弘前藩では西回り航路が開けるまでは、輸送方法がなく「商品価値」なく山林資源は温存されてきました。
それに目を付けたのが塩飽の丸尾氏です。丸尾氏は弘前藩と木材の独占契約を結び、船で大坂や江戸に運ぶという新事業を興します。今回は、その過程を追ってみたいと思います。テキストは「丸亀市史896P 近世前期に見る塩飽廻船の動き」です。
まず近世初頭の塩飽衆の置かれた状況を振り返っておきましょう。
16世紀後半に信長が航行特権を与えたのを契機に塩飽は特別な存在になっていきます。秀吉は650人の水夫達の動員の代償として1250石を与え、その租税免除や、自治を許す破格の待遇を与えます。
16世紀後半に信長が航行特権を与えたのを契機に塩飽は特別な存在になっていきます。秀吉は650人の水夫達の動員の代償として1250石を与え、その租税免除や、自治を許す破格の待遇を与えます。
これは徳川幕府にも引き継がれ、塩飽は御用船方として城米の輸送や城普請の資材運搬、役人の送迎を一手に引き受けることになります。河村瑞賢が西回り航路開設を行った際には、その手足と成って活動しました。新井白石は「塩飽の船は完堅精好。郷民は淳朴」と高く評価しています。巧みな操船術に加え、船造りの技術や温和な気風も塩飽の声価を高めたのでしょう。
戦国時代に各地で活躍した海賊衆(海の武士)たちの中で、塩飽衆が得た条件は破格のものであったことは以前にお話ししました。それは、芸予諸島の村上水軍の末裔達が辿った道と比べるとよく分かります。

川村瑞賢は、城米船の運行について、次のように幕府に提言しています
①城米船は幕府が直接雇って運賃を支払う官船とすること②その船は北国・山陰方面の航行に慣れた讃岐の塩飽、備前の日比浦、摂津の伝法・河辺などの船を雇う
この提案は採用され、塩飽廻船の多くが城米御用船として幕府に直接雇われ西廻り航路に従事することになりました。これは塩飽衆が、幕府お抱えの廻船集団になったことを意味します。全国に散らばる天領の年貢米(城米)の大坂・江戸への輸送権を得たのです。そして、諸藩もこれに「右へなれい」と従います。年貢米輸送のために塩飽の船は、全国の各地に姿を見せるようになります。
こうして塩飽は採石には船472隻、船乗り3460人で、日本列島を縦横無尽に駆け巡り、塩飽は一大海運王国を築くことになります。このような活躍が塩飽の島々に大きな富をもたらし、大舟持ちを何軒も登場させることになります。塩飽廻船の中には、城米だけでなくその他の商品の独占権を得て、商圏を拡大しようとする者も現れます。
それが丸尾氏です。丸尾氏の弘前藩での木材産業への参入を見ていきます。
寛文十二(1671)年以後、塩飽廻船は城米輸送を任務として運送業に従事し、成長していました。そのことが「江戸登御用材廻船日記」の記事からも裏付けられます。
元禄四年(1691)6月「大坂御雇い船の船頭塩飽作右衛門と中す者の船五月二十八日の大風にて渡鹿領塩戸村二て破損」といういった塩飽の船頭が米の輸送に従事していて大風で難破したこと元禄五年4月25日に塩飽某という船頭の船が八艘難船したことを記したこと、元禄14年5月5日には、「一同八百石積敦賀着 塩飽立石徳兵衛」と塩飽船が敦賀に着いたこと。
このように塩飽船の米輸送の記事がみられます。
ここからは塩飽廻船が敦賀や日本海側でも活躍していたことが分かります。弘前藩も塩飽廻船が城米を扱うお得意さんでした。そのために塩飽船は弘前藩の深浦にもやってきました。そこで見たのが周辺に残された豊かな森林資源です。ここには良質なツキ(ケヤキ)やカツラなどの樹種に恵まれた木々が豊富にありました。
元禄二(1689)年に塩飽の船頭八左衛間が、翌年から材木を運送したい旨を前金を添えて、津軽藩材木役人に願い出ます。こうして、塩飽船による木材の積出し・輸送が始まります。元禄九(1686)年になると塩飽牛島の丸尾与四兵衛が登場してきます。彼は弘前の商人藪屋儀右衛門と連名で次のような願書を蟹田町奉行へ提出ます。
「私ども当地蟹田え十二ケ年以来御払い材木下され買い請け売り買い仕り候、 (中略) 蟹田御材木御入付銀壱ケ年二五拾貫目宛、当子ノ年より酉ノ年迄拾ケ年の間、年々山仕中え仰せ付けられ(中略) 御定め直段残らず拙者買い請け候様に成し下され度存じ奉り候」
意訳変換しておくと
「私どもは当地蟹田へ参りまして十二年に渡って、御払材木を買請けて参りました(中略)蟹田御材木について銀壱ケ年25貫目を毎年お納めしますので、今年から10年間、材木の買付を独占的に行う事を仰せ付けいただけないでしょうか(中略) そうすれば材木はすべて拙者の方で買い請けいたします。
内容を確認しておくと
これまでの実績を踏まえて、入付銀を出すので材木の買請けを独占させてくれという内容です。そのために、材木の山出し費用はすべて負担し、50貫目を奉行に差し出すといった条件を提示しています。さらに、江戸の商人よりの御用金上納のこと、去年の不作時に3000俵の米を藩のために調達したことなどこれまでの業績を挙げ、材木の切り出し候補の山として四か所の留山とすることを求めています。
この願書は受理されます。翌年の元禄十(1697)年4月には、塩飽の船頭丸尾善四郎が今別湊にやって来て材木を積み込んでいます。元禄十一(1698)年6月には
この願書は受理されます。翌年の元禄十(1697)年4月には、塩飽の船頭丸尾善四郎が今別湊にやって来て材木を積み込んでいます。元禄十一(1698)年6月には
「江戸廻舟米材木積み登し候、舟頭筑前久左衛間、塩飽古兵衛二廻状二通相調え、勘定奉行笹森治左衛門方えこれを遣わす」
とありますので、その後も、丸尾家による木材積み出しが行われていたことが分かります。
元禄十(1697)年6月13日には、
一六百五拾石積 船頭 塩飽伊左衛門一六百五拾石積 同 同 嘉右衛門一八百弐拾石積 同 同 孫左衛門一五百八拾石積 同 筑前弥六右四艘江戸御雇い今別江着き何も御材木積船二御座候旨中し立て候二付き、廻状例の通り相認めこれを遣わす
ここからは、江戸雇いの塩飽船が四艘やってきたことが分かります。
元禄十二(1699)年7月には、丸尾与四兵衛手船二艘・塩飽立石左兵衛手船一艘が、元禄十四年五月に、五日摂州二茶屋次兵衛船五艘の一つに塩飽立石徳兵衛の八〇〇石積船が、六日には塩飽市之丞の八〇〇石積船、塩飽立石松右衛門の七七〇石積、大坂備前屋甚兵衛の七八〇石積の三艘がそれぞれ鯵ケ沢湊へやって来ています。このように、塩飽廻船が江戸商人の雇い船として津軽の材木輸送に積極的にかかわっていることが分かります。
材木輸送が順調に進むようになると、津軽藩側でもその利益の大きさが分かるようになります。
元禄13年には丸尾弥左衛門に御用金1700両を申しつけています。これに対して弥左衛門は、御用金としてではなく材木の前金として差し出すと主張します。翌14年に藩側は、九尾与四兵衛と結んだ約束に違約があるとして取引の中止を申し出ます。藩の挙げる理由は次の通りです
「然れ共、当年より亥ノ年迄七ヶ年の間三拾貫目宛、自分柾取り御礼金は御免下され度」
と指摘し、さらに、船への積み込みに際しても二割引いて、また礼金も六〇両引いての額を支払うように運用してきた。藩側の損が非常に多い。その上、与四兵衛一人に任せていたのでは蟹田町の者共も難儀する、
という内容です。「与四兵衛一人に任せていたのでは蟹田町の者共も難儀する」というように、外部資本の塩飽丸尾氏が利益を吸い上げ、地元資本の利益になっていない木材政策のあり方への不満が高まってきたことがうかがえます。しかし、結果的には、約束の年数10年間は丸尾与四兵衛に材木輸送はやらせようということになったようです。
しかし、契約期限がおわると弘前藩は「地元産業の育成」をめざすようになります。そして、藩領内のさまざまな人々が関わる体制を作り出していきます。例えば、山林から木を伐り出し、木材へ加工していたのは麓村の杣(そま)や百姓たちです。そして、塩飽廻船に代わって木材輸送のためには、大坂や十三(現五所川原市)で雇われた船主たちが乗りこみます。彼らと福沢屋の間を仲介していたのは、三国屋・播磨屋といった深浦の船問屋たちです。ここからは、塩飽商人への独占付与という丸投げから、藩内の地元産業の雇用と育成をはかる方向に向きを修正した様子がうかがえます。
明治初期の松前藩 深浦港(蓑虫山人画)
塩飽廻船が松前の木材の独占的な取扱権を握っていた頃の江戸では、綱吉の宗教政策による寺院の建立ラッシュ、元禄八年、同十年、同十一年の連続大火が起こっています。このため木材の需要はうなぎ登りでした。商人が各地の材木確保に乗り出すのは当然のことです。その動きの中に塩飽廻船も参入していたようです。これは西廻航路が整備された際に幕府直雇いとして城米輸送で活躍することで、培った優秀な航海技術と経験があったからこそと云えます。

丸尾氏の牛島
元禄7年(1694)、二代目丸尾五左衛門の重次は69歳で亡くなりますが、その名は三代目重正、四代目正次へと引き継がれていきます。全盛期は最高は、元禄16年(1703)の11,200石で、320石から1,150石積みの廻船を13艘も持っていたといわれています。それはちょうど弘前藩の木材輸送と販売権を独占していた時期にあたります。城米以外にもあらたに木材も取り扱うようになって、船を増やしたのかも知れません。
讃岐には、「沖を走るは丸屋の船か まるにやの字の帆が見える」という古謡が残っていますが、これはこの頃のものだといわれます。
塩飽諸島 牛島は本島の南にある小さな島(上が南になっている) 享保元年(1716)、徳川吉宗が8代将軍に就任し、享保の改革を進めます。
その一環として享保5年(1720)城米を安く運ぶために、それまでの直雇方式から廻船問屋請負方式へ変更します。そして運用を江戸商人の筑前屋作右衛門に任せます。いわゆる「民営化」です。この結果、塩飽の船持衆は、今までのように直接幕府から荷受けすることができなくなります。そして、廻船問屋に従属する雇船として安く下請けされるようになります。荷受けに参入してきた業者は、それまでに技術力や経験をつんできた者達でした。きびしい競争に塩飽船は市場を奪われていき、塩飽の廻船数は減少していきます。ちなみに、牛島には、宝永(1704~11)から享保7年(1722)には45~49艘の廻船があったといわれていますが、享保13年(1728)には23艘とそれまでのほぼ半数に減っています。
特権を失い、競争力を弱めた塩飽廻船は、どのように生き残りを図ったのでしょうか
塩飽船籍の船は減ったが船員達は、困らなかったと考える説があります。なぜなら技術や経験を持った塩飽水夫達は、どこの船でも引っ張りだこだったからです。乗る船は、和泉や摂津の他国舟でも、それを動かしているのは塩飽水夫ということも数多く見られたようです。つまり、没落したのは丸尾家のような大船持ちで、船員達の仕事がなくなった訳ではないのです。そのために塩飽に帰って来ることは、少なくなったが塩飽への送金は続いたようです。塩飽が急激に衰退したとは云えない部分がここにはあるようです。
以上をまとめておきます
①塩飽廻船は、幕府直雇いの城米船として独占的な運行権を得て大きく発展した。
②元禄年間になると、丸尾家は米だけでなく津軽藩領の木材の江戸輸送をはじめさらに利益を上げた。
③享保の改革で、独占体制の上にあった城米輸送の特権を失い、丸尾家などの大船主は姿を消した。
④しかし、その後も瀬戸内海交易や他国の船の船員として、塩飽水夫の活躍は続いた。
④しかし、その後も瀬戸内海交易や他国の船の船員として、塩飽水夫の活躍は続いた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 テキストは「丸亀市史896P 近世前期に見る塩飽廻船の動き」
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