江戸時代の寛永年代に始まった巡見使制度のことを研究者は次のように評します。
将軍の全国統治権に基づき、諸大名の行政を査察する権限の行使

初代家康は1615(元和元)年11月、諸国に監使を派遣しています。巡見使としては家光が1632(寛永十)年に五畿七道へ派遣したのが初めのようです。その後、将軍の代替りごとに派遣されるのが例となります。巡見使は3人セットでした。一人では各藩からの贈賄等によって事実を曲げて報告する恐れもあります。そのため幕府上級旗本三人を一組セットとして各地方に派遣しました。

巡見使は主席が2000石、以下1000石位までの上級旗本から任命され、その巡見使には各々家老、取次役、右筆等30名程度の家来(幕府扶持人も加わる)で編成されていました。そのため3人が引き連れてくる一行は百人程度の大人数になります。
 巡見使に任命された旗本や御家人は、時代が下がるのにつれて、定められた家臣や従者を常備している者が少なくなります。そのため命令を受けると、大急ぎで日入稼業者を通じて従者を雇い、十分な訓練もできないままで出発することになります。しかも、巡見使の旅は、数か月に及ぶ長い行程であったので、出来の良くないにわか従者などは旅先でトラブルを起こす事も多かったようです。



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巡視者の質問に対する事前問答集

 巡見使の来訪は受入側の藩にとっては一大事です。何日もかけて藩を隅々まで見られたのでは、藩の内情がすべて明らかになってしまいます。事実を隠蔽していることが分かった場合は、命取りになってしまう場合もあります。従って質問に対する答弁まで考えて、「事前問答集」を作成すなどするとともに、眼に触れて欲しくないところは巡見をさせず、御馳走攻めにしておくことにも心掛けるようになります。
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「諸大名の行政を査察」するためにやてきた幕府の巡見使を、髙松藩はどのようにして迎えていたのでしょうか。
これについては、当事者である村々の庄屋が残した史料が、各所に残っているようです。それらの史料で、巡見使受入マニュアルがどのように整備されていたのかを見ていくことにします。テキストは「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」です。

最初に幕府が巡見使に与えていた心得「巡見使の守るべき条々」を見ておきましょう。
一、今度国廻りの刻 御咸光を以て何事によらず公仕る間敷く候 勿論召連れ候下々まで堅く申付くべき事
一、召連れの下々喧嘩口論仕るにおいては 双方これを誅罰すべし 荷担せしむる者共は本人同前たるべき事
付けたり 所の者の申事仕るにおいては その領主並に代官らに相談の上理非をわかち有様に申付くべき事
一、竹木一切代採べからず
付けたり 押買狼藉すべからざる事
一、駄賃宕賃定めのごとく急度これを相渡すべし 代物これを出さざれば人馬使ふべからぎる事
右この旨を相守るべきもの也
    寛永十年 二月六日
意訳変換しておくと
一、この度の諸国巡検については、何事についても幕府の咸光を後ろ盾に、威張り散らすようなことのないように、召連れていく従者にも言い含めておくこと。
一、従者と現地の人足たちとの喧嘩口論が起きた場合には、喧嘩両成敗で双方を誅罰すること。喧嘩に荷担したものたちも本人同様である。
一 現地の者からの直訴があった時には。領主や代官らに相談した上で理非を極めた上で措置する事。
一、従者達の竹木代採は一切認めない。押買狼藉も許さない。
一、駄賃などの運送費や宿泊費は、決められた額をきちんと支払う事。代金を支払わなければ人馬使ふことは許さない。
右このし口を相キるべきもの也
寛永十(1632)年 二月六日
幕府としては、巡見使の横暴を許さないことを示す文面になっています。しかし、実際に行われているので禁止令が出るのです。「禁止令は、その行為が行われていたと思え」は、歴史学のイロハです。従者と現地の人足などとの喧嘩や、直訴についてのトンチンカンな対応ぶり、竹や木材の勝手な伐採、駄賃や運送費の不払いなどが、初期の時期からあったことがうかがえます。
 しかし、幕府としては巡見使派遣に際しては、将軍の成光をもって横暴に流れたりしないように指導していたことは分かります。例えば将軍吉宗などは巡見使に大きな期待を持っていた節があります。実際、御料(幕府の直轄地)を巡視した報告書をもとに、不正な代官を処分したり、機構の見直しを行ったりもしています。しかし、各藩の情勢を観察する諸国巡見使の報告については、幕政を進める上で参考となる情報が含まれていても、領主権の尊重という建前もあるので、藩政にまで立ち入ることは難しかったようです。
 享保以降も、将軍の代替わりごとに巡見使の派遣は続けられます。
しかし、次第に形式化して単に将軍の威光を知らしめる為だけのものになっていきます。そして、安政の頃になると、巡見使を受け入れる各藩から、出費が多い事を理由に派遣延期の願が出されるようになります。幕府もこれを認めざるを得なくなり、天保の巡見使派遣を最後に、巡見使の派遣は取りやめになります。
 

讃岐にやってきた巡見使のうち、史料によって確かめられるのは次の通りです。

巡視使来讃一覧表
歴代巡視使一覧

2回目の巡見使派遣は1667(寛文七)年でした。この時には、前回に出てきた問題を踏まえて、更に更にこまごまとした条目を定めて巡見使に守らせようとしています。また、受入側の諸大名には、巡見使を迎える際には、質素にするように命じています。そして、調査質問事項として次のような項目が追加されています。
一、公領私領各所の市井村里政蹟の可否をたづね 天主教停禁の事常に起りなくかするや否や並に盗賊捜索の様その土人に尋ね問うべし
一、何事によらず近年抽税を出さしむるにより その地諸物の価時貴し 人々難困するや また公の政法と変りたる事あるや
一、諸物を事処より買置て ひとりその利をむさばる者あるや 金銀米銭の時価を問うべし
一、許状一切受瑕るべからず 高札の写しを立てざる地はこの後これを立てしむべし もし年経て文字見えわかざるは改めてせしむべし
意訳変換しておくと
①、幕府領や大名領各所の町や村の様子を調査し、切支丹禁止以後に適切な措置がとられているかどうか、盗賊捜索状況などについて、現地住民に尋ね問うこと。
②、近年の間接税課税によって、物価急騰で人々が困っているという。幕府の政策と現地の政策で異なるろころがあるのか調査すること
③一、「買い占め・売り惜しみ」などによって利益を上げている者がいないか、現地の金銀米銭の時価を調べること
④、直訴状はなどは一切受取ってならない。 幕府の命令などを掲げる高札がきちんと建てられているかどうか、しかるべき所に高札が建てられてない場合には指導すること。もし年経て文字が見えにくくなっている場合には、新しくさせること。
①の背景には、1661年に幕府は寺請制度によって「宗門人別帳」を作成することを各藩に命じていたことがあるようです。そして1671年には全国で宗門改めが行われるようになります。そのための「地ならし政策」を推し進めている最中だったので、巡見使視察を通じて各藩に整備に向けた圧力かけたようです。
②③については、物価急騰への対応調査のようです。
④については、巡見使に対しての直訴が多かったのでしょう。それを受け取ればいろいろな問題を幕府が抱え込むことになります。それは各藩で対応解決すべきことなので、幕府は以後はこれを押し通すようになるようです。


受入側の地方の代官や領主に対しては、次のように通達しています。
一、このたび諸国式況令ぜらるヽといへども地図城図制することあるべからず
一、人馬戸口査校に及ばず 御朱印券の外に用ふる人馬は定制の直銭をとり 渋滞なく出すべし
一、 いずれの地に至るとも 使介脚力贈童一切上むべし
嚮導者なくてかなはざる地はその事告げやるべし
一、道路清掃すべからず 但し有り来りの道路橋梁往還の便よからぬ所は修むべし
一、投宿の駅舎造営すべからず 新に茶亭を設くることあるべからず
一、巡視のともがら投者の駅々にて 米豆その郷価をもって売るべし その他の諸物もこれに同じかるべし
一、各駅の旅舎筵席を新にすべからず 古きを用ふることも苦しからず 浴室厠かねて設け置かざる所はいかにも軽く造るべし 盤嗽 栗炊の具古くとも苦しからず もし設けざるは軽く特へ置くべし
一、旅宿とすべき家一村に三戸なきは寺院またほ別村にても苦しからず
  意訳変換しておくと
①今回の巡見使受入について、新たに国地図や城図を作成する必要はない。
②人馬の戸口調査を行う必要もない。御朱印券の外に使用する人馬については決められた額を支払うこと。
③巡検視察地がどんな場所であろうとも、巡検者に補助人をつける必要はない。もし嚮導者がなくては行けないところがあれば、その旨を事前に申し出る事。
④道路は清掃する必要はない。但し、橋梁など往還の便がよくないところは修理しておく事
⑤宿泊所や駅舎などを新たに造営する必要はない。 新しく茶亭を設置する事のないように。
⑥巡視従者が米豆を買い求める場合には、現地時価で売ること。その他の諸物も同様である。
⑦各駅の旅舎の新設は認めない。今まで通りの古い施設で充分である。浴室や厠がない場合は、最低限度の施設にすること。
⑧宿泊すべき家が一村に三戸用意できない場合は、別村に分宿も可である。
ここからは、ここに書かれているような事が前回にはあった事がうかがえます。同時に、藩の出費を抑え、沿道の人々に迷惑をかけないよう幕府中枢部の幕臣達が心を用いていることも分かります。

巡見使一行は、どれくらいの人数を引き連れてやってきたのでしょうか?
1838(天保九)年にやってきた巡見使の場合は次の通りです。

巡見使構成表天保

知行1500石の平岩七之助が、用人黒岩源之八・高橋東五郎以下30人、
知行千石の片桐靭負が、用人土尾幸次郎。橋部司以下30人、
知行500石の三枝平左衛門が、用人猪部荘助。小松原尉之助以下27人
以上の三班で、総員90人になります。この他に平岩七之助の組に5人、片桐靭負の組に4人、三枝平左衛門の組に5人、計14人の者が同行して、宿舎を共にしていますが、この者がどういう立場の者であったかは分かりません。召連人数は、髙松藩に連絡しています。

 巡見使は幕府の御朱印や具足一両のように権威を示すものや、実務で必要な多くの荷物を運びながら移動しました。巡察を受ける側でも用意した多数の道具を各村の休泊所へ持ち送りました。そのため御朱印台、塗り三宝、熨斗、硯など、さまざまな道具が人足によって運ばれた事が残された一覧表から分かります。
 そのため各郡の大庄屋に対して、次のような「人足依頼状」が出されています。これが各村の庄屋たちに回覧され、それを書き留めた写したものがまんのう町岸上の奈良家に、次のように残っています。


巡視使要求人足数 平岩
巡見使平岩七之助が必要とした人夫・馬の一覧表
これは平岩七之助の用心から出された必要人足分一覧です。要求された合計数は人足34人 馬13頭です。朱印人足・馬が規定された人数で、賃人足・馬というのは、賃金を支払って雇うものという意味のようです。受入側の大庄屋は、これに基づいて他の二人の巡視役分についても庄屋と協議しながら員数配分を行う事になります。つまり、全部で120人程度の人夫が必要だったことがここからは分かります。
 巡見使は三組に分かれて、一日交代で先導隊を交代し、それぞれ具足櫃(甲冑入)、行李を携行し、槍を立てて進むという作法どおりの行列を組んで行動しています。約百人の一行が、120人の人足に荷物を持たせ、120人の世話役を務める村役人の説明を受けながら、数棟の騎馬役に守護されながら御朱印を奉じて進むという賑々しい行列です。大名行列的なイメージです。しかも、遊行の旅でなく、駕籠の中から周囲の山河を視察し、見物人の状況から民情を判断し、村役人との質疑応答によって資料を集め、江戸に帰ると詳細な報告書を提出しなければならなかったようです。

巡見使は讃岐を、どんなルートで視察したのでしょうか?
 五畿内と四国に派遣された巡見使は、讃岐が最後の巡見先で伊予から西讃に入って、東讃から抜けて行くというルートがとられています。先ほど見た奈良家文書には、1838(天保九)年の讃岐順路と宿泊地が次のように記されています。

巡視使讃岐視察ルート
1838(天保九)年の巡見使の讃岐順路と宿泊地
6月18日  伊予から讃岐に入り、豊田郡を巡見して観音寺村で泊、
  19日  三野郡を巡見して那珂部丸亀城下に泊り
  20日  那珂郡を巡見して宇多津村に泊り、
    21日  塩飽本島泊
    22日  鵜足郡宇多津
以後、阿野郡、香川郡、小豆郡を巡見して6月末日には大川郡に入ります。そして、讃岐巡視が終わると江戸への帰路につきます。江戸帰還後の7月26日に登城拝謁、8月20日に改めて将軍に各藩の情況を報告し、お尋ねに答えるのが常例だったようです。
巡見使 讃岐那珂郡ルート
巡見使の那珂郡巡視ルート
 丸亀平野での視察ルートをもう少し詳しく見ておきましょう。
 那珂郡の巡見について、前日の丸亀に泊まった一行は、往路は金昆羅・丸亀街道を北から南に上がり郡家、与北、公文、高篠、苗田を経て金毘羅に入ります。その里程は3里19丁と記します。そして満濃池まで足を伸ばしています。満濃池のために幕領と池の御領が置かれた意義と、満濃池の活用状況を目にしておく必要があると考えていたのかも知れません。満濃池から宇多津への往路は、金毘羅から高篠を経て、宇多津街道を北に進んでいます。その里程は3里23丁とあります。これは、髙松藩の那珂郡や阿野郡の村々の宇多津にある米蔵への年貢米輸送ルートでもあったことは、前回お話しした通りです。

今回はこの辺りまでにします。以上をまとめておくと
①江戸幕府は将軍代替わり毎に、巡視使団を全国に派遣し、民情視察などを行い報告させた。
②その規模は巡視使1人に従者30程度で、3人の従者合計で約100人規模になった。
③受入側は、各藩の大庄屋や庄屋たちが対応し、求められた人馬の提供・配置を行った。
巡見使と各藩役人との接触は、入国と出国の時の奉行・郡奉行・代官の挨拶だけでした。道筋での説明、宿舎の接待等は、すべて大庄屋を中心とした各郡の村役人に任されていました。藩の役人は、問題の起こった時に備えて、待機するだけだったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P