論して、弘法大師と日う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶(これよりともいう)に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。

〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈大僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とした。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現したことである。 そこで、この贈り名を下賜する勅出を少納言惟扶に持たせて、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣させた。

    もう1つの根本史料が、延喜21年10月27日付の「勅書」です。
この「勅書」の本文は、あまり紹介されていないようです。そこで研究者は、この「勅書」を読み下し、現代語訳しているので見ていくことにします。
【史料10】『迫懐文藻』(『弘法大師全集』第五、412P    
 琴絃己絶、遺青更清、
 蘭叢雖凋、余芳猶播。
故贈大僧正法印大和尚位空海
 消疲煩悩、
 地却晰貪
 全三十七品之修行、
 断九十六種之邪見。
既而
 仏日西没、渡冥海而仰余輝、
 市法水東流、通陵谷而導清浪,
 受密語者、多満山林、
 習真趣者、自成淵叢。
況太上法皇
 既味其道、
 宙迫憶其人。
 誠雖浮天之波涛、
 前何忘積石之源本。
宜加崇訪之典、諡号弘法大師
       延喜二十一年十月十七日  勅使 少納言平惟扶
〔読み下し文〕
勅す
 琴絃已に絶えて、遺音(いいん)更に清く、
 蘭叢凋めりと雖も、余芳猶お播(ほどこ)す。
故の贈大僧正法印大和尚位空海は、
 煩悩を消疲し、
 驕貪を地却す。
 三十七品の修行を全し、
 九十六種の邪見を断つ。
既にして
 仏日西に没し、冥海を渡って余輝を仰ぎ、
 法水東に流れ、陵谷に通じて清波を導く
 密語を受くる者、多く山林に満ち、
 真趣を習う者、自ら淵叢を成す。
況や太上法皇、
 既に其の道を味わい、
 宙追って其の人を憶う。
 誠に浮人の波涛と雖も、
 何ぞ積石の源本を忘れんら
宜しく崇訪の典を加へ、諡して弘法大師と号すべし。
延喜十1年十月十七日   勅使

〔現代語訳〕
天皇のおことばを伝えます。
少納言平惟扶
琴のいとが切れてしまったように、すでに身まかられたけれども、その名声は清く高く、
蘭がしぼんでしまったように、生命は天地にかえったけれども、残された教えは今なお広まる。
故の贈大僧正法印大和尚位空海は、
煩悩を消し去り、
おごりとむさぼりとを脱却し、
三十七種の涅槃にいたる修行を先令におさめられ、
九十六種の外道の説く邪見を断ちきられた。
すでに、
釈尊は西方のインドにて洋槃に入られ(たけれども)、大海を渡ってその遺風を仰ぎ受け、
これにより仏法は東国に伝えられ、あらゆる山野の凡夫を導くこととなった。
密教を受法する者多く山林に満ち、
真言の教えを習う者これまた多く群がる。
まして太上法皇は、
 すでに真言密教に精通され、
 宙空海への想いしきりであられる。
 じつに大空にうかぶ大波であっても、
 どうして石積みの本源を忘れることがあろうか。
よってここに、常しく崇め尊ぶよりどころとして、諡号弘法大師を贈る
延喜二十一 年十月二日  勅使 少納言平惟扶

この「勅書」で、研究者が注目するのは、諡号に弘法大師が贈られていることです。
先ほど見たように延喜21年10月2日付で観賢がお願いした大師号は「本覚大師」でした。ところが、下賜されたのは「弘法大師」です。どこで、誰が、何を根拠に、「本覚大師」を「弘法大師」に変更されたのでしょうか。誰が何を根拠に「弘法大師」と命名したのかが分かりません。 この「弘法大師」という大師号は、何を根拠に命名されたのでしょうか?。それは次回にするとして、今回はここまでです。
以上を整理・要約しておきます。
919年10月、観賢は1回目の空海への大師号の下賜を上表したが、天皇の内意は得られたが、勅書は出されなかった。
②920年の
『三十帖策子』の回収作業と天覧を通じて、醍醐天皇・寛平法皇・観賢は同士的な結びつきを深めた。
③921年
年10月2日に、観賢は2回目上奏を行い、諡号「本覚大師」下賜を願いでた
④その月の下旬に、醍醐天皇より諡号が下賜されたが、それは「弘法大師」であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」

理源5

聖宝は16歳で空海の弟真雅に入門し、東大寺でいろいろな宗派を学びながら山林修行にも関わるようになっていたことを見てきました。南都奈良での修学がいつまで続いたのかはよく分かりません。歳仁寿三年(853)・聖宝22歳の時に東大寺の戒壇に登り、受戒したする伝えがあります。(雲雅『理源大師行実記』、祐宝『続伝燈広録』) また受戒後に、元興寺の願暁らに随従したという説もあります(雲雅、前掲書、竜海『理源大師是録』)。
 しかし、これらの説は、同時代史料ではありません。聖宝に理源大師の論号が贈られ「理源大師伝説」が語られるようになる宝永四年(1707)以後に成立した伝記書に記されるものです。これらを信ずることはできないと研究者は考えているようです。
 このような伝説の中に、聖宝が四国にやって来たと伝えるものがあります。それを今回は見ていこうと思います
天安二年(858)、聖宝が27歳の時に四国を遍歴し、観賢を見出だしたという説話です。最初に確認しておきたいことはこの話は、観賢が五、六歳の童子のころであったという他の記録から「逆算」して創作されたものであることです。そのため聖宝が実際に、天安二年に四国を巡錫したとすることはできないと研究者は考えているようです。それを念頭に置いた上で、見ていくことにします。
聖宝の四国巡錫のきっかけは、聖宝と師の真雅との対立だったようです。

理源大師 醍醐雑事記

この話についての一番古い記録は、『醍醐雑事記』で、犬をめぐって師弟の争いが、次のように記されています。
真雅は、犬をたいそう可愛がり、大事に飼っていた。聖宝は、犬を憎み嫌悪していた。二人の犬にたいする愛憎は、水火の仲といってよいものであった。真雅が外出していた折りに、門前に猟師が行ったり来たりして、犬を見ながら、いかにもその犬を欲しそうなそぶりをみせた。聖宝は、それを察して欲しいなら捕まえて、早く立ち去れと言った。猟師は、たいそう喜んで犬を連れて行ってしまった。
 やがて真雅が寺に帰って、食事の時間に愛犬を呼んだが、もちろん犬は顔をみせなかった。翌日になって真雅は犬を探したが犬の姿はどこにもみあたらなかった。この時、真雅は怒って、「この寺房には犬を憎んでいるものがいることを私は知っている。私の寺房の中で、私が可愛がっているのを受けいれないものは同居させるわけにはいかない」といった
 聖宝は自分のしたことを顧みて、真雅の言いつけを気にかけ、寺を抜けだしてて四国に旅立ち修行につとめることになった。

 ここには師の真雅が大事にしていた愛犬を、聖宝が勝手に猟師にあたえてしまったこと。それを反省し、聖宝は四国山林修行に旅立ったというのです。話としては無理があるようです。しかし、この説話からは聖宝と真雅とのあいだに確執があったことはうかがえます。研究者は次のように指摘します。

「聖宝が真雅と必ずしも信仰と行動をともにせず、仏教のあり方についてもこの師弟が考えを異にしていた」

 真雅は時の権力者良房に近づき、その力を背景に宮廷を中心とする活動を繰りひろげ、真言宗の拡張につとめてたことは以前にお話ししました。
 一方弟子の聖宝は、前回に見たように南都奈良で修学中のエピソードからは、東大寺の腐敗した上座僧侶を批判していたことがうかがえます。その腐敗が、天皇や藤原家への接近の中から生まれてきたことを見抜いていたはずです。そのため真雅のやり方に同調することができず、批判の眼をそそぐようになっていたことが考えられます。だとすれば、師弟のあいだに隙間ができるようになったのは当然かも知れません。 この説話の中に出てくる「犬=宮廷貴族勢力」と聖宝が捉えていたと見ると、当時の様子が見えてくるのかも知れません。
  説話に戻りましょう。次のシーンは四国辺路巡りに出た聖宝が、幼い日の観賢と出会うシーンです。
 讃岐路で聖宝が人家の前で乞食をしていると、門のあたりに五、六歳くらいの子供が遊んでいた。聖宝が立ちどまって、よくよく見ると、その子供は非凡な顔だちをしており、仏法の大立て者となるにちがいない相をしていた。
聖宝が、その子供に父親はどこにいるのかと訊くと、子供は、「父は田植をしているが、母は家にいる」と答えた。聖宝が、子供の家に行って物を乞うと、家の主は、聖宝を見て深く尊敬の念をおこし、「食物を召しあがるか」と言ったので、聖宝が「いただこう」と応じると、大豆の飯を新しい黒色の上器に盛ってきて、食べるように勧めてくれた。食事をすませて立ち去ろうとしたら、門の外には、まだその子供がいた。そこで聖宝が、「さあ坊や、都に来ないか、美しいものを見せてあげるよ」と話しかけると、その子供は、「はい」と答えた。聖宝は子供を抱いて、足早にそこを立ち去ったのであった。

地域の偉人・観賢僧正のお話 | おじゅっさんの日々
観賢
 これが聖宝とその弟子観賢との出会いです。
観賢は、後に弘法大師の入定留身説を説き始め、現在の大師信仰を広めた真言宗再興の大きな貢献者として、高い評価を得ています。しかし、 観賢の出身については史料がなくよく分からないようです。

 『東寺相承血脉』に「大師(空海)の甥也 七歳聖賓(宝)具足洛中入給」

とあって、空海の甥で、7歳の時に聖宝に伴われて洛中にやってきたと記します。しかし、これをすぐに信じるわけにはいきません。大師(空海)の甥というのは、無理があります。

理源1
        左から観賢、理源大師、神変大菩薩像(役行者) 上醍醐

 観賢の生まれは、讃岐国呑東郡坂田郷(高松市西春日町)の生まれとされます。そのために奏氏であるとも、大伴氏の人とも云われまが、これもよく分かりません。
どこいっきょん? 観賢僧正など(高松市西ハゼ町)

誕生地とされる西春日町には観賢堂というお堂が地元の人たちによって建立されています。お堂の周りには「観賢御廟」「弘法大師剃刀塚」の二つの石碑があり、地元の信仰を受けてきたことが分かります。
観賢さん | おじゅっさんの日々
観賢堂(久米寺)香川県高松市西ハゼ町

観賢について、佐々木令信氏は、「空海神泉苑請雨祈祷説について 東密復興の一視点」で次のように記します。

「空海神泉苑請雨祈祷説が流布しつつあった十世紀初頭は、東密がそれまで空海以降、人を得ずふるわなかったのを、復興につとめそれをなしえた時期にあたる。聖宝、観賢とその周辺が空海神泉苑請雨祈祷説を創作することによって、請雨経法による神泉苑の祈雨霊場化に成功したと推測したが、観賢がいわゆる大師信仰を鼓吹した張本人であってみればその可能性はつよい」
 
説話に戻りましょう。まるで人さらいのように観賢を讃岐から平安京へ連れ帰った聖宝です。
ほどなく都に帰ってきた聖宝は、仁和寺や般若寺などの庵室に、その子供を置き、都に出かけては乞食をつづけます。しかし、一日に供養を受けた食物は、あくる日の分に残すことができなかった。このような苦労をかさねて、聖宝は、月日を送っていた。ある日、中御門の下で、しきりに先払いの声がして、集まっている人びとを追いはらつていた。聖宝は扉の陰に隠れて、ひそかに見ていると、先払いの主人が藤原良房であることが分かった。聖宝が扉の陰に隠れていたにもかかわらず、良房は聖宝に目をとめて、驚いた様子で、「どういうお方か」と訊ねた。聖宝が、「乞食法師である」と答えると、良房は、

「あなたは非凡なお方であろう。深く敬意を表したい。しかるべき日に、かならずわたしの家に来てもらえないか。お話ししたいことがある」

と語った。聖宝は、それに応じたのであつた。

理源大師 藤原良房
邸にもどった藤原良房は、
「しかじかの日に、僧がやって来て案内を乞うたら、すぐに取りつげ」

と家人に命じた。約束した日に、聖宝が参上すると徳の高そうな老人がすぐに取り次いだ。良房は、聖宝を召し入れ、普段着のまま聖宝と対面した。しばらくして良房は若君を呼びだして、聖宝に、
「申しつけたいのは、この若君のために祈一幅してもらいたいことだ。今後、祈躊してもらえないものか。」

聖宝はそれを引き受けることにした。
その後、聖宝が子どもを般若寺に住まわせて、乞食をしながらその子どもを養っていることを話した。すると良房は、若君の衣服を持たせて、子供を迎える使者を般若寺に遣わした。やがて連れてこられた子供を見た良房が、
「この子供は、非凡な相があり、聡敏さも人に抜きんでている。この邸に住まわせ、若君(惟仁親王(後の清和天皇?)と遊ばせたい」

と言うと、聖宝は、
「毎日、倶舎の頌(世親の著で唐の玄美が訳した『阿昆達磨倶舎論本頌』)を読ませているので、御殿に伺候させれば、学問は怠りがちになるから、時々参上させたい」
と答えた。
その子供は、読書をすれば、たちまち理解してしまい、ふたたび質ねるようなことはなかった。たちまち倶舎の頌三十巻を覚えてしまったのである。般若寺の僧正観賢こそが、この子供なのであった。
 聖宝が師の真雅から勘当されていることを良房に語ると、
良房は、
「わたしが一緒に貞観寺へ行って、勘当を許してもらえるようにしてやろう。その日になったら来てほしい」

と言った。それに応じた聖宝は、良房のもとを退出した。

 藤原良房は、家人に命じて墨染めの衣服と狩袴、そして金剛草履を用意させた。聖宝が約束した日に参上すると、良房は以前のように対面し、用意させた衣服と狩袴を聖宝に着せて、同じ車で貞観寺へ向かった。良房の車が貞観寺に近づくと、先払いの声が、しきりに聞えてきたので、寺の人びとは、良房がどのような用事で、寺にやって来たのか計った。良房が車から降りようとした時、踏み台に金剛草履が置いてあっためを目にとめた寺の人びとは、不思議に思った。それは聖宝が車から降りる時に履くための草履であった。
真雅 地蔵院流道教方先師像のうち真雅像
                       真雅

  良房は真雅と面会して、
「聖宝が勘当されているのを聞いたので、許してもらえるようにと一緒に参ったのである」
と語った。それに答えて真雅は、
「わたくしから申しあげることは、なにもない。思いもよらず聖宝を離別させてしまい、それ以後は、いつも後悔し、残念なことだと思っていた。聖宝がもどって来たのならば、このうえもなく嬉しいことで、わたくしの本心を満足させてくれることになる」

と述べた。良房は喜んで、真雅のもとに来た時と同様に聖宝と同じ車に乗って帰ろうとしたが、聖宝は辞退したために馬で送ろうとした。しかし、聖宝は金剛草履を履き、般若寺へ歩いて帰っていった。
ヤフオク! - KM484 大峰山 深山辯才天 大峰役行者 理源大師 ...
修験者姿で描かれた聖宝(理源大師)
 
以上が聖宝が真雅の勘気にふれ、四国遍歴に出かけたさいに観賢を見出だし、また真雅の勘当を藤原良房のとりなしで許されたという説話です。この『醍醐雑事記』を撰述したのは慶延です。彼は12世紀後半の人物で、鎌倉幕府成立の頃には、このような話が醍醐寺に伝えられていたことが分かります。
 ちなみに『醍醐雑事記』では、聖宝が観賢を抱いて讃岐の国から「ほどなく都にもどった」とあります。しかし、後の憲深の説話には
「小者(観賢)を取りて打ち負ひて、一日の間に般若寺に着き給ひけり」

に「発展」します。「観賢を背負って、一日で讃岐から京に帰ってきた」と、「聖宝=スーパーマン」説が強調されるようになります。鎌倉時代初期には、聖宝が不思議な能力を持っていた修験者として、描かれるようになっていたことがうかがえます。
 この説話には、藤原良房の時代には、まだなかった仁和寺や般若寺などが出てきます。仁和寺は、仁和二年(886)に起工され、翌年に完成した寺です。般若寺は、延喜年間(901)に観賢を開基として建立された寺院です。どちらも観賢と関係の深い寺です。ここからは、この話が「創作」されたものであって、事実を物語るものではないことが分かります。
 また、聖宝が良房から祈祷を頼まれた「若君」というのは、良房の外孫惟仁親王(清和天皇)であったかもしれません。そうすると、この説話は、天安二(858)年頃のことを踏まえて語られていると研究者は指摘します。

真雅

この時期の聖宝の師である真雅の動きを見ておきましょう。
嘉祥3年(850年)右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王(後の清和天皇)を生む。真雅は親王生誕から貞観16年(874年)まで24年間、宮中に詰めて聖体護持
仁寿2年(853年)惟仁親王のために藤原良房と協同で嘉祥寺に西院建立。
仁寿3年(854年)10月、少僧都に任ぜられる。
斉衡3年(856年)10月、大僧都に任ぜられる。
貞観2年(860年)2月、真済没し、東寺一長者に就任
貞観4年(862年)7月、嘉祥寺西院が貞観寺と改められる。
元慶3年(879年)1月3日、貞観寺にて入滅。享年79。
  真雅は清和天皇が生まれてから24年間、「常に侍して聖体を護持」とありますから、内裏に宿直して天皇を護持していたようです。「祈祷合戦」の舞台と化していた当時の宮中では、「たたり」神をさけるためにそこまで求められていたようです。この結果、藤原良房の知遇、仁明、文徳、清和の歴代天皇の厚い保護のもとに、真雅の影響力は天皇一家の生活のなかにもおよぶようになります。仁明帝一家は、あげて真雅の指導で仏門に入るというありさまです。ここから天皇が仏具をもち、袈裟を纏うという後の天皇の姿が生まれてくるようです。
 真雅は、貞観寺創建と前後して東寺長者、二年後には僧正、法印大和尚位にまで昇進します。そして、量車(車のついた乗り物)に乗ったまま官中に出入りすることが許されます。僧職に車の乗り物が認められたのは真雅が最初で、彼の朝廷での力のほどを示します。

  このようにして真言宗は天皇家や貴族との深いつながりを持ち隆盛を極めるようになります。
しかし、聖宝から見れば真雅は「天皇家の専属祈祷師」になったようなものです。「宮中に24年間待機」していたのでは、教義的な発展は望めません。そして、教団内部も貴族指向になっていきます。このような布教方針や真言教団の経営方針に、聖宝は批判の目を向けていたとしておきましょう。
  聖宝と真雅の師弟の間に生まれた亀裂が埋められることはなかったようです。この時期の聖宝の行方が「空白」なのも、山林修行ばかりのせいではなさそうです。聖宝に光が当たり出すのは、真雅の亡き後のことのようです。それは高野山の真然によってもたらされるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐伯有清 聖宝と真雅の確執 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館

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