瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の獅子舞

獅子舞 三十二番職人歌合の獅子舞

以前に、讃岐獅子舞の獅子たちが、いつ、どこからやって来たのかをお話ししたことがあります。それでは、讃岐にやって来る前の獅子舞は、どこから来たのかと聞かれて困ってしまいました。現在の時点で、私が考えている讃岐にやってくる前の獅子舞の姿を追いかけてみます。テキストは「山路興造 獅子舞の原型とその変容 中世芸能の底流     岩田書店2010年」です。
獅子 信西古楽図」の獅子図

古代の獅子舞については、よく引き合いに出されるのが上の「信西古楽図」の獅子図です。この獅子図は、現在では我が国で演じられていた獅子舞を描いたものではなく、大陸で演じられていた芸能を描いた絵巻があり、それを写したものとする説が有力なようです。だとすれば、ここに描かれた獅子舞は、中国唐代の獅子ということになります。全身毛布の縫いぐるみで覆った胴体は、昔よく見た中国のカンフー映画に登場してくる獅子舞姿です。カンフーの達人達が、かっこよく動かしていたのを思い出します。確かに、あの獅子を思い出すとあまり違和感はなくなります。
この絵に描かれた獅子を整理しておくと
①全身毛布の縫いぐるみ
②胡児が二人付くこと
③獅子に綱を付けその端を持ち、棒状のものを手にした獅子あやし(面はつけていない)が付くこと、
④獅子の楽器として腰鼓・銅鉄子打ち・鉦叩きなどがいること(笛役は描かれていない)、
これが我が国に伝来した獅子舞の現形のようです。
それでは、中国にはどこからやってきたのでしょうか。
中国唐代の詩人白楽天の「西涼伎」には、獅子舞が次のように記されています。
仮面ノ胡人仮ノ獅子、木ヲ刻ンデ頭卜為シ、糸デ尾ヲ作ル、
金ヲ眼晴二鍍シ銀ヲ歯二帖ル、奮迅ノ毛衣、双耳ヲ提キ、
流沙従り万里来タルガ如シ、紫髯深目ノ両胡児、鼓舞跳梁シテ前二辞ヲ致ス、
意訳変換しておくと
仮面を被った胡人が獅子を使う、木造の獅子頭で、尾は糸で作られている。金を眼晴りして、銀を歯に貼り付けてる。毛衣は奮い立ち、双耳を立て、胡国の流沙を越えて万里の道をやってきた獅子を、紫髯で深目ふたりの胡児(ソグド人?)が鼓舞跳梁しながら導いていく、

ここからは次のようなことが分かります。
①獅子頭は木製
②目に金、歯に銀が貼られ、尾は糸で作られ、毛衣を着ており、
③眼の深い相貌の胡児二人を従えていた
④シルクロードを越えてやってきた西国異国のものであるという認識
⑥「鼓舞跳梁」とあり、カンフー映画に出てくる獅子のように飛び跳ね俊敏に動いた
白楽天は詩人ですので、若十の誇張はあるでしょうが、唐代の獅子の様子はうかがえます。白楽天は獅子舞が胡人の芸能であり、シルクロードを通じて西方からもたらされた異国趣味の芸能として認識していたことが読みとれます。
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   古代メソポタミアでは、獅子は百獣の王で最も獰猛な野獣として畏れられました。それゆえに王達は獅子狩りに熱中します。獅子狩自体が王の権勢を伝えることになったからでしょう。それは、アケメネス朝やササン朝の「獅子狩文錦図」をみると納得できます。こうして獅子は、畏れられると同時に威厳のある神獣として神化されていきます。
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同時に獅子舞的なものがすでにササン朝時代には、あったのではないかと私は考えています。それが唐時代になって、シルクロードが開かれるとソグド人達(胡人)によって、長安に入ってきたのでしょう。先ほど見た白楽天の獅子舞はそのような姿を伝えているようです。
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 それでは、わが国にはいつ頃入ってきたのでしょうか。
正倉院には、東大寺の大仏開限供養の際に使われた伎楽の獅子頭が八頭保管されています。

獅子 正倉院
正倉院の獅子頭

8頭の姿は、少しずつ異なっています。どれも獰猛な姿をしているのは同じです。しかし、ライオンには見えません。当然、現物を見たことのない職人が作ったものなので実物からはだんだん遠ざかっていきます。
 各パーツは下顎と舌、両耳を別に作り、下顎は鉄棒を通して開閉できるように工夫されています。それを打ち合わせることで大きな音を出すことができます。舌も開閉すると動いたようです。目を大きく見開き、目が動くものもあます。目を開閉して、音を出し、威嚇することができたようです。この獅子たちが、大仏開限供養祭で、どんな風に使われたかは分かりません。後の史料で、補って「復元」して見てみましょう。

 史料で、古代の獅子の原型を研究者は次のように押さえます
①獅子は行列の先導役を勤める.(祓い)
②獅子は行道として歩くために四つ足で、当然二人立ちとなる。
③獅子は獰猛な動物なのでに、綱などを持つた口取りが付く。
④獅子にはそれをあやす役が付く。(二人の獅子児)

 獅子は、行列の先導役を勤めるので、「祓い」の役目を持っていたようです。これは獅子舞が移入された当初からの役割だったようです。古代メソポタミアの古代文明以来、獅子(ライオン)は、王の象徴であり、悪魔祓いの属性を持っていました。ギリシャにも獅子像はもたらされ、ミケーネ城門で睨みを効かせています。それが中国を経て、日本には狛犬としてやってきているのはご存じの通りです。
 獅子は、伎楽の中に最初に登場したようです。二頭でワンペアでの出演でした。面を着けた獅子児(獅子子で、童子の役)は、獅子をあやす役で、必ず獅子一頭につき二人が付き従います。
獅子 治道面
治道面(正倉院)

治道は、行列の露払い的な役目で、彼らの着ける面は正倉院に伝わる面の中では最も鼻が高いそうです。これが「鬼」に成長していくのかもしれません。
 「筑紫国観陛音寺資財帳」の治道の項には「麻鞭 壱条」と記されています。治道は麻の鞭を持っていたようです。治道は獅子の使い手だったのでしょう。この資財帳には笛吹2人・銅銭子撃1人・鼓撃10人がと記されています。獅子に付随する音楽集団というよりも、伎楽全体のものとしておきましょう。音楽付きでペアの獅子が先頭で露払いを演じながら舞台まで、パレードしたのかもしれません。
  世界遺産・シルクロードから薬師寺へ ~1400年の時を越え甦る幻の仮面劇~(BSテレ東)の番組情報ページ | テレビ東京・BSテレ東 7ch(公式)                                       

伎楽は呉楽(くれのうたまい)とも呼ばれていたようです。
そのなかに獅子舞(獅子舞)が、あったことは、天平十九年(749)の「法隆寺伽藍縁起及流記資財帳」(『寧楽遺文」中巻宗教編上)に伎楽用具として、次のように記さていることから分かります。
伎楽壱拾壱具
獅子弐頭、獅子子卑面衣服具、治道弐面衣服具、呉公壱面衣服具服(以下略)
ここからは、伎楽で演じられる獅子舞は、二頭一組で、獅子一頭につき二人が、五色の毛のある縫いぐるみのようなものに入って、演じたことが分かります。

 伎楽は中央の大寺院だけで演じられていたように考えられてきましたが、そうではないことが近年の研究で分かってきたようです。各国の国分寺などを中心として、法会の荘厳芸能として演じられていたようです。諸国の国分寺が整備された奈良時代には、その法会の荘厳芸能として、伎楽が演じられるようになっていたこと、そして地方の諸人も、伎楽という渡来芸能を通じて、獅子の芸能を見ていたと研究者は考えているようです。そして、中世に成ると瀬戸内海交易を通じて経済力を蓄えた小豆島の肥土庄の八幡神社や、観音寺市の琴弾八幡にも、パレード用の獅子は姿を現すようになることは以前にお話ししました。

獅子は舞楽にも登場するようになります
舞楽の獅子舞が文献に登場するのは、伎楽の獅子よりずーと遅れます。平安時代中期以降のことになります。その早い例が、『法成寺金堂供養記』治安二年(1022)七月―四日条で、
(前略)此間乱声、両獅子出臥舞台巽坤、次吹調子 雅楽寮卒楽人迎衆僧、(中略)
楽人到会集帳、発音声如前、経前道到楽屋前立獅府昴、
 ここからは、獅子は法会の最初に乱声を奏した後に、左右の両楽屋から一頭ずつ登場し、舞台の巽(たつみ)と坤(ひつじさる)に臥します。何もしないで舞台の隅に臥すことにより、悪霊を威嚇するという役目を担っていたと研究者は考えているようです。悪霊退散の役目です。まるで番犬のようです。
 約百年後の天承二年(1132)二月一十八日に行われた法成寺東西両搭の供養の舞楽の様子を、公家の平知信が日記『知信記』に、次のように記されています。
次獅子出自左右楽屋方、臥舞台艮・巽角、件獅子付緋綱、舞者四人、京中業者応召、単衣、末濃袴合袴、毛沓付爪、綾獅子四人、左右舞人進之 面形、半腎・表袴・団扇・糸蛙・機、袖、単衣、大口給之、朧四人、面形、□、抱、補補、袴、□腰、錯懸、糸軽、袖、単衣、合袴等給之、(その後に右方から菩薩六人・胡蝶六人、左方から菩薩六人・迦陵頻六人が出る)

この時は、まず左で乱声があり、続いて左の振枠があり、次に右の乱声が奏され、振鉾が出て舞います。次いで獅子が左右の楽屋から出て、舞台の巽と艮の角(隅)に臥せます。この獅子には緋の綱が付けられていて、獅子の舞人は一人ずつで、演者は京中の業者で召しに応じた者だったようです。その衣装は単衣、袴、爪の着いた毛沓を履いています。獅子と同時に、左右から舞人による「綾獅子」が左右各二人登場。彼らの姿は面を着け、半腎・表袴・草性・機、袖、単衣、大日で、団扇を持って出てきます。この役が獅子あやしのようです。獅子を先導する朧(口取り)も一頭に二人付きます。彼らの姿は面、補補、□腰等で、糸戦を履き、獅子に付けられた緋綱を取ります。
 獅子が決められた位置に伏せると、法会が始まります。その後に左方から菩薩(六人)・迦陵頻(六人)、有方から苦薩(六人)胡蝶(六人)が、供花を持って一行に分かれて出てくる、というスタイルです

舞楽の獅子も、綱を口取りが持ち、獅子あやしが二人付くという演じ方が、以後のパターンになるようです。舞楽の獅子舞は、最初は法会が行なわれる舞台に伏すだけだったようです。邪魔者を人れないという役目で、舞台を監視する役目が与えられていたようです。
 しかし、舞台に現れた獅子は、いつまでも舞台の隅に臥しているばかりではありませんでした。いつとはなく法会の途中で舞うようになります。どんな舞を舞ったのかは今は分かりません。

獅子 四天王寺 聖霊会舞楽大法要

四天王寺の聖霊会舞楽大法要に登場する獅子たちも、現在では舞が失われているので,舞台を二度回るだけの舞になっているようです。
 舞の詳しい内容は分かりませんが承暦元年(1077)十月十八日に法勝寺で行なわれた『法勝寺供養記』には
「散華・引頭・納衆・讃衆・梵音・錫杖等次第雁行、経金堂・講堂・舞台等東西大行道、左右獅子分舞、次楽人行列」

と「左右獅子分舞」とあります。「法成寺金堂供養記」には、獅子が臥した後、楽人が衆僧を迎えて楽屋の前に立つと「楽不正、獅子舞」とあります。獅子は舞っていたようです。
四天王寺聖霊会舞楽大法要

 行道(神興渡御)の獅子と獅子の舞
 奈良時代に大陸からやってきた獅子舞は、平安時代以降になると舞楽のなかに取り入れられて、悪魔を追い祓う役目で定着したようです。そして伎楽・舞楽の一行と舞台までの行道(パレード)の先頭を行く役目も担うようになります。悪魔を祓うという獅子の役割は、祭礼の神輿渡御のパレードからもお呼びが懸かるようになります。
『百錬妙』承安一年(1173)六月十四日条には、次のように記されています。
祗園御霊会、上皇有御見物、殊被印刷之、神興三基、獅子七頭、去四日自院被調進之、

ここからは祗園御霊会の神輿渡御の神輿三基の先頭に七頭の獅子がいたことが分かります。神興を先導する獅子の場合は、頭数は関係がなかったようで『年中行事絵巻』巻十二の稲荷祭りなどには、多くの獅子が出てきます。

獅子 年中絵巻図の獅子舞

民間の祭礼に登場した獅子は、早い時期から舞ったようです
京都仁和寺の座主覚法法親王が高野山に参詣した折の日記『御室御所高野山御参籠日記』の久安四年(1148)五月二日条に、
自山崎着仁和寺丁、(中略)於淀辺有下人為市之所、令導之、今日淀祭也、乃獅子舞等令舞之、召師子於舟辺、獅子二、子一也、賜禄了、
ここには、仁和寺の座主が高野山に参詣した帰路に、淀川を行く船の近くに淀の祭りに参加していた獅子舞を呼んで舞わせ、禄を与えたことが記されています。この獅子舞は獅子が二頭で、獅子あやしの子供が一人居たとあり、「獅子舞等令舞之」と記されます。この獅子は行列の先導役のみではなく、獅子舞を演じていたことが分かります。
 以後、獅子舞は祭礼芸能の一環としてあちこちの祭礼に活躍するようになります。その基本は二頭一組で、巫女集団・上の舞・細男座・田楽座・猿楽座など、専門の芸能集団とともに大きな社寺の祭礼に姿を見せるようになったことが『年中行事絵巻』などから分かります。ここに描かれた獅子舞は専門の座が形成されていたと研究者は考えているようです。そして、獅子舞は、荘園鎮守社の祭礼などにも演じられ、地方にも広がっていったようです。

二人使いの獅子舞は、大きく分けて次の二つに分類できるようです。
ひとつは、神興渡御の先頭を行く獅子です。もともとは、二頭一組が一般的だったようです。
獅子の前を行く天狗面なども、伎楽の治道や、舞楽における口取りの変形バージョンとして残っているのかも知れません。この神興を先導する獅子は、讃岐の獅子舞にも云えますが、華麗に舞を舞うところが多く、祭礼の獅子舞として発展してきたようです。
 中世期の京都などでは、獅子舞を舞う専門芸能座があったようで、祗園社には片羽屋座などが所属していたようです。彼らは祗園御霊会などで神興渡御に付き従いました。
獅子 年中絵巻図の獅子舞
笛や太鼓の鳴り物に逢わせて、路上で舞う獅子

しかし、それだけでは生活できません。彼らは、祇園社が所属した比叡山延暦寺膝下の村々へ進出し、祈祷の獅子舞を演じる祭礼権を持つようになっていきます。こうして、獅子舞が地域の祭礼に姿を見せるようになります。
獅子舞 年中行事絵巻 稲荷祭りの獅子舞
何頭もの獅子が神輿の先払いとして舞ながら進む

民俗芸能として伝承された獅子舞のもう一つは、太神楽系の獅子舞です。
樺猛な獅子の姿が悪魔祓いに有効とされたのは、唐の時代の中国からでした。我が国ではその頭に神を勧請して「神の力 + 獅子の威力」の相乗効果を期待するようになります。こうして獅子頭自体を独立させて、悪魔を祓ってまわるようになります。その最初は山伏・修験者たちだったようです。
獅子頭(権現さま) | いわての文化情報大事典

 南北朝期以降に東北地方で熊野山伏が展開したスタイルは、神を勧請した獅子頭を権現様と呼び、それを舞わすことで悪魔を祓うものでした。彼らは家々の悪魔祓いをしてまわるようになります。同時に、その余興として当時の流行芸能である「猿楽能(現在の能・狂一三」のスタイルで神々の登場する能(仮面劇)を演じ、激しく美しい舞を舞って人気を得ます。こうして、東北では地域を「巡業」する獅子舞集団がいくつも現れます。
獅子舞 年中行事絵巻 稲荷祭りの獅子舞2

 さきほど見た京都祇園の獅子舞の座も、獅子頭を用いて悪魔祓いを行なうと同時に、猿楽能も演じています。このスタイルは、熊野山伏の専売ではなかったようです。戦乱が進む中世末には熊野信仰は、下火になり、熊野山伏の活躍も徐々に衰えていきます。それに代わって登場するのが、伊勢皇太神宮の信仰です。もともとは天皇家の氏神であった伊勢神宮も、中世末期になるとその維持が困難になります。そこで庶民への教線拡大策として、真似られたのが熊野山伏が行なっていたスタイルです。つまり獅子頭に神を勧請して諸国を巡り、悪魔祓いを行ない、御札を配ります。その代償として初穂を戴くようになります。彼らを「御師」と呼びますが、本来の御師は伊勢神宮の近辺に宿泊施設を構え、地方に檀那場を確保して講中を組織し、伊勢への参宮を促す役割を持っていました。だから、獅子頭を奉じて諸国を巡る太神楽の団員達は、もともとは御師ではありません。あくまで芸人なのです。
放下 - Wikipedia
         放下芸 皿回しや傘回し

  この時、祈祷の獅子舞とともに演じられたのが「放下芸」でした。放下芸はもともとは古代に大陸から渡来した散楽系の曲芸で、中世を通じて雑芸能者の手によって伝えられてきました。それがこの時期に、大道芸能として脚光を浴びるようになり、いろいろな芸人が現れるようになります。さまざまな芸をもった一団の中に、獅子の舞も取り込んで演じて見せたようです。
伊勢大神楽について - 伊勢大神楽 伊勢大神楽教 渋谷章社中
背負った屋台に獅子頭や太鼓が見える

 ここで注意しておきたいのは、獅子頭を奉じて祈祷にまわる大神楽の獅子舞は、伊勢信仰の流布のためではなかったことです。あくまで営業活動の一環なのです。
 太神楽を演じたのは伊勢神宮などの神人ではなく、伊勢神宮や熱田神宮から御札の配布を請け負った下級宗教者でした。彼らは、伊勢国桑名や吾鞍川、尾張国繁吉村などに集住して、そこを拠点地として各地に出向くという営業スタイルをとるようになります。そして巡回範囲は、全国に及ぶようになります。そういう意味では、太神楽系の獅子舞は、彼らが持ち伝えたオリジナルな獅子舞です。
伊勢大神楽講社 山本勘太夫社中

 それが大きく変化し出すのは江戸時代中期以降です。
毎年やって来る伊勢太神楽と次第に経済力を得た各地の村々の若者組が交流するようになります。彼らからその芸能を教わり、自分の村で獅子舞を演じる舞場権を買い取って、自分の村の祭礼に若者組自身が演じるようになります。研究者はこれを「祭礼芸能の民俗芸能化」と呼んでいるようですが、こうして獅子舞は村人の手に移って行きます。そして獅子舞は、それぞれに土地の風土に合わせて変化発展していくようになります。
 ここまで見てきて、なぜ小豆島の祭礼に獅子が登場しないのかが何となく見えてきました。
讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月に初めて登場します。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」という記事があり、これが一番が古いようです。それから五年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでも獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は瀬戸内海という人と物が流れる「中世のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内からやってきて、肥土庄に根付いていたのです。
しかし、これはパレード用の獅子です。獅子舞ではないのです。
 一方小豆島には、いまでも伊勢大神楽の獅子舞一座がやってきます。ということは、小豆島での獅子舞を演じる舞場権を手放さなかったということになります。小豆島では、伊勢大神楽が舞場権を持っている限り、村の若者達が獅子舞を行う事はできなかったというのが私の仮説です。そのため小豆島の若者達のエネルギーは、農村歌舞伎に向けられ、祭りでは獅子ではなく太鼓台(ちょうさ)にエネルギーが注ぎ込まれるようになったのではないでしょうか。巡回する伊勢太神楽一座も瀬戸内海の島々は、古くからの自分たちのテリトリーであり、将来も有望な地域です。手放すことはなかったのでしょう。一方讃岐の農村部は、もとから伊勢太神楽のテリトリーに属していないところが多かったのではないでしょうか。そこでは、獅子舞はスムーズに移植されたのかもしれません。伊勢太神楽のやって来るところは、村の祭りで獅子舞は舞われないという仮説が成立するのかどうか、今後の課題です。話が横道に逸れましたので、元に戻します。


 もともと伊勢太神楽系の獅子舞は、神興渡御に供奉することはありませんでした。
車付きの屋台に獅子頭を載せて、村の各戸をまわって悪魔祓いの祈疇の舞を演じたり、神社境内などの要所で、祈蒔の舞や曲芸を見せるのがメインでした。しかし、これが村の若者組の手によって演じられるようになると、話は変わります。村の祭りの花形として、獅子は華々しく登場します。
 その際のプロデュース役を演じたのは、村に住む山伏や修験者たちだったかも知れません。時代の流行芸能なども取り込んで、より華やかなもの、より面白いものに変化・発展しはじめます。村々の独自性が求められるようになります。そして、讃岐にはいろいろな変化バージョンの獅子が登場するようになるのは以前にお話ししました。
獅子舞、勇壮に 伊勢大神楽を披露 丹波篠山・泉八幡神社 /兵庫 | 毎日新聞
 
  讃岐の獅子と大神楽系獅子舞との違いは?
 大神楽系獅子舞の特徴は、獅子頭(木製)を被り、内部の上下顎をつなぐ横棒を口でくわえたり、顎にあてがって、空いた両手で幣や鈴・剣などを手に持って舞うことです。この獅子は、二人立ち獅子舞で初めて「両手」を使うことができるようになった画期的な獅子舞です。ところが讃岐の獅子頭の特徴は、紙製で軽く内部に縦棒がついていて、演者の頭は入りません。つまり、大神楽系獅子舞とはちがう「進化」の道を辿ることになります。それが讃岐独自の獅子舞につながります。紙製で頭が軽いので、それだけ激しく動き回れます。
 つまり、当時全国的なメジャー獅子舞であった大神楽の影響を、讃岐獅子舞は受けていないと研究者は指摘します。そして、讃岐という狭い地域でガラパゴス状態で進化を遂げてきた「変種」ともいえる獅子舞のようです。四国香川の獅子舞は、全国的にも珍しい紙製獅子芋三流の獅子舞文化であるようです。 香川の獅子舞は、うどん屋の数だけあると云われますが、その数の多さだけでなく讃岐の独自性も誇るべきなのかもしれません
以上を振り返り要点を整理しておきます
①獅子は古代ペルシャで神獣とされ、シルクロードのキャラバン隊と共に唐代の中国になってきた。
②日本の獅子舞と中国の獅子舞は、同じルーツをもつ
③日本古代には伎楽や舞楽の中で「番犬」的な役割を演じてきた
④中世には獅子は、各祭礼のパレードに姿を見せるようになり、舞うようにもなる
⑤伊勢太神楽は、全国を巡業し獅子舞を演じるようになる
⑥経済的に豊かになった村々の若者組は、伊勢太神楽から獅子舞を学び、興行権を買い取り、独自の獅子舞を祭礼で行うようになる
⑦しかし、讃岐の獅子頭は紙製で頭が入らないので、伊勢太神楽とは違う形で進化してきた独自性を持つ
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 獅子舞の原型とその変容 中世芸能の底流     岩田書店2010年」
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DSC01409
    讃岐は獅子舞王国?
 田んぼの畦に彼岸花が咲くことになると、讃岐の里は秋祭りに向けた準備が進められていきます。讃岐のお祭りで演じられる芸能の代表格といえば獅子舞でしょう。獅子舞は県下全域に広がっていて、その数はうどん屋さんと同じ約800頭が「生息」していると言われます。「獅子生息密度」の高さは、全国のベストテンの上位にランクされ、富山県とトップ争いをしているそうです。(出典不詳・・・)
 獅子はいつ、どこから、何のためにやってきたのでしょうか? 
讃岐では、室町時代には獅子頭が祭礼に現れていたようです。南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた
というあまり目出度くない記事ですが、これが一番が古いようです。ちなみにこの犯人は捕まったと、後にでてきます。この縁起の永和元年(1375)には
「放生会大行道之時獅子面を塗り直した
と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。
 香川県内の古い神社には、中世の木製獅子頭が伝わっています。
 東かがわ市の水主(みずし)神社は、中世は四国の熊野信仰の中心拠点として機能し、それを背景に登場した勧進僧の増吽が阿波や吉備、瀬戸の島々の寺社を再興します。その河口の三本松も重要な港町でした。
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「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭
 ここにはは、県内で一番古い年代の入った木造獅子頭(県有形文化財)があります。
上顎裏側に文安五年(1448)に三位公全秀によってつくられ、文明四年(1472)に彩色されたと墨で書かれています。
銘文には「奉安置獅子頭事」とあります
が、胴衣を縫い付けた孔も残り、獅子頭内側には、上下顎をつなぐ軸棒のほか、上方にもう一本横棒が渡っており、そこを持ち手として獅子頭を扱ったと考えられます。「安置」するだけでなかったようですが激しく頭を振り回すような機能はありません。パレードへの参加用のようです。
次の訪れるのは善通寺と琴平町の境にある大麻神社です。
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 大麻山を甘南備山とする式内社大麻神社(善通寺市)に伝わる木製の獅子頭です。
下あごが失われているために少し見慣れない感じもしますが、形状などから水主神社の獅子頭とおなじく室町時代、ひょっとするとそれ以前の鎌倉時代のものと考える研究者もいるようです。そうだとすれば「現存する県内で一番古い獅子頭」ということになります。残念ながら下顎をなくしているが惜しまれます。この木造獅子頭は、江戸末期の『西讃府志』巻第五六にも「大麻神社所蔵之獅子頭圖」として上顎部のみが描かれています。
よくみると
後の方に、油単を縫い付けたと思われる小穴が7ヵ所ほどあるのが見えますか?
これもパレード用と考えられています。
祭礼行列の参加以外にも、獅子の出番が出てきます。
享徳元年(1452)に書かれた観音寺の『琴弾八幡宮放生会祭式配役記』には、行道の「獅子首二人」とは別の姿を見せます。それは「舞車」の上で舞う「師子舞」です。獅子が稚児「楠法師」と褐鼓舞(小さな鼓=掲鼓を胸に付けて打つ舞)を演じるのです。これは当時の都で、風流(ふりゅう)拍子物として人気のあった流行物です。新しい芸能の流れを汲んだ獅子の姿です。
  そんな中で登場してくるのが紙製の獅子頭です。
 紙製の獅子頭で一番古いのは式内神社の黒島神社(観音寺市池之尻町)に残るものです。江戸時代中期の宝暦八年(1758)の銘があります。
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この獅子頭の内部は「土」の字型の木組構造です。その構造は現在の獅子頭の持ち手と同じです。紙製の補強のための縦材を持ち手に利用することで、獅子頭を片手で持つことできるようになりました。これは紙製という軽量化とあわせて、獅子を使いやすくしたはずです。獅子が激しく動き舞えるようになったのです。
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 この黒島神社の獅子頭とセットで「稚児頭巾」と呼ばれる赤い紐飾りのついた円錐状の笠が残っています。これは先ほど見た琴弾八幡神社の「獅子が稚児と舞う褐鼓舞」の際に稚児がかぶっていたものではないでしょうか。観音寺に伝わった中世の風流踊りが近世三豊の地域に、祭礼の中で広がって行ったのではないかと私は考えています。
その際に紙製の獅子頭が果たした役割は、決して小さくないような気がします。芸能性に富んだ獅子舞が生まれた要因の一つかも知れません。

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 香川県の獅子舞の大きな特徴は、獅子頭が紙製ということです。
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紙製の獅子頭は、型にあわせて和紙を張り重ね、漆を塗ったり毛を植え込んだりして仕上げます。伝統的工芸品の「讃岐獅子頭」を見てきた私は、「獅子頭は紙製(張り子)」という思い込みありました。ところが差に非ず。全国的には獅子頭は木製が主流でないようです。
 たしかに紙製獅子頭も全国各地にあり、型抜きや竹骨組など形状や構造も様々なものがあるようです。しかし、香川県以外で二人立ち獅子舞で紙製獅子頭を使うのは、松山・徳島・播磨等の瀬戸内圈、と臼杵・宇土・熊本等の九州の一部、ほか京都・和歌山・静岡・長野・岩手等にも点々と広がる程度です。しかも、局所・散在的で香川ほどの分布密度はないようです。「紙製の獅子頭」というのは讃岐の大きな特徴のようです。

最後に、獅子頭の成長ぶりをもう一度確認しておきましょう。
 中世は 小豆島肥土山の祭礼のパレードに参加する獅子
 中世末は観音寺琴弾八幡の太鼓に合わせて舞う獅子
 近世は 紙製獅子頭の登場で舞い踊る獅子へ 
これを祭礼の風流(ふりゅう)化と言うそうです。
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参考文献 高嶋 賢二 香川県の獅子舞と獅子頭 
           香川県立ミュージアム「祭礼百選」所収





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