瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の熊野信仰

前回は、水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張について次のように整理しました。

水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

 髙松市松縄町の熊野神社が、髙松平野における水主神社の熊野行者たちの記念碑的なモニュメントになったことを前回は見ました。この神社の出現を契機に、熊野権現(神社)が周辺に姿を現すことになります。それを今回は追ってみたいと思います。テキストは「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻450Pです。まず、松縄神社の東にある元山の熊野神社を見ていくことにします。

髙松市元山の熊野神社
髙松市元山町の熊野神社
元山町の元山(熊野)神社について、香川県史14巻463Pには、次のように記します。 
ここは①熊野のお札を配っていたころの拠点だった伝えられる。この社の近くに②大熊氏の城があった。大熊氏も(熊野別当の)湛増の子孫であることはすでに述べたとおりである。
 この大熊備後守清助、どうしたことか男子に恵まれなかった。嗣子がないとは残念なりと、紀州熊野に祈願をこめた。「何卒、男子を授け給え」と祈念した。その霊験あらたかに男子を授かった③清助は、神恩報謝のためと熊野の分霊をお受けし、元山郷の氏神として奉祀した。境内には百間馬場があったと言う。また、近くには二王田というところがあるが、かっての仁王門の跡だと言い、熊野神社の西のあたりには社僧も住んでいた。
 備後守清助の一子が善兵衛。これが熊野権現の申し子で、体躯偉大にして武芸に秀でたと「木田郡誌」にある。とにかく、尋常な人ではなかったと伝えられている。大熊亀田池戸を領した大熊氏は、十河氏の麾下として鳴らした。琴電長尾線の元山駅あたりにかっての大熊はあったと言う。熊野のお札を配っていたとか、そのお陰をいただいたという小社は意外に多い。神仏分離のとき、名称は変更されながら「権現堂」などの地名は今に残されている。元山権現からさらに東植田よりに権現堂というバス停がある。新道がついてむかしの権現堂からは離れているものの、地名はそのままである。
ここに書いてあることを整理すると次のようになります。
①元山の熊野神社は、熊野札の配布所であった。
②湛増の子孫と称する大熊氏が勧進建立し、元山郷の郷社となった。
③大熊氏は、大熊・亀田・池戸を領地として、十河氏の配下にあった武将である。
ここでは元山の熊野神社が大熊氏の氏寺として建立されたこと、熊野札の配布所になっていたことを押さえておきます。
次に、十川西町佐古にある吉田神社と同居している熊野神社を見ていくことにします。

髙松市 吉田神社(合祀熊野神社)
髙松市十川西町佐古にある吉田神社(合祀:熊野神社)
 農作物の虫封じの神である吉田神社の社殿が大きく、熊野大権現のお堂は小さくなってしまった。地元の人たちは、「片間貸して本間とられた権現さん」と言っている。後からやってきた吉田さんに片間を貸したところ、だんだん大きくなり、今では吉田神社の方を信仰する人が多くなったのである。鳥居や玉などはかっての大庄屋が寄進している。
 旧街道沿いの権現堂は、道路拡張によりだんだん敷地が狭くなってしまった。なお、近くには東林山光清寺があり、四つ辻には疣(いぼ)を取ってくれるという薬師堂がある。薬師堂のわき水をくんで岩を洗い、疣を洗うと落ちると言い、むかしから多くの人が参詣した。これらは比較的人々の往来が盛んな街道に位置するが、香地池を越え東植田町に入りこむと人通りはまばらになる。わずかに阿波越えをした旅人たちが通ったであろう山道が細々と続いている。(香川県史14巻464P)
この南には十河氏が拠点とした十河城跡があり、そのテリトリー内になります。十河氏は阿波三好氏の一存が養子として入り、東讃へ支配浸透の拠点となった所です。戦国時代末期には、軍事的な緊張関係のまっただ中にありました。

熊野神社をつなぐ街道沿いには、修験者の痕跡が残っています。それを県史14巻465Pは次のように記します。

 その十字路のほとりにヒジリ(聖)ゴという塚があった。ヒジリの墓というだけで一人の墓なのか、幾人もの人を葬ったものかさだかではない。ここも道路改修のため塚は別の地点へ移転した。石を三つばかり重ねたと、手洗石めいたものが仙尾の墓場に移されている。ヒジリゴのそばには、妙見屋敷というたんぼが残されているが、この地へ妙見さんを祀るはずであったという。だから、この地を不浄にすると障りがあると、聖なる地として取り扱っている。

ここには聖(修験者・高野聖)たちの墓(塚)があったと伝えられています。また妙見屋敷と呼ばれる田んぼからは妙見信仰を持った修験者が住む坊やお堂があったことがうかがえます。さらに次のように記します。

髙松市公渕池 とんぼ坂
 この聖郷の前を行くととんぼ越えとなる。この坂道は多くの①験者(ゲンジャ)が通った道でもあった。②ゲンジャというのは少々風体の違った山伏も拝み屋も、山で修業する人たちも言い表わしたようである。カマド祓いや牛屋はらいなどの風体の異なる人も含まれていた。③石鎚参りの集団も多く通行した道で、④お山(修行)をして帰る行者があると、子供たちはその前へ横たわってまたいでもらった。夏痛みせず元気になるというので、子供たちはこぞって三尺道へ横になっていた。このように験者が越える道には、目のぎょろりとした恐ろしいトンボがいたとも言う。眼光光々とした験者を指したものか、恐ろしい山伏くずれの者が通行人を脅かしていたものか。里人たちにとっては恐怖の道であった。平家の残党が人々を襲っていたのを奥美濃の旧家の力持ちが退治したという話もある。とんぼ越えの恐ろしいものを退治した刀を蜻蛉切りの名刀とした。とんぼ越えは現在も町境となっている。
公渕池と三つ子池に挟まれたトンボ坂あたりには、いろいろな修験者が通っていたようです。④のお山で修行して験(げん=パワーポイント)を高めた修験者は、いろいろな効能をもっています。そのために、子ども達は、道に並んで寝て跨いで貰っていたようです。それが「夏痛み」への効能と信じられていました。
定住した修験者(里山伏)の活動は?

公渕池から双子山、出貝丘と山道をさらに進むとある城(じょう)池については、次のように記します。
植田氏の戸田城跡
         
植田氏の戸田城 守護神は熊野三所権現を勧進したもの

城池には、かって植田美濃守がよった戸田城があった。岡の城とも呼ばれている。城の内堀のような形で残されたのが①山伏池である。そのほとりに②山伏の塚がひっそりと祀られ、植田美濃守の子孫たち数名が現在もお祀りしている。③山伏の御神体を近くで拝んでみると、まるで生首のように目があり鼻がある。鼻が張ったふしぎな石の御神体である。(県史14巻466P)

 岡の城跡の後方には、④戸田城の守護神宝権現が祀られてある。戦勝を祈願した社で、祭神は伊弉諾命、速玉男命、事解男命、菅沢町の熊野三所権現の分霊を受けたものである。正式名称は宝神社であるが、地元では昔のままに権現さんと呼んでいる。祭りの日のも宝大権現と染めぬかれてある。秋の大祭は特別な行事はないが、毎年の大晦日にお火焚き祭りが行われている。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①植田氏の戸田城(岡の城)は、残った堀が山伏池と呼ばれていること。
②その池の畔に山伏の塚があり、植田氏の子孫がまつられていること。
③同時に山伏が御神体としてまつられていること。
ここからは植田氏の一族の中にも、入道と呼ばれ熊野信者や天狗信者として活躍していた人物がいたことがうかがえます。
④戸田城の宝権現(神社)は、菅沢町の熊野三所権現の分霊で、もともとは植田氏が勧進した熊野権現であったこと
この地域の中世武士団が熊野信者となって、居館や城の近くに熊野神社を勧進していたことが見えて来ます。同時に、熊野行者などの修験者の痕跡が濃厚にうかがえます。

村に現れた聖たち

④の菅沢の熊野神社について香川県史14巻470Pには次のように記します。

菅沢の熊野神社1
菅沢氏の勧進した熊野神社(髙松市菅沢町)
東植田と菅沢は、高松市に合併するまでは同じ町に属していた。菅沢町の産土神として宮谷に熊野神社が祀られてある。熊野神社は、菅沢甚兵衛という人が600年も昔に紀州熊野からお迎えして祀りはじめたものと言う。その時に一緒に持って帰った赤樫の木が境内で大木に育っている。
 この菅沢氏の先祖は、十河存久の次男存常が別家して、菅沢へ住むようになったのが初めと言う。 二六代目の菅沢官兵衛義長は、仙石秀久の配下に属し、生駒家に仕えて360石を賜わる。さらに、二七代の菅沢甚兵衛義は、生駒家の弓師範として家禄をつぐ。寛永十五年には高俊公より100石を加増されたとある。この甚兵衛が、紀州から熊野神社の分霊を受けてきたことになる。
熊野神社の境内には耳塚がある。
菅沢の熊野神社 耳塚
耳塚
これは菅沢内膳義景が秀吉の下知により十河存保、仙石権兵衛ともども九州へ出陣し、戸次川の戦いであえなく討死してしまう。義景の体の一部をその子義長が持ち帰って葬ったものと言う。こうして名門十河家も亡んでしまう。松平頼重公入封に伴い、菅沢を熊野姓に改めて松平公に仕える。寛文八年のことと(菅沢熊野家記録)記されてある。
熊野の分霊をお受けして帰ったという由緒により、現在も菅沢熊野氏をカンヌシと呼んで秋の祭礼を行う。ミタマウツシのとき、チョウノザに座るのはカンヌシと呼ばれる熊野氏、そして神職、宮代と並んで神事を行う。祭神は、伊弉諾尊、速玉男命、事解男命で熊野権現と呼ぶ。社宝には菅沢義が生駒高俊公から拝領したとという馬具があった。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①菅沢は、十河氏の分家であること
②後に生駒家の弓師範になり、紀州から熊野神社の分霊を勧進したこと
③境内の耳塚は、先祖が十河氏に従って秀吉の九州征伐に遠征時に討ち死にしたものを持ち帰ったもの
④菅沢氏は、髙松松平氏に仕えるときに熊野姓にあらためたこと。

菅沢の熊野神社から、さらに南に向かうと塩江の不動の滝の入口にも熊野神社が鎮座します。

塩江の熊野権現社
この神社の由緒について香川県史14巻471Pには、次のように記します。

むかし、松平の殿さんが馬に乗ったまま熊野神社の前を通ると、馬が暴れ困ったと言う。この熊野神社の由来は、源頼光の子孫が祀り始めたものとも言う。頼光の子孫は、松原氏とも赤松氏とも伝えられている。不動の滝にある蔵王権現を祀りはじめたのは平宗盛なのだ、とも伝わっている。平家の落人だった平宗盛自身が祀られたところだとも言い、蔵王権現が好んだという桜の古木も共に残されている。蔵王権現は熊野神社となり、現在も丁寧な祭礼が行なわれている。熊野のひじりたちが行き交ったであろう古道には、屋島おさめた源氏の話、敗北を喫した平家の伝説が草の実のようにこぼれ落ちている。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①塩江の熊野神社の建立者は源頼光の子孫である松原氏や赤松氏とされる。
②熊野神社はもともとは蔵王権現であり、蔵王権現信仰から熊野信仰に取り替えられた気配がある。
こうしてみると、髙松平野から塩江にかけては熊野行者たちの活発な動きが見えて来ます。
前回とまとめて整理し、推察しておきます
①髙松平野への熊野信仰の浸透は、東讃の水主神社や屋島寺の熊野行者たちによって進められた。
②熊野行者たちは髙松平野の武士団に熊野詣でを進め、彼らを熊野に誘引した。
③熊野参拝で熊野信仰を高めた武士たちは、熊野三社を氏神として勧進する者が現れた。
④植田町や塩江周辺部には、多くの熊野権現が武士・熊野行者たちによって勧進された。
⑤その周辺には、熊野行者や修験者・聖たちが住み着き、修行やお札配布・芸能活動も行った。
⑥修験者たちは武装化し、僧兵的な役割を担って居館や山城周辺に住み着いていたことも考えられる。
⑦このような修験者集団を配下に置いた水主神社や屋島寺は、宗教的にだけでなく、政治・軍事的にも大きな力を持つことになった。
以上です。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻450P
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前回は現存する讃岐の熊野系神社が、いつ頃に勧進されたかを追いかけました。確かな史料がないので社伝に頼らざるをえないのですが、社伝で創立年代が古いのは次の3社でした。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~1298年)ころ
②善通寺筆岡の本熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、12世紀末~13世紀に最初の熊野神社が讃岐に勧進されたとしておきました。こうして鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。
今回は各熊野系神社に残る遺品から、その社の勧進時期を見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

與田神社
東かがわ市の与田神社
①東かがわ市の与田神社に熊野本地を表した懸仏があります。
これが讃岐の熊野信仰遺物としてはもっとも古いとされます。与田神社は、明治の神仏分離以前には「若王子、若一王子大権現社、王子権現社」と呼ばれていました。その社名通り、熊野12社の若王子を祀った神社になります。ここに次のような面径15~25㎝の8面の懸仏が所蔵されています
①千手観音    平安時代末期
②阿弥陀如来 平安時代末期
③十一面観音 鎌倉時代
④四千手観音    鎌倉時代
⑤如意輪観音   室町時代
⑥薬師如来     室町時代
⑦薬師如来     室町時代
⑧阿弥陀如来    室町時代
これらの懸仏は神仏分離までは若王子(若一王子大権現社)に祀られていました、明治元年の御神体改めの時に社殿から取り除かれ、 一時期は隣接する別当寺の若王寺に保管されていたようです。その後、明治15年頃に権現社が建立され、そこに祀られるようになります。それからは忘れられた存在でしたが、1982年の夏に再確認され、世に知られるようになったという経緯があります。

熊野十二社権現御正体|奈良国立博物館
     重要文化財 熊野十二社権現御正体 奈良国立博物館

 ここで熊野十二所および鎮守・摂社などの本地仏を、復習しておきます。
A 本宮(証誠殿)    阿弥陀如来
B 新宮(早玉)      薬師如来
C 那智(結宮)      千手観音
D 若宮          十一面観音
E 禅師宮        地蔵菩薩
F 聖官          龍樹菩薩
G 児宮        如意輪観音
H 子守宮        聖観音
I 二万官        普賢菩薩
J 十万官        文殊菩薩
K 勧進十五所      釈迦如来
L 飛行夜叉        不動明王
M 米持金剛        毘沙門天
これを見ると与田神社の懸仏は、十二所の全てが揃っているわけではないようです。しかし、この神社がかつては若王子(若一王子大権現社)と呼ばれていたことや、千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音などは揃っているので、もともとは十二体が揃っていて熊野の本地仏を表したものと研究者は推測します。
次に、研究者はこれらの懸仏の制作年代を次のように3期に分類します。
A もっとも古いのは①千手観音と⑧阿弥陀如来
  この2つ縁のついた円形の鋼板に銅で作られた尊形を貼りつけたもの。その薄い尊像の造形や穏やかな表現などから、平安時代末期から鎌倉時代初期
B ⑤如意輪観音・③十一面観青は木製の円形に二重の圏線を付けた鋼板を張っている。そこに鋳造した尊像を取りつけたもので「技術的退化」が見られるので鎌倉時代後期ころ
C薬師如来・千手観音・阿弥陀如来も木製の円形に鋳造した尊像を取りつけたもの。先の懸仏に比べて、ややその制作技術に稚拙さが感じられ、制作年代は室町時代までくだる。残りの如来形も室町時代と考えて大過ない。
以上を受けて、次のように推察します。
①本宮(阿弥陀如来)・那智(千手観青)・新官(薬師如来)の三所権現がまず平安末期に制作された。
②その中の新宮の薬師如米は、いつの頃にか失われた。
③その後に残りの九所が追造された。
懸仏の場合は多くの例からみて、他所に移動することは少ないと考えられるので、与田神社の懸仏も当初からここに祀られていたと研究者は推測します。
水主神社
与田神社

 この神社の由緒が記された『若王子大権現縁起』のなかに、観応二年(1251)の「寄進与田郷若王子祝師免田等事」などの記事があるので、南北朝時代にはこの神社は存在していたことが裏付けられます。そして、これらの懸仏の製作年代から若王子(若一王子大権現社)の創建は、平安時代末期から鎌倉時代初期のことで、南北朝時代から室町時代には、この地で繁栄期を迎えていたことがうかがえます。
 ちなみに、この地は近世には「弘法大師の再来」と言われた増吽の生誕地のすぐそばです。増吽は、この熊野神社を見ながら育ったことになります。
熊野曼荼羅図
重文 熊野曼荼羅図 根津美術館

つぎに多度津・道隆寺の熊野本地仏曼荼羅図(絹本著色 縦122㎝×横53㎝)が古いようです。
図中央の壇上に十二所の本地仏と神蔵の愛染明王、阿須賀の大威徳、満山護法の弥勒仏を描かれます。本宮・新宮・那智・若宮の四体を最前列とするのは珍しいようです。上下には大峰の諸神と熊野の王子が描かれ、最上部には北十七星が輝いています。制作年代は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての14世紀前半期とされ、香川県下最占の熊野曼茶羅になります。
なお道隆寺の摂社の本地仏は、次の通りです、
礼殿執金剛神    文殊普薩
満山護法神    弥勒普薩
神蔵権現      愛染明王
阿須賀権現    大威徳明王
滝宮飛滝権現    千手観音
道隆寺 中世地形復元図
中世の多度津海岸線復元図 道隆寺の目の前には潟湖が拡がっていた
この寺は、中世の多度津の港町である堀江の内海に位置していた寺で、堀江の港湾センターとしての役割を果たしていたことは以前にお話ししました。さらに教線ラインを瀬戸内海に向けて伸ばし、西は庄内半島の先まで、北は塩飽本島の寺や神社を門末に置いていた寺院です。早くから堺・紀伊などとの交流がありました。それを可能にしたのが備讃瀬戸の北側にある倉敷児島の「」新熊野」と称した五流修験です。五流修験は熊野修験者の瀬戸内海におけるサテライトとしての役割を果たし、熊野水軍のお先棒・情報箱として機能します。そして、その情報をもとに熊野水軍は利益を求めて、瀬戸内海を頻繁に航海したのです。当時の道隆寺 ー 児島五流 ー 熊野は、熊野水軍によって結ばれていたのです。そのため瀬戸内海沿いの諸国からの熊野詣では船便を利用したという報告もでています。

次は高松市六万寺の熊野本地仏曼茶羅です。
この曼荼羅も痛みがひどくて、全体像を窺うのは難しい所もあるようです。画風からみて南北朝時代から室町時代前期と研究者は考えています。その図様があまり例のないもので、図中央に薬師・阿弥陀・千手観音の熊野三所が描かれています。その下に地蔵菩薩・龍樹菩薩・釈迦如来・不動明王・毘沙門天など、十一尊が描かれていて、全部で一四尊になりますです。現存する作例の中には、三所権現(三尊)・五所王子(五尊)・四所明神(五尊)の合計十三尊が普通です。この図は一尊多いことになります。
図の上半分に、山岳中に新宮摂社神蔵の本地愛染明王、阿須賀権現本地の大威徳明王・役の行者・那智の滝が描かれます。下半分には熊野の諸王子が描かれたものです。研究者が注目するのは、図の下部右端に弘法大師が描かれていることです。熊野受茶羅のなかに弘法大師が描き込まれるのは、室町時代制作の愛媛・明石寺本、滋賀・西明寺本などだけです。これは「熊野信仰 + 弘法大師信仰」が次第に生まれつつあったことを示すものです。これが更に展開していったのが四国霊場の姿とも云えます。四国霊場形成史という視点からも注目すべきものと研究者は評します。
水戸の鰐口(2) - ぶらっと 水戸
鰐口

次は熊野系神社に奉納されていた鰐口です。    
A 林庄若一王子の鰐口には、次のような銘文があります。
「讃州山田郡林庄若一王子鰐口  右施上紀重長 応永元甲戊十一月 敬白」

ここからは次のようなことが分かります。
①山田郡林荘(高松市林町)の若一王子(拝師神社)に奉納された鰐口であること
②時期は応永元年(1394)で、紀重長の制作であること。
また、「讃岐国名勝図会」には拝師神社が「皇子権現」と記され、その創建を永享2(1430)年、造営者を岡因幡守重とします。14世紀末から15世紀初頭の時期に武士層によって建立された熊野系神社のようです。

次に古見野権現の鰐口には、次のように記されています。
「奉施人讃州氷上郷古見野権現御宝前鰐口也 応永二十七庚子十一月吉日 大工友守願主道法敬白」

これは現在の三木町小蓑の熊野神社で、応永27年(1420)の制作です。『香川県神社誌』には、文治年間に阿波国大瀧寺より奉迎されたと記されています。願主の道法とは、世俗武士の入道名のような響きがします。

松縄権現若一王子の鰐口には、次のように記されています。

「讃州香東郡大田郷松直権現若一王子鰐口也 敬白 永享九年十一月十八日大願主宗蓮女」

現在の高松市松縄町の熊野神社で永享九年(1427)に制作されたものです。なお、この鰐口は今は岡山県備前市の妙圏寺の所蔵となっているようです。
以上、讃岐の熊野信仰に関係する遺品を見てきました。そのまとめを記しておきます
①もっとも古い与田神社の懸仏により、讃岐の熊野信仰を平安時代末期から鎌倉時代初期にまで遡らせることができること。
②道隆寺本や六万寺の熊野曼荼羅図がもともとから讃岐にあったとすれば、鎌倉時代末期から室町時代にかけても熊野信仰はますます盛んであったこと
③各地の熊野神社に残る鰐口は、中世の熊野信仰の繁栄ぶりを示す。
の一端を窺うことができるのです。
これは先日見た讃岐関係の檀那売券が盛んに売り買いされていた時期と重なります。以上から、増吽が登場する以前から讃岐には熊野信仰が、いろ濃く浸透していたと研究者は判断します。特に最も古い尉懸仏を所有する与田神社(若一王子権現社)は、与田山にあります。ここは増咋が生まれ育った地域に近い所です。「幼いときから増咋の宗教的原体験のなかに熊野権現の存在があった」と研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版
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中世讃岐でどんな人達が熊野詣でを行っていたのか、また、彼らを先達として熊野に誘引していた熊野行者とはどんなひとたちであったのかに興味があります。いままでにも熊野行者については何回かとりあげてきましたが、今回は讃岐の熊野信仰について、檀那売買券から見ていくことにします。テキストは、「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

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 熊野参拝のシステムは次の三者から成り立っていました。

熊野参拝システム
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(熊野行者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
①の先達については、熊野で修行した修験者が四国に渡り行場を開きます。それが阿波の四国88ヶ所霊場には色濃く残っているところがあります。四国各地の霊山を行場化していったのも熊野行者でないかとも云われています。彼らは修行を行うだけでなく、村に下りて熊野詣でを進める勧誘も行うようになります。その際の最初のターゲットは、武士団の棟梁など武士層であったようです。地方にいる先達を末端として、全国的なネットワークが作られます。その頂点に立つのが御師になります。祈祷師でもある御師は先達を傘下に収め、先達から引継いだ信者を宿泊させるだけでなく、三山の社殿を案内します。
 ③の熊野参詣を行う信者を旦那とよびます。旦那は代々同じ御師に世話になるきまりがあったので、熊野の御師には宿代や寄進料などの多くの収入が安定的に入るようになり、莫大な富と権力を得るようになります。その結果、御師の権利が売買や質入れの対象として盛んに取引されるようになります。そのため熊野の御師の家には、檀那売券がたくさん残っているようです。

熊野信仰の全国展開と檀那権の売買
熊野信仰の全国展開と檀那売券

那智大社文書の中にある檀那売券の讃岐関係のものを見ておきましょう。
永代売渡申旦那之事
合人貫文  地下一族共一円ニて候へく候、
右件之旦那者、勝達坊雖為重代相伝、依有要用、永代売渡申所実上也、但 旦那之所在者 讃岐国中郡加賀井坊門弟引旦那、一円二実報院へ永代売渡申所明鏡也、若、於彼旦那、自何方違乱煩出来候者、本主道遺可申候、乃永代売券之状如件
うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
  意訳変換しておくと
檀那売券の永代売渡について
合計八貫文で、地下一族一円の権利を譲る
ニて候へく候、
この件について旦那とは、勝達坊の雖為が相伝してきたものであるが、費用入り用ために、(檀那権を)売渡すことになった。その檀那所在地は 讃岐国中(那珂)郡の加賀井坊門弟が持っていた旦那たちで、これを那智本山の実報院へ永代売渡すものとする、もし、これらの旦那について、なんらかの違乱が出てきた時には、この永代売券の通りであることを保証する。如件
         うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
これは讃岐国中(那珂)郡加賀井坊門弟檀那を勝達坊道秀が、実報院へ8貫文で永代売り渡すというものです。先達権を買い取った実報院は、配下の熊野行者を指名して自らの所に誘引させます。これは一番手っ取り早い「業績アップ」法です。そのため同様の文書が熊野の御師の手元には残ることになります。
讃岐の熊野信者を受けいれた那智の実方院について、見ておきましょう。
 室町時代初期には、数十人の御師がいたとされ、本宮では来光坊、新官では鳥居在庁、那智では尊勝院や実報院が有力でした。御師は地方の一国、または一族を単位として持ち分としていました。そのなかで、讃岐は那智の実報院の持ち分だったとされます。大社から階段を10分ほど下ったところに実方院跡があります。その説明版には、次のように記されています。

実方院跡 和歌山県指定史跡 讃岐担当
実方院跡 和歌山県指定史跡 讃岐の熊野詣での宿泊先
2018春、熊野の世界遺産(3/5):実方院跡、木斛の大樹、赤鳥居、那智山熊野権現扁額、狛犬』那智勝浦・太地(和歌山県)の旅行記・ブログ by  旅人のくまさんさん【フォートラベル】
実方院跡
実報院跡 和歌山県指定史跡 中世行幸啓(ぎょうこうけい)御泊所跡
熊野御幸は百十余度も行われ、ここはその参拝された上皇や法皇の御宿所となった。実方院の跡で熊野信仰を知る上での貴重な史跡であります。 熊野那智大社
実方院は熊野別当湛増の子孫と称する米良氏が代々世襲し、高坊法眼(ほうげん)とよばれました。熊野では熊野別当がリーダーですが、別当と上皇の橋渡し役を務めたのが熊野三山検校でした。その家柄になります。それまでの那智山の経営維持は、皇族・貴族の寄進に頼っていました。皇室が最大のパトロンだったのです。ところが承久の乱後、鎌倉幕府の意向を忖度してか、上皇・公卿の参詣はほとんど行われなくなります。また幕府は上皇側についたとして熊野への補助を打ち切ります。こうして財源を失った熊野三山は、壊滅的な打撃を受けます。皇室や貴族に頼れなくなった熊野では、生き残る道を探さなくてはならなくなります。そのために活発化したのが、熊野行者による全国への勧誘・誘引で、そのターゲットは地方の武士集団や有力者たちでした。こうして、四国の行場に修行と勧誘を目的に、熊野行者達が頻繁に遣ってくるようになります。中には、地域の信者の信頼を得てお堂を建て定住するものも現れます。

熊野那智大社文書 1~5 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

那智大社文書のなかには讃岐関係のものが数多くあります。それを年代順に並べたものを見ていくことにします。

②発行時期の多くは15・16世紀で、室町時代に集中している。讃岐で武士団に熊野詣でが流行するようになるのは、この時期のようです。
③15世紀になると継続して発行が行われるようになります。応仁の乱などの戦乱で衰退化したという説もありますが、この表を見る限りは、戦乱の影響は見えません。
④地域的には高松以東の東讃地域が多く、西讃には少ない。三豊エリアのものはひとつもありません。ここからは熊野行者の活動が東に濃く、西に進むにつれて薄くなっていく傾向が見えます。東讃には、水主神社や若皇子(若一王子大権現社)などがあり、これらを拠点にして東から西へ信仰圏が拡がったことが推測できます。
⑤文明17(1485)の売券の檀那名には「安富一族・野原角之坊引一円」とあります。安富一族とは雨滝城を拠点に、東讃の守護代を務めていた最有力の武士集団です。有力武士団を旦那に持っていたことが分かります。
⑥文明8年(1476)の売権には、先達名に「陰陽師若杉」とあります。陰陽師も熊野へ旦那を引き連れ参詣しています。熊野行者だけでなく、諸国廻国の修験者たちも熊野詣での先達を勤めていたことが分かります。ここでは、いろいろな修験者が熊野参拝の先達を行っていたことを押さえておきます。
⑦文明5年(1473)には「白峯寺先達旦那引」とあります。白峰寺には中世には30近くの子院や別院があったことは以前にお話ししました。その中には熊野先達を務めるものもいたことが分かります。こうしてみると、一人の修験者の中に「熊野信仰 + 天狗信仰 + 弘法大師信仰 + 阿弥陀信仰」などが同居していたことになります。それが一遍の高野山詣でや熊野詣でにつながるのかもしれません。

熊野那智大社文書の讃岐関係の檀那売買券NO3
那智大社文書2
『熊野那智大社文書』の讃岐関係文書名     (野中寛文氏作成)

⑧明応3(1493)年以後に、5通の「勝達房道秀檀那売権」が出されています。それを見ておきましょう。

「勝達房道秀檀那売権」から分かること
 
 最初は、「中郡スエ(陶)王子王主下一族共・加戒房・勝造房門弟引」とあります。「スエ」は「陶」だとすると、これは中郡でなくて鵜足郡になります。陶にある「加戒房・勝造房」が持っていた檀那権を譲り渡したようです。この勝達房は、陶以外にもいくつも霞を持っていたようで、「東房池田」や「中郡加賀」「中郡飯田」の霞を手放しています。そして、永生2(1505)の「円座の西蓮寺・一宮の持宝房」は、「檀那売券」ではなく「借銭状」となっていますので、抵当に入れて借金したようです。        
 以上からは、もともとは勝達房道秀は現在の琴電琴平線沿いの陶から円座・一宮にかけての広い霞を持つ熊野修験者だったことがうかがえます。彼は「熊野行者 + 山岳修行者 + 廻国修験者 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経僧侶」などのいくつかの顔を持ちながら、この地域で活動を続けていたのでしょう。

つぎに讃岐の熊野系神社について、見ておきましょう。
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊井再命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら香川県内の熊野系神社(『香川県神社誌』より)を一覧表化したのが次の表です。

 香川の熊野神社1
 香川の熊野神社NO1 東かがわ市から高松
(三木・高松市内) 

讃岐の熊野神社3
高松市周辺
讃岐の熊野神社4
丸亀平野周辺

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐の熊野神社系は、43神社
②先達売権と同じように、東讃に多く西讃に少ない。特に三豊地区は3社のみ
③東讃で集中しているのは髙松平野。。
④西讃では善通寺市内に4社ある。
善通寺は、空海生誕の地とされると同時に、その後の我拝師山は空海修行の地とされ、修験者や聖たちの憧れの聖地であったことは以前にお話ししました。歌人の西行も、この地に憧れ白峰寺で崇徳上皇の霊を慰めた後は、五岳山の中腹に庵を構えて3年近く修行したと伝えられます。中世には、数多くの修験者が集まる場所であったようです。そんな中に熊野行者も加わり、修行を行いながら熊野への誘引活動を展開し、それがうまくいくと郷村ごとに熊野神社を勧進したのではと私は考えています。
 そんな中で私が注目したいのが、善通寺市の仲村城跡と木熊野神社の関係です。

仲村城と木熊野神社
善通寺市の仲村城跡と木熊野神社

仲村城は丸亀平野西部の有力な武士の居館です。そして、その南の湧水地帯の中に木熊野神社と若宮神社が鎮座します。この関係をどう考えればいいのでしょうか? 先ほども見たように、熊野詣で行った武士たちの中には、熊野神社を建立する者が現れます。ここでも天霧山の下で西讃守護代の香川氏に属する武士団棟梁が居館近くに熊野神社や若宮を勧進したことが考えられます。

木熊野神社(善通寺市仲村)
木熊野神社(善通寺市仲村)
これらの神社を拠点にしながら熊野行者たちは、空海が修行したとされる行場の聖地・我拝師山で活動します。そして退転していた善通寺の復興に関わっていくと私は考えています。
 佐伯直氏の氏寺として建立された善通寺は、佐伯直氏が中央貴族になって京都に出て行くとパトロンを失ってしまいます。そして11世紀には倒壊したと研究者達は考えています。11世紀以後の瓦が出てこないからです。それは屋根の葺き替えが行われなくなったことを意味します。それを復興したのは佐伯氏ではなく、全国からやってきていた修験者たちでした。彼らは、時には勧進僧にもなりました。西行が歌人として有名ですが、彼が高野聖で、高野山を初めとする大寺院の勧進活動に有能な集金力を見せていたことは、今はあまり語られません。熊野行者たち修験者の勧進で、中世初期の善通寺は復興したと私は考えています。

ちなみに『讃岐国名勝図絵』を見ていると、讃岐各地に王子権現・熊野神社として記されるものが数多くあります。幕末にはもっと熊野神社系の寺院もあったはずです。しかし、神仏分離、小神社統合制作で、廃社・合祀されたものがあり、現在確認できのが上表ということになるようです。

讃岐に熊野神社が勧請されたのは、いつ頃なのか?
その前にまず、四国の様子を簡単に見ておきましょう。
 土佐では、吉野川上流や物部川の流域と海岸線に熊野系神社が多く見られます。
①早い時期のものとして高岡郡越知町の横倉山への勧請で、保安三年(1122)
②次が長岡郡本山町の早明浦ダムの直下にある若王子神社で、久安五年(1149)に長徳寺の鎮守に勧進
③鎌倉時代以降も勧請が続き、中世末期には、約69社の熊野関係の神社があった。

伊予では
①一番古い熊野系神社は、四国中央市新宮町の熊野神社。
②その神輿鏡銘には貞応1年(1223)、大般若経の奥書きに、嘉禄2年(1226)の墨書銘あり。
③ここから鎌倉時代初期には勧請され、銅山川を遡り、三角寺方面から四国中央市に教線ライン伸張
④さらに新宮の熊野神社は、吉野川上流の土佐エリアへも教線ラインを伸ばします。
⑤四国の中央に位置するこの神社は、熊野詣での際にも、各地からの熊野参拝者が立寄った聖地。

阿波の場合は南部の那賀郡と吉野川沿いに熊野系神社が数多くみられます。
那賀河口付近は、海路を通して紀州熊野との関連があったところで、熊野詣での四国側の海路の出発地点だったとも考えられています。一方、吉野川流域は川自体が輸送路としての役目を果たし、人やモノが流れるラインです。その中で板野郡上板町引野は、日置庄として天授5年(1379)に後亀山天皇が紀州熊野新宮に寄進します。新宮領となった日置荘には、当然熊野神社が勧進されます。
 それでは讃岐は、どうなのでしょうか?
最初に見た先達権売買書類には、弘安3年(1280)、永仁6年(1298)など、鎌倉時代後期にはのものがありました。この時期には、讃岐の武士達の間には熊野詣でを行う人達がいて、それを先達する熊野行者もいたことになります。一方、先ほど見た讃岐の熊野系神社43社には確実な資料は、ほとんどありません。あやふやな社伝に頼らざるをえないようです。とりあえず社伝で創立年代を見ていくことにします。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~12 98年)ころ
②善通寺筆岡の木熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、一応の参考としておきます。鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士たちが、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣を行うようになります。彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。②の善通寺の木熊野神社の近くには、中世の武士居館もあります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。

讃岐への勧請については、次の2つのパターンがあったようです。
①紀州熊野から直接に勧請される場合
②紀州熊野から阿波などに勧請され、その後に讃岐に勧請されるケース
②の例が小豆島の湯船山です。17世紀末に書かれた『湯船山縁起』には、暦応年間(1338~42)ころに、佐々木信胤によって備前児島から勧請されたことが記されています。信胤は南朝方の武士として熊野水軍と深い係わりがあり、児島から小豆島に渡ってきます。紀伊水軍による備讃瀬戸制海権確保が目的であったようです。児島には、熊野行者のサテライトである児島五流があります。そこからの勧進ということなのでしょう。
 小豆島の寺院は、1つ真宗寺院があるだけで、その他は総て真言宗です。
そして、鎮守社として熊野神社を祀る所が多いようです。例えば島88ヶ寺の清見寺、玉泉院、浄上寺、滝水寺、西光寺、瑞雲寺などでは熊野神社が鎮守社として勧進されています。これは熊野→児島五流→小豆島という教線ラインの伸張から来ていると私は考えています。
また三豊郡山本町の十二社神社は、戦国時代に阿波・白地の城主、大西覚養によって、阿波池田から勧請されたとされます。このように熊野神社の勧請には、中世武士団が関わっていることが多いと研究者は考えています。ここでは熊野神社の地方への勧請は、熊野先達による場合と、その信者(檀那)によるふたつの場合があることを押さえておきます。。
  以上をまとめておきます。
①承久の乱後、幕府・天皇家の保護を失った熊野三山は壊滅的な打撃を受けた。
②その打開策として、天皇家や貴族に代わる信者を作り出すことが生き残り条件となった
③その対象となったのが地方の地頭クラスの武士集団であった。
④そのために熊野行者が各国に出向き修行を行いつつ、彼らの信頼を得て熊野に誘引するようになった。
⑤こうして「檀那 → 先達(修験者) → 御師」という3つの要素が結ばれシステム化された。
⑥このシステムの最大の利益者は御師で、多額の資金が安定的にもたらされるようになり財力をつけた
⑦財力をつけた御師の中には、先達のもつ檀那権を買い取り、自分の顧客とするものも表れた。
⑧その結果、檀那売買券が売り買いされる不動産として扱われるようになった。
⑨残された檀那売買券からは、讃岐の信者達を担当していた実報院には讃岐の檀那売買券が43通残されている。
⑩ここからは室町時代には、讃岐にも熊野行者が定住し、武士層を熊野に引率していたことが分かる。
⑪熊野詣でを終えた武士の中には、自領に熊野神社を勧進するものも出てきた。
⑫併せて、熊野先達達も定住し、寺を開いたり、熊野神社を勧進する者もいた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」
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