瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:観音寺港

仁尾 中世復元図
中世仁尾浦の復元図

 賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人もいて、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、「地下家数今は現して五六百計」とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。そして、管領細川氏の保護を受けて、活発な交易活動を展開していたことようです。
仁尾の船は兵庫北関に、どのくらい入関しているのでしょうか?
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍の港別入港数 
文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳には、海関のある兵庫北関に入船し、通行税を納めた船が記録されています。その中に讃岐港は上表のように17港、寄港件数は237件です。下から4番目に「丹穂」とあるのが仁尾で、その数は2件です。「地下家数、今者現して五六百計」と繁栄している港町にしては、その数が意外なほど少ないようです。宇多津と比べると、その1割にも満たなかったことになります。観音寺は4件です。その他には、三野も詫間も伊吹もありません。
どうして、仁尾を中心とする三豊の船が少ないのでしょうか?
この問いに答えるために、宇多津や東讃の港の比較をしてみましょう。讃岐最大の港湾都市宇多津には、隣接地に守護所(守護代所)が置かれていました。香川氏に代わって宇多津の管理権を得た東讃岐の守護代安富氏は、宇多津船をたびたびチャーターし、「国料船」として利用しています。前々回にお話ししたように「国料船」には、関税がかけられず無料通行が出来ました。通行税逃れのためです。
 もう一つ考えられる事は、宇多津・塩飽と平山との間に見られる分業体制です。

宇多津地形復元図
聖通寺山の西北麓にあった平山港
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津・塩飽船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田や福江・松山などは出てこないと考えられます。
 三豊の各港は、塩飽との関係が深かったようです。宇多津と平山の関係と同じように、塩飽を中継港として三豊は畿内とつながっていたことが考えられます。そのため三豊船籍の船は塩飽まで物資を運び、そこからは塩飽船に積み替えられて、大麦・小麦などが畿内に向けて運ばれた可能性があります。宇多津・平山・塩飽等の諸港は、讃岐における諸物資の一大集散地でした。同時に、畿内と讃岐とを結ぶ拠点で中継基地の役割を果たしていたと研究者は考えています。
東讃の諸港の特色は?
 髙松以東には、島(小豆島)・引田・三本松や鶴箸・志度・庵治・方本(潟元)・野原・香西などの港湾が登場しています。このうち三本松を船籍地とする20艘のうちの11艘、鶴箸を船籍地とする4艘のうちの一艘が「管領御過書」船です。また、庵治を船籍地とする10艘のうちの4艘、方本(潟元)を船籍地とする11艘のうちの5艘までが「十川殿国料」船、一艘が安富氏の「国料船」です。東讃の各講は、管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)と守護代や十河氏など重臣層と関係がある港が目立ちます。つまり、有力武将の息のかかった港が多いということになります。
 それに対して、
①志度(志度寺)
②野原(無量寿院)などの港湾都市
③讃岐東端部にあって畿内への窓口として重要な位置を占める引田(誉田八幡宮がある)
などは、対照的に「管領御過書」船や「国料」船が、ひとつもありません。この背景には、これらの港湾都市では、志度寺・無量寿院・誉田八幡宮などの有力寺院の影響力と、その関係者と地域住民とによる自治組織があって、細川氏やその重臣が関与しにくい状況にあったと研究者は考えているようです。

 東讃岐の諸港湾は東瀬戸内海西縁部に位置し、兵庫・堺や畿内諸地域に近いところにあります。
そのため日常生活品である薪炭などを積んだ小型船が畿内との間を往復していたようです。つまり、東讃各港は、畿内と日常的な交流圏内にあって、多くの小型船が兵庫北関を通過し、薪などを輸送していたと研究者は考えているようです。
 これに対して西讃の各港は、どうだったのでしょうか
 瀬戸内海を「海の大動脈」と云うときに、東西の動きを中心に考えていることが多いようです。しかし、南北の動きも重要であったことは以前にお話ししました。昭和の半ばまでは、備後から牡蠣船が観音寺の財田川河口の岸辺にやってきて牡蠣鍋料理を食べさせていた写真が残っています。このように、燧灘に面する観音寺や仁尾・伊吹などの各港は、伊予や対岸の備中・安芸東部・芸予諸島エリアと日常的な交流活動を行っていました。そのために畿内との交易活動に占める割合が、東讃ほど高くありませんでした。そのため西讃船籍の兵庫北関を通関する船は、少なかったことが考えられます。宇多津・塩飽諸島を境目にして、それより西に位置する三豊地域の独自性がここにも見られます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
三豊の各港の日常交易活動のエリアは燧灘沿岸
 兵庫北関に入関した西讃岐の港には、多々津(多度津)・丹穂(仁尾)・観音寺と、島嶼部のさなき(佐柳島)・手島などがあります。この中で、多々津(多度津)は、12艘のうち8艘までが西讃岐の守護代香河(香川)氏の「国料船」です。これは多度津港が香川氏の居館の足下にあり、日常的な繋がりが成立していたからでしょう。
 これに対して、三豊地区の港を見てみると次の通りです。
①観音寺を船籍地とする4艘
②丹穂(仁尾)を船籍地とする3艘
③さなき(佐柳島)を船籍地とする2艘
④手島を船籍地とする一艘
ここには「国料船」や「管領御過書」船が、一隻もありません。これは多度津や東讃とは対照的です。

もうひとつ研究者が指摘するのは、政治権力と港の関係です。
 戦国時代の堺を例に考えると、会合衆という有力商人層による自治組織によって運営支配されていました。その勢力に接近し、利用しようとする勢力は現れますが、それを直接支配しようとする勢力は信長以前には現れていません。讃岐の宇多津の場合も、さきに港湾都市としての宇多津があって、その近辺に守護館が後から置かれたようです。近世の城下町のように、城主がイニシャチブをとってお城に港が従属するようにもとから設計されたものではありません。どちらかというと後からやって来た守護細川氏が、宇多津の近くに居館を構えたという雰囲気がします。政治勢力は、港を管理運勢する勢力に対して、遠慮がちに接していたと印象を私は持ちます。そのような点で西讃守護代の香川氏によって開かれた多度津港は、性格を異にするようです。多度津は、それまでの堀江港に替わって築かれますが、その場所は香川氏の居館のあった桃陵公園の真下です。香川氏の主導下に新たに開かれた港と私は考えています。そういう意味では、居館と港が一体化した近世的港の先駆けとも云えます。
香川氏との関係で、西讃の諸港を見ていくことにします。
①神人の下に結束し、賀茂社・覚城院・常徳寺・吉祥院などの有力寺社がひしめく仁尾
②財田川河口部の琴引八幡宮とその別当寺(観音寺)などを核として形成された港町観音寺
これらの港には香川氏は、土足で踏み込んでいくことは出来ず、一定の距離を置いて接していた雰囲気がします。そうした状況は、海民の集住地であり、住民が主役となって島を運営していたさなき(佐柳島)・手島・伊吹でも共通していたと研究者は考えているようです。

 以上をまとめておきます。
①東讃岐・西讃岐ともに「国料船」や「管領御過書」船が発着する港と、それが見られない港がある。
②「国料船」「管領御過書」は、宇多津以東の庵治・方本(潟元)・三本松・鶴箸など東讃の港にに集中していること。
③西讃で「国料船」が見られるのは多度津だけで、三豊には「国料船」はない。
④この背景には東瀬戸内海の向こう側にある畿内市場に接するという東讃各港の立地的優位さがあること
⑤それに着目した細川氏や守護代・有力武将らの港湾政策があること
 
東讃岐と西讃岐とのちがいを、今度は積荷から見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表
兵庫北関入船納帳 讃岐港別の積荷一覧表

積荷一覧表から分かることを挙げておくと
①東讃岐の三本松・鶴箸・志度は米・小麦・大麦・材木・山崎コマ(荏胡麻)など穀類や材木(薪)をが主な積荷であること
②引田・庵治・方本(屋島の潟元)の積荷のほとんどが塩で、塩専用船団ともいえること
③これに対して西讃岐の船々の積荷は、米・赤米・豆・大麦・小麦などの穀類、ソバ・山崎コマ(荏胡麻)、赤イワシ・干鰯などの海産物が大半を占めていること。
④西讃の塩は多度津船の980石と丹穂(仁尾)船の70石だけで、東讃岐の港から発着する船々と積荷の種類がかなりちがっていること。

どちらにしても『兵庫北関入船納帳』の讃岐船の積みにについては、東西の各港にかなりの違いがあることが分かります。それを生み出した要因として、次のような事が背景にあると考えられます。
①諸港の後背地の生産の在り方、
②諸港の瀬戸内海海運での役割、
③畿内との交易の在り方
例えば①の後背地については、東讃の引田・庵治・方本(潟本)・島(小豆島)などの港には、製塩地が隣接してあったことが分かっています。古代から塩を運ぶための輸送船やスタッフがいました。それに対して、西讃岐では詫間が製塩地として確認されるだけです。観音寺・丹穂(仁尾)の船が運んでいる米・赤米・豆・大麦・小麦・山崎コマ(荏胡麻)は、後背地の財田川流域で生産されたとものでしょう。また赤イワシは近海産、備後塩は備後東部の製塩地から日常的な交易活動を通じて集荷してきたものと考えられます。ここからは、東讃と三豊では、畿内との距離が違っていたこと、各エリアが畿内の需要にそう地域色の強い品々を必要に応じて輸送・販売していたことがうかがえます。
  文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳に出てくる多度津以西の港の船を一覧表にしたものです。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・三豊の船一覧

まず目につくのは、多度津船の入港の多さです。
1年間で12回の入港数があります。多度津船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏がそれまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。
 ここからは、それまでは多度津船籍の船は一般船として関税を払って通行していたのが、国料船や過書船として無税通行するようになったことがうかがえます。
  多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
多度津船の問丸は道祐の独占体制にあったことが分かります。 道祐は、多度津以外にも備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱っていることが兵庫北関入船納帳からは分かります。彼は燧灘を取り囲む備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域の大規模な勢力範囲を持っていた海商だったようです。多度津の香川氏が道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を無関税船で輸送できる多度津に集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
仁尾や観音寺船の船主について、簡単に見ておきましょう。
①仁尾船の荷主は新衛門・勢兵衛・孫兵衛、問丸はすべて豊後屋
②観音寺船の荷主は、又二郎・与五郎、問丸は仁尾と同じすべて豊後屋
③仁尾船の荷主・勢三郎は、多度津の荷主としても五回登場するので、彼は多度津・仁尾を股に掛けて活動していたこと
④手島・佐柳島の問丸は、すべてが道祐で、豊後屋の関与する仁尾・観音寺とは異なる系統の港湾群であったこと、
 こうしてみると当時の瀬戸内海の各港は、問丸によってネットワーク化されて、積荷が集積・輸送されていたことがうかがえます。燧灘エリアにネットワークを張り巡らした問丸の道祐が、多度津の香川氏と組んだように、備後屋は仁尾の神人や観音寺の寺社と組んでいたようです。彼らが港に富をもたらす蔭の主役として富を集積していきます。そして、拠点港に自らの交易管理センターとして、信仰する宗派の寺院を建立していくことになります。
 その例が観音寺の西光寺などの臨済宗派の禅宗寺院です。観音寺市には、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)派で、伊予の港にもこの派の寺院は数多く分布します。ここには、宗派の布教活動と供に問丸などの信者集団の存在があったことがうかがえます。
  讃岐守護細川氏に繋がることで、上賀茂社との関係を次第に精算した仁尾
 仁尾については、従来は「賀茂社神人(供祭人)によって港町仁尾」というイメージで語られてきました。確かに、賀茂社神人は京都の上賀茂社への貢納物輸送に、私的な交易品を加えて輸送船を運航していたようです。仁尾と京都とを定期的に往復することで、次第にそれが広域的な交易に拡大していきます。その中心に神人たちがいたことは間違いありません。
 しかし、15世紀半以降の仁尾浦の神人たちは、それまでとは立ち位置を変えていきます。
管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)に「海上諸役」を提供する代わりに、細川氏からの「安全保障」を取り付けて、京都上賀茂社の「社牡家之役銭」を拒否するようになっていたことを前回お話ししました。細川氏と上賀茂社を天秤にかけて、巧みに自分に有利な立場を固めていきます。別の言葉で表現すると「仁尾の神人たちはは讃岐守護・守護代との繋がりを盾として、上賀茂社との関係を次第に精算していった」ということになります。その結果として、それまでの畿内を含む活動エリア狭めながら、燧灘に面する讃岐・伊予・安芸などの地域に根付いた活動へと転換していったと研究者は考えているようです。
 このような動きと、神人らが「惣浦中」などと呼ばれる自治組織を形成・定着させる過程とは表裏をなす動きであったと研究者は指摘します。
最後に中世仁尾浦の成立基盤が、近世仁尾の繁栄にどのように結びついていくのかを見ておきましょう。
仁尾町史には、18~19世紀半ば過ぎの仁尾の繁栄について、次のように記されています。
①醸造業・搾油問屋・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿綜糸所・両替商などの大店が軒を連ねていたこと。
②近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んにやってきたこと。
③港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞆・などにまで物資を集散する大型船が出入りして、「千石船みたけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれたこと
ここからは、当時の仁尾が西讃岐の代表的港町の一つとして繁栄していたことが分かります。これを中世の仁尾浦と比較すると、交易圈は多度津から高松(中世の野原)、備後の輛の浦・尾道などが中心で、今まで見てきた中世の仁尾浦の交易圈と変わらないことが分かります。量的には増加しているかも知れませんが、港町の質的な面で決定的な変化はなかったようです。中世に形成された仁尾浦の上に近世仁尾港の繁栄があった。そこには、交易権などの存続基盤に変化はなかったとしておきます。

  以上をまとめておくと
①「兵庫北関入船納帳」に記載された、三豊の港は東讃に比べると少ない。その要因として次の3点が考えられる。
②第1に、東讃各港は畿内との交易距離が短く、小型船による薪炭輸送など生活必需品が日常的に派運び出されていたこと。
③第2に、東讃各港は守護や守護代などの管理する港く、国料船・過書船の運行回数が多かったこと
④中讃・西讃の各港は、宇多津・塩飽を中継港として物資を畿内に送っていたこと
⑤三豊の仁尾は、古代には上賀茂神社の保護特権の下に、神人たちが畿内との交易を行っていた。⑥しかし、律令体制の解体と共に古代の特権が機能しなくなる。そこで、仁尾は頼るべき相手を管領細川氏に換えて、警備船や輸送船の提供義務を果たすことで、細川氏からの「安全保障」特権を得た。
⑦同時に、それは従来の畿内を交易対象とする活動から、燧灘沿岸エリアを日常交易活動圏とする交易活動への転換をともなうものであった。
⑧このようにして作られた中世仁尾浦をベースにして、近世の仁尾港の繁栄はもたらされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

近世の三豊郡内では仁保(仁尾)港・三野津港・豊浜港が廻船業者の港として繁盛したようです。中でも仁保港は昔から仁尾酢、仁尾茶の産地で、造酒も丸亀藩の指定産地となっていました。そのため出入りする船も多く「千石船を見たけりや仁尾に行け」といわれたようです。
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湛甫があった観音寺裁判所前 
 仁尾に比べて、観音寺港はどうだったのでしょうか。
江戸時代の観音寺港の様子を見ていきます。
観音寺港は、財田川が燧灘に流れ込む河口沿いにいくつかの港が中世に姿を見せるようになることを前回は見ました。江戸時代の様子は「元禄古地図」を見ると、今の裁判所前に堪保(たんぽ=荷揚場)があり、川口(財田川)に川口御番所があったことが分かります。
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「官許拝借地」の境界碑が残る湛甫周辺
 各浦には、どのくらいの船があったのでしょうか
  上市浦  加子拾弐軒  舟弐艘
  中洲浦  加千  九軒 舟六艘
  仮屋浦  加千 廿七軒 舟六拾五艘
  下市分  加子  六軒 舟拾七艘
       加千  八軒 漁舟十五
  漁船の数も大小ふくめて総数九〇嫂程度で、その中の65隻は伝馬船であったようです。多い順に並べると仮屋の65隻がずば抜けて多いようです。仮屋は、現在の西本町にあたり、財田川の河口に近く当時の砂州の西端にあたる地域です。東側が「本町」で、漁師たちが作業用の仮屋を多く建てていたところが町場になった伝えられるところです。この地域に漁業や櫂取りなど海の仕事に携わる人々が数多くいたようです。
また、17世紀後半の元禄4年に琴弾神社の別当寺であった神恵院から川口番所に出された文章には次のようにあります。
 伊吹島渡海之事  
     覚
 寺家坊中並家来之者 伊吹嶋江渡海仕候節 
 川口昼夜共二御通可被下候 
 御当地之船二而参候ハ別者昼斗出船可仕候
   元禄四辛未三月     神恵院 印
      観音寺川口御番所中
 右表書之通相改昼夜共 川口出入相違有之門敷もの也
   元禄四年     河口久左衛門 判
           野田三郎左衛門 判
   観音寺川口御番所中

神恵院は、伊吹島の和蔵院を通じて伊吹八幡神社を管轄する立場にありました。伊吹島と観音寺の間には頻繁な人と物の交流が行われていました。その際にいつしか、財田川の河口の番所を通過しない船が現れれるようになってきます。室本港などが使われたのかもしれません。深読みすると、番所に分からないように、モノや人が動き出したことをうかがわせます。そのような動きを規制するためにこの「達し」は出されたようです。この「指導」により今後は番所を通過しなければならないことが確認されています。このように観音寺港に「舟入」を管理する番所が置かれていることは、交易船の出入りも頻繁に行われていたことがうかがえます。
それでは当時の伊吹島の「経済状況」は、どうだったのでしょうか
伊吹島の枡屋の先祖は北前船で財を成し、神社に随身門を寄付しています。弘化禄には
「1702年(元禄15)八月伊吹神門建立、本願三好勘右衛門、甚兵衛」
とあり、三好勘右衛門と甚兵衛の両人が伊吹島の八幡神社の門を寄進したと記します。二人は、後の枡屋一統の先祖に当たる人物で、二隻の相生丸を使って北前交易を行い財を成し、随身門を寄進したと子孫には語り継がれているようです。
この三好家には、寛保年間の文書が残っていて、取引先に越後(新潟)出雲崎の地名や、越後屋・越前屋・椛屋等の問屋名が記されています。 
出雲崎で伊吹島枡屋八郎が取引した商品
観音寺 港2
 
積み荷には、薩摩芋・黒砂糖・半紙・傘・茶碗等で、これらを売って、米を買い求めています。この米を大阪市場に運んでより高い利益を上げていたのでしょう。このように、当時の塩飽諸島が北前交易で栄えていたように、伊吹島も交易で大きな富を築く者が現れ「商業資本蓄積」が進んでいたと云えるようです。
 ちなみに枡屋一統というのは、伊吹島の三好家のグループで主屋・北屋・中等の諸家がこれに所属していたようです。この一族によって、昭和43年に島の八幡神社の随身門の修理が行われたと云います。
このような伊吹島の北前交易による繁栄を、対岸の観音寺も見習ったようです。18世紀半ばになると、観音寺船の北前航路進出を物語る史料が出てきます。
 
観音寺 港3
 浜田市外ノ浦の廻船問屋であった清水家に所蔵されている客船帳「諸国御客船帳」です。これには延享元年(1744)から明治35年(1902)の間に入港した廻船890隻が記載されています。国別、地域別に整理され次のような項目毎の記録があります。
出(だ)シ、帆印(ほじるし)及び船型、船名、船主、船頭名、船頭の出身地、入津日、出帆日、積荷、揚荷、登り、下り、出来事(論船、難破船、約束など)。この港に近づいてきた船の帆印を見て、この船帳で確認すれば、どこのだれの船で、前回はどんな荷を積んできたのかなど、商売に必要な情報がすぐに得られるようになっています。商売に関わる大切な道具なので、大事に箱に入れ保管されていました。
  この船帳には「観音寺港所属船」として6隻が記されています。
   (貨客船)   かんおんじ
住徳丸 近藤屋佐兵衛様  文化五辰五月十六日入津
            くり綿卸売・あし・干鰯卸買
     文右衛門様  同 二十一日出帆 被成候
西宝久丸 旦子屋彦右衛門様文政四巳四月廿二日入津   
伊勢丸 根津屋善兵衛様  弘化四未六月十七日登入津 
             大白蜜砂糖卸売
             十九日出船被成候
伊勢丸 瀬野屋伊右衛門様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売
天神丸 びぜん屋宇三郎様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売 
     宮崎屋利兵衛様
観音丸 あら磯屋忠治郎様  天保四巳三月廿八日下入津 くり綿売
 
ここからは次のような事が分かります。
①18世紀末の寛成年間から天保年間に岩見の浜田港に観音寺船籍の北前船が6隻寄港している
②同一の船主船が定期的に寄港してたようには見えない
③綿・砂糖・塩を売って何日かの後には出港している
④入港月は3月~6月で、讃岐から積んできた物産を販売している
⑤観音寺に北前交易に最低でも6人の船主が参加していた
   つまり、自前の船を持ち北前交易を行う商人達が観音寺にもいたことが分かります。彼らのもたらす交易の富が惜しげもなく琴弾神社や檀那寺に寄進され、観音寺の町場は整えられて行ったのでしょう。
観音寺 交易1

  19世紀になると、大阪と観音寺を結ぶ定期航路的な船も姿を見せます。京都・大阪への買付船につかわれた観音寺中洲浦の三〇石船
  この船は、漁船として登録されていますが三〇石船です。帆は六反から八反ものが多く、船番所で鑑札を受ける際に、帆の大きさによって税金(帆別運上)を納めることになっていました。税率は「帆一反に付銀三分」とされていたようです。
この船は、広嶋屋村上久兵衛と仮屋浦山家屋横山弥兵衛の共有船でした。1804年(享和4)、に大坂への航海がどんな風に行われたのかが記録として残っています。この時にこの船をチャターしたのは「観音寺惣小間物屋中」で、その際の記録と鑑札が、 観音寺市中新町の村上家に残っていました。
観音寺 舟1
表には
讃州観音寺中洲浦 船主久兵衛
漁船三拾石積加子弐人乗
享和四子年正月改組頭彦左衛門
とあり、船籍と船主・積載石30高・乗組員2名と分かります。
裏には
篠原為洽 印
戸祭嘉吉 印
享和四甲子年正月改
観音寺 舟
記録からは、
①観音寺小間物屋組頭格の下市浦の嘉登屋太七郎が音頭を取って
②下市浦から菊屋庄兵衛・塩飽屋嘉助・辰己屋長右衛門の三名、
③酒屋町から広嶋屋要助・広嶋屋惣兵衛の二名、
④上市浦から森田屋太兵衛・山口屋嘉兵衛・広嶋屋儀兵衛、荒物屋佐助の四名、
⑤茂木町から大坂屋林八二一野屋金助・大坂屋嘉兵衛・山口屋重吉の四名、
⑥計一五名が仕入・買積船としてチャターし、
⑦運賃や仕入買品物の品質責任・仕入支払金は現金で支払うこと
などを事前に契約しています。
つまり、小間物屋組合のリーダーが組合員とこの船を貸し切って、大阪に仕入れに出かけているのです。
同時代に伊吹のちょうさ組は太鼓台を大阪の業者に発注し、それを自分の船で引き取りに行っていたことを思い出しました。「ちょっと買付・買物に大阪へ」という感覚が、問屋商人の間にはすでに形成されていたことがうかがえます。
観音寺 淀川30石舟
淀川の30石舟

 当時は大阪からの金比羅船が一日に何隻もやってきくるようになっていました。弥次喜多コンビが金比羅詣でを行うのもこの時期です。民衆の移動が日常的になっていたことが分かります。
 ちなみに、この船も日頃は金毘羅船だったようです。現大阪市東区大川町淀屋橋あたりの北浜淀屋橋から出航し、丸亀問屋の野田屋権八の引合いで丸亀港に金毘羅詣客を運んでいたのです。丸亀で金毘羅客を降ろした後は、観音寺までは地元客を運んでいたのでしょう。丸亀と 観音寺の船賃は、200文と記されています。
80d5108c (1)
弥次・喜多が乗った金比羅船
   安芸・大島・大三島への地回り定期航路
 瀬戸内海の主要航路からはずれて、地廻り(地元の港への寄港)として伊吹島にやってくる北前船もあったようです。しばらく、地元での休養と家族との生活し、船の整備などを行った後に出港していきます。そのルートは、円上島・江ノ島・魚島の附近を通り、伯方島の木浦村沖を通り、大島と大三島の開から斎灘へ出るコースがとられたようです。

観音寺 舟5
 
地図を見ると仁尾や観音寺が燧灘を通じて、西方に開けた港であったことが分かります。このルートを逆に、弥生時代の稲作や古墳時代の阿蘇山の石棺も運ばれてきたのでしょう。そして、古代においては、伊予東部と同じ勢力圏にあったことも頷けます。
   このことを裏付ける難破船の処理覚書があります。
「難破船処理の覚書」1760年(宝暦10)11月30日です
一、讃州丸亀領伊吹嶋粂右衛門船十反帆 船頭水主六人乗去ル廿三日却 伊吹嶋出船 肥前五嶋江罷下り僕処 憚御領海通船之処同日夜二入俄二西風強被成 御当地六ツ峡江乗掛破船仕候 早速御村方江注進仕候得者 船人被召連破船所江御出被下荷物船具ホ迄 御取揚被下本船大痛茂無御座翌廿五日村方江船御漕廻シ被下私自分舟二而為差 荷物も無御座候故 何分御内証二而相済候様二被仰付 可被下段御願中上候処 御聴届被下候所 奉存候 積荷明小樽 菰少々御座候処 不残御取揚被下船具ホ迄少茂紛失無御候 船痛 所作事仕候而無相違請取申候得者 此度之破船二付 御村方江向 後毛頭申分無御座候以上
  宝暦十辰年十一月枡日
            水子 善三郎
            〃  忠丘衛
              ” 万三郎
              ” 太兵衛
              ” 藤 七
            船頭 粂右衛門
   木浦村庄屋 市右衛門殿
       御組頭中
意訳すると
讃岐丸亀藩伊吹島の粂右衛門所有の十反帆船(二百石船)が船頭水主6人を乗せて11月23日に伊吹島を出港して肥前五島列島に向けて航海中に、今治藩伯方島付近に差しかかったところ、突然に強い西風に遭い、座礁破船した。村方へ知らせ、積荷や船具は下ろしましたが、幸いにも船の被害は少なく、25日には付近の港へ船を廻航しました。自分の船でありますし、積荷も被害がありませんので、何分にも「内証」(内々に)扱っていただけるようお願いいたします。
 と船頭と船員が連名で木浦村の庄屋に願い出ています。
この書面を添付して、木浦村の庄屋は、
①難破船の船籍である伊吹島の庄屋
②今治藩の大庄屋と代官・郡奉行
に次のように報告しています

  右船頭口上書之通相違無御座候 以上
 橡州今治領木浦村与頭  儀丘衛 印
           同 伊丘衛 印
          庄屋 市右ヱ門印
   讃州丸亀御領伊吹嶋庄屋
        与作兵衛殿

右破船所江立合相改候処 聊相違無之
船頭願之通内証二而相済メ作事
出来二付OO同晦日 出船申付候 已上
         沖改 庄屋   権八 印
         嶋方大庄屋  村井 嘉平太印
辰十一月晦日
         嶋方代官手代 吉村 弥平治印
         郡奉行手附  木本五左衛門印
  伊吹嶋庄屋
      与作兵衛殿

このように、伊吹島の200石の中型船が九州の五島列島との交易活動を行っていたことが分かります。同時に海難活動について、国内においての普遍的な一定のルールがあり、それに基づいて救難活動や事後処理・報告がスムーズに行われていることがうかがえます。
 明治時代になっても地域経済が大きく変化することはありませんでした。鉄道が観音寺まで通じるのは、半世紀以上経ってからです。それまでは、輸送はもっぱら船に依存するより他なかったのです。そこで地元資本は海運会社を開設し、汽船を就航させ、大阪への新たな航路を開くのです。観音寺からも仁尾や多度津を経て大阪に向かう汽船が姿を現すようになります。
 鉄道がやってくるまでの間が観音寺港が一番栄えた時かもしれません。
 参考文献 観音寺市誌 近世編

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