近世の三豊郡内では仁保(仁尾)港・三野津港・豊浜港が廻船業者の港として繁盛したようです。中でも仁保港は昔から仁尾酢、仁尾茶の産地で、造酒も丸亀藩の指定産地となっていました。そのため出入りする船も多く「千石船を見たけりや仁尾に行け」といわれたようです。
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湛甫があった観音寺裁判所前 
 仁尾に比べて、観音寺港はどうだったのでしょうか。
江戸時代の観音寺港の様子を見ていきます。
観音寺港は、財田川が燧灘に流れ込む河口沿いにいくつかの港が中世に姿を見せるようになることを前回は見ました。江戸時代の様子は「元禄古地図」を見ると、今の裁判所前に堪保(たんぽ=荷揚場)があり、川口(財田川)に川口御番所があったことが分かります。
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「官許拝借地」の境界碑が残る湛甫周辺
 各浦には、どのくらいの船があったのでしょうか
  上市浦  加子拾弐軒  舟弐艘
  中洲浦  加千  九軒 舟六艘
  仮屋浦  加千 廿七軒 舟六拾五艘
  下市分  加子  六軒 舟拾七艘
       加千  八軒 漁舟十五
  漁船の数も大小ふくめて総数九〇嫂程度で、その中の65隻は伝馬船であったようです。多い順に並べると仮屋の65隻がずば抜けて多いようです。仮屋は、現在の西本町にあたり、財田川の河口に近く当時の砂州の西端にあたる地域です。東側が「本町」で、漁師たちが作業用の仮屋を多く建てていたところが町場になった伝えられるところです。この地域に漁業や櫂取りなど海の仕事に携わる人々が数多くいたようです。
また、17世紀後半の元禄4年に琴弾神社の別当寺であった神恵院から川口番所に出された文章には次のようにあります。
 伊吹島渡海之事  
     覚
 寺家坊中並家来之者 伊吹嶋江渡海仕候節 
 川口昼夜共二御通可被下候 
 御当地之船二而参候ハ別者昼斗出船可仕候
   元禄四辛未三月     神恵院 印
      観音寺川口御番所中
 右表書之通相改昼夜共 川口出入相違有之門敷もの也
   元禄四年     河口久左衛門 判
           野田三郎左衛門 判
   観音寺川口御番所中

神恵院は、伊吹島の和蔵院を通じて伊吹八幡神社を管轄する立場にありました。伊吹島と観音寺の間には頻繁な人と物の交流が行われていました。その際にいつしか、財田川の河口の番所を通過しない船が現れれるようになってきます。室本港などが使われたのかもしれません。深読みすると、番所に分からないように、モノや人が動き出したことをうかがわせます。そのような動きを規制するためにこの「達し」は出されたようです。この「指導」により今後は番所を通過しなければならないことが確認されています。このように観音寺港に「舟入」を管理する番所が置かれていることは、交易船の出入りも頻繁に行われていたことがうかがえます。
それでは当時の伊吹島の「経済状況」は、どうだったのでしょうか
伊吹島の枡屋の先祖は北前船で財を成し、神社に随身門を寄付しています。弘化禄には
「1702年(元禄15)八月伊吹神門建立、本願三好勘右衛門、甚兵衛」
とあり、三好勘右衛門と甚兵衛の両人が伊吹島の八幡神社の門を寄進したと記します。二人は、後の枡屋一統の先祖に当たる人物で、二隻の相生丸を使って北前交易を行い財を成し、随身門を寄進したと子孫には語り継がれているようです。
この三好家には、寛保年間の文書が残っていて、取引先に越後(新潟)出雲崎の地名や、越後屋・越前屋・椛屋等の問屋名が記されています。 
出雲崎で伊吹島枡屋八郎が取引した商品
観音寺 港2
 
積み荷には、薩摩芋・黒砂糖・半紙・傘・茶碗等で、これらを売って、米を買い求めています。この米を大阪市場に運んでより高い利益を上げていたのでしょう。このように、当時の塩飽諸島が北前交易で栄えていたように、伊吹島も交易で大きな富を築く者が現れ「商業資本蓄積」が進んでいたと云えるようです。
 ちなみに枡屋一統というのは、伊吹島の三好家のグループで主屋・北屋・中等の諸家がこれに所属していたようです。この一族によって、昭和43年に島の八幡神社の随身門の修理が行われたと云います。
このような伊吹島の北前交易による繁栄を、対岸の観音寺も見習ったようです。18世紀半ばになると、観音寺船の北前航路進出を物語る史料が出てきます。
 
観音寺 港3
 浜田市外ノ浦の廻船問屋であった清水家に所蔵されている客船帳「諸国御客船帳」です。これには延享元年(1744)から明治35年(1902)の間に入港した廻船890隻が記載されています。国別、地域別に整理され次のような項目毎の記録があります。
出(だ)シ、帆印(ほじるし)及び船型、船名、船主、船頭名、船頭の出身地、入津日、出帆日、積荷、揚荷、登り、下り、出来事(論船、難破船、約束など)。この港に近づいてきた船の帆印を見て、この船帳で確認すれば、どこのだれの船で、前回はどんな荷を積んできたのかなど、商売に必要な情報がすぐに得られるようになっています。商売に関わる大切な道具なので、大事に箱に入れ保管されていました。
  この船帳には「観音寺港所属船」として6隻が記されています。
   (貨客船)   かんおんじ
住徳丸 近藤屋佐兵衛様  文化五辰五月十六日入津
            くり綿卸売・あし・干鰯卸買
     文右衛門様  同 二十一日出帆 被成候
西宝久丸 旦子屋彦右衛門様文政四巳四月廿二日入津   
伊勢丸 根津屋善兵衛様  弘化四未六月十七日登入津 
             大白蜜砂糖卸売
             十九日出船被成候
伊勢丸 瀬野屋伊右衛門様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売
天神丸 びぜん屋宇三郎様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売 
     宮崎屋利兵衛様
観音丸 あら磯屋忠治郎様  天保四巳三月廿八日下入津 くり綿売
 
ここからは次のような事が分かります。
①18世紀末の寛成年間から天保年間に岩見の浜田港に観音寺船籍の北前船が6隻寄港している
②同一の船主船が定期的に寄港してたようには見えない
③綿・砂糖・塩を売って何日かの後には出港している
④入港月は3月~6月で、讃岐から積んできた物産を販売している
⑤観音寺に北前交易に最低でも6人の船主が参加していた
   つまり、自前の船を持ち北前交易を行う商人達が観音寺にもいたことが分かります。彼らのもたらす交易の富が惜しげもなく琴弾神社や檀那寺に寄進され、観音寺の町場は整えられて行ったのでしょう。
観音寺 交易1

  19世紀になると、大阪と観音寺を結ぶ定期航路的な船も姿を見せます。京都・大阪への買付船につかわれた観音寺中洲浦の三〇石船
  この船は、漁船として登録されていますが三〇石船です。帆は六反から八反ものが多く、船番所で鑑札を受ける際に、帆の大きさによって税金(帆別運上)を納めることになっていました。税率は「帆一反に付銀三分」とされていたようです。
この船は、広嶋屋村上久兵衛と仮屋浦山家屋横山弥兵衛の共有船でした。1804年(享和4)、に大坂への航海がどんな風に行われたのかが記録として残っています。この時にこの船をチャターしたのは「観音寺惣小間物屋中」で、その際の記録と鑑札が、 観音寺市中新町の村上家に残っていました。
観音寺 舟1
表には
讃州観音寺中洲浦 船主久兵衛
漁船三拾石積加子弐人乗
享和四子年正月改組頭彦左衛門
とあり、船籍と船主・積載石30高・乗組員2名と分かります。
裏には
篠原為洽 印
戸祭嘉吉 印
享和四甲子年正月改
観音寺 舟
記録からは、
①観音寺小間物屋組頭格の下市浦の嘉登屋太七郎が音頭を取って
②下市浦から菊屋庄兵衛・塩飽屋嘉助・辰己屋長右衛門の三名、
③酒屋町から広嶋屋要助・広嶋屋惣兵衛の二名、
④上市浦から森田屋太兵衛・山口屋嘉兵衛・広嶋屋儀兵衛、荒物屋佐助の四名、
⑤茂木町から大坂屋林八二一野屋金助・大坂屋嘉兵衛・山口屋重吉の四名、
⑥計一五名が仕入・買積船としてチャターし、
⑦運賃や仕入買品物の品質責任・仕入支払金は現金で支払うこと
などを事前に契約しています。
つまり、小間物屋組合のリーダーが組合員とこの船を貸し切って、大阪に仕入れに出かけているのです。
同時代に伊吹のちょうさ組は太鼓台を大阪の業者に発注し、それを自分の船で引き取りに行っていたことを思い出しました。「ちょっと買付・買物に大阪へ」という感覚が、問屋商人の間にはすでに形成されていたことがうかがえます。
観音寺 淀川30石舟
淀川の30石舟

 当時は大阪からの金比羅船が一日に何隻もやってきくるようになっていました。弥次喜多コンビが金比羅詣でを行うのもこの時期です。民衆の移動が日常的になっていたことが分かります。
 ちなみに、この船も日頃は金毘羅船だったようです。現大阪市東区大川町淀屋橋あたりの北浜淀屋橋から出航し、丸亀問屋の野田屋権八の引合いで丸亀港に金毘羅詣客を運んでいたのです。丸亀で金毘羅客を降ろした後は、観音寺までは地元客を運んでいたのでしょう。丸亀と 観音寺の船賃は、200文と記されています。
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弥次・喜多が乗った金比羅船
   安芸・大島・大三島への地回り定期航路
 瀬戸内海の主要航路からはずれて、地廻り(地元の港への寄港)として伊吹島にやってくる北前船もあったようです。しばらく、地元での休養と家族との生活し、船の整備などを行った後に出港していきます。そのルートは、円上島・江ノ島・魚島の附近を通り、伯方島の木浦村沖を通り、大島と大三島の開から斎灘へ出るコースがとられたようです。

観音寺 舟5
 
地図を見ると仁尾や観音寺が燧灘を通じて、西方に開けた港であったことが分かります。このルートを逆に、弥生時代の稲作や古墳時代の阿蘇山の石棺も運ばれてきたのでしょう。そして、古代においては、伊予東部と同じ勢力圏にあったことも頷けます。
   このことを裏付ける難破船の処理覚書があります。
「難破船処理の覚書」1760年(宝暦10)11月30日です
一、讃州丸亀領伊吹嶋粂右衛門船十反帆 船頭水主六人乗去ル廿三日却 伊吹嶋出船 肥前五嶋江罷下り僕処 憚御領海通船之処同日夜二入俄二西風強被成 御当地六ツ峡江乗掛破船仕候 早速御村方江注進仕候得者 船人被召連破船所江御出被下荷物船具ホ迄 御取揚被下本船大痛茂無御座翌廿五日村方江船御漕廻シ被下私自分舟二而為差 荷物も無御座候故 何分御内証二而相済候様二被仰付 可被下段御願中上候処 御聴届被下候所 奉存候 積荷明小樽 菰少々御座候処 不残御取揚被下船具ホ迄少茂紛失無御候 船痛 所作事仕候而無相違請取申候得者 此度之破船二付 御村方江向 後毛頭申分無御座候以上
  宝暦十辰年十一月枡日
            水子 善三郎
            〃  忠丘衛
              ” 万三郎
              ” 太兵衛
              ” 藤 七
            船頭 粂右衛門
   木浦村庄屋 市右衛門殿
       御組頭中
意訳すると
讃岐丸亀藩伊吹島の粂右衛門所有の十反帆船(二百石船)が船頭水主6人を乗せて11月23日に伊吹島を出港して肥前五島列島に向けて航海中に、今治藩伯方島付近に差しかかったところ、突然に強い西風に遭い、座礁破船した。村方へ知らせ、積荷や船具は下ろしましたが、幸いにも船の被害は少なく、25日には付近の港へ船を廻航しました。自分の船でありますし、積荷も被害がありませんので、何分にも「内証」(内々に)扱っていただけるようお願いいたします。
 と船頭と船員が連名で木浦村の庄屋に願い出ています。
この書面を添付して、木浦村の庄屋は、
①難破船の船籍である伊吹島の庄屋
②今治藩の大庄屋と代官・郡奉行
に次のように報告しています

  右船頭口上書之通相違無御座候 以上
 橡州今治領木浦村与頭  儀丘衛 印
           同 伊丘衛 印
          庄屋 市右ヱ門印
   讃州丸亀御領伊吹嶋庄屋
        与作兵衛殿

右破船所江立合相改候処 聊相違無之
船頭願之通内証二而相済メ作事
出来二付OO同晦日 出船申付候 已上
         沖改 庄屋   権八 印
         嶋方大庄屋  村井 嘉平太印
辰十一月晦日
         嶋方代官手代 吉村 弥平治印
         郡奉行手附  木本五左衛門印
  伊吹嶋庄屋
      与作兵衛殿

このように、伊吹島の200石の中型船が九州の五島列島との交易活動を行っていたことが分かります。同時に海難活動について、国内においての普遍的な一定のルールがあり、それに基づいて救難活動や事後処理・報告がスムーズに行われていることがうかがえます。
 明治時代になっても地域経済が大きく変化することはありませんでした。鉄道が観音寺まで通じるのは、半世紀以上経ってからです。それまでは、輸送はもっぱら船に依存するより他なかったのです。そこで地元資本は海運会社を開設し、汽船を就航させ、大阪への新たな航路を開くのです。観音寺からも仁尾や多度津を経て大阪に向かう汽船が姿を現すようになります。
 鉄道がやってくるまでの間が観音寺港が一番栄えた時かもしれません。
 参考文献 観音寺市誌 近世編