瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐うどん

前回は「空海が讃岐うどんを中国から持ち帰った」「それを智泉大徳が学び、讃岐に伝えたものが拡がった」という説が俗説であることを見ました。それでは、讃岐うどんが庶民のものとなった道筋とは、いったいどんなものだったのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。

饂飩(うどん)のルーツについては諸説ありますが、鎌倉時代に禅宗僧侶が持ち帰り、寺院で点心として僧侶が食べらていた特別食であったという点では、研究者の見解は以下のように一致します。

 うどん=不屯(ぶとう)起源説

「うどん=ほうとん起源説」

史料的にも以下のように饂飩の起源が遡れるのは中世までで、空海の時代までは遡れません。

饂飩が登場するのは中世以後

禅宗寺院での饂飩は、その他の宗派の寺院へも広がり、僧侶達が点心として饂飩をたべる風習が中世後期には各地に拡がっていたことを押さえておきます。
さて、それでは讃岐には饂飩はいつごろ伝わっていたのでしょうか?
神仏分離前の金光院日帳 宝暦11(1751)年(町史ことひら3 259P 年中行事)には次のような記事が載せられています。
 九月一日 今朝四時から恒例の御参籠。
「弘化行事」 神前で修法一座開白のあと、籠所へ入られる。追って所まで脇坊中法中そろってあいさつに参上する。(中略)
  九月四日 参籠の中日なので僧へ饂飩を下さる。
九月五日 八日の潮川神事また九日・十日十一日の頭屋へお出ましのお供を決められる。

「僧へ饂飩を下さる」からは、9月の参籠の中日には、山上の社僧たちに饂飩(うどん)が振る舞われていることが分かります。ただ、「僧へ饂飩」とあるのでスタッフ全員にはではなく、社僧のみに出されていたようです。
院主の法要の際にも饂飩が出されていたようです。
暮れ時から始まる宵(前夜)法要を見ておきましょう。法要の場所は、表書院での法要後の食事について次のように記されています。

お上(金光院院主)は上段の間の紙を立て切った所でお勤をされたが、法事の席へは出ず、終わってから僧に「太儀に存じます」とあいさつされた。今夜は客僧衆また院内の出家まで、夜食に饂飩・吸物・笠の飯を二菜で出す。ただし酒は出さず、客僧のうち特に望まれる人には見合わせに出すことにする。

 ここでは夜食に饂飩が出されています。その支給範囲は「客僧衆また院内の出家まで」と限定されています。ここからは金毘羅大権現の別当寺である金光院では、特別のハレの日には饂飩が出されていたことが分かります。讃岐における饂飩の普及は、有力寺院での法要などで出されたことに始まるとされますが、それを裏付ける史料です。以上をまとめておくと
A 饂飩は、晴れの日の特別食で、いつでも食べれるものではなかったこと
B 食べれる人は僧侶などの特別な身分の人に限られていたこと
このような金比羅山上で僧侶達が食べていた饂飩を庶民も食べるようになります。
18世紀初頭に描かれた金毘羅大祭絵図には、門前町に三軒のうどん屋が描かれています。

木戸前後
           元禄末期に描かれた金毘羅大祭絵図に登場するうどん屋

これが讃岐での饂飩屋の最初の絵図資料になるようです。
近世前期まで、うどんは味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、うどんも醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。これは、そばも同じです。醤油の普及が、うどんの消費拡大に大きな役割を果たしたと研究者は指摘します。現在のようなうどんが登場するのは江戸時代半ばであることを押さえておきます。

さらに、江戸後期になるとうどんは庄屋などの富裕層の法事などにも出されるようになります
坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
坂出青海村の大庄屋渡辺家

渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されています。
慶応4(1868)年の13回忌の法事には「温飩粉二斗前」(20㎏)が準備されています。
明治29年(1896)の東讃岐の仏事史料には、次のように記します。

うとん 但シ 壱貫目ノ粉二而 玉六十取 三貫目ニテ十二分二御座候

ここからは一貰目(3,75㎏)の小麦粉で60玉(一玉の小麦粉量63㌘)、3貫目の小麦で180玉を用意しています。渡辺家が、準備したうどん粉は20㎏なので約330玉が作られた計算になります。そばも、そば粉一斗を同じように計算すると約260玉になります。うどんとそばを合計すると590玉が法事には用意されていたことになります。参列者全員にうどんが出されていたのでしょう。
その前の文久元年(1861)の仏事では、「一(銀) 温飩粉  二斗五升 但揚物共」とあるので、揚物の衣用の温鈍粉を除いても約300玉以上のうどんが作られ、すし同様に一部は周辺の人々への振る舞われています。現在のうどんは一玉の重さが200㌘で、約80㌘の小麦粉が使われています。そうすると幕末や明治のうどん玉は、今と比べると少し小振りだったことになります。ここでは幕末には、うどんやそばなどの麺類が、大庄屋の法事には出されるようになっていたことを押さえておきます。これが明治になると庶民にも拡がっていったようです。」

江戸時代後半になると、うどんは庶民も食べるようになります。
その背後には二毛作で小麦が作られるようになったこと、水車が急速に普及したことなどがあったようです。水車の普及で自分の田んぼで収穫した小麦を、小麦粉にすることが容易になります。手に入れた小麦粉で何を作るかという時に、農民達は庄屋さんや富農と同じように法要に、饂飩をうって供するようになります。さらに特別な日にも饂飩を食べるようになります。讃岐では、うどんはハレの日の食べ物であったことを押さえておきます。
 氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)は、田植えの終わる「足洗(あしあらい)」の日でした。この日の御馳走として農家では饂飩が作られるようになります。
「四国新聞2007年7月10日 21世紀へ残したい香川」には、次のように記されています
  「『半夏半作(はんげはんさく)』いうてな。昔は半夏(七月二日ごろ、今年は一日)までに田植えを終えるのが目安だった。それを過ぎると稲の育ちが悪うなって、秋の収穫が減るといわれた…」
夏至から数えて十一日目。忙しかった麦刈りや田植えを済ませ、農家の人が半日、地域によっては一日ゆっくり骨休めするのが半夏(半夏生)と、綾南町滝宮の大熊喩さん(83)。
「毎年、半夏の時分になると、新麦を持ち込んでくる農家が増え、そりゃあ、忙しかった」。
府中ダム建設で立ち退く昭和三十九年まで、綾川べりで最後まで水車を回し続けた大熊さんはそう言って懐かしむ。新しい麦で打つ打ちたてのうどんは、張りと風味があって、白く輝いていた。
「半夏は『半夏じまい』言うて、阿波から讃岐山脈を越えてやってきた借耕牛(かりこうし)や田植えの早乙女さんに田植え賃を支払う日だったのを知ってますか」。
特別な日の味から、日常の味となったうどん。
「半夏から盆にかけて打つ塩気の効いた、うどんがうまいんじゃ。昔はうどんにも、それぞれの家庭の味があったのう」。久々に麺棒(めんぼう)を握った大熊さんの手に力が入った。

こうしてうどんは「特別な日の味から、日常の味」となり、庶民に親しまれるものとして定着していったのです。

以上をまとめると次のようになります。
讃岐でのうどん普及

庶民にとっては、江戸時代には僧侶や金持ちのたべる憧れの食べ物だったのです。それが身分が取り払われ、誰でもが食べれるようになります。すると、自分の家の法要に取り込み、そして特別な日にはうどんを食べるという風習が定着していったと私は考えています。
 そのため各家では、法事の前では各家でうどんがうたれていました。そのためそれぞれの家の個性がありました。私の家にも、うどん制作一式の道具が今でも納屋に眠っています。祖母がなくなってからは使われたことはありません。そして、いまではうどん玉は、お店から買ってきます。しかし、小さい頃からうどんを食べたという体質は失われていません。うどん好きは、讃岐人のDNAとして私の中にも組み込まれています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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四国学院 インタレスト うどん

インタレストは、四国学院の学生達が発行している雑誌です。その中に讃岐うどんの起源について調べたレポートが載せられていました。今回は、これを紹介します。参考文献は「日本全国うどんの起源説 インタレスト 2024年 通巻38号」です。

「讃岐うどん」の起源については、ネット上でいろいろな説が飛び交っています。その中から以下の3つのHPを取り上げて比較しています。
A 香川県ホームページ
B うどん発祥の地を名乗っている綾川町HP
C 四国新聞HP
どのHPともに「空海が唐からうどんの原型を持ち帰り、それを教わった智泉大徳が両親に振る舞って広がり始めた」という話が紹介されています。
智泉大徳

空海と、その甥で弟子である智泉大徳

ここからは「空海 → 智泉大徳」というストーリーが現在の通説となっていることが分かります。
「うどん」の原型は、どのHPにも「うどんの原型が中国から入ってきた」と記されています。

2 それでは日本にうどんがもたらされたのは、いつ、だれによってと書いているのでしょうか?
A 香川県HPには、次のように記されています。

今から1300年前の奈良時代に「麺」は中国から伝わってきたようですが、今のような「うどん」の姿ではありませんでした。今のような「うどん」は、平安時代(約1200年前)に空海が、当時のいろいろな生活技術と一緒に中国から持ち帰ったのだろうと言われています。また、父が滝宮龍燈院(綾南町)の菅原氏、母が空海の姉(後、智縁)の間に生まれた智泉大徳が、空海からうどんの作り方を伝授され、故郷である滝宮で両親をもてなしたのが最初という説もあります。
 
B    綾川町HPには、次のように記されています。
綾川町は「うどん発祥の地」として名乗りを上げています。うどんの原型は唐菓子と言われていますが、その唐菓子は延暦2年(804年)に唐に留学した弘法大師・空海によって日本にもたらされたと言われています。そのなかでも「うどん」の源流となるのは「ほうとん」とか「こんとん」と呼ばれるもので、その製法は空海の弟子に当たる智泉に伝承されたと伝えられてきました。
 智泉は空海の甥にあたり、延暦8年(789年)滝宮で生まれました。父は讃岐滝宮の官吏である菅原氏、母は佐伯氏の出身で空海の姉にあたります。つまり、智泉は空海の弟子であり、甥でもありました。空海から「ほうとん」の作り方を教わった智泉は、帰郷した折に自ら小麦粉をこねて「ほうとん」を作り、父母にごちそうしたと伝えられてきたのです。この地では弥生時代から麦が栽培されていたと推測されているので、この「ほうとん」は瞬く間に広まったとされています。つまり、わが国でいち早くうどんらしきものが作られたのは滝宮周辺であると、この地の人々は信じてきました。
C  四国新聞HPには、次のように記されています。

 うどんの歴史は実は不明なことがたくさんあります。弘法大師が唐から伝えた、との説もありますが、当時のうどんは団子状のもので、小麦粉をこねて薄くのばし、包丁で細長く切って仕上げる「切り麺」は、室町時代に日本で誕生したという説が有力です。それが江戸時代の初期からうどん屋の商品として発達したようです。香川県では智泉大徳が、師であり、叔父でもあ空海から「うどんの祖」を伝授され、故郷・綾南町滝宮の両親をうどんでもてなしたのが最初、と伝えられています。

いつ誰がうどんをもたらしたかについて確認するとは、以下の通りです
A 香川県HP 「奈良時代に中国から伝わってきた」「切り麺は空海がもたらした」
B 綾川町HP 「空海によって日本にもたらされた」
C 四国新聞HP 「切り麺(うどん)は、室町時代に日本で誕生」
ここからは四国新聞HPだけが「空海招来説」をとらずに「室町時代誕生説」をとっていることを押さえておきます。AとBは「うどんの原型を空海が中国から伝えた説」で、これは1960年代頃から言われ始めたようです。

全国のうどん起源説のルーツ系譜
ご当地うどんの原形とされるもの

全国のうどん起源説一覧年表

うどんの原形になるものいつ、誰が持ち帰ったかについては、いろいろな言い伝えがある

全国のうどん起源説年表

3 空海は、何を持ち帰ったのか? 
綾川町HPは、空海が持ち帰ったのは唐菓子で、その中に「うどん」 の源流となる「ほうとん」とか「こんとん」と呼ばれるもがあった」という説、C四国新聞HPは「空海が伝えた当時のうどんは団子状のもの」で切り麺ではなかった、つまり現在の讃岐うどんとは別物だったという説をとります。以前にもお話ししましたが、現在のうどんの起源(切り麺+だし汁スタイル)は近世初頭にまでしか遡ることはできません。空海の時代に、うどんはなかったと研究者は考えています。

うどん=不屯(ぶとう)起源説

「うどん=ほうとん起源説」

饂飩が登場するのは中世以後

以上のようにうどんの原形が遡れるのは、中世までです。そして、うどんの有力なルーツは次の2つです。
①宋代に流行した切り麺を、禅宗僧侶が持ち帰えり、太いうどんに改良したった説
②鎌倉時代の禅宗僧侶の食べていた点心を改良した「ほうとん」説
どちらも時代的には鎌倉時代の禅宗僧侶によって生み出されたと研究者達は考えています。空海の時代にうどんの祖型があったとは史料的にはいえないようです。

次に空海からうどんの製法を学んだというの弟子「智泉大徳」について『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように記されています。(要約) 

延暦8年2月14日789年3月15日)? - 天長2年2月14日825年3月25日
讃岐の人。俗姓菅原氏(一説に阿刀氏)。母は空海(弘法大師)の姉と伝えられる。
③空海の甥で十大弟子の一人。空海が亡き智泉の供養のため書いた「亡弟子智泉が為の達嚫文」が『性霊集』巻八にある。
④延暦16年(797年)、9歳のとき空海に連れられて故郷を去り、大安寺の勤操に預けられた
⑤延暦21年(802年)、14歳のとき空海の近士(従者)となった
⑥入唐留学僧・空海の侍者として智泉も同行(?)
⑦大同4年(809年)7月、嵯峨天皇の勅命で空海が高雄山寺に入った時に智泉も随行(?)⑧弘仁3年12月、空海により高雄山寺の三綱の1人(ほかは杲隣、実恵)に選ばれる。
⑨弘仁年中、空海に随い高野山に来て東南院を造り滞在
825年3月25日)、病により高野山東南院にて没す(享年37)。

以上からは智泉大徳は、空海の甥で早くから空海の信頼を得た人物であったとされています。それが享年37歳の若さで亡くなってしまいます。叔父で師匠だった空海より先に亡くなった智泉の死を、空海は深く惜しみ悲しんだと伝えられます。そして、後世になると智泉にもいろいろな伝説が附会されていきますが、その内容は、彼が「孝順の士」と呼ばれるように、父母にまつわるものが多いようです。その中に、父の死を予感して讃岐に帰ってくる次のようなストーリーがあります。

大同4年(809年)、河内の高貴寺に滞在中のある晩、胸騒ぎがして急に父母に会いたくなり讃岐に帰郷したところ、父は病に臥せっていた。父は死ぬ前に会えたことを喜び、智泉の手を握って、お前のおかげで浄土に往生できると言い、息を引き取る。智泉は百日の間泣きながら経を唱え冥福を祈ったと伝えられる。
この話に讃岐帰国の際に父母にうどんを振る舞ったことが、後世に接ぎ木されていきます。それが各HPが「智泉大徳が空海からうどんの作り方を伝授され、故郷・滝宮で両親にもてなしたのが最初」という話につながっていきます。
それでは智泉大徳は、どんな「うどん」を父母に振る舞ったと記されているのでしょうか。
県HP 「うどんの作り方を伝授され」
 その前に「空海が切り麺を伝えた」と読める記述があるので、智泉大徳が両親に振る舞ったのは「切り麺」だったと読みとれます。

綾川町のHP 「空海から教わったほうとんを作り、父母にごちそうした」
 ここには切り麺かどうかについては触れていません。最後の方で「うどんらしきもの」という表現が使われているように、切り麺だったとは断定はしていません。

四国新聞HPには
「空海から「うどんの祖」を伝授され、綾南町滝宮の両親をうどんでもてなした」
「切り麺は室町時代に日本で誕生したという説が有力」
四国新聞はHPは、「智泉が作ったのは切り麺(うどん)ではない」という立場になります。学界の研究成果に学んでいます。
 ところで智泉については、ウキは「滝宮天満官の宮司家である菅原氏の出身で、その母を空海の姉」としますが、これは無理筋だと指摘する研究者もいます。
なぜなら智泉が生まれたのは延暦八年(789)で、菅原道真が讃岐にやってくるのは、その役百年後のことです。そして太宰府に左遷された菅原道真がなくなるのは延喜三年(903)です。つまり、智泉の時代には滝宮天満宮はまだありません。存在しない滝宮天満宮の官司家の出身することはできません。また、智泉の母を空海の姉とするのも根拠がありませんし、年齢的にも無理があります。研究者は、次のように批判します。
「智泉を滝宮天満宮の宮司家や竜燈院の出身とする説は根拠のない虚説」
「智泉の母が空海の姉というのも、円珍の稲木氏(和気氏)と同じで創作
 つまり智泉大徳は存在したが、その出身を滝宮とする根拠はなにもないのです。これは中世や近世に滝宮牛頭神社の別当寺であった龍燈寺の真言系僧侶達の創作話である可能性が高いと私は考えています。
滝宮念仏踊りと龍王院
      滝宮(八坂)神社と別当寺龍燈寺と天満宮 讃岐国名勝図会(1853年)

現在の讃岐うどんの一般的な起源説をHPで見てきました。そこから分かることは、今世間で語られているのは綾川町のHPに記された「空海伝来 → 智泉大徳継承」説が一般的な説であるということです。しかし、この説が通説となるにはいくつかの過程があったことをインタレストは指摘します。次に、そのプロセスを見ていくことにします。
1960年代末までは「うどん=奈良時代渡来説」が主流だったようです。

讃岐うどん起源説2

1969(昭和44)年 東京の讃岐うどん店「うどん坊」の「讃岐饂飩由来記」の一節

「うどんの歴史は遠く奈良時代に中国から渡来した唐菓子だといわれ、最初はアンコ入りでした。名前も、?飩、温飩饂飩となり、江戸時代からうどんと呼ばれるようになったといわれます」

同年 郷土詩人・河西新太郎氏のコラム

文献によれば、うどんは奈良朝時代に中国から伝わった唐菓子の一種である。小麦粉のだんごにアンを入れて煮たもので、最初は「こんどん」と呼ばれ、転じて「うんどん」となり、江戸時代になって「うどん」と名前が変わり、現在のような線状の麺類となったのである

同年 郷土史家・佐々木正夫氏のコラム

「うどんの歴史は古代に中国から渡来した唐団子だといわれ、最初はアンコ入りだった。名前も、飩(とんとん)、饂飩(うんどん)、饂飩(うどん)となり、江戸時代から「うどん」と呼ばれるようになった」
 
以上のように1969年に書かれたものには、奈良時代のあんこ入りの唐菓子の一種 → 江戸時代に切り麺のうどんに変化したと書かれています。これが当時の研究者達の通説で、それを讃岐の文化人も踏襲しています。つまり、空海の時代には、現在の切り麺のうどんはなかったことになります。そうすると空海がうどんをもたらしたということも云えません。空海と饂飩は、切り離されて結びつくことはなかったのです。それが1970年代になると地元で、空海と結びつけた説が次のように出されるようになります。

空海持ち帰り説登場 昭和50年代

A「讃岐の手打ちうどんの始まり弘法大師が唐から秘法を持ち帰り教えたものと伝えられている」
(金刀比宮で行われた式の記事)
B「うどんの歴史は古く奈良時代に遡り、唐から渡来した菓子の一種だった」(四国新聞記事)
C「さぬきうどんは、お大師さんが唐から製法を持って帰ったと言われてます」
屋島のうどん店店主のコメント)
D「奈良時代に渡来した唐菓子の饂飩は、さぬきの風土にはぐくまれ、名物さぬきうどんとなった」
(四国新聞記事)
こうしてみると1970年代になって、讃岐うどんブームの到来と供に、その源流を空海に求める動きが加速していったことがうかがえます。うどんの起源についての記述が四国新聞に初め載ったのは1969年のことのようです。それを根拠に郷土詩人の河西新太郎氏や郷土史家の佐々木正夫氏などが「奈良時代に中国から伝わったアンコ入りの唐菓子がうどんの起源だ」という説を紹介するようになります。それを前提にして、讃岐うどんの起源説に「空海」が登場してくるのは、1973年に金刀比羅宮で行われた献麺式の記事の中です。
そして、1976(昭和51)年以降になると文化人達は「空海持ち帰り説」に傾斜していきます。

昭和50年代 空海持ち帰り説の通説化 讃岐うどん

A 昭和51年空海?   (四国新聞記事)
「弘法大師が唐へ留学した帰りに持ち込んだものだという説をとれば、約1200年の歴史をもつ食べ物といえる」
B 昭和52年    (山田竹系著「随筆うどんそば」より)
「弘法大師がさぬきうどんの創始者だということは、もはや疑う人はいないくらい有名になったが、それとて確たる証拠はない。しかし、大師が郷里讃岐の農民に「うどん」の作り方を教えたであろうことは容易に想像でるし、大師とうどんを結びつけても決しておかしくはない。だから誰の反対もなく、何の抵抗もなく大師説が取り入れられ広まっているのである」

C 昭和53年空海説
「さぬきうどんは弘法大師が唐からその製法を伝えたといわれてます」(前川忠男香川県知事の対談記事)
D「弘法大師は31歳の時、留学僧として唐に渡った。そのころ唐では「うんとん」というものが盛んに作られ、それは今のような長いうどんではなく、早くいえばダンゴのような型であった。翌年、大師は長安の都に着3年間の仏教の勉強の後、帰国した。讃岐帰った大師は、当時すでに栽培されていた讃岐三白の一つである小麦を原料として農民たちに唐のうんとん製法を生かした今のうどん製法を伝授し、乏しい農家の食量事情を救ったという。
 (香川県と県観光協会が出した「うどんの日」の新聞広告に書かれた文章)
以上のように、当時の全国的なうどんに関する研究成果を無視し、「讃岐うどんの始まりは弘法大師が唐から秘法を持ち帰り教えたものと伝えられている」という説が繰り返し語られるようになります。その根拠史料も示されていません。どこからそういうストーリーが出てきたのか、私にはよく分かりません。
 讃岐には、今でも空海伝説が強く「何かわからないことがあると空海のせいにすれば安心する」という風土があります。20世紀後半になっても、起源の分からない業績は空海のものとされて流布されていきます。それを望んでいる読者がいるから受けいれやすいのでしょう。香川県民にとって「奈良時代説 VS 空海説」となれば、勝敗は明らかです。こうして「空海持ち帰り説」があっという間に「奈良時代渡来説」を駆逐します。1981年以降になると、四国新聞には「空海説」しか出てこなくなりました。四国新聞も「空海持ち帰り説」の立場に立ったと云えます

 20世紀末に綾南町が「智泉大徳説」を持ち出した
このような中で、1998年4月に綾南町(現綾川町)が「道の駅滝宮」と「綾南町うどん会館」をオープンさせます。その新聞広告には、次のように記されています。

「空海から麺作りを教わっ智泉大徳が、讃岐滝宮の宮使をしていた父にうどんを振る舞い、そこから滝宮が、うどん発祥の地となった」

これも先ほど見たように智泉大徳が父の死に目に帰ってきたという伝説に、うどんをご馳走したということが接ぎ木されています。文章中には具体的な出典等ははっきりと示されていません。この主張の裏付けとなる論文を探していますが未だに見つかりません。自らの望む歴史的な評価や業績を、史料の裏付けなく語る説は「俗説」です。ここでは、讃岐うどんの起源については「奈良時代説」→「空海説」→「智泉大徳説」と移行してきたことを押さえておきます。
 最後に、以前にお話した讃岐のうどんの広がりについて、まとめておきます。
讃岐でのうどん普及

①中世までに、切り麺は存在しなかった。うどんは、古代にはなかった。
②現在のようなうどんの原形が登場するのは近世になってからで、その背景には切り麺と出汁としての醤油の登場があること。
③絵図からも、うどん屋や蕎麦屋の登場は、近世以降であることが裏付けられる。
④寺院で生まれたうどんが、近世初頭に都市のファーストフードとして屋台で食されるようになる。
⑤それが讃岐で最初に見られるのは、18世紀初頭の金毘羅大祭屏風図で、そこには三軒のうどん屋が描かれている。これが讃岐うどんの最も古い史料である。

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
金毘羅大祭絵図に描かれた金毘羅門前町のうどん屋(18世紀初頭)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献は「日本全国うどんの起源説 四国学院大学インタレスト 2024年 通巻38号」
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 讃岐では宵法事や膳部(非時)にうどんやそばなどの麺類が出されています。私の家でも、二日法事の時には、近所にうどんを配ったり、法事にやってきた親族には、まずうどんが出されて、そのあと僧侶の読経が始まりました。法事に、うどんが出されるのは至極当然のように思っていましたが、他県から嫁に入ってきた妻は「おかしい、へんな」と云います。

坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
            青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家
 それでは讃岐にはいつ頃から法事にうどんが出されるようになったのでしょうか。それを青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家の記録で見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

近世前期まで、うどんは味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、うどんも醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。これは、そばも同じです。醤油の普及が、うどんの消費拡大に大きな役割を果たしたことを押さえておきます。

歴史的な文書にうどんが登場するのを見ておきましょう。

①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」で、次のように記します。

「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」

⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。
   ここでは、うどんが登場するのは、中世以降のことであることを押さえておきます。 つまり、うどんを空海が中国から持ち帰ったというのは、根拠のない俗説と研究者は考えています。

1 うどん屋2 築造屏風図
築造屏風図のうどん屋
讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、三軒のうどん屋の看板をかかげられています。
1 金毘羅祭礼図のうどん屋2
金毘羅祭礼図屏風のうどん屋

中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
         金毘羅祭礼図屏風のうどん屋
藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
1 うどん屋の看板 2jpg
 讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。
「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。

1うどん


 江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。
氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)などは、田植えの終わる「足洗(あしあらい)」の御馳走として各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れて、つけ汁につけて食べたり、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。

 坂出青海村の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されています。

慶応4年の13回忌の法事には「温飩粉二斗前」(20㎏)が準備されています。
明治29年(1896)東讃岐の仏事史料には、次のように記します。

うとん 但シ壱貫目ノ粉二而 玉六十取 三貫目ニテ十二分二御座候

ここからは一貰目(3,75㎏)の小麦粉で60玉(一玉の小麦粉量63㌘)、3貫目の小麦で180玉を用意しています。渡辺家が、準備したうどん粉は20㎏なので約330玉が作られた計算になります。そばも、そば粉一斗を同じように計算すると約260玉になります。うどんとそばを合計すると590玉が法事には用意されていたことになります。参列者全員にうどんが出されていたのでしょう。
 その前の文久元年(1861)の仏事では、「一(銀) 温飩粉  二斗五升 但揚物共」とあるので、揚物の衣用の温鈍粉を除いても約300玉以上のうどんが作られ、すし同様に一部は周辺の人々への施与されています。現在のうどんは一玉の重さが200㌘で、約80㌘の小麦粉が使われています。そうすると幕末や明治のうどん玉は、今と比べると少し小振りだったことになります。
  ここでは幕末には、うどんやそばなどの麺類が、大庄屋の法事には出されるようになっていたことを押さえておきます。これが明治になると庶民にも拡がっていったようです。

次にうどんの薬味について見ておきましょう。
胡椒は買い物一覧に、次のように記されています。
「一 (銀)二分五厘(五分之内)温飩入用 粒胡椒
「一(銀)五分 粒胡椒代」
などの購人記録があります。胡椒は江戸初期の「料理物語(寛永20(1643年)」にも「うどん(中略)胡椒  梅」と記されています。胡椒と梅は、うどんの薬味として欠かせないものであったようです。しかし、胡椒は列島は栽培出来ずに輸人品であったので高価な物でした。そのため渡辺家では、年忌などの正式の仏事では胡椒を用いますが、祥月など内々の仏事には自家栽培可能で安価な辛子を使っています。仏事の軽重に併せて、うどんの薬味も、胡椒と辛子が使い分けられていたことを押さえておきます。
薬味じゃなく、メインでいただこう◎『新生姜』の美味しい楽しみ方 | キナリノ
 
現在のうどんの薬味と云えば、ネギと生姜(しょうが)です。
8世紀半ばの正倉院文書に、生姜(しょうが)は「波自加美」と記されます。生姜は、古代まで遡れるようです。江戸時代の諸国産物を収録した俳書『毛吹草』(正保2(1638)年)には、地域の特産物として、生姜が「良姜(伊豆)、干姜(遠江・三河、山城)、生姜(山城)、密漬生妾(肥前)」として記されています。また『本朝食鑑』(元禄10(1697)は、生姜は料理の他に、薬効があって旅行に携行するとこともあることが記されています。
 生姜は近世の讃岐では、階層を越えてよく使われた薬味でした。
丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)にも、生姜は出てきます。生姜の料理への利用については、鮪、指身などの生物料理に「辛味」「けん」として添えられました。  以上から生姜は、日常的な薬味として料理に使われていたようです。それがうどんの薬味にも使われるようになったとしておきます。
以上をまとめておきます
①近世前期までは、うどんは味噌で味をつけて食べていた。
②だし汁をかけて食べるようになるのは、醤油が普及する江戸時代中期以後のことである。
③『金毘羅祭礼図屏風』(元禄時代(17世紀末)には、三軒のうどん屋が描かれているので、この時期には、讃岐にもうどん屋があったことが分かる。
④江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になり特別な食べ物になっていく。
⑤大庄屋の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されている。
⑥明治になると、これを庶民が真似るようになり、法事にはうどんが欠かせないものになっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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