瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の古代寺院


 前回は、文献史料で弘安寺のことを知ることが難しいことを確認しました。弘安寺廃寺に迫るために残されたモノは、礎石と心礎跡と古代瓦の3つです。現在の考古学は、これらを材料にどのように迫っていくのかを追いかけて見たいと思います。テキストは「蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です。

発掘調査報告書で最初に示されるのは、「周辺遺跡」と「復元地形」です。弘安寺周辺の遺跡を見てみましょう。

弘安寺周辺地遺跡図

①土器川を越えた東側に安造田古墳群があります。
この古墳群は後期古墳(6世紀代)に作られたものです。その中で「日本唯一のモザイク玉」が出土した安造田東3号墳は、6世紀末の飛鳥時代にできた短い前方部を持つ帆立貝式古墳です。
安造田三号墳モザイク玉調査報告会(まんのう町) - 善通寺市ホームページ
安造田東3号墳のモザイク玉
 
古代寺院の近くには、終末期の大型横穴式石室を持つ古墳がある場合が多いようです。例えば、善通寺王国では、大墓山古墳や菊塚古墳のように古墳後期の大型石室をもつ古墳を造営していた有力豪族(佐伯直氏)が、7世紀半ば以後に古代寺院を建立し始めます。
安造田東3号墳の調査報告書は、次のように記します。

古代における人々の活躍の場は、古墳や古代寺院の分布が示すように、九亀平野では満濃町北部が最奥とみられる。当地域には大規模な古墳の築造は行われておらず、弘安寺が羽間から長炭周辺に小規模な群集墳を築いた集団によつて建立されたと考えれば、この寺院の成り立ちは、この地の古代史を知る上で非常に興味深い。

  安造田東3号墳を造営した氏族集団が、弘安寺を建立したと考えているようです。しかし、古代寺院を建立するにしては、安造田東3号墳をはじめとする首長墓は小型です。 この財力でほんまに氏寺を建てられるのか?という疑問が私には残ります。
善通寺、仲村廃寺の周辺には、王墓山や菊塚古墳のような横穴式石室を持つ後期の大型首長墓があります。しかし、ここでは 安造田古墳群の延長線上に白鳳寺院の建立や、郡領氏族の形成が行なわれたというエリアではないようです。

 研究者が注目するのが古墳時代後期の集落跡、吉野下秀石遺跡です。
員 嚇 ・0 委 け

この遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、弘安寺の東500mに位置します。この遺跡からは、出土した14棟の竪穴住居の全てに竃があるという統一性が見られ、時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強い住居群ということです。この時期、地域の開発がにわかに活発化したことがうかがえます。同時に、時期的には安造田東3号墳の造営と重なります。
 吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の開発集団で、彼らのリーダーが日本唯一のモザイク玉」を持って眠っていた安造田東3号墳の首長というストーリーは描けそうです。急速な開発と変革がこの地で起こっていたとしておきましょう。

開発という視点から、 もう少し弘安寺の立地を考えてみよう
考古学的手法では「復元地形」を用います。つまり、当時の地形がどんなものであったのかを地質図などで復元するのです。そのセオリーに従って、地質図を見ると次のようなことが分かります。

弘安寺周辺地質図2
弘安寺廃寺周辺の旧河川跡
①土器川が、木崎を扇頂に扇状地を形成し、吉野には網状河川が幾筋にも流れている。
②吉野は土器川の氾濫原で、洪水時には遊水池で低湿地地帯であった。
③弘安寺は土器川の氾濫原の西側の扇状地上の微髙地に立地している。
土器川が吉野地区に湾入していた痕跡を現場で見てみましょう。
 丸亀市方面からほぼ真っ直ぐに南下してきた県道「善通寺ー満濃線」は、マルナカまんのう店付近で東へ大きく屈曲するようになります。これが旧土器川が西側へ湾入した流路のうちの、最もわかりやすい痕跡だと報告書は指摘します。それを裏付ける地名が「吉野」で「葦の野」 (湿地帯)だとします。また、この屈曲箇所付近に 「川滝」の地名があります。これも河川があったことをうかわせます。さらに、旧吉野小学校南側の県道の道路敷は蛇行しています。これも土器川の流路であったことを示すものだと研究者は考えているようです。
 以上をまとめておくと「吉野」は「葦の野」で、洪水時には土器川の流路のひとつが流れ込み遊水池状態で湿地であったとしておきます。
次に金倉川を見ておきましょう。
 「カレンズ」ベーカリーの南に「水戸」があり、現在はここが満濃池用水の取水口となっています。金倉川の本流は、ここで大きく南西方へ直角に曲げられて象頭山方向に向かいます。一方、満濃池用水(旧支流)は直進して、満濃中学校の西側を通過した後に、祓川橋付近で土器川に近接するか、あるいは満濃中学校の南約250mから西へ湾流する状態を示しています。ここからは、、金倉川も土器川の吉野の湾入地域に流れ込んでいたことがうかがえます。つまり、吉野エリアは土器川と金倉川の二つの川の遊水池のような状態だったことになります。 このように吉野は、ふたつの川の影響を強く受けた地域で「葦の野」であったことがうかがえます。

吉野下秀石遺跡周辺は、条里制にもとずく規格性のある土地区画が試みられた痕跡が見られます。
旧満濃町役場西側の県道満濃善通寺線を基軸として、東方へ約200m間隔で設けられた直線状の土地区画が読み取れます。ただし、南北方向の区画線が不整いです。ここからは、吉野の条里制工事は開始されたが完成に至らなかったと研究者は考えているようです。
吉野下秀石遺跡報告書は次のように記します。
「本遺跡周辺は土地条件に恵まれた地域とは言い難く、むしろ大規模な耕地開発にはより多大な労力を要する地域」そのため
条里地割分布域の縁辺部に位置する」


弘安寺周辺の条里制復元図を見てみましょう。
弘安寺周辺条里制

これを先ほどの地質図と重ね合わせて見てみると次のようなことが分かります。
①土器川の氾濫原・遊水池である吉野エリアは条里制施行は施行されていない。
②ただ吉野地区にも条里制施行の痕跡は認められる。
③条里制が施行されているのは、四条エリアでその周辺縁に弘安寺は立地している。
④弘安寺は、四条や吉野の開発拠点に建立された寺院である。
先ほど見た吉野下秀石遺跡は、6世紀後半に開発が始まっていますが、7世紀末になって行われた条里制施行エリアには入れられていません。土器川の氾濫原の開発は、なかなか難しかったようです。吉野下秀石遺跡の西方約500mある弘安寺も、これとよく似た立地条件が類推ができると研究者は考えています。

弘安寺周辺を現在の丸亀平野の灌漑システムの視点から見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
③が吉野の水戸 満濃池用水の金倉川からの取水口
弘安寺は④の周辺

江戸時代の満濃池用水路を見ると、先ほど見た吉野の水戸が金倉川からの丸亀平野への取水口として重要な役割を果たしていることが分かります。近世の西嶋八兵衛の満濃池再建工事は、「満濃池築造 + 土器川・金倉川の治水工事(ルート変更と固定化) + 用水路網整備」の3つがセットで行われています。古代に満濃池が作られたとしたら同じような課題が、立ちはだかったはずです。満濃池の築造と灌漑網整備はセットなのです。いわば「古代丸亀平野総合開発」なのです。それを古代において後押ししたのは、国の進める条里制施行でしょう。
満濃池 水戸大横井
近世の水戸の取水口 手前が金倉川本流 向こう側が満濃池分水

 古代において、開発が早くから進んだ弘田川、金倉川流域では、しばしば氾濫に見舞われていたことが発掘調査からも分かってきました。これを押さえるためには、金倉川の水量調節が不可欠です。そのためにも上流の満濃池築造は大きい意味を持つことになります。9世紀初頭に、多度郡郡司の佐伯直氏が一族出身の空海の讃岐への一時帰還を朝廷に願い出ているのは、国の事業として満濃池の完成を図ろうとしたこと、丸亀平野全般の開発事業に関わっていたという背景があったのでしょう。満濃池が最初に姿を見せたのは8世紀初頭とされます。つまり、それ以前から佐伯直氏は、継続的にこの事業に関わっていたことがうかがえます。幼い真魚(空海幼名)も、一族の「丸亀平野南部開発総合計画」に奮戦する一族の活動を、見聞きしていたのかも知れません。

丸亀平野条里制と古代の満濃池水路
丸亀平野の条里制と満濃池用水網 ①が吉野の水戸


 以上から四条・吉野地区と佐伯氏の関係を、次のように推測しておきます。
①吉野下秀石遺跡に6世紀後半に、開拓集団を送り込んだのは佐伯直一族
②7世紀末の条里制施行時に、「吉野地区総合開発」を進めたのも「佐伯一族+因首氏」連合
③9世紀に空海による満濃池再築を進めたのも「佐伯一族+因首氏」連合
つまり、古墳時代後半以後、佐伯直氏は金倉上流域に対しても、その影響力を伸ばしていたのです。そして、吉野地区の水戸を押さえることで、金倉川の治水とその下流に新たな入植地を確保して、急速な開発を行ったと考えられます。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
      弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦(白鳳時代)

そういう視点で、弘安寺についてもう一度見てみましょう。
弘安寺の建立は7世紀後半の白鳳時代になります。それは、条里制施工工事が丸亀平野の一番奥の四条地区に及び満濃池が姿を現す直前です。これらの開発拠点地が、四条地区でした。四条地区は急速に耕地が拡大し人口も増えたことが予想されます。そのような中で成長した有力者が、本拠地の近くに建立したのが弘安寺廃寺だと私は考えています。
 その造営主体として考えられるのは、次のような氏族です。
①安造田東3号墳の首長系譜につながる一族
②善通寺の佐伯直氏が送り込んだ入植者集団(佐伯直氏の分家)
③佐伯直氏と姻戚関係にあった因首氏

①の場合にも、善通寺王国の緩やかな連合体の中にあったと思われるので佐伯直氏の支援があったことは考えられます。③の場合も、因首氏は那珂郡に多くの権益を持っていましたから、吉野・四条からの用水路整備には、佐伯氏と共通の利害関係があったはずです。佐伯直氏と因首氏の共同開発プロジェクトとして進められ、最後には空海を担ぎ出すことによって国営事業に発展させて完成させたとも考えられます。
 満濃池築造後は、用水路を含めて維持管理が大切なことは、残された近世の満濃池史料が伝えるところです。
古代も同様であったはずです。その満濃池管理の拠点の役割を果たしたのが弘安寺ではないのかと私は考えています。港の管理を僧侶が受け持ち、寺院が港の管理センターの役割を果たしたように、新たに作られた用水路を寺院に担当させるというのが当時のひとつのやり方でした。水戸の取水口管理や用水配分などは、弘安寺の僧侶が行っていたのではないかと思っています。
そういう意味では、弘安寺は遊水池であった吉野地区の開発センターであり、満濃池の管理センターでもあったと云えます。墾田私有令以後は、多くの開発田をもつ経済力のある寺院となり本寺の善通寺を支えたのかもしれません。

ちなみに、この開発計画のその後をうかがわせる遺跡も出てきています。
買 田 岡 下 遺 跡

 琴平の「西村ショイ」の南側のバイパス工事にともなう発掘調査が行われた買田岡下遺跡です。
買田岡下遺跡 地図

ここからは、平安時代の掘立柱建造物が同時期に20棟近くも並んでいました。
買田岡下遺 郡衙的配置
    買田岡下遺跡の準郡衙的建造物配置図 一番下

 出土遺品や建造物の並びからこれを「準郡衙」的な遺跡と研究者は考えています。丸亀平野の条里制の最南端地区で、どうしてこのような施設が出てきたのか不思議でした。しかし、弘安寺周辺で7~9世紀に行われていた開発プロジェクトからすれば、その延長線上に買田岡下遺跡の「準郡衙」が現れたということになります。

以上をまとめておくと
①丸亀平野の最奧部にあたる吉野地区は、扇状地の扇頂直下の網状河川部にあたり、洪水時には遊水池となる湿原地帯であった。
②そこに古墳時代の後期以後に、入植が進んだ。その首長たちが造営したのが安造田古墳群である。
③7世紀後半に、丸亀平野にも条里制施行が始まると四条地区の開発が本格化した。
④四条地区の有力者は、佐伯氏の支援を受けながら「四条・吉野総合開発計画」を進めた。
⑤それは治水・灌漑のための「満濃池築造・用水路網整備・土器川金倉川治水」であった。
⑥そのモニュメントして建立されたのが弘安寺であり、後には満濃池の管理センターの役割も担った。
⑦四条地区の条里制整備は進んだが、吉野地区は何度もの洪水の被害を受けて完成には至らなかった。
⑧弘安寺周辺の四条地区には、満濃池の用水路網を握り、丸亀平野南部を押さえる有力者の存在がうかがえる。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキスト
  蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。

弘安寺跡 薬師堂
まんのう町四条本村の公民館と立薬師堂
 まんのう町四条本村の公民館と並んで立薬師堂が祀られています。お堂は1mほどの土壇の上に方二軒で南面して建っています。

弘安寺 礎石1
弘安寺廃寺 礎石

土壇に上がって薬師堂の西側を回り込んでいくと、大きな石が置かれています。これが古代寺院「弘安寺」の礎石です。1937年のお堂改築の時に、動かされたり、他所へ運び出されたものもあると云います。さらに裏側(北側)に回り込むと、薬師堂の北側の4つの柱は、旧礎石の上にそのまま建てられています。
DSC00923
弘安寺廃寺 礎石 立薬師堂に再利用されている

これらの4つの礎石は移動されずに、そのままの位置にあるようです。礎石間の距離は2,1mです。

弘安寺 塔心跡
弘安寺廃寺(原薬師堂)の塔心(手水石)
 薬師堂の前に、長さ2,4m 幅1,7m 高さ1,2mの花崗岩が手水石として置かれています。塔の心礎だったようで、中央に径55㎝、深さ15㎝で柄穴があります。この塔心は、この位置に移動されて手水石となっているので、もとあった場所は分かりません。塔があった所は分からないということです。薬師堂の南方、120㍍の所に大門と呼ばれる水田があります。土壇とこの水田を含む方一町の範囲が旧寺地と研究者は考えています。それは布目瓦が出土したエリアとも一致するようです。
 この方一町の旧寺地の方向は、天皇地区の条里方向とは一致しません。西に15度傾いています。ここから弘安寺は、条里制以前の白鳳時代に建立された古代寺院とされます。

弘安寺について書かれた文章を、戦前の讃岐史淡に見つけました。
讃岐史談(讃岐史談会編) / 光国家書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
讃岐史淡
讃岐史淡は、琴平の草薙金四郎が1936年から1949年まで発行した郷土史研究雑誌です。それを3冊に復刻したものが刊行されています。これも私の師匠から「もっと、勉強せえよ」との励ましとともにいただいて、何年も「積読(つんどく)」状態になっていたものです。やっと開いて見ていて見つけたのが 「 田所眉東 (七)仲多度郡四條村弘安寺に就いて 讃岐史談下巻 第4巻第2号   1939年」です。戦前に弘安寺のことが、書かれた文書はほとんどないので、読書メモ代わりに現代文に意訳変換してたものを以下にアップしておきます。
DSC00924
立薬師堂(まんのう町四条本村)
仲多度郡四條村弘安寺に就いて    田所眉東
愚息を見途り早めに琴平の定宿に入り、草薙金四郎氏を訪ねた。話が四條村の立薬師のことになって、翌日に立薬師に詣でた。立薬師は昔は弘安寺と云ったようである。この弘安寺は医王山浄願院城福寺の末寺となっているが、その際の昭和四年十二月十二日に、両寺の本末決定のための提出明細帳(同五年十二月廿五日許可)には、次のように記されている。
中に本尊薬師立像 行基作三尺六寸
口碑に依れば大同年間、弘法大師の創立弘安寺と称し往古七堂伽藍備はりたるも、天正年間長曾我部の兵火に羅り、遂に復興するに至らす小堂を備へ、本尊を安置したるを当山末寺なりし城福寺獨り存して維持し今日に及びたるものなり。
これ以外の立証資料として、
全讃史に 「弘安寺行基創立本拿薬師如来。今則慶篤小庵」
玉藻集には「薬師一宇方二間四條村弘安寺本箪行基菩薩作」
地元の伝えでは「大門観音堂あり。」
浄願院の文書中には、弘安寺のことが次のように記されている。
「薬師堂弐間四面瓦葺.薬師如来行基之御作、境内東西八間、市北拾間、右弘安寺前々より浄願院支配なきあり。」
「讃岐国中郡有西楽寺一宇改称医王院なり」
当山先師手数の書始めに臀王山西楽寺□□院大同二歳建立内伽藍八丁四方宛二御免地二有之候所 長曾我部燒討相成共後追々致断絶大同年中より寛文迄之累代先佳一墓ニ相約改宥存代寛文ニ城福寺浄願院興右有宥存代より中興一世給也当山先師年敷法印宥存  元禄七戊より百六拾七戊より百六拾五歳也
以上の記述については、浄願院と弘安寺を混同しているところがあり、正確なものではない。弘安寺は、もともとは境内方八町あったと伝わっている。
以上から分かるように、文献史料からは確かな手がかりを得ることはできない。弘安寺の遺物として確かなものは、本堂下の土壇や塔婆石のみである。
弘安寺は、後世には何かの事情で墓地になっていたようで、この墓地の南側に溝があり、それに添って小道がある。その南側に宅地(644ノ第二地番)があり、その間に自然の区画がある。
 これを伽藍配置の南限として、宅地(699地番)と畑地(648地番)の間の畦線と官地(642ノ内地番)の西側の道路の彎曲の頂点を南北に見通し、以上の並行線を北に延長じ道路696ノ8の地面)東北.西北両隅に近い道路の交又点を見通し、最も自然のままの彎曲線を見定め墓(648八)南添の道路と並行に東西に線を引けば、赤丸でかこんだ長方形のエリアを得ることができる。この範囲は東西両側線か40間になるので、南北両側線の長さも自然と決まる。そうすれば塔の土壇は、西塔が建っていた位置と推測できる。何んの伝説もないので、東塔はなかったようだ。そうすると墓地(648番地)辺りに、中門があったことになる。どちらにしても、塔の土壇を廻廊の内へ入れなければ伽藍配置は描けない。
 出土古瓦の文様から、弘安寺は「薬師寺式」を基本として計画したものであろう。
薬師寺食堂の調査(平城第500 次調査) 現地説明会 配布資料(2013/1/26)
薬師寺式伽藍

もとより田舎の事なので、建立にかかったものの、その一部だけしか完成しなかったのかもしれない。畑地(696ノ8)の北側まで、古瓦の破片が散見する。墓地(648)の南側道より約30間位南に離れた田地に大門の地名が残っているのが、南大門の名残であろう。これで弘安寺は平野の真ん中に、南面して建っていたことが分かる。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
出土した古瓦を見ておこう。
立薬師には甲・乙の2つの古瓦が残されている。甲は誰が見ても「白鳳期」のものである。乙は奈良期のものと云いたい所だが、今は平安初期としておこう。この二つの鼓瓦(軒丸瓦)を、突きつけられては、弘安寺は弘法大師によって建立されたとは云えなくなる。なぜなら弘安寺が姿を現したのは白鳳時代の7世紀後半で、空海が登場するよりも百年近く前のことになるからだ。大師が生まれる前に、この寺は出来ていた。大師建立など云うのは、大師の高徳を敬慕するよも勧進開山のためであろう。

 瓦の裏文様も種々ある。採取した瓦の破片の中には、奈良末期や平安中期のものもたくさんある。縄文様のものは、片面に布目もある。鎌倉時代の瓦はまだ出てこないが、室町時代末のものは、少数ではあるが出てくる。ここからは、この寺院が室町後期までは、なんとか存続していたことがうかがえる。

弘安寺礎石2
立薬師堂と礎石 古代の弘安寺の礎石がそのまま使用されている

土壇の上の塔礎石をもう一度見ておこう。
 礎石の中には元のままの位置にあって、その上に今も薬師堂の柱が載っているものもある。特に北側の4つの礎石の位置は、動かされていないようだ。両端の礎石の距離は15尺(約4、5m)ある。南側は、床下が暗くてよく分からない。その中の西側にある礎石は、東西径6尺南北径3三尺9寸で、これが一番大きい。その中央に今は手洗鉢となっている心礎があったのであろう。心礎以外には加工したものは、今のところ見当たらない。
弘安寺 塔心跡
手水石となっている塔心跡

室町末の唐卓瓦がわずかに出ているので、この寺院の廃絶時期が推察できる。
 弘安寺の廃絶は、長曾我部の兵火と文書史料は記すが、それは巷で伝えられる長曾我部兵火説と同じで事実ではない。弘安寺は何度も火災にあったことが、出てくる燒瓦から分かる。寺院の振興は、それを支える信者集団の有無にある。弘安寺は平安期には火災にあって、再建されている。しかし、鎌倉期には遺物が少なくなる。。ここからは寺運の盛衰がうかがえる。弘安寺には白鳳期の鼓瓦(軒丸瓦)がある。
 弘安寺からさほど遠くない所に讃岐忌部氏の祖神を祀る大麻神社が鎮座する。
その背後の大麻山には、積石塚古墳が数多く造営されている。これらの経済力を持った氏族が氏寺として弘安寺を建立したものと思う。このような豪族の勢力の衰退が中世になって衰退し、弘安寺が廃絶したと考える。

以上が約80年前の研究者の弘安寺廃寺に関する記述です。ここから読み取れることをまとめておくと次のようになります。
①文献史料には、弘安寺について記した同時代史料はない
②弘安寺廃寺の伽藍について、1町(108m)四方の大きさを想定
③塔は西塔だけで、現在の土壇上に建っていたと想定
④手水石は、かつての西塔の心礎でかつては、土壇上の礎石群の真ん中にあったものが、現在地に下ろされ手水石として利用されていると推測。
⑤出土した瓦から創建は、白鳳時代まで遡り、廃絶は室町時代末とされる。
⑥造営氏族は、大麻神社を氏神として祀る讃岐忌部氏を想定。

ここからは、文献史料からは弘安寺の歴史に迫ることはできないようです。考古学的な手法で迫るほかありません。 弘安寺の軒丸瓦については、以前にもお話ししたように、以下の古代寺院から出てきたものと同じ木型が使われていることが分かっています
①徳島県美馬市の郡里廃寺(こうざとはいじ:阿波立光寺)
②三木町の上高岡廃寺
③さぬき市寒川町の極楽寺跡
弘安寺軒丸瓦の同氾
阿波立光寺は美馬町の郡里廃寺のこと
次回は、この瓦を通して弘安寺の歴史に迫ってみましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「 田所眉東 (七)仲多度郡四條村弘安寺に就いて 讃岐史談下巻 第4巻第2号   1939年」

関連記事

田村廃寺周辺図

丸亀市の百十四銀行城西支店の南側からは上図のように、古瓦が数多く採取されていて、寺院を連想させる「塔の本・塔の前・ゴンゴン堂(鐘楼)」などの地名も残るので古代寺院があったことは確実だとされていますが、伽藍の発掘調査は行われていません。そのような中で、20年ほど前に旧国道11号の拡張工事と、城西支店新築工事に伴う発掘調査が行われました。今回見ていくのは、黒いベルト地帯で城西支店の道路拡張部分に当たります。
田村廃寺 上空写真3

発掘現場は道路に沿った細長いエリアだったようです。それを北側と南側のふたつに区切って調査が行われました。発掘図面で、田村遺跡の変遷を見ておきましょう。記号区分は次の通りです。
SB:掘立柱住居・SA:柵列跡・SP:柱穴・SE:井戸・SK:土坑跡・SD:溝跡・SX:性格不明

田村廃寺 道路発掘エリア


このエリアから出て来たもので驚かされたのがSK03は梵鐘鋳造遺構です
 この土坑からは十二葉細弁蓮華文軒丸瓦が一緒に出てきていますので、平安時代終わりごろにここで梵鐘が鋳造されたようです。SK03から読み取れることを挙げてみましょう。
①SK03は、田村廃寺の伽藍範囲内にあったこと
②鋳物技術者がやってきて「出吹」によって田村廃寺の梵鐘を鋳造したこと
③なんども梵鐘が作られた跡はなく、1回限りの操業であったこと
④土坑の大きさから、高さ60cm程度の小形の鐘であったこと
 田村廃寺から依頼を受けて、やってきてここで鐘を作った技術者集団とはどんな集団だったのでしょうか。この鐘が作られた古代末期は鋳物師集団の再編成が行われる「鋳造史における一大空白期」のようです。SK03はこの空白期の終わりごろにあたるようです。

田村廃寺 梵鐘鋳造図
  もう少し詳しく田村遺跡梵鐘鋳造遺構(SKO3)を見てみましょう。
①SK03は一辺約2mの方形で、深さ約70cmの土坑である。
②鋳造の終わった直後に埋められたこと
③埋土中から平安時代後期ごろの十二葉細弁蓮華文軒丸瓦が出土しているので、この時期に梵鐘鋳造が行われ、廃棄された
④瓦類とともに梵鐘の鋳型が出土していて、ほとんどが外型の破片であること
以上から、ここで作られた梵鐘は高さ約60cmほどの小形のものと報告書は指摘します。
田村廃寺 梵鐘鋳造例3

構造についても見ておきましょう。
①鋳型を設置するための定盤と呼ばれる円形の粘土の基礎が良好に残っている
②定盤は高温の青銅に触れているため、黒色に変色している。
③定盤の中央には直径5cmの穴が開けられていて、鳥目と呼ばれる鋳型を固定するためのものであると、同時に鋳造の際に湯回りをよくするためのガス抜きの穴の役割もしていた
④定盤の東側の部分が崩壊しているのは、できあがった梵鐘を、鋳型を壊したあとに、一旦東側に傾け、そこから引っ張り上げたため
田村廃寺 梵鐘鋳造例5

各地の梵鐘鋳造遺構に目を向けてみましょう
①梵鐘鋳造遺構の最初の発見は、1963年に神戸市須磨区明神町で、梵鐘の撞座とみられる鋳型が採集されたのが最初
②1971年に福井県福井市の篠尾廃寺跡で竜頭の鋳型が出土していたが、最初は仏像の鋳型とされていた。それが梵鐘の鋳型と分かるのは1977年になってから。
③1980年代後半から各地で見つかるようになっているが、古代には畿内を中心とする地域に集中するのに対し、中世以降になると全国的に分布していく傾向がある
先ほども述べたように、古代から中世にかけての約2世紀間は、鋳造された梵鐘が極端に少なく、鋳造史における空白期間であるとされているようです。この期間に、河内鋳物師を代表とする鋳物師集団の編成と地方の職能民の活動が開始されたとされます。
田村廃寺 梵鐘4

梵鐘の鋳造のためには、鋳型を設置する土坑と、材料である銅を溶かす溶解炉が必要です。田村遺跡からは、鋳型を設置する鋳造土坑(SK03)は出てきましたが、溶解炉は出てきていません。しかし、南側の(SXOl・02)から大量の被熱した粘土塊および瓦類が出土しているので、これが溶解炉だったと研究者は考えているようです。
鋳造土坑の平面プランについては、古代においては一辺が約2mの方形OR隅丸方形で、中世以降になると不整形なものに変化していくとされているようです。この基準からすると田村遺跡のものは、鋳造土坑は古代の鐘に分類されることになります。
鋳造土坑の大きさや深さは、梵鐘の大きさに比例するので、いろいろです。一番大きいものは、奈良の東大寺境内から出てきた一辺が7m、深さ4m以上という巨大なものもあるようです。


梵鐘の鋳造には、10世紀後葉(977年鋳造の井上恒一氏蔵鐘)から12世紀中葉(1160年鋳造の世尊廃寺鐘)の約180年間が「空白の期間」とされます。それが終わりを迎えて新たな活動が始まる背景を挙げておくと
①現存する平安時代末~鎌倉時代にかけての梵鐘の大部分が河内系鋳物師の作品であること
②河内鋳物師を中核とした中世鋳物師組織の編成が12世紀後半に行われる
③このころから畿内および地方において、独自の鋳物師集団が新たに成立すること
これを「消費者」の面から見ると、次のような点が考えられます
①念仏や写経、経塚造営などに始まる勧進上人(いわゆる聖)の活躍
②末法思想の普及
③多くの階層の支持を得て、寺院や仏像の修造
④勧進聖によす橋梁・道路・港湾の改修や土地の開発
梵鐘の鋳造もこのような事業の一つとして組み込まれていたとされます。その時期が11世紀後半から12世紀ごろで、勧進上人の関与する事例が多いようです。
有限会社 渡辺梵鐘(渡辺梵鐘)・梵鐘製作・修理

以上を背景に、田村遺跡の梵鐘鋳造遺構を振り返ってみましょう。
田村廃寺で鐘が作られたのは平安時代後期です。まさにこの空白期間の終わりに近い時期にあたります。この時期には、まだ讃岐では独自に梵鐘を鋳造できるだけの技術・設備はなかったようです。そのため「出吹」が行われたのでしょう。この時期は河内系鋳物師が全国へ展開していった時期と重なります。こんなストーリーが考えられます。
①三野の宗吉瓦窯から藤原京へ宮殿用の瓦が船で運ばれていくの見える頃のこと(7世紀末)
②那珂郡の海岸線に近い微髙地に有力者の氏寺の建立が始まった。
③先行する佐伯の善通寺に学びながら三重塔をもつ田村廃寺が姿を現した。
④この地は那珂郡の湊である中津にも近く、港のシンボルタワーとしても機能するようになった
⑤田村廃寺の完成後まもなくして、古代のハイウエーである南海道が東から伸びてきた。
⑦南海道は鵜足郡の郡衙法勲寺(岸の上遺跡)と那珂郡の宝幢寺(郡家)と善通寺の郡衙(善通寺南遺跡)を一直線に結ぶ幅8mの「高速道路」であった。
⑧南海道に直交して郡境が引かれ、それに平行して条里制ラインが引かれた。
⑨各郡の郡司や有力者達は、これらの工事を割り当てられた。
⑩ところが田村廃寺や宝幢寺は、南海道が姿を現す前に出来上がっていた。
⑪そのため伽藍や参道方向が条里制の方向とはずれてしまうことになった。
⑫そこで財力のある善通寺の佐伯氏は、最初に建った仲村廃寺(伝道寺)に代わって、新たに条里制に沿った形で新しい寺院を建立した。これを善通寺と名付けた。
⑬財力のない宝幢寺や田村廃寺の檀那は、そのままの伽藍方位で放置した。
⑭田村廃寺を建立した一族は、中津を基盤として瀬戸内海交易でも利益を上げ、その後も何度も改修・瓦替え工事を行ってこの寺を維持した。そのため道隆寺や金倉寺とならぶ寺勢をたもつことができた。
⑮しかし、古代末になると次第に一族は力を失い、改修もあまりされなくなった。
⑯代わって寺を守ったのは勧進聖たちであった。塩飽を目の前にする田村廃寺は、瀬戸内海交易の拠点としても機能し、そこには多くの勧進(高野)聖達が寄宿するようになった。
⑰そして、かれらはこのてらのための勧進活動を行うようになる。
⑱その一環として、高野山からやってきたある高野聖の提案で新しく鐘楼を勧進で寄進することになった。
⑲高野聖のネットワークで呼ばれたのが河内の鋳物師達だった。
⑳当時、河内の鋳物師達は呼ばれれば積極的に地方に出て行って、現地で鐘を作ることを始めていた。そして、市場と需要と保護者さえいれば、そこにそのまま留まり、定住化することもあった。

以上、田村廃寺にも河内系鋳物師が出吹にやってきたという物語でした
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   田村遺跡1 2004年3月 県道高松丸亀線改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 


讃岐の古代寺院 法隆寺は、讃岐にどんな影響を与えたのか : 瀬戸の島から

壬申の乱前後の7世紀後葉~末葉になると、讃岐でも仏教寺院が姿を見せ始める頃になります。この時期の寺院の建立者たちは、首長層や郡司に任命されるような有力者です。丸亀平野周辺でその氏族を挙げると
①坂出の下川津遺跡を拠点とする勢力
②善通寺の佐伯氏の氏寺である伝導寺(仲村廃寺)・善通寺
③宗吉瓦工場を創業した丸部氏の妙音寺
④南海道に沿った那珂郡郡家の宝幢寺
 この時期に創建される地方寺院の多くは法隆寺式伽藍配置と法起寺式伽藍配置で、前者は山田寺式軒丸瓦、後者は川原寺式軒丸瓦の系統の瓦類が多いようです。丸亀平野の古代寺院は、川原寺式系統の軒丸瓦が出てきます。田村廃寺も、前回お話ししたように創建時の白鳳瓦は川原寺式系統の軒丸瓦です。ここからは伽藍配置として、法起寺式伽藍配置が第一候補として挙げられますが、発掘調査されていないので今は、判断のしようがありません。

古代寺院の寺域のほとんどは、条里型地割の一町(約109m)を単位とします。そして、伽藍方向も丸亀平野条里型地割(N30°W前後)に沿った形で建立されています。しかし、条里型地割が行われる前に建立された寺院は、この基準に合わないものも出てきています。例えば、善通寺に先立つ佐伯氏の氏寺とされる伝導寺(仲村廃寺)では、ほぼ真北を指す伽藍配置で、丸亀平野の条里制とは一致しません。その後、伝道寺は奈良時代に消失し、あらためて南西500mの所に現在の善通寺を佐伯氏は建立します。この善通寺の寺域は条里型地割に沿っている上に、面積は216m×216mで4倍の広さになります。
 丸亀市の宝幢寺池にあった宝幢寺も、那珂郡郡家に近く南海道のすぐ北に建立されています。これも伽藍方向は伝道寺と同じように条里制地割ラインと一致しません。そして、田村廃寺の周辺の遺構である区画溝や掘立柱建物跡も真北を向いて作られています。つまり、条里制ラインとは合わないということです。
ここからは、田村廃寺の創建は、条里型地割工事が行われるよりも早かったということが想定されます。
丸亀平野で条里型地割の工事が開始されるのは、 7世紀末葉~8世紀初頭の時期とされます。地割は、まず南海道がひかれて、南海道を基準に郡界がひかれ、条里制もひかれたことが明らかにされています。鵜足郡と那珂郡、多度郡などの郡界線も南海道を基準にして直交方向にひかれています。そして、以前にお話ししたように四国学院大学構内遺跡・池の上(丸亀市飯山町)からは南海道の側溝とされる溝跡がでてきています。
 この南海道を基準とした土地区画である条里制は、国家側からしてみれば、班田収授法に象徴される各種税徴収の前提としての土地管理政策です。実際、少なくとも8世紀後半以降は、条里プランにもとづいて土地管理がなされていることも明らかにされています。
 その一方で、条里型地割の施行は耕作地のみならず、宅地や建築物の再編成をも促していることが分かってきました。新たに家を建てたり、寺を建てたりする際には条里制の方向に沿って建築せよという「行政指導」が行われていたようです。それが国家意思でした。
 伝道寺建立からわずかの期間で、条里制に沿う形で新たに善通寺を建立した佐伯氏は、地方豪族として国家意思に忠実であることを示そうとしたのかも知れません。これを時系列に並べて見ると次のようになります。
   ①妙音寺 → ②伝道寺(仲村廃寺)→③田村廃寺→④南海道・条里制工事 → ⑤善通寺

①②③は南海道や条里制の前に、すでに建立されていたことになります。
 稲木北遺跡からは、条里型地割工事の直後に作られた計画的に配置された大型建物跡群が出てきました。
これは郡衙的なレベルの建物群です。それまで宅地としては利用されていなかった所に、条里型地割工事が行われ、そして建てられています。これも「国家意思」に沿った「建築群再編成」の一端かもしれません。そして、田村遺跡からも、条里型地割の工事が行われてすぐに建てられた集落が出てきました。ところが、田村廃寺周辺に条里制施行後に建てられた建物は、条里制ラインには沿っていないのです。どうしてなのでしょうか? 国家意思への反逆を現しているのでしょうか? まさか・・・

田村廃寺周辺の条里制を見ておきましょう

田村廃寺周辺条里制
           丸亀平野の条里制

現在の⑥丸亀城がある亀山が鵜足郡と那珂郡の境界となります。那珂郡はそこから西に1条から6条まで条が続きます。多度郡と那珂郡の境界は真っ白で、条里制が実施されていません。これが旧金倉川の氾濫原とされます。
田村廃寺は那珂郡二条二十三里七ノ坪に位置することになります。
田村遺跡の西側の先代池から丸亀城西学校にかけては、条里型地割が乱れ、空白地帯となっています。これは、平池方面から流れ込んでくる旧河道(旧金倉川)が条里制施行の障害となったことがうかがえます。さらに東側をよく見ると、蓮池にかけても空白地帯があります。しかし、ここは旧河道ではなく微髙地で、田村廃寺が立地していた所になります。どうして、田村廃寺のまわりは条里制の空白地帯なのでしょうか。

条里制が作られた後も、それに沿って建物が建てられなかったのでしょうか?
田村遺跡の土地利用の転換点は7世紀末葉だと報告書は指摘します。
その背景には、古代寺院である田村廃寺の登場があるようです。この前と後では大きく異なってきます。寺域内にある建物跡Ⅱ・Ⅲ群は、田村廃寺の創建と共に建てられた関連施設とします。そのため、田村廃寺に主軸方位をそろえます。
田村廃寺周辺条里制と不整合
          田村廃寺周辺の地割ライン
上図は、丸亀平野条里型地割と建物跡Ⅱ群(N20°W前後)・建物跡Ⅲ群(ほぼ真北)と方位が同じ地割を描き出したものです。ここからはつぎのようなことが分かります。
① 田村廃寺推定地には、真北を向く地割(点線部)がある。これが田村廃寺の寺域である。
② 建物跡Ⅱ群と同じ地割は、田村廃寺の北側にもある。
③ 丸亀平野条里型地割は、田村廃寺の寺域の北側にはない。(条里制空白部)
ここからは田村廃寺の北側には、丸亀平野の条里型地割とはちがう地割があること、その地割に沿って建物跡Ⅱ群は建てられていたことが分かります。そうすると田村廃寺の北側の地割は、建物跡Ⅱ群が建てられる前の7世紀末葉頃には出来上がっていたことになります。
 この地割りエリアを「田村北型地割」と報告書は名付けます。

田村北型地割 ・・・田村廃寺伽藍の北側で認められる、N20°W前後の地割

それでは田村北型地割は、いつ頃、どのような経緯で成立したのでしょうか
まず押さえなければならないことは、7世紀末葉というのは丸亀平野に南海道がひかれ、それを基準に条里型地割の施行開始時期でもあることです。つまり、田村廃寺が早いか、南海道の出現が早いかを、もう一度確認しておく必要があります。
①田村北型地割の成立が7世紀後葉以前に遡ることが確認されれば、この地割は条里型地割に先行する地割という位置づけになる。
②丸亀平野条里型地割の施行開始と同時期かそれ以降であるならば、下川津遺跡と同様(大久保1990)、何らかの制約を受けたために、周囲の条里型地割とは異なった、いわば、変則条里型地割が作られたことになる。
これを明らかにするために、「まな板」の上に載せるのが次のような7世紀後葉以前の状況です。
①田村遺跡でから出てきた建物跡は、ばらつきが多く、田村北型地割との関連は想定できないこと
②極めて散在的に分布し、地割の規制を受けて配置されているような斉一性はないこと
ここからは、この時期に地割はなかったことがうかがえます。報告書は「現状では、田村北型地割の成立は丸亀平野条里型地割の施行開始と同時期かそれ以降に求めるほかはない。」と記します。つまり、田村北型地割は条里制よりも早いとは云えないというのです。

一方、この調査からは、調査エリア内で7世紀末葉頃に建物跡配置上の再編成が行われていることが分かっています。そして、主軸方位等に向かって斉一性の高い建物跡群(建物跡Ⅱ群)が建てられています。これは、稲木遺跡・金蔵寺下所遺跡などで見られる「条里制工事を行った後の建築物の再編成」という現象と同じです。つまり、「7世紀末葉頃の土地利用上の画期」とは「地割施行に基づく集落の再編成」という点で、丸亀平野の各地で見られる現象なのです。それが条里制に沿ったものではなく、変則条里型地割(田村北型地割)に沿ったものだったのです。
  これを報告書は、次のように記します。
「田村北型地割とは、丸亀平野条里型地割が何らかの制約を受けることで生じた、変則条里型地割であると認識する。」

 以上から分かったことを整理しておきます
①丸亀平野条里型地割は、7世紀末葉頃には田村遺跡近辺で行われていた
②田村廃寺周辺では、「何らかの制約」を受けて丸亀平野条里型地割と異なる地割が作られたこと
「何らかの制約」とは一体何なのでしょうか。
それが田村廃寺の存在だと報告書は指摘します。
①主軸方位が真北である田村廃寺の伽藍配置
②N-30°W前後である丸亀平野条里型地割
これが同一平面上に置かれれば、どこかで不整合が生じます。不整合を解消するためには、地割の方位を変更させる必要がでてきます。もちろん、田村廃寺との不整合を無視し、新たな基準となる丸亀平野条里型地割を優先させることは出来たでしょう。しかし、条里制施行が行われたのは、田村廃寺が出来たばかりの時期でもありました。田村廃寺を建立した氏族にとって、田村廃寺へ続く参拝道は大きな意味を持っていたはずです。参道を重視するために条里制施行外エリアとして、田村廃止の伽藍に沿った地割を残した。その施行責任者は、この寺を建立した氏族にあったと私は思います。これが変則条里型地割(田村北型地割)の出現背景だと報告書は記します。

 7世紀に讃岐で行われた大規模公共事業を挙げて見ると次のようなものが浮かんできます。
①城山・屋島の朝鮮式山城
②南海道建設
③それに伴う条里制施工
④各氏族の氏寺建立
これらの工事に積極的に参加して、いくことがヤマト政権に認められる道でした。郡司たちは、ある意味で政権への忠誠心を試されていたのです。綾氏は、渡来人達をまとめながら城山城を築くことによって実力を示し、郡司としての職にあることで勢力を拡大していきます。三野郡の丸部氏は、当時最先端の宗吉瓦窯を操業させ、藤原京に大量の瓦を提供することで、地盤を強化します。善通寺の佐伯氏は、空海指導下で満濃池再興を行う事で存在力を示します。まさに、この時代の地方の土木工事は郡司や地方有力者が担ったのです。
 田村廃寺を建立したばかりの氏族に選べる選択肢は、次のどちらかでした
①佐伯氏のように新たな寺院を「国家意思」の条里制ラインに沿って建立する
②田村廃寺周辺は、条里制ラインとはちがう「変則条里型地割」にして、参道を維持する
そして、取られた選択は②だったと報告書は考えているようです。

     
丸亀平野の古代の建物跡群は、条里制ラインがひかれる7世紀後葉以前と7世紀末葉以後とでは建築者の意識が大きく異なることがうかがえます。条里制がひかれる前の建物跡は、その軸をそろえる意識があまりありません。しかし、南海道が走り、条里制が敷かれる 7世紀末葉頃からは、向きを揃えるようになります。これは、ある意味では「国家意思」が目に見える形で住民にまで及んできたと云えます。これもひとつの律令国家の出現の形なのかも知れません。
まとめておくと
①南海道・条里制の出現以前は丸亀平野では建築物の向きはバラバラであった
②それが南海道通り、条里制が施行されると、それに沿ったように建築物は建てられるようになる③そこには条里制工事が終わると、その更地に条里制に沿った公共建築物群が建てられるという「建築物の再編成」さえ行われている。
④このため郡司なども氏寺や居館は、この条里制ラインに沿って建てるようになる。
⑤しかし、南海道が現れる前にすでに建立されていた寺院は周囲の条里制と不整合ラインができていまった。

岸の上遺跡 イラスト
鵜足郡の法勲寺と岸の上遺跡(郡衙?)の位置関係
   七世紀後半は、全国各地に氏寺が造営され、急速に仏教が各地に広まっていった時期です。
丸亀平野を見ても、古代寺院が次のように登場してきます。
     寺院名 建立者  郡衙遺跡候補
①鵜足郡 法勲寺  綾氏?    岸の上遺跡(飯山町)
②那珂郡 宝幢寺 不明   郡家周辺(不明)
③多度郡 仲村廃寺(善通寺)佐伯氏         善通寺南遺跡
④三野郡  妙音寺 丸部氏         不明
と、今まで見たこともないような甍を載せた金堂や、天を指す五重塔が姿を見せるようになります。仏教が伝来してから約1世紀を経て、仏教は讃岐でも受けいれられるようになったようです。しかし、この時期の地方寺院は、郡司層を中心とする有力豪族が造営した氏寺で庶民が近づくことも出来なかったようです。

岸の上遺跡 南海道の側溝跡
正倉が何棟も出てきて鵜足郡衙の可能性が高い。はるかには善通寺の五岳が望める
 讃岐の地方豪族は、どんな信仰をベースにして仏教を受けいれたのでしょうか。今回は、地方豪族の仏教受容について、見ていくことにします。
 仏教は、祖先に対する追善供養という形で、この国では受容されました。それは中央の蘇我氏と物部氏の崇仏排仏論争を見るとよく分かります。仏は「蕃神」、すなわち外来神として認識されていたようです。この時点では、仏教の難しい教理は問題にされません。例えば、仏像についてもいろいろな仏像が造られますが、当時の人々が阿弥陀像と薬師像、観音菩薩像のちがいを理解していたかと問われると疑問です。
 このことは仏像だけでなく、寺院においても同じです。戦後の発掘で、わが国最初の寺院である飛鳥寺の塔跡の心礎から出てきたのは、武器・武具・馬具です。これは、古墳の石室から出てくるものと変わりありません。最新の技術を用いて建てられた五重塔は、古墳に代わる埋葬施設として捉えられていたことがうかがえます。
 寺院が祖先信仰と結びついて建立されていることについては、『日本書紀』推古天皇二年(594)二月丙寅朔条に、次のように記されています。
詔二皇太子及大臣丿令興隆三宝是時、諸臣連等各為二君親之恩競造二仏舎丿即是謂寺焉。
  意訳変換すると
皇太子や大臣に三宝(仏像・仏典・僧侶)を敬うように勅が出され、諸臣連たちは基礎祝うように、「君親之恩=祖先供養」のために競うように仏舎を建立した。これが寺院である。

 ここで注目したいのは「諸臣連等」が競って、寺院を造営する目的です。
それは「為二君親之恩」で「祖先供養」のためだというのです。飛鳥での寺院建立も、当時は氏族の祖先信仰に基づいて行われていたことを押さえておきます。
 祖先崇拝のために建立された寺院は、氏寺として子孫が寺を管理し、祈りを捧げることになります。蘇我氏の法興寺に、馬子の子善徳が寺司となっているのは、その例でしょう。同じように『日本霊異記』下巻第二十三話には、大伴氏の寺院建立が次のように記されています。
 大伴連忍勝者 信濃国小県郡嬢里人也 大伴連等 同心其里中作堂 為二氏之寺 忍勝為欲写二大般若経一発願集物一 剃二除鬘髪著二袈裟 受戒修道 常二住彼堂 
 
意訳変換しておくと
 大伴連忍勝は信濃国小県郡嬢里の人である。大伴連一族は、その里に堂を作り氏寺とした。忍勝は大般若経を書写することを発願し、剃髪し袈裟を付け、受戒修道し、常にこの堂に住むようになった。
ここからは、信濃の大伴氏の一族が「氏之寺」を建立し、大伴連忍勝が僧侶となったことが分かります。巨費をかけて作った寺院は、一族の財産でもあります。当然、一族の者が管理することになります。そして、寺院が一族結集の場にもなっていきます。檀越が一族であることは、蘇我氏と法興寺(飛鳥寺)の場合と同じです。
飛鳥と讃岐も、寺院の建立の目的は同じであったと考えられます。
祖先信仰とは、一族の繁栄を祖霊に祈願する信仰でもあります。
当然、その一族の長に当たるものが祀るべき地位にあった方が何かと都合は良かったのでしょう。これらの史料からは、仏像も寺院も、それまでの先祖供養や祖先信仰と深く結びついていることが分かります。そのやり方は、いままでの祖先崇拝に仏教のもつ追善供養という側面を重ね合わせ形で行われたようです。
 古代の豪族層は、どうして祖先信仰を重視したのでしょうか。
 高取正男氏は、このことについて次のように述べます。

「固有信仰の祖型として抽出されている死霊と祖霊の関係とは、死者の霊魂は死んでから一定の期間中はそれぞれの個性を保って近親者に臨むが、一定の期間を過ぎると個性を失ってしまう。そしてその後は漠然とした死者霊の没個性的な習合体としてのいわゆる祖霊に組み込み、その繁栄を保証するものとなる。」

 つまり、地方の豪族達は、自分につながる父や母などの霊を先祖霊に組み込みながら疑似共同体意識を養って、団結のきずな(精神的紐帯)としてきました。そこに、伝統的な神祇信仰ではなく、蕃神の仏教が新たに用いられることになったようです。
 その要因は、いくつか考えられます。その一つはこの国の人々の「外来の新規なものへの好奇心と崇拝」かもしれません。金色に輝く仏像や、甍を載せた朱色の仏教伽藍は宗教モニュメントは、彼らの心を惹きつけるものだったでしょう。弥生時代の先祖が光り輝く青銅器を祭器とし、卑弥呼が鏡を愛したように、白鳳人は仏像を愛したとしておきましょう。仏教にはいままでの日本の神々を越える宗教的な呪術力があると思うのは当然かも知れません。讃岐の豪族の仏教受容も、こんな背景の上にあったと私は考えています。しかし、仏教受容はこれだけが理由ではありません。
1日本霊異記

『日本霊異記』には、地方寺院の建立に関する史料が載っています。ここでは、伊予と讃岐の史料を見ておくことにします。

② 上巻第十七縁には、伊予の越智氏の氏寺建立の経緯が次のように記されています。
伊予国越知郡大領之先祖越智直 当為救百済・ 遣到運之時 唐兵所福 至其唐国・ 我八人同住洲 偉得ニ観音菩薩像・ 信敬尊重 八人同ン心 窃裁二松本・以為二一舟・ 奉謂二其像 安二置舟上 各立二誓願・ 念二彼観音・ 是随西風・ 直来筑紫 朝庭聞之召 間□状 天皇忽衿 令中所レ楽 於ン是越智直言 立郡欲仕 天皇許可 然後建郡造寺 即置二其像・(以下略)

意訳変換しておくと
伊予国越知郡大領の先祖は越智直である。彼は百済救援軍の一員として朝鮮半島に従軍し、敗れて唐軍の捕虜となり、唐に連行された。そこで観音菩薩像に深く帰依するようになった。帰国の際には、その観音像を船上に安置し、無事に帰国できるように誓願し、観音像に念じた。そのためか西風に恵まれ筑紫に着くことができた。これを聞いた朝廷は彼を召して、天皇直々にねぎらった。越智は直言し、新たな郡が欲しいと願うと、天皇はそれを許した。そこで、新郡作り、寺を建て、観音菩薩像を安置した。
  ここからは越知氏の祖先が捕虜となっていた唐から観音菩薩を持って帰国し、新たに郡を作り郡司となり、氏寺を作り観音菩薩を本尊としたことが記されます。これが古代伊予の有力豪族となる越智氏の由来になります。
1田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)

「下巻第二十六縁」には、讃岐三木郡の田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)が登場します。
意訳変換したものを、見てみましょう。
三木郡の大領小屋県主宮手の妻である広虫女は、多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。また取り立ても厳しく、人々は困り果て、中には国外に逃亡する人もいた。
 広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日に病に倒れ、翌月に夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たちに語ったのち亡くなった。死後すぐには火葬をせず儀式を執り行っていたところ、広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。そのさまは大変醜く、多くの野次馬が集まるほどで、家族は恥じるとともに悲しんだ。
 家族は罪を許してもらうため、三木寺(現在の始覚寺?)や東大寺に対して寄進を行い、さらに、人々に貸し与えていたもの帳消しにしたという。そのことを讃岐国司や郡司が報告しようとしていると息を引き取った。
 以上のように、生前の「ごうつく」の罰として上半身が牛の姿でよみがえり、三木寺や東大寺への寄進を行うことで罪を許されるという『日本霊異記』では、お決まりの話です。しかし、ここからは、仏教が地方の豪族層に浸透している様子がうかがえます。

古代讃岐三木郡

 広虫女の実家の本拠地とされるのが三木郡田中郷です。
ここは公淵公園の東北部にあたり、阿讃山脈から北に流れる吉田川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためには吉田川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が必要になってきます。広虫女の父・田中「真人」氏は、こうした条件をクリアするための経営努力を求められたでしょう。
彼女は、吉田川の下流を拠点とする小屋県主宮手に嫁ぎます。
夫の小屋県の氏寺が「罪を許してもらうために田畑を寄進」した三木寺(現在の始覚寺)と考えられています。現在の始覚寺本堂の前に,塔の礎石が残っていて、その上に石塔が据えられています。

整理すると、小屋県主宮手=三木郡の郡司で、その氏寺が三木寺であったと云うのです。そこに嫁いでいったのが広虫女ということになります。
 例えば、善通寺周辺を見ると、付近に郡衛遺跡や有力な古墳(群)があります。
これらを作ったのは空海の祖先である佐伯氏と考えられます。その延長線上に、仲村廃寺や善通寺も建立されたのでしょう。多度郡でも「地方寺院は郡司層を中心とする地方豪族によって建立された」と云えるようです。特に三木寺のように、郡名と同じ名前をもつ「郡名寺院」は、郡司層による建立と考える研究者が多いようです。さらには、郡司の建立した寺院が国分寺に転用された例も報告されています。

四国学院側 条里6条と7条ライン
多度郡衙跡とされる生野本町遺跡

  最近の丸亀平野の発掘調査からも、法勲寺周辺からは、正倉群を伴い鵜足郡の郡衙跡と考えられる岸の上遺跡や、善通寺の南からも多度郡衙跡とされる遺跡が発見されました。ここからも7世紀後半から建立された寺院の建立者が郡司層を中心とする地方豪族であるが分かります。
 郡衛遺跡の近くにある寺院は、「郡衛」と密接な位置関係にあることから、これらの寺院が「評・郡衛」の公の寺(郡寺)としての性格を持っていたとする説も出てきました。しかし、地方寺院が公的な性格を持つかどうかについては意見の相違があるようです。地方寺院の性格を「氏寺」と考えるか「郡寺」と考えるかということになります。
 考古学の立場からは、次のように説明がされているようです。
  「地方豪族にとっては、仏教を受容することは国家との結合を強め、その機構の中でより有利な地位(例えば授位)を得ることが出来たものと想像される。
   本来、在地における祭祀行為の主導権を握るとされる郡司層は、旧来の地縁的・族制的な農耕儀礼的祭祀から脱却し新たな地域内の精神的支配を確立する意味においても、この新来の祭祀の形態の導入に積極的に取り組んだものと思われる」
地方豪族にとって寺院建立は祖先信仰だけにとどまらない次のようなメリットがあったことを指摘しています
①国家との結合を強め、目に見える形でそれを周囲に示すモニュメントになった
②国家への忠誠度を示すリトマス試験紙の役割
③それまでの儀礼祭祀に代わる新たな祭礼リーダーとして、支配権強化にもつながった。
  これは古墳時代に、首長達が新たに前方後円墳儀礼を一斉に取り入
れたことと似ているものがあるのかもしれません。
DSC03655
善通寺の古代の塑像頭部(本尊?)
 こうして見ると佐伯氏が、仲村廃寺を善通寺王国の中心地のすぐ近くに最初は造立したのが、すぐに場所換えて現在の善通寺の位置に移動してくる理由も分かるような気がしてきます。
最後に仲村廃寺から善通寺への「移転」について、私の仮説を記して起きます。
①善通寺王国の首長は、旧練兵場遺跡を拠点に、前方後円墳を有岡の谷に何代にもわたって築き続けた
②律令時代には多度郡司の佐伯氏として、旧練兵場遺跡の東端に仲村廃寺を建立した。
③しかし、これは氏寺的な性格が強く、「郡司」としての機能にはふさわしくなかった。
④それは南海道の設置以前に建立されたため条里制ラインに合致しないものでもあった。
⑤そこで、佐伯氏は条里制に合致した形で「多度郡寺」としてふさわしい寺を現在地に建立した。それが善通寺である。
亡命百済僧の活動

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    三船隆之 日本古代地方寺院の成立 306p

日 本史ナビ

藤原宮は本格的な条坊をもつ最初の古代都城でした。

また初めて宮城の建物屋瓦を葺いたことで も知られています。宮城の建物を瓦葺するためには、古代寺院の数十倍の屋瓦が必要になります。しかも、寺院のように着工から落慶法要までに何十年というわけにはいきません。短期間に生産する必要があります。
 その問題を解決するために取られてのが、地方に新たに最新鋭の瓦工場を作って、そこから舟で貢納させるという手法です。この手法は、どのようにすすめられたのか。またこの手法に従って、どのように宗吉瓦窯は新設されたのかを見ていきたいと思います
宗吉瓦窯 藤原京

藤原宮から出土した瓦は、製作技法・使用粘土・瓦デザインの違いか ら次の15グループに分けられています。
宗吉瓦窯 藤原京瓦供給地2
それを具体的に見ると
①大和盆地内では、日高山瓦窯、高 台 ・峰寺瓦窯、内 山 ・西 田中瓦窯、安養寺瓦窯、
②大和盆地外では、近江、讃岐三豊の宗吉瓦窯、讃岐東部、淡路の土生寺窯、和泉地域
 で生産して供給されたことが分かります。
宗吉瓦窯 藤原京瓦供給地

この内の②の大和以外のグループの立地については次のような共通点があると研究者は考えているようです。
①国家的所領に立地する
②藤原宮へ舟で瓦を運べる条件がある
③中央で編成された造瓦技術者集団が派遣されている
この3つの条件が宗吉瓦窯に、当てはまるのかどうかを検討していきましょう。  
この絵は三野湾に隣接した7世紀末の宗吉瓦窯を描いた想像図です。
宗吉瓦窯 想像イラスト

十瓶山北麓の斜面にいくつもの登窯が作られ煙を上げています。ここでは当時建設中の藤原京の宮殿に使用する瓦を焼くために、フル稼働状態でした。この想像図に書き込まれている情報を読み取っていきましょう。斜面にはいくつもの登窯が見えますがよく見ると3グループに分かれています。
①北側裾部(右)に左から順番に1号から9号までの9基
②その南(中央)に、左から10号から16号までの6基
③南側(左) 17号から23号窯の6基
 が平行に整然ならんでいます。南に少し離れて11号窯があります。発掘の結果、このように23の大型瓦窯があったことが確認されました。まるで瓦工場のようです。
  その横を流れるのが高瀬川になります。
高瀬川は、すぐ北で海に流れ込んでいます。当時の三野湾は南に大きく湾曲していて、宗吉瓦窯の近くまで海が迫っていたようです。海に伸びる道の終点は何艘もの小型船が停泊しています。そこに積み上げられているのが瓦です。瓦は小型船で、沖に停泊する大型船に積み込まれます。そして、瀬戸内海を難波の港まで渡り、大和川を経て大和に入り、藤原京まで舟で搬入されたようです。藤原京には、工事用のための搬入運河が作られていたことが分かっています。

宗吉瓦窯 藤原京運河
藤原京と運河

 藤原京建設の進展具合を見てみましょう
天武 5 676 新城、予定地の荒廃により造営を断念
天武 9 680 皇后の病気平癒のため誓願をたて、薬師寺建立を発願
天武13 684 天皇、京内を巡行し、宮室の場所を定める
朱鳥元 686 天武天皇崩御
持統 6 692 藤原の宮地の地鎮祭を行う
持統 8 694 藤原遷都
持統 9 695 公卿大夫を内裏にて饗応
持統 10 696 公卿百官、南門において大射
文武 2 698 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
大宝元 701 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
       天皇、大安殿に出御し祥瑞の報告を受ける

藤原京の建設が進む7世紀末には、この宗吉瓦窯はフル稼働状態で、作られた瓦が舟で藤原京に貢納されていたようです。
宗吉瓦窯 窯内部写真

 発掘が行われた17号窯を見てみましょう。
一番南側の窯になります。山麓を掘り抜い た全長約13m、幅 約2m、高さ1,2~1,4mの大型で最新鋭の有段式瓦窯です。この瓦窯からは、平瓦、丸瓦とともに、軒丸瓦、軒平瓦、熨斗瓦などが出土しています。その工法は、粘土板技法によるもののようです。
 また、軒丸瓦は単弁8葉蓮華文の山田寺式の系譜を引くもので、これは三豊市豊中町の妙音寺から出てきた瓦と同じ型から作られた「同笵瓦」です。

3妙音寺の瓦

また、一番北側の8号瓦窯からは重弧文軒平瓦、凸面布目平瓦などが出土しています。その中の軒瓦は、以前にもお話しした通り丸亀市郡家の宝幢寺池から出てきたものと同笵です。ここからは、この宗吉瓦窯で作られた瓦が三野郡の妙音寺や多度郡の仲村廃寺や善通寺、那珂郡の宝憧寺に提供されていたことがわかります。

さらに、17号や8号で周辺寺院への瓦が提供された後に、藤原京用の瓦を焼くために多くの窯が作られ、フル稼働状態になったことも分かってきました。今までの所を整理しておきます

宗吉瓦窯は
①讃岐在地の有力氏族の氏寺である妙音寺や宝幢寺の屋瓦を生産するための瓦窯として最初は登場
②その後、藤原宮所用瓦の生産を担うに多数の瓦窯を増設された。
 この想像図に書かれたような当時のハイテク最先端の瓦工場が、どのようにして三豊のこの地に作られるようになったのでしょうか?

讃岐三野湾周辺の歴史的背景をみておきましょう。
 宗吉瓦窯が設けられた三野津湾は、古代には大きく南に湾入していたようです。
1三豊の古墳地図

周辺の古墳時代後期の古墳としては、宗吉瓦窯の約西北1,5kmに汐木原古墳、大原古墳、金蔵古墳などがありますが、首長墓とされる前方後円墳は見当たりません。ここからは古墳時代の三豊湾には有力首長がいなかったことがうかがえます。
 ところが蘇我氏が台頭してくる6世紀後半代には、三豊湾の東岸に三野古窯群が操業を始め、窯業生産地を形成していきます。

三野平野2

三野古窯群の「殖産興業」を行った勢力は、何者なのでしょうか?
『 先代旧事本紀』の「天神本紀」に、三野物部のことが記され、三豊湾から庄内半島にかけてを三野物部が本拠地としていたことがうかがえます。三野物部は、「天神本紀」に筑紫聞物部、播磨物部、肩野物部などと一緒に記されています。これは、中央の物部氏が九州から瀬戸内海、河内の要所の港津を掌握していたことと深く関連すると研究者は考えているようです。
 つまり朝鮮半島や九州と最重要ルートである瀬戸内海の拠点として、物部氏の拠点が置かれていたと云うのです。それは、三野物部が庄内半島や三野湾を拠点に、交易・軍事・政治的活動を行ったとも言い換えられます。この説によると、三野物部によって先ほど見た三野古窯群も、朝鮮からの渡来技術者を入植させることで「殖産興業」化されたことになります。しかし、物部氏は用明天皇2年(587)に、蘇我馬子・厩戸皇子と争いに敗れ滅びます。
それでは、三野湾の周辺の支配権はどうなったのでしょうか?
敗者である物部氏の所領は、勝者である蘇我氏が接収したようです。しかし、蘇我氏も、皇極天皇4年(645)の乙巳の変(大化の改新)によって、蘇我蝦夷・入鹿が中大兄 皇子・中臣鎌足らに倒され、滅亡します。
 後に成立した養老律では、謀反などによる者の財物は、親族、資財、田宅を国家が没収すると規定 されています。没収財産は、内蔵寮、穀倉院など天皇家の家産機構にくりこまれることになっています。蘇我本宗家の滅亡の場合も、 同じような扱いになったのではないかと研究者は考えているようです。
つまり三野湾一帯の所領は、次のように変遷したと考えます
①瀬戸内海交易の拠点として物部三野が支配
②物部氏が蘇我氏に倒された後は、蘇我氏の支配
③乙巳の変(645)以後は、天皇家の家産財産化(国家的な所領)
 このように7世紀末に三野湾には、物部三野が残した大規模な三野窯跡群が所在し、その周辺 に国家的な所領があったと想定できます。
この状況を先ほど見た瓦窯設置条件から見るとどうなのでしょうか。
①周辺に先行する須恵器生産地がある。
  ここからは瓦製造に必要な粘土があること、また須恵器生産を通じて養われたノウハウや技術者が蓄積されていたと考えられます。
②国家的所領があること
 これは、労働力を徴発したり動員できること、燃料の薪も入手できることを意味します。7世紀末の時点で、すでに三野湾東部では燃料となる木材は伐採が進み、山は次々と禿げ山になっていたようです。そのため伐採がすすんだエリアの窯を放棄して、須恵器窯は山の奥へ奥へと移動していきます。しかし、国家的な事業であれば周辺の山々の木材を伐採することができます。少々遠くても、三野郡の住人を動員すればいいと担当者は考えるでしょう。どちらにしても、薪は今までのエリアを越えて集めることが出来ます。燃料供給に問題はありません。
③物部氏が運用してきた港津がある
 これは舟で近畿と結びついていることを意味します。郷里は遠くとも大量の製品を舟で藤原京まで運べます。藤原京造営のため京城内部まで運河が掘られていたことが発掘からは分かっているようです。
 以上のような好条件があったことになります。
中央の政策立案者達は、中央の進んだ造瓦技術者集団を派遣し、地元の須恵器工人たちに技術指導を行うことで、新たな造瓦組織が編成できると考えたのでしょう。あとは、製造技術や管理集団です。
 それでは、藤原京造営計画の中心にいた人物とは誰なのでしょうか。
  研究者は、平城遷都が右大臣藤原不比等の計画によって進めたとしますが、それに先立つ藤原宮の造営でも不比等が第1候補に挙げられるようです。地方に技術者を送り込み、新設工場を設置して、運営は地元の有力豪族に委託するというやり方は不比等周辺で考えられたとしておきましょう。
1 讃岐古代瓦

この時期に窯業などの先端技術を持つ人たちは、渡来人でした。
 彼らの中には、新羅・唐の連合軍の侵攻の前に国を追われ、倭国にやってきた百済の技術者が数多くいたはずです。百済滅亡時には、先端技術を持った多くの渡来人達がやってきてます。真っ先に国を逃げ出し、政治的亡命を行うのは高位高官者に多いのは今でも同じなのかもしれません。
 どちらにしても、地方における古代寺院の建立を可能にしたものは、彼らの存在を抜きにしては考えられないでしょう。ハイテク技術を持った技術者は、最初は中央の有力者の氏寺の建立に関わります。

宗吉瓦窯 川原寺創建時の軒瓦
川原時の古代瓦
それが川原寺であり、本薬師寺であったのでしょう。藤原不比等も氏寺の造営を行っているようです。中央で活躍していた技術者達に、地方への転勤命令が下されたのです。それは藤原京の瓦造りのためにでした。
  宗吉瓦窯にやってきたのは、大和の牧代瓦窯からやってきた瓦技術者だったと研究者は考えているようです。
なぜ、そんなことが分かるのでしょうか。それは、瓦のデザインの分析から分かるようです。
宗吉瓦窯 牧代瓦窯地図
研究者は次のように考えているようです。
①大和の2荒坂瓦窯は川原寺の屋瓦を生産した有段瓦窯で、当時の最新鋭の設備と技術者によって運営されていた
②2荒坂瓦窯は川原寺の瓦生産が終了すると、瓦技術者たちは近くの1牧代瓦窯に移って本薬師寺用の瓦生産に取りかかった。
③本薬師寺へ屋瓦を供給することが終了した段階で、牧代瓦窯の造瓦組織は解体されいくつかの小規模なグループに再編成された
④それは、藤原宮用の瓦生産を行うためで、各グループが地方に技術指導集団として派遣された。
⑤藤原宮用瓦の生産を行った讃岐、和泉、淡路の瓦工場は、互いに密接な関連もっていた。
①から②の移動は、燃料となる薪の木材を伐採しつくしたので、新たな場所に瓦窯を移したようです。それも含めると、瓦技術者集団は、つぎのように移動した研究者は考えているようです。

2荒坂瓦窯 → 1牧代瓦窯 → 小グループに再編され讃岐、和泉、淡路の瓦工場への派遣

この際に①や②で使われていた軒平瓦の版木デザインを、宗吉瓦窯の新工場にも持ってきて、それに基づいて忍冬唐草文の文様を書いたとします。こうして、大和から讃岐への瓦技術者の移動が明らかにされているようです。そのデザインの変化を見ておきましょう。

宗吉瓦窯 軒平瓦デザイン
牧代瓦窯6647Gに類似する文様には、讃岐東部産(長尾町)の6647Eと讃岐三豊の宗吉瓦窯6647Dがあります。3つの瓦は
①8回反転の変形忍冬唐草文で、
②半パルメット文様が特殊な形状をなし、
③右第1単位の右斜め上に三日月形の文様
 があります。
④半パルメット、渦巻形萼、蕾の表現からみて、
牧代瓦窯6647G→讃岐東部産6647E→半パ ルメットが全て上向きに表現する宗吉瓦窯6647Dの順にくずれていることを研究者は指摘します。(図5)。 
  ここからは讃岐で生産された藤原京用の平瓦のデザインは、大和の牧代瓦窯で働いていた技術者集団がもたらし、その指導の下に作られたことがうかがえます。

宗吉瓦窯 宗吉瓦デザイン
宗吉瓦窯の瓦 

再度確認しておきます。牧代瓦窯―本薬師寺系列の軒瓦は、
①本薬師寺の造瓦組織(最先端技術保有集団)を解体し
②和泉、淡路、讃岐東部、讃岐三豊産の宗吉瓦窯などへ派遣された造瓦技術者が
③粘土板技法によって藤原宮所用瓦の生産にかかわった
ということになります。
こうして新たな京城の宮殿瓦を焼く工場新設という使命を受けて、中央から技術者集団が三豊にもやってきたようです。
三野 宗吉遺2

彼らは、どのような基準で瓦工場の立地を決めたのでしょうか。
 古代も現在も瓦工場には、瓦に適した粘土・薪(燃料)・水・交通・労働力などが必要です。その中でも粘土と薪と水は、瓦つくりには必須です。まず粘土のある場所と、地下水などの水が豊富なこと、港に近く積み出しに便利なことなどが選定条件になります。それらを満たしていたことは、先ほどの復元図から読み取れます。
宗吉瓦窯 瓦運搬ルート

 薪は今までは伐採が許されなかったエリアから伐採が可能になったようです。庄内半島方面から切り出してきた形跡が見えます。薪の運搬ルートも考えて選ばれたのが十瓶山北麓の丘陵斜面である宗吉だったのでしょう。これは今まで、須恵器窯群があった三野湾東部ではなく、湾の南側になります。

1 讃岐古代瓦no源流 藤原京
 労働力は
①薪の伐採・運搬
②粘土の掘り出し
③焼きあがりの瓦の運搬
④製造工程の職人
が考えられます。これらの管理・運営は担うことになったのが、地元の有力者である丸部氏(わにべのおみ)ではないのかというのは以前にお話ししました。
 讃岐国三野郡(評)丸部氏は、7世紀後半に都との深いつながりをもつ人物を輩出します。
天武天皇の側近として『日本書紀』に名前が見える和現部臣君手です。君手は、壬申の乱(672年)の際に美濃国に先遣され、近江大津宮を攻略する軍の主要メンバーでした。その後は「壬申の功臣」とされます(『続日本紀』)。そして息子の大石には、772年(霊亀二)に政府から田が与えられています。
出来事を並列的にとらえる -『鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台』(2)- : 発想法 - 情報処理と問題解決 -

 このように和現部臣君手を、三野郡の丸部臣出身と考えるなら、讃岐最初の古代寺院・妙音寺や宗吉瓦窯跡も君手とその一族の活動と考えることができそうです。豊中町の妙音寺周辺に拠点を置く丸部臣氏が、「権力空白地帯」の高瀬・三野地区に進出し、国家の支援を受けながら宗吉瓦窯跡を造り、船で藤原京に向けて送りだしたというストーリーが描けます。
 
ちなみに丸部氏が讃岐最初の氏寺である妙音寺を建立するのは、宗吉瓦窯工場新設の少し前になります。その経験を活かして隣の多度郡の佐伯氏の氏寺善通寺や那珂郡の宝憧寺(丸亀市郡家)造営に際しても、瓦を提供していることは先述したとおりです。讃岐における古代寺院建設ムーヴメントのトッレガーが丸部臣氏だったようです。

 このような実績があったから藤原不比等から役人を通じて、次のような声がかかってきたのかもしれません。
新たに造営予定である藤原京の宮殿は、なんとしても瓦葺きにしたいとお上は思っている。板葺宮では、国際的な威信にもかかわる。そこで、新たな瓦工場の設置場所を選定している所じゃ。おぬしの所領の近くの三野湾周辺では、いい粘土が出るようじゃ。それを使って、須恵器も焼かれていると聞く。
 そこでじゃが先の壬申の乱の功績として、おぬしの実家の丸部氏に氏寺の建立を許す。完成すれば、讃岐で最初の寺院になろう。名誉な事じゃ。もちろん建立に必要な技術者達は、藤原不比等さまが派遣くださる。氏寺建設に必要な瓦窯を作って、そこで瓦を焼いてみよ。うまくいけば周辺の氏寺建設を希望する氏族にノウハウや瓦を提供することも許す。
 そうして出来上がった瓦の品質がよければ、藤原京用の瓦に採用しようというのじゃ。その時にはいくつもの窯が並んだ、今まで見たこともない規模の瓦屋(瓦窯)が三野湾に姿を現すことになろう。たのしみじゃのう。
 ちなみに大和国までは舟で運ぶことなる。その予行演習もやっておけば不比等さまは、ご安心なさるじゃろう。詳しいことは、瓦の専門家グループを派遣するので、彼らと協議しながら進めればよい。どうしゃ、悪い話ではないじゃろう。 
 という小説のような話があったかどうかは知りません。
現在の工場誘致のように丸部氏側が、不比等に請願を重ねて実現したというストーリーも考えられます。いずれにしても、政権の意図を理解し、讃岐最初の寺院を建立し、瓦を都に貢納するという活動を通じて、三野の「文明化」をなしとげ、それを足がかりに地域支配を進める丸部臣(わにべのおみ)氏の姿が見えてきます。  
宗吉瓦窯 ポスター

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 小笠原好彦    藤原宮の造営 と屋瓦生産地
関連記事

DSC00279

宝憧寺の伽藍は、近世に池となってその底に埋もれていきました。しかし、冬には水が抜かれて池干しされると、いろいろなものが採集されているようです。瓦破片以外に、池から出てきたものを今回は見ていくことにします。
南海道 宝幢寺塔心礎発掘

まずは、銅製水煙片です。
水煙は五重塔の尖端に付けられた相輪の一部分で火焔状をした装飾です。1977年に塔心礎より約30m東から出てきているようです。
宝憧寺 水煙破片

 心礎に加えて水煙の一部が出てきたことで、ここに塔が建つていたことを補強するものになります。


梵鐘鋳型と同撞座の鋳型も出てきています
 1976年に宝憧寺池の東側にある堤防の内側から発見されました。梵鐘の鋳型片など40数点の破片で、それを復原すると梵鐘の鋳型であることが分かりました。鐘の内径は約53㎝で、この鋳型で鋳た梵鐘の外径は約50㎝余りだったと推定されます。鋳型があるということは、出来上がった鐘が運ばれてきたのではなく、鋳物師が現地になってきて宝憧寺の近くで、梵鐘を造ったということなのでしょうか。
 鐘の鋳型と同時に撞座の鋳型も見つかっています。撞座は八葉複弁蓮華文で、直径9㎝で弁間に間弁がなく、雄蕊帯には莉が略されているようです。研究者によると「十五世紀前半のもの」されています。古代寺院のものではありませんが、15世紀前半まで宝幢寺が活動を行っていたことが分かります。また、讃岐の鋳物師が造った可能性も指摘されています。

 十一面観音木像    今は国分寺町の鷲峰寺に
 金倉寺にある記録「当寺末寺之事」の項目の中に宝撞寺のことを次のように記されています。
 一、此寺は清和天皇貞観年中(859)智証大師開基にて 自作の聖観音を以て安置の精舎也。即大師開基十七檀輪中の其一にて堂塔僧院数多こ校あり候所、永正、天文の争乱に伽藍残らず破壊仕り、其寺跡用水池と相成宝瞳寺池と云う。今池中大塔の礎一つ相二戮古瓦等多御座候バ  

ー、十一面観音木像 右は宝鐘寺池中より掘出し候て、郡家村社内に相納これあり候所、其後御城下 西新通町秋田屋三右衛門彩光を加えヘ 鵜足郡川原村神宮寺へ移し、これを安置す。
前半部については、前回にも紹介しましたの省略します。後半部のみ意訳すると
十一面観音木像は、宝鐘寺の池の中より掘出し、郡家村社内に保管していた。その後、丸亀城下 西新通町秋田屋三右衛門が彩光を加えヘ、鵜足郡川原村神宮寺へ移し、安置した。

ここからは、江戸時代に土手の土中から観音さまが現れたことが記されています。丸亀城下の職人が採色し、丸亀市飯山町坂本の旧川原村の神宮寺へ安置したとあります。しかし、現在はここにはありません。
神宮寺は明治の神仏分離で廃寺となり、本寺である国分寺町の鷲峰寺に移されました。
鷲峰寺 じゅうぶじ 高松市国分寺町 – 静地巡礼
鷲峰寺
 
鷲峰寺は鎌倉時代に、西大寺流律宗の拠点して再興されたお寺のようです。鎌倉時代作とされる四天王像が収蔵庫にいらっしゃいます。興福寺北円堂に安置されている四天王像をモデルにして作られているとされ、像の大きさは1mくらいであまり大きいものではありません。少し穏やかめの四天王という印象です。四天王像とともに安置されているのが十一面観音像です。これが宝憧寺から掘り出された「泥吹観音」のようです。
f:id:nobubachanpart3:20110617212418j:image

  収蔵庫の扉口から拝ませていただくと、左胸前に水瓶を持つ立像姿です。室町時代中期か後期の作とされる等身大の美しい観音さまです。信者の方は「ごみ吹観音」「泥吹観音」と親しみを込めて呼んでいるそうです。それは、池中から掘り出され神宮寺に安置されたときからのニックネームだったようです。

DSC00286

 なぜ土の中に埋められていたのでしょうか。
滋賀県の渡岸寺の国宝十一面観音も、織田・浅井の兵火の際、信者が地中に埋めて難を逃れたと伝えられます。戦乱の中で仏様をお守りする一つの方法が土中に埋めるという方法だったのかもしれません。
 阿波の三好氏か土佐の長宗我部の侵攻の際に、一時的に埋められたのでしょう。しかし、お寺は廃寺となり、観音さまはそのまま土中に放置されたのが、江戸時代になって掘り出されてということなのでしょうか。この観音さまが室町時代の作ととするなら、それまでは宝幢寺は存続していたことになります。
  薬師如来像
 宝憧寺池築造の時に出土したようで、現在は重元の照光寺に安置されているようです。高さ50㎝の木像の薬師如来で、その後に補修され今では、金箔の美しい像となっていると云います。薬師さまと一緒に現れた子持薬帥の石仏と手洗鉢も昭光寺にあるようです。

  石造観音像と石仏
 明治40年ころに宝憧寺池の北堤にある水門の東方約70mの池中から出てきたと伝えられています。長福寺(現在廃寺)へ安置されたようです。掘り出した石像は、二体の観音座像で、いずれも高さ38㎝です。同時に掘り出した光背のある石仏は、重元にあ墓地の六地蔵の傍らに安置されているようです。

宝幢寺池周辺から出てきた仏達や遺物を見ると、戦国時代に至るまで宝幢寺が宗教活動を行っていたことが分かります。
戦乱で荒廃した宝憧寺が復興されることはありませんでした。そして、江戸時代になり土器川の氾濫原の新田開発が進むにつれて、水不足が深刻化し用水確保が急務となります。そして、荒廃したまま放置されていた寺域がため池化されることになったようです。
  
 神野神社前から真っ直ぐに伸びる参道を東に行くと皇子宮に至ります。
宝憧寺 小笠原家顕彰碑

ここには「小笠原家顕彰碑」(1968年建立)が建っています。江戸時代に宝憧寺池を築いた時、そこにあった皇子宮をこの地に移すため、土地と移築費および維持費として八反余の田を寄進した小笠原家に感謝の意を表したものです。見てみましょう。
宝憧寺 小笠原家顕彰碑2
       小笠原家顕彰碑
 小笠原家は、元備前小串乙岡山巾南辺での城主であったが、応永年中(1394)当郡家郷三千石を領し名主として領家に住し、爾来地方文化政治経済の開発に貢献した。殊に宝憧寺廃寺跡に溜池を築造するに当り、宝瞳寺鎮守神皇子神社も亦池中に埋没するにつき、寛文十二年(1672)小笠原与右衛門景吉自費で八代荒神の側に新に社地を卜し、移築費と維持費として下記の土地を永代寄進されたが、大東亜戦争後の農地解放によりすべて解放された。
 惟うに斯くの如く小笠原家の恩恵は永く当代に及び稗益する所実に大である。依って郷土の人々挙って往事の遺徳を追慕し、共に相謀りて碑を建て 茲にその功績を顕彰する。
  昭和四十三年四月 (世話人、建設者略)
 小笠原家は、戦国末期の仙石秀久のころは在野にあったようです。松平初代頼重の時代には、召されて郷侍となり十石を支給されます。その後、周辺荒地の開墾などの功により加増され26石となります。その後、高松領、丸亀領、金刀比羅社領地の境改めの役を申し付けられたり、那珂郡の大政所(大庄屋)を勤めるなど、江戸時代は郡家の名家だったようです。
 明治維新には郡家小里正であったため、明治4年9月の旧藩知事松平頼聡の在国嘆願のため東讃より起こった騒動で家を焼かれます。さらに2年後には三豊郡から起こった血税一揆によって、新築したばかりの家をまた焼かれてしまいます。維新後の目まぐるしく変わる世の中にあって、小笠原家は戸長として村のため力を尽くしたようです。戦後になって顕彰碑が建てられています。

 ここからは、今の皇子神社は宝幢寺池の敷地内にあったのが、池の建設に伴い現在地に移動してきたことが分かります。宝憧寺池建設の中心的な役割を担ったのも小田原家であったようです。

以上をまとめたおくと
①宝幢寺池周辺からは、旧宝幢寺の仏像や遺物が数多く出ていている。
②青銅製の水煙破片は、塔の相輪の一部と考えられ五重塔があったことを補強する
③鐘鋳型は14世紀前後のものであり、宝憧寺の鐘が周辺で作られたことをうかがわせる。
④現在、鷲峰寺に安置される室町時代の十一面観音は宝憧寺にあったもので、この時期の宗教的活動を証明ずける
⑤神野神社の御旅所である皇子神社は、宝憧寺池築造の際に現在地に移転してきたものである。
⑥宝幢寺池築造には、後に大庄屋を勤める小笠原氏の関与がうかがえる

以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
丸亀市史
直井武久 丸亀の歴史散歩 1982年

 南海道 八条池と宝幢寺池

宝幢寺池は丸亀市の郡家にあります。3つの池がパズルのように組み合わさって四角い形をしています。その南を南海道が通過しています。宝憧寺池の下池は、冬になり池干しのために水が抜かれると、塔心礎の大きな石が現れます。
宝憧寺 心礎遠景

ここには、古代寺院があったようです。それがいつの時代かに廃寺になり水田化されていたのを17世紀になって、池が築造されることによって池底に沈んだようです。昔から宝幢寺と呼ばれていたので、出来上がった池も宝幢寺池と呼ばれるようになります。この池から出土したもの、池を築造する際に移転したものなど探りながら、宝憧寺について見ていくことにします。
  DSC00285

 金倉寺の古記録(香川県文化財保護調査会『 史跡名勝天然記念物調査報告第11所収』 には、宝憧寺のことが次のように記されています。
「此寺者清和天皇貞観年中 智證大師開基ニテ 自作之聖観音所安置之精舎也、即大師開基十七檀輪中ノ其十一二而堂塔僧院数多有之侯所 天文争乱二伽藍不残破壊仕り 基跡用水池卜相成宝瞳寺池卜云今池中二大塔礎石―ツ相残 り、古瓦箸多御座候」
意訳しておくと
この寺は清和天皇貞観年中(859年~877)に智證大師が開基し、自作の聖観音菩薩を安置した。つまり智証大師が開いた十七の寺院の中の十一番目の堂塔で僧院も数多くあった。しかし、天文年間の争乱で伽藍は残ず破壊された。その後、寺院跡は用水池となって宝瞳寺池と呼ばれるようになった。今この池の中には大塔礎石がひとつ残っている。また古瓦も数多くある。
 
ここからは次のようなことが分かります。
①宝憧寺は貞観年中(9世紀後半)に智證大師作の観音菩薩を本尊として建立され、
②天文年間 (1552~ 1554)に「伽藍は残らず破壊」され戦国乱世 に荒廃した。
③天明5(1785)に里正小笠原輿衛門によって宝瞳寺跡に溜池が築かれ、礎石が残る
しかし、出土した瓦は、四重孤文軒平瓦、複弁蓮華文軒丸瓦などで、奈良時代前期や白鳳時代のものです。古代の郡司レベルの豪族達の氏寺として建立されたと考えるのが妥当のようです。智証大師以前に作られた古代寺院のようです。
DSC00276

文献資料では、宝憧寺があった中世の郡家郷は、
①15世紀半ばの鎌倉時代に後嵯峨上皇預となり
②嘉元4(1506)年『御領目録』には、前右衛門督親氏卿の所領
と中央の権門勢家の荘園となっていたことが分かります。そのような情勢を伝える地名として、郡家小学校周辺には『 地頭 』『 領家 』などの地名が残ります。
これらの資料を受けて宝幢寺について、丸亀市史は次のように記します
白鳳時代に創建された寺で、創建されてから800有余年にわたって繁栄したが、永禄元年(1558)、阿波の三好実休が讃岐を支配下に置こうとして、多度・三野・豊田の三郡を領有していた香川之景を攻めて那珂郡に侵入した永禄合戦の際に兵火にかかり、再興に至らずついに廃寺となった。
 慶長年間に宝憧寺池、続いて寛永9年(1672)に上池(辻池)が築造された」
とあります。
これだけの予備知識を持って、現場に行ってみましょう
宝憧寺 心礎近景

冬になって水が抜かれて池干しされると、宝憧寺上池には大きな石が水の中から姿を現します。 かつて放置されていた礎石類も今は、心礎周辺に配置されています。礎石は動かせても、この塔心礎は大きすぎて動かすことが出来ずに、そのまま池に沈めたようです。
南海道 宝幢寺塔心礎

 この石は花嵩岩の自然石で、最大南北185㎝、東西約230㎝、高さ約67㎝の大きなもので、池の築造の際に動かせなかったというのも分かります。しかし、古代の建立時には、ここまで運んできています。考えられることは
①近世の灌漑水掛かりのエリアから集められる労働力では動かすことは出来なかったが、古代の郡司クラスの有力者の動員できる労働力では移動可能であった
②古代には、渡来人系の専業技術者集団がいて、少人数でも移動させることの出来る技術や工具を持っていた。
③近世の人たちには、移動させたり利用する意図がなかった。人柱のように、水に沈めた方が自然であった。
まあ、頭の体操はこのくらいにしておきましょう。

断面図を見れば分かるように、平坦にされた上面に柱座が彫られ、その中央にU字型に舎利孔がうがたれています。段の部分を舎利を入れた心孔の蓋と考えると、二重式心礎ではなく、三重式心礎になるようです。心礎上面には、排水溝も掘られています。
 心礎の設置工法は、飛鳥時代は地下式心礎、白鳳時代は地表に露出する工法が一般的と云われているようです。宝幢寺の心礎は、心礎上面が池の外側の水田面より約50㎜、現地表面より70㎜ほど高いので地表に出ていたことがうかがえます。心礎の設置状況や形状からは、白鳳時代の特徴をよく示す心礎で、建立当時から動かされた形跡はないと研究者は考えているようです。

調査報告書には、トレンチを入れた調査の結果を次のように記します
宝憧寺 トレンチ
  
①心礎を中心として土壇が広がり、その上面にはおびただしい河原石が散らばっている
②土壇は、上池からの通水のために、二箇所で掘削されている
③その上面も、築堤以来の土手改修などによって、何度も大規模に削平されている。
④土壇上が良質の粘質土のため壁土やカマド用に、地元民が土取りを行ってきた痕跡がある。
以上によって、旧地表面は完全に失われていたようです。
伽藍の形式は分かったのでしょうか?
①土壇は、東西方向の長さが90m。南北方向は、北辺のみ確認できた。
②仁池や上池の池中からも瓦片が多数でてくることから、寺域は2つの池にも及んでいた
③伽藍形状は方形か、南北に長い矩形
④伽藍配置については、部分的な発掘のために分からない。
⑤上壇の南北方向の軸は、N20°Wで、丸亀平野の条里遺構N50°Wと大きくズレがある。
⑥土壇は、5層からなっていて土壇として造成された第1層と第2層は、粘質土に河原石を混ぜて固めたもので、県下には類例のないものである
⑦塔心礎以外に礎石はない。
現在心礎の周りに並べられている礎石群は、その後の堤防工事などで出てきた者を無作為に並べてあるようです。

昭和15年発行の『史蹟名勝天然紀念物調査報告第 11』 には、次のような記載があります
金堂は基壇と思しき土壇あって東西約25米 、南北約20米である。塔婆は基壇と思しき土壇 あって東西約15米、南北も同 じく約15米である。心礎を中心として瓦礫が散在 している。金堂と塔婆の間隔は10米、金堂より東方20米 、塔婆より西方20米 にて寺域が終わっている。

80年前の戦前に書かれたこの報告書には、塔心礎の東に金堂が並ぶ法隆寺式の伽藍配置ではなかろうかと以下のような配置を推定しています。その根拠は、古瓦の分布密度から心礎から南へ中門・南大門が建っているとの推察です。

南海道 宝幢寺推定伽藍図

 もし法隆寺式の伽藍配置とすれば、塔跡の東に金堂の土壇があるはずです。しかし、1980年の発掘調査では、土壇の跡を発見することはできなかったようです。そのために丸亀市史は、伽藍配置は「不明」としています。

 戦前は、古代寺院を中央の大寺の分寺として捉えようとする傾向が郷土史家には強かったようです。そのため
「宝幢寺は、那珂郡の郡司庁の所在地であったし、法隆寺の荘園でもあったので、その分寺が建てられたものと思われる。」

と考えられていたようです。今は、東大寺が讃岐に置いたのは拠点で、寺院と呼べるものではなかったことが分かっています。代わって白鳳時代の寺院建築には、壬申の乱以後の政治情勢が色濃く反映していると研究者は考えるようになっています。つまり地方の有力豪族の論功行賞の一環として古代寺院の建設が認められるようになり、争って地方の有力豪族が建立を始めたというストーリーです。そうだとすると考えなければならないのは、次のような点です
①郡家に宝幢寺を氏寺として建立した地域有力者とは何者か?
②彼らの祖先の古墳時代の首長墓はどこにあるのか?
③どのようにして古代寺院の建築技術集団を招いたのか。
④周辺の有力者とは、どんな関係が結ばれていたのか(善通寺の佐伯氏 金蔵寺の因岐首氏)
⑤多度郡や鵜足郡では、古代寺院と郡衙と南海道はセットで配置されているが那珂郡ではどうなのか
  これらを課題としながら出てきた見てみましょう
宝憧寺池、仁池などから出てきた瓦には次のようなものがあるようです。
 ●八葉複弁蓮華文軒丸瓦(奈良時代)
 ●四重弧文軒平瓦(白鳳時代)
 ●均正唐草文軒平瓦
  ・そのほか多数の布目平瓦
宝憧寺 出土瓦1


これらの瓦は、どこで焼かれ宝憧寺まで運ばれてきたのでしょうか
その一部は、鳥坂峠を越えた三豊市三野町の宗吉瓦窯跡で焼かれたことが分かってきました。
三野 宗吉遺2
宗吉瓦窯跡

宗吉瓦窯は、初めての瓦葺き宮殿である藤原京に瓦を供給するために作られた最新鋭のハイテク工場だったことは以前にもお話ししました。その窯跡からは,いろいろな種類の瓦が出土 しています。その中の軒丸瓦は、単弁8葉蓮華文の山田寺式の系譜を引くもので,これは三豊市の豊中町の妙音寺のものと同笵でした。
また8号瓦窯からは、重弧文軒平瓦,凸面布目平瓦などが出土し,その中の軒瓦が宝幢寺跡から見つかっていた瓦と同笵であることが分かっています。つまり、三野町の宗吉瓦窯で焼かれた瓦が、妙音寺や宝幢寺に運ばれて使われていたということになります。
宝憧寺 軒丸瓦

これまでの調査からは、次のような事が言えるようです。
①宗吉瓦窯は、在地有力氏族によって造営された妙音寺や宝幢寺跡の屋瓦を生産する瓦窯として作られた
②その後,藤原宮所用瓦を生産することになり、多くの瓦窯が増設された。
③そこでは藤原京用に,軒丸瓦6278B,軒平瓦6647Dの同笵瓦が生産された
また、宗吉瓦窯から南500mには古墳時代後期に操業を開始した瓦谷古窯や7世紀前半から8世紀初頭にかけて操業した三野古窯跡群などの須恵器窯が先行して操業していたことが前提条件 になっていたと研究者は考えているようです。
 つまり、三豊湾沿岸東部は7世紀前半から8世紀初頭にかけて,讃岐で最大の須恵器生産地であったのです。そのような中で、須恵器生産エリアを支配下に置く有力者が、自分の本拠地に氏寺を造営することになります。その際に、瓦技術者を誘致すると共に。それまでの須恵器工人を組込むことによって、自分の氏寺用の瓦生産を行ったようです。その結果、完成するのが豊中町の妙音寺です。これが7世紀半ばから末にかけてだったことが出土瓦から分かるようです。そして、この寺院建立を行ったのは、壬申の乱で一族に功績者が出た丸部氏だと研究者は考えているようです。
当時の氏寺建立は郡司クラスの地方豪族のステイタスシンボルでした。
空海の佐伯家や智証大師の因岐首氏を見ても分かるとおり、地方豪族の夢は中央政府の官人となることでした。そのステップが寺院建立であったのです。ある意味、古墳時代の首長たちがそのシンボルである前方後円墳を競って築いたのと似ているかもしれません。
 丸部氏の氏寺建立を見て、多度郡や那珂郡の郡司達も氏寺建立に動き始めます。その際に協力を求めたのが、すでに寺院を完成させている丸部氏です。彼を通じていろいろな技術者集団との連絡を行ったのかもしれません。そして、実績のある宗吉瓦工場へ瓦を発注したことが考えられます。
 瓦は三野町からどのようにして運ばれてきたのでしょうか。
  大日峠越えの南海道が整備されるのは8世紀初頭で、まだできていません。鳥坂峠越えの道を、人が担いで運んだのでしょうか。
三野 宗吉遺跡1

考えられるのは、舟を使った運搬です。以前にもお話しした通り、当時の宗吉瓦窯跡は、三豊湾がすぐ近くにまで湾入してきていました。そこで舟で多度津の堀江港か、土器川河口まで運んだことは考えられます。その輸送実績が、藤原京用の瓦受注につながったのかもしれません。どちらにして、古代の宝幢寺や善通寺の瓦は三豊から運ばれてきたことを押さえておきたいと思います。
ここからは隣接する郡司(有力豪族)間の協力関係がうかがえます
 当時は白村江の敗北や壬申の乱など、軍事的な緊張が続く中でその対応策として、城山や屋島に朝鮮式山城が築かれ、軍道的な性格として南海道の工事も始まろうとしていました。これらの工事をになったのは各郡の郡司だちです。かれらは、府中の国府に定期的に出仕もしていたようです。
そのため軍事的緊張下での大土木工事は、地方有力者の求心力を高めるベクトルとして働いたのでないでしょうか。
各郡の郡司と氏寺を次のように想定しておきましょう。
多度郡の佐伯氏  氏寺は 仲村廃寺・善通寺
三野郡の丸部氏      妙音寺
那珂郡の因岐首氏     宝憧寺
鵜足郡の綾氏       法勲寺
彼らは、緊密な関係にありそれが氏寺造営にも活かされたとしておきましょう。今回は、宝憧寺の瓦までです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
小 笠 原 好 彦 藤原宮の造営と屋瓦生産地  日本考古学第16号
丸亀市教育委員会  宝憧寺跡発掘調査報告書1980年

 関連記事



  
DSC01019
善通寺東院

藤原道長全盛期の11世紀の半ばまでは、準官寺や東寺の末寺として、順調に発展してきた善通寺です。ところが11世紀後期になると、いろいろな困難が降りかかり、前途に陰りが見えてくるようになったようです。その困難の一つは、本寺である東寺の支配強化(圧迫)にあったようです。
東寺の財政政策の転換は、末寺の善通寺を圧迫しました
 東寺の財政は、丹波国大山荘や摂津国の荘園からの年貢収入もありましたが、その多くは国家から与えられた封戸に頼っていました。東寺の封戸は遠江国一五〇戸、伊豆国五〇戸など約一千戸ほどが与えられていましたが、11世紀の後半になると、律令体制の緩みで封戸収入が全く入らないようになります。そのため東寺は堂塔の荒廃や仏事の減退がひどくなってきたようです。そこで東寺は、財政の中心を封戸から荘園や末寺の納入物に移すことで、体勢を立て直す方針に転換します。こうして、荘園や末寺への支配強化の手始めとして、本寺から別当と呼ばれる全権委任者が派遣されるようになります。

DSC02707
善通寺東院金堂
東寺からやって来た別当がどんなことを行ったか見てみましょう。

「見納二十二石九斗二升七合、已に別当御運上、別当御方々用途料十六石八斗五升」

この別当というのが、東寺から善通寺管理のために派遣された僧のことです。彼は延与という名で別当職として1071(延久三)年11月に善通寺に下ってきました。着任するやいなや善通寺に納入されていた田地子四七石五斗七升七合のうち、二二石九斗二升七合を京都に送ってしまいます。さらに「別当御方々用途料十六石八斗五升」とあるので、一六石八斗五升を、別当及び別当に付き従っていた人々の用途料として消費しす。そのため善通寺が費用として使用できる地子米は、残った七石八斗だけになってしまいます。別当延与は、畠迪子(年貢)においても、納入された六石三斗のうち三石を京都に運上しています。
 現在風に言うと、支店の売り上げ利益を本社からやってきた支店長が吸い上げて、本社に送金して、支店には資金が残らないようなイメージでしょうか。支店では活動資金すら不足する状況になります。善通寺の仏事や修理ができなくなります。善通寺では、延久二年(1070)に大風で五重塔一基と三間一面の常行堂が倒れていました。塔の再建は無理だが常行堂は何とか建て直そうと、古材木を集めて修造に取りかかる手はずになっていたようです。ところが、延与の地子(年貢)収奪のために、それも不可能になりました。

DSC02670
善通寺東院の五百羅漢

 このような別当の「非道」に対して善通寺の僧侶達も黙っていたわけではありません。
延久四年の二月に上京して、東寺長者を兼ね、延与の非道を止めさせてくれるよう訴えました。その訴状には次のように書かれています。

「件の延誉(与)非道を宗と為し、全く燈油仏聖(仏供)ならびに修理料等を留め置かず、茲に因って寺中方々仏事、堂舎の修理等ほとんど欠怠す可く(なおざりになり)、その中大師御関日料(御忌日料)なお以て押し止む(支出しない)、況んや余の仏事をや(他の仏事はなおさらである)」
 意訳変換しておくと
この件について延誉(与)の行った非道は、燈油仏聖(仏供)や修理料等などのための資金を留め置かないことである。そのために善通寺の仏事、堂舎の修理などがなおざりになった上に、大師御関日料(御忌日料)なども支出しようとしない。他の仏事はなおさらである」

しかし、別当の本寺優先策が改まることはなかったようです。別当の行っていることは、「末寺(支店)から富を吸い上げて本寺(本社)を守る」という東寺の財政政策に基づいていたのですから。本展の指示通りに支店長は動いていたのです。

DSC02710
 
善通寺は、この後もたびたび本寺や国司に対して訴えをくり返しています。しかし、改善はされません。それどころか、12年ほどたった応徳元年(1084)十一月、京都の讃岐国司(遙任)から讃岐の留守所(国衛)に次のような文書が届きます。

「本の如く別当の所勘(管理)に随って雑事を勤行すべし」とあり、国府は善通寺に「本別当を以て寺務・雑事を執行せしむべし。」

との命令を伝えてきました。こうして、財政部門や寺務を完全に東寺から派遣される別当に掌握されたのです。これ以後、善通寺は東寺の末寺(荘園)として支配されることになります。善通寺の寺領からの収入が、京都の東寺に流れるようになります。

DSC01186

次に別当による経営のための組織改編が行われます。
11世紀末以後の文書には「善通曼荼羅寺所司」とあるので、善通寺と曼荼羅寺が一つとして経営されていたことが分かります。所司の構成員は、天治元年(1214)の「善通曼荼羅寺所司等解」によると権別当二人、上座・寺主・都維那の「職名」が見えます。これらの権別当以下は善通寺、曼荼羅寺の僧が任命されていますが、この上に立つ本別当の地位には本寺である東寺の僧がすわり、両寺を支配したようです。

DSC02669

11世紀末期のもう一つの大きな問題は、地方政治の変化です。
11世紀になると貴族、大寺社の所領である荘園の増加に対して、中央政府は国司に対して国衛領の減少をくい止め、国の財政を維持するように指示します。特に藤原氏を外戚としないで即位した後三条天皇は、記録所という役所を設けて積極的に荘園整理に着手し、国司の荘園圧迫が強化されるようになります。

 このような荘園圧迫策が善通寺の寺領にも、次のように具体的に及んでくるようになります。
①11世紀初、国司が国役公事と称して、雑役を善通寺の僧侶への課税追加
②11世紀後半、それまで無税であった荒廃した水田を畠地にした「春田」への課税追加
③12世紀初、在家役として、住家や屋敷地、畠地などを単位として、田畠以外の桑・苧麻・漆等の畠作物や手工業品、労役などを取り立て開始。
④曼荼羅寺の域内に住む百姓に対して牛皮・鹿皮・会料米などの雑役や春田分の労役負担。
両寺所司らは、このような国衛の課税増徴が続けば法華八講や彼岸会などの仏事ができなくなってしまうと訴えています。11世紀後半から12世紀にかけて善通寺は難しい状況に追い込まれ、苦難の梶取を迫られていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

DSC04860



りに、風流歌が踊られるのか?



 
DSC01211
   
11世紀の初めに藤原道長が
この世をば我世とぞ思う望月の かけたることもなしと思えば
 と、藤原家の威勢を詠んだ同じ年の五月十三日に、善通寺の政安という僧が、四ヶ条の請願を京都の東寺に提出しています。その請願書から当時の善通寺の姿がぼんやりとみえてきます。最初に
「讃岐国多度郡善通寺 寺司解し申し請う(お願い申し上げる)本寺裁の事」
とあります。ここからは東寺が善通寺の本寺となっていることが分かります。東寺は弘仁十四年(823)に嵯峨天皇より空海が賜わり、高野山とならんで真言密教の根本道場とした寺です。京都駅の南西にあり、新幹線からも日本一の高い五重塔が見えますし、「見仏記」ファンには見逃すことの出来ない仏さんの宝庫です。どうして善通寺が当時の末寺になったのかは、よく分からないようです。まあ、東寺は空海が真言密教の根本道場として定めた寺ですし、善通寺はその大師が誕生した寺ですから、本末関係が生まれても不自然ではないでしょう。
DSC01210
 善通寺は官寺化されていた。         
政安の東寺への請願書の第二条には、
  「右の寺(善通寺)代々の国掌御任の中、二十八箇寺の内として、国定によって公役を勤行す」
とあります。この頃は、国司が定めた公役を行う寺院が讃岐には28あり、善通寺もその一つだと言っています。古代の寺院は鎮護国家ですから、その使命は、国家の安泰と繁栄を祈ることです。そのため聖武天皇は奈良の都に大仏を建立し、全国に国分寺と国分尼寺を設置しました。天皇や国家によって建てられ国家の保護をうける寺院を官寺といいます。平安時代になると、国分寺だけでなく、地方豪族が建てた私寺が官寺に準ずる地位を与えられ、鎮護国家の祈祷を命じられる例が多くなりました。これを定額(じょうがく)寺というようです。
 善通寺は、初めは空海の生家・佐伯氏が建立した氏寺でした。
それを空海が整備再建したとされています。つまり、佐伯氏の私寺としてスタートした善通寺が、この時点では準官寺の扱いを受けるようになっていたようです。これには本寺の東寺の強力な後押しがあったのかもしれません。平安時代の中期から後期にかけて、政界や宗教界に空海の親戚筋の人が出ていることからも善通寺は大きな力を持って活動していたことがうかがえます。
DSC01214
「国定によって公役を勤行」とありますがが、課せられた「公役」とはどんなものだったのでしょうか?
まずは、「国家安泰、鎮護国家」の祈祷を勤行することです。善通寺も、平安時代や鎌倉時代の文書に、
「就中(とりわけ)、当国殊に雨を祈らしめ給うに、此の御寺の霊験掲焉なり(いちじるしい)。掲って代々の国吏皆帰依致さしむ」
「代々の国掌(国司)御祈祷の拗(その場所)、国土人民福田成熟の霊験地なり。これに由って、国郡共に仏事ならびに修理を勤仕せしめ給う所なり」
といった文言が見えます。ここからは讃岐国内の祈雨や豊作の祈祷を行って霊験があり、国司や民衆の信仰をうけていたと自ら述べています。
 この公役には、他にもいろいろな雑役が含まれていたようです。善通寺はそれらの負担を「本寺の勢いに依って」免除されていました。ところが、去年(寛仁元年)、国司がほかの寺々と同じように雑役を課してきたので、もとのように免除になるように本寺の東寺の力で取り計らってもらいたいというのが、政安の申請書の2番目のお願いです。
DSC01235
中央の有力寺院と地方寺院が本末関係を結んだ場合、プラスの面とマイナスの面があったようです。
 プラスの面をあげれば、この場合のように本寺の力で、租税免除などの特権を手に入れたり、国司の横暴を排除することもできる場合がありました。地方の寺院は、課税やその他の点で国司の支配を強く受けます。しかし国司は中央政府から与えられている権限によって支配しているわけですから、地方寺院が直接国司と交渉しても、その支配を変えさせたり排除したりすることはできません。やはり朝廷にも大きな影響力をもっている東寺や興福寺などの大寺院に頼って、中央政府-国家に働きかけてもらうのが、要求を実現する早道だったようです。善通寺の要請の多くが、朝廷や国に対してではなく、まず本寺の東寺に宛てて出されているのは、そんな事情があるようです。

DSC01237
 東寺への申請書の第一条と第三条には善通寺の寺領のことが記されています。
当時の善通寺の寺領は、多度郡と隣の那珂郡に散らばっていたようです。これらの寺領がどのようにして成立したのかは分かりません。考えられるのは建立した佐伯一族からの寄進です。寄進された土地は、もともとは租税がかかっていましたが、定額寺に認められ、国の保護を受け、仏事や修理のために寺領の租税が免除されるようになっていたようです。
当時、善通寺は寺領から年貢として二〇石あまりを徴収していたことが史料から分かります。ところがこの政安の申請書によると、
寺領を耕作している農民たちは、年貢を納めなければならないという心がない。ある農民などは、一町の田地を耕作していながら地子は全く納めていないという有様である
と記しています。
 善通寺領の田畠の耕作は、寺直属の下人に農具を与えて耕作をさせるというような直接経営ではなかったようです。寺領の周辺に住む農民に田地を預けて作らせる預作(小作のこと)だったようです。そのため農民たちは国衛領の農民で、公領の田地を耕作しており、そのかたわら善通寺の寺領も小作していたのです。その結果、荘園領主直属の小作人ではなく、自立性の強い農民だったことがうかがえます。善通寺領への年貢を、なかなか納めなかったのもそんな背景があったようです。

DSC01240
善通寺の寺司である政安の申請状は、第四条で次のように請願しています。
善通寺は讃岐国内で一、二と言われる寺で、建立の堂塔房舎の景観は他の寺より勝っている。が、田畠の地子が乏しいため、雑役を勤める下人は一人もいないという実状である。そこで本寺から国に頼んで、浮浪人を二〇人ほどを寺に下し給わって寺の修理や雑役に使うことができるようにしていただきたい

という内容です。
 善通寺の伽藍が讃岐でNO1を争うほどに整備されていたことが、ここからはうかがえます。創建から300年近くを経て、準官寺化されここまでは順調な発展ぶりだったようです。
 しかし、問題もあったようです。当時は善通寺が、農民から年貢を取りたてる事はできますが、彼らを雑役に使うことはできませんでした。だから必要な雑役人(労働力)は賃金を払って雇わなければなりません。そのためには年貢が入らなければ、それもできないということになります。そこで申請書の第四条のポイントは、寺で自由に使える労働力が欲しい。東寺の方から二十人ほどの浮浪人を使えるように讃岐国府に働きかけて欲しいというものでした。
以上、寛仁二年(1018)の政安の東寺宛ての解状(申請書)からは次のようなことが分かりました
①善通寺が、東寺の末寺として、また国の準官寺として発展してきたこと、
②寺領耕作の農民の年貢怠納や、寺の修理や雑役のために働く雑役人の不足に悩まされていた
DSC01246
 平安時代の善通寺では、どんな仏事が行われていたのでしょうか?
 先ほどの申請書から約40年後の天喜四年(1056)に善通寺の役僧たちが作成した「善通寺田畠迪子支配状」が残されています。ここでの「支配」とは、仕事を配分するという意味です。「田畠迪子支配状」とは、年貢を仏神事料や修理料などに配分してそれぞれの勤めを行わせるために作成されたもので「予算配分書」的な文書のようです。ここからは当時の善通寺で行われていた仏事の様子がうかがえます。どんな仏教イヴェントが行われていたのが見ていきましょう。
免田地子米ならびに畠迪子物等を以て仏神事を勤修すべき支配勘文の事 
合(計) 四十八石六斗  
田地地子(年貢) 米三十二石二斗  
畠地子(年貢) 十六石四斗
  
修理料  十六石九斗 
道観聖人忌日料 五斗
「予算配分書」ですから仏事や修理の費用として配分される田のと畠の地子(年貢)の総額が最初に記されています。収入総額四八石六斗のうちの、一六石九斗が修理料に充てられ、残りが仏事の費用に充てられています。田地の迪子(年貢)は三二石二斗で、40年前が二〇石でしたから約1,6倍に増えています。「寺領内の未墾地の開発が進んだ」「新しく田地の寄進や買得などがあった」としておきます。畠も田地も開発が進められて、耕地面積も大幅に増加したようです。  
DSC01244
 
①「春秋大門会 祭料一石三斗 毎月八日御仏供六斗 定灯油一斗八升」
 春秋大門会祭というのは、春と秋の二季に南大門あたりで行われていた祭りとしか推測のしようがありません。毎月八日の御仏供六斗、常燈油一斗八升(各一年分)が計上されています。四月八日がお釈迦様の誕生日なので、供物を捧げ、燈明を点していたようです。
②「 大師御忌料 二石 二斗仏供 八斗八大師御霊供八前科 一石僧供御酒料」
 空海の入定は承和二年(835)三月二十一日で、この大師御忌日の法会は、大師ゆかりの善通寺にとって最も重要な行事であったはずです。東寺ではこの日、御影供といって大師の画像(御影)を供養する法会が行われるようです。善通寺でも、二斗の仏供は大師直筆と伝えられるいわゆる瞬目の御影に供えられていたのかもしれません。
 次の「八大師」もよく分かりませが、研究者は
「真言密教を伝えた伝持八祖、竜猛、竜智、金剛智、不空、善無畏、一行、恵果、空海の八祖」
ことと推測します。真言宗寺院では、八祖の霊前に各一斗ずつ八斗の供物を今でも行うようです。一石の僧供は、仏事を勤めた僧に対する費用で、御酒料の名目で出されています。それに似たようなことが行われていたのでしょう。
④「修正月料四石五斗 三箇日夜料
    一石大餅百枚料 燈油一升五合直三斗
    一石八斗僧供料」四回
    一石五斗導師御布施
修正会ですが、これは年の始めに天下太平・五穀豊穣・万民快楽などを祈願する法会で、元日から三日間ないし七日間行われたようです。善通寺では三日の夜に行われ、その間の仏供として大餅百枚(地子一石)、燈明(燈油一升五合、地子三斗で購入)が供えられています。勤仕の僧への供養料が一度について五斗、別に食費として粥料一斗、計一石八斗、法会全体を首座として主導する大導師の御布施が一石、初夜の導師の御布施五斗、総計四石五斗が修正月料として計上されています。

⑤  御八講料八石五斗 五斗仏供十坏料 講師御布施八石
 御八講というのは法華八講のことで、法華経八巻を朝と夕に一巻ずつ、四日問にわたって講説したようです。講師は八人で、その御布施が一石ずつ計八石、仏供は五斗を8つに分けて盛って供えたようです。
⑥  二八月三箇日夜 不断念仏料三石六斗 仏供料三斗十二坏料 僧供料三石
絶間なく称名念仏を唱え続けることを不断念仏というようです。そのための行事が二月と八月にそれぞれ三日間行われています。その費用として、仏供料三斗、僧供料三石、別に非時料つまり食事料三斗が支出されています。
⑦ 西方会料七石 一石法花(華)経一部直巳畠 
  五斗阿弥陀仏ならびに同経直巳畠地子
  仏供一石 講師布施一石 講師五斗 楽所ならびに御人等録物三石
西方会というのは、その名称からして西方極楽浄土を祈念する仏事だろうと研究者はいいます。この行事のために、法華経一部が畠迪子一石、阿弥陀仏像と阿弥陀経が畠迪子五斗で購入されています。この時期に新しく始められた仏事のようです。仏供一石、講師布施一石と五斗のほかに楽所や舞人などに対する録物三石が支出されています。ここからは、当時の善通寺には「楽団」があり音楽や舞を伴ったにぎやかな行事が、新たに生み出されていたようです。「伽藍が讃岐で1,2位」と言われるくらいに立派なことと合わせて、仏事も充実しており、衆目を集める寺院であったことがうかがえます。

DSC01257
最後に次のような起請文がついています
右、免田地子ならびに畠地子等支配定むる所の起請件の如し、賦剋田見作畠見作増減有る時に於ては、相計って勤修に立用すべし、寺家司この例を以て永く惜留すること無く之を行え、若し留貪の司有らば住持三宝大師聖霊護法天等澄明を垂れんか、若し起請に誤らずして仏神事を勤修する司は、世々生々福徳寿命を身に受け、後生は必ず三会期に値遇せしめん、後々の司この旨を存じて、
敢て違失せざれ、故に起請す、
    天喜四年十二月五日 
     住僧  在判
     大法師 在判
     大法師 在判
     大法師 在判
     証成大行事
      大麻(おおあさ)大明神
      雲気(くもげ)明神
      塔立(とうりゅう)明神
      蕪津(かぶらつ)明神
     判
 件の地子物等、支配起請勘文に任せ在地司ならびに氏人等澄を加署す、
     勘済使綾  在判
     惣大国造綾 在判
文末に「故(ことされに)に起請す」とあるのは、この配分に不公平がないこと、この配分を受けたものは怠りなく仏神事を勤修することを神仏に誓ったことばです。当時の起請文の最後につけられる常套句です。証成大行事としてあげられている大麻大明神ほか四柱の神々は、その誓いをうけて確かなものとする神々です。

DSC01258
大麻神社と雲気神社は、式内社として善通寺の南に鎮座する神社です。
 同時にこのうち大麻大明神、雲気明神、蕪津明神は大歳明神、広浜明神と共に善通寺の鎮守神で、五社明神として境内の大楠の下に今でも祭られています。ここには仏教がこの地に現れる以前の「神々の連合」が垣間見える気もします。つまり、佐伯氏の勢力範囲が大麻神社や雲気神社にまで及んでいたことを物語るのではないか。ここは、古墳時代のこの地の豪族連合の合同神祭りが行われていた聖地で、そこに仏教寺院が建立されたのではないかという妄想を私は抱いています。
DSC01256

参考文献 平安時代の善通寺 善通寺史所収

関連記事


            
DSC04827
善通寺はいつ、誰が建立したのでしょうか。創建には次の3つの説があります。

3つの善通寺創建説
①大同二年(809)に弘法大師によって創建された 
   → 空海建立説
②弘法大師の父佐伯善通が創建したとする説
   → 空海の先祖(父善通)建立説
③佐伯の先祖が建立し、空海の修造説       
   → 先祖建立説  + 空海修繕
それぞれの説を見ていくことにしましょう。
第一の大師建立説は、
寛仁二年(1018)五月十三日付で善通寺司が三ヶ条にわたる裁許を東寺に請うたときの書状には、次のように記します。
「件の寺は弘法大師の御建立たり。霊威尤も掲焉なり」

ここにはただ「弘法大師の建立」と記すだけで、それがいつのことであったかは記されていません。

DSC04850

第二の空海の先祖建立説は、
延久四年(1072)正月二十六日付の善通寺所司らの解状に、次のように記します。

「件の寺は弘法大師の御先祖建立の道場なり」

また、高野山遍照光院に住した兼意が永久年間(1113)に撰述したとされる『弘法大師御伝』にも次のように記します。

「讃岐国善通寺曼荼羅寺。此の両寺、善通寺は先祖の建立、又曼荼羅寺は大師の建立なり。皆御住房有り」

   鎌倉時代になると、先祖を佐伯善通と記す史料があらわれます。それは承元三年(1209)八月日付の讃岐国司庁から善通寺留守所に出された命令書(宣)で、次のように記されています。

「佐伯善通建立の道場なり」

 以上、善通寺に残る一番番古い文書には大師建立説がみられました。しかし、その後は大師の先祖が建立したとする説が有力視されてれてきたことを押さえておきます。ただ注意しておきたいのは、鎌倉時代には先祖の名を善通としますが、善通を大師の父とはみなしていないことです。善通を空海の父とするようになるのは、近世になってからのことです。

DSC04856

 以上の二つの説を足して割ったのが、第三の「先祖の建立、大師再建説」です。
そのもっとも古い史料は、仁治四年(1243)正月、高野山の山内抗争に巻き込まれ、讃岐に配流された学僧道範の『南海流浪記』です。そこには、次のように記されています。

「そもそも善道(通)之寺ハ、大師御先祖ノ俗名ヲ即チ寺の号(な)トす、と云々。破壊するの間、大師修造し建立するの時、本の号ヲ改められざルか」

意訳変換しておくと

そもそも善道寺は、弘法大師のご先祖の俗名を寺の名としたと言われる。退転していたのを、大師が修造したときに時に、本の名前が改められなかったのであろう。

ここでは空海の再建後も、先祖の俗名がつけられた善通寺の寺号が改められなかったとしています。つまり、善通の名は先祖の俗名と記されています。なお、道範は文暦元年(1234)七月、仁和寺二品親王道助の教命をうけて『弘法大師略頌紗』を撰述し、そこには、さきにあげた『弘法大師御伝』の一文が引用されています。したがって、『南海流浪記』の記述は「善通寺は先祖の建立」説をふまえて書かれていることは間違いないと研究者は考えているようです。それと、善通寺には中世には一時的に「退転」していたことを押さえておきます。
  ここまでの史料は建立者については触れていますが、いつ建てられたのかについては触れていません。

DSC04832
善通寺五重塔(明治建立)
そして、江戸時代中期になると空海の父善通建立説が登場します
『多度郡屏風浦善通寺之記』には、建立の年次が次のように明記されるようになります。

 弘法大師は唐から帰朝された翌年の大同二年(807)十二月、父佐伯田君(ママ)から四町四方の地を寄進され。新しい仏教である密教をあますところなく授けられた師・恵果和尚が住していた長安青龍寺を模した一寺の建立に着手した。この寺は弘仁四年(813)六月完成し、父の法名善通をとって善通寺と名づけられた
 
 ここで弘仁四年(813)の落成が伝えられています。ここで注意しておきたいのは、空海の父は田君(公)で、その法名が善通とされていることです。「田公=善通・法名説」が登場します。そして父の法名にもとづいた命名であったとを記します。この『多度郡屏風浦善通寺之記』にもとづく説が、現在の善通寺の公式の見解となっています。そのため由緒やパンフレットでは「空海建立 善通(=田公の法名)=空海の父」と記されることになります。

DSC04823

 しかし、これは今までに見てきた史料から問題・矛盾があることがすぐに分かります。

空海 太政官符2
空海の出家記録 戸主佐伯直道長の戸口同姓真魚(空海幼名)
第一には、空海が31歳のときに正式の僧侶になるために提出した戸籍に出てくる戸主の名は道長です。当時の戸籍には一戸あたり何十人もの人数が記されていて、何家族かが一緒にされていました。戸主とされている道長は、お祖父さんの名前か、一族の長だと研究者は考えています。資料的には、道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。そして古い平安・鎌倉時代の史料に「善通=空海の父」とは記されていません。

DSC02710
善通寺金堂(東院)
第二には「善通=空海の父」説の成立年代が江戸時代中期ときわめて新しいことです。
平安・鎌倉期の史料に書いてあることを、江戸時代の後の資料に基づいて否定することは、歴史学的には「非常識」と言えます。また、考古学的な視点からしても、善通寺の境内からは奈良時代前期にさかのぽる瓦が出土し、塑造の薬師如来像面部断片も伝えられています。つまり、空海が誕生する半世紀前から佐伯氏の氏寺は建っていたというのが考古学の現在の答えです。

DSC02707

  空海は現在の西院にあった佐伯氏の館で生まれ、そびえ立つ五岳と氏寺・善通寺を仰ぎ見ながら真魚は育った。自分の家の氏寺は遊び場で本堂や諸堂、そこにある本尊、そこにいる一族の僧侶たちは身近なものであったと、私は考えています。なお、真魚は母の実家阿刀氏の拠点である摂津で生まれたという説も出されていますが、ここでは触れません。
白鳳時代に建立された善通寺の姿は?
道範の『南海流浪記』には、鎌倉時代の金堂について次のように記されます。
金堂ハ二階七間也。青龍寺ノ金堂ヲ模セラレタルトテ、二階二各今引キ入リテモゴシアルガ故ニ、打見レバ四階大伽藍ナリ。是ハ大師御建立、今現在セリ。御作ノ丈六薬師三尊、四天王像イマス。皆埋仏ナリ。後ノ壁二又薬師三尊半出二埋作ラレタリ。七間ノ講堂ハ破壊シテ後、今新タニ造営、五間常堂同ク新二造立。
 意訳すると
金堂は、長安の青竜寺に習った様式で二層になっているが、裳階があるために四層の大伽藍に見える。これは大師が建立したものである。空海作の丈六の薬師三尊、四天王が鎮座するが、全て「埋仏」である。後ろの壁には薬師三尊が半分だけ土に埋まっていて、半分だけ上に出ている。金堂の後の七間の講堂は壊して、新たに「五間常堂(常行堂?)」を造立した。

白鳳期の寺院が地震などで壊れたときに、本尊の薬師如来や四天王などが建物の中に埋まっていたを掘り出して祀っていたことが分かります。それが半分だけ埋まっている状態なので「埋仏」と呼んでいたようです。本堂が崩れ落ちた中から本尊を掘り出して、祀ったものだったのでしょう。ここからも退転状態だったことがうかがえます。

DSC01223
善通寺東院の金堂土台 古代の礎石が積まれている

 善通寺は、奈良時代に火災にあって、長い間放置されたままの状態にあって、仏も「埋仏」となっていました。それが再建されるのは鎌倉時代初期になってからです。ところが、この金堂も戦国時代の永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され埋もれたのを首だけ掘り出したものが、現在の宝物館にある仏頭のようです。
 『南海流浪記』には、次のように記されています。
四方四門に間頭が掲げられていて、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあった。善通之寺ハ大師御先祖ノ俗名ヲ 即寺号ト為ス云々、破壊之間、大師修道道立之時」とあり、善通は空海の父ではなく先祖の聖の名前だろうと言われていたこと、壊れたのを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったようだ

DSC02707
善通寺金堂 元禄時代に再建されたもの
東院の金堂は戦国時代の永禄元年(1558)の阿波から侵入した三好実休の兵火で焼けてます。それが再建されるのは、約140年後の江戸時代も天下泰平の元禄時代になってからです。それが現在の金堂です。
DSC01219
                善通寺金堂の古代寺院礎石

この金堂再建の際には、境内に転がっていた
白鳳期の礎石を使って基壇を作りました。
そのために、現在の本堂の基壇の中には、何個かの古代寺院の礎石が顔をのぞかせています。礎石は花尚岩や安山岩製で、柱座がはっきりと浮き出ているのですぐに見つけることができます。金堂基壇の正面側・西側・東側にある礎石の柱座の直径は65㎝、北側の柱座の直径は60㎝もあります。この礎石の上に、空海が仰ぎ見た白鳳期の古代寺院が建っていたようです。

DSC01220
善通寺金堂の古代寺院礎石

 西側に見える礎石の柱座の周囲には、配水溝かあり塔心礎ではないかと考えられています。そうすれば五重塔もあったことになります。この金堂の下には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにも思えます。でもいまは、江戸時代初期の本堂が建っておりますから残念ながら取り出すことはできません。
DSC01217

 元禄11年に再建された際には、大きな土製仏頭が出てきました。それが宝物館に展示されています。目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と研究者は考えているようです。鎌倉時代に道範が見た本尊と考えられます。どんな印相をしていたのかなどは分かりません。しかし、これが本尊の薬師如来の仏頭なのかもしれません。青銅製や木像でない塑像を本尊というのがいかにも地方の古代寺院という感じが私にはします。この薬師本尊を真魚も拝みながら育ったのかもしれません。

DSC03655
   以上をまとめると

善通寺伽藍の歴史2
①7世紀後半の白鳳時代に佐伯氏は最初の氏寺・伝導寺を建立した
②しかし、短期間で廃棄され、白鳳から奈良時代に現在地に善通寺が移された
③空海が生まれた時に氏寺はすでにあり、善通寺と呼ばれていた
④平安時代に崩壊し、本尊薬師如来などは半分埋まり「埋仏」状態であった
⑤鎌倉時代初期に、長安の青竜寺に似せて再建され、埋仏もそのまま祀られた
⑥戦国時代16世紀半ばに兵火で焼け落ちた
⑦江戸時代の元禄期に再建されたものが現在の金堂である
以上 最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
DSC01227

参考文献 善通寺の誕生 善通寺史所収
関連記事


DSC01155
王墓山の墳丘の麓にある箱形石棺  
「古代善通寺の王家の谷=有岡」に、王墓山と菊塚の横穴式石室を持つふたつの前方後円墳が相次いで造られたのが6世紀後半のことでした。しかし、それに続く前方後円墳を、この有岡エリアで見つけることはできません。なぜ、古墳は築かれなくなったのでしょうか?
 その理由に研究者たちは、次の2点を挙げます
①646年に出された「大化の薄葬令」で墳墓築造に規制されたこと
②仏教が葬送思想や埋葬方法の形を変えて行った
こうして古墳は時代遅れの施設とされたようです。変わって地方の豪族達が競うように建立をはじめるのが仏教寺院です。

古墳時代末期に横穴式の大型古墳群がある地域には、必ずと言ってよいほど古代寺院が存在する」

と研究者は言います。各地の豪族は、権力や富の象徴であり地域統治のシンボルであった古墳築造事業を寺院建立事業へと変えていったのです。
古墳から寺院へ
古墳から古代寺院へ
 それでは豪族達は、自分の好きなスタイルの寺院建築様式や、仏像モデルを発注できたのでしょうか。
そうではなかったようです。前方後円墳と同じく寺院も、中央政権の許可なく建立できるものではありませんでした。寺院建築は瓦生産から木造木組み、相輪などの青銅鋳造技術など当時のハイテクの塊でした。渡来系のハイテク集団の存在なくしては、作れるものではありません。それらも中央政府の管理下に置かれていました。中央政府の認可と援助なくしては、寺院は作れなかったのです。逆にそれが作れるというのは、社会的地位を表す威信財として機能します。
 前方後円墳がヤマト政権に許された首長しか建設できなかったこと、その大きさなどにもルールがあったことが分かってきています。つまり、前方後円墳は地方の首長の「格差」を目に見える形で示すシンボルモニュメントの役割を果たしてもいたと言えます。このような中央政府による「威信財(仏教寺院)」管理で地方豪族をコントロールするという手法は、寺院建立でも引き続いて行われます。

3妙音寺の瓦

 例えば壬申の乱の勝利に貢献した村国男依〔むらくにのおより〕は死に際して、最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、氏寺の建立を許され下級貴族として中央に進出しました。このように戦功の功賞として、氏寺の建立は認められています。地方豪族が氏寺を建てたいと思うようになった背景には、寺を建てることで、さらなる次の中央官僚組織への進出というステップにを窺うという目論見が見え隠れします。
3宗吉瓦2

 その例が、多度郡のお隣の三野郡で丸部氏が讃岐最初の古代寺院を建立するプロセスです。丸部氏は、天武朝で進められる藤原京造営に際して「最新新鋭瓦工場=宗吉瓦窯跡」を建設し、瓦を供出するという卓越した技術力を発揮します。中央政府は「論功行賞」として、丸部氏が氏寺を建設する事を認めます。こうして、讃岐で一番最初の古代寺院・妙音寺(三豊市・豊中町)が、姿を見せるのです。これを手本にして、佐伯氏の氏寺の建立は始まったと私は考えています。

佐伯氏の氏寺建立のプロセスを見ていきましょう。

DSC01201
伝導寺跡(仲村廃寺)
  佐伯氏の最初の氏寺は  伝導寺(仲村廃寺)
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、考古学が明らかにした答えとは異なるようです。善通寺の前に佐伯氏によって建立された別の寺院(Before善通寺)が明らかにされています。その伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。
 発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。

DSC04079
仲村廃寺の軒丸瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。瓦の一部は、先ほど紹介した丸部氏の宗吉瓦窯で作られたものが鳥坂峠を越えて運ばれてきているようです。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。
ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。
この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
ここまでは、有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したと受けいれやすい話です。

DSC01206
墓地の中に散在する仲村廃寺の礎石

 ところが話をややこしくするのが、時を置かずにもうひとつの寺を建て始めるのです。
DSC04077
善通寺の軒丸瓦
それが現在の善通寺の本堂と五重塔のある東院に建立された古代寺院です。そして、善通寺東院伽藍内からも伝導寺と同じ時期の瓦が出てくるのです。中には伝導寺と同じ型で模様が付けられたものも出てきます。これをどう考えればいいのでしょうか。考えられることは
①伝導寺も善通寺伽藍の創建も白鳳時代で、同時代に並立した。
 しかし、伝導寺と現在の善通寺東院は、直線にすると300㍍しか離れていません。佐伯氏がこんな近い所に、ふたつの寺を同時に建立したのでしょうか。前回に紹介した大墓山古墳と菊塚古墳は非常に隣接した時代に造営されたことをお話ししました。そして、被葬者は佐伯一族の中の有力一族の関係にあったのではないかという推察をしました。ここでも、本家と親家のような関係にある人物がそれぞれ氏寺を建立したという仮説もだせますが・・・何か不自然です。

DSC01203
仲村廃寺の礎石
②白鳳時代に伝導寺が建立されたが短期間で廃寺になり、今の伽藍の場所に移転した
 善通寺伽藍内で発見された白鳳時代の瓦は、廃寺とした伝導寺から再利用のために運ばれ使われた。この仮説には、移転の原因を明らかにする必要があります。
.1善通寺地図 古代pg
  伝導寺の南にあった3つの遺跡を見てみましょう。 
  ①生野本町遺跡は、善通寺西高校のグランド整備に伴う発掘調査で出てきた遺跡です。
溝状遺構により区画された一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。遺跡の存続期間は7世紀後葉~8世紀前葉であり、官衛的な様相が強い遺跡である。

  ②生野本町遺跡の南 100mに は生野南口遺跡が 位置する。
ここでは 8世紀前葉~中葉に属する床面積40㎡を越える庇付大型建物跡1棟、杯蓋を利用した転用硯1点が出土している。生野本町遺跡に近接し、公的な様相が窺えることから、両遺跡の有機的な関係が推測できる。
 そして、文献学的な推定からこの付近には南海道が通っていたとする次のような説がありました。
南海道は、多度郡条里地割における6里と7里の里界線沿いが有力な推定ラインである。13世紀代の善通寺文書には、五嶽山南麓に延びるこの道が「大道」と記載されてる。
 
 ③これを裏付ける考古学的な発見が、四国学院大学構内遺跡から出てきました。
この遺跡は、南海道推定ライン上にあるのですが、そこから併行して延びる2条の溝状遺構が見つかりました。時期的には7世紀末~8世紀初頭で、この2条の溝状遺構は南海道の道路側溝である可能性が高いようです。また、ここからは伝導寺で使われた同じ瓦がいくつか出てきています 。  
この3つの遺跡について述べられているキーワードを、取り出して並べてみましょう。
①7世紀後半という同時代に同じ微高地の位置するひとまとまりの施設
②計画的に並んだ同じ大きさの大型建物群
 → 官衛的な様相が強い遺跡
③延床400㎡の大型建築物
 → 地方権力の拠点?
④遺跡の間を南海道が通っていた           
 → 多度郡の郡衛が近くにあるはず
⑤伝導寺の瓦が出土
  → 佐伯氏の氏寺・伝導寺の建設資材の保管・管理
⑥どの建築物も短期間で消滅
これらを「有機的な関係」という言葉でつなぎ合わせると、出てくる結論は何でしょうか?
それは、四国学院キャンパスから南にかけての微髙地に多度郡の郡衛施設があったということ、そして、佐伯氏の館もこの周辺にあったということでしょう。
それを研究者は次のような言葉で述べます
   この様相は、官衛や豪族による地域支配のため新たに遺跡や施設が形成されたり、既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡とみると整合的である。

要は、研究者も、7世紀後半には多度郡の郡衛がここにあったと考えているようです。
DSC01748

以上から7世紀後半の善通寺の姿をイメージしてみましょう。
 条里制の区割りが行われた丸亀平野を東から一直線に、飯山方面から五岳を目指して南海道が伸びてきます。それは四国学院大学キャンパスの図書館あたりを通過してさらに、西へ伸びて行きます。その南海道の北側に、大きな集落(旧練兵場遺跡)が広がり、その集落の東端に、この地域で初めての古代寺院・伝導寺が姿を現します。そこから600㍍ほど南を南海道は西に向けて通過します。南海道に隣接するように北側には倉庫群(四国学院遺跡)が立ち、南側には多度郡の郡衛とその付属施設が並びます。そして、その周囲のどこかに佐伯氏の館があった・・・

DSC01741
 
多度郡の郡衛の北に姿を現した古代寺院。これは甍を載せた今までに見たことのないような大きな建造物で、中には目にもまばゆい異国の神が鎮座します。古墳に代わる新たなモニュメントとしては最適だったはずです。佐伯の威信は高まります。

DSC01050
佐伯氏の居館は、どこにあったのでしょうか?
  従来説は、
  ①佐伯氏の氏寺は現在の善通寺伽藍で、佐伯氏の居館は現在の西院であった
 
でした。  しかし、以上の発掘調査の成果を総合すると

  ②佐伯氏の最初の氏寺である伝導寺が建立され頃、佐伯氏の拠点は生野本町遺跡付近(四国学院の南)にあった

  ③そして伝導寺の廃絶と善通寺伽藍への移転に伴い、佐伯氏の活動の拠点も今の誕生院の場所へ移動した と考えられるようになっているようです。
 ここで、残された問題に帰ります。
なぜ伝導寺が短期間で廃棄されたのかです。
 この問題を解くヒントが、実は3つの遺跡の中に隠されています。それは、
「④三つの遺跡の建築物は、建てられて短期間で姿を消している。
ということです。これは伝導寺とおなじです。何があったのでしょうか?
7世紀後半の南海沖地震の影響は?
災害歴史の研究が進むにつれて
「白鳳時代半ばを過ぎた頃、四国地方は大地震による大きな被害を受けた」

という説が近年出されています。
「日本書紀」の巻二九、天武十三年(678)10月14日の記録に
「山は崩れ、川がこつぜんと起った。もろもろの国、郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺の塔、神社など、破壊の類は数えきれない。人民のほか馬、牛、羊、豚、犬、鶏がはなはだしく死傷した。このとき伊予温泉は埋没して出なかった。土佐の国の田50余万頃が没して海となった。古老はこんなにも地が動いたことは、いまだかつて無かったことだと言った。」
とあります。
 続いて十一月三日には
「土佐の国司が、大潮が高く陸に上がり海水がただよった。このため調(税)を運ぶ船が多く流失したと知らせてきた。」
ともあり、10月14日の地震により発生した津波の被害の報告のようです。7世紀後半に何回か大きな地震が起きていたようです。「伊予」「土佐」でも大きな被害が出ていることから、讃岐の善通寺市付近でも、戦後の南海地震と同じような被害があったのではないかと研究者は考えています。
 伝導寺が姿を見せた頃は、佐伯氏の居館は生野町本町遺跡付近にあった?
 先ほど見てきたように、この遺跡は白鳳時代の初め頃(七世紀後半)に成立し、白鳳時代末頃(八世紀初め頃)には廃絶しています。寺の移転に併せるように現在の西院に佐伯の居館も移転したようです。これも同じ地震被害に関連するものではないか、と研究者は推測します。確かに、戦後の南海地震規模と同規模の揺れなら善通寺にも被害があったでしょう。実際に多度津からの金毘羅街道の永井集落に立っていた鳥居は根元からポキンと折れています。建立されたばかりの寺院に、大きな被害が出たことは考えられます。
王墓山古墳や菊塚古墳の報告書には、大地震によると考えられる石室の変形が見られるとしています。善通寺市周辺における奈良時代以降の大地震の記録は残っていませんから、これらも白鳳時代の大地震によるものではないかといいます。
 こうした白鳳の南海大地震の被害を受けて、佐伯家の主がその対策をシャーマンに占なわせた結果、新しい場所に寺も本宅も移動して再出発せよという神託が下されたというSTORYも充分に考えられるとおもうのですが・・・・
  以上が現時点での伝道寺短期廃棄説の仮説です。これにて一件落着!と言いたいところなのですが、そうはいかないようです。
伝導寺跡からは平安時代後期の瓦が出土するのです。これをどう考えればいいのでしょうか?
普通に考えれば、この寺は平安末期まで存続していたということになります。しかし、寺として存続していたのなら瓦が別な場所で再利用されることはありません。とりあえず次のように解釈しているようです
「奈良時代の移転に伴い伝導寺が廃絶した後、平安時代後期になって伝道寺跡に再び善通寺の関連施設が置かれたのではないか」

しかし、今後の発掘次第では「解釈」は変わっていくことでしょう。

   以上をまとめておくと次のようになります。
①7世紀後半に佐伯氏は、初めての氏寺・伝導寺を建立した
②この建立には三野郡の丸部氏の協力があった
③伝導寺建立後に南海道が整備された。
④現四国学院大学の図書館付近を東西に南海道は走っていた
⑤その付近には、多度郡の郡衛や付属施設が建ち並び、佐伯氏の館も周辺にあった。
⑥しかし、天武十三年(678)10月14日の「天武の南海大地震記録」によって大被害を受けた
⑦そのため建立されたばかりの伝導寺や郡衛・館も廃棄された。
⑧そして、新寺を現在の善通寺東院に、郡衛・館を現在の西院に移動した
これが空海が生まれる半世紀前のこの地域の姿だと私は考えています。  
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。

 讃岐で一番古い寺院と云えば? 
昔は、国府の置かれた府中の開法寺が讃岐で一番古いと云われていた時期もあったようですが、今では妙音寺が讃岐最古の古代寺院とされているようです。妙音寺と聞いても、馴染みがありませんが、地元では宝積院と呼ばれています。四国霊場第70番本山寺の奥の院でもあります。
まずは現場に足を運んでみましょう。
 四国霊場本山寺は国宝の本堂と明治の五重の塔で知られていますが、その奥の院と言われる妙音寺まで足を伸ばす人はあまりいません。本山寺が平地に建つ寺とすれば、妙音寺は丘の上に建つ寺という印象を受けます。「広々とした沃野が展開し、そこには条里制の遺跡が現在している」というイメージではありません。妙音寺の北側の尾根上では、古墳や8世紀代の遺物を出土した茶ノ岡遺跡やがあることから、低い平な尾根の上に古代集落が存在したようです。
「香川県妙音寺」の画像検索結果
さて、古代寺院を攻める場合には瓦が武器になりますが、古代瓦は私のような素人にとってはなかなか分かりにくので簡単に要約します
①妙音寺出土の軒丸瓦は6種7型式が出てくる
②この中で一番古いものは十一葉素弁蓮華文軒丸瓦M0101モデルの「高句麗系」のデザイン
③このM0101モデルは、大和・豊浦寺出土瓦とデザインが似ている
④作成時期は「瓦当の薄作りや、丸瓦を瓦当頂部で接合するといった技法の特徴は7世紀前半的だが、文様の構成や畿内での原型式からの変容が著しい点」
を考えると年代的には、630年代末~670年代頃の作成が考えられるようです。つまり壬申の乱に先行する形で建立が進められたことになります。
続いて登場するタイプが軒丸瓦MO102A ・ B型式とM0103型式です。
 これらは百済大寺で最初に使われた「山田寺式」の系譜に連なる瓦です。
ところで、これらの軒丸瓦はどこで生産されていたのでしょうか?
妙音寺の瓦は隣の三野町の宗吉瓦窯で焼かれていましたが、そこでは藤原京の宮殿造営のための瓦も同時に焼いていたのです。つまり妙音寺用のM0102A・Bや同103モデルは藤原宮軒丸瓦6278B型の瓦と同じ場所で同じ時期に作られていたことになります。
 妙音寺から出土した瓦は、650~670年代の幅の始まり、90年代にほぼ終了したと考えられるようです。ここから建立もこの時期のこととなります。瓦が年代をきめます。
 妙音寺の創建時に高句麗式と山田寺式の新旧の2つの瓦が使われていることをどう考えればいいのでしょうか。
新旧の瓦に年代差があるのは、出来上がった建物毎に瓦を焼いて、葺いていったということでしょう。古代寺院の建設は、まず本尊を安置する金堂から着手するのが通例です。そうだとすれば、最初の「高句麗系」瓦は金堂に、次いで「山田寺式」瓦はその後に出来上がった塔や回廊・中門に葺かれたこと。その場合、垂木先瓦や隅木先瓦が使われているので、塔が建立されていたと研究者は見ています。讃岐で垂木先・隅木先瓦が出土した寺院は妙音寺のみで、讃岐最古の寺院にふさわしい荘厳がされたようです。
なぜ地方豪族達は、競うように寺院を建立し始めたのでしょうか? 
  その謎解きのために目を美濃国の周辺に移してみましょう。
壬申の乱後に成立した天武朝になると、各地域の豪族はステイタスシンボルとして寺院建立が進められます。その背景は、地域で確立した強大な生産力でしたが、さらなる目的は官僚機構への参入でした。そのモデルが美濃の川原寺式軒瓦を持つ古代寺院です。美濃地域の古代寺院の建立は7世紀中頃に始まり、最初は3か寺ほどでした。尾張・伊勢の場合も同様です。ところが7世紀後半になると、川原寺式軒瓦で葺かれた寺が一挙に17か寺にも急増するのです。この傾向は尾張西部や伊勢北部の美濃に隣接する地域でも見られます。これは一体何が起こったのでしょうか?
  
それは壬申の乱に関係があるようです。
 天武天皇の壬申の乱の勝利への思いは強く、戦いに貢献した功臣への酬いは、さまざまな功賞として表されました。その論功は持統天皇へ、さらに奈良時代に至っても功臣の子々にまで及びました。例えば、乱でもっとも活躍が目立つ村国男依〔むらくにのおより〕は死に際し最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、下級貴族として中央に進出しました。このように戦功の功賞として、氏寺の建立を認めたのです。美濃や周辺の豪族による造寺に至るプロセスには、壬申の乱の論功行賞を契機として寺院を建立し、さらなる次のステップである央官僚組織への進出を窺うという地方豪族の目論見が見え隠れします。
 このような中で讃岐の三豊の豪族も藤原京造営への瓦供出という卓越した技術力を発揮し「論功行賞」として妙音寺の造営を認められたのではないでしょうか。
ちなみに、かつての前方後円墳と同じく寺院も中央政権の許可無く造営できるものではありませんでした。また寺院建築は瓦生産から木造木組み、相輪などの青銅鋳造技術など当時のハイテクの塊でした。渡来系のハイテク集団の存在なくしては作れるものではありません。それらも中央政府の管理下に置かれていたとされます。どちらにしても中央政府の認可と援助なくしては寺院はできなかったのです。逆にそれが作れるというのは、社会的地位を表す物として機能します。

この時代は白村江敗北で、大量の百済人亡命者が日本列島にやってきた時代でもありました。
亡命百済人の活躍

彼らの持つ先進技術が律令国家建設に用いられていきます。それは、地方豪族の氏寺建設にも活用されたと研究者は考えています。

亡命百済僧の活動

妙音寺の瓦は、どんなモデルなの
妙音寺の周辺には忌部神社があり「古代阿波との関係の深い忌部氏によって開かれた」というのが伝承です。果たしてそうなのでしょうか。讃岐で他の豪族に魁けて、仏教寺院の建立をなしえる技術と力を持った氏族とは?
 先ほど、これらの瓦は宗吉瓦窯で生産されたこと、その中でも創建期第2段階に生産されたM0103モデルは藤原宮式の影響を受けていることを述べました。研究者は、そこから進めて「藤原造宮事業への参画を契機に妙音寺は完成した」と見るのです。

 「 宗吉瓦窯」の画像検索結果
 妙音寺の創建第1段階の「高句麗系」瓦は、畿内では「型落ち」のデザインでした。
そして第2段階の妙音寺の所用瓦も最新形式の藤原宮式でなく、デザイン系譜としては時代遅れの「山田寺式」なのです。藤原京に船で運ばれるのは最新モデルで、地元の妙音寺に運ばれるのは型落ちモデルということになります。これは何を物語るのでしょうか。
 こうした現象は、政権中枢を構成する畿内勢力とその外縁地域との技術伝播のあり方を物語るもののなのでしょう。もっとストレートに言えば畿内と機内外(讃岐)との「格差政策」の一貫なのかも知れません。
 三野の宗吉瓦窯を経営する氏族と妙音寺を建立した氏族は同じ氏族であった可能性が高いと研究者は考えています。それにも関わらず中央政権は、讃岐在住の氏族への論功行賞として妙音寺に最新式の藤原宮式瓦の使用を許さなかったと研究者は考えています。

「 宗吉瓦窯」の画像検索結果
 


  
参考文献
佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論

中寺廃寺の石組遺構は、なんのために積まれたの  

イメージ 1
中寺廃寺遊歩道
中寺廃寺はA・B・Cの3つのゾーンに分けられています。
ここまで来たらCゾーンにも行かねばならぬと足を伸ばすことにします。Cゾーンは、塔のあるAゾーンから谷をはさんだ南の谷間にあります。
 お手洗いの付属した休憩所の上から谷間に下りていく急な散策路を下っていきます。人が通ることが少ないようで、これでいいのかなあと思う細い道を下っていくと・・・猪除けの柵が現れ、進むのを妨げます。「石組遺構」らしきものはその向こうの平場にあるようです。柵を越えて入っていきます。
イメージ 2
中寺廃寺Cゾーン

あちらこちらに石組跡らしきものはありますが、崩れ落ちていて石を積んだだけに見えます。その配列や大きさにも規則性はないようです。私が最初の推察は「墓地」説でした。この寺院の僧侶の墓域ではないかと思いました

イメージ 3
中寺廃寺石組遺構
後日に手に入れた報告書を読むとこう書かれていました。
「当初、「墓地」の可能性を考え下部に蔵骨器や火葬骨などの埋葬痕跡の有無に注意を払った。しかし、外面を揃えて大型の自然石を積み、内部に小振りの自然石を不規則に詰め込むという手法に、墓地との共通性はあっても、埋葬痕跡はまったくなく、墓の可能性はほぼ消滅した。」
 山林寺院に墓地を伴う例はありますが、墓地が形成されるのは中世(平安後期)以降のことのようです。この中寺廃寺は中世には廃絶しています。

それでは何のために作られたものなのだろう?

報告書にはそれも書かれていました。読んでいて面白かったので紹介します。
報告書の推論は「石塔」説です。、
仏舎利やその教えを納めるという仏教の=象徴としての「塔」、
あるいは象徴としての「塔」を建てる行為は功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。
  『法華経』巻2「方便品」には。
在家者が悟りを得る(小善成仏)のために、布施・持戒などの道徳的行為、舎利供養のための仏塔造営と荘厳、仏像仏画の作成、華・香・音楽などによる供養、礼拝念仏などを奨励する。
その仏塔造営には、万億種の塔を起し=て金・銀・ガラス・宝石で荘厳するものから、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで、ランクを付けて具体例を挙げる。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」なのである。
 童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る
にも見えます。 平安時代前期には民間布教に際に語られていたようです。また、平安時代中頃までに、石を積んで石塔とする行為が、年中行事化していた例もあります。
 「三宝絵」下巻(僧宝)は、「正月よりはじめて十二月まで月ごとにしける、所々のわざをしるせる」巻です。その二月の行事として記載されているのが「石塔」です。
  石塔はよろづの人の春のつつしみなり。
諸司・諸衛は官人・舎大とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。『心経』を書きあつめ、導師をよびすへて、年の中のまつりごとのかみをかざり、家の中の諸の人をいのる。道心はすすむるにおこりければ、おきな・わらはみななびく。功徳はつくるよりたのしかりけば、飯・酒多くあつまれり。その中に信ふかきものは息災とたのむ。心おろかなるものは逍邁とおもへり。年のあづかりを定めて、つくゑのうへをほめそしり、夕の酔ひにのぞみて、道のなかにたふれ丸ぶ。
 しかれどもなを功徳の庭に来りぬれば、おのづから善根をうへつ。『造塔延命功徳経』に云はく、「波斯匿王の仏に申さく、「相師我をみて、『七日ありてかならずをはりぬべし」といひつ。願はくは仏すくひたすけ賜へ』と。仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為のようです。
山に登って、ケルンを積むのも「作善」とも言えるようです。わたしも色々なところで石を積み無意識に「作善」してきたことになるのかもしれません。
さて、この『三宝絵詞』が描く年中行事としての「石塔」の記録から分かることがいろいろあります。 報告書は次のように続けます。
イメージ 4
中寺廃寺石組遺構
 まず、重要なのは、「石塔」を積む場が「川原」であることです。
 川原は葬送の地、無縁・無主の地で、彼岸と此岸の境界でもあります。そして「駆込寺」が示すように、寺院はアジールであり、時には無縁の地ともなります。中寺廃寺C地区は、仏堂・塔・僧房などの施設があるA地区やB地区とは、谷を隔てた別空間を構成しています。C地区は葬地でなくても「川原」だと考えられます。石組遺構が、谷地形に集まっているのも、それを裏づけるとします。これは後世の「餐の河原」に通じる空間とも言えます。
このC地区に37残る石組遺構は、年中行事である[石塔]として毎年春に作られて続けた累積結果と考えられるようです。   
次に報告書が注目するのは「石塔」が「よろずの人の春のつつしみ」であることです。
『三宝絵詞』は、石塔を積んだ人たちを「諸司・諸衛の官人・舎人」や「殿ばら・宮ばら」配下の「召次・雑色」が、「石を重ねに塔の形にする」した人々とします。しかし、この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族だけでなく、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人も、「石塔」を行なったはずです。Aゾーンの本堂や塔などの法会は僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったのではないでしょうか。
ここでは、祈りと宴会が行われていた? 

そう理解すると「春」という季節や、単に石を積むだけでなく「飯・酒多くあつまれ」という饗宴行為もぴったりと理解できます。
 春の予祝行事である、その年の豊饒を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、あるいは山桜の咲く頃に、豊作祈願や大川|山からの国見を兼ねて中寺廃寺に参詣し、C地区で石を積む姿が見えてくるようです。
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。
「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。その頃に大川山詣でをする人たちがこの谷に立ち寄って、石を積み上げていったと考えたくなります。
 大川山を霊峰と仰ぐ里の住民は、官人・豪族・村人の階層を問わず、中寺廃寺に参詣したはずです。中寺廃寺C地区の石組遺構群は、そうした地元民衆と寺家との交流の場だったのかもしれません。
イメージ 5

 報告書は更にこう続けます。  
「石塔」行事の場である「川原」が、平安京に隣接する鴨川などの川なら、官人や雑色が積み上げた「石塔」が遺構として残る可能性は限りなくゼロに近い。平安代後期まで存続せず、炭焼が訪れる以外は、人跡まれな山中に放置された中寺廃寺の方形石組構であるからこそ残ったのである。もし、中寺廃寺が中世まで存続したら、付近で墓地が展開した可能性は高く、埋葬をともなわない「石塔」空間を認識することは困難になったかもしれない。
つまり「平安時代のまま凍結した山寺院関係の遺跡=中寺廃寺」だからこそ残った遺構なのです。そして「石塔」とすれば、はじめての「発掘=発見」となるようです。

中寺廃寺について、分からないこと、分かったこと 

中寺廃寺は大川山に近い山の中にある「山林寺院」として「国史跡」に指定されています。しかし、地上に残るものを見てもその「ありがたさ」が私にはもうひとつ理解できません。そこで自分の疑問に自分で答える「Q&A」を作って見ました。
 なおこの寺の現況については以前に紹介しましたのでこちらをご覧ください。

イメージ 1
大川山からのぞむ中寺廃寺

Q1 中寺廃寺が、大川山の奥に建立されたのはどうして

 大川山(標高1043m)は。丸亀平野から見るとなだらかな讃岐山脈の上にとびだすピダミダカルな頂が特徴的でよくわかる山です。この山は、天平6年(734)の国司による雨乞伝説を持ち、県指定無形文化財となった念仏踊りを伝える大川神社が山頂に鎮座します。讃岐国の霊山・霊峰と呼ぶのにふさわしい山です。
イメージ 2
B地区 割拝殿跡から望む大川山
聖なる山を仰ぎ見る「山岳信仰」と山林寺院は切り離せません。
仏教が伝来する前から、人々は山を神とあがめてきました。
比叡山延暦寺と日吉大社の関係をはじめとして、「山林寺」に隣接して土地の神(地主神)や山自体を御神体とする神社が祀られています。中寺廃寺は、大川山を信仰対象と仰ぎ見る遙拝所としてスタートしたと考えられます。
大川山を遙拝するなら、どうして山頂に寺院は建てられなかったの?
 大川山が聖なる山で、中寺廃寺はその遙拝所だったからです。
霊山の山頂には、神社や奥院、祭祀遺跡や経塚があっても、山林寺院が建立されることはありません。石鎚信仰の横峰寺や前神寺を見ても分かるように、頂上は聖域で、そこに登れる期間も限られた期間でした。人々は成就社や横峰寺から石鎚山を遙拝しました。つまり、上には神社、遙拝所には寺院が建てられたのです。
 また、生活レベルで考えると山頂は、水の確保や暴風・防寒などに生活に困難な所です。峰々は修行の舞台で、山林寺院はその拠点であって、生活不能な山頂に建てる必要はないのです。
 B地区が大川山の遙拝所として利用され始めるのが8世紀、
割拝(わりはい)殿や僧房などが建てられるのは10世紀頃になってからのようです。

イメージ 4
B地区 割拝殿と僧坊 ここからは大川山が仰ぎ見えます

Q3 古い密教法具の破片からは何が分かるの? 

 中寺廃寺跡からは、銅製の密教法具である錫杖や三鈷杵(さんこしよう)の破片が出土しています。これらの法具は、空海が唐から持ち帰る以前の古い様式のものです。このことから寺院が建てられる前から小屋掛け生活して、周辺の行場を回りながら「修行」をしていた修験者がいたことがうかがえます。
 空海によって密教がもたらされる以前の非体系的な密教知識を「雑多な密教」という意味を込めて「雑密」と呼びます。その雑密の行者達の修行が、行われていたことを示します。
 空海が密教を志した8世紀後半は、呪法「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」の修得のため、山林・懸崖を遍歴する僧侶がいました。空海も彼らの影響を受けて「大学」をドロップアウトして、その中に身を投じていきます。ここから出土した壊れた密教法具の破片は、厳しい自然環境の中、呪力修得に向け厳しく激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を、物語っているように思えます。そして、その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

若き日の空海(真魚)の山林修行は?

山林仏教の修行者となった青年空海は、二十四歳の時、自らの出家宣言として書き上げた「三教指帰』の序文で次のように述べています。
「ここに一の沙門あり。余に虚空蔵求聞持の法を呈す。その経に説かく、「もし人、法によって(正しく)この真言一百万遍を誦せば、すなわち一切の教法の文義(文章と意味)暗記することを得」と。
 ここに大聖(仏陀)の誠言を信じて、飛頷を讃燧に望み(大変努力して、阿国(現在の徳島県)大滝嶽にのぼりよじ、土州(現在の高知県)室戸崎に勤念す谷、響きを惜しまず、明星(金星)来影す(姿を現す)。        (『定本弘法大師全集』七、四一頁)
空海は求聞持法をおこなった場所として具体的に地名を挙げているのは「大滝嶽」「室戸崎」だけですが、辺路修行として他の四国の聖山・聖地で行った可能性はあります。空海は、正式な得度や度牒を得ない私度僧の立場でこの修行をおこなっていたようです。
 当時、南都仏教の学解僧を中心とする大きな存在があった一方で、山林に入って一定期間大自然と一体化する山林修行や、求聞持法のような古密教的な修行法を重視する実践系の仏教集団が形成されていたのです。むしろ、両者の要素を兼ね備えた僧が周りの尊敬を集められたのです。。
 空海が四国の海辺や山岳が求聞持法の修行地として選んだことは、のちに続く密教山岳僧に大きな影響をもたらします。空海が中国からもたらした体系的な密教の実践エリアとして、この地が選ばれるようになります。空海を始祖の一人とする辺地修行と密接に結びつく聖地となっていくのです。それが平安後期から鎌倉期にかけて「弘法大師信仰」によって統一され、次第に「四国遍路」として体系化されることになります。ここはそんな空間のひとつだったのかもしれません。

イメージ 5

A地区 本堂と塔がある中寺廃寺の中枢地区です

中寺廃寺は、いつごろ存続した山林寺院なのですか

この寺院の活動期は次のような3期に分類されているようです。
  1 8世紀後半~9世紀  大川山信仰と修行場
 尾根の先端B地区において、行者たちの利用が始まります。。この時期には建物跡は確認できません。遺構が残らないような簡易施設で「山中修行場」として機能した時期で、B地区は遙拝書として機能していました。
  2 10世紀~  伽藍出現と維持期
谷の一番奥で標高が一番高いA地区に塔・仏堂が姿を現し、B地区では仏堂・僧房が、C地区おいて石組に遺構群が作られる時期です。この時期は、機能が異なるA・B・Cの3つの空間が愛並び、谷を囲んで向かい合う山林寺院として整った時期です。これには、讃岐国衙や国分寺も関わっているようです。
  3 12世紀以降 消滅期 
各地区から建物遺構が見られなくなる時期です。平安時代末期のこの時期に中寺廃寺は衰退・廃絶したと考えられます。
つまり、空海が活躍する9世紀後半以前から、ここは行場として修験者たちが活動する聖地になっていたようです。そして、平安時代が終わるに併せるかのように破棄され忘れ去られていきました。
国司として赴任した菅原道真は、この寺の存在を知っていたのですか?
 道真が着任した仁和2年(886)の夏のことです。
国府の北にある蓮池の蓮の花が真っ盛りでした。土地の長老が「この蓮は元慶(877 - 84年)以来葉ばかりで花が咲かなかったが、仁和の世になると、花も葉も元気になった」と云います。蓮は仏教ではシンボル花なので道真は「池の蓮花を採取して「部内二十八寺」に分捨する」ように提案すると、役人は喜んで香油なども加えて「東西供養」したといいます。[『菅家文草』巻4、262]。
「部内二十八寺」とは、讃岐の国衙が管理する寺28寺です。
ここから、9世後半の讃岐国には、28もの寺院が活動していたことが分かります。これは、考古学的に存在が確認されている白鳳期の讃岐の古代寺院の数と、ほぼ一致します。古代豪族によって白鳳期に建立された氏寺は、200年後にもほぼ存続していたようです。
 菅原道真が、讃岐国にある寺院数を知っていたのは、古代寺院が各国の国守の管轄下にあったからです。寺院に属する僧侶は、国家が直接管理した東大寺、下野薬師寺、筑前観世音寺に設けた三つの戒壇で受戒(合格し採用)した官僧であり、国家公務員でした。その動向や、彼らが居住する寺院の実態を、国守が把握するのは職務のひとつでもあったようです。
 菅原道真がカウントした「讃岐28ヶ寺」のなかに、この中寺廃寺が含まれているかどうかは、年代的に微妙なところです。9世紀後半は、中寺廃寺の本堂や塔が姿を見えるかどうかのラインのようです。
イメージ 6
A地区 本堂から塔跡の礎石を見下ろします
この寺の造営や維持管理に、讃岐国府は関わっていたのですか?
 繰り返しになりますが、古代律令国家においては、個人が出家し得度することは国家が承認しなければ認められませんでした。僧侶は国家公務員として、鎮護国家を祈願しました。祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会に参加します。一方で、僧は
「清浄を保ち、かつ山林修行を通じて自分の法力を強化」
することが国家から求められのです。これが国家公務員としての僧侶の本分のひとつでした。
 9世紀後半の光仁・桓武政権は、僧侶の「浄行禅師による山林修行」を奨励します。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要なことであるとされていたのです
 国家は「僧侶が清浄を保ち、かつ山林修行を通じて自分の法力を強化」するための施設整備を行うことになります。このような動きの中で10世紀になると、国衙の手によって山林寺院が整えられていくようになります。大川山信仰や行場としてスタートした中寺廃寺に、本堂や塔があらわれるのもこの時期です。
イメージ 7

僧侶は勝手に山岳修行を行うことはできなかったのですか?

 養老「僧尼令」禅行条は、官僧が修行のために山に入る場合の手続きについて、次のように規定しています。
1地方の僧尼の場合は、国司・郡司を経て、太政官に申請し、許可を公文書でもらうこと。
2その修行山居の場所を、国郡は把握しておくこと。勝手に他に移動してはならない。
 この条件さえ満たせば、官寺に属する僧侶でも山岳修行は可能でした。
また、修行と同時に「僧としての栄達の道」でもあったのです。ここで修行した「法力の高い高僧」が祈雨祈念などを行い、成功すれば権力の近くに進む道が開けたのです。
イメージ 8

山中に山寺を建立する理由は「山岳修行」だけですか? 

 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くに立地します。
古代山林寺院が国境近くに立地する例は、中寺廃寺以外にも、
比叡山延暦寺(山背・近江国境)
大知波峠廃寺(三河・遠江国境)
旧金剛寺  (摂津・丹波国境)
などの数多く見られようです。
国境は、国衙が直接管理すべき場所でした。古代山林寺院の多くが、国境近くに立地するのは、国衙の国境管理機能と関連があるようです。さらに讃岐山脈の稜線を西に辿れば、
尾野瀬寺(旧仲南町)→ 中蓮寺(旧財田町)→ 雲辺寺(旧大野原町)
と阿讃山脈稜線沿いに山岳寺院が続きます。中寺廃寺は当時の行場ネットワークを通じて、他の山岳・山林寺院と結びついていたのかもしれません。これを後の四国霊場の原初的な姿とイメージすることもできます。

遺構や出土物からは、どんなことが分かるのですか?

 A地区の伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺式であるようです。ここにも造営に当たって讃岐国衙の「管理コントロール」が働いていたことがうかがえます。
また、塔心礎下に埋められて須恵器壷群は、讃岐国衙直営の陶邑窯(十瓶山窯)製品です。その上、発色する胎土を用いて焼くという他には例がないものです。そのために赤みを強く帯びています。つまり、地鎮・鎮壇具として埋納するための須恵器は、国衙がこの寺用に作らせた特注品が使われているようです。
小説なら「空海、地元の中寺廃寺で修行する」というテーマで、讃岐にやって来た菅原道真の時代に割拝殿が作られることになり、それを国司である道真が「空海が若き日に修行した寺院」と伝え聞いて、特注制の陶磁器などの制作を命じて、空海由来の寺院として整えられていくたというストーリーが書けそうな材料はそろいます。

イメージ 3

また、B地区で出土した灰粕陶と見間違える多口瓶も、わざわざ播磨の工房に特注して作らせた可能性が高いようです。
 つまり、10世紀の中寺廃寺には、仏具として荘厳性の強い多口瓶を、わざわざ西播磨から取り寄る立場の僧侶がいたことになります。中寺廃寺は、単なる人里離れた山寺ではないことはここからも分かります。この寺は讃岐国衙や讃岐国分寺とストレートに結びついていた寺院なのです。
参考文献
上原 真人 中寺廃寺跡の史的意義 調査報告書第3集
加納裕之  空海の生きた時代の山林寺院「中寺廃寺跡」

                          
                          
                                    


         讃岐で最初の古代寺院妙音寺を作ったのは?  

 三豊人と話していると「鳥坂峠の向こうとこちらでは、文化圏がちがう」
「三豊は独自の文化を持つ」という話題が出てくることがあります。
確かに、三豊には独自の文化があった気配がします。例えば、財田川河口に稲作を持ち込んだ弥生人とその子孫は、わざわざ九州から阿蘇山の石棺を運んできて、自らの前方後円墳に設置し、その中に眠る首長もいます。古墳時代には、三豊は九州とのつながりを感じさせるものが多いようです。
そんななかで、三豊の古代史の謎がいくつかあります。
その1 高瀬川流域の旧三野郡に前方後円墳がないこと
その2 讃岐最初の古代寺院妙音寺がなぜ三豊に建てられたのか、その背景は?
その3 藤原京の宮殿用の宮瓦を焼いた「古代の大工場」が、なぜ三野に作られたのか?
この疑問に答えてくれる文章に出会いました。
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」という冊子です。

       讃岐最初の古代寺院妙音寺を建立したのは誰か?

 この冊子は、白村江の敗北から藤原京の造営にいたる変動の時代を、果敢に乗り切った地域として三野評(郡)(現三豊市)に光を当てます。現在の三豊市の高瀬川流域では、前方後円墳の姿を見ることができません。古代における首長の存在が見当たらないのです。大野原に見られるような六~七世紀の大型横穴式石室墳もありません。延命院古墳などの中規模の石室墳がありますが、それもわずかです。

 ところが白村江の敗北後の七世紀中ごろ、ここに讃岐最古の古代寺院・妙音寺が突然のように姿を現します。 隣の多度郡の善通寺地区と比較するとその突然さが分かります。善通寺地区では大麻山と五岳に挟まれた有岡の盆地では、首長墓である前方後円墳が東から磨臼山古墳 → 丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳 と順番に造られ「王家の谷」を形作っていきます。7世紀後半になると古墳の造営をやめて、古代寺院の建立に変わっていきます。それを担った古代豪族が佐伯氏を名乗り、後の空海を産みだした氏族です。

 つまり、古代寺院の出現地には、周辺に古墳後期の巨大な横穴式石室を持つ古墳を伴うことが多いのです。そして、古墳時代の首長が律令国家の国造や地方政府の役人に「変質・成長」するというパターンが見られます。ところが、繰り返しますが三野平野はその痕跡が見えません。それをどう考えたらよいのでしょうか?

一方、西となりの財田川とその支流二宮川一帯の旧刈田郡(観音寺と旧本山町)は早くから開けたところで、財田川とその支流沿いに稲作が広がり、周辺の微髙地からは古代の村々が発掘されています。その村々を見下ろす台地の上に、讃岐最初の古代寺院妙音寺は建立されます。
妙音寺は、三豊市豊中町上高野の小高い上にある寺院です。
 周辺の古墳を探すと、妙音寺の北300mに大塚古墳があります。中期の古墳で墳頂に祠が立ち、かつては“王塚”と呼ばれていたようです。2014(平成26)年度に確認調査が行われ、径17.75m、埴輪列まで含めると径22.0m、周濠まで含めると径37.5mの円墳です。川原石の葺石および円筒・朝顔形埴輪がでてきていますが、形象埴輪はありません。埋葬部は未調査です。 

台地の下には、財田川の支流二宮川が蛇行しながら流れます。

その河岸の岡に延命院があります。その境内に開口部を南に向けているのが延命古墳です。地元に人は「延命の塚穴」と呼んでいます。先ほどの紹介した古墳時代中期の「大塚古墳」に続く後期古墳です。墳墓の上には立派な宝篋印塔が立っていて、径約16m以上とされる楕円形に近い円墳にアクセントを付けて簪のように似合っています。
 花崗岩の天井石の一部が露出し、片袖型横穴式石室が南東に開口し、サイズは羨道[長さ1.8m×幅1.4m]、玄室[長さ4.48m×幅2.4m×高さ2.8m]です。採集された須恵器から、6世紀後半から末の築造とされています。巨石の配置の見事さ、さらに整備された構造、境内の中にあって長年にわたって保護されきた環境などから、見ていて楽しい古墳です。
 妙音寺は、この古墳と大塚古墳の間にあり、どちらからも直線では数百mの距離です。善通寺地区の大墓山古墳と善通寺、坂出の府中地区の醍醐古墳群と醍醐寺のように終末古墳から古代寺院への建立へと進む地方豪族の動きが窺えます。この周辺に妙音寺の建立に係わった一族の拠点があったと推測されます。

 この丘の上に寺院が建立され始めたのは7世紀後半のことのようです。

昭和のはじめから周辺で工事や小規模な発掘調査が行わ多くの古代瓦が見つかっています。瓦からはいろいろな情報を読み取ることができます。この寺の完成までには20年ほどの歳月がかかったようです。そのために何種類かの瓦が使われています。
 最初の建物に使われた瓦は大和・豊浦寺にモデルがある独特の文様が採用されています。そして、竣工間際の七世紀も終わりごろには、天皇家の菩提寺である百済大寺式の瓦で軒が飾られるようになります。
どちらにしろ寺院の建設は地域の豪族にとって初めての経験であり、その高度な建築技術持つ大工や工人を都周辺から招いたと考えられます。一枚が10㎏もある重い古代瓦は、輸送コストのことを考えると、なるべく寺院の近くに瓦窯を作って生産するのが基本です。妙音寺の場合は、ここから約五㎞北の宗吉瓦窯跡(三豊市三野町)で生産されたことが発掘から分かってきました。 さらに驚くべき事が分かってきます。
ここで焼かれた瓦が持統天皇が造営した藤原京の宮殿に使われているのです。
瀬戸内海を越えて船で運ばれたのでしょうが、なぜこんなに遠いところから運ぶ必要があったのでしょうか? また、なぜ古代豪族の影が見えなかった高瀬川流域に忽然と大工場が現れたのでしょうか?

それには、もうすこしこの最新鋭の工場を見ていくことにしましょう。

 最盛期には、宗吉瓦窯跡では最新鋭構造の窯五基前後をセットにして、それを四グループ並べるかたちで、全部で20あまりの窯跡が稼働していました。窯詰め・窯焚き・冷まし・窯出し、といった工程をグループ毎にローテーションするような効率的な生産が行われたようです。
 これだけ集中的で組織化された生産方法や・監視システム・さらにはそれを担う技術者を集めることなど、地方豪族の力を越えています。この工場は、国家プロジェクトとしての形が見えると専門家は言います。
この地に、最新鋭の大規模工場が「誘致」されてきたのは、どんな背景があるのでしょう?
 誘致以前に、すでに三野地区には須恵器生産地(三野・高瀬窯跡群)があり、瓦作りの基礎技術や工人はすで存在していたようです。その経験を生かしながら国家からの財政的・技術的な支援を受けながらこの地に先端の瓦製造工場を呼び入れた地方豪族がいたのです。その人物は、中央政府との深いつながりを持っていた人物だったのでしょう。さて、その人物とは?

七~八世紀に都との際立った深いつながりをもつ人物として、讃岐国三野郡(評)の「丸部臣」(わにべのおみ)を専門家は挙げます。

この人物を、天武天皇の側近として『日本書紀』に名前が見える和現部臣君手とするのです。君手は、壬申の乱(六七二年)に際して美濃国に先遣され、近江大津宮を攻略する軍の主要メンバーとなる人物です。その後は「壬申の功臣」とされます(『続日本紀』)。そして息子の大石には、772年(霊亀二)に政府から田が与えられています。
 このように和現部臣君手を、三野郡の丸部臣出身と考えるなら、妙音寺や宗吉瓦窯跡も君手とその一族の活動と推察することが出来ます。妙音寺周辺の本山地区に拠点を置く丸部臣氏が、「権力空白地帯」の高瀬・三野地区に進出し、国家の支援を受けながら宗吉瓦窯跡を造り、船で藤原京に向けて送りだしたというストーリーが描けます。
 また、隣の多度郡の善通寺や那珂郡の宝憧寺造営に際しても、瓦を提供していることが出土した同版瓦から分かっています。讃岐における古代寺院建設ムーヴメントのトッレガーが丸部臣氏だったといえるのかもしれません。
 もし君手が三野評出身でなくとも、彼が同族関係にある三野郡の丸部臣と連携して藤原宮への瓦貢進を実現させたと推測できます。いずれにしても、政権の意図を理解し、讃岐最初の寺院を建立し、瓦を都に貢納するという活動を通じて、三野の「文明化」をなしとげ、それを足がかりに地域支配を進める丸部臣(わにべのおみ)氏の姿が見えてきます。  

妙音寺の建立から百年後、宗吉瓦窯跡が操業を終えた八世紀初めごろ、

三野津湾の東側にそびえる火上山の南のふもとに火葬墓が造られます。猫坂古墓と呼ばれるその墓では、銅製骨蔵器(骨壷)と銅板が須恵器外容器に収められていました。讃岐国の中では最も早い時期に火葬を受け入れた例とされます。専門家は、骨蔵器の優れた造りからみて郡司大領クラスの被葬者と考え、「立地場所からからみて三野郡司・丸部臣氏との関係が濃厚」としています。
 丸部臣氏は、7世紀後半から8世紀にかけて中央とのパイプを持つことに成功し、当時の政権の意図である「造宮と造寺」を巧みに利用し、三野郡における「古代の文明化」を達成していったのす。

それに対して隣の刈田郡(旧大野原町)は、どうだったのでしょうか?

 観音寺市大野原町には、六世紀後半から七世紀初めにかけて、傑出した大型横穴式石室墳である椀貸塚古墳、平塚古墳、角塚古墳(いずれも国史跡)が世代毎に築かれます。同時期の讃岐では、突出した巨大な石室をもつ大野原古墳群は、三豊平野南部に君臨した豪族の墳墓です。また県境を越えた四国中央市には、角塚古墳と石室の構造は近似しているものの使用している石材が異なる宇摩向山古墳があり、大野原古墳群の勢力と連合した豪族がいたことがうかがえます。この勢力が最後の平塚を完成させたのが7世紀半ば、それに前後して三野地区の丸部臣氏は寺院建立に着手していたことになります。この時流への対応が、後の両勢力の歩む道の分岐点になったと研究者は考えているようです。
 この大野原・川之江の燧灘東方の連合勢力(紀伊氏?)に、国家はくさびを打ち込むかのように国境を入れるのです。彼らこの地域の豪族たちにとって、これは「打撃」でした。この打撃から立ち直り、その衝撃を乗り越えて行くには、相当の時開かかかったようです。大野原地域に中心的な古代寺院、紀伊廃寺が建てられるのは、出土瓦からみると「丸部臣」が建立した妙音寺に遅れることと約百年。この間、三豊平野の主導権は、「丸部臣」ら三野郡の勢力に握られていたと考えられます。
 
 刈田郡の豪族も、遅れながらもやがては他の地域と同様に開発を進めていったのでしょう。平安時代になると、郡の名を負った苅田首氏が中央官界に進出します。打撃を被りながらも地域の経営を進め、九世紀には、他地域と同様に地域経営を進めた痕跡を見ることが出来ます。

参考文献 
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界


まんのう町中寺廃寺跡を江畑道より歩く

教育委員会のTさんに「この季節の中寺廃寺は紅葉がいいですよ。江畑道からがお勧めです」と言われて、翌日、天候も良かったので原付バイクで江畑道の登山口を目指す。

イメージ 1

春日と内田を結ぶ中讃南部大規模農道を走って行くと江畑に「中寺廃寺」の道標が上がっている。この道を金倉川源流に沿って登っていく。 すると塩入から伸びてきている林道と合流する。これを左に曲がり砂防ダムに架かる橋を越えて奥へ入って行く。

イメージ 2

しばらくすると20台は駐車できそうな駐車場が左手に見えてくる。そこから尾根にとりついていく。
イメージ 3
しばらくは急勾配が続くが、もともとは江畑からの大山参拝道であり、南斜面の大平集落を経て阿波との交易路であった道で、旧満濃町と仲南町の町境でもあったためしっかりとした道で歩きやすい。迷い込み易いところには標識がある。
イメージ 4
 高度が上がると大きな松の木が多くなるが、この辺りはかつては松茸の本場であった所。この時期にこの付近の山に入って、「誰何」されたことがある。苦い思い出だ。
しかし、今は下草が刈られない松林に松茸は生えない。松茸狩りの地元の人にも出会わない。出会う確率が高いのは猪かもしれない。
イメージ 5

 傾きが緩やかになると標高700㍍付近。
展望はきかないが気持ちのいい稜線を歩いて行くと鉄塔が現れる。私の使っている地形図は何十年も前のものだから高圧線が書き込まれていて、現在地確認の際のランドマークタワーの役割を果たしてくれる。しかし、最近の地形図には「安全保障」上のため政府からの要請で記入されなくなったと聞く。何か釈然としない。
イメージ 6

そんなことを考えながら歩いていると柞野から道の合流点と出会う。
柞野にも立派な広い駐車場が作られ、ここまでの道も整備された。流石「国指定史跡」になっただけはある。
そして、すぐに分岐点。まずは、展望台を目指す。
最後の急登の階段を登ると・・
イメージ 7

 ここからの展望は素晴らしい。

イメージ 8

燧灘の伊吹島から象頭山の向こうの荘内半島、
そして眼下に横たわる満濃池、讃岐平野の神なびく山である飯野山

イメージ 9
さらに、東は屋島から高松空港。
「讃岐山脈随一の展望を誇る」と説明板に書かれていたが、そうかもしれない。展望台も新築されたばかりで気持ちいい。ここにシュラフとコッフェルを持ってきて「野宿」したら気持ちいいだろうなと思ってしまう。
イメージ 10

展望を楽しんだ後は、中寺廃寺の遺構めぐり。
その前に準備してきたペーパーと説明板で復習。
 この辺りは、「中寺」「信が原」「鐘が窪」「松地(=末寺)谷」という寺院関係の地名が残るなど、大川七坊といわれる寺院が山中にあったと地元では言い伝えられてきた。しかし、寺院のことが書かれた文書はなく、中寺廃寺跡は長らく幻の寺院であった。
昭和56年以後の調査で、その存在が明らかとなってきた。
  中寺廃寺跡とは、展望台の周辺の東西400m、南北600mの範囲に、仏堂、僧坊、塔などの遺構が見つかっている平場群の総称で、東南東に開いた谷を囲む「仏」「祈り」「願」の3つのゾーンからなる。
創建時期は山岳仏教草創期である9世紀にまでさかのぼるとされている。
まずは遺跡の中で一番最初に開かれたとされる「祈り」ゾーンへと向かう。
やって来たのは展望台から東に張り出した尾根の平坦部。土盛り部分が見えてきた。

イメージ 11

ここから出てきた礎石建物跡は5×3間(10.3×6.0m)で、その中央方1間にも礎石がある点が珍しい。このため、仏堂ではなく、礎石配列から割拝殿と考えられる。ここから見上げる大川山の姿は美しい。
割拝殿とは???
イメージ 12
こんな風に真ん中に通路がある拝殿のことを割拝殿と呼ぶようだ。
この建物の東西には平場があるが、一方の平場は本殿の跡であり、一方の平場は参詣場所と考えられる。
 その下にある掘立柱建物跡2棟は小規模で、僧の住居跡とされている。
僧侶達は、ここに寝起きして大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げられたのだろうか。昔訪れた四国霊場横峰寺の石鎚山への礼拝所の光景が、私の中には重なってきた。
イメージ 13

僧の住居跡とされる掘立柱建物跡2棟部分だ。
遺構跡は、埋め戻されて保護されている。松林の間を抜けて、今度は「仏ゾーン」へ向かう。
イメージ 14
ここには南面して、仏堂と塔があった。
標高高723m地点で、3間(5.4m)×3間(5.4m)の礎石建物跡で、強固に盛土された上に礎石が置かれていた。心礎の真下からは、長胴甕が置かれ、周囲が赤く焼かれた壺5個が出土している。この塔を建てる際に行われた地鎮・鎮檀具鎮のためのものであろうとされている。塔跡礎石は和泉砂岩製で、成形されていない不定形なままの自然石である。同じような石が付近の谷にごろごろしているため山中の自然石を礎石として用いられたようだ。遺構保護のため、遺構には盛土を行い礎石建物については元の礎石によく似た石で礎石の位置を表す方法で保存されているという。
イメージ 15
礎石に腰掛けて、想像力を最大限に羽ばたかせてみるが、千年前のこの山中にこんな塔が立っていたとは、なかなか想像できない。
どんな勢力が背景にいたのか。
僧侶はどんな生活を送っていたのか。
地元勢力との関係は? 
金剛院や尾瀬寺との関係は?
分からないことが多く、????が頭の中を飛び交う。
ヒントは、この塔跡と仏堂跡の配置が讃岐国分寺と相似関係にあり、国分寺勢力との関係が考えられているようだ。西国の国分寺を再興した大和西大寺の律宗の影の影響下にあったのだろうか。出土品も西播磨産の須恵器多口瓶や中国の越州青磁椀などの高級品も出土しており、平安期においてはこの地域では有力な山岳寺院であったようだ。
イメージ 16

そしてやって来たのがお手洗い。
なんとバイオトイレです。高い山の山小屋ではよく見るが、まんのう町で経験するのは初めて。一時的な避難所の役割も兼ねているようだ。
イメージ 17
ここまでは稜線上の中寺駐車場からコンクリート道が続いており、非常時には車両も入って来れる。
しかし、落葉の今は、この通り。
落葉の絨毯だ。
イメージ 18

手洗い場から中寺道を南へ少し歩くと「願いゾーン」への道標と看板がある。ここから急な斜面をジクザクに5分ほど下りていくと・・
イメージ 19
落葉の積もった説明板が見えてきた。
石積遺構は、この猪柵の向こう側のようだが・・・
イメージ 20
なんとか柵を乗り越えて入れた平坦地には、至る所に石積遺構が見える。古代山岳寺院では、寺域内に祭祀的な場所があったそうです。
当時は、ここから谷を隔てて、谷向かいの拝殿や塔を見渡せた。そのため寺院の一部である石塔でだとされる。
平安時代中期からは、石を積んで石塔として御参りすることが民衆の中にも広がっていた。民衆が大川山への参拝の折に訪れ、ここに石を積んで石塔を作り、祈った場所ということになるのだろうか。
どちらにしても、後の時代の人たちが立ち入ることなく時代を経た場所で、平安時代の人々の息づかいを感じることが出来る所なのかもしれない。霊力のない私には難しいが・・
イメージ 21
近隣の尾瀬寺廃寺の遺構よりも、山岳寺院の姿がより鮮やかにイメージできる場所だった。
なお、中寺廃寺を起源とする寺院として『琴南町誌』198には、次の寺院が紹介されている。
 浄楽寺:丸亀市垂水町
藤田山城守頼雄、天台宗に属し塩入に開く。その子西園が永禄年中(1559-)に浄土真宗に改宗。9代日正円の時に現位置に移転。塩入地区の伝承によると浄楽寺は元々中寺にあったとのこと。現在でも塩入には浄楽寺の門徒が二十数件ある。
 願誓寺:丸亀市垂水町
天文年間(1532-)沙門連海が江畑に浄土真宗の庵をむすぶ。江畑 地区の伝承によると願成寺は元々中寺にあったとのこと。現在でも江 畑には願成寺の門徒が十数件ある。
 永覚寺:綾歌郡綾川町東分甲
「永覚寺縁起」によると永覚寺の開基空円(大和の法蔵寺)が天禄2年(971)に大川宮の別当職をしたと伝えている。まんのう町中通に 所在したが、天正年間に火災にあい現在の土地に移る。現在でも琴南地区には永覚寺の門徒が多い。
 称名寺:まんのう町内田
大川中寺の一坊で杵野の松地にあったが造田に移ったとされる。長禄年間(1457-)に浄土真宗に改宗し 内田に移転する。琴南地区の伝 承によると 浄楽寺は元々中寺にあったとのこと。
 教法寺:徳島県三好郡東みよし市足代
大平地区の伝承によると、もともと中寺にあったが、大平の庵に移り、その後現在の場所に移ったとされる。
紅葉のいい季節に登れたことに感謝しつつ山を下りた。

 まんのう町に白鳳期の古代寺院跡があるという。

弘安寺周辺地遺跡図

にわかには信じられなかった。調べて見ると、香川県史にも、新編満濃町誌にも触れられている。そして、礎石と白鳳期の瓦が出土していると書かれている。これは行かねばなるまい。地図で当たりをつけながら四条小学校の西周辺の道を原付バイクで散策。目標は四条本村の薬師堂。すぐそばに公民館も同居と聞いていたが、なかなかわかりにくい。
イメージ 1
薬師堂 まんのう町四条本村

細い道を入り込んでいくと、それらしき空間が開けてきた。高さ1㍍の土壇の上に薬師堂が建てられている。方二間の南面する薬師堂の西側に回り込んでいくと、大きな石が不規則に置かれている。これが古代寺院「弘安寺」の礎石のようだ。1937年に、お堂を改築する際に、動かされたり、他所へ運び出されたものもあるという。

イメージ 2

 さらに裏側に回り込むと、薬師堂の北側の4つの柱は、旧礎石の上にそのまま建てられている。移動されなかったと思われるの四つ礎石についてみると、土壇場にあった旧建物は南面してわずかに西に向いている。礎石間の距離は2,1㍍である。これが本堂跡だろうか。

イメージ 3
薬師堂の下の礎石

以下 満濃町誌によると (満濃町誌107P) 

薬師堂の前に、長さ2,4m 幅1,7m 高さ1,2mの花崗岩が置かれている。塔の心礎であったと思わる。中央に径55㎝、深さ15㎝ の柄穴がある。しかし、塔の位置は確認することができない。

弘安寺 塔心跡
弘安寺 塔心跡

 薬師堂の南方、120㍍の所に大門と呼ばれる水田があるそうだ。土壇とこの水田を含む方一町の範囲が旧寺地と考えられ、布目瓦が出土した範囲とも一致する。
 この方一町の旧寺地の方向は、天皇地区に見られる条里の方向とは一致せず、西に15度傾いている。このことからこの寺の建立は、条里制以前の白鳳時代にまでさかのぼると考えられる。
 本尊の薬師如来は、像高131㎝ 一木作りで大きく内ぐりが施された立像である。各部に大修理が加えられているが、胸のあたりから腹部に流れる衣文の線が整って美しく、古調を漂わせている。
 弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
  弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
           
 境内から出土した瓦のなかには、十六葉単弁蓮華文軒瓦瓦(径19㎝)など、法隆寺系の白鳳時代の瓦が含まれている。
この中で興味深いのは、ここから出土した軒丸瓦とおなじ木型で作られた瓦が以下の寺院から見つかっていることです。

弘安寺軒丸瓦の同氾

①徳島県美馬市の郡里廃寺(こうざとはいじ:阿波立光寺)
②三木町の上高岡廃寺
③さぬき市寒川町の極楽寺跡
これらの寺院ら出土した瓦と同じ木型で作られた瓦が、弘安寺でも使われていたようです。さらに、木型の使用順も弘安寺が一番早く、①②③と木型が使い回されていたことが分かっています。弘安寺とこれらの寺院、造営氏族との関係がどうなっていたのかが次の課題となっているようです。それはまたの機会にすることにして・・


イメージ 4

もうひとつこの立薬師堂で見ておきたいものがあります。
立薬師本堂左には小さなお堂があり、そこには古い石造物が安置されています。
DSC00917
 弘安寺跡 十三仏笠塔婆
柔らかい凝灰岩製なので、今ではそこに何が書かれているのかよく分かりません。調べてみるてみると、次のようなものが掘られているようです
①塔身正面 十三仏
②左側面上部に金剛界大日如来を表す梵字
③右側面上部に胎蔵界大日如来を表す梵字
④側面下部に銘文 四條村の一結衆(いっけつしゅう)によって永正16年(1519年)9月21日に造立
DSC00918
弘安寺跡 十三仏笠塔婆
 塔身の高さは58㎝、幅と奥行は28㎝で二段組の台座40㎝の上に立つ。笠と五輪塔の空輪が乗せられて総高は142㎝
この石造物は、中世の16世紀初頭の石造物になるようです。その時代まで、ここには古代創建の寺院が存続していたのでしょうか。そうだとすれば、法然がやってきた13世紀にも、この弘安寺はあったことになります。多分、まんのう町域では、最も由緒ある真言寺院であったことでしょう。しかし、法然の記録には、この寺院のことは出てきません。小松荘で彼が拠点としてのは、別のお寺であったことは、以前にお話ししました。
 四条本町周辺には、条里制施行に先行する7世紀後半の白鳳神社があり、16世紀近くまで存続していたとしておきましょう。四条本町が、このエリアの中心だったことがうかがえます。

白鳳期の丸亀平野南部において、古代寺院を建立した古代豪族とは?
善通寺では,有岡古墳群から古代寺院の「善通寺」建立へと続く佐伯氏の存在が思い浮かぶ。この地域の古代寺院を建立するだけの力を持った豪族とはだれか?

満濃町誌は因首氏(改名後は和気氏)だと次のように推論しています。

 本尊の薬師如来については、枇杷(びわ)の大木を刻んで造ったという『讃留霊王皇胤記』島田本に見られる和気氏の枇杷伝説に付会した伝承がある。また、木徳の和気氏が弘安寺以来の大旦那であったことが語り継がれている。
現在薬師堂に伝わる記録の中にも「和気氏が常に多額の金を寄付して第一の大旦那であった」ことを示す記事がある。この寺は、和気氏の氏寺として建立されたとも考えられる。
 一般の家屋が平床の掘立小屋で、藁や板で屋根を葺いていた当時、弘安寺の瓦が金毘羅山を背景にしてそびえ立つ姿は、美しい一幅の絵であったであろう。仏教は、すぐれた仏教文化の広がりという形で満濃町にも浸透した。

このページのトップヘ