瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:誕生院

細川頼之 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

貞治元年(1362)細川頼之は南朝の細川清氏を白峰合戦で破り、讃岐の領国支配を着々と進めていきます。
それまでの頼之は、中国管領として中国地方を幕府の支配下に治めることが第1の課題でした。ところが白峰合戦の翌年の貞治二年に、頼之は中国管領の職を解かれ、以後四国管領を命じられます。そして貞治4(1365)年ごろには、従来の分国である阿波・伊予に讃岐・土佐を加えた四国全域の守護となり、分国経営を強化していきます。その際の有力なアイテムとなったのが、足利尊氏から認められた次のような権限でした。
①武士同士の所領争いの裁決を現地で執行する権限(使節運行)
②敵方所領の没収地を国内の武士に預け置く権限
③半済といって寺社本所領の年貢の半分を兵粮料として取り上げ、それを配下の武士に宛がう権限
これの権限を行使することで讃岐武士団の家臣化は進められます。
それを年表化して見ておきましょう。
1365年4月 香川郡由佐村の国人山佐弥次郎に、安原城における合戦の軍忠を賞す。
1366年12月 山佐氏の一族の由佐又六に井原庄内の御寺方半分を預け置く
由佐氏は、以前に顕氏から感状を与えられているので、顕氏の被官でした。それが改めて頼之の被官となっています。『全讃史』によると清氏討代後、頼之は安富盛長・香川景房・奈良元安などの有力被官を外から呼び寄せ、讃岐に配置したとされます。
また頼之は、讃岐の寺社保護と引き替えに、これらを統制下に置いていきます。
1363年4月 宇多津の西光寺への禁制発令
     9月 宇多津の歓喜寺に土器保田所職を安堵
1364年3月 寒川郡長尾の八幡池築造し、寺社領用水確保
 このように協力的な有力寺社については、保護と安堵をあたえ、国内の安定化を図ります。こうして貞治年間には讃岐の国人・寺社は、細川頼之に属するようになります。その結果、白峰合戦以後は、讃岐の南朝方が全く姿を消し、讃岐は細川氏の勢力の基盤となります。
 頼之は、貞治6(1367)年には将軍足利義満の管領(執事)となります。
そのため、義満の政治を補佐するために上京し、讃岐を不在にすることになります。讃岐を離れる一ケ月前に頼之の弟頼基(のちの頼元)は、善通寺に対して規式を定め、諸堂の勤行、鎮守の祭礼、寺僧の行儀などを励行させ、軍勢の寄宿、寺領の押領、境内の殺生などを禁じたりして、細川氏の讃岐の寺院支配の方針を示しています。それが貞治6年(1367)7月に出された「善通寺興行条々」(9ヶ条)で、次のように記されています。
一 寺内坊中軍勢甲乙人(誰彼の人)寄宿有るべからざる事。
一 寺僧弓箭兵杖を帯ぶるの條、向後一切停止せしむる事。
一 寺領并に免田等、地頭御家人甲乙人等押領を停止し、寺用を全うすべし。
一 同寺領以下諸方免田等の事、縦え相博為りと雖も、 寺中に居住せしめず俗鉢と為て管領せしなる事、固く停止する所也。向後に於いては、寺領免田等の内知行の輩の事、俗を止めて綺いせしめ、寺家に居住すべき也。  
一 罪科人跡と号し、恩賞に宛て贈ると稀し、寺領井びに寺僧供僧免田等相混えて知行せらるるの段、向後に於ては、縦え共身に至りては罪科有りと雖も、所帯に於ては、寺領為るの上は、寺中の計所として沙汰致すべし。
一 寺務の仁、寺川を抑留せず、勧行并びに修造を守るべし。
一 寺内栞馬の事、今自り以後停止せしむべし。
一 寺領の境内、殺生先例に任せて停止せしむべし、次いで山林竹木雅意に任せ(勝手に)伐り取る亨、子細同前。
一 守護使先例に任せ、寺領に人部せしむべからざる事。
  意訳変換しておくと
① 善通寺の寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないようにすること。
②寺僧が弓や箭兵杖などで武装することは、以後は認めない。
③ 寺領や免田等に対しての地頭や御家人たちが押領を停止し、寺領を保護すること
④ 善通寺諸方免田について、例え相伝されたものでも、寺内に居住しない俗人や武士が所有することを禁止する。今後は、寺領免田の知行者については、非俗人で、寺内に居住する者に限定する。
⑤ 罪科人の跡とか恩賞地とか称して、武士が寺領や寺僧の免田を知行するようになれば、前条の趣旨に反することになるので、寺領や寺僧免田の場合は、たとえ所有者に罪科があってその所領が没収されても、それを武士に給することはしないこと、寺中の計らいとする
⑥ 寺務については、勧行や修造に傾注すること
⑦境内での乗馬は、今後は禁止する
⑧ 境内での殺生は先例通り禁止とする。また、山林竹木を勝手に伐り取ることも禁止する
⑨徴税などのために守護使はこれまで通り、寺領に入らせない。
「法令で禁止令が出されるのは、現実にはそのような行為が行われていたから」と考えるのが、歴史学の基本的セオリーです。禁止されている行為を見ていくことにします。
①の「寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないように」からは、善通寺にはいくつかの坊があり、そこに軍事集団が「寄宿」していたことがうかがえます。これらが入道化した棟梁が率いる武士集団だったのかもしれません。
②からは、当寺の善通寺の寺僧たちが武装化=僧兵化していたことがうかがえます。また⑦からは、寺内では乗馬訓練がおこなわれていたようです。以上からは、南北時代の善通寺には軍事集団が駐屯し、武装化していたことがうかがえます。比叡山のように、僧兵を擁し、武士たちが入り込み、軍事的な拠点となっていたと私は考えています。
①②⑦は、それらの軍事集団の寺内からの排除をめざすものです。
③⑥⑧は善通寺寺内を、非武装化し祈りの場所とするなら保護を与えるという守護の立場表明にもとれます。
③は、地頭御家人ら在地武上が寺領免田を押領することを停止させ、⑨は守護使が、守護役の徴収などの理由で寺領に入ることはしないと約束しています。それは、寺内の非武装化と俗人の寺領保有を認めないという条件付きです。
④は、寺の名で年貢免除の特権を認められている土地は、先祖伝来と称していても、寺に居住していない俗人や武士が持つことを認めない。それを所有するのは、寺家に居住する僧に限るとしています。ここからも善通寺が武士(俗人)の拠点となっていたことがうかがえます。
⑤は、武士が寺領や寺僧の免田を知行しないようにすること。そのために、寺領や寺僧免田の場合は、所有者に罪科があってその所領が没収されても、それを武士に給することはしないこと。
これらは、実行されたかどうかは別にして、寺側の打ちだした「寺領から武士の勢力を排除して寺僧の一円支配を強化する」という方針を、守護としても認めて協力することを示したものと研究者は考えています。ここで押さえておきたいのは、南北朝の善通寺が武装集団(武士団・入道)たちの拠点であり、彼らの中には寺領などの権利を持つ者もいたことです。これに対して守護としてやってきた細川氏は、それを改め「非武装化」しようとしていたということです。
また「条々」からは、善通寺には寺領とならんで「寺僧供僧免田」があったことが分かります。
例えば宥範譲状の中の、次のものがそれにあたるようです。
一 良田郷内学頭田二町内壱町円明院(第三条)
一 良田郷郷大勧進国二町(第四条)
第四条の良田郷大勧進田二町は、真恵によって大勧進給免として設定されたものです。善通寺内の院や坊が自分の所領免田を持っていたのは誕生院だけではないようです。宥範譲状でも良田郷内学頭田のうち一町は円明院(赤門筋の北側にあった)の所領だといっています。
次の文書は、勧学院領に対する院主・別当の干捗を止めて勧学院の領掌を保証した守護細川満元の書状です。
讃岐国善通寺誕生院内勧学院領の事、早く寄進状の旨に任せ、所職名田出等院主別営の綺いを停止せしめ、先規に任せ領掌相違有る可からずの状件の如し。
應永七(1400)年七月十二日      右京大夫(花押)
誕生院兵部卿法印御房
院主というのは誕生院主、別当は善通寺別当のことのようです。勧学院は誕生院内にありながら(観智院の横にその跡がある)、誕生院からも、また善通寺別当の支配からもある程度自立した所領を寄進されていたことが分かります。こうしてみると南北朝以後室町のころになると、誕生院にせよ、他の寺内の小院や僧坊にせよ、それぞれ所領を持ち、在地領主的性格を強くしていたことがうかがえます。そして、それらの主の中には、周辺の武士団の一族出身者もいて、強いつながりがあったことがうかがえます。宥範と岩崎氏にも、強いつながりがあったとしても不思議ではありません。
以上をまとめておくと
①南北朝時代の動乱期に、讃岐武士たちは細川頼之によって束ねられ家臣団化された
②讃岐の組織化された家臣団は、細川氏の中央における暴力装置としてよく機能した。
③細川頼之は讃岐の有力寺社にも安堵・保護を与えている
④その中の「善通寺興行条々」(9ヶ条)からは、保護のための条件としていろいろなことが記されている
⑤そのひとつが寺内の「非武装化」であり、俗人の寺内からの排除である。
⑥これを逆に見ると当寺の善通寺では、入道化した武士が寺内を拠点として、乗馬訓練などを行っていたことが分かる
⑦深読みすると、善通寺防衛のために武装集団を寺内に招き入れたり、僧兵集団の存在もうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史 南北朝・室町時代の善通寺領559P

 善通寺西院の伽藍配置は、どのように進められたのか

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善通寺伽藍について 

善通寺の伽藍は、
①古代以来の金堂や五重塔などがある東側の区画と、
②弘法大師誕生所の由緒をもつ善通寺本坊がおかれた西側の誕生院
の2つの区画とから成ります。前者を「伽藍」または「東院」、後者は「誕生院」または「西院」と呼んでいます。

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西院は永禄の戦火で焼けたのか?

善通寺は、戦国時代の永禄元年(1558)、三好實休軍が天霧城の香川氏攻撃をする際の本陣となります。そして、駐留した三好實休軍の退却時に全焼したことが伝えられています。善通寺の近世は、この被災からの復興の歴史でした。
 その際に、東院の金堂と五重塔の復興に関しては、よく語られるのですが、西院の誕生院伽藍の整備については、あまり知られていません。
西院がどうなっていたのか見ていくことにしましょう。
元禄2 年(1689)刊行の『四国徧礼霊場記』に
「西行・道範の比まではむかしの伽藍ありときこへぬれども、今はその跡のみにて.」
「永禄元年兵乱之節 大師御建立之伽藍十八宇多分焼失仕候、其後代々住僧等勧誘之力ヲ以金堂・常行堂・鎮守神祠・御影堂以下漸々致再興」
などと、主要堂塔焼失を伝える文書もありますので、基本的に東院は全焼したようです。しかし、綸旨院宣等の重宝が焼失の免れていることや、本坊(西院)については火災に遭わなかったと考える研究者もいます。この説に従えば、近世初頭の善通寺伽藍は、焼け野原になった東院と、中世以来の建築が存続していた西院とから成っていたといえます。
 
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         善通寺の東院と西院 手前が西院
西院はどのような過程を通じて、現在の姿になったのか?

それは善通寺の中世寺院から近世寺院への脱皮でもありました。
元禄年間より貨幣経済が進展し、地方の大寺院が藩から与えられた寺領収入だけでは経済的に立ち行かなくなって行きます。寺務運営や伽藍修造の財源を民衆の財力、つまり人々のもたらす賽銭・ご開帳に求めなければならなくなります。そのために多くの参詣者を受け入れるための工夫が求められるようになります。

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善通寺西院
なぜ御影堂が大型化していくのか?

 善通寺の西院伽藍では17 世紀に2 度建て替えられた御影堂は、方三間から方五間、方五間から方六間へと、規模を拡大していきます。方六間となった際には、本尊の弘法大師御影を安置する場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。そして、19 世紀前期の建て替え時には方八間規模へグレードアップするのです。
 同時に、17世紀には西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げています。それに引き続き18 世紀前期には、御影堂前に参拝者の増大に対応するための拝所と回廊が設けらます。さらに18 世紀後期には西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置されます。また、十王堂(18 世紀後期)、親鸞堂(19 世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実が次々と行われるのです。
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        善通寺東院と西院の絵図
御影堂の大型化とその前の空間が拡げられたのです
 こうして「新御影堂」が大師信仰の核に位置付けられます。そして御影堂を中心に、参詣空間が整備されていきます。 御影堂は、19 世紀前期の建て替えを経てさらに巨大化します。そして近代には、護摩堂・客殿が建立されます。今の御影堂を中心とする西院の伽藍構成は、17 世紀末まで遡ることができそうです。 

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西院の伽藍整備に生駒藩は、どう関わってたのでしょうか

 生駒藩は、天正15 年(1587)の初代親正(雅楽頭)入封以来、寺領寄進と伽藍造営を通じて善通寺の復興支援を行っています。その際の参考になるのが 下の『西院図』です。東を上にして西院伽藍の建築配置が描かれています。
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  寛永11 年(1634)に西院伽藍を描いた『西院図』の整備計画
 
『西院図』から分かることは? 
①現在進行中の「新御影堂」の修造・整備計画等が朱書で示されていること 
②客殿及び護摩堂の移築計画が描かれていること 
③「古御影堂」と「新御影堂」が生駒藩の有力者の寄進によるものであることが明記されていること 
④弘法大師800 年御忌という大きな節目に際し、御忌当日(3 月21 日)の日付で生駒藩の役人・尾池玄蕃の署名がなされ、善通寺に伝来していること 
が分かります。
 800 年御忌の当日という日を選んで、生駒氏のそれまでの伽藍寄進の実績と、今後の援助計画を明示した図を善通寺へ奉納することで、為政者の立場から、弘法大師信仰の篤さと善通寺を庇護する姿勢を示したものでしょう。もちろんその背景には、有力な地方中核寺院を政治的に掌握し、支配の安定化という思惑もも込めていたでしょう。 
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善通寺においては元禄年間より東院の金堂復興と平行して、西院では御影堂を信仰の中心とする伽藍配置が整えられていったのです。
 
 



善通寺金堂の薬師如来像は、いつどこからやってきたのか?

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善通寺東院の金堂
善通寺の金堂に入ると丈六の大きな薬師座像が迎えてくれます。
この大きなお薬師さまと向かい合うと、堂々とした姿に威圧感さえ最初は感じます。このお薬師さまは、どのようにしてここに安置されたのでしょうか。それが垣間見える史料が残っています。
  戦国時代に戦禍で消失してから百年以上も善通寺には金堂も五重塔もない状態が続きました。江戸元禄時代になって、世の中が落ち着いてくるとやっと再建の動きが本格化します。そのスタートになったのは元禄七年(1694)に、仁和寺門跡の隆親王が善通寺伽藍再興をうながす令旨を出したことです。

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善通寺金堂の本尊は薬師如来

 金堂の方は元禄十二年(1699)に棟上されました。続いて、そこに収まる本尊が次の課題になります。
この薬師仏は誰の手によって作られたのでしょうか?
善通寺には、薬師仏をめぐっての善通寺と仏師とののやりとり文書が残っているようです。その文書から本尊の制作過程を追ってみます。
 善通寺が薬師本尊を発注したのは京都の仏師運長です。彼は誕生院光胤あてに、元禄十二年(1699)12月3日文書を4通出しています。その内の「御註文」には、像本体、光背、台座の各仕様について、全18条にわたり、デザインあるいはその素材から組立て、また漆の下地塗りから金箔押しの仕様が示されています。このような「見積書」によって、全国の顧客(寺院)と取引が行われていたようです。
1 善通寺本尊1
薬師如来(善通寺金堂)

 ついで翌年の元禄13年(1700)2月5日には、着手金の銀子三貫目が運長へ支払われています。
これに対して運長は次の「請取証文」3通を発行しています。
①6月 3日 銀子五貫目分、
②10月4日 銀子二貫九百五十目分、
③翌元禄14年に「残銀弐貫目」分を金三十両と銀二百六十目で請取った
制作費の総額銀十二貫九五十目分の支払いは、着手金を含むと都合四回に分けて行われたようです。

1 善通寺本尊3

薬師如来像の制作経過は、どのようなものだったのでしょうか。
仏像本体は三月中に組み立ててお目にかけ、来年の八月中旬までには、台座、光背の制作、像の下地仕上げなども完了させて仕立て、箱に入れて納入します。

と、雲長は、当初の予定案を示しています。
善通寺と雲長のやりとりの記録では、これだけしか分かりません。しかし、運長の記した「箱之覚」と京の指物屋源兵衛が運長にあてて出した「御薬師様借り箱入用之覚」があります。「箱之覚」とは薬師如来像を、京都で制作した後、善通寺へ搬入する際の梱包用仮箱の経費覚えで運長が書き留めたものです。
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金堂の基壇には古代寺院の礎石が使われている

薬師如来は、どのようにして京都から善通寺に送られたか?

 寄来造りですから分解が可能です。そのため薬師像本体は頭部、体幹部、左右両肩先部、膝部の5つのパーツに分けて梱包されたようです。また台座、光背ほか組立に必要な部材などもあわせると総計33口の仮箱が必要だったようです。
 京都で梱包作業が終わった後、善通寺までの輸送日程や経路については資料がないようです。仏や荘厳の品々を納めた33ケの箱は船で、大坂から積み出され、丸亀か多度津の港で陸揚げされ、善通寺に運びこまれたのでしょう。
 「仏像輸送作戦」を担当したのは運長の弟子の久右衛門と加兵衛という二人の仏師でした。二人が9月23日に善通寺側へ提出した銀請取証文高の総額三貫六百六十一匁六分の内訳の中に「箱代五百九十九匁九分」が含まれています。ここから久右衛門と加兵衛の二人の仏師が仏像輸送と組立設置などの作業をおこなったと研究者は考えているようです。作業終了後には、仏師二人に祝儀的な樽代八十六匁が贈られています。この頃までに薬師像の組立設置が完了したようです。
 
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 つまり薬師如来像の制作は、
①元禄13年2月5日に開始し、
②8月21日頃には像の下地仕上げが完成して仮箱も制作、
③9月23日には善通寺へ納入、組立完了
というおおよその流れがたどれます。
 しかし、薬師像の制作費の支払いが完了するのは翌年の元禄14年7月7日になっています。善通寺側の経費調達が必ずしも順調では無かったと研究者は考えているようです。
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 すべての支払い完了後に、誕生院僧正(光胤)は運長へ書状と祝詞の白銀五枚を渡しています。この書状の内容から誕生院にとって薬師如来の尊容が満足できるものであったことがうかがえます。運長自身も弘法大師「御誕生霊地」の造仏という意識をもって制作に臨んでいたことが分かります。元禄年間に出来上がった金堂と、そこに修められた薬師さんが300年以上経った今も善通寺の地を見守っています。
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参考文献 香川県歴史博物館 近世文書からみた善通寺の諸彫刻像 調査報告書第三巻

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善通寺西院
御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であるといわれます。

ここを拠点に、中世の
善通寺は再興されます。
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善通寺西院御影堂
東寺百合文善や随心院文書によると、善通寺も平安時代には別当によって運営されていたことが分かります。東寺や随心院などの本山支配の下にあったために、善通寺が別当の進退を拒否した文書がたくさんあり、善通寺市史などにも紹介されています。善通寺が衰退すると、別当が京都の来寺や随心院あるいは御室仁和寺から任命されるようになります。すると善通寺の坊さんたちは、京都から来る別当の支配を受けないといって紛争を起こしたことが平安時代中期の古文書に残っています。
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善通寺周辺遺跡

善通寺の寺名は「空海の父の名前」と言われますがどうでしょう。

善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者になるはずです。西院のある場所は、時代によって「方田」とも「弘田」とも呼はれていました。すると、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺と呼ばれるのが普通です。ところが、善通という個人の俗名が付けられています。これは、「善通が中世復興の勧進者」であったためと研究者は指摘します。
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西院が御影堂になる前は、阿弥陀堂でした。

専修念仏を説き、浄土宗を開いた法然上人は、旧仏教教団の迫害をうけて、承元元年(1207)に讃岐に流されます。絵巻物の「法然上人絵伝」第35巻の詞書には、善通寺に参詣した時に金堂に次のように記されていたととします。
「参詣の人は、必ず一仏浄土(阿弥陀仏の浄土)の友たるべし」

これを読んだ法然は、限りなく喜んだと云うのです。ここからは、当時の善通寺が阿弥陀信仰の中心となっていたことがうかがえます。
法然上人逆修塔2
法然上人逆修塔(善通寺東院)

 善通寺東院の東南隅には、法然上人逆修塔という高さ四尺(120㎝)ほどの五重石塔があります。逆修とは、生きているうちにあらかじめ死後の冥福を祈って行う仏事のことだそうです。法然は極楽往生の約束を得て喜び、自らのために逆修供養を行って塔を建てたのかもしれません。

善通寺によく像た善光寺の本堂も曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。現在は西院の本堂は、弘法大師の御影をまつっていますが、もとは阿弥陀堂だったと研究者は考えています。
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善通寺西院と背後の五岳山

 本願寺でも鳳鳳堂でも、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。東西に拝む者と拝まれる者が並んでいるということからも阿弥陀堂であると向時に、大師御影には浄土信仰がみられます。そして、善通寺西院の西には、霊山である我拝師山が聳えます。

1 善通寺伽藍図
善通寺の東院と西院
善通寺にお参りして特別の寄通などをしますと、錫杖をいただく像式があります。什宝の錫杖は弘法大師が唐からもってぎた錫杖だといいますが、表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。つまり、裏表とも阿弥陀さんを出しています。

善通寺の東院と西院
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讃岐の古代寺院 善通寺 東院と誕生院の歴史について
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善通寺と誕生院(香色山から)
 善通寺の背後の香色山から善通寺を眺めたものです。東にはおむすび型の甘南備山である讃岐富士が見えています。手前に五重塔と本堂が巨樟に囲まれて建っているのが分かるでしょうか。これが東院です。更に拡大すると・・・
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善通寺誕生院

その手前に大きな屋根を重ねる伽藍があります。これが誕生院です。かつての空海の佐伯家の跡と言われています。このように善通寺は五重塔のある東院と誕生院の西院に分けることができます。
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善通寺本堂 赤門から

現在、金堂と五重塔のあるのが東院です。
ここには白鳳期の寺院跡が確認されています。佐伯家の建立によるもので、空海が生まれる以前に伽藍はあったようです。現在の金堂の基壇の周りには、造り出しのある白鳳期の非常に大きな礎石が多数用いられています。金堂は永禄元年1558の三好実休の兵火で焼けて元禄十一年(1698)に再建されました。 その間、140年近くは金堂がなかったわけです。

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善通寺本堂
永禄の時に焼けた建物について鎌倉時代の道範の『南海流浪記』には
「 白鳳期のお寺が焼けたときに本尊さんなどが焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」と書かれています。
おそらく半分だけ埋まっている仏頭がまつられていて、現在残っている仏頭はそれを掘り出してまつったのだろうとおもいます。新しく元禄十一年に建てるときに、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので、現在のように高い基壇になってしまいました。この基壇の中に、白鳳期のものがまだまだ埋まっているのかもしれません。
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善通寺東院の大楠
元禄十一年の金堂再建のときに、その敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが、古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊とする白鳳期の前寺(前身寺院)があったことが推定できます。
『南海流浪記』には、すでに火災で焼けた前寺を再建した建物が鎌倉時代初期には存在したことが見えています。平安時代の中ごろかわかりませんが、一度火災にあって、鎌倉時代初期に焼け跡を訪れた道範が本尊は埋仏だと書いています。本堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見えるといって、大師が建立したとしています。
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善通寺本堂
これを見ると、鎌倉時代初期には徐々に回復しつつあったことがわかります。
埋仏は白鳳期の仏頭に当たるもので、地震などで埋もれたのを掘り出して据えていたようです。このときの金堂が永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され、埋もれたのを首だけ掘り出しだのが現在の仏頭だとおもわれます。
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善通寺境内 善女龍王
『南海流浪記』は、四方四門に間頭が掲げられていて大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。大師の父の名前ではなくて、佐伯家先祖のお名前で、古代寺院を勧進で再興して管理された人物とも考えられます。
 つまり、以前から建っていたものを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。
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善通寺金堂
道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 しかも、『南海流浪記』は先祖の俗名と書かれています。
 本田善光の善光寺のように、進を寺号としないで個人名を付けたと考えれば、やはり先祖の聖の名を付けたと考えたいところです。善通寺も御影堂は東向きで、西に本尊をまつっています。地下に戒壇をもっているのも全く同じです。まっ暗闇の地下をぐるっと回ると、死者に再開できるという伝説をもつ戒壇巡りがあります。御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であることは通いありません。
「五来重:四国遍路の寺」より

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