瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:角塚式石室

大野原古墳群1 椀貸塚古墳 平塚古墳 角塚古墳 岩倉塚古墳
大野原古墳群 (時代順は碗貸塚 → 平塚 → 角塚)

観音寺市の大野原には、大きな石室を持つ3つの古墳が並んでいます。この3つの古墳群は、それまで古墳がない勢力空白地帯の大野原に、突然のように現れます。この背景には、あらたな新興勢力がこの地に定着したと考えられています。その中でも一番最後に築かれた角塚は、その石室が「角塚型石室」と呼ばれて、6世紀後半に台頭する新興勢力の古墳に共通して採用されているようです。今回は、「角塚型石室」を採用する巨石墳を見て、その背景を考えて行きたいと思います。テキストは「清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳」です。

1大野原古墳 比較図
大野原古墳の変遷

まず、大野原の3つの古墳群の特徴を報告書は、次のように記します。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
④6世紀後半から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が、椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と3世代順番に築造されていること。

そして、今回取り上げる角塚の石室を見ておきましょう。 

角塚
                    角塚平面図

①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長さ4mの規模で、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳

角塚石室展開図
   大野原古墳の角塚石室展開図
     
  西日本の横穴式石室を集成した山崎信二氏は、大野原古墳群について次のように記します。
大野原古墳群は、石室構造の変遷から椀貸塚→平塚→角塚の順で造られたとされます。そして、各古墳の石室構造の特徴は次の通りです。

大野原古墳の比較表

ここからは、母神山の鑵子塚古墳と大野原で最初に造られた椀貸塚古墳は、九州色が強く連続性があること、それに対して平塚・角塚は、複室構造から単室構造への変化など、畿内色が強くなっていることが分かります。この背景については、次のようなことが考えられます。
①瀬戸内海交易の後ろ盾の変化、つまり九州勢力から畿内勢力への乗り換え
②畿内勢力内部での権力抗争(葛城氏や物部氏 VS 蘇我氏)にともなう三豊郁での勢力関係の変化
これについては、また別の機会にして先を急ぎます。
山崎氏は、角塚古墳を典型例として「角塚型石室」の拡大について次のように記します。
①瀬戸内海沿岸各地で角塚と同じタイプの石室が造られているので、その典型例である角塚をもって角塚型石室とする。
②角塚型石室が造られるようになるプロセスは、地方豪族と中央有力豪族との疑似血縁関係が強化され、同族意識が生まれてくる時期と重なる
③角塚型石室は玄門立柱を保持し、平塚からの形態変化を追うことができる
④吉備以東の石室は、急激な畿内型化するが、讃岐以西についてはヤマト政権との一元的な従属関係におかれず、九州との関連を強く持ち、なお相対的自立性を保持していた

角塚式石室をもつ古墳分布図
           角塚型石室をもつ古墳分布図
A 7世紀初頭 広島県梅木平古墳・愛媛県宝洞山1号墳
B 7世紀前半 山口県防府市岩畠1号墳
C 7世紀中期 角塚(大野原)、愛媛県川之江市向山1号境
D 7世紀後半 広島県大坊古墳
造営時期は、7世紀初頭から後半までで、約40年程度の年代差があるようです。
角塚型石室は「九州からの系譜をひきつつ、複室構造石室が瀬戸内で独自に変化した石室」(中里2009)とされます。
その分布を見ると瀬戸内海を中心に分布していることが分かります。特に観音寺周辺に集中しています。また、これらの古墳は離れていても、平面規格や構築方法に共通点があります。つまり、石室築造についての情報が共有されていたことが分かります。それは同系列の技術者集団によって、同じ設計図から作られたということです。
     
それでは角塚型石室を持つ高知平野西端の朝倉古墳を見ていくことにします。

土佐の首長墓の移動
高知平野の盟主古墳の移動 小連古墳から朝倉古墳に7世紀前半に移動
朝倉古墳は高知平野の西端にあって、仁淀川を遡るとて瀬戸内へ抜けるルートがあったようです。それは現在の国道194号と重なりあうルートで、西条市や四国中央市に繋がるものだったことが考えられます。
 7世紀前半の小連古墳から朝倉古墳への盟主古墳の移動を、研究者は次のように考えています。
① 小蓮古墳は四万十市の古津賀古墳や海陽町大里2号墳と石室が類似している。
② 小蓮古墳の被葬者は、太平洋沿岸のルートを掌握していた。
③ その後、太平洋ルートよりも瀬戸内沿岸交流がより重視されるようになる。
④ そんな情勢下で小蓮勢力から、瀬戸内との繋がりの強い朝倉の勢力が盟主的首長の地位を奪取した。
⑤ そして盟主的首長墳は高知平野西端の朝倉吉墳に移動する。
朝倉古墳石室 角塚型石室
朝倉古墳の角塚タイプの横穴式石室
この図からは朝倉古墳について、読み取れることを挙げておきます。
①整った形状の大形石材を多用されている。
②玄室長に対して短縮化した羨道という先行要素を持っている
③上部架構材を含めて、玄門構造は大野原古墳群と類似する。
④奥壁一段、玄室左右側面二段の石積みは角塚古墳に似ている
⑤横架材は巨大化し、左右の玄門立柱で支持する構造は平塚古墳の玄門構造よりも古い
以上から朝倉古墳は、大野原古墳群の角塚と同じような石室を持っていることが分かります。
造営年代は、大野原の平塚や角塚と同時代のものと研究者は考えています。角塚型は先ほど見たように、角塚古墳をモデルとした瀬戸内を中心に分布する石室型式です。そうすると朝倉吉墳の石室は、瀬戸内の影響を受けて成立した可能性が高いことになります。ここからは朝倉古墳が瀬戸内の勢力と結びついて、畿内や瀬戸内海の政治的変動と連動して土佐の盟主的首長墳の移動が行われたとことがうかがえます。
高知平野の盟主墓の築造変遷をまとめておきます。
①土佐の古墳は、前期後半に幡多地域に出現する。
②中期前葉には幡多地域での首長墳築造は途絶え、新たに高知平野に古墳が築造される。
③後期になると横穴式石室墳が高知平野を中心として展開し、古墳数が増加する。
④後期後半から終末期にかけて伏原大塚古墳→小蓮古墳→朝倉吉墳と高知平野の盟主的首長墳は
築造場所を移動する。
⑤朝倉古墳は角塚型石室を持ち、この石室は瀬戸内の勢力と関係し、近畿の勢力にも通じる。
⑥小蓮古墳から朝倉古墳への盟主権の移動は、畿内勢力の動向が影響を及ぼしている。
 
角塚型石室の標識となる角塚古墳は、観音寺市の大野原古墳群の最後の大型巨石墳で、最大の方墳とされます。

角塚古墳 平面測量図
角塚平面図

三豊地域では椀貸塚・平塚・角塚という巨石墳が続いて3つ築造され、他地域と比較しても突出した勢力がいたことは最初に見た通りです。ところが三豊地域は、前期には前方後円墳もなく、後期前半までは首長墳らしいものはありませんでした。それが後期後半になると、突然のように大型巨石墳が姿を現します。これはそれまでの勢力とは異なる「新興の勢力」の登場と、研究者は考えています。そして、次の段階には、他地域で大型古墳群は作られなくなります。その中で角塚だけが造られます。

三豊に隣接する伊予の宇摩郡(現四国中央市)でも同じような現象が見られます。

宇摩向山1号墳 角塚式石室
宇摩向山1号墳の石室

「角塚型石室」を持つ宇摩向山1号墳は1辺70m×55mの巨大方墳です。宇摩地域は古墳時代後期に東宮山古墳や経ヶ岡古墳という首長墳が築かれ始めます。これは、この地域の新参者で向山1号墳という伊予の盟主的首長墳を登場させます。ここで押さえておきたいのは、讃岐・伊予・土佐では6世紀以降に台頭し、盟主的位置を奪取した首長墳は、角塚型石室を採用しているという共通点があることです。
さらに研究者が注目するのは角塚型石室や角塚型と関係を持つ石室が紀伊にもあることです。
紀伊・有田川町の天満1号墳からは、TK209型式~TK217型式の須恵器が出てきます。
天満1号墳石室
紀伊・有田川町の天満1号墳
奥壁は大きな正方形の鏡石を置き、天丼石までの間に補助的な石材を積んでいたようです。玄門は、立柱石が羨道側にせり出し楯石があります。これまで天満1号墳は、岩橋型石室の変容型とされてきました。これに対して、研究者は「角塚型との類似点」として、角塚型の影響と捉えます。

岩内1号墳 - 古墳マップ

岩内1号墳
                   御坊市・岩内1号墳
御坊市・岩内1号墳も、奥壁や玄室平面形などの類似から天満1号墳の変化形の石室と研究者は考えています。これらの古墳は、紀ノ川流域ではありません。前者は有田川、後者は日高川流域で「紀中」になります。紀中は古墳時代を通して首長墳が築かれなかったエリアで、それまでは「権力の空白地帯」でした。古墳時代後期の紀伊では、岩橋千塚古墳群のように、首長墳は紀ノ川流域に築造されています。その岩橋千塚古墳群が6世紀末には衰退します。それに代わるように紀中に天満1号墳や岩谷1号墳が現れるのです。この2つの古墳は直径約20m。1辺19mと決して大きくはありません。そのため紀伊の盟主的首長墳とするには、無理があるかもしれません。しかし、6世紀代に隆盛を誇った岩橋千塚古墳群の勢力が衰退し、その後に出現した新興勢力であることは言えそうです。こうして見ると角塚型石室の拡散は、四国だけでなく紀伊や近畿の勢力にも及んでいたことが分かります。以上をまとめておくと次の通りです。
①他エリアで首長墳が造られなくなる時期に、新たに台頭してきた新興勢力が盟主的地位を獲得した。
②そうした新興勢力は、角塚型石室の巨石墳を採用した
③ここには首長系譜の変動が瀬戸内から紀伊にかけて連動して見られる
④土佐では、その動きが少し遅れて現れること

7世紀になると紀伊の岩橋千塚古墳群が衰退します。
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                    岩橋千塚古墳群
岩橋千塚古墳群は紀氏の奥津城であったと考えられています。
瀬戸内海の紀伊氏拠点
また、紀氏はヤマト政権下では、瀬戸内航路を掌握した氏族とされます。それに代わるように新興勢力が紀伊から瀬戸内の盟主的位置を占めるようになります。この背景には、交通の大動脈である瀬戸内の交通路の掌握について、紀伊氏に替わる新興勢力が登場してきたことが推測できます。瀬戸内の交通路は、ヤマト政権成立以来の「生命線」でした。そこに新興勢力が台頭してくることは、どんなことを意味しているのでしょうか? これはヤマト政権内部の抗争と無関係ではないはずです。そういう目で見ると、角塚型石室墳を採用した首長系譜の拡大は、ヤマト政権内部の権力抗争とリンクしていたことになります。その背景を推察すれば、朝鮮半島経営に大きな力を持っていた葛城氏の没落と蘇我氏の台頭が考えられます。
 研究者が注目するのは、角壕とほぼ同じ時期に築造された奈良県桜井市市卯基古墳と次のように類似点が多いことですです。
①側壁が一枚石であること
②玄室の長さ・幅・高さが角塚とほぼ同じであること。
③平面形が長方形状で、角壕が長辺:短辺が54m:45 mで、押基が28m:22mで、相似形であること。
④墳丘に段をもたず方錐形であること
ここからは、両古墳が同じ設計図・技術者によって造られた可能性が出てきます。平塚・角塚は、九州色から畿内色へと石室内部が変化していることは、先ほど述べた通りです。その角塚の設計図が大和櫻井の古墳に合って、その設計図と技術者集団によって、角塚は造られたという説も出せそうです。そうだとすれば、大野原勢力の後にいたのは、ヤマト政権中枢部の権力者ということになります。想像は膨らみますが、今回はこのあたりでやめます。

角壕は讃岐における最後の巨石墳です。讃岐でも7世紀中葉ごろに、地方豪族の大墳墓造営は終わります。ところが角壕は、他の地域の盟主の大型古墳が造営を停止した後に方墳として造られたものです。その規模からみても終末段階の古墳の規模としても存在意味は、大きいものがあります。その存在は、さまざまな謎を持っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 古清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳 「古墳時代政権交替論の考古学的再検討」所収
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Ⅰ大野原八幡神社
明治35年(1902)の『香川県讃岐國三豊郡大野原村 鎮座郷社八幡神社之景』です。ここには約120年前の大野原の八幡神社が描かれています。神社の建物、玉垣、石垣等の配置がよく分かりますが現在とあまり変わらないようです。本殿の後ろに碗貸塚古墳があるのですが、それを書き手は意識しているようには見えません。古墳の開口部のあたりを見ると、土塀巡らされて、石垣の中央部には縦長の巨石があるように見えるのが、今とちがうところでしょう。
この図中には「椀貸塚ノ縁由」として、次のように記します。

「相傅ノ昔 塚穴二地主神在リテ 太子殿卜云フ 神霊著シキヲ以テ庶テ穴二入ルモノナシ・・」

 ここからは「椀貸伝説」とともに、横穴(古墳石室)が「奥の院」として神社の聖域とされ、人々の信仰を集めてきたことが分かります。椀貸塚古墳は、大野原八幡神社の本殿の後に神域として祀られてきたために、近世の大野原開発の際にも破壊を免れたと言えます。しかし、無傷で残っているのではないようです。古墳と現在の建築物等の関係はどうなっているのか、測量図をみながら再度確認しておきましょう。
1碗貸塚古墳1
碗貸塚古墳の地形測量図

碗貸塚古墳の測量図を見て分かることを挙げておきます
①大型円墳で、直径37.2m、墳丘高は9.5mの盛土築造である。
②墳丘周囲には二重の周濠と周堤がある。内濠と周堤の幅はほぼ同じで約8m。
③周濠を含めた墓域の直径は70mあり、その占有面積は約3,850㎡。
④石室は両袖式の大型横穴式石室。羨道十前室十玄室(後室)複室構造。
⑤石室規模は全長14.8m、玄室長6.8m、玄室最大幅3.6m 玄室高3.9m、玄室床面積24.6㎡。玄室空間容積は72.7㎡で、全国規模の容量をもつ。
⑥表面観察では葺石や段築は確認できない。
⑧東側には、後から作られた岩倉塚古墳がある。
⑨墳丘南側には大野原八幡神社の本殿、

測量図を見ると、東側も応神社と小学校の校庭として後世に削られていること。また北側の周壕は。慈雲寺墓地となっていることが分かります。
大野原古墳群調査報告書Ⅰ」は、新たな発見として周堤・周壕をもつ古噴であったことを挙げています
中期古墳の前方後円墳では、伝応神陵や伝仁徳陵のように外堤がめぐり、水をたたえている姿をすぐに思い出します。大型の前方後円墳と周壕は、セットとして私たちにインプットされています。しかし、古墳後期になると外堤は姿を消していきます。逆に、古墳後期の大型円墳に周堤があるのは珍しくなるようです。数少ない周堤を持つ大型円墳に共通するのは、国造クラスの各地域の最有力者の墓に用いられているのです。椀貸塚古墳は、巨大な石室と周堤を持ちます。さて、どんな人物が葬られたのでしょうか?
  碗貸塚古墳の復元イメージは、こんな姿になるようです
1碗貸塚古墳2
 椀貸塚古墳は、複室構造の横穴式石室で、これは九州に系譜がたどれるようです。また周堤をもつ大型円墳は豊前や日向に多いようです。ここでも三豊の古墳は、九州との関係を濃密に漂わします。
復元イメージ図から私がすぐに思い出したのは、下の日向の西都原古墳群の鬼の舌古墳です。

1鬼の窟古墳
西都原古墳群の鬼の舌古墳

 こんな古墳が30年おきに3つ大野原の扇状地台地に並んで作られたのです。これは近くの南海道を通る人たちや瀬戸内海をゆく船からも見えたようです。まさに、三豊の新しいモニュメントだったのです。
1周堤古墳

この時期の後期首長墓で周堤をもつ古墳は、九州の西都原古墳群の大型横穴式石室を持つ206号墳のように国造クラスの抜きんでた首長の古墳に限定されます。そこから大野原の首長は「四国地域の大物」よ想定できるようです。

1大野原古墳 比較図

  碗貸塚古墳の次に作られたのは、平塚・角塚のどちらなのでしょうか? 報告書は次のように記します。
「玄室側壁の石積みの段数の変化では、椀貸塚古墳5段→平塚古墳4段→角塚古墳1段となり、段数の減少傾向が認められ、同時に使用石材の巨石化と壁面の平滑化が進行している。」

築造順を「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」としています。

さらに、大野原古墳群のモデルになったのは母神山錐子塚古墳で、それを継承していると研究者は考えているようです。
それでは平塚から見ていきましょう。
 平塚は、八幡神社の御旅所で祭りの舞台にもなります。そのために神輿台や参拝道が作られ封土が削られて薄くなり、石室へ水が浸入しているようです。

1大野原古墳 平塚
①直径50.2mの大型円墳
②墳丘高は現状値で約7m。
③墳丘周囲には幅8.4mの周濠が廻り、それを含めた直径66.7m、その占有面積は約3,490㎡。
④墳丘の大部分は盛土で築造れ、段築・葺石・埴輪は見られない。
⑤両袖式の大型横穴式石室で、玄室の下半1/3程度は流土で埋没。石室規模は、全長は13.2m、玄室長6.5m、玄室最大幅3m玄室高2.6m、玄室床面積18.3㎡、玄室空間容積41.3㎡
次に角塚です。この古墳はその名の通り方墳であることが分かりました。
昭和30年頃に撮影された航空写真では円墳に見え、現在の噴丘表面の大部分は昭和の造成で作られたものであるため方墳か円墳か分かりませんでした。報告書はトレンチ調査から次のように方墳と判断しています。
①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長ヱ4mの規模であり、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳であること
大野原の3つの古墳群の特徴は、何なのでしょうか?
報告書は次のように指摘します。
「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」

さらに、次のような点を挙げます。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
どちらにしても、6世紀後半から7世紀前半にかけて椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と順番に首長墳が築造した大野原勢力の力の大きさがうかがえます。中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に、大野原を拠点とする勢力は讃岐という範囲に留まらず、四国地域内においても突出した存在であったようです。

それでは、大野原の地に巨石墳が築造された理由は、なんなのでしょうか?
6世紀末には、観音寺の豪族連合の長は柞田川を越え、大野原の地に古墳を築くようになります。その中で椀貸塚は、三豊平野史上はじめての「統一政権の誕生」を記念する記念碑です。広い意味では、5世紀後半の各地の豪族統合のシンボルとして出現する各平野最大の前方後円墳と同じ意味を持つと考えることも出来ます。椀貸塚の70mに及ぶ二股周濠、県下最大の石室は、富田古墳や快天塚古墳と同じ、盟主墳を誇示する政治的意味があったのかもしれません。
 大野原3墳には、畿内文化の介入や畿内政権のコントロールがあったと研究者は考えています。その痕跡は、椀貸塚の後に造られた平塚に現れます。ここからは、統合は三豊平野北エリアの豪族連合が進めたものですが、平塚築造に先立ってヤマト政権によってコントロールされていたというのです。それは、有力墓と中位クラス墳、下位クラス墳の区分表示からも分かるようです。ここからは三豊平野の豪族達は、ヤマト政権の身分制度下に組み入れられていたことがうかがえます。それを研究者は「三豊平野の豪族の統合による統一政権は、畿内政権を中枢にした中央政府の三豊支部に位置づけられる」と表現します。

四国最大規模の巨石墳群としての大野原古墳の他地域へ与えた影響は?
 讃岐で最初に横穴式石室を導入したのは観音寺市の有明浜の丸山古墳です。しかし、それに続く盟主墳は横穴式石室を採用していません。それが築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期に、重なるように横穴式石室墳が再び姿を見せます。この時期の石室は、それぞれが特徴的で個性的な様式でモデルがなかったようです。石室用材は小形で、玄室床面積も10㎡を超えるものはありません。

1大野原古墳 比較図

 それが母神山の瓢箪塚古墳に続く盟主墳の錐子塚古墳になると大型横穴式石室が採用されます。
複室両袖型石室で、玄室床面積は12㎡を越え、玄門部と羨道部に立柱石を内側に突出させて配置するタイプです。このタイプの石室が大野原古墳群に引き継がれていきます。そして、使用石材の大型化、前室と羨道の一体化と連動した羨道規模の長大化などの流れができあがります。こうして、「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」の変化の中で作られた様式が讃岐各地の石室に導入されていったと研究者は考えているようです。
 例えば、国府が築かれる綾川下流域の以下の古墳には、大野原古墳群からの影響がうかがえます。
痕跡化した複室構造の新宮古墳
前室と羨道は一体化するが羨道天井部を一段下げて高架した綾織塚古墳
新宮古墳や綾織塚古墳を経て、醍醐2号墳で「完成形」に至るのですが、それは大野原古墳群がたどったルートと同じです。このように讃岐各地の大型石室墳は、大野原の石室がモデルになっていると研究者は考えているようです
 また築造された当時は、椀貸塚、平塚は讃岐最大規模石室をもつ古墳でした。角塚古墳の築造段階も、この大きさの石室は他にはなかったようです。このように「讃岐における横穴式石室の構築、なかでも大型石室墳の構築は大野原古墳群が主導」したと評価することができるようです。
 ところが7世紀後半になると大野原勢力の活動が低調化します。
 確かに南海道が通過し、柞田駅や柞田郷の設置され、古代寺院である青岡大寺(安井廃寺)が建立されます。しかし、それまでのように讃岐の他地域に比べて突出した存在ではなくなります。
対照的に三豊北部の三野郡には、活発な活動を示す勢力が現れ、輝きを増していきます。四国最初の古代寺院・妙音寺を建立する勢力です。この勢力は妙音寺の岡の下を流れる二宮川流域を勢力としてした集団で、畿内型横穴式石室を持つ延命古墳を築いた後は、いち早く古代寺院建立に着手します。その際に必要な瓦生産を開始した宗吉瓦窯跡は、その後藤原宮瓦の生産を始め、官営工房としての役割を担うとともに、今は丸亀平野の池の中に塔石だけが残る宝憧寺にも提供するようになります。

1三豊の古墳地図
 つまり、大野原の勢力が角塚という末期古墳の築造を行っていたときに、三豊北部の勢力は古代寺院の建立を始めていたのです。
それだけではなく中央政府の技術支援を受けて、最新鋭「宗吉瓦」工場を三野に誘致し操業を開始し、藤原京に送り出すという国家事業にも参加していたことになります。こうして見ると7世紀後半の「大化の改新」から「壬申の乱」に架けての時期に、三豊の中心は大野原から笠田・三野に移ったようです。蘇我氏へのクーデター、壬申の乱における天武派と天智派の対立などが地方政治にも影響を及ぼしたことが考えられますが、これ以上の深読みは控えておきましょう。

参考文献 大野原古墳群Ⅰ 観音寺遺跡発掘調査報告書15



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