滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。最近は4郡だけになってしまった。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを西四郡のみで再興させた
滝宮念仏踊りは風流踊りで、もともとは雨乞い踊りではなかったようです。喜田家文書の坂本村念仏踊 (飯山町東坂元)には、次のように記されています。
光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
ここには雨乞い祈願をしたのは菅原道真で、その成就に感謝して百姓たちがお礼のために踊ったと記されています。奈良のなむて踊りも、もともとは盆に踊られた風流踊りで、それが雨乞い成就の際に感謝の気持ちを込めて踊られるようになったことは以前にお話ししました。滝宮念仏踊りも、中世の時宗の念仏踊りが風流化したもので、それが丸亀平野の各郷村で盆踊りとして踊られていたものと私は考えています。
正保讃岐国絵図(高松市歴史資料館) 17世紀前半の那珂郡
近世になって滝宮に奉納することを許されたのは、4つの組です。それは近世の村切りによって村が出現する前の荘郷エリアで編成されています。例えば、那珂郡の七箇村組は、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の三つの領の13ヶ村にまたがる踊組です。その村名を挙げると、真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文の13の村です。これは中世の小松・真野・吉野郷エリアにあたります。
古代中世の荘郷
七箇村踊組は、ただ滝宮で1回踊るだけではなかったようです。その前に、7月7日から盛夏の一ヶ月間に、構成員の各村の神社などを周り、60回近い踊興行を行い、最後に真野の諏訪神社でに奉納した後に滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。先ほどの諏訪神社の絵図も、その途上の「巡業」の時の様子が描かれたもののようです。
以上をまとめておくと次のようになります。
①中世の時宗念仏踊りが風流化し、丸亀平野の郷荘の盆踊りとして踊られるようになった。
②それが旱魃の際の雨乞いのお礼として、各郷で組織された集団が滝宮の牛頭天王神社(滝宮神社)に奉納された。
③近世になって一時的に中断していた踊りを、髙松藩初代藩主が復活させた。
④以後、事件などで中断期をはさみながら江戸時代末期まで奉納された。
⑤この念仏踊りは、中世の郷村時代に編成されたために、近世の村を越えたメンバーで編成されている。
⑥踊手や桟敷席などには宮座の存在が色濃く残っている。
私に分からないのは、どうして中世に「村」を越えて荘郷規模で組が編成されたのかという点です。
これについてヒントを提供してくれる本に出会いましたので、見ていくことにします。テキストは「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能 日本中世社会の構造 2000年」
これについてヒントを提供してくれる本に出会いましたので、見ていくことにします。テキストは「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能 日本中世社会の構造 2000年」
中世の鎮守の機能について、研究者は次のように押さえています。
第一には、荘郷鎮守は百姓が五穀豊穣、現世安穏・後生善処を祈願する祈りの場でした。しかし、それだけではありません。荘郷内の平和を祈願する場所だからこそ、公的な場所でもありました。聖なる場所であり、公的空間でもある鎮守を掌握したものが支配者として正当性をもちえたともいえます。中世の武士団が地元の有力な寺社を保護したのも、支配を円滑にするには寺社を押さえ保護者であることをしめすことがポイントになることを、経験的に学んだ結果なのかも知れません。
第2に鎮守では、荘郷政所による検断(けんだん)が行われました。
検断とは「検察」+「断獄」=「検断」で、不法行為)を検察してその不法をの罪を裁くことです。中世の検断は、鉄火取り、湯起請といった鎮守の場での神裁の形をとります。郷社の鎮守は神聖な裁きの場でもあったのです。
第3に、荘郷鎮守は荘郷内のメンバーの身分秩序会の確認の場でもありました。
鎮守の宮座が名主層によって独占されていて、百姓層はそこから排除されていたことや、新興の勢力が宮座に加入する場合には、右座・左座というように旧来からの座株所有者とは区別されていたことをみれば分かります。また寺社の棟札や梵鐘の銘文には、地頭・荘官以下、名主や百姓の名前がそれぞれの奉加額とともに記され、荘内の身分秩序が一目で分かるように示されています。家の格まで視覚的に表現されていました。毎年、繰り返される祭礼行事では、荘官以下の百姓たちの身分序列の確認の場でもあったのです。
次に、荘郷の寺社がネットワークを形成していく具体例を、近江国坂田郡(現長浜市)の長浜八幡神社で見ていきます。
長浜八幡宮は八幡庄の鎮守で、室町中期の永享年間に堂塔建立が行われています。永享7年(1435)の勧進猿楽の際の桟敷注文井奉加帳(史料B)と、永享11年(1429)の塔供養の際の奉加帳(史料C)が残されています。史料Bを見る前に、当時の猿楽の席次について「予習」しておくことにします。
京都札河原勧進猿楽桟敷注文
寛正5年(1464)の京都札河原勧進猿楽桟敷注文およびその付図(図2)があります。そこには、猿楽は円形の舞台で演じられ、その周囲に見物桟敷が設けられています。桟敷の中心(真下)は「神之座敷」です。「御前」が「神之座敷」の前という意味です。これを中心に、向正面に向かって注文の記載順に座っていきます。御前の両隣に公方夫妻(足利義政・日野富子)が座り、次いで対面に向かって関白、門跡、管領、有力守護、奉公衆と、およその身分の序列に従って席が決められていたことが分かります。桟敷の中央に荘官・殿原層・荘郷鎮守の僧や神官末席には名主層桟敷と舞台の間の「地居」に桟敷に昇れない層
猿楽鑑賞の座が、地域の身分秩序を目に見える形で示す場になります。参加者にとっては、自分の席がどこにあり、前後はどうなっているのかは大きな意味を持ったことでしょう。それは、そのまま「家の格付け」を示す者でもあったことになります。
研究者は史料に出てくる次の字句に注目します。
史料Bの奉加帳部分に「八坂 八人中」史料Cに「イコマ(生駒)ノ宮村人」
Bの八坂社は祗園保の鎮守で、生駒宮は平方庄の鎮守です。八坂社や生駒の宮の「村人」が長浜の八幡宮に寄進しています。「村人」ということばは、近江においては村民一般ではなく、宮座の構成員である「オトナ層」を指す用語のようです。奉加帳に「八坂八人中」「イコマノ宮村人」などの名前が見えるということは、 この地域の荘郷鎮守の関係が、単なる寺社と寺社の関係ではなく、オトナ層同士の宮座と宮座の連帯関係でもあったと研究者は考えています。
こうした荘郷鎮守の関係は、どのような役割を果たしていたのでしょうか。
それは地域の身分秩序を確認する場として機能していたと研究者は指摘します。表2は史料Bの桟敷注文に見えるおもな人物を荘郷別、身分別にまとめたものです。
ここに出てくるメンバーを見ると、八幡庄を中心とした荘郷から荘官層、殿原層、名主百姓層がそれぞれに桟敷料を払って、このイベントに参加していたことが分かります。つまり、実際に猿楽が上演されるときには、次の二つの階層が桟敷の上で目に見える形で確認できることになります。
ここに出てくるメンバーを見ると、八幡庄を中心とした荘郷から荘官層、殿原層、名主百姓層がそれぞれに桟敷料を払って、このイベントに参加していたことが分かります。つまり、実際に猿楽が上演されるときには、次の二つの階層が桟敷の上で目に見える形で確認できることになります。
単独で見物席を確保できる荘官層、殿原層、村単位でなければ確保できない名主百姓層
また、新興の者はこの場に座る座を確保することによって、自らの位置を可視的に地域社会に承認させることができるという仕掛けになっています。
これらの史料に出てくる寺社を地図に落としたのが図1です。
ここからは長浜八幡宮や観音寺をはじめ福永庄の神照寺、山階庄の本国社など、この地域の荘郷鎮守を中心とした寺社の造営などに、周囲の荘郷から寄進が出されています。地域的な連帯関係があったことが見えてきます。中世の寺社は、単独で存在していたのではないということです。これらを結びつけていたのが修験者たちになるようですが、それについてはまた後ほどみることにします。
大原観音寺
長浜の東方にある大原観音寺は、大原庄の鎮守的な寺院です。ここにも応永26年(1419)の本堂造作日記(史料D)が伝わていて、奉加者の名前が記されています。
史料Dには、大原庄内外の村々の「村人」が奉加者として名前があります。「村人」というのは、先ほども見たように荘郷内の支配層のことです。各荘郷の「村人」が寺社のネットを通じて、荘郷を超えた広い地域社会の中に現れて、認められていることになります。寺社のネットは、村内の身分序列を、荘郷を超えた地域社会で承認していく役割を果たしていたことになります。
さらに重要なことは身分だけでなく、「村」の存在自体、寺社のネツトを通して地域社会の中で承認されるものだったというのです。
荘郷内に「村」が政治的・経済的な主体として登場してくるのは鎌倉末期のことです。これを承認する体制は、荘園公領制の中にはありません。新たに登場した室町期の守護も荘郷の枠組みを超えて「村」を領国支配体制の中に位置づけることはありませんでした。そのような中世社会の中にあって唯一「村」を承認するシステムが、寺社の地域的ネットだったと研究者は指摘します。荘郷鎮守の地域的ネットに認めてもらうことで、「村」は「村人」という内部の身分秩序とともに、地域的な承認を獲得していったと研究者は考えています。つまり、このような寺社ネットに登録されないと、他の荘郷から村としても、指導者としても認めてもらえることがなかったことになります。
少々荒っぽいですが、これを丸亀平野の那珂郡南部で起きていたことに当てはめると、次のようになります。
①那珂郡南部の真野郡は、真野の諏訪神社を荘郷神社としていた。
②小松・真野郷は各村からの宮座構成員の「村人」メンバーで、念仏踊りが組織され諏訪神社に奉納された。
③その際には、踊り手は宮座メンバーに限られていたので、踊りに参加する人たちは小松荘や真野郷の「村人(有力者)」を相互認知する機会となった。
④神社の境内に設置された桟敷席も、エリア指定の世襲制で宮座メンバー以外は建てることができなかった。桟敷席に座ると云うこと自体が、地域での階層位置を示すもので、「村」での権勢表示の場でもあった。
ここからは丸亀平野の荘郷のなかでも、「村 ― 荘郷 ― 地域」のネットワーク化が進んでいたこと、そして、村内の身分秩序や村自体の存在が荘郷を超えた広い地域の中で公認されていく様子が見えてきます。その場が荘郷の鎮守であり、そこで踊られる念仏踊りであったことになります。そして、荘郷鎮守の地域的な関係とは、寺社の相互扶助によって成り立っていたようです。
真野郡の諏訪神社は、滝宮の牛頭天王社と、近江八幡社の近隣寺社と同じように修験道関係者を通じた相互扶助関係があったことがうかがえます。それだけの勢力を牛頭天王社別当寺の龍燈寺に集まる修験者たちは持っていたことになります。
中世の名主層の世界観は、次のようなものだったと研究者は考えています。
地域的な秩序を維持するためには、荘郷鎮守の維持が必要である。荘郷鎮守を維持するためには村内の身分秩序を維持することが必要だ。逆にいえば、荘郷鎮守を維持することは、その荘郷のみにとって意味をもつものではなく、地域全体の秩序を保つための義務なのである。この地域に対する義務を果たすことによって、荘郷内の宮座運営の体制、すなわち荘郷内の身分秩序は、地域社会の中で認められているのだ
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能 日本中世社会の構造 2000年」
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