瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の佐伯氏

 
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11世紀の初めに藤原道長が
この世をば我世とぞ思う望月の かけたることもなしと思えば
 と、藤原家の威勢を詠んだ同じ年の五月十三日に、善通寺の政安という僧が、四ヶ条の請願を京都の東寺に提出しています。その請願書から当時の善通寺の姿がぼんやりとみえてきます。最初に
「讃岐国多度郡善通寺 寺司解し申し請う(お願い申し上げる)本寺裁の事」
とあります。ここからは東寺が善通寺の本寺となっていることが分かります。東寺は弘仁十四年(823)に嵯峨天皇より空海が賜わり、高野山とならんで真言密教の根本道場とした寺です。京都駅の南西にあり、新幹線からも日本一の高い五重塔が見えますし、「見仏記」ファンには見逃すことの出来ない仏さんの宝庫です。どうして善通寺が当時の末寺になったのかは、よく分からないようです。まあ、東寺は空海が真言密教の根本道場として定めた寺ですし、善通寺はその大師が誕生した寺ですから、本末関係が生まれても不自然ではないでしょう。
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 善通寺は官寺化されていた。         
政安の東寺への請願書の第二条には、
  「右の寺(善通寺)代々の国掌御任の中、二十八箇寺の内として、国定によって公役を勤行す」
とあります。この頃は、国司が定めた公役を行う寺院が讃岐には28あり、善通寺もその一つだと言っています。古代の寺院は鎮護国家ですから、その使命は、国家の安泰と繁栄を祈ることです。そのため聖武天皇は奈良の都に大仏を建立し、全国に国分寺と国分尼寺を設置しました。天皇や国家によって建てられ国家の保護をうける寺院を官寺といいます。平安時代になると、国分寺だけでなく、地方豪族が建てた私寺が官寺に準ずる地位を与えられ、鎮護国家の祈祷を命じられる例が多くなりました。これを定額(じょうがく)寺というようです。
 善通寺は、初めは空海の生家・佐伯氏が建立した氏寺でした。
それを空海が整備再建したとされています。つまり、佐伯氏の私寺としてスタートした善通寺が、この時点では準官寺の扱いを受けるようになっていたようです。これには本寺の東寺の強力な後押しがあったのかもしれません。平安時代の中期から後期にかけて、政界や宗教界に空海の親戚筋の人が出ていることからも善通寺は大きな力を持って活動していたことがうかがえます。
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「国定によって公役を勤行」とありますがが、課せられた「公役」とはどんなものだったのでしょうか?
まずは、「国家安泰、鎮護国家」の祈祷を勤行することです。善通寺も、平安時代や鎌倉時代の文書に、
「就中(とりわけ)、当国殊に雨を祈らしめ給うに、此の御寺の霊験掲焉なり(いちじるしい)。掲って代々の国吏皆帰依致さしむ」
「代々の国掌(国司)御祈祷の拗(その場所)、国土人民福田成熟の霊験地なり。これに由って、国郡共に仏事ならびに修理を勤仕せしめ給う所なり」
といった文言が見えます。ここからは讃岐国内の祈雨や豊作の祈祷を行って霊験があり、国司や民衆の信仰をうけていたと自ら述べています。
 この公役には、他にもいろいろな雑役が含まれていたようです。善通寺はそれらの負担を「本寺の勢いに依って」免除されていました。ところが、去年(寛仁元年)、国司がほかの寺々と同じように雑役を課してきたので、もとのように免除になるように本寺の東寺の力で取り計らってもらいたいというのが、政安の申請書の2番目のお願いです。
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中央の有力寺院と地方寺院が本末関係を結んだ場合、プラスの面とマイナスの面があったようです。
 プラスの面をあげれば、この場合のように本寺の力で、租税免除などの特権を手に入れたり、国司の横暴を排除することもできる場合がありました。地方の寺院は、課税やその他の点で国司の支配を強く受けます。しかし国司は中央政府から与えられている権限によって支配しているわけですから、地方寺院が直接国司と交渉しても、その支配を変えさせたり排除したりすることはできません。やはり朝廷にも大きな影響力をもっている東寺や興福寺などの大寺院に頼って、中央政府-国家に働きかけてもらうのが、要求を実現する早道だったようです。善通寺の要請の多くが、朝廷や国に対してではなく、まず本寺の東寺に宛てて出されているのは、そんな事情があるようです。

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 東寺への申請書の第一条と第三条には善通寺の寺領のことが記されています。
当時の善通寺の寺領は、多度郡と隣の那珂郡に散らばっていたようです。これらの寺領がどのようにして成立したのかは分かりません。考えられるのは建立した佐伯一族からの寄進です。寄進された土地は、もともとは租税がかかっていましたが、定額寺に認められ、国の保護を受け、仏事や修理のために寺領の租税が免除されるようになっていたようです。
当時、善通寺は寺領から年貢として二〇石あまりを徴収していたことが史料から分かります。ところがこの政安の申請書によると、
寺領を耕作している農民たちは、年貢を納めなければならないという心がない。ある農民などは、一町の田地を耕作していながら地子は全く納めていないという有様である
と記しています。
 善通寺領の田畠の耕作は、寺直属の下人に農具を与えて耕作をさせるというような直接経営ではなかったようです。寺領の周辺に住む農民に田地を預けて作らせる預作(小作のこと)だったようです。そのため農民たちは国衛領の農民で、公領の田地を耕作しており、そのかたわら善通寺の寺領も小作していたのです。その結果、荘園領主直属の小作人ではなく、自立性の強い農民だったことがうかがえます。善通寺領への年貢を、なかなか納めなかったのもそんな背景があったようです。

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善通寺の寺司である政安の申請状は、第四条で次のように請願しています。
善通寺は讃岐国内で一、二と言われる寺で、建立の堂塔房舎の景観は他の寺より勝っている。が、田畠の地子が乏しいため、雑役を勤める下人は一人もいないという実状である。そこで本寺から国に頼んで、浮浪人を二〇人ほどを寺に下し給わって寺の修理や雑役に使うことができるようにしていただきたい

という内容です。
 善通寺の伽藍が讃岐でNO1を争うほどに整備されていたことが、ここからはうかがえます。創建から300年近くを経て、準官寺化されここまでは順調な発展ぶりだったようです。
 しかし、問題もあったようです。当時は善通寺が、農民から年貢を取りたてる事はできますが、彼らを雑役に使うことはできませんでした。だから必要な雑役人(労働力)は賃金を払って雇わなければなりません。そのためには年貢が入らなければ、それもできないということになります。そこで申請書の第四条のポイントは、寺で自由に使える労働力が欲しい。東寺の方から二十人ほどの浮浪人を使えるように讃岐国府に働きかけて欲しいというものでした。
以上、寛仁二年(1018)の政安の東寺宛ての解状(申請書)からは次のようなことが分かりました
①善通寺が、東寺の末寺として、また国の準官寺として発展してきたこと、
②寺領耕作の農民の年貢怠納や、寺の修理や雑役のために働く雑役人の不足に悩まされていた
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 平安時代の善通寺では、どんな仏事が行われていたのでしょうか?
 先ほどの申請書から約40年後の天喜四年(1056)に善通寺の役僧たちが作成した「善通寺田畠迪子支配状」が残されています。ここでの「支配」とは、仕事を配分するという意味です。「田畠迪子支配状」とは、年貢を仏神事料や修理料などに配分してそれぞれの勤めを行わせるために作成されたもので「予算配分書」的な文書のようです。ここからは当時の善通寺で行われていた仏事の様子がうかがえます。どんな仏教イヴェントが行われていたのが見ていきましょう。
免田地子米ならびに畠迪子物等を以て仏神事を勤修すべき支配勘文の事 
合(計) 四十八石六斗  
田地地子(年貢) 米三十二石二斗  
畠地子(年貢) 十六石四斗
  
修理料  十六石九斗 
道観聖人忌日料 五斗
「予算配分書」ですから仏事や修理の費用として配分される田のと畠の地子(年貢)の総額が最初に記されています。収入総額四八石六斗のうちの、一六石九斗が修理料に充てられ、残りが仏事の費用に充てられています。田地の迪子(年貢)は三二石二斗で、40年前が二〇石でしたから約1,6倍に増えています。「寺領内の未墾地の開発が進んだ」「新しく田地の寄進や買得などがあった」としておきます。畠も田地も開発が進められて、耕地面積も大幅に増加したようです。  
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①「春秋大門会 祭料一石三斗 毎月八日御仏供六斗 定灯油一斗八升」
 春秋大門会祭というのは、春と秋の二季に南大門あたりで行われていた祭りとしか推測のしようがありません。毎月八日の御仏供六斗、常燈油一斗八升(各一年分)が計上されています。四月八日がお釈迦様の誕生日なので、供物を捧げ、燈明を点していたようです。
②「 大師御忌料 二石 二斗仏供 八斗八大師御霊供八前科 一石僧供御酒料」
 空海の入定は承和二年(835)三月二十一日で、この大師御忌日の法会は、大師ゆかりの善通寺にとって最も重要な行事であったはずです。東寺ではこの日、御影供といって大師の画像(御影)を供養する法会が行われるようです。善通寺でも、二斗の仏供は大師直筆と伝えられるいわゆる瞬目の御影に供えられていたのかもしれません。
 次の「八大師」もよく分かりませが、研究者は
「真言密教を伝えた伝持八祖、竜猛、竜智、金剛智、不空、善無畏、一行、恵果、空海の八祖」
ことと推測します。真言宗寺院では、八祖の霊前に各一斗ずつ八斗の供物を今でも行うようです。一石の僧供は、仏事を勤めた僧に対する費用で、御酒料の名目で出されています。それに似たようなことが行われていたのでしょう。
④「修正月料四石五斗 三箇日夜料
    一石大餅百枚料 燈油一升五合直三斗
    一石八斗僧供料」四回
    一石五斗導師御布施
修正会ですが、これは年の始めに天下太平・五穀豊穣・万民快楽などを祈願する法会で、元日から三日間ないし七日間行われたようです。善通寺では三日の夜に行われ、その間の仏供として大餅百枚(地子一石)、燈明(燈油一升五合、地子三斗で購入)が供えられています。勤仕の僧への供養料が一度について五斗、別に食費として粥料一斗、計一石八斗、法会全体を首座として主導する大導師の御布施が一石、初夜の導師の御布施五斗、総計四石五斗が修正月料として計上されています。

⑤  御八講料八石五斗 五斗仏供十坏料 講師御布施八石
 御八講というのは法華八講のことで、法華経八巻を朝と夕に一巻ずつ、四日問にわたって講説したようです。講師は八人で、その御布施が一石ずつ計八石、仏供は五斗を8つに分けて盛って供えたようです。
⑥  二八月三箇日夜 不断念仏料三石六斗 仏供料三斗十二坏料 僧供料三石
絶間なく称名念仏を唱え続けることを不断念仏というようです。そのための行事が二月と八月にそれぞれ三日間行われています。その費用として、仏供料三斗、僧供料三石、別に非時料つまり食事料三斗が支出されています。
⑦ 西方会料七石 一石法花(華)経一部直巳畠 
  五斗阿弥陀仏ならびに同経直巳畠地子
  仏供一石 講師布施一石 講師五斗 楽所ならびに御人等録物三石
西方会というのは、その名称からして西方極楽浄土を祈念する仏事だろうと研究者はいいます。この行事のために、法華経一部が畠迪子一石、阿弥陀仏像と阿弥陀経が畠迪子五斗で購入されています。この時期に新しく始められた仏事のようです。仏供一石、講師布施一石と五斗のほかに楽所や舞人などに対する録物三石が支出されています。ここからは、当時の善通寺には「楽団」があり音楽や舞を伴ったにぎやかな行事が、新たに生み出されていたようです。「伽藍が讃岐で1,2位」と言われるくらいに立派なことと合わせて、仏事も充実しており、衆目を集める寺院であったことがうかがえます。

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最後に次のような起請文がついています
右、免田地子ならびに畠地子等支配定むる所の起請件の如し、賦剋田見作畠見作増減有る時に於ては、相計って勤修に立用すべし、寺家司この例を以て永く惜留すること無く之を行え、若し留貪の司有らば住持三宝大師聖霊護法天等澄明を垂れんか、若し起請に誤らずして仏神事を勤修する司は、世々生々福徳寿命を身に受け、後生は必ず三会期に値遇せしめん、後々の司この旨を存じて、
敢て違失せざれ、故に起請す、
    天喜四年十二月五日 
     住僧  在判
     大法師 在判
     大法師 在判
     大法師 在判
     証成大行事
      大麻(おおあさ)大明神
      雲気(くもげ)明神
      塔立(とうりゅう)明神
      蕪津(かぶらつ)明神
     判
 件の地子物等、支配起請勘文に任せ在地司ならびに氏人等澄を加署す、
     勘済使綾  在判
     惣大国造綾 在判
文末に「故(ことされに)に起請す」とあるのは、この配分に不公平がないこと、この配分を受けたものは怠りなく仏神事を勤修することを神仏に誓ったことばです。当時の起請文の最後につけられる常套句です。証成大行事としてあげられている大麻大明神ほか四柱の神々は、その誓いをうけて確かなものとする神々です。

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大麻神社と雲気神社は、式内社として善通寺の南に鎮座する神社です。
 同時にこのうち大麻大明神、雲気明神、蕪津明神は大歳明神、広浜明神と共に善通寺の鎮守神で、五社明神として境内の大楠の下に今でも祭られています。ここには仏教がこの地に現れる以前の「神々の連合」が垣間見える気もします。つまり、佐伯氏の勢力範囲が大麻神社や雲気神社にまで及んでいたことを物語るのではないか。ここは、古墳時代のこの地の豪族連合の合同神祭りが行われていた聖地で、そこに仏教寺院が建立されたのではないかという妄想を私は抱いています。
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参考文献 平安時代の善通寺 善通寺史所収

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善通寺はいつ、誰が建立したのでしょうか。創建には次の3つの説があります。

3つの善通寺創建説
①大同二年(809)に弘法大師によって創建された 
   → 空海建立説
②弘法大師の父佐伯善通が創建したとする説
   → 空海の先祖(父善通)建立説
③佐伯の先祖が建立し、空海の修造説       
   → 先祖建立説  + 空海修繕
それぞれの説を見ていくことにしましょう。
第一の大師建立説は、
寛仁二年(1018)五月十三日付で善通寺司が三ヶ条にわたる裁許を東寺に請うたときの書状には、次のように記します。
「件の寺は弘法大師の御建立たり。霊威尤も掲焉なり」

ここにはただ「弘法大師の建立」と記すだけで、それがいつのことであったかは記されていません。

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第二の空海の先祖建立説は、
延久四年(1072)正月二十六日付の善通寺所司らの解状に、次のように記します。

「件の寺は弘法大師の御先祖建立の道場なり」

また、高野山遍照光院に住した兼意が永久年間(1113)に撰述したとされる『弘法大師御伝』にも次のように記します。

「讃岐国善通寺曼荼羅寺。此の両寺、善通寺は先祖の建立、又曼荼羅寺は大師の建立なり。皆御住房有り」

   鎌倉時代になると、先祖を佐伯善通と記す史料があらわれます。それは承元三年(1209)八月日付の讃岐国司庁から善通寺留守所に出された命令書(宣)で、次のように記されています。

「佐伯善通建立の道場なり」

 以上、善通寺に残る一番番古い文書には大師建立説がみられました。しかし、その後は大師の先祖が建立したとする説が有力視されてれてきたことを押さえておきます。ただ注意しておきたいのは、鎌倉時代には先祖の名を善通としますが、善通を大師の父とはみなしていないことです。善通を空海の父とするようになるのは、近世になってからのことです。

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 以上の二つの説を足して割ったのが、第三の「先祖の建立、大師再建説」です。
そのもっとも古い史料は、仁治四年(1243)正月、高野山の山内抗争に巻き込まれ、讃岐に配流された学僧道範の『南海流浪記』です。そこには、次のように記されています。

「そもそも善道(通)之寺ハ、大師御先祖ノ俗名ヲ即チ寺の号(な)トす、と云々。破壊するの間、大師修造し建立するの時、本の号ヲ改められざルか」

意訳変換しておくと

そもそも善道寺は、弘法大師のご先祖の俗名を寺の名としたと言われる。退転していたのを、大師が修造したときに時に、本の名前が改められなかったのであろう。

ここでは空海の再建後も、先祖の俗名がつけられた善通寺の寺号が改められなかったとしています。つまり、善通の名は先祖の俗名と記されています。なお、道範は文暦元年(1234)七月、仁和寺二品親王道助の教命をうけて『弘法大師略頌紗』を撰述し、そこには、さきにあげた『弘法大師御伝』の一文が引用されています。したがって、『南海流浪記』の記述は「善通寺は先祖の建立」説をふまえて書かれていることは間違いないと研究者は考えているようです。それと、善通寺には中世には一時的に「退転」していたことを押さえておきます。
  ここまでの史料は建立者については触れていますが、いつ建てられたのかについては触れていません。

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善通寺五重塔(明治建立)
そして、江戸時代中期になると空海の父善通建立説が登場します
『多度郡屏風浦善通寺之記』には、建立の年次が次のように明記されるようになります。

 弘法大師は唐から帰朝された翌年の大同二年(807)十二月、父佐伯田君(ママ)から四町四方の地を寄進され。新しい仏教である密教をあますところなく授けられた師・恵果和尚が住していた長安青龍寺を模した一寺の建立に着手した。この寺は弘仁四年(813)六月完成し、父の法名善通をとって善通寺と名づけられた
 
 ここで弘仁四年(813)の落成が伝えられています。ここで注意しておきたいのは、空海の父は田君(公)で、その法名が善通とされていることです。「田公=善通・法名説」が登場します。そして父の法名にもとづいた命名であったとを記します。この『多度郡屏風浦善通寺之記』にもとづく説が、現在の善通寺の公式の見解となっています。そのため由緒やパンフレットでは「空海建立 善通(=田公の法名)=空海の父」と記されることになります。

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 しかし、これは今までに見てきた史料から問題・矛盾があることがすぐに分かります。

空海 太政官符2
空海の出家記録 戸主佐伯直道長の戸口同姓真魚(空海幼名)
第一には、空海が31歳のときに正式の僧侶になるために提出した戸籍に出てくる戸主の名は道長です。当時の戸籍には一戸あたり何十人もの人数が記されていて、何家族かが一緒にされていました。戸主とされている道長は、お祖父さんの名前か、一族の長だと研究者は考えています。資料的には、道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。そして古い平安・鎌倉時代の史料に「善通=空海の父」とは記されていません。

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善通寺金堂(東院)
第二には「善通=空海の父」説の成立年代が江戸時代中期ときわめて新しいことです。
平安・鎌倉期の史料に書いてあることを、江戸時代の後の資料に基づいて否定することは、歴史学的には「非常識」と言えます。また、考古学的な視点からしても、善通寺の境内からは奈良時代前期にさかのぽる瓦が出土し、塑造の薬師如来像面部断片も伝えられています。つまり、空海が誕生する半世紀前から佐伯氏の氏寺は建っていたというのが考古学の現在の答えです。

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  空海は現在の西院にあった佐伯氏の館で生まれ、そびえ立つ五岳と氏寺・善通寺を仰ぎ見ながら真魚は育った。自分の家の氏寺は遊び場で本堂や諸堂、そこにある本尊、そこにいる一族の僧侶たちは身近なものであったと、私は考えています。なお、真魚は母の実家阿刀氏の拠点である摂津で生まれたという説も出されていますが、ここでは触れません。
白鳳時代に建立された善通寺の姿は?
道範の『南海流浪記』には、鎌倉時代の金堂について次のように記されます。
金堂ハ二階七間也。青龍寺ノ金堂ヲ模セラレタルトテ、二階二各今引キ入リテモゴシアルガ故ニ、打見レバ四階大伽藍ナリ。是ハ大師御建立、今現在セリ。御作ノ丈六薬師三尊、四天王像イマス。皆埋仏ナリ。後ノ壁二又薬師三尊半出二埋作ラレタリ。七間ノ講堂ハ破壊シテ後、今新タニ造営、五間常堂同ク新二造立。
 意訳すると
金堂は、長安の青竜寺に習った様式で二層になっているが、裳階があるために四層の大伽藍に見える。これは大師が建立したものである。空海作の丈六の薬師三尊、四天王が鎮座するが、全て「埋仏」である。後ろの壁には薬師三尊が半分だけ土に埋まっていて、半分だけ上に出ている。金堂の後の七間の講堂は壊して、新たに「五間常堂(常行堂?)」を造立した。

白鳳期の寺院が地震などで壊れたときに、本尊の薬師如来や四天王などが建物の中に埋まっていたを掘り出して祀っていたことが分かります。それが半分だけ埋まっている状態なので「埋仏」と呼んでいたようです。本堂が崩れ落ちた中から本尊を掘り出して、祀ったものだったのでしょう。ここからも退転状態だったことがうかがえます。

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善通寺東院の金堂土台 古代の礎石が積まれている

 善通寺は、奈良時代に火災にあって、長い間放置されたままの状態にあって、仏も「埋仏」となっていました。それが再建されるのは鎌倉時代初期になってからです。ところが、この金堂も戦国時代の永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され埋もれたのを首だけ掘り出したものが、現在の宝物館にある仏頭のようです。
 『南海流浪記』には、次のように記されています。
四方四門に間頭が掲げられていて、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあった。善通之寺ハ大師御先祖ノ俗名ヲ 即寺号ト為ス云々、破壊之間、大師修道道立之時」とあり、善通は空海の父ではなく先祖の聖の名前だろうと言われていたこと、壊れたのを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったようだ

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善通寺金堂 元禄時代に再建されたもの
東院の金堂は戦国時代の永禄元年(1558)の阿波から侵入した三好実休の兵火で焼けてます。それが再建されるのは、約140年後の江戸時代も天下泰平の元禄時代になってからです。それが現在の金堂です。
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                善通寺金堂の古代寺院礎石

この金堂再建の際には、境内に転がっていた
白鳳期の礎石を使って基壇を作りました。
そのために、現在の本堂の基壇の中には、何個かの古代寺院の礎石が顔をのぞかせています。礎石は花尚岩や安山岩製で、柱座がはっきりと浮き出ているのですぐに見つけることができます。金堂基壇の正面側・西側・東側にある礎石の柱座の直径は65㎝、北側の柱座の直径は60㎝もあります。この礎石の上に、空海が仰ぎ見た白鳳期の古代寺院が建っていたようです。

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善通寺金堂の古代寺院礎石

 西側に見える礎石の柱座の周囲には、配水溝かあり塔心礎ではないかと考えられています。そうすれば五重塔もあったことになります。この金堂の下には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにも思えます。でもいまは、江戸時代初期の本堂が建っておりますから残念ながら取り出すことはできません。
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 元禄11年に再建された際には、大きな土製仏頭が出てきました。それが宝物館に展示されています。目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と研究者は考えているようです。鎌倉時代に道範が見た本尊と考えられます。どんな印相をしていたのかなどは分かりません。しかし、これが本尊の薬師如来の仏頭なのかもしれません。青銅製や木像でない塑像を本尊というのがいかにも地方の古代寺院という感じが私にはします。この薬師本尊を真魚も拝みながら育ったのかもしれません。

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   以上をまとめると

善通寺伽藍の歴史2
①7世紀後半の白鳳時代に佐伯氏は最初の氏寺・伝導寺を建立した
②しかし、短期間で廃棄され、白鳳から奈良時代に現在地に善通寺が移された
③空海が生まれた時に氏寺はすでにあり、善通寺と呼ばれていた
④平安時代に崩壊し、本尊薬師如来などは半分埋まり「埋仏」状態であった
⑤鎌倉時代初期に、長安の青竜寺に似せて再建され、埋仏もそのまま祀られた
⑥戦国時代16世紀半ばに兵火で焼け落ちた
⑦江戸時代の元禄期に再建されたものが現在の金堂である
以上 最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
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参考文献 善通寺の誕生 善通寺史所収
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