瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:請雨経法

「遺告二十五ヶ条」(略称「御遺告」)10世紀半ば成立
御遺告 10世紀半ば成立
 空海の請雨伝承を伝える史料は『御遺告』と『大師御行状集記』が代表的なものとされます。このふたつは成立年代がちがうので、空海請雨伝承に違いが出てくるのは当然です。しかし、それ以上に両者の内容は隔たりがあり、全くちがう話と言ってもよいほどです。どうしてこんなに内容が異なるのでしょうか。今回はこのふたつを比較しながら見ていくことにします。テキストは「籔元晶   国家的祈雨の成立」です。
   『御遺告』は、空海の遺言を記録したものというスタイルなので、成立は空海が没した承和二年(835)ということになっています。しかし、それを信じる研究者はいません。実際は百年後の10世紀半ばと研究者は考えています。御遺告は、空海の祈雨祈願について次のように記します。
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 従爾以降帝経四朝奉為国家建壇修法五十一箇度。亦神泉薗池辺御願祈雨霊験其明。上従殿上下至四元。此池有竜王名善如。元是無熱達池竜王類。有慈為人不至害心。以何知之。御修法之比托人示之。即敬真言奥旨従池中・現形之時悉地成就。彼現形業宛如金色長八寸許蛇。此金色蛇居在長九尺許蛇之頂一也。見此現形弟子等実恵大徳并真済真雅真照堅慧真暁真然等也。諸弟子等敢難覧着。具注言心奏聞内裏。少時之間勅使和気真綱御幣種種色物供二奉竜王。真言道崇従爾弥起也。若此池竜王移他界浅い池減水薄世乏人。方至此時須不火知公家私加中祈願上而已。

  意訳変換しておくと
神泉苑での祈雨が行われる理由は、この池に天竺の無熱達池にいた善如竜王が棲んでいるからである。その姿を空海は、正月の後七日の御修法の時に人々に示した。その姿は八寸ばかりの金色の蛇で、九尺ばかりの蛇の頭の上に乗っており、その姿を見ることができたのは七人の弟子に限られており、他の弟子は見ることができなかった。そのことを天皇に奏上すると、和気真綱が勅使となって竜王を祀ることとなった。このことによって、真言宗はますますさかんとなったのである。そして、もしこの竜王がよそへ移るようなことがあったならば、公家に相談せずともすぐに真言宗の僧侶が祈願をしなければならない。

読んで気がつくのは、空海による祈雨が話の中心に据えられていないことです。中心は、善如竜王が神泉苑に棲んでいるという所にあります。作者の一番伝えたかったのは神泉苑で祈雨を行うことの意味だったようです。なぜ神泉苑という場所で祈雨を行うのか、神泉苑が祈雨の場所としてなぜふさわしいのか、その理由を善如竜王が棲むということ説明しています。ここでは、話の中心は善如竜王で、空海ではないこと、そういう意味では御遺告の雨乞祈願は「善如竜王出現譚」とも云えることを押さえておきます。

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神仙苑に現れた善女龍王
 この内容は神泉苑での祈雨を行うことについての理由付けです。この話が生まれてくる前提を考えると、実際の神泉苑で祈雨が行われるようになってから出来上がったことが推測できます。つまり、真言宗が神泉苑での祈雨を行うようになってから作られた話であることを押さえておきます。それでは、その説話の成立はいつ頃のことなのでしょうか 。
真言宗による神泉苑での祈雨が定着するのは延喜8年(908)以降のことのようです。
『祈雨日記』長暦2年(1038)の記事に、次のように記します。
被綸旨云。炎気日増。雨雲永隠。田水忘溝。農業納鍬。皇情御歎。相同湯代。爰聞無熱池水通神泉。阿御竜類移法水。加之祈請者弘法祖師之慈悲願力応化者。善如竜王利生誓力。仰而仰之。憑而憑之。但任先例。〔率〕廿口伴僧。於大師霊験古跡。可被勤修請雨経法也者。綸旨如此。悉之。
長暦二年六月十四日左中弁源四匹経 奉
  勤奉  仁海法印房
意訳変換しておくと
 炎気は日増しに高まり、雨雲は見えない。田に水はなく、農民は鍬をおさめたままで旱魃に苦しんでいた。天皇はこれを嘆き、救済したいと願った。ある時に①無熱池水が神泉苑に通じていること。龍が雨を降らせること、②祈請者の弘法大師の慈悲願力によって③善如竜王に祈雨を祈祷して雨を降らせた先例があることを聞き及んだ。そこで20人の高僧を引き連れて、④大師霊験古跡の神仙苑で請雨経法を襲封させた。綸旨如此。悉之。
 長暦二(1038)年六月十四日左中弁源四匹経 奉
  勤奉  仁海法印房
ここには次のような事が記されています。
①無熱池水が神泉苑に通じていること。
②空海の験力のこと、
③善如竜王のこと
大師霊験古跡の神仙苑
これを書いた人が『御遺告』をベースにしていることが分かります。つまり『御遺告』記載の空海請雨伝承の成立年代は、延喜八(908)年から長暦二(1038)年までの間と研究者は推測します。
 
 次に、『大師御行状集記』(以下『行状集記』)の空海請雨伝承を見ていくことにします。
この『行状集記』は、寛治三年(1089)の成立であることがはっきりとしていて、伝承の変遷を考える上で基準となります。そのなかの「被勧請神泉苑於竜王条第六十九」には、「有書曰」という形で先の『御遺告』と全く同じ記事が載せられています。それに続いて「又或曰」という形で、もう一つ次のような空海請雨伝承が載せられています。

 又或曰。淳和帝御即位天長元年甲辰。依旱災 奉勅於神泉苑。可修請雨之法者。爰守敏大徳奏状僊。守敏已上陽也。同修之。須先勤仕。而令雨西京者。依請早修者。即以勤仕。七箇日結願之朝。西京如暗夜 雷響尤盛也。其雨成洪水 衆人感嘆也。但遣使令検地之処。雨界内不及山外云々。亦大師勤修 雖経七日無雨。大師入定思惟。守円大徳駈取諸竜 既入水瓶已云々。即出定 延修二ケ日夜。大師告曰。池中有竜王 号曰善如 元是無熱達池竜王之類所勧請也云々。乃至結願之日。重雲覆天雷鳴於四方急降膏雨・池水涌満。至于大壇之上 自是以後。三箇日之間普雨三天下 自然傍佗。水愁已以絶。賀其功一任小僧都慶賀之間不好有威勢出入之処自然施面目・云々。
意訳変換しておくと
天長元年(824)に旱魃があり、神泉苑で請雨経法を修するように勅が下った。そこで、守敏は自分が上陽であることを主張し、先に西の京に雨を降らすことになった。そして、西の京が洪水になる程雨が降った。しかし、検分したところ、狭い範囲でしかなかった。
 次に空海が祈雨を行ったが、七日たっても雨が降らなかった。そこで入定して考えたところ、守敏が諸竜を水瓶に閉じ込めていることが分かった。そこでインドの無熱達池の善如竜王を神泉苑に勧請して雨を祈った。そうしたところ、三日間雨が広く降ることとなり、その功績によって空海は少僧都に任じられた、という。

 このように『行状集記』では、神泉苑での空海の祈雨は守敏との験比べという形で書かれています。この話は「空海の守敏との祈雨の験比べ譚」とも云える内容です。先ほど見た御遺告の内容と大きく違います。これと同じモチーフが天永二(1111)年成立と言われる『本朝神仙伝』や元永元年(1118)成立の『高野大師御広伝』にも載せられていて、伝承として定着していったことがうかがえます。
2善女龍王 神泉苑2g
 ところが、同時期の成立とされる『今昔物語集』には、この「守敏との験比べ」のエピソードは出てきません。
巻第十四の「弘法大師、請雨経の法を修して雨を降らせたる語」と第四十二「空海が神泉苑で請雨経法を修したところ、壇に五尺ばかりの蛇が出現した」の2つの話を見ておきましょう。

今昔、□□天皇の御代に、天下旱魃して、万の物皆焼畢て枯れ尽たるに、天皇、此れを歎き給ふ。大臣以下の人民に至まで、此れを歎かずと云ふ事無し。其の時に、弘法大師と申す人在ます。僧都にて在しける時に、天皇、大師を召て、仰せ給て云く、「何(いか)にしてか、此の旱魃を止て、雨を降して、世を助くべき」と。大師、申て云く、「我が法の中に、雨を降す法有り」と。天皇、「速に其の法を修すべし」とて、大師の言ばに随て、神泉苑にして請雨経の法を修め給ふ。七日に法を修する間、壇の右の上に五尺許の蛇出来たり。見れば、五寸許の金の色したるを戴けり。暫許(とばかり)有て、蛇、只寄りに寄来て池に入ぬ。而るに、廿人の僧、皆居並たりと云へども、其の中に止事無き伴僧四人こそ、此の蛇を見けれ。僧都はたら更也。此れを見給ふに、一人止事無き伴僧有て、僧都に申して云く、「此の蛇の現ぜるは何なる相ぞ」と。僧都、答へて宣はく、「汝ぢ、知らずや。此れは天竺に阿耨達池と云ふ池有り。其の池に住む善如竜王、此の池に通ひ給ふ。然れば、此の法の験し有らむとて、現ぜる也」と。而る間、俄に陰(くもり)て、戌亥の方より黒き雲出来て、雨降る事、世界に皆な普し。此れに依て、旱魃止ぬ。此より後、天下旱魃の時には、此の大師の流を受て、此の法を伝へたる人を以て、神泉苑にして此の法を行なはるる也。而るに必ず雨降る。其の時に阿闍梨に勧賞を給はる事、定れる例也。于今絶えずとなむ語り伝へたるとや。」

ここには弘法大師の神仙苑での雨乞祈祷は記されますが、「守敏との験比べ」の話はありません。詳しく見ると『行状集記』と今昔物語を比較すると細かな点に多くの違いがあります。これは、時間経緯と共にかなり口承化が進んでいたことをうかがわせるものです。

2善女龍王2
神仙苑に招来された善女龍王と空海

 また、「今昔物語集」には別な話として、「弘法大師、修円僧都に挑みたる語 第四十」があります。
その内容は修円が加持をして生栗を煮て天皇に献じますが、空海がそれを妨害したことによりお互いに呪咀するようになります。そこで、空海は死をよそおって修円を油断させて、呪咀して殺すという話です。この二つの話と非常に関係が深い守敏との祈雨の験比べ譚が、『今昔物語集』にはないのです。これについて研究者は次のように記します。

「当時一般に口承化されていた空海の請雨伝承は、『御遺告』に見られる善如竜王出現譚が主流であった。『行状集記』に見られる守敏との祈雨の験比べ譚は、まだそれほど一般に広まっていなかった」 

守敏との祈雨の験比べ譚が初めて登場した『行状集記』の時点では、口承伝承としてはこの話はあまり知られてなかったことが推測できます。そうだとすると『行状集記』の成立した寛治三(1089)年を余りさかのぼらない時期に、この説話が誕生したことになります。
実はこれと関係する出来事が、永保二年(1082)7月16日の範俊と義範の神泉苑の祈雨をめぐる事件なのです。『祈雨日記』は「大蔵卿為房記」を引用して次のように記します。
 今日神泉苑以阿闇梨範俊匹被行請雨経法。先例先被仰一宗長者。次及此門徒云々。一宗長者信覚僧正一門 上陽義範律師也。義範隠居山門之故欺。人以相傾云々。範俊奏云。義範吾弟子也。越吾不可修此法云々。但宣下修之。爰義範難思登上醍醐山真言参龍居発願云。仰願大師三宝。吾若彼弟子者。雨必降給。若又彼奏虚妄者。不可雨降。心誓願祈念三宝。遂雨不降。範俊此間於真言院勤修愛染王云々。
 ここには神泉苑で範俊が請雨経法を行ったことが最初に記されます。しかし、先例からすると義範が行うべきものであったようです。そこで、義範は範俊に対抗して、醍醐寺にこもって止雨の法を行ったというのです。これを読んで気がつくことは、空海と守敏との祈雨の験比べ譚と次のように類似点が多いことです。
①神泉苑での請雨経法をめぐっての対立であること
②実施者の決定に際して上屋などの理由がうんぬんされていること
③一方が祈雨を行っている時に、もう一方が止雨を行っていること
ここからは、この事件を元にして「空海と守敏との祈雨の験比べ譚」が生まれたことが推測できます。そうだとすると守敏との祈雨の験比べ譚は永保二(1082)年から寛治三(1089)年の間に成立したことになります。

弘法大師雨乞祈願伝承


 次に『御遺告』の善如竜王出現譚と『行状集記』の守敏との祈雨の験比べ譚が空海請雨伝承の展開の中でどのように位置付けられているのかを見ていくことにします。
 空海請雨伝承の成立期の内容は、『贈大僧正空海和上伝記(寛平七年(895)成立』にあるように、天長年中に空海が神泉苑で祈雨を行い、その成功によって少僧都に任じられたというシンプルなものでした。それに続いて、十世紀に『御遺告』の善如竜王出現譚が成立します。御遺告は『贈大僧正空海和上伝記』の伝承をもとにしていること、そして直接的には祈雨場面について語っているものではないことは、先ほど見てきた通りです。空海の遺言という形を取りながら、神泉苑が祈雨の場としてすぐれている理由が述べられていて、その重点は神泉苑と真言宗の深い関係にあります。つまり、空海の祈雨そのものを説いた説話とは言えず、空海請雨伝承から少し離れた位置にある説話であったと研究者は考えています。 ここでは『御遺告』の善如竜王出現譚は、厳密には空海請雨伝承とは言えないことを押さえておきます。
2善女龍王 醍醐寺2
唐服姿の善女龍王
しかし、時間とともに空海の祈祷場面の方が重視されるようになります。
空海の伝記の一つで『御遺告』より成立が後とされる『金剛峯寺建立修行縁起』は、次のように記されています。
天長元年甲辰依旱災奉勅於神泉苑請雨経法 長八寸許金色竜王。現在二九尺許蛇頂是無熱池河女危
 
①天長元年の祈雨の場面となっていて、そこに善如竜王が出現したこと
②『贈大僧正空海和上伝記』などの初期の空海請雨伝承に、『御遺告』の善如竜王出現譚が挿入・接ぎ木されたもの
③祈雨の修法については何も触れていなかったのが「請雨経法」と限定されていること

神仙苑の祈雨法一覧
上表を見ると神泉苑での祈雨については、初期の段階では請雨経法と孔雀経法の両法が行われています。また請雨経法がまさっているとは書かれていません。いろいろな流儀で雨乞が行われていたのです。それが延長七年(929)からは、請雨経法だけが行われるようになります。この時期に、空海の祈雨法が請雨経法へと限定されたことが分かります。それは醍醐寺の聖宝から観賢の時期にあたります。この二人によって弘法大師伝説は作られていったとされます。
 こうしてみると聖宝から観賢の頃に、『御遺告』を参照しながら空海請雨伝承の充実が行われたことがうかがえます。内容的には、天長元年のこととし、請雨経法を修したとして『金剛峯寺建立修行縁起』を継承しています。また研究者が注目するのは、善如竜王について「所勧請也」としている点です。つまり、空海が善如竜王を勧請したことになっています。これまで善如竜王は天竺の無熱達池より神泉苑に来ているとしか記されていませんでした。それが、初めて空海の勧請によって天竺からやってきたことが記されるようになります。善如竜王が神泉苑に棲む理由について説いている中に、「空海伝来」という言葉が書き込まれたことになります。これもまた伝承の発展でしょう。
 また「結願之日(中略)自然傍詑水愁已絶」の文は、これは『行状集記』の守敏との祈雨の験比べ譚の中の文とほぼ同文です。ここからは、守敏との祈雨の験比べ譚が、『弘法大師伝』を参考に書かれたことが分かります。
 以上のように、『御遺告』から『行状集記』までの期間は、『御遺告』の善如竜王出現譚を取り込む形で空海請雨伝承の発展が見られ、そこに天長元年のこと、請雨経法のこと、善如竜王勧請のことが盛り込まれていったことになります。その中心にいたのが聖宝や観賢ということになります。

観賢について、佐々木令信氏は、「空海神泉苑請雨祈祷説について 東密復興の一視点」で次のように記します

「空海神泉苑請雨祈祷説が流布しつつあった十世紀初頭は、東密がそれまで空海以降、人を得ずふるわなかったのを、復興につとめそれをなしえた時期にあたる。聖宝、観賢とその周辺が空海神泉苑請雨祈祷説を創作することによって、請雨経法による神泉苑の祈雨霊場化に成功したと推測したが、観賢がいわゆる大師信仰を鼓吹した張本人であってみればその可能性はつよい」
 
理源1
左から観賢僧正、理源大師、神変大菩薩像(役行者) 上醍醐

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージア

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 今昔物語 弘法大師修請雨経法降雨語
  今は昔。天下は日照りが続き、すべての植物は枯れ尽きてしまいました。
天皇をはじめ、大臣から一般人民に至るまで皆が歎いていました。そのころ弘法大師という人がいました。
天皇は、弘法大師を召して言いました。
「如何にしたら、この旱魃かんばつを止め雨を降らせて、人々を救うことが出来ようか?」
大師は答えました。
「私の行法に雨を降らす法がございます。」
その言葉を聞いて、天皇は命じました。
「速やかにその法を行うべし。」
大師は、神泉苑で請雨経(しょううきょう)の法を行いました。
七日間、請雨経の法を行っていると、祈雨の壇の右上に五尺くらいの蛇が現れました。
見ると、その蛇は頭上に五寸くらいで金色の蛇を乗せています。
その蛇は、こちらへ近寄ってきて、池に入りました。
その場には、20人の伴僧が居並んでいましたが、
その光景が見えたのは4人の高僧だけでした。

1人の高僧が弘法大師に尋ねました。
「この蛇が現れたことは、何かの前兆なのですか?」
大師は答えました。
「これは天竺の阿耨達智池(あのくだつちいけ)に住む 善如竜王(ぜんにょりゅうおう)が、この神泉苑に通ってきて、請雨経の法の効果を示そうとなさっているのです。」
そうしているうちに、俄かに空は陰り、戌亥の方角(北西)より黒雲が出現し、雨が降ってきました。
その雨は、国じゅうに降り、旱魃は止まったのです。
これ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、
神泉苑で請雨経の法が行われるようになったのです。
請雨経の法が行われると、必ず雨が降りました。
このことは、今まで絶えず行われていると、語り伝えられているのです。

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どこかで聞いたことがあるような・・・。

そういえば・・・そうです。
善通寺の境内の中にありました。
上の写真が善通寺本堂の西側の池の中にある善女龍王社です。
善女龍王 雨乞祈祷」碑が建立されています。

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善通寺は真言のお寺として雨乞祈願の役割が与えられ、干ばつの時には雨乞祈祷が古くから行われてきました。その雨乞祈祷が行われていた舞台がここなのです。この龍王社は、金堂より北西側の方丈池の中に忘れ去られたかのようにポツンとあります。この祠については高野山の高僧浄厳が、善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子が記された「浄厳大和尚行状記」に、次のように登場します。 

浄厳
善通寺に雨乞祈祷を伝えた浄厳
浄厳行状記
浄厳大和尚行状記
延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、四月二十一日より法華経を講じ、九月九日に満講した。
 その夏は炎旱が続き月を越えても雨が降らなかった。和尚は善女龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦したもうこと一千遍、並びにこの陀羅尼を血書して龍王に法施されたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。
ここには、高野山の高僧が善通寺に逗留していた際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されたいます。それが現在の善女龍王社のようです。
この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。
調査から貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札が出てきました。それぞれ龍王宮、龍王殿、龍王玉殿と記載された棟札で、最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。国家に公的に認められていた真言の雨乞祈祷法が善通寺にもたらされた時期が分かります。
ちなみに現在の建物は文久元年(1861)に再建されたもので、低い切石基壇上に土台が建っています。わずか一間の本殿と向拝が付いた一間社の平面形式です。見世棚造の向拝部には木造の階(きざはし)が設けられています。柱は角柱。善女神信仰の雨乞い祈願として興味ある建物です。
ここでどんな雨乞祈願が行われたのでしょうか。
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江戸時代の善通寺は、雨乞祈祷寺だった

善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められる約八〇件の文書も残されています。そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内善女龍王社で行った雨乞いの記録があります。
それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。それだけ日照りが丸亀平野を襲い、人々を苦しめていたのです。

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空海は、神泉苑で何に雨乞祈祷を行ったのか?

神仙苑雨乞祈祷1 
神仙苑雨乞祈祷(高野空海行状図画)
 神泉苑は、京都の二条城南側にあり、かつては二条から三条にまたがるほど広大で、美しい池庭をもつ禁苑でした。桓武天皇が行幸し、翌々年には雅宴を催して以来、天皇や朝廷貴族の宴遊の場になっていました。そして、いつの頃からかこの
池にには龍が棲んでいるといわるようになります。
 龍はもともと中国で生まれた空想上の生物で神獣・霊獣の一種です。

神仙苑4
         神仙苑雨乞祈祷(高野空海行状図画) 空海の祈祷で現れた善女龍王
中国では皇帝のシンボルでになり、道教の四方神である青龍にも変じました。そして、インドから伝わった八大龍王と習合します。インドの龍は水に棲み、春分に天に昇り秋分に水底に沈み、雨を司るとされました。そこで、雨を降らすためには龍の力を借りることが必要と考えられるようになります。
 さらに平安京を「風水」で観ると、この池は「龍口水」ともいわれ、「龍」が動いている時はそこでかならず水を飲む。水を飲む所がなくなれば「龍」は逃げてしまいます。神泉苑は「龍」を生かすための水飲み場だとされました。
 それを知っていて、空海は雨乞をここで行ったのでしょう。
それ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、神泉苑で請雨経の法が行われるようになります。つまり、真言宗による祈雨祈祷が成立し、それが国家規模で各地で展開されていったのです。そういう意味では、今昔物語のこの話は、真言宗の「雨乞祈祷争い勝利宣言」とも読めるのかもしれません。その祈願対象として祀られるようになったのが善如竜王です。しかし、蛇のままでは侵攻対象として祀りにくいので、人間に権化した姿で描かれるようになります。その中で最も早く描かれたものとされるのが高野山にあります。

善女龍王 高野山
 唐の官人姿の善如(女)龍王像(高野山霊宝館)

善女龍王像一幡絹本著色 縦163㎝×横111㎝ 平安時代久安元年(1145)

この善女龍王は貴人の姿をし、冠を戴き、雲肩(肩飾り)や広く大きな袖をもつ抱衣(ほうい)をまとい、袖や衣帯が風に漂う神秘的で威厳に満ちたさまで描かれる。左手には静かに燃える四つの火炎宝珠を載せた盤を持ち、右手は印を結び、これにかざす。足元から白雲が沸き起こり、背後のうちからわずかにの尾がのぞき、異形を示す。しなやかで緊張感のある筆線は龍王の格調高い容姿を表し、ならばその龍王を呼び起こした空海の品格や体力はいかばかりかと想像を駆立てられる。「三井法輪院末帥君定智」が描き、久安元年(一四五)十月に権律師琳賢(りんけん)が開眼供養したことが記される文書があることなどから、絵仏師として名高い定智によって描かれたことがわかる。(黛友明 香川県立ミュージアム主任学芸員)

善女龍王 高野山 拡大
上図拡大
12世紀半ばに描かれたこの善如(女)龍王をモデルにして、以後さまざまな善女龍王が登場してきます。


善女龍王4

香川県に残る善女龍王は

讃岐の他の寺院でも善如竜王が伝わる寺院があります
四国霊場本山寺(豊中町本山)は、本堂が国宝になっていますが鎮守堂には善女龍王像が安置されています。

善女龍王 本山寺
本山寺 善女龍王立像   木造彩色  南北朝時代
善女龍王を描いたものは、定智筆の国宝「善女龍王像」(高野山蔵)が著名である。本像も、雲上に唐風の服装をした姿で、手に宝珠を持ち、背後から龍尾をのぞかせるなど強い影響を受けていることが確認できる。その一方で、王冠から透けて見える二つの角や、緑青による肉身の彩色からは、これが人ならざる龍王であることをより強調する工夫もみられる。
 眼や口元からは威厳を感じさせるが、頬や鼻は丸みを帯びている。衣の朱色や、きんでい金金泥による彩色も目をひく。本像は、昭和59年(1984)に本山寺鎮守堂(香川県指定有形文化財)に安置されていたのが発見された。明治時代の鎮守堂に関する記録では、祀られていた神体(本地仏)のなかに善女龍王像は登場せず、伝来した詳しい経緯がはっきりとしない。善女龍王は、空海が始めたとされる神泉苑での国家的な雨乞いの祈願で祀られるとともに、醍醐寺の鎮守神である「清瀧権現」と同一視されるなど、真言密教のなかでも重要な神格とされていった。香川県内の寺院でも善女龍王社が見られ、善通寺、白峯寺では江戸時代に雨乞い儀礼がなされた記録が残っている。
 民間でも雨乞いの神として善女王が祀られる事例もある。そのため、本像も、雨を求める地域の人たちの願いを受け止めていたものと考えられる。
(黛友明 香川県立ミュージアム主任学芸員)
 龍を背負っていない女性像でないので一見すると善如竜王には見えません。しかし、善女龍王は性別は不明なようです。この像は腰をひねり両袖をひるがえして飛雲上に乗る姿に動きが感じられます。龍に変わる飛雲が雨雲到来と降雨をもたらす象徴とされています。また、善女龍王の絵図は多いのですが彫像の作例は非常に珍しい存在で、真言密教関係の像で他に例のないものと評価されています。

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綾子踊の善女龍王の幟
本山寺と関係の深かった威徳院(高瀬町下勝間)や地蔵寺(高瀬町上勝間)にも江戸時代の善女龍王の画幅や木像が残り、雨乞祈祷が行われていたようです。これらにより善女龍王への信仰が民衆にも広く浸透していたことがうかがえます。しかし、それらは善通寺に善女龍王への雨乞祈祷が伝えられた17世紀以後になってからで、中世にまで遡ることは難しいようです。

 高瀬町の地蔵寺には、文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したことを記した「善女龍王勧請記」が伝わっています。
ここからは、19世紀初頭には財田の澗道龍王の霊験が周辺地域にも聞こえていたことがわかります。 

白峰寺の善女(如)龍王
白峯寺の善女龍王

 このように空海により行われた雨乞祈祷は、讃岐では17世紀以後になって各藩が次のように雨乞祈祷寺院を指定したことは以前にお話ししました。
①髙松藩  白峯寺
②丸亀藩  善通寺
③多度津藩 弥谷寺
こうして善女龍王は、雨乞の神様として信仰を集め、周辺地域に広がったことが考えられます。その際に、各地で踊られていた盆踊りなどの風流踊りが「雨乞成就」として踊られるようになります。

風流雨乞い踊りの変遷図

さらに、雨乞祈祷を応援する形で雨乞時におどられるようになると私は考えています。

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讃岐に舞い降りた不滅の巨人 空海
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