瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の古代

  図23 讃岐国の封戸・荘園
和名抄には、讃岐の郡は11ありました。ところが平安時代の後半になると13に増えています。分割された郡が出てきたようです。分割された要因は、何なのでしょうか?
 奈良時代は、まだまだ人間の数が少なかったので、「個別人身支配体制」のもとに、人を掴まえておけば税収入が得られるので、人を通じて支配を行います。だんだん人が増えて戸籍で把握するのが難しくなってくると、人の代わりに動かないもの、つまり土地を通じて支配するシステムに支配方式が変わります。誰が土地を私有していても構わない。とにかく土地を耕している人から税を取る。土地は逃げませんので、この方が現実的になったようです。
 奈良時代には、人が集落を作ってあちらこちらに住んでいました。そこで戸毎の戸籍を作って、50戸になると郷を成立させて、郷長に管理させるという地方支配のスタイルでした。これに対して、郡全体の土地ということになると分散して、かなり広い範囲になります。広いエリアを管理監督するのは大変なので、分割します。つまり、行政単位である郡をコンパクトにします。そのために大きな郡を二つに割るということが行われます。
当時は、藤原道長やその子の頼通の頃で、摂関政治とよばれる時代でした
 彼らの政治スタイルは、地方の行政は地方に任せる。中央政府は、地方政府の長(国司)だけを任命する。そして、国司に権限を持たせて、各国の経営にあたらせるるというものでした。そうすると、国司が讃岐国にやってくると、彼らもまた考えます。自分でやることはない、郡には郡司という役人がいるんだから、彼らに任せればいいと。郡司は郡司でまた考えます。その下に郷司というのがいるんだから、彼らに任せればいいと。どんどん、下へ下りていきます。「上がやることを、下が見習う」ということなんでしょう。
 中央がこれから先、手間暇掛けませんよとなると、国元でも自分たちだって手間暇掛けませんよという風潮になっていきます。今までは中央政府が、日本国中の面倒をみてきました。しかし、これから先は中央政府はそういうことはしない。讃岐国のことは国司が責任を持って面倒をみればいい。国司に任せるという具合になったわけです。そこで、国司はそれぞれの徴税官を決めます。その時に、あまり広いエリアを担当させますと大変です。大きな郡については、東と西に分けましょうとか、北と南に分けましょうという具合に、担当区域が分割されることになります。

讃岐国郡名
讃岐の郡名と郷名
讃岐国で大きかった郡は、香川郡と阿野郡です。
どうして香川郡と阿野郡が大きいのか? それは古代からの先進地で人口が多かったからのようです。その理由は、阿野郡に讃岐国の国府が置かれたためです。そのため、いろいろな社会資本がこのエリアに投下され、国府のある周辺に人が集まったと研究者は考えています。それが阿野郡の東西にも波及します。東側が香川郡、西側の鵜足郡でも、人口は増加傾向になったようです。そこで、この両郡を二つにそれぞれ分けます。

讃岐の古代郷名 阿野・香川郡jpg
香川郡と阿野郡の郷名と位置

 香川郡についていは、東と西に分けました。
境界は条里制度の条です。もともと土地に条里制区画の線引きがしてありましたから、香川郡は東半分と西半分というぐあいに条を基準に分ける。阿野郡については、北半分と南半分に分ける。北条と南条に分けました。
平成17年度渇水/「善意の井戸」の提供が終わりました。 | お知らせ | 田村ボーリング株式会社 - TAMURA BORING
香西条と香東条の境となった香東川
それではここでクエスチョン 
香東川は今のように香東川と呼ばれる以前は、なんと呼ばれていたのでしょうか。
  香東、香西というのは、当然ですが香川郡が二つに分かれるまではありませんでした。 それ以前は、香川郡でしたから「香川」と呼ばれていたと研究者は考えます。もともとの川の名前は「香川」、その川の名前が郡の名前になって「香川郡」が生まれます。ところが、香川郡が香東、香西に分かれたので川の名前が香東川と変わった。そして、この川が「香東・香西」の境であった。 香川県という県名の源は、ここを流れる河にあったと研究者は考えているようです。
  
もう一つ分割された郡が阿野(綾)郡です。
綾郡の方は、南北に分けられました。最初は綾郡南条、綾郡北条と呼ばれていたようです。それが近世には阿野南郡と阿野北郡に改称されます。
阿野北郡 近世
阿野北郡の近世地図 現在の坂出市域
綾郡北条が最初に登場する史料を見ておきましょう。
『新修香川県史』所収 惣蔵寺所蔵鰐口銘
 敬白 讃岐国北条郡林田郷内梶取名 惣蔵天王御社 鰐口 
 明徳元(1390)年 庚午十一月
 『新修香川県史』というのは昭和28年に刊行された香川県史です。ここには坂出市の林田町にあった惣蔵寺というお寺が所蔵していた鰐口の銘が載せられています。
鰐口
鰐口
鰐口というのは、神社やお寺の軒下に吊るす、扁平で中が空洞になった円形の法具で、参詣者等がその前に垂らした綱を前後に振って鳴らしたりしているものです。その鰐口の銘で、誰が寄付したことなどが書いてあります。
 年号は明徳元(1390)年で、南北朝時代の終わりになります。林田郷は、当時は綾川の河口で、梶取(かんどり:船頭)たちが住んでいたところで、中世の津として機能していたことは、以前にお話ししました。このあたりには、瀬戸内海を行き来する廻船の拠点であったようです。いつしか「梶取」の「取」の文字が飛んで「東梶(ひがしかん)」や西梶になってしまったようです。この時に作られた鰐口の銘に「北条郡」が記されています。南北時代末期には、北条郡が成立していたと云えます。これが綾北条郡のことになります。
 綾郡北条と呼ばれていたのはいつまででしょうか。
『新編丸亀市史4史料編』に収められた正覚院(丸亀市塩飽本島)の大般若経奥書に、次のように記されています。
『新編丸亀市史4史料編』所収正覚院所蔵大般若経奥書
 時に延文弐(1357)年丁酉十二月十三日讃州綾南条羽床郷(西)迎寺坊中において、日本第一(悪筆脱)たりと雖も仏法結縁のため、形のごとく書写せしめおわんぬ。後代末代転読僧衆御誹膀有るべからざるものなり。
 同郷大野村住 金剛仏子宥伎生年三七歳
意訳変換しておくと
 この般若心経の巻は、延文弐(1357)年12月13日に、讃州綾南条羽床郷の(西)迎寺坊中で、書写したものである。日本第一の悪筆かもしれぬが仏法結縁のために書写したものであるので、後世末代に転読する僧衆が私の悪筆を誹膀することのないように。
 羽床郷大野村の住人 金剛仏子宥伎 生年三七歳
 正覚院(丸亀市塩飽本島)の大般若経の経歴については、道隆寺か金蔵寺を中心にして書写活動が行われ、金倉川河口の神社に納められていたものが、いつの時代かに塩飽本島の正覚寺に渡り伝来されていることを、以前にお話ししました。奥書には「讃州綾南条羽床郷」の迎寺坊中で書写したと記されます。綾川の滝宮上流域の羽床富士のあたりで、中世武士集団の綾氏一族の羽床氏の拠点になります。この史料にからは、南北朝時代までは「綾南条」がまだ残っていて、南条郡にはなっていなかったようです。阿野郡は、香川郡と同じように、南北朝時代から室町時代にかけて綾郡南条、同北条から綾郡がとれて、南条郡とか北条郡とか呼ばれるようになったようです。
 以上のように、讃岐国では郡の分割というのは、香川郡と阿野郡の二つだけです。大きな人口増加や変動が他の地域では起こらなかったことを表していると研究者は考えているようです。
 そして、讃岐では奈良時代・平安時代から比べると、中世に増えた郡は2つだけということになります。
  以上をまとめておくと
①讃岐の古代の郡数は、最初は11郡であった。
②中世になって土地が徴税対象となるにつれて、大きな郡を分割する動きがでてきた。
③その結果、国府があり先進エリアでもあった阿野郡と香川郡は分割されることになった。
④香川郡は、東西に分割され香東郡と香西郡となり、河川名も香川から香東川と呼ばれるようになった
⑤阿野郡は南北に分割され阿野郡条郡と阿野郡何条と呼ばれた
⑥そのため室町時代には讃岐の郡数は13になっていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 参考文献  「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」

坂出 綾川河口地形図

以前に古地名から綾川河口の歴史を探ろうとするアプローチを紹介しました。今回は用水路を探ることで、讃岐国府に通じる綾川河口エリアの歴史を紐解こうとする試みを紹介します。これは、香川県の埋蔵文化センターのが平成22・23年度にボランティア調査員と現地調査を行った研究成果として報告書にまとめられたものです。水田ごとの取排水口の確認、基幹用水路からの導水経路の確認を現地で行い、水利慣行についての聞き取り調査を行ってまとめられています。膨大な手間と時間を掛けて作られたものです。

  まずは対象エリアと前回の地名調査から分かったことを確認しておきましょう。
綾川が府中に流れ落ちてきて不自然なドックレックを繰り返すあたりが讃岐国府の推定地で、いまも発掘が続けられています。そこから綾川は西に傾きながら北流していきます。

3坂出湾4

古代は高屋町と林田町の境になる雄山・雌山あたりが海岸線で、高屋町に国府の外港・松山港、林田町の総社神社辺りに交易港が置かれていたと研究者は考えているようです。そして、雄山・雌山の南辺りまでは条里制地割が残っていますが、それより北には見えません。また、雌山より北は近世になって干拓されたようです。

3綾川河口条里制
   前回の地名調査で分かったことを確認しておきましょう
①古代条里制が施行されたのは林田町南部まで
②林田町の北部は中世に「潮入新開」として海浜部の一部が開発された
③大部分は「綾ノ浜」と呼ばれる遠干潟が広がっていた。
④新田開発が行われたのは17世紀後半以降で
⑤干潟の開発や港の築造が行われ、港では米をはじめとする物資の積み出しが盛んに行なわれていた

坂出 綾川河口灌漑水路図2

調査報告書は、まずこの地区の灌漑用水路網の現状を確認します。
①加茂町南東部(字杉尾付近)では五色台山塊麓にある溜池から灌漑する
②加茂町の大部分は鴨用水、氏部井口用水から灌漑する
③林田町では氏部井口用水、今井用水、総社用水、濱用水、西梶用水、郷佐古用水、新開。与北用水、大番・横井用水、鞍敷用水から灌漑し、溜池灌漑はない。
④神谷町・高屋町の一部の地域は神谷川と新池から灌漑するが、大部分は三ケ庄用水から灌漑する。
現在は、鴨用水、氏部井口用水、今井用水、総社用水、濱用水、西梶用水、郷佐古用水、三ケ庄甲水は府中ダムを水源とする北條幹線用水路から取水しています。この北條幹線用水路は府中ダムからトンネルで坂出市立府中小学校の東まで導水して、地上に水路として現れます。水路は綾川右岸沿いを走り、林田町字東梶乙の西梶用水と濱用水の分岐点で終点となります。この区間の長さは4,097mです。この用水路は、府中ダム完成7年後の昭和48年(1973)に使用を開始しています。それ以前は、綾川町にある北條池を水源とし、綾川を経由して取水していたようです。
坂出 綾川河口灌漑水路図1

かつての綾川の取水口の位置をしめしたものが上図になるようです。ここで分かるとおり、現在、綾川から取水するのは新開・与北用水だけのようです。
これらの用水路は、いつ頃み開かれたのでしょうか?
手がかりは『阿野郡北絵図」(図3)です。

坂出 江戸時代絵図

上図は鎌田共済会郷土博物館が所蔵する模写図で、江戸時代の絵図を昭和12年(1937)に鎌田共済会が模写したものです。現在の坂出市林田町・加茂町・王越町をはじめとする坂出市北部が描かれています。作成年は記されていませんが、ある程度推測ができるようです。

 研究者が、どのように年代推定を行うのか見てみましょう
A手がかりにするのは塩田です。
①木沢浜の塩田(現在の坂出市王越町)
②末包新開(現在の坂出市江尻町)
が描かれています。木沢浜は宝暦8年(1763)、末包新開は文化元年(1804)に出来上がっています。そこから絵図は、文化元年(1804)以降に作成されたことが分かります。
B 文政9年(1826)に干拓工事を開始し、天保4年(1833)に完成した③坂出墾田は描かれていません。以上から『阿野郡北絵図』に描かれた姿は、文化元年(1804)以降天保4年(1833)以前のものと研究者は考えているようです。
絵図を拡大して見ましょう。
坂出 阿野郡北絵図拡大

 この絵図には山・川・池、村名・村境のほかに、道や用水路が描かれています。山裾の池の名まえはすべて記されていますが、用水名は一部のみです。絵図に描かれている用水路は鴨用水、三ケ庄用水、氏部井口用水、今井用水、郷佐古用水、新開・与北用水、濱用水のようです。山裾沿いに鴨用水が北流し、雄山の南の条里制区割り地区に導水されていたことがよく分かります。この絵図が書かれた天保4年(1833)以前には、これらの用水路は機能していたようです。
 また、神谷川から出る用水路は描かれていません。絵図の成立時期には大番・横井用水はまだなかったようです。明治維新後の名東県時代(明治6~8年)に成立した壬申地券地引絵図には、大番・横井用水が描かれています。そこから大番・横井用水が出来たのは、明治維新前後だったと研究者は考えているようです。
一方、雄山ラインから北部には用水路は、あまり伸びていないようです。幕末期になっても、綾川河口の北部エリアの水田化は遅れていたことがうかがえます。
 しかし、地名調査からは林田町北部には、新たに開発された田畑が広がっていることがわかってきました。
水田ができても、水の確保なしでは稲は実りません。水田と灌漑水路はセットで作られたはずです。水田開発が行われていれば水路も作られているはずです。水田開発の時期を明らかにすることで、用水路の開削時期を知ることができると研究者は考えているようです。
そこで次に研究者は、水田化の状況から見きます。
その際の手がかりは、以前に紹介した検地帳に記された古地名を調査の成果です。

坂出 検地帳古地名

検地帳には、年貢の課税単位である免ごとに田畑の情報が記されています。図4をみると、雌山より北の林田町北部には「新開」「新興」の付く古地名が多いのが分かります。これは、新たに開発された田畑であるということです。「新開」・「新興」の付く地名が多いのは濱(浜)免・古川免になります。
坂出 綾川河口灌漑水路図2

上図の各用水路の灌漑域をみると、濱免は大香・横井用水と濱用水の灌漑域、古川免は西梶用水と新開・与北用水の灌漑域に当たります。
濱免の田畑の古地名には「元禄六酉新興」というように、「新興」の前に「元禄六酉」という年紀が付けられたものが多いようです。この年紀は、田畑として開発した後で、初めて検地をした時に付けられたもののようです。そのため濱免の田畑は、元禄6年酉年(1693)の少し前に開発されたことが分かります。
 古川免では年紀の付くもの少ないのですが「延宝二寅新興」・「宝永六巳新興」。「安政二卯新興」がありますので、延宝2年寅年(1674)・宝永6年巳年(1709)・安政2年卯年(1855)頃に開発された田畑があることが分かります。
西梶用水の灌漑域の北部は、古川免の東部に当たります。
この付近の古地名には「新開」が付いています。ここから新しい開発であることが分かります。しかし、年紀がないので開発時期は分かりません。
新開・与北用水の灌漑域は古川免の西部になり、灌漑域は延宝2年(1674)、中部は宝永6年(1709)、南部は安政2年(1855)頃と数回に分けて開発されたようです。延宝2年(1674)に開発された田畑は新開・与北用水の幹線に西接しますので、新開・与北用水は延宝2年(1674)頃に開削された可能性が高いようです。
 大番・横井用水と濱用水の灌漑域は濱免に当たります。
濱免は古地名から元禄6年(1693)頃に大規模に開発したことが分かります。先述のように絵図から大番・横井用水は濱用水よりも後に作られたと考えられるので、濱用水が先に開かれ、その時期は元禄6年(1693)頃になると推測できます。
また、「阿野郡北絵図』をよくみると濱用水は途中で2本に分岐します。
坂出 阿野郡北絵図拡大4

 1本は海岸近く、もう1本は弁財天の北を走り、大番・横井用水の灌漑エリアのほうまで延びています。現在、弁財天は林田町にある惣社神社に合祀されていますが、元は惣社神社の200m北西の県道太屋富・築港・宇多津線の路線内にあったと伝えられます。現在、濱用水は元弁財天のあった場所の北方に北東方向に走る2本の幹線用水路があります。これらの2本の用水路が絵図に描かれた用水路の可能性が高いようです。以上から推定すると、このあたりは元禄6年(1693)頃に開発され、賓用水だけで灌漑していたのが、水量が不足したので、江戸時代末頃神谷川を水源とする大番・横井用水が開削されたのではないかと研究者は考えているようです。
三ケ庄用水が開かれたのはいつのなのでしょうか。
 それは平成23年度の竹北遺跡の発掘調査が手がかりを与えてくれるようです。ここからは南東から北西に走る河川跡が出てきて、埋没時期は平安時代から鎌倉時代とされています。この河川と三ケ庄用水が重なるとすると、三ケ庄用水は河川が埋没後の鎌倉時代以降に開削された可能性が高いと研究者は考えているようです。
また、鴨用水と三ケ庄用水、今井用水と総社用水が開かれた順番を考える材料に「用水管理の既得権」へ配慮があります。古い用水路が優先され、後発用水路はすでにある用水路に影響を与えないように設計されます。先発組優先なのです。
そのような視点で鴨用水と三ケ庄用水を見ると、
①鴨用水のほうが上流で取水する。
②加茂町南部で両用水路が交差する際には、三ケ庄用水は鴨用水の下をくぐり、鴨用水の灌漑域の中を通って灌漑域に達する。
③今井用水と総社用水の関係をみてみると、今井用水のほうが総社用よりも上流で取水する。
④総社用水は林田町南部の坂出市立林田小学校の北東部で今井用水の下をくぐり、今井用水の灌漑域の中を通って灌漑域に達する。

先発する用水路の上から水を導水することは、水利用の既得権に反することで騒動のもとになります。用水が交差する際には、後発組が下を通過するように設計されます。ここからは 
鴨用水 → 三ケ庄用水    
今井用水 → 総社用水
という前後関係がうかがえます。
以上のことから、現在みられる加茂町・林田町・高屋町付近の用水路は江戸時代末までには作られていたことになります。
 この中でも、
①新開・与北用水は延宝2年(1674)頃、
②濱用水は元禄6(1693)頃、
③大番・横井用水が最も新しく江戸時代末頃
に開かれた用水になるようです。その他の用水路の開かれた時期は不明ですが、鴨用水よりも三ケ庄用水、今井用水よりも総社用水の方が新しいようです。このなかで、三ケ庄用水は一番古いのですが、それでも古代に遡ることはないようです。鎌倉時代以降に開削された可能性が高いと研究者は考えているようです。
 加茂町、神谷町西部、高屋町南部、林田町南部には条里地割が広がります。
3綾川河口復元地図2

条里地割は西に24度傾き、N-24°Wを示します。
綾川河口の灌漑システムを大きく見ると、南北方向に基幹用水路を作り、条里地割と組み合わせて、全体に水が行き渡るように工夫しているようです。鴨用水は山麓沿いに幹線用水路を設置し、この用水路から樹形状に数本の用水路を分岐し、北方向に流します。東西の水路へは堰板等を利用して分水します。大部分の水田の細長く、水田の取水口はどこも水田の短辺に設けられています。

坂出 阿野郡北絵図拡大

 三ケ庄用水は綾川から取水して、鴨用水の灌漑域の中を北方向に直線的に走ります。鴨用水の灌漑域の中でも三ケ三用水が走る場所は最も低い場所であり、用水路は深く、鴨用水の排水を集めながら北方に走ります。
 三ケ庄用水は灌漑域に達すると数本に分岐し、条里地割の間を基本的に北方向に流れます。やはり頁西の水路へは、堰板を利用して分水します。ここでも大部分の水田の平面形は細長く、取水吉は短辺に設置されています。氏部井口用水は、綾川の右岸沿いに走る基幹水路から東西に樹形状に再水路を分岐させ、条里地割に沿って北方向に走り、神谷川に至ります。
三ケ庄用水の灌漑域には整然とした条里地割が広がりますが、用水が開かれたのは鎌倉時代以降である可能性があります。そうだとすると三ケ庄用水の灌漑エリアは。鎌倉時代以降に開発したものになります。
5讃岐国府と国分寺と条里制

 かつては、現在に残る条里制区割りを古代にまで遡らせて考えていました。例えば次のような主張でした。
「綾川河口エリアの条里制ラインが引かれたのは白鳳時代で、それと同時一斉に、造成工事が始まった。それを行ったのが新宮古墳に代表される地域の有力豪族だ」

 しかし、その後の丸亀平野や高松平野の考古学的な発掘調査で分かってきたことは、南海道が直線的に設置され、それに直角に条里制ラインは引かれた。しかし、それと土木工事の時期は一致しないということです。ラインが引かれたままで、その後は長らく放置され、中世になってから水田化が進められたような実例が数多く出てきたのです。この綾川河口においても、用水路を見る限り、水田化は中世に始まるエリアもあると研究者は考えているようです。

3綾川河口復元地図
条里制中央部を南北に貫通していた「馬さし大貫」道があった?
  出石一雄氏は、綾川河口エリアの中央を、南北に通る農道(馬さし大貫)を南北の基準線として条里地割が施行されたのではないかと推定しています。
この道は、雄山の南から綾川の南の府中まで延びていたと伝えられます。これを「馬さし大貫」と、呼んでいたと云います。道幅が広いので馬を走らせる練習をしたり、加茂から林田へ行くのに使われていたようです。この農道に隣接して用水路が走りますが、この農道は加茂町と林田町との町境であり、坂出市立白峰中学校の北側では氏部井口用水と三ケ庄用水の灌漑域の境界にもなっています。中学校の南側の三ケ庄用水の灌漑エリアが、馬さし大貫の西側にあたると研究者は考えているようです。ここは元来、氏部井口用水の灌漑エリアですが、末端であるため水が不足し、江戸時代後半の寛政年間(1789~1801)に水争いが起こり、その後三ケ庄用水の灌漑エリアになった経緯がある地域です。このように、馬さし大貫は灌漑エリアの境界にもなっています。南海道などの大道が古代の行政区画の境界になっていたことを思い出させます。
 三ケ庄用水の灌漑エリア全体が開発されたのは鎌倉時代以降で、鴨用水の灌漑エリアよりは開発が遅れた可能性もあるようです。その場合は、雄山から綾川まで走る馬さし大貫は少しずつ作られたことになります。条里地割ともに馬さし大貫ができた時期についても、今後の検討課題のようです。
4林田町1

以上、用水路の分析からは古代に遡るモノは見当たらないということでしょうか。しかし、雌山より北側や綾川流域の開発は、近世になってから断続的に進んだことがうかがえます。また、雄山の南部も古代から水田地帯ではなく、早くとも中世、遅ければ幕末に掛けて用水路は整備されたことが分かります。 
 古墳時代末期から古代にかけて、綾川河口の開発が進み、その経済的な発展を背景に在地有力豪族の綾氏が台頭したという物語を描くのには無理があるようです。

参考文献 讃岐国府跡探索事業調査報告 平成23・24年度 地形・地名調査

  

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


      
三野平野2
前回に続いて、三野郡を見ていきます。まず復元図からの古代三野郡の「復習・確認」です
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺付近から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。
⑥南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
⑦南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
⑧郡境と南海道を基準ラインとして条里制が施行されたが、その範囲は限定的であった。
以上のように古代三野郡は、古墳時代の後期まで古墳も作られません。そして、最後まで前方後円墳も登場しない「開発途上エリア」でした。それが7世紀後半になると、時代の最先端に並び立つようになります。
三野郡発展の原動力になったのが窯業です。
このエリアには、火上山西麓を中心とした地域(三豊市三野町)と東部山南西麓(同市高瀬町)に窯跡が見つかっています。これらは7つ支群
瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻
の各支群)に分かれていますが、全体を一つの生産地と捉えて「三野・高瀬窯跡群」と研究者は呼んでいるようです。
発掘から分かった各窯跡の操業時期を確認しておきましょう。
第1段階(6世紀末葉へ一7世紀初頭)
 十瓶山北麓の瓦谷支群(1)で生産が始まる。
第2段階(7世紀前葉)
 瓦谷支群での生産停止と野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
 野田池支群での生産拡大と、道免(3)・高瀬末(5)群の生産開始、
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)
 道免・野田池の2支群での生産継続。宗吉瓦窯継続
第5段階(8世紀前葉~中葉)
 道免・野田池の2支群での生産継続。青井谷支群(4)での生産開始
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
 青井谷支群での生産拡大。五歩田支群(6)での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
 青井谷支群での生産継続。上麻支群(7)での生産開始
  6世紀末から始まって10世紀まで400年近く三野郡では、土器や瓦が作り続けられていたことが分かります。そして、窯跡は

瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)
と移動していったことが分かります
どうして窯跡(生産現場)は移動していくのでしょうか。
移動の方向は海岸線から離れて、次第に山の奥へと入っていくようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は次のように云います
 窯相互の間隔から半径500mが指標。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えると三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされた
  須恵器窯は、燃料として大量の薪を必用とします。そのため周辺の山林の木材を伐り倒して運ばれてきました。そのために木がなくなると木がある山の麓に移動して新たな窯場を作る方が、生産効率がよかったのです。そのために木を求めて、奥へ奥へと入っていったようです。そして、その跡には丸裸になった里山が残りました。当時の須恵器や瓦生産の背景には、里山の伐採と丸裸化があったようです。そして、これが大量の土砂を三野津湾にもたらし堆積し、陸地化を急速にもたらすことになったのは、前回にお話ししました。
東大寺に運ばれた三野郡の檜
 これに加え、7世紀半ばの東大寺大仏殿の建設には、高瀬郷から木材(ヒノキ)が供給されています。使える木材が三野郡で残されていたのは、毘沙古山塊(標高231m)と、その東側で多度郡に接している弥谷山塊(標高381.5m)だけにしかなかったようです。このふたつの山は、弥谷寺周辺の死霊のおもむく聖地や甘南備山(なんなび)とされていた霊山で、伐採が禁じられていたのかもしれません。そして、北側が瀬戸内海に面し、南西側は「浅津」という地名があるように三野津湾に近く搬出にも便利です。おそらく須恵器生産用の「陶山」と、東大寺材木用の「楠山」とは分けられて管理されてたはずです。保護されてきた檜も、東大寺建立という国家モニュメントのために切り出され、海に浮かべて運ばれていったのでしょう。
 このように8世紀には、周辺の里山の木材も資源としての重要性が高まり、管理強化が行われるようになった気配があります。
  窯跡の移動に関して、研究者は次のように指摘します。
①窯場の移動は、製品搬出に便利な河川や谷道沿いに行われている。
②7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、
③8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にあった。
③窯場をできるだけ高瀬郷内に設定するような傾向がある。
  このように先行する須恵器窯業を受けて、宗吉瓦窯跡が登場します。
三野 宗吉遺2

この瓦工場は、当時造営中の藤原京に瓦を大量供給するために作られた大規模最新鋭の瓦工場で、それまでの須恵器窯とは、スケールも技術も経営ノウハウも格段の違いがあります。地元の氏族が単独で設置運営できる代物ではありません。氏族が中央権力に働きかけて最新の瓦工場を誘致してきたということが考えられます。設置に当たっては、中央からの技術者集団がやってきて取り仕切り、完成後の運営も行ったと考えられます。
三野 宗吉遺跡1
 立地は、藤原京に送り出すために船舶輸送を考えて、三野津湾の奥の海岸線近くに設置されます。しかし、気になるのが燃料である薪の確保です。今までは、薪を求めて窯は奥地に入っていました。それが海岸線に工場を作って確保できるのでしょうか?

 宗吉瓦工場は、郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が行われたようです。それまでの須恵器窯は、移動をしながらも高瀬郷内に置かれています。つまり高瀬郷内を基盤とする氏族によって担われていたことがうかがえます。しかし、藤原京への瓦供給という国家プロジェクトに関わることによって、この勢力は高瀬郷以外への権益拡大を図っていったようです。
そして、須恵器生産でも次のように競合するライバル達を8世紀初頭までは凌駕していたようです。
①競合する三豊平野南縁の辻窯跡群(三豊市山本町、刈田郡)を7世紀中葉には操業規模で圧倒
②讃岐最大の須恵器牛産地・十瓶山窯跡群(綾川町陶)よりも、8世紀初頭までは規模で勝る
③8世紀以降は十瓶山窯が優位になり、10世紀前葉には格差がさらに大きくなる
④10世紀中葉以後、三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小
10世紀近くまで高瀬郷では土器生産が行われ、周辺の山の木が伐採が続いたことになります。
製塩用の薪を提供する山が汐(塩)木山
平城宮木簡には阿麻郷(託間郷?)で塩生産が行われたことが記されます。「藻塩焼く・・」と詠まれたように製塩にも、大量の薪が必要でした。三野津湾西側の山名「汐木(しおぎ)山」は、そのための山として古代から管理されきた山であることがうかがえます。
森林管理センターとしての密教山岳寺院の登場
 このように窯業や製塩業の操業のためには、大量の薪が必要で、そのためには山を管理しなければならないという発想が生まれてきます。条里制施行で田畑の管理は、机上では行えるようになりましたが山野は無放置だったのです。それに気付いた勢力が行ったことが山野の管理センターとして寺院を山の中に建立することだったようです。いわゆる山岳密教寺院の登場です。若い頃に讃岐山脈を縦走していて気付いたのは、山頂にお寺がぽつんぽつんとあったことです。
 西から稜線上に次のような山岳寺院が並びます。
 雲辺寺 → 中蓮寺(廃寺)→ 尾野瀬寺(廃寺)→中村廃寺 → 大川寺(廃寺)→ 大滝寺
これらの寺は、その山域の「森林管理センター」の役割も果たしていたのではないかと思うようになりました。管理人は真言密教の修験者たちということになるのでしょう。同時にこれらのお寺は、孤立化していたのではなく修験者のネットワークで結ばれ、ある程度一体化していたと思われます。
中世の熊野詣での行者たちは、里に下りることなく阿波の鳴門から伊予の八幡浜まで、山の上をつなぐ修験者ルートで行くことができたと云います。そのルートを唐に渡る前の若き空海が歩いたのかもしれません。最後は妄想気味になりました。
最後にまとめておくと
①古代三野郡には須恵器窯跡が数多く見つかっている。
②これは同時に操業していたものではなく、スクラップ&ビルドを繰り返した結果である
③その背景には、燃料の薪確保のために海際から次第に山の奥に入っていった経緯がある
④そのような中で藤原京への瓦提供のために宗吉瓦工場が誘致される
⑤これは当時のハイテク産業で、超大型の工場であった。
⑥この工場誘致を進めた勢力は、三野郡の有力者に成長し、讃岐で最初の古代寺院妙音寺を建立することになる。

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐藤 竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論

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