瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の古代瓦

  ザックを背負って、地図とコンパスを持って山の中を若い頃に歩いていました。そのため地形図を持って、知らない土地を歩くのが今でも好きです。古墳や山城・古代廃寺めぐりは血が騒ぎます。最近、はまってるのが窯跡めぐりです。そのためには、詳細な地図を手に入れる必要があります。しかし。これがなかなか難しいのです。そんな中で見つけたのが陶(十瓶山)瓦窯跡群の詳細地図が入っている文章です。この地図で「フィールドワーク」(ぶらぶら歩き?)をするための自分用の資料を作成しましたのでアップしておきます。テキストは「田村久雄・渡部明夫 陶(十瓶山)窯跡群の瓦生産について 瓦窯跡の分布 埋蔵文化財センター研究紀要  2008年」です。

綾歌郡綾川町陶の十瓶山から府中湖周辺にかけては、陶(十瓶山)窯跡群と呼ばれる須恵器と瓦を生産した窯が集中的に分布します。古代から一大生産地を形成していたことは、『延喜式』主計寮式に、陶器(須恵器)が讃岐の調として記載されていることからも分かります。今回は、瓦窯に絞っての紹介になります。

十瓶山窯跡支群分布図1
陶(十瓶山)瓦窯跡分布図

 陶(十瓶山)窯跡群の範囲は、上図に示したように府中湖南部、北条池、十瓶山周辺になります。ただし、現在の地形は府中湖建設やため池設置、水田の基盤整備によって大きく改変されています。そのため、現地中に埋まってしまったものや湖岸にあるものがほとんどになています。しかし、もともとは、綾川に向かって開く谷状の地形に造られ、まわりには窯を造るのに適当な緩斜面があったようです。水運などの利用なども考えると、このような地形を巧みに利用して瓦窯が造営されたことが推察できます。それでは、確認できる瓦窯跡を地図で見ていくことにします。なお、窯跡名称の番号は、須恵器窯も含めたナンバリングのため、文章中に表記されず欠番のようになっているのは須恵器窯になるようです。

【下野原支群】第1図-1、

十瓶山 下野原支群
下野原支群

下野原支群は、府中湖の高速道の南側の東岸に位置します。
下野原1・2号窯跡(2図の1・2)が、深井池の北側から綾川に向かって開く谷の入口の北側緩斜面に立地します。陶(十瓶山)窯跡群の初期瓦窯とされる一群になるようです。この対岸には、須恵器の初期窯跡である打越窯跡があります。須恵器も瓦も、この辺りが陶窯跡群全体のスタート地点になるようです。
 下野原1・2号窯では窯壁片、須恵器、瓦片がまばらに分布しています。分布状態から焚口を南に向けてた穴窯が東西に並んで操業されていたと研究者は考えているようです。窯の構造は分かりませんが、須恵器や瓦片が5~10m範囲に散布していたようです。2基ともに軒瓦は出土していませんが、打越窯跡のものと考えられる須恵器と格子目の叩きをもつ平瓦が出土しています。
 下野6号窯(2図の4)は、普段は府中湖の中に水没しています。
水が引いた時に、窯の天井部が落ち込んだ状態で出現します。瓦片が採取でき、窯体の破片に混じって丸瓦も採集できたようです。下野原7号窯(2図の3)は府中湖の満水時の水位付近に、窯壁が散乱した状態で確認できるようです。かつては、瓦片も採集できたと云います。
 以上から、この支群は庄屋原支群とともに陶(十瓶山)窯跡群の初期の瓦窯とされています。
十瓶山 地下式穴窯

【内間支群】第1図-2、
府中湖に突き出た半島には、中世の庄屋原城址があります。
府中湖がなかった築城当時は、低地に突き出た丘陵という凄みのある要害の地であったのでしょう。丘陵の付け根を幅10m、深さ3。5mの堀切で遮断し、内部に8つの曲輪があることが報告されています。綾川の河川交易路を見守る要地に位置する中世城郭跡です。ここで古代の地形復元をしておきます。明治の地形図を、いつものように「今昔マップ」で見ておきましょう。
十瓶山 庄屋原1
明治の地形図に旧支流を水色で書き入れた地図
ここからは、庄屋原城址のある半島の東側には、水色で示した一本の支流が流れ込んでいた痕跡が見えてきます。この支流が綾川と合流する地点に、堤防を築いて造られたのが現在のカシヤキ池です。この支流跡沿いに田村うどん方面に、いくつかの瓦窯跡が並んでいます。まずは内間支群です。この支群は、次の2つの群からなります。

十瓶山 内間支群
①府中湖の庄屋原城址がある半島の東側の湖岸に立地する3基(10~12号)(5・6・7)
②カシヤキ池の南西部側の谷の5基(8~12号)。
②については、カシヤキ池の堤防がない時には、十瓶山北西麓から府中湖(旧綾川)に向かって開く深い谷の入口部で、川船が直下まで入ってくることができたようです。
①の群の3基周辺からは灰原が確認でき、北に焚き口を向けた窯が3基並んでいたようです。どの窯のものかは分かりませんが、次のような瓦が確認されています。
A 八葉複弁蓮華文軒丸瓦
B 高松市如意輪寺周辺で出土している八葉単弁蓮幸文軒丸瓦
C 丸山5号窯付近の瓦溜まり(SX01)
D 東かがわ市白鳥廃寺
E 京都市平安京左京二条二坊からも出土している八葉複千蓮華文軒丸瓦
F 外区に唐草文を施す均整唐草文軒平瓦
Fの軒平瓦は丸山5号窯付近の瓦溜り(SX01)、綾川町観音台廃寺・坂出市鴨廃寺などからも出てくる瓦
 ここからは、この瓦群で焼かれた瓦が京都や白鳥、府中周辺に運ばれたことが分かります。

②群のカシヤキ池周辺は、今は耕地整理の造成で谷が埋められ水田となり、当時の地形は分かりません。第3図のようにカシヤキ池に合流する小さな谷があり、その西側斜面に窯が造られたようです。1・8号窯はロストル式平窯であったことを研究者が確認していようです。2・13・9号窯では、焼上が確認されています。瓦の散布が確認されているのは1・9号窯ですが、その他にも8号からは行基式丸瓦、9号窯で均整膚草文軒平瓦が採集されています。

十瓶山 ロストル2

丸山支群(第1図-3・4)
十瓶山 丸山支群西

丸山支群は、カシヤキ池から伸びる綾川旧支流の上流にあたり、位置的には内間瓦窯の東側になります。グーグルマップと図4を重ねると、「ミルコム南 香川中央センター」が立地する場所を支流が流れていて、ここまでは船が入っていたことがうかがえます。その北側の斜面部に、6基(1・13・5~8号:第4図)、さらに県道を越えて田村うどんの前にあるミニストップの裏側の斜面に5基(4・9~12第5図)あり、合計11基になります。これは、陶(十瓶山)窯跡の支群の中で最も多いまとまりになるようです。県道西側の3・5・7・8号窯については、発掘調査が行われていて次のようなことが分かります。

十瓶山 丸山支群と高揚院同笵
      丸山窯跡の瓦と高陽院出土瓦は同笵関係

  丸山窯跡から出土した均整唐草文軒平瓦(TMY-203b 型式)は、高陽院出土瓦と比較すると同じ位置に大きな笵傷(はんきず・上写真の右の赤い矢印部分)があることがわかります。これによって、丸山瓦窯支群で作られた瓦が京都に運ばれていたことが証明できます。写真左の唐草文八葉複弁蓮華文軒丸瓦(TMY-102 型式)も同笵の可能性が高く、両者がセットで京都に運ばれたことが分かります。
 さらに、11世紀中葉に造られ高陽院と左京五条三坊十五町の貴族邸宅で使われた瓦も、丸山窯跡と西の浦窯跡で生産されたものです。平安京への提供が終わった後は、このタイプの瓦は白鳥廃寺・下司(げし)廃寺に供給されています。これは国衙工人の出張生産によるものと研究者は考えています。
十瓶山 丸山支群東

 一方、東側のミニストップ裏の丸山支群(2)については、発掘調査が行われていないのでよく分かりませんが、1998年頃の擁壁工事の際に、焼土が出てきて、窯の存在が確認されています。そのうち4号窯からは巴文軒平九が出土しているようです。

十瓶山 丸山・ますえ
丸山支群とますえ畑支群の位置関係

【ますえ畑支群】第1図-5、
十瓶山 ますえ畑支群

 ますえ畑支群は北条池から伸びて来た支流沿いに位置します。
支流跡沿いには、渇池や東谷池などいくつものため池が密集します。その中の今はなくなった濁池というため池の南側の堤防の下に立地する窯跡群で、7基(1~7号窯)が確認されています。

鳩山窯跡群
半地下式有状式窯
このうち1号窯は県指定史跡となって、次のような事が分かっています。
①半地下式有状式窯で、燃焼室、焼成室、分焔孔、隔壁などが残っていること
②焼成室は2条の状があり、長大
③床面は傾斜した構造で、登窯のような形態
④出土瓦は六葉重弁蓮華文軒丸瓦、宝相幸唐草文軒平瓦が出土し、後者は六波羅蜜寺からも出ている。
1号窯の構造について「須恵器生産技術との融合によってはじめて実現されたもの」で「大量生産」を可能にした窯と研究者は考えています。
十瓶山 ロストル3
 瓦専専用のロストル式平窯 

1号窯以外の窯跡については、次のように述べています。
①3・4号窯については、水路崖面を調査した際に焼土が確認されている
②5号窯については、1970年代前半に焼土や瓦が出土している
③7号窯については、1970年頃の農地の造成時に窯の存在が確認されている。
④3・4号窯からは丸山支群で出土している均整唐草文平瓦が出土している。
【庄屋原支群】第1図-6、
十瓶山 庄屋原2
庄屋原支群分布図

もう一度、府中湖畔に還ります。庄屋原城址のある半島から南に東岸斜面を進むと庄屋原窯跡群があります。南から4基(1~4号窯)の窯跡が並び、北側のやや離れたところに1基(5号)の窯跡が位置します。このうちの2・4号窯)が瓦窯でになり、湖岸崩壊防止工事に伴う試掘調査が行われていて、次のような事が分かっています。

①2号窯は燃焼部とみられる窯体が見つかり、4号窯は燃焼部、焼成部、煙道部などが確認された。
②4号窯の窯体は2回以上の補修を受けていて、第1次窯は全長5m、幅約1,44mで、第2次窯では全長約7m、幅約1.3mに増設されていること
③この支群からは須恵器片と凸面に格子目叩きがある瓦片がでてきていて、下野原支群のものとよく似ているので、下野原支群に続く時期の瓦窯の可能性が高い
④須恵器から操業時期は2号窯が8世紀前半、4号窯が9世紀前半以降
以上の点から、この支群は、この遺跡の半島を越えた下野原支群とともに陶(十瓶山)窯跡群の最初期の瓦窯支群と研究者は考えています。

【小坂池支群】第1図一ア、
十瓶山 小坂池支群
小坂池支群 分布図

小坂池支群は、池の底にある窯跡群です。小坂池は、北条池に向かって伸びる谷に位置し、その北側斜面に窯が開かれていました。池の改修工事に伴う事前の試掘工事が2007年に行われ、3基の窯跡が確認され、次のような事が分かっています。
①焼成室のみの確認で、構造は平窯(ロストル)であること。
② 20cm前後の状が1号は2条、2・3号はは3条ある形態
③窯の配置は1・2号が対になり、空間地をはさんで3号窯があるという配置スタイル
 11世紀前葉に小坂池支群で焼かれた瓦は、平安京の宮中内裏・豊楽(ぶらく)院・朝堂院と東寺・仁和寺などの中央政府に関わる施設から出土します。仁和寺の治安二(1022)年に竣工した観音堂に使われたようです。宮中の瓦は長元7(1034)年の暴風雨被害の修理の時に使用されたものと研究者は考えています。焼成瓦を笵に転用した陰面瓦が出てきているので、京への提供後には地元寺院へ転用供給された可能性があるようです。東寺に提供された瓦は、三野郡の妙音寺・道音寺にも供給されています。国衙工人が出向いての出張生産が行われたと研究者は考えています。
【北条池支群】第1図-8、

十瓶山 西浦支群
北条池支群

北条池支群は北条池の堰堤の内側に並んで位置します。
台地南端部の斜面を利用した窯跡群です。北条池は、綾川に流れ込む支流をせき止めて造られたため池です。その支流の右岸(南側)に、全部で7基(1~7号窯)がありますが、調査が行われていないので詳しいことは分かりません。そのうち1号窯については、半地下式有平窯(ロストル)であることが分かっています。窯壁片や焼成が見つかっているので、1号窯と同じような構造の瓦窯だと研究者は考えているようです。2号窯の下からは、西村支群からも見つかっている八葉複弁蓮華文軒丸瓦が採集されています。

【西ノ浦支群】第1図-10、
十瓶山 西浦支群南
西ノ浦支群

西ノ浦支群は、北条池支群の対岸にあり、台地北端部を利用した窯跡群で、次のような事が分かっています。
①4基の窯跡が確認され、そのうちの2号窯は平窯(ロストル)であること
②1号窯は焼土、4号窯は焼上や灰原が確認されている
③4号窯以外では、瓦の散布がある。
④1号窯からは四葉素弁軒丸瓦が出土していた、同一文様のものが高松市屋島寺からも出ている
⑤瓦については、 八葉複弁蓮華文軒丸瓦が出ていて、同じものが内間支群や綾歌郡綾川町龍燈院で、坂出市鴨廃寺、丸亀市法勲寺、平安京左京五条三坊十五五町などで出土している。

【西村支群】第1図-12
十瓶山 西村支群

西村支群は、国道32号線綾南バイハス工事の際に、西村遺跡の発掘調査時に発見された窯跡群です。1・2号窯は御寺川へと向かって北に開く谷の東側斜面に、3号窯は御寺川によって形成された谷の北東側の斜面に立地していて、両者はかなり離れています。
ローソンそばの1・2号窯ついては、次のような事が分かっています。
①1号窯からは八葉複弁蓮華文軒丸瓦、均整唐草文軒平瓦が出ている。
②前者は、讃岐国内では、北条池2号窯ド、坂出市開法寺跡、高松市如意輪寺周辺からも出土しているほか、平安京の鳥羽南殿にも供給されている。
③後者は陶窯跡群の内間支群、善通寺市曼茶羅寺、丸亀市本島八幡神社、高松市如意輪寺周辺からも出土している。その他にも、平安京では鳥羽南殿、平安宮真言院、平安宮朝堂院に供給されている。
④2号窯では平瓦が出土している。
⑤灰原と一緒に出てきた須恵器から1号窯が11世紀末、2号窯が11世紀中頃と考えられる。
⑥1・2号窯周辺からは、窯の生産活動によって埋没した溝から巴文軒平瓦が出土している。
⑦ますえ畑と同文の宝相幸唐草文軒平瓦も出土している。
これに対して長楽寺北の3号窯は、焼成室、燃焼室が残っています。
燃焼室は3条のロストルをもつタイプで、多くの平瓦が出土しています。近接する廃棄上坑からは巴文軒平瓦が出土しています。

以上をまとめておきます
①陶(十瓶山)瓦窯跡群は、いくつかの支群に分かれています。その立地は旧綾川か、その支流の河岸斜面にあり、河川運送が行われていたことがうかがえる。
②陶窯跡群の瓦生産については、
前期として、府中湖南東部周辺に位置する下野原支群、庄屋原支群
後期として、府中湖の旧支流沿いに立地する支群に分けられる
③前期支群は、穴窯で、後期支群は新しいタイプの平窯(ロストル)という区分ができる。
④操業時期は、前期が白鳳~奈良良時代、後期が平安後期以降と設定されている。
⑤後期の瓦窯群で造られた瓦は、平安京の宮殿や寺院にも提供されている。

たとえば12世紀前半頃に、建設された鳥羽離宮には、陶(十瓶山)瓦窯群の瓦が使われていることが分かってきました。
鳥羽離宮は白河上皇の院殿です。南殿は讃岐国守高階泰仲が「成功」という位階買収の制度を使って応徳三(1086)年に造営した最初の寝殿です。発掘調査では多数の讃岐系瓦が出土しました。生産地は丸山窯跡・内間(うちま)窯跡・北条池窯跡といった瓦専用窯だけでなく工人集団の工房兼居宅と考えられる西村遺跡でも出土します。周辺の開法寺跡・鴨廃寺・綾川寺・曼荼羅寺にも瓦を供給しています。讃岐国分寺の塔頭とされる如意輪寺に附属する窯跡では、工人の出張生産が行われたと研究者は考えています。
12世紀になると、院殿附属の御願寺鳥羽離宮金剛心院・平安宮南面大垣・宇治平等院・法住寺殿蓮華王院・六波羅蜜寺などの建物にも、陶(十瓶山)瓦窯群の瓦が使われています。この需要に応えるために、内間窯・丸山窯・ますえ畑窯では多数の窯が同時にフル操業するようになります。この時期が、陶(十瓶山)瓦窯群の最盛期のようです。
   このように奈良時代以後、陶(十瓶山)窯群地帯は、綾氏の保護を受け、準国営工場的な性格を持ち瓦と須恵器生産の中心地に成長して行くことになります。その工人たちの生活拠点が西村遺跡だと研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは「田村久雄・渡部明夫 陶(十瓶山)窯跡群の瓦生産について 瓦窯跡の分布 埋蔵文化財センター研究紀要  2008年」
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天日槍(あめのひぼこ)を祭る出石神社の流域を流れるのが円山川です。その支流・穴見川沿いの三宅集落に慈等寺があります。この寺の下の斜面が三宅廃寺跡になります。すぐ近くには、式内社の大壬生部兵主(おおみぶべひょうず)神社や中嶋神社が鎮座しています。渡来系秦氏の痕跡が色濃く残る地域です。
 三宅廃寺は田嶋守の末裔として但馬国造家を名乗る三宅氏によって建立された寺院で、この地域では最も古い白鳳寺院と位置づけられています。発掘調査によって、隣接する西側の山斜面から瓦窯が発見され、他地域の寺院との瓦の比較ができる貴重な資料を提供してくれます。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦
但馬国府・国分寺館ニュースより

但馬地方の古代瓦と同笵関係にあるものや、コピーされたと考えられるものがいくつも見つかっています。例えば、海を越えた新羅のデザインがストレートに持ち込まれているものがあります。また前回に見たまんのう町の弘安寺跡から出てきた瓦と、よく似たものが三宅廃寺からも出てきています。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦2

但馬の古代寺院は中央や畿内からも影響を受けていますが、新羅や讃岐からの影響も受けているようです。つまり、「中央から地方へ」だけでなく「地方同士の交流」が頻繁に行われていたことがうかがえます。これは中央中心に語られていた古代史に、別の視点を与えてくれます。瓦を通じた交流については、その背後には、秦部氏の存在が見え隠れします。今回は弘安寺の瓦と但馬三宅廃寺の瓦を比較していくことにします。
テキストは   蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。

三宅廃寺の軒丸瓦の中に無文の外区の中に、弁端の丸い9枚の単弁を飾るものがあります。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦3

この瓦は畿内の大寺院の系譜ではなく、地方起源とされてきましたが、その起源がどこかは分かりませんでした。それが讃岐からの影響を受けた瓦であることが分かってきました。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦4
左2つが三宅廃寺、右が徳島県の郡里廃寺(立光寺)のもの
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

まんのう町弘安寺の瓦で郡里廃寺と同笵瓦
三宅廃寺とまんのう町弘安寺の瓦の比較を行うと、弁の数が違いますので一目見て同笵ではないのは分かります。しかし、両者の間には断面形状や細部に共通点があると研究者は考えます。それを踏まえた上で、三宅廃寺の瓦が讃岐起源であることを指摘したのが上原真人氏です。
上原氏は讃岐極楽寺や弘安寺の細単弁軒丸瓦と三宅廃寺の関係を次のように指摘します。
①蓮子の配列
蓮子は2列もしくは3列に同心円状に配されることが多いが、 2つの型式は、方形あるいは格子状に配されるという特徴を持つ。
②花弁形状
 単弁に分類されるが、弁端の丸い花弁は中心が窪み、そこに端の九い子葉を一本配するもので、この時期に最も一般的な単弁形式である山田寺式とは異なり、弁の形状は川原寺式軒丸瓦の複弁を2つに分割したものに近い。
③間弁の形状
 間弁の両端は互いに連結して弁区を取り巻く形になっており、外側に傾斜して外区を形成する。鋸歯文を巡らせる場合は、この外区に大柄な文様を巡らせる。
④周緑の形状・・・・間弁の外周に低い平縁を巡らす。
⑤氾の立体感。・・・抱全体が凹凸の激しい作りとなっている。
⑥圏線の省略・・・・蓮子周環、中房圏線等の細部の作りを省略している。
以上から三宅廃寺と弘安寺の瓦は、どちらも川原寺式軒瓦の系譜から派生した単弁形式がベースにあると指摘します。さらに次のように述べています。

「祖型以来の花弁の印象をよく残している反面、細部の造りには省略が見られる」

 実際の木型製作過程では、造瓦工人の手間を減らすために省略が行われたというのです。周縁部や蓮子の配列は特徴的で、木型制作者とその工人集団の個性がうかがえるようです。それでは、この「省略」がおこなわれたのは、どこの工房なのでしょうか?

軒丸瓦の系譜関係を整理したのが下の第17図です。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺起源の軒丸瓦の系譜図

横軸X形式の変遷について、次のように研究者は次のように述べています。
①善通寺(KA101A)は川原寺式以降の複弁8弁蓮華文に花弁を分割して単弁16弁としたもので、3重の蓮子配列、三角縁の鋸歯文などは、その名残りである
②Xl(KA101A他)の蓮子を省略してX2(KA101B他)が作られた。
③X2の花弁内の子葉省略してX3(ZN101他)が連続的に作り出された
④X ll(TM105)については、X1~3の変化と比べると、蓮子数の減少、弁数の減少(15弁)など原型式との落差が大きく、田村廃寺の中でX3をもとにして作られた
縦軸Yについては
①Y1(KA102、GK101他)についてはXlの要素を改変して作り出したとする方向
②Y2(GK102他)がまず存在し、Xlの要素を取り入れて作り出した
どちらにしてもYlが作られた後、これを省略してY3(三宅廃寺出土瓦)につながっていくという流れになります。讃岐の軒丸瓦が但馬の三宅廃寺に影響を与えていることになります。

XY両形式ともに、Xl~X3、Y1.Y3には、形式の変化に次のような一定の規則性があります
①氾(木型)が連続的に変化する型式群
②文様の変化が固有の寺院内でのみ起きる形式群
これらの変化には、背後に改作した工人グルーの存在がうかがえます。
①は広い範囲での生産活動を念頭に置いて、組織的かつ継続に仕える木型が作られた
②は、①がもたらされた寺院で、そのコピー版瓦が作られた
次に研究者は、①のベースとなった木型を製作した拠点瓦窯がどこにあったを推測します。
①の工人をかかえる地域(寺院)を、X1とY1の両方の形式を持つまんのう町の弘安寺がまず候補に挙げます。さらに後継の型式を引き継ぎ、周辺寺院や瓦窯に瓦製品供給や、氾の提供を行なったことが確認できる善通寺と仲村廃寺を加えて、この3ヶ寺がグループのが丸亀平野の瓦工房の核であると研究者は指摘します。
善通寺の軒平瓦系譜
善通寺起源の平瓦の系譜
 同じように軒平瓦の展開系譜について見てみても善通寺、仲村廃寺の軒丸瓦だけが、扁行唐草文軒平瓦との共伴します。この2カ寺で、他寺に先がけて扁行唐草文形式が登場しています。ここからは平瓦の製造でも、善通寺を中心とする佐伯氏周辺の工人たちの活動が先行していたことがうかがえます。

善通寺の木型は他の寺院建立に貸し出された
善通寺・仲村廃寺グループが最初に使用した軒平瓦ZN203の木型は、 各地の寺や工房に貸し出されています。この木型は、奈良時代以降のものとされる善通寺出土の瓦と同笵の均正唐草文様平瓦で、土佐山田町の加茂ハイタノクボ遺跡からも出土しているので、その後もかなり長い期間にわたっていろいろな所を移動していることがうかがえます。
さらに、木型だけでなく工人も移動していたと研究者は考えているようです。
善通寺、仲村廃寺での瓦製造が最も早く、善通寺周辺を中心に工人集団の活動は継続します。その一方で、木枠を持って、各地へ出造りに赴いたと研究者は考えています。その裏付けは次回にするとして・・

 このように佐伯氏の元に工人集団が組織され、いくつもの木型が作られ、それがスットクされ、求めに応じて木型だけでなく工人の派遣にまで応じる体制ができていたことが浮かび上がってきます。中央からの技術提供や工人派遣という道だけでなく、当時の地方有力者は一族意識や地縁関係などで遠くの集団とも結びつき、人とモノとのやりとりを行っていたことが分かります。
 そのための交易路や航路を通じて、交易なども活発におこなわれていたことが推測できます。
 佐伯氏は、外港として多度津白方を交易港として瀬戸内海交易を活発に行っていた気配があることは以前にお話ししました。佐伯氏の財力の多くが、その瀬戸内海交易に支えられていたと考える研究者もいます。寺院建立に関する関係技術やノウハウも、佐伯氏の「交易品」の一部であったのかもしれないと私は考えています。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは  蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。
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日 本史ナビ

藤原宮は本格的な条坊をもつ最初の古代都城でした。

また初めて宮城の建物屋瓦を葺いたことで も知られています。宮城の建物を瓦葺するためには、古代寺院の数十倍の屋瓦が必要になります。しかも、寺院のように着工から落慶法要までに何十年というわけにはいきません。短期間に生産する必要があります。
 その問題を解決するために取られてのが、地方に新たに最新鋭の瓦工場を作って、そこから舟で貢納させるという手法です。この手法は、どのようにすすめられたのか。またこの手法に従って、どのように宗吉瓦窯は新設されたのかを見ていきたいと思います
宗吉瓦窯 藤原京

藤原宮から出土した瓦は、製作技法・使用粘土・瓦デザインの違いか ら次の15グループに分けられています。
宗吉瓦窯 藤原京瓦供給地2
それを具体的に見ると
①大和盆地内では、日高山瓦窯、高 台 ・峰寺瓦窯、内 山 ・西 田中瓦窯、安養寺瓦窯、
②大和盆地外では、近江、讃岐三豊の宗吉瓦窯、讃岐東部、淡路の土生寺窯、和泉地域
 で生産して供給されたことが分かります。
宗吉瓦窯 藤原京瓦供給地

この内の②の大和以外のグループの立地については次のような共通点があると研究者は考えているようです。
①国家的所領に立地する
②藤原宮へ舟で瓦を運べる条件がある
③中央で編成された造瓦技術者集団が派遣されている
この3つの条件が宗吉瓦窯に、当てはまるのかどうかを検討していきましょう。  
この絵は三野湾に隣接した7世紀末の宗吉瓦窯を描いた想像図です。
宗吉瓦窯 想像イラスト

十瓶山北麓の斜面にいくつもの登窯が作られ煙を上げています。ここでは当時建設中の藤原京の宮殿に使用する瓦を焼くために、フル稼働状態でした。この想像図に書き込まれている情報を読み取っていきましょう。斜面にはいくつもの登窯が見えますがよく見ると3グループに分かれています。
①北側裾部(右)に左から順番に1号から9号までの9基
②その南(中央)に、左から10号から16号までの6基
③南側(左) 17号から23号窯の6基
 が平行に整然ならんでいます。南に少し離れて11号窯があります。発掘の結果、このように23の大型瓦窯があったことが確認されました。まるで瓦工場のようです。
  その横を流れるのが高瀬川になります。
高瀬川は、すぐ北で海に流れ込んでいます。当時の三野湾は南に大きく湾曲していて、宗吉瓦窯の近くまで海が迫っていたようです。海に伸びる道の終点は何艘もの小型船が停泊しています。そこに積み上げられているのが瓦です。瓦は小型船で、沖に停泊する大型船に積み込まれます。そして、瀬戸内海を難波の港まで渡り、大和川を経て大和に入り、藤原京まで舟で搬入されたようです。藤原京には、工事用のための搬入運河が作られていたことが分かっています。

宗吉瓦窯 藤原京運河
藤原京と運河

 藤原京建設の進展具合を見てみましょう
天武 5 676 新城、予定地の荒廃により造営を断念
天武 9 680 皇后の病気平癒のため誓願をたて、薬師寺建立を発願
天武13 684 天皇、京内を巡行し、宮室の場所を定める
朱鳥元 686 天武天皇崩御
持統 6 692 藤原の宮地の地鎮祭を行う
持統 8 694 藤原遷都
持統 9 695 公卿大夫を内裏にて饗応
持統 10 696 公卿百官、南門において大射
文武 2 698 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
大宝元 701 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
       天皇、大安殿に出御し祥瑞の報告を受ける

藤原京の建設が進む7世紀末には、この宗吉瓦窯はフル稼働状態で、作られた瓦が舟で藤原京に貢納されていたようです。
宗吉瓦窯 窯内部写真

 発掘が行われた17号窯を見てみましょう。
一番南側の窯になります。山麓を掘り抜い た全長約13m、幅 約2m、高さ1,2~1,4mの大型で最新鋭の有段式瓦窯です。この瓦窯からは、平瓦、丸瓦とともに、軒丸瓦、軒平瓦、熨斗瓦などが出土しています。その工法は、粘土板技法によるもののようです。
 また、軒丸瓦は単弁8葉蓮華文の山田寺式の系譜を引くもので、これは三豊市豊中町の妙音寺から出てきた瓦と同じ型から作られた「同笵瓦」です。

3妙音寺の瓦

また、一番北側の8号瓦窯からは重弧文軒平瓦、凸面布目平瓦などが出土しています。その中の軒瓦は、以前にもお話しした通り丸亀市郡家の宝幢寺池から出てきたものと同笵です。ここからは、この宗吉瓦窯で作られた瓦が三野郡の妙音寺や多度郡の仲村廃寺や善通寺、那珂郡の宝憧寺に提供されていたことがわかります。

さらに、17号や8号で周辺寺院への瓦が提供された後に、藤原京用の瓦を焼くために多くの窯が作られ、フル稼働状態になったことも分かってきました。今までの所を整理しておきます

宗吉瓦窯は
①讃岐在地の有力氏族の氏寺である妙音寺や宝幢寺の屋瓦を生産するための瓦窯として最初は登場
②その後、藤原宮所用瓦の生産を担うに多数の瓦窯を増設された。
 この想像図に書かれたような当時のハイテク最先端の瓦工場が、どのようにして三豊のこの地に作られるようになったのでしょうか?

讃岐三野湾周辺の歴史的背景をみておきましょう。
 宗吉瓦窯が設けられた三野津湾は、古代には大きく南に湾入していたようです。
1三豊の古墳地図

周辺の古墳時代後期の古墳としては、宗吉瓦窯の約西北1,5kmに汐木原古墳、大原古墳、金蔵古墳などがありますが、首長墓とされる前方後円墳は見当たりません。ここからは古墳時代の三豊湾には有力首長がいなかったことがうかがえます。
 ところが蘇我氏が台頭してくる6世紀後半代には、三豊湾の東岸に三野古窯群が操業を始め、窯業生産地を形成していきます。

三野平野2

三野古窯群の「殖産興業」を行った勢力は、何者なのでしょうか?
『 先代旧事本紀』の「天神本紀」に、三野物部のことが記され、三豊湾から庄内半島にかけてを三野物部が本拠地としていたことがうかがえます。三野物部は、「天神本紀」に筑紫聞物部、播磨物部、肩野物部などと一緒に記されています。これは、中央の物部氏が九州から瀬戸内海、河内の要所の港津を掌握していたことと深く関連すると研究者は考えているようです。
 つまり朝鮮半島や九州と最重要ルートである瀬戸内海の拠点として、物部氏の拠点が置かれていたと云うのです。それは、三野物部が庄内半島や三野湾を拠点に、交易・軍事・政治的活動を行ったとも言い換えられます。この説によると、三野物部によって先ほど見た三野古窯群も、朝鮮からの渡来技術者を入植させることで「殖産興業」化されたことになります。しかし、物部氏は用明天皇2年(587)に、蘇我馬子・厩戸皇子と争いに敗れ滅びます。
それでは、三野湾の周辺の支配権はどうなったのでしょうか?
敗者である物部氏の所領は、勝者である蘇我氏が接収したようです。しかし、蘇我氏も、皇極天皇4年(645)の乙巳の変(大化の改新)によって、蘇我蝦夷・入鹿が中大兄 皇子・中臣鎌足らに倒され、滅亡します。
 後に成立した養老律では、謀反などによる者の財物は、親族、資財、田宅を国家が没収すると規定 されています。没収財産は、内蔵寮、穀倉院など天皇家の家産機構にくりこまれることになっています。蘇我本宗家の滅亡の場合も、 同じような扱いになったのではないかと研究者は考えているようです。
つまり三野湾一帯の所領は、次のように変遷したと考えます
①瀬戸内海交易の拠点として物部三野が支配
②物部氏が蘇我氏に倒された後は、蘇我氏の支配
③乙巳の変(645)以後は、天皇家の家産財産化(国家的な所領)
 このように7世紀末に三野湾には、物部三野が残した大規模な三野窯跡群が所在し、その周辺 に国家的な所領があったと想定できます。
この状況を先ほど見た瓦窯設置条件から見るとどうなのでしょうか。
①周辺に先行する須恵器生産地がある。
  ここからは瓦製造に必要な粘土があること、また須恵器生産を通じて養われたノウハウや技術者が蓄積されていたと考えられます。
②国家的所領があること
 これは、労働力を徴発したり動員できること、燃料の薪も入手できることを意味します。7世紀末の時点で、すでに三野湾東部では燃料となる木材は伐採が進み、山は次々と禿げ山になっていたようです。そのため伐採がすすんだエリアの窯を放棄して、須恵器窯は山の奥へ奥へと移動していきます。しかし、国家的な事業であれば周辺の山々の木材を伐採することができます。少々遠くても、三野郡の住人を動員すればいいと担当者は考えるでしょう。どちらにしても、薪は今までのエリアを越えて集めることが出来ます。燃料供給に問題はありません。
③物部氏が運用してきた港津がある
 これは舟で近畿と結びついていることを意味します。郷里は遠くとも大量の製品を舟で藤原京まで運べます。藤原京造営のため京城内部まで運河が掘られていたことが発掘からは分かっているようです。
 以上のような好条件があったことになります。
中央の政策立案者達は、中央の進んだ造瓦技術者集団を派遣し、地元の須恵器工人たちに技術指導を行うことで、新たな造瓦組織が編成できると考えたのでしょう。あとは、製造技術や管理集団です。
 それでは、藤原京造営計画の中心にいた人物とは誰なのでしょうか。
  研究者は、平城遷都が右大臣藤原不比等の計画によって進めたとしますが、それに先立つ藤原宮の造営でも不比等が第1候補に挙げられるようです。地方に技術者を送り込み、新設工場を設置して、運営は地元の有力豪族に委託するというやり方は不比等周辺で考えられたとしておきましょう。
1 讃岐古代瓦

この時期に窯業などの先端技術を持つ人たちは、渡来人でした。
 彼らの中には、新羅・唐の連合軍の侵攻の前に国を追われ、倭国にやってきた百済の技術者が数多くいたはずです。百済滅亡時には、先端技術を持った多くの渡来人達がやってきてます。真っ先に国を逃げ出し、政治的亡命を行うのは高位高官者に多いのは今でも同じなのかもしれません。
 どちらにしても、地方における古代寺院の建立を可能にしたものは、彼らの存在を抜きにしては考えられないでしょう。ハイテク技術を持った技術者は、最初は中央の有力者の氏寺の建立に関わります。

宗吉瓦窯 川原寺創建時の軒瓦
川原時の古代瓦
それが川原寺であり、本薬師寺であったのでしょう。藤原不比等も氏寺の造営を行っているようです。中央で活躍していた技術者達に、地方への転勤命令が下されたのです。それは藤原京の瓦造りのためにでした。
  宗吉瓦窯にやってきたのは、大和の牧代瓦窯からやってきた瓦技術者だったと研究者は考えているようです。
なぜ、そんなことが分かるのでしょうか。それは、瓦のデザインの分析から分かるようです。
宗吉瓦窯 牧代瓦窯地図
研究者は次のように考えているようです。
①大和の2荒坂瓦窯は川原寺の屋瓦を生産した有段瓦窯で、当時の最新鋭の設備と技術者によって運営されていた
②2荒坂瓦窯は川原寺の瓦生産が終了すると、瓦技術者たちは近くの1牧代瓦窯に移って本薬師寺用の瓦生産に取りかかった。
③本薬師寺へ屋瓦を供給することが終了した段階で、牧代瓦窯の造瓦組織は解体されいくつかの小規模なグループに再編成された
④それは、藤原宮用の瓦生産を行うためで、各グループが地方に技術指導集団として派遣された。
⑤藤原宮用瓦の生産を行った讃岐、和泉、淡路の瓦工場は、互いに密接な関連もっていた。
①から②の移動は、燃料となる薪の木材を伐採しつくしたので、新たな場所に瓦窯を移したようです。それも含めると、瓦技術者集団は、つぎのように移動した研究者は考えているようです。

2荒坂瓦窯 → 1牧代瓦窯 → 小グループに再編され讃岐、和泉、淡路の瓦工場への派遣

この際に①や②で使われていた軒平瓦の版木デザインを、宗吉瓦窯の新工場にも持ってきて、それに基づいて忍冬唐草文の文様を書いたとします。こうして、大和から讃岐への瓦技術者の移動が明らかにされているようです。そのデザインの変化を見ておきましょう。

宗吉瓦窯 軒平瓦デザイン
牧代瓦窯6647Gに類似する文様には、讃岐東部産(長尾町)の6647Eと讃岐三豊の宗吉瓦窯6647Dがあります。3つの瓦は
①8回反転の変形忍冬唐草文で、
②半パルメット文様が特殊な形状をなし、
③右第1単位の右斜め上に三日月形の文様
 があります。
④半パルメット、渦巻形萼、蕾の表現からみて、
牧代瓦窯6647G→讃岐東部産6647E→半パ ルメットが全て上向きに表現する宗吉瓦窯6647Dの順にくずれていることを研究者は指摘します。(図5)。 
  ここからは讃岐で生産された藤原京用の平瓦のデザインは、大和の牧代瓦窯で働いていた技術者集団がもたらし、その指導の下に作られたことがうかがえます。

宗吉瓦窯 宗吉瓦デザイン
宗吉瓦窯の瓦 

再度確認しておきます。牧代瓦窯―本薬師寺系列の軒瓦は、
①本薬師寺の造瓦組織(最先端技術保有集団)を解体し
②和泉、淡路、讃岐東部、讃岐三豊産の宗吉瓦窯などへ派遣された造瓦技術者が
③粘土板技法によって藤原宮所用瓦の生産にかかわった
ということになります。
こうして新たな京城の宮殿瓦を焼く工場新設という使命を受けて、中央から技術者集団が三豊にもやってきたようです。
三野 宗吉遺2

彼らは、どのような基準で瓦工場の立地を決めたのでしょうか。
 古代も現在も瓦工場には、瓦に適した粘土・薪(燃料)・水・交通・労働力などが必要です。その中でも粘土と薪と水は、瓦つくりには必須です。まず粘土のある場所と、地下水などの水が豊富なこと、港に近く積み出しに便利なことなどが選定条件になります。それらを満たしていたことは、先ほどの復元図から読み取れます。
宗吉瓦窯 瓦運搬ルート

 薪は今までは伐採が許されなかったエリアから伐採が可能になったようです。庄内半島方面から切り出してきた形跡が見えます。薪の運搬ルートも考えて選ばれたのが十瓶山北麓の丘陵斜面である宗吉だったのでしょう。これは今まで、須恵器窯群があった三野湾東部ではなく、湾の南側になります。

1 讃岐古代瓦no源流 藤原京
 労働力は
①薪の伐採・運搬
②粘土の掘り出し
③焼きあがりの瓦の運搬
④製造工程の職人
が考えられます。これらの管理・運営は担うことになったのが、地元の有力者である丸部氏(わにべのおみ)ではないのかというのは以前にお話ししました。
 讃岐国三野郡(評)丸部氏は、7世紀後半に都との深いつながりをもつ人物を輩出します。
天武天皇の側近として『日本書紀』に名前が見える和現部臣君手です。君手は、壬申の乱(672年)の際に美濃国に先遣され、近江大津宮を攻略する軍の主要メンバーでした。その後は「壬申の功臣」とされます(『続日本紀』)。そして息子の大石には、772年(霊亀二)に政府から田が与えられています。
出来事を並列的にとらえる -『鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台』(2)- : 発想法 - 情報処理と問題解決 -

 このように和現部臣君手を、三野郡の丸部臣出身と考えるなら、讃岐最初の古代寺院・妙音寺や宗吉瓦窯跡も君手とその一族の活動と考えることができそうです。豊中町の妙音寺周辺に拠点を置く丸部臣氏が、「権力空白地帯」の高瀬・三野地区に進出し、国家の支援を受けながら宗吉瓦窯跡を造り、船で藤原京に向けて送りだしたというストーリーが描けます。
 
ちなみに丸部氏が讃岐最初の氏寺である妙音寺を建立するのは、宗吉瓦窯工場新設の少し前になります。その経験を活かして隣の多度郡の佐伯氏の氏寺善通寺や那珂郡の宝憧寺(丸亀市郡家)造営に際しても、瓦を提供していることは先述したとおりです。讃岐における古代寺院建設ムーヴメントのトッレガーが丸部臣氏だったようです。

 このような実績があったから藤原不比等から役人を通じて、次のような声がかかってきたのかもしれません。
新たに造営予定である藤原京の宮殿は、なんとしても瓦葺きにしたいとお上は思っている。板葺宮では、国際的な威信にもかかわる。そこで、新たな瓦工場の設置場所を選定している所じゃ。おぬしの所領の近くの三野湾周辺では、いい粘土が出るようじゃ。それを使って、須恵器も焼かれていると聞く。
 そこでじゃが先の壬申の乱の功績として、おぬしの実家の丸部氏に氏寺の建立を許す。完成すれば、讃岐で最初の寺院になろう。名誉な事じゃ。もちろん建立に必要な技術者達は、藤原不比等さまが派遣くださる。氏寺建設に必要な瓦窯を作って、そこで瓦を焼いてみよ。うまくいけば周辺の氏寺建設を希望する氏族にノウハウや瓦を提供することも許す。
 そうして出来上がった瓦の品質がよければ、藤原京用の瓦に採用しようというのじゃ。その時にはいくつもの窯が並んだ、今まで見たこともない規模の瓦屋(瓦窯)が三野湾に姿を現すことになろう。たのしみじゃのう。
 ちなみに大和国までは舟で運ぶことなる。その予行演習もやっておけば不比等さまは、ご安心なさるじゃろう。詳しいことは、瓦の専門家グループを派遣するので、彼らと協議しながら進めればよい。どうしゃ、悪い話ではないじゃろう。 
 という小説のような話があったかどうかは知りません。
現在の工場誘致のように丸部氏側が、不比等に請願を重ねて実現したというストーリーも考えられます。いずれにしても、政権の意図を理解し、讃岐最初の寺院を建立し、瓦を都に貢納するという活動を通じて、三野の「文明化」をなしとげ、それを足がかりに地域支配を進める丸部臣(わにべのおみ)氏の姿が見えてきます。  
宗吉瓦窯 ポスター

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 小笠原好彦    藤原宮の造営 と屋瓦生産地
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