瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の古代豪族

以前に円珍系図のことを紹介したのですが、「むつかしすぎてわからん もうすこしわかりやすく」という「クレーム」をいただきましたので「平易版」を挙げておきます。

伝来系図の2重構造性
 
系図を作ろうとすれば、まず最初に行う事は、自分の先祖を出来るだけ古くまでたどる。こうして出来上がるのが「現実の系図」です。個人的探究心の追求が目的なら、これで満足することができます。しかし、系図作成の目的が「あの家と同族であることを証明したい」「清和源氏の出身であることを誇示したい」などである場合はそうはいきません。そのために用いられるのが、いくつかの系図を「接ぎ木」していくという手法です。これを「伝来系図の多重構造」と研究者は呼んでいるようです。中世になると、高野聖たちの中には、連歌師や芸能者も出てきますが、彼らは寺院や武士から頼まれると、寺の由来や系図を滞在費代わりに書残したとも言われます。系図や文書の「偽造プロ」が、この時代からいたようです。
 系図として国宝になっているのが「讃岐和気氏系図」です。
私は和気氏系図と云ってもピンと来ませんでした。円珍系図と云われて、ああ智証大師の家の系図かと気づく始末です。しかし、円珍の家は因支首(いなぎ:稲木)氏のほうが讃岐では知られています。これは空海の家が佐伯直氏に改姓したように、因支首氏もその後に和気氏に改姓しているのです。その理由は、和気氏の方が中央政界では通りがいいし、一族に将来が有利に働くと見てのことです。9世紀頃の地方貴族は、律令体制が解体期を迎えて、郡司などの実入りも悪くなり、将来に希望が持てなくなっています。そのために改姓して、すこしでも有利に一族を導きたいという切なる願いがあったとしておきます。
 それでは因支首氏の実在した人物をたどれるまでたどると最後にたどりついたのは、どんな人物だったのでしょうか?

円珍系図 伊予和気氏の系図整理板

それは円珍系図に「子小乙上身」と記された人物「身」のようです。
その註には「難破長柄朝逹任主帳」とあります。ここからは、身は難波宮の天智朝政権で主帳を務めていたことが分かります。もうひとつの情報は「小乙上」が手がかりになるようです。これは7世紀後半の一時期だけに使用された位階です。「小乙上」という位階を持っているので、この人物が大化の改新から壬申の乱ころまでに活動した人物であることが分かります。身は白村江以後の激動期に、難波長柄朝廷に出仕し、主帳に任じられ、因支首氏の一族の中では最も活躍した人物のようです。この身が実際の因支首氏の始祖のようです。
 しかし、これでは系図作成の目的は果たせません。因支首氏がもともとは伊予の和気氏あったことを、示さなくてはならないのです。
そこで、系図作成者が登場させるのが「忍尾」です。
貞観九年二月十六日付「讃岐国司解」には、「忍尾 五世孫少初位上身之苗裔」と出てきますので、系図制作者は忍尾を始祖としていていたことが分かります。忍尾という人物は、円珍系図にも以下のように出てきます。
    
円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図

その注記には、次のように記されています。
「此人従伊予国到来此土
「娶因支首長女生」
「此二人随母負因支首姓」
意訳変換しておくと
この人(忍尾)が伊予国からこの地(讃岐)にやってきて、
因支首氏の長女を娶った
生まれた二人の子供は母に随って因支首の姓を名乗った
 補足しておくと、忍尾がはじめて讃岐にやって来て、因支首氏の女性と結婚したというのです。忍尾の子である□思波と次子の与呂豆の人名の左に、「此二人随母負因支首姓」と記されています。忍尾と因支首氏の女性の間に生まれた二人の子供は、母の氏姓である因支首を名乗ったと云うのです。だから、もともとは我々は和気氏であるという主張になります。
 当時は「通い婚」でしたから母親の実家で育った子どもは、母親の姓を名乗ることはよくあったようです。讃岐や伊予の古代豪族の中にも母の氏姓を称したという例は多く出てきます。これは、系図を「接ぎ木」する場合にもよく用いられる手法です。綾氏系図にも用いられたやり方です。
円珍系図  忍尾と身


つまり、讃岐の因支首氏と伊予の和気公は、忍尾で接がれているのです。
 試しに、忍尾以前の人々を辿って行くと、その系図はあいまいなものとなります。それ以前の人々の名前は、二行にわたって記されており、どうも別の系図(所伝)によってこの部分は作られた疑いがあると研究者は指摘します。ちなみに、忍尾以前の伊予の和気公系図に登場する人物は、応神天皇以後の4世紀後半から5世紀末の人たちになるようです。

以上を整理しておくと
①因岐首系図で事実上の始祖は、身で天智政権で活躍した人物
②伊予の和気氏系図と自己の系図(因岐首系図)をつなぐために創作し、登場させたのが忍尾別君
③忍尾別君は「別君」という位階がついている。これが用いられたのは5世紀後半から6世紀。
④忍尾から身との間には約百年の開きがあり、その間が三世代で結ばれている
⑤この系図について和気氏系図は失われているので、事実かどうかは分からない。
⑥それに対して、讃岐の因支首氏系図については、信用がおける。
つまり、天智政権で活躍した「身」までが因支首氏の系図で、それより前は伊予の和気公の系図だということになります。そういう意味では、「和気氏系図」と呼ばれているこの系図は、「因支首氏系図」と呼んだ方が自体を現しているともいえそうです。
  伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことと研究者は考えています。
それ以前ではありません。円珍系図がつくられた承和年間(834~48)から見ると約2百年前のことになります。大化以後の両氏の実際の婚姻関係をもとにして、因支首氏は伊予の和気氏との同族化を主張するようになったと研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成されたものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そこでポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」


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佐伯直氏廟 香色山

空海を生み出した佐伯氏とは、どんな豪族だったのでしょうか?

その辺りを、資料的に確認していきたいと思います。同じ佐伯でも佐伯部・佐伯直・佐伯連では、おお
きくちがうようです。

 佐伯直氏について
                                                    空海の生家 佐伯一族とは?

まず、佐伯でから見ていきます。               
「部(べ)」または「部民」とは、律令国家以前において、朝廷や豪族に所有・支配されていた人たちを指します。佐伯部については、長いあいだ、井上光貞氏の次の説が支持されてきました。

 佐伯部とは五世紀のころ、大和朝廷の征討によって捕虜となった蝦夷をいい、佐伯部という名をおびた半自由民とされたうえで、播磨・安芸・伊予・讃岐・阿波の五力国に配置され、その地方の豪族であった国造家の管理のもとにおかれた人々であった」

この説では、捕虜となり、瀬戸内海沿岸地域に配置された蝦夷の子孫ということになります。しかし、この佐伯部=蝦夷説は、佐伯部が軍事的な部であることを主張するために蝦夷の勇猛さにあやかり、七世紀後半に作られた伝承と今では考えられているようです。
代わって次のような説が一般的です。

「(佐伯部は)対朝鮮半島との緊張のなかで、瀬戸内海地域に「塞ぐ城」として設置されたとは考えにくく、大和政権が西国支配を確立していく過程で設置されたとみるべきであり六世紀初め以前に設置された」

 6世紀に佐伯部が設置されたとするのなら、有岡の地に築かれた王墓山古墳や菊塚古墳の埋葬者が「佐伯部を管理する国造」たちで佐伯直と呼ばれたいう説も成立可能な気もします。
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          佐伯直氏廟 香色山
 つぎは、佐伯です。
佐伯直(あたい)については、次のように説明されます。

「佐伯部(軍事部隊?)を管理・支配していたのがその地方の豪族であった国造家であり、その国造家を佐伯直と称した」

空海の生家である讃岐国の佐伯直家も、かつて国造家といわれたこの地方の豪族であった、といわれています。この空海の生家を豪族とみなす説は、佐伯直=国造家=地方の豪族の図式にピタリとはまります。
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香色山からの善通寺市街と飯野山

 最後は佐伯連です。
佐伯連は、中央にあって諸国の佐伯直を統括していた家と考えられてきました。
佐伯連は、壬申の乱後の天武十二年(684)十二月、大伴連らとともに「宿禰」の姓をたまわり、佐伯宿禰と称するようになります。この中央で活躍していた佐伯連(のちの宿禰家)は、大伴宿禰の支流にもなります。つまり、大伴氏は佐伯宿禰の本家にあたる一族になるわけです。
次に確認しておきたいのは、これらの3つの佐伯はまったく別物だったと言う点です。
  地方にいた佐伯直と中央で活躍していた佐伯連、のちの佐伯宿禰とは、おなじ佐伯と言いながら、まったく別の家でした。つまり、讃岐の佐伯直と中央の佐伯連(宿禰)とのあいだには血のつながり、血縁関係はまったくなかった、と研究者は考えているようです。
 しかし、平安初期のころになると、佐伯とあれば直・連(宿禰)の関係なく、同族であるとの意識が強くなっていたようです。むつかしい言葉で言うと「疑似血縁的紐帯」で結ばれ一族意識を持つようになっていたということでしょうか。
 例えば空海も、天長五年(828)二月、陸奥国に赴任する佐伯蓮の本家に当たる伴国道に詩文を贈り、次のように記しています。

  貧道と君と淡交にして玄度遠公なり。絹素区に別れたれども、伴佐昆季なり。

「伴佐昆季なり」と、大伴と佐伯とは同じ祖先をもつ兄弟である、と記しています。空海も佐伯と、その本家に当たる大伴家の一族意識を持っていたことが分かります。しかし、実際には同じ佐伯でもその後に「直」「連」「宿禰」のどの姓(かばね)が来るかで大違いだったのです。

 佐伯家系を知る根本史料は「貞観三年記録」 
空海の兄弟などを知るうえでの根本史料となるのは『日本三代実録』巻五、貞観三年(861)十一月十一日辛巳条で、「貞観三年記録」と呼ばれている史料です。
 当時の地方貴族の夢は、中央に出て中央貴族になることでした。そのために官位を高めるための努力を重ねています。佐伯家も、空海の兄弟達が中央で活躍して佐伯直鈴伎麻呂ら11名が宿禰の姓をたまわり、本籍地を讃岐国から都に移すことを許されます。その時の申請記録が残っています。

 1 空海系図52jpg
「貞観三年記録」を元に作成された佐伯氏系図
「貞観三年記録」にどんなことが書かれているのか見ておきましょう。
前半は、宿禰の姓をたまわった空海の弟の鈴伎麻呂ら十一名の名前とその続き柄と、佐伯家の本家である大伴氏の当主が天皇への上奏の労をとったことが記されます。後半は、大学寮の教官の一人・書博士をつとめていた空海の弟・佐伯直豊雄が作成した官位などを望むときに提出する願書と、その内容を「家記」と照合し、勅許に至ったことが載せられています。
 
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善通寺東院 本堂

その中の空海の先祖の部分を意訳要約すると次のようになります。
①先祖の大伴健日連(たけひのむらじのきみ)は、景行天皇のみ世に倭武命(やまとたけるのみこと)にしたがって東国を平定し、その功績によって讃岐国をたまわり私の家とした。
②その家系は、健日連から健持大連公(たけもちのおおむらじのみこと)、室屋大連、その長男の御物宿禰、その末子倭胡連へとつながり、この倭胡連(わこのむらじのきみ)が允恭天皇の時に初めて讃岐の国造に任ぜられた。
③この倭胡連は豊男等の別祖である。また、孝徳天皇の時に国造の称号は停止された。
 これだけ読むと讃岐国の佐伯直氏の先祖について記したように思えます。しかし、これは中央で活躍していた武門の名家・大伴氏に伝わる伝承を「流用」したもののようです。大伴家は佐伯氏の本家であるという意識を空海が持っていたことは先ほど述べました。そのため本家と考えられていた大伴家の話を「流用」しているのです。ともあれ、内容を少し詳しくみておきましょう。
   ①段の前半、景行天皇の時に、大伴健日連が日本武尊にしたがって東国を平定したことは、『日本書紀』にだけみられる記録です。
 この記事について、研究者は次のように評します。

「これらは伝承であって史実ではなく、大伴連の家につたえられた物語であった。大伴氏が、主として軍事の職掌を担当するようになってから、こうした話がつくられたのであろう」

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善通寺東院 本堂

 つぎは①の後半、東国を平定した勲功によって讃岐国を賜り私の家としたことです。
景行天皇時代の讃岐国における佐伯、および国造について次のように記します。

『日本書紀』巻七、景行天皇四年二月甲子(十一日)条に、天皇が五十河媛を妃として神櫛皇子・稲背入彦皇子を生み、兄の神櫛皇子は讃岐国の国造の始祖となり、弟の稲背人彦皇子は播磨別の始祖となった

 また、同天皇五十一年八月壬子(四日)条には、

  日本武尊が熱田神宮に献じた蝦夷等は、昼となく夜となくやかましく騒ぎたてた。倭姫命の「彼らを神宮にちかづけてはならない」との言葉にしたがい、朝廷に進上して三輪山のほとりに安置した。ここでも神山の樹をことごとくきり、近隣にさけび騒いで、人々から脅れられた。そこで天皇は、蝦夷はもとより獣しき心あって、中国(うちつくに)に住まわせることはできない。彼らの願いのままに畿外にすまわせなさい」と命じた。これが播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の佐伯部の影である。

 この佐伯部の話は、佐伯部が軍事的部であることを主張するために蝦夷の勇猛さにあやかり、七世紀後半に作られた伝承であることは最初に述べました。
 以上より、この①の段落は大伴家の伝承にもとづいて記された記事であり、讃岐佐伯家の史実とみなす訳にはいかないと研究者は考えているようです。しかし、ここからも当時の空海の兄弟達が自分たちが大伴家とつながりのある一族で、ここに書かれた歴史を共有する者達であるという意識をもっていたことはうかがえます。
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五岳山 大墓山古墳より

 「貞観三年記録」にみえる空海の兄弟たち 
「貞観三年記録」には、本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを許された空海の身内十一人の名前とその続き柄が、次のように記されています。

 讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位上佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿禰の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき。

ここに名前のみられる人物を系譜化したものが下の系図です。
1佐伯家家系
佐伯直氏系図
このなか、確かな史料によって実在したことが確認できるのは、空海の弟鈴伎麻呂だけのようです。彼については『類聚国史』巻九十九、天長四年(八二七)正月甲申(二十二日)条に、諸国に派遣した巡察使の報告にもとづいて、その政治手腕が高く評価され褒賞として外従五位下を授けられた諸国の郡司六人のなかに「佐伯直鈴伎麿」の名前があります。
ここから中央政府に提出した一族の構成は正しいもので、「空海の一族は郡司の家系であった」という説は、正しかったと言えるようです。そして、空海には多くの兄弟がいたことが確認できます。
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この佐伯家一族を系譜を見ながら気づくことは 
①倭胡連公と空海の父である佐伯直田公とのあいだが破線です。これは実際の血縁関係がないからだといいます。ここで系譜が接がれているのです。つまり大伴健日連-健持大連-室屋大連-御物宿禰-倭胡連公までは、中央で活躍していた佐伯連(のちの佐伯宿禰)が大伴氏から分かれるまでの系譜です。先ほども述べましたが佐伯連氏は、武門の家として名高い大伴氏の別れで、天皇家に長くつかえてきた名門です。
 先述したように、同じく「佐伯」を称しながらも、中央で活躍していた佐伯連氏と地方に住んでいた佐伯直氏とのあいだには、直接の血のつながりはなかったというのが定説です。そのため、倭胡連と田公とを実線でつなぐことはできないようです。
②従来はこの点があいまいに考えられてきたようです。
「倭胡連公は是れ、豊男等の別祖なり」

と記されているのに、讃岐国の佐伯直氏の先祖と大伴家がひと続きの系譜とみなされてきました。

 倭胡連公(わこのむらじのきみ)とは何者なの?                           
  倭胡連公が讃岐国の佐伯直氏の先祖ではなく、中央で活躍していた佐伯連、のちの佐伯宿禰氏の初祖にあたるようです。「倭胡」は『大伴系図』などに「初めて佐伯の氏姓を賜う」と記されている「歌」と同位置人物であるという説が支持されるようになっています。
 このことを「貞観三年記録」は「倭胡連公は、是れ豊雄らの別祖なり」は、まさしく(大伴)豊雄らとは血の繋がらない、佐伯連(のちの宿禰)の始祖のことを指しているようです。だから「倭胡連公」と讃岐佐伯家田公一門との系譜を、実践でつなぐことができないと研究者は考えているようです。
 そうすると、佐伯連の初祖と考えられる倭胡連から空海の父・田公までのあいだが、「貞観三年記録」にはスッポリ欠落していることになります。
田公の先祖を記す史料は他にもあって、その一つが三河国幡豆郡の郡司のながれをくむ家につたえられたといわれる『伴氏系図』です。そこには、下のように空海の父・田公から六代さかのぼる世代がみえます。
1佐伯氏
伴氏系図

しかし、この『伴氏系図』も「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれていると研究者は考えているようです。

その理由の一つは「平曽古」「平彦」にはともに「連」とあり、つぎの「伊能」「大人」には「直」とあって、高い姓から低い姓に「降格」されている状態になります。もう一つは、「平曽古連」の尻付きに「安芸の国厳島に住す」とあり、「伊能直」の尻付きに「讃岐国多度郡の県令」とあって、姓とともに住所も変わっていることです。この二つのことから、「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれていることは間違いないとします。
  もうひとつの疑問は、大伴氏の系図には、空海の父・田公は「少領」であった記されていることです。
ところが政府に提出された「貞観三年記録」の田公には、位階も官職もまったく記されていないことです。「選叙令」の郡司条には、次のような郡司の任用規定があります。

 凡そ郡司には、性識清廉にして、時の務に堪えたらむ者を取りて、大領、少領と為よ。強く幹く聡敏にして、書計に工ならむ者を、主政、主帳と為よ。其れ大領には外従八位上、少領には外従八位下に叙せよ。其れ大領、少領、才用同じくは、先ず国造を取れ。

ここに、少領は郡司の一人であり、その長官である大領につぐ地位であって、位階は外従八位下と規定されています。田公が、もし少領であったとすれば、必ず位階を帯びていたと思われます。
 しかし、「貞観三年記録」には田公の官位がないのです。政府への申請書に正式の官位が記されていないというのは、そこには記せなかったということでしょうか。
 史料の信憑性からは、「貞観三年記録」が根本史料ですぐれています。よって、空海の父・田公は無位無官であった、とみなしておくしかないというのが研究者の立場のようです。
 高い位階を帯びる空海の兄弟たち   
「貞観三年記録」に登場する人物で、信頼できるのは空海の父田公以下の三代にわたる十二名だけということになるようです。その系譜をもう一度見てみましょう。
1佐伯家家系

 先ほどもいいましたが空海の父である田公には、官位などは一切記されていません。ところがその子ども達の位階は、もし地方に住んでいたとするならば、異常ともいえるほど極めて高いと研究者は指摘します。位階の高い順に整理してみると次のようになります。
 外従五位下  鈴伎麻呂
  正六位上  酒麻呂
  同     豊雄(書博士)
  同     道長(空海の戸主)
  従六位上  貞持
  同     豊守
  正七位下  魚主
  従七位上  葛野
  従八位上  粟氏
  大初位下  貞継
 「選叙令」の基準では、郡司の長官である大領の官位は外従八位上であり、次官である少領は外従八位下と規定されていす。この基準から考えると、空海の兄弟達は郡司など問題にならないくらい、高い位階を持っていたことが分かります。 特に、外従五位下の鈴伎麻呂、正六位上の酒麻呂と豊雄、従六位上の貞持と豊守などは、中央の官人としても十分にやっていける位階を持っています。彼らの官位は中央官位の三十の位階では、従五位下は十四番目、正六位上は十五番目、従六位上は十七番目になります。例えば、国司なら大国の二番目のポストである介と中国の守に、従六位上で上国の介につけたことになります。
 もちろん位階を得ることがが、すぐに官職につくことではなかったので即断はできません。しかし、空海の甥・豊雄は、正六位上で都の大学寮で書博士として活躍しています。

1弘法大師1

空海の兄弟たちは、なぜ高い位階を持つことができたのでしょうか。
 第一は、位階を得るだけの経済力を持っていた、ということでしょう。
弘仁十二年(821)五月、満濃池の修築別当として空海の派遣を要請したときの多度郡司らの申請書(解状)に、次のように願いでています。
 請う、別当に宛てて其の事を済わしめよ。朝使并びに功料もっぱら停止するを従(ゆる)せ。

この「朝使井びに功料もっぱら停止する」とは、空海が別当として池堤の修築にあたるなら、造池使の派遣は不要であり、修築にかかる工事費・労賃・食料費などの一切の費用を、讃岐国の国衛財政から支出することも不要である、と地元の郡司らが申しでているわけです。
つまり「その一切を地元で負担する」ということです。ここからは、池の恩恵を一番こうむっていた多度郡一帯、なかでも当地の豪族と考えられてきた佐伯直氏が、この地域におおきな土地を持ち経済力を有していたかがうかがえます。

1善通寺宝物館8
真魚像
 第二は、空海の母が阿刀氏の出身であったことです。
 しかし、讃岐国に阿刀氏が住んでいたことは、資料的には確認されていません。空海が誕生された奈良末期、阿刀氏の一族は平城京・河内国渋河郡跡部郷(現在の八尾市植松町一帯)・摂津国豊島郡(大阪府豊能郡)・山城国太秦を中心に居住しています。
①畿内の阿刀氏と空海の父・田公が婚姻関係を持っていた、
②空海の教養が桁外れに高かったこと、
このふたつをどう考えればいいのでしょうか?
空海を送り出した讃岐国の佐伯直氏は、郡司というよりも、空海以前から中央への官人を出していた氏族ではなかったかと考える研究者が出てきています。どうやら空海の父・佐伯直氏は早くから中央を志向し、畿内にでて活躍していたのではないか、との推測もできます。それが、空海の父が阿刀宿禰の娘を娶っていたことからもうかがえると研究者は考えているようです。

 空海の父と母の出会いをどう考えるのか?
讃岐と摂津のあいだの古代遠距離結婚が可能なのか?
という疑問が沸いてきます。これについて以前に記しましたので今日はこの辺りで・・
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
参考文献 善通寺の誕生 善通寺史所収
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 讃岐で一番古い寺院と云えば? 
昔は、国府の置かれた府中の開法寺が讃岐で一番古いと云われていた時期もあったようですが、今では妙音寺が讃岐最古の古代寺院とされているようです。妙音寺と聞いても、馴染みがありませんが、地元では宝積院と呼ばれています。四国霊場第70番本山寺の奥の院でもあります。
まずは現場に足を運んでみましょう。
 四国霊場本山寺は国宝の本堂と明治の五重の塔で知られていますが、その奥の院と言われる妙音寺まで足を伸ばす人はあまりいません。本山寺が平地に建つ寺とすれば、妙音寺は丘の上に建つ寺という印象を受けます。「広々とした沃野が展開し、そこには条里制の遺跡が現在している」というイメージではありません。妙音寺の北側の尾根上では、古墳や8世紀代の遺物を出土した茶ノ岡遺跡やがあることから、低い平な尾根の上に古代集落が存在したようです。
「香川県妙音寺」の画像検索結果
さて、古代寺院を攻める場合には瓦が武器になりますが、古代瓦は私のような素人にとってはなかなか分かりにくので簡単に要約します
①妙音寺出土の軒丸瓦は6種7型式が出てくる
②この中で一番古いものは十一葉素弁蓮華文軒丸瓦M0101モデルの「高句麗系」のデザイン
③このM0101モデルは、大和・豊浦寺出土瓦とデザインが似ている
④作成時期は「瓦当の薄作りや、丸瓦を瓦当頂部で接合するといった技法の特徴は7世紀前半的だが、文様の構成や畿内での原型式からの変容が著しい点」
を考えると年代的には、630年代末~670年代頃の作成が考えられるようです。つまり壬申の乱に先行する形で建立が進められたことになります。
続いて登場するタイプが軒丸瓦MO102A ・ B型式とM0103型式です。
 これらは百済大寺で最初に使われた「山田寺式」の系譜に連なる瓦です。
ところで、これらの軒丸瓦はどこで生産されていたのでしょうか?
妙音寺の瓦は隣の三野町の宗吉瓦窯で焼かれていましたが、そこでは藤原京の宮殿造営のための瓦も同時に焼いていたのです。つまり妙音寺用のM0102A・Bや同103モデルは藤原宮軒丸瓦6278B型の瓦と同じ場所で同じ時期に作られていたことになります。
 妙音寺から出土した瓦は、650~670年代の幅の始まり、90年代にほぼ終了したと考えられるようです。ここから建立もこの時期のこととなります。瓦が年代をきめます。
 妙音寺の創建時に高句麗式と山田寺式の新旧の2つの瓦が使われていることをどう考えればいいのでしょうか。
新旧の瓦に年代差があるのは、出来上がった建物毎に瓦を焼いて、葺いていったということでしょう。古代寺院の建設は、まず本尊を安置する金堂から着手するのが通例です。そうだとすれば、最初の「高句麗系」瓦は金堂に、次いで「山田寺式」瓦はその後に出来上がった塔や回廊・中門に葺かれたこと。その場合、垂木先瓦や隅木先瓦が使われているので、塔が建立されていたと研究者は見ています。讃岐で垂木先・隅木先瓦が出土した寺院は妙音寺のみで、讃岐最古の寺院にふさわしい荘厳がされたようです。
なぜ地方豪族達は、競うように寺院を建立し始めたのでしょうか? 
  その謎解きのために目を美濃国の周辺に移してみましょう。
壬申の乱後に成立した天武朝になると、各地域の豪族はステイタスシンボルとして寺院建立が進められます。その背景は、地域で確立した強大な生産力でしたが、さらなる目的は官僚機構への参入でした。そのモデルが美濃の川原寺式軒瓦を持つ古代寺院です。美濃地域の古代寺院の建立は7世紀中頃に始まり、最初は3か寺ほどでした。尾張・伊勢の場合も同様です。ところが7世紀後半になると、川原寺式軒瓦で葺かれた寺が一挙に17か寺にも急増するのです。この傾向は尾張西部や伊勢北部の美濃に隣接する地域でも見られます。これは一体何が起こったのでしょうか?
  
それは壬申の乱に関係があるようです。
 天武天皇の壬申の乱の勝利への思いは強く、戦いに貢献した功臣への酬いは、さまざまな功賞として表されました。その論功は持統天皇へ、さらに奈良時代に至っても功臣の子々にまで及びました。例えば、乱でもっとも活躍が目立つ村国男依〔むらくにのおより〕は死に際し最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、下級貴族として中央に進出しました。このように戦功の功賞として、氏寺の建立を認めたのです。美濃や周辺の豪族による造寺に至るプロセスには、壬申の乱の論功行賞を契機として寺院を建立し、さらなる次のステップである央官僚組織への進出を窺うという地方豪族の目論見が見え隠れします。
 このような中で讃岐の三豊の豪族も藤原京造営への瓦供出という卓越した技術力を発揮し「論功行賞」として妙音寺の造営を認められたのではないでしょうか。
ちなみに、かつての前方後円墳と同じく寺院も中央政権の許可無く造営できるものではありませんでした。また寺院建築は瓦生産から木造木組み、相輪などの青銅鋳造技術など当時のハイテクの塊でした。渡来系のハイテク集団の存在なくしては作れるものではありません。それらも中央政府の管理下に置かれていたとされます。どちらにしても中央政府の認可と援助なくしては寺院はできなかったのです。逆にそれが作れるというのは、社会的地位を表す物として機能します。

この時代は白村江敗北で、大量の百済人亡命者が日本列島にやってきた時代でもありました。
亡命百済人の活躍

彼らの持つ先進技術が律令国家建設に用いられていきます。それは、地方豪族の氏寺建設にも活用されたと研究者は考えています。

亡命百済僧の活動

妙音寺の瓦は、どんなモデルなの
妙音寺の周辺には忌部神社があり「古代阿波との関係の深い忌部氏によって開かれた」というのが伝承です。果たしてそうなのでしょうか。讃岐で他の豪族に魁けて、仏教寺院の建立をなしえる技術と力を持った氏族とは?
 先ほど、これらの瓦は宗吉瓦窯で生産されたこと、その中でも創建期第2段階に生産されたM0103モデルは藤原宮式の影響を受けていることを述べました。研究者は、そこから進めて「藤原造宮事業への参画を契機に妙音寺は完成した」と見るのです。

 「 宗吉瓦窯」の画像検索結果
 妙音寺の創建第1段階の「高句麗系」瓦は、畿内では「型落ち」のデザインでした。
そして第2段階の妙音寺の所用瓦も最新形式の藤原宮式でなく、デザイン系譜としては時代遅れの「山田寺式」なのです。藤原京に船で運ばれるのは最新モデルで、地元の妙音寺に運ばれるのは型落ちモデルということになります。これは何を物語るのでしょうか。
 こうした現象は、政権中枢を構成する畿内勢力とその外縁地域との技術伝播のあり方を物語るもののなのでしょう。もっとストレートに言えば畿内と機内外(讃岐)との「格差政策」の一貫なのかも知れません。
 三野の宗吉瓦窯を経営する氏族と妙音寺を建立した氏族は同じ氏族であった可能性が高いと研究者は考えています。それにも関わらず中央政権は、讃岐在住の氏族への論功行賞として妙音寺に最新式の藤原宮式瓦の使用を許さなかったと研究者は考えています。

「 宗吉瓦窯」の画像検索結果
 


  
参考文献
佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論

  新しいアイデンティティーを求め、改姓申請 
  
香川県史の年表を眺めていて気になることがいくつかあります。
そのひとつに9世紀前後に、豪族達の改姓や本貫地の変更申請が数多く見られことです。少し並べてみると
791 9・18 寒川郡凡直千継らの申請により,千継等20戸,讃岐公の姓を与えられる(続日本紀)
791 9・20 阿野郡人綾公菅麻呂ら,申請により,朝臣姓を許される(続日本紀)
791 12・10 寒川郡人佐婆首牛養らの申請により,牛養等20戸,岡田臣の姓を与えられる(続日本紀)
800 7・10 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予別公と同祖であることを言上する(北白河宮家所蔵文書)
861 11・11 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる(三代実録)
864 8・6 多度郡人秦子上成・同姓弥成ら3人,秦忌寸の姓を与えられる(三代実録)
866 10・27 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)   
867 8・17 神櫛命の子孫讃岐朝臣高作ら3人,和気朝臣の姓を与えられる(三代実録)
86711・20 三野郡刈田首種継の子安雄,紀朝臣の姓を与えられる(三代実録)

讃岐の郡司クラスの有力豪族が次々と自分の姓を変えているのです。

古代の「姓」はウジ名やカバネとリンクして、そこには豪族たちと政権との関係が刻まれています。自らの都合で変えることができるののではなく、改めるには必ず天皇の許可が必要です。どうして、自分の慣れ親しんだ姓をかえようとしたのでしょうか?
その背景には、なにがあったのでしょうか?
「寒川郡凡直」の画像検索結果

寒川郡の几直氏(おしあたい)について見てみましょう

 寒川郡は、現在の香川県さぬき市にあたります。
この地域は四・五世紀の古墳に、讃岐の他地域とは違ったヤマト王権との強い関係性が見られます。先祖が周防国佐婆郡から讃岐国に移ったという伝承もあり、一族は瀬戸内海各地で展開していたようです。
 寒川郡は、瀬戸内海を往来する南岸ルートの拠点の一つで、津田湾を経て各方面へ交通路が伸びています。瀬戸内海各地に存在する一族との交流などもあり、視線は地域の外に向きやすかったのかもしれません。古墳時代以来の王権とのつながりを背景に、都への足がかりを築いていきます。そして几直氏は、讃岐の国造に任命されます。その背景には王権とのパイプやつながりがあったことがうかがえます。 

改姓申請を行ったのは、几直千継(おしあたいのちつぐ)です。

 彼は、年少の頃に讃岐を出て、都の大学に進み四書五経を学び官僚の道を歩みます。改姓申請を行った時期には、法をつかさざる刑部省の大判事も務めるなど官僚としての栄達の地位にありました。その「立身出世」を背景に「讃岐公」の姓を申請し認められたのです。
 ちなみに年少の頃に、都の大学に入りの官僚の道をめざすというのは、後の佐伯家の真魚(空海)が辿った道でもあり、彼は先に歩いた同郷の先輩でもあります。

几直千継が「讃岐公」に改名したのはなぜでしょうか。

「讃岐公」は、出身の「讃岐」、そして国造としてのカバネである「公」を強調するような姓です。千継またはその親世代が讃岐から都に進出し、自らの出自を強調するために申請したものと思えます。
 干継の流れを汲む讃岐公氏は、その後も広直、浄直、永直、永成といった次世代が明法博士(現代でいう東京大学法学部の主任教授)を歴任するなど、代々法曹官僚を輩出し、次第に中央貴族としての地位を固めていきます。

9世紀半ばに活躍する讃岐永直(さぬきのながなお)です。

彼は、「几直」から「讃岐公」へ改姓した783年に誕生し、862年に80歳で亡くなります。空海とほぼ同時代を生きた人物です。最終の官位は従五位下でした。
 永直は「干継」の系譜を引く法学者の家柄として、駆け出しながら「祖父の七光り」で、律令の公定解釈書である「令義解」編纂に参加します。この編集には、右大臣清原夏野、菅原清公(道真の祖父)、小野篁といった文人政治家が加わり、単なる法律解釈だけでなく、文章表現としても規範となるものを目指します。「令義解」は、833年に完成しますが、この書籍が後世に与えた影響は計り知れないものがあり、何度も書写され現在に伝わります。讃岐永直は、この編集作業を通じて、律令法体系への知識を深かめていきます。同時に、後世に名を残すことになります。 

 讃岐永直には、こんなエピソードが伝わっています。

  律令の刑法上の法運営をめぐって難問が発生し、中国まで使者を派遣して解釈を求めようとします。その時に明法博士の讃岐永直に問うと、簡単に解釈してしまい、使者の派遣が中止となったというのです。時の文徳天皇(在位850~858年)から「律令の宗師」と称され、都の人々が認める「大学者」になります。彼は郷土の誇りとなり、その後は永直を目標とし、讃岐国から多くの後進が続くことになります。
 9世紀後半には讃岐公香川郡出身の秦公直宗・直本の兄弟が「祖業を継ぐ」かのように、讃岐永直が築いた法曹官僚の地位を讃岐出身者が独占しながら連綿と継いでいきます。それは、まるで家業と職が結合する中世の官司請負制のようです。
秦公氏は、八八三年(元慶七)に惟宗朝臣氏に改姓します。
惟宗直本が、若きころに編纂したのが「令集解」という律令注釈書です。
これは、讃岐の大先輩の讃岐永直をはじめとする歴代の明法博士による律令注釈を集大成したものです。しかし、編纂者の直本は自分の解釈を記していません。そこには、駆け出しの若手法曹官僚として、先輩の諸説を謙虚に学ばうという姿勢が感じられます。
 この編纂には、膨大な集成作業が必要だったはずです。どうして、これが若い直本にできたのでしょうか。専門家は、「讃岐出身の法曹官僚たちによる知のネットワーク」が形成されていたことで、「令集解」の集成作業は可能となったと考えているようです。

 律令国家の完成から150年あまりたった平安時代の半ばには、当初は国家から再教育される立場にあった讃岐の豪族たちは、今度は逆に、習得したスキルをもって国家運営や実務の担い手として、時の政府の中でその存在感を増していった様子がわかります。

 最初の疑問に帰りましょう。8世紀終わり頃の延喜年間には、改姓の動きが目立つのはどうしてか? 

というのがスタートでした
 住居地名や伝統的な職名など複数を組み合わせたそれまでの氏姓から、中央の貴族として通用するような氏姓に替えるための申請、認可の記事が『続日本紀』などに数多く見られます。
讃岐国では、
国造の系譜をひく凡直氏が讃岐公氏に、
綾氏が「公」から「朝臣」に、
佐婆部首(さばべのおびと)氏が岡田臣氏に、
韓鉄師首(からかねのもちびと)氏が坂本臣氏に改姓しています。
続く九世紀の前半には讃岐公氏が讃岐朝臣氏、
そして和気朝臣氏への改姓や、佐伯連氏の改姓と
都への本貫地の移籍記事が続きます。
 ここには讃岐公が法律家一門として、中央貴族化していくことと共通する背景があります。

空海を出した多度郡の佐伯家や円珍を輩出した因支首(いなぎ)氏が和気氏と改名申請を行うのも同じような背景があったからでしょう。
 こうした変動に対し、国家は氏姓を正そうと『新撰姓氏録』の編纂をおこない、各氏族らは自らの出自について新たな先祖の系譜を作成します。
讃岐から都に出て行った豪族たちは、自らが拠って立つ位置を、国家が作り出す系譜に継ぎ足すだけでなく、地域がもつ伝統的な名族の名称継承や、新しく入った地域の地名を負うことで明確にしたのです。それは、自分が地域代表であるという自己主張であったのかもしれません。
 円珍の一族の「因岐から和気」の改姓も、
「因支の両字を以てするは、義理憑ること無し」と
「因支首という姓は、筋として意味がない」
と云っています。大化前後には地方豪族としての権威をあらわしていた因支首という姓が、平安初期のころには、たよりにならないばかりか、かえってじゃまになってきたという政治的、社会的事情があったようです。
 どちらにしろ彼らの軸足は出身の本貫地よりも、京へと移り中央貴族として生きていく道を選択した分岐点であったことを後の歴史は教えてくれます。

一方で、地域に根差していく豪族もいました。

先日紹介した三野郡の豪族・丸部氏です。
『続日本後紀』嘉祥元年(八四八)十月一日条には、従四位上の位階をもっだ丸部臣明麻呂が都での勤めを終えて帰国し三野郡司に任命され、その職を父親に譲ったとの記事があります。都へ向かい、都に定着するのではなく、自らの出身地に根を張っていく豪族たちもいたのです。
 ちなみに、丸部氏は以前に紹介したように、讃岐で最初に氏寺妙音寺を建立し、国家プロジェクトとしての藤原京造営の宮瓦の製造工場を三野町に誘致した氏族です。
 讃岐の豪族たちは、様々な方法をとって時代を生き抜いていったようです。

「ごうつくで がいな女?」三木郡の古代豪族の妻 広虫女 

空海がまだ讃岐善通寺の地で幼名の真魚と呼ばれていた頃、薬師寺の僧・景戒が仏教説話集『日本霊異記』を編集しています。
1日本霊異記

これは、仏教の説法や布教活動に使う「あんちょこ集」みたいなものですが、
この中には讃岐国を舞台とする「ごうつくで、がいな女」の話が載せられています。話は、ごうつくな女が一度死んだ後に、上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという因果応報の話です。

田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)がヒロイン(?) のストーリーを見てみましょう。

三木郡の大領小屋県主宮手の妻である広虫女は、多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。また取り立ても厳しく、人々は困り果て、中には国外に逃亡する人もいた。
 広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日に病に倒れ、翌月に夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たちに語ったのち亡くなった。死後すぐには火葬をせず儀式を執り行っていたところ、広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。そのさまは大変醜く、多くの野次馬が集まるほどで、家族は恥じるとともに悲しんだ。
 家族は罪を許してもらうため、三木寺(現在の始覚寺と比定)や東大寺に対して寄進を行い、さらに、人々に貸し与えていたものを無効としたという。そのことを讃岐国司や郡司が報告しようとしていると息を引き取ったというストーリーです。
 以上のように、生前の「ごうつく」の罰として上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという『日本霊異記』では、お決まりの話です。
この時点で、仏教が地方の豪族層に浸透している様子もうかがえます。一方で、『日本霊異記』成立期と近い時代の讃岐国が舞台になっています。そこから当時の讃岐の社会環境が映し出されていると専門家は考えるようです。
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」を参考に、広虫女の周辺を見ていくことにしましょう

広虫女の実家の本拠地とされるのが三木郡田中郷です。

ここは公淵公園の東北部にあたり、阿讃山脈から北に流れる吉田川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためには吉田川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が必要になってきます。広虫女の父・田中「真人」氏は、こうした条件をクリアするための経営努力を求められたでしょう。

彼女は、吉田川の下流を拠点とする小屋県主宮手に嫁ぎます。

夫の小屋県の氏寺が「罪を許してもらうために田畑を寄進」した三木寺(現在の始覚寺)と考えられています。この廃寺からは、讃岐国分尼寺と同じ型で作られた瓦が出土し、郡名の「三木」を冠した寺に、ふさわしい寺とされています。
四国の塔跡
三木町始覚寺

 始覚寺は東西、南北ともに1町(約109m)の敷地をもつことが調査から分かってきました。回廊で囲まれた中心域での建物配置は不明ですが、五重塔の心礎はもとの場所から動かされて現在地にあるようです。今は、その上に石塔が載せられています。
始覚寺跡|三木町役場

             始覚寺五重塔の心礎
寺域の向きは、条里制地割とは異なる正方位(真北方向)に設計されていて、条里施工前に建設された可能性があり、白鳳期建立を裏付けます。
また、この寺から出ている八世紀の瓦は、東大寺封戸が置かれた山田郡宮処郷の宝寿寺(前田東・中村遺跡を含む)と同じものがあります。これを三木郡司・小屋県主の東大寺へ寄進の見返りとして、東大寺側が小屋県主の氏寺建立に技術援助・支援した「証拠」と見ることもできます。

夫の小屋県宮手は、始覚寺周辺の井上郷を本拠としていました。

その井上郷の周辺の三木郡の郷名には、井閑・池辺・氷上・田中など、水田と用水源にまつわるものが多いようです。
その地名の由来は井上・井閑は、『和名抄』ではともに「井乃倍」と読み「水路や水源を拓き管理する集団」
池辺は「伊介乃倍」であり、「池を管理する集団」
氷上は樋上すなわち[水路の上流、取水源]と考えられます。
 また、この地域を流れる新川や吉田川は、碁盤の目のような条里型地割に合わせて人工的に付け替えられています。[井]や「樋」で表される水路とは、付け替えられた川のことを示します。川の周辺の伏流水を利用する出水も「井」と呼ばれていました。つまり三木郡の中央部は、洪水を繰り返す川を濯漑用の水路に生まれ変わらせた指導者がいた地域のようです。ここからは、小屋県主氏がこの地区の郡司として、公共事業として「丼の戸」[池の戸]というかたちで労働力を組織化し、低地の開発を進めた姿が浮かび上がってきます。

古代讃岐三木郡

高利貸しは、貧農救済? 

『日本霊異記』の中で、作者は広虫女を次のように非難します
「 多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。」

 しかし、当時は「高利貸しとしての私出挙」は、毎年作付ける種籾を利子付きで貸す伝統的な農業経営方式でした。ある意味では、農業経営が十分に行えない貧農を助けるもので、地域支配者としての支援方法でもあり、非難されるものではなかったようです。
寄進のもうひとつのねらいは?
 広虫女の罪をあがなうために
「東大寺へ、牛七〇頭、馬三〇匹、治田二〇町、稲四千束を納めた」

と詳しい記述が出てきます。罰を受け虫女を救うために東大寺へ多くの財を寄進したのです。これが僧侶が説くように「救済」のためだけだったのでしょうか?別の視点で見ると「寄進の目的は、中央とのつながり」作りでもあったのではないでしょうか?

有力寺院への寄進により、自らのステイタスを挙げる地方豪族

 東大寺の造立は、国家の威信をかけた一大プロジェクトで国策です。そのため東大寺に対する地方豪族の寄進も盛んで、広虫女が亡くなった七七六年(宝亀七)頃は、大仏は完成したものの周辺建築物の造営期でした。寄進には、開墾制限に対する対応策の一面もあり、自ら開発した土地の管理権を守るという目的もあったはずです。
 『続日本紀』七七一年(宝亀二)には、同じ讃岐の三野郡の郡司・丸部臣豊球が、私財を貧民のために投じたことで官位を授けられたことが記されています。寄進によって、地方豪族としての自らの地位を高めるという動きが当時はあったのです。その時流に宮手も乗ったとも考えられるのです。これが郡司としての生き残りにつながります。

以上のように、仏教説話の中に「がいな女」の因果応報の話として取り上げられている広虫女は、当時の地方豪族の妻としては相当なやり手であったということは言えるようです。

参考文献
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」

         讃岐で最初の古代寺院妙音寺を作ったのは?  

 三豊人と話していると「鳥坂峠の向こうとこちらでは、文化圏がちがう」
「三豊は独自の文化を持つ」という話題が出てくることがあります。
確かに、三豊には独自の文化があった気配がします。例えば、財田川河口に稲作を持ち込んだ弥生人とその子孫は、わざわざ九州から阿蘇山の石棺を運んできて、自らの前方後円墳に設置し、その中に眠る首長もいます。古墳時代には、三豊は九州とのつながりを感じさせるものが多いようです。
そんななかで、三豊の古代史の謎がいくつかあります。
その1 高瀬川流域の旧三野郡に前方後円墳がないこと
その2 讃岐最初の古代寺院妙音寺がなぜ三豊に建てられたのか、その背景は?
その3 藤原京の宮殿用の宮瓦を焼いた「古代の大工場」が、なぜ三野に作られたのか?
この疑問に答えてくれる文章に出会いました。
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」という冊子です。

       讃岐最初の古代寺院妙音寺を建立したのは誰か?

 この冊子は、白村江の敗北から藤原京の造営にいたる変動の時代を、果敢に乗り切った地域として三野評(郡)(現三豊市)に光を当てます。現在の三豊市の高瀬川流域では、前方後円墳の姿を見ることができません。古代における首長の存在が見当たらないのです。大野原に見られるような六~七世紀の大型横穴式石室墳もありません。延命院古墳などの中規模の石室墳がありますが、それもわずかです。

 ところが白村江の敗北後の七世紀中ごろ、ここに讃岐最古の古代寺院・妙音寺が突然のように姿を現します。 隣の多度郡の善通寺地区と比較するとその突然さが分かります。善通寺地区では大麻山と五岳に挟まれた有岡の盆地では、首長墓である前方後円墳が東から磨臼山古墳 → 丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳 と順番に造られ「王家の谷」を形作っていきます。7世紀後半になると古墳の造営をやめて、古代寺院の建立に変わっていきます。それを担った古代豪族が佐伯氏を名乗り、後の空海を産みだした氏族です。

 つまり、古代寺院の出現地には、周辺に古墳後期の巨大な横穴式石室を持つ古墳を伴うことが多いのです。そして、古墳時代の首長が律令国家の国造や地方政府の役人に「変質・成長」するというパターンが見られます。ところが、繰り返しますが三野平野はその痕跡が見えません。それをどう考えたらよいのでしょうか?

一方、西となりの財田川とその支流二宮川一帯の旧刈田郡(観音寺と旧本山町)は早くから開けたところで、財田川とその支流沿いに稲作が広がり、周辺の微髙地からは古代の村々が発掘されています。その村々を見下ろす台地の上に、讃岐最初の古代寺院妙音寺は建立されます。
妙音寺は、三豊市豊中町上高野の小高い上にある寺院です。
 周辺の古墳を探すと、妙音寺の北300mに大塚古墳があります。中期の古墳で墳頂に祠が立ち、かつては“王塚”と呼ばれていたようです。2014(平成26)年度に確認調査が行われ、径17.75m、埴輪列まで含めると径22.0m、周濠まで含めると径37.5mの円墳です。川原石の葺石および円筒・朝顔形埴輪がでてきていますが、形象埴輪はありません。埋葬部は未調査です。 

台地の下には、財田川の支流二宮川が蛇行しながら流れます。

その河岸の岡に延命院があります。その境内に開口部を南に向けているのが延命古墳です。地元に人は「延命の塚穴」と呼んでいます。先ほどの紹介した古墳時代中期の「大塚古墳」に続く後期古墳です。墳墓の上には立派な宝篋印塔が立っていて、径約16m以上とされる楕円形に近い円墳にアクセントを付けて簪のように似合っています。
 花崗岩の天井石の一部が露出し、片袖型横穴式石室が南東に開口し、サイズは羨道[長さ1.8m×幅1.4m]、玄室[長さ4.48m×幅2.4m×高さ2.8m]です。採集された須恵器から、6世紀後半から末の築造とされています。巨石の配置の見事さ、さらに整備された構造、境内の中にあって長年にわたって保護されきた環境などから、見ていて楽しい古墳です。
 妙音寺は、この古墳と大塚古墳の間にあり、どちらからも直線では数百mの距離です。善通寺地区の大墓山古墳と善通寺、坂出の府中地区の醍醐古墳群と醍醐寺のように終末古墳から古代寺院への建立へと進む地方豪族の動きが窺えます。この周辺に妙音寺の建立に係わった一族の拠点があったと推測されます。

 この丘の上に寺院が建立され始めたのは7世紀後半のことのようです。

昭和のはじめから周辺で工事や小規模な発掘調査が行わ多くの古代瓦が見つかっています。瓦からはいろいろな情報を読み取ることができます。この寺の完成までには20年ほどの歳月がかかったようです。そのために何種類かの瓦が使われています。
 最初の建物に使われた瓦は大和・豊浦寺にモデルがある独特の文様が採用されています。そして、竣工間際の七世紀も終わりごろには、天皇家の菩提寺である百済大寺式の瓦で軒が飾られるようになります。
どちらにしろ寺院の建設は地域の豪族にとって初めての経験であり、その高度な建築技術持つ大工や工人を都周辺から招いたと考えられます。一枚が10㎏もある重い古代瓦は、輸送コストのことを考えると、なるべく寺院の近くに瓦窯を作って生産するのが基本です。妙音寺の場合は、ここから約五㎞北の宗吉瓦窯跡(三豊市三野町)で生産されたことが発掘から分かってきました。 さらに驚くべき事が分かってきます。
ここで焼かれた瓦が持統天皇が造営した藤原京の宮殿に使われているのです。
瀬戸内海を越えて船で運ばれたのでしょうが、なぜこんなに遠いところから運ぶ必要があったのでしょうか? また、なぜ古代豪族の影が見えなかった高瀬川流域に忽然と大工場が現れたのでしょうか?

それには、もうすこしこの最新鋭の工場を見ていくことにしましょう。

 最盛期には、宗吉瓦窯跡では最新鋭構造の窯五基前後をセットにして、それを四グループ並べるかたちで、全部で20あまりの窯跡が稼働していました。窯詰め・窯焚き・冷まし・窯出し、といった工程をグループ毎にローテーションするような効率的な生産が行われたようです。
 これだけ集中的で組織化された生産方法や・監視システム・さらにはそれを担う技術者を集めることなど、地方豪族の力を越えています。この工場は、国家プロジェクトとしての形が見えると専門家は言います。
この地に、最新鋭の大規模工場が「誘致」されてきたのは、どんな背景があるのでしょう?
 誘致以前に、すでに三野地区には須恵器生産地(三野・高瀬窯跡群)があり、瓦作りの基礎技術や工人はすで存在していたようです。その経験を生かしながら国家からの財政的・技術的な支援を受けながらこの地に先端の瓦製造工場を呼び入れた地方豪族がいたのです。その人物は、中央政府との深いつながりを持っていた人物だったのでしょう。さて、その人物とは?

七~八世紀に都との際立った深いつながりをもつ人物として、讃岐国三野郡(評)の「丸部臣」(わにべのおみ)を専門家は挙げます。

この人物を、天武天皇の側近として『日本書紀』に名前が見える和現部臣君手とするのです。君手は、壬申の乱(六七二年)に際して美濃国に先遣され、近江大津宮を攻略する軍の主要メンバーとなる人物です。その後は「壬申の功臣」とされます(『続日本紀』)。そして息子の大石には、772年(霊亀二)に政府から田が与えられています。
 このように和現部臣君手を、三野郡の丸部臣出身と考えるなら、妙音寺や宗吉瓦窯跡も君手とその一族の活動と推察することが出来ます。妙音寺周辺の本山地区に拠点を置く丸部臣氏が、「権力空白地帯」の高瀬・三野地区に進出し、国家の支援を受けながら宗吉瓦窯跡を造り、船で藤原京に向けて送りだしたというストーリーが描けます。
 また、隣の多度郡の善通寺や那珂郡の宝憧寺造営に際しても、瓦を提供していることが出土した同版瓦から分かっています。讃岐における古代寺院建設ムーヴメントのトッレガーが丸部臣氏だったといえるのかもしれません。
 もし君手が三野評出身でなくとも、彼が同族関係にある三野郡の丸部臣と連携して藤原宮への瓦貢進を実現させたと推測できます。いずれにしても、政権の意図を理解し、讃岐最初の寺院を建立し、瓦を都に貢納するという活動を通じて、三野の「文明化」をなしとげ、それを足がかりに地域支配を進める丸部臣(わにべのおみ)氏の姿が見えてきます。  

妙音寺の建立から百年後、宗吉瓦窯跡が操業を終えた八世紀初めごろ、

三野津湾の東側にそびえる火上山の南のふもとに火葬墓が造られます。猫坂古墓と呼ばれるその墓では、銅製骨蔵器(骨壷)と銅板が須恵器外容器に収められていました。讃岐国の中では最も早い時期に火葬を受け入れた例とされます。専門家は、骨蔵器の優れた造りからみて郡司大領クラスの被葬者と考え、「立地場所からからみて三野郡司・丸部臣氏との関係が濃厚」としています。
 丸部臣氏は、7世紀後半から8世紀にかけて中央とのパイプを持つことに成功し、当時の政権の意図である「造宮と造寺」を巧みに利用し、三野郡における「古代の文明化」を達成していったのす。

それに対して隣の刈田郡(旧大野原町)は、どうだったのでしょうか?

 観音寺市大野原町には、六世紀後半から七世紀初めにかけて、傑出した大型横穴式石室墳である椀貸塚古墳、平塚古墳、角塚古墳(いずれも国史跡)が世代毎に築かれます。同時期の讃岐では、突出した巨大な石室をもつ大野原古墳群は、三豊平野南部に君臨した豪族の墳墓です。また県境を越えた四国中央市には、角塚古墳と石室の構造は近似しているものの使用している石材が異なる宇摩向山古墳があり、大野原古墳群の勢力と連合した豪族がいたことがうかがえます。この勢力が最後の平塚を完成させたのが7世紀半ば、それに前後して三野地区の丸部臣氏は寺院建立に着手していたことになります。この時流への対応が、後の両勢力の歩む道の分岐点になったと研究者は考えているようです。
 この大野原・川之江の燧灘東方の連合勢力(紀伊氏?)に、国家はくさびを打ち込むかのように国境を入れるのです。彼らこの地域の豪族たちにとって、これは「打撃」でした。この打撃から立ち直り、その衝撃を乗り越えて行くには、相当の時開かかかったようです。大野原地域に中心的な古代寺院、紀伊廃寺が建てられるのは、出土瓦からみると「丸部臣」が建立した妙音寺に遅れることと約百年。この間、三豊平野の主導権は、「丸部臣」ら三野郡の勢力に握られていたと考えられます。
 
 刈田郡の豪族も、遅れながらもやがては他の地域と同様に開発を進めていったのでしょう。平安時代になると、郡の名を負った苅田首氏が中央官界に進出します。打撃を被りながらも地域の経営を進め、九世紀には、他地域と同様に地域経営を進めた痕跡を見ることが出来ます。

参考文献 
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界


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