瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐うどんの歴史

前回は「空海が讃岐うどんを中国から持ち帰った」「それを智泉大徳が学び、讃岐に伝えたものが拡がった」という説が俗説であることを見ました。それでは、讃岐うどんが庶民のものとなった道筋とは、いったいどんなものだったのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。

饂飩(うどん)のルーツについては諸説ありますが、鎌倉時代に禅宗僧侶が持ち帰り、寺院で点心として僧侶が食べらていた特別食であったという点では、研究者の見解は以下のように一致します。

 うどん=不屯(ぶとう)起源説

「うどん=ほうとん起源説」

史料的にも以下のように饂飩の起源が遡れるのは中世までで、空海の時代までは遡れません。

饂飩が登場するのは中世以後

禅宗寺院での饂飩は、その他の宗派の寺院へも広がり、僧侶達が点心として饂飩をたべる風習が中世後期には各地に拡がっていたことを押さえておきます。
さて、それでは讃岐には饂飩はいつごろ伝わっていたのでしょうか?
神仏分離前の金光院日帳 宝暦11(1751)年(町史ことひら3 259P 年中行事)には次のような記事が載せられています。
 九月一日 今朝四時から恒例の御参籠。
「弘化行事」 神前で修法一座開白のあと、籠所へ入られる。追って所まで脇坊中法中そろってあいさつに参上する。(中略)
  九月四日 参籠の中日なので僧へ饂飩を下さる。
九月五日 八日の潮川神事また九日・十日十一日の頭屋へお出ましのお供を決められる。

「僧へ饂飩を下さる」からは、9月の参籠の中日には、山上の社僧たちに饂飩(うどん)が振る舞われていることが分かります。ただ、「僧へ饂飩」とあるのでスタッフ全員にはではなく、社僧のみに出されていたようです。
院主の法要の際にも饂飩が出されていたようです。
暮れ時から始まる宵(前夜)法要を見ておきましょう。法要の場所は、表書院での法要後の食事について次のように記されています。

お上(金光院院主)は上段の間の紙を立て切った所でお勤をされたが、法事の席へは出ず、終わってから僧に「太儀に存じます」とあいさつされた。今夜は客僧衆また院内の出家まで、夜食に饂飩・吸物・笠の飯を二菜で出す。ただし酒は出さず、客僧のうち特に望まれる人には見合わせに出すことにする。

 ここでは夜食に饂飩が出されています。その支給範囲は「客僧衆また院内の出家まで」と限定されています。ここからは金毘羅大権現の別当寺である金光院では、特別のハレの日には饂飩が出されていたことが分かります。讃岐における饂飩の普及は、有力寺院での法要などで出されたことに始まるとされますが、それを裏付ける史料です。以上をまとめておくと
A 饂飩は、晴れの日の特別食で、いつでも食べれるものではなかったこと
B 食べれる人は僧侶などの特別な身分の人に限られていたこと
このような金比羅山上で僧侶達が食べていた饂飩を庶民も食べるようになります。
18世紀初頭に描かれた金毘羅大祭絵図には、門前町に三軒のうどん屋が描かれています。

木戸前後
           元禄末期に描かれた金毘羅大祭絵図に登場するうどん屋

これが讃岐での饂飩屋の最初の絵図資料になるようです。
近世前期まで、うどんは味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、うどんも醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。これは、そばも同じです。醤油の普及が、うどんの消費拡大に大きな役割を果たしたと研究者は指摘します。現在のようなうどんが登場するのは江戸時代半ばであることを押さえておきます。

さらに、江戸後期になるとうどんは庄屋などの富裕層の法事などにも出されるようになります
坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
坂出青海村の大庄屋渡辺家

渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されています。
慶応4(1868)年の13回忌の法事には「温飩粉二斗前」(20㎏)が準備されています。
明治29年(1896)の東讃岐の仏事史料には、次のように記します。

うとん 但シ 壱貫目ノ粉二而 玉六十取 三貫目ニテ十二分二御座候

ここからは一貰目(3,75㎏)の小麦粉で60玉(一玉の小麦粉量63㌘)、3貫目の小麦で180玉を用意しています。渡辺家が、準備したうどん粉は20㎏なので約330玉が作られた計算になります。そばも、そば粉一斗を同じように計算すると約260玉になります。うどんとそばを合計すると590玉が法事には用意されていたことになります。参列者全員にうどんが出されていたのでしょう。
その前の文久元年(1861)の仏事では、「一(銀) 温飩粉  二斗五升 但揚物共」とあるので、揚物の衣用の温鈍粉を除いても約300玉以上のうどんが作られ、すし同様に一部は周辺の人々への振る舞われています。現在のうどんは一玉の重さが200㌘で、約80㌘の小麦粉が使われています。そうすると幕末や明治のうどん玉は、今と比べると少し小振りだったことになります。ここでは幕末には、うどんやそばなどの麺類が、大庄屋の法事には出されるようになっていたことを押さえておきます。これが明治になると庶民にも拡がっていったようです。」

江戸時代後半になると、うどんは庶民も食べるようになります。
その背後には二毛作で小麦が作られるようになったこと、水車が急速に普及したことなどがあったようです。水車の普及で自分の田んぼで収穫した小麦を、小麦粉にすることが容易になります。手に入れた小麦粉で何を作るかという時に、農民達は庄屋さんや富農と同じように法要に、饂飩をうって供するようになります。さらに特別な日にも饂飩を食べるようになります。讃岐では、うどんはハレの日の食べ物であったことを押さえておきます。
 氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)は、田植えの終わる「足洗(あしあらい)」の日でした。この日の御馳走として農家では饂飩が作られるようになります。
「四国新聞2007年7月10日 21世紀へ残したい香川」には、次のように記されています
  「『半夏半作(はんげはんさく)』いうてな。昔は半夏(七月二日ごろ、今年は一日)までに田植えを終えるのが目安だった。それを過ぎると稲の育ちが悪うなって、秋の収穫が減るといわれた…」
夏至から数えて十一日目。忙しかった麦刈りや田植えを済ませ、農家の人が半日、地域によっては一日ゆっくり骨休めするのが半夏(半夏生)と、綾南町滝宮の大熊喩さん(83)。
「毎年、半夏の時分になると、新麦を持ち込んでくる農家が増え、そりゃあ、忙しかった」。
府中ダム建設で立ち退く昭和三十九年まで、綾川べりで最後まで水車を回し続けた大熊さんはそう言って懐かしむ。新しい麦で打つ打ちたてのうどんは、張りと風味があって、白く輝いていた。
「半夏は『半夏じまい』言うて、阿波から讃岐山脈を越えてやってきた借耕牛(かりこうし)や田植えの早乙女さんに田植え賃を支払う日だったのを知ってますか」。
特別な日の味から、日常の味となったうどん。
「半夏から盆にかけて打つ塩気の効いた、うどんがうまいんじゃ。昔はうどんにも、それぞれの家庭の味があったのう」。久々に麺棒(めんぼう)を握った大熊さんの手に力が入った。

こうしてうどんは「特別な日の味から、日常の味」となり、庶民に親しまれるものとして定着していったのです。

以上をまとめると次のようになります。
讃岐でのうどん普及

庶民にとっては、江戸時代には僧侶や金持ちのたべる憧れの食べ物だったのです。それが身分が取り払われ、誰でもが食べれるようになります。すると、自分の家の法要に取り込み、そして特別な日にはうどんを食べるという風習が定着していったと私は考えています。
 そのため各家では、法事の前では各家でうどんがうたれていました。そのためそれぞれの家の個性がありました。私の家にも、うどん制作一式の道具が今でも納屋に眠っています。祖母がなくなってからは使われたことはありません。そして、いまではうどん玉は、お店から買ってきます。しかし、小さい頃からうどんを食べたという体質は失われていません。うどん好きは、讃岐人のDNAとして私の中にも組み込まれています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 讃岐では宵法事や膳部(非時)にうどんやそばなどの麺類が出されています。私の家でも、二日法事の時には、近所にうどんを配ったり、法事にやってきた親族には、まずうどんが出されて、そのあと僧侶の読経が始まりました。法事に、うどんが出されるのは至極当然のように思っていましたが、他県から嫁に入ってきた妻は「おかしい、へんな」と云います。

坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
            青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家
 それでは讃岐にはいつ頃から法事にうどんが出されるようになったのでしょうか。それを青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家の記録で見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

近世前期まで、うどんは味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、うどんも醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。これは、そばも同じです。醤油の普及が、うどんの消費拡大に大きな役割を果たしたことを押さえておきます。

歴史的な文書にうどんが登場するのを見ておきましょう。

①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」で、次のように記します。

「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」

⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。
   ここでは、うどんが登場するのは、中世以降のことであることを押さえておきます。 つまり、うどんを空海が中国から持ち帰ったというのは、根拠のない俗説と研究者は考えています。

1 うどん屋2 築造屏風図
築造屏風図のうどん屋
讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、三軒のうどん屋の看板をかかげられています。
1 金毘羅祭礼図のうどん屋2
金毘羅祭礼図屏風のうどん屋

中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
         金毘羅祭礼図屏風のうどん屋
藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
1 うどん屋の看板 2jpg
 讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。
「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。

1うどん


 江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。
氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)などは、田植えの終わる「足洗(あしあらい)」の御馳走として各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れて、つけ汁につけて食べたり、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。

 坂出青海村の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されています。

慶応4年の13回忌の法事には「温飩粉二斗前」(20㎏)が準備されています。
明治29年(1896)東讃岐の仏事史料には、次のように記します。

うとん 但シ壱貫目ノ粉二而 玉六十取 三貫目ニテ十二分二御座候

ここからは一貰目(3,75㎏)の小麦粉で60玉(一玉の小麦粉量63㌘)、3貫目の小麦で180玉を用意しています。渡辺家が、準備したうどん粉は20㎏なので約330玉が作られた計算になります。そばも、そば粉一斗を同じように計算すると約260玉になります。うどんとそばを合計すると590玉が法事には用意されていたことになります。参列者全員にうどんが出されていたのでしょう。
 その前の文久元年(1861)の仏事では、「一(銀) 温飩粉  二斗五升 但揚物共」とあるので、揚物の衣用の温鈍粉を除いても約300玉以上のうどんが作られ、すし同様に一部は周辺の人々への施与されています。現在のうどんは一玉の重さが200㌘で、約80㌘の小麦粉が使われています。そうすると幕末や明治のうどん玉は、今と比べると少し小振りだったことになります。
  ここでは幕末には、うどんやそばなどの麺類が、大庄屋の法事には出されるようになっていたことを押さえておきます。これが明治になると庶民にも拡がっていったようです。

次にうどんの薬味について見ておきましょう。
胡椒は買い物一覧に、次のように記されています。
「一 (銀)二分五厘(五分之内)温飩入用 粒胡椒
「一(銀)五分 粒胡椒代」
などの購人記録があります。胡椒は江戸初期の「料理物語(寛永20(1643年)」にも「うどん(中略)胡椒  梅」と記されています。胡椒と梅は、うどんの薬味として欠かせないものであったようです。しかし、胡椒は列島は栽培出来ずに輸人品であったので高価な物でした。そのため渡辺家では、年忌などの正式の仏事では胡椒を用いますが、祥月など内々の仏事には自家栽培可能で安価な辛子を使っています。仏事の軽重に併せて、うどんの薬味も、胡椒と辛子が使い分けられていたことを押さえておきます。
薬味じゃなく、メインでいただこう◎『新生姜』の美味しい楽しみ方 | キナリノ
 
現在のうどんの薬味と云えば、ネギと生姜(しょうが)です。
8世紀半ばの正倉院文書に、生姜(しょうが)は「波自加美」と記されます。生姜は、古代まで遡れるようです。江戸時代の諸国産物を収録した俳書『毛吹草』(正保2(1638)年)には、地域の特産物として、生姜が「良姜(伊豆)、干姜(遠江・三河、山城)、生姜(山城)、密漬生妾(肥前)」として記されています。また『本朝食鑑』(元禄10(1697)は、生姜は料理の他に、薬効があって旅行に携行するとこともあることが記されています。
 生姜は近世の讃岐では、階層を越えてよく使われた薬味でした。
丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)にも、生姜は出てきます。生姜の料理への利用については、鮪、指身などの生物料理に「辛味」「けん」として添えられました。  以上から生姜は、日常的な薬味として料理に使われていたようです。それがうどんの薬味にも使われるようになったとしておきます。
以上をまとめておきます
①近世前期までは、うどんは味噌で味をつけて食べていた。
②だし汁をかけて食べるようになるのは、醤油が普及する江戸時代中期以後のことである。
③『金毘羅祭礼図屏風』(元禄時代(17世紀末)には、三軒のうどん屋が描かれているので、この時期には、讃岐にもうどん屋があったことが分かる。
④江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になり特別な食べ物になっていく。
⑤大庄屋の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されている。
⑥明治になると、これを庶民が真似るようになり、法事にはうどんが欠かせないものになっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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